必殺シリーズ

2007年12月21日 (金)

年末オタク散策

打ち合わせに出かけた街の中心部。ちょっと空き時間が出来まして。
目に付いた街角オタク物件を、あれこれ撮影してみました。

Photo
まずはここ。お世話になるCBCテレビ。





Photo_3元気な坊やが足につかまっているのは・・・






Photo_4 ご存知、ウルトラマンメビウス!さすがキー局。
放送終了後も大人気。高さも5メートル近くあるんです。

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名古屋の皆さんを見守ってくれています。
彼がまだ現役という事は、「X」の立場が微妙ですが(笑)。





Photo_6
近くのビルの一階には、なにやら怪しい入口が。





Photo_7
さすがは名古屋(笑)。パチンコホールのようです。
必殺シリーズの台が大人気ですね。障子風の自動ドアの向こうには・・・

Photo_8
この通り。八丁堀がお出迎え。
「来るなら来てみやがれ。たたっ切ってやる!」






Photo_9
おまけ。たまに見かける住宅地の案内板。
何かに似てるなーと気になってたんです。
やっと気がつきました。




Photo_10
ナルキッソス号(笑)。
シガニー・ウィーバーも呆れ顔でしょう(爆笑)。

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2007年8月28日 (火)

月も真っ赤に染まる夜

今夜は皆既月食でしたね。全国的にちょっとお天気が悪かったようで。夏の終わりの天体ショーは皆さんの地域ではお楽しみになれたでしょうか。

私は星に関してはM78星雲とネヴュラ71くらいしか知りませんが(笑)、子供の頃は「月食」なんて聞くと何故か心もウキウキ、特別な事のように楽しみにしていたものです。
当日の夜は友人を集め月食を見ながら、遊びで友人全員がDJとなるラジカセ録音の架空ラジオ番組をでっち上げ、「月食中継」なんてしましたねー。なんておバカ(涙)。

たまたまニュースで以前の月食の資料映像を放送していて、「あー月食って月が赤く見えたりするんだっけ」なんて思い出していました。月が赤く見えるのは何も月食の時だけではありませんが、いつもと違う真紅の月は人の心をかき乱す何かがありますね。

そんな日にこのアイテムを入手出来たのも何かの示し合わせ?なんて思うのも、赤い月の印象が強すぎたのかもしれません。勿体つけすぎですね(笑)。
Photoご覧下さい。
「必殺仕事人THE HISSATSU」。
今だ人気の衰えぬ異色時代劇「必殺シリーズ」に登場した仕事師たちの武器と小道具をイメージベースに配置したフィギュアです。
昨日やっと発売されました。

ネットでこの発売を知った時から狙っていたんです。何しろアクションフィギュアやガレージキット以外で、必殺がこの手の食玩サイズフィギュアになるのは初めてですから。
メーカーの都合で発売日が一ヶ月ずれ込んだ時は、「♪幸せひとつだけえ~ 信じて待っているう~ 私の心も知らないでえ~」と「あかね雲」を熱唱(笑)。
今日無事入手を果たした時は、コタと一緒に大喜びしていました。「赤い月」に「必殺シリーズ」。偶然にしてもちょっと嬉しい夜ですね(笑)。


必殺シリーズと言えば、先日放送された「必殺仕事人2007」にも冠されている通り「仕事人」がもはや看板タイトルとして認知されていますよね。
現在好評を博しているというパチンコ台も「仕事人」ですし。
たぶん「ネヴュラ」読者の皆さんも「必殺」と言えば仕事人、というイメージをお持ちの方が多いと思います。
今回のこの商品も「仕事人」の大看板を掲げ、ラインナップのほとんどは仕事人の皆さんをフューチャー、「仕事屋」の半兵衛さんや「仕置屋」の市松、「仕業人」のやいとや等、シブい面々はまるで眼中にない様子で(涙)。
まーこの辺はいわゆる「仕事人商品」の定番チョイスですから必殺マニアには慣れっこなんですが。

Photo_2「観賞用置物」というふれこみのこのフィギュア、おそらくはキャラクターの肖像権の問題だったのでしょうが、仕事人本人のフィギュアではありません。写真をご覧頂けばお分かりの通り、あくまで「台座」と「小道具」の組み合わせです。
私、この処理は割合好きなんですよ。確かに本人のフィギュアも良いんですが、必殺シリーズというドラマの特質を考えると「武器」や「小道具だけ」というのもなかなか雰囲気があってグッド。各シリーズ毎の「主水スーツバリエーション」なんてのも見たかったですが、それじゃゴジラになっちゃうし(笑)。

先ほど開封したばかりなので全部を組み立て、配置する時間もありませんでした。ラインナップは先ほどの写真でご理解頂くとして、代表的な現物を数点ご紹介しましょう。
Photo_3まずはこれ、シリーズの顔・さらに最大にして最長老(皮肉も込めて)のキャラクター、八丁堀こと中村主水。
さすがに必殺の顔だけあってこの中村主水に関しては二種類のフィギュアがラインナップされています。
その小道具も一つは「ムコ殿」の顔、一つは「昼行灯」の顔をイメージ。
お見せするのは昼行灯バージョンです。

最近の造形レベルの素晴らしさも手伝って、どちらもそれなりにいい雰囲気を醸し出していますね。
でも何といっても必殺の見せ場は『殺し』。その主役となる武器がこのフィギュアの目玉です。主水の場合、やはり奥山新影流の冴えを見せる「お腰の物」が主役ですね。

このフィギュアの発売元、マイスター・ジャパンは、これまでも甲冑や刀など歴史上の武器を数多くフィギュア化しているだけあって、この刀の出来は素晴らしいものがあります。
この一振りが大滝秀治さんや清水紘治(旧字変換ができなくて)さんの血を吸ったのかと思うと・・・(危ない発想(笑)。

やっぱりこのフィギュアは、こんな風に小道具を見ながら仕事師達の活躍に思いを馳せる所に楽しさがあるんでしょうね。

Photo_4そしてその楽しみをさらに倍増させるのが、この「障子」。
ご覧の通り、バックからの照明によって障子に浮かび上がる仕事師達のシルエットが、数々の「名仕事」を思い起こさせる素晴らしいギミックとなっているのでした(笑)。


立体化不可を逆手に取ったかのような粋なはからい。
個人的にはこれで充分のような気がします。
「あんたの思った通りだよ。師岡さん。」の名ゼリフが聞こえてきそうです。


Photo_5さて。中村主水と来れば、この男を紹介しない訳にはいきますまい。
「出し渋ってるな」という声が耳に痛いほどです(笑)。

主水が「最大」ならこの男には「最強」の称号がふさわしいでしょう。
お待たせしました。誰が何と言おうとミスター必殺・『念仏の鉄』です(笑)。

「鉄」については今更何を語ればいいのでしょうか。松田優作の「工藤俊作」同様、既にこのキャラクターについては語りつくされた感さえあります。
パチンコ台に続き、商品名を「仕事人」と謳っているにも関わらず、「仕置人」としての生き様を貫いたこのキャラクターだけがシリーズを越えてラインナップされている事からも、彼のカリスマ的人気が窺えます。(などと書いていながら、これも語りつくされたかと半ば反省気味の私。結局私は彼の掌の上で遊んでるのね(喜)。


フィギュアの作りも他の「後輩」達とは趣を異にするもので。
なにしろ「シルエット」なんてギミックは彼の為に発案されたんじゃないかと思うくらいですもんね(喜喜)。
モデル化されたのは「旧仕置人」バージョン。
(分かる方は分かりますよね。)
彼のお酒好きを端的に表現した小道具も素敵。女性好きを表す絵草紙は置いてないのね。
でも彼は2Dマニアじゃないか(笑)。


Photo_6ところでこのフィギュア、一つだけ解せない所が。問題の「シルエット」(うーんもう「レントゲン」と言ってしまいましょう)の処理なんですが。
鉄のトレードマークとも言える「背骨折り」のシーンじゃないのです。何故か首の骨を折る場面がシルエットになっているんですよ。

これがどういう訳なのかちょっと首を傾げる所で。確かに鉄は仕置でこういう技を使う事もありましたが、あまり仕様頻度は多くなかったように記憶しています。どちらかと言えばレアケース、スペシウム光線に対するウルトラスラッシュのような扱いだった気がするんですが・・・
これには疑問が残ります。いつもの爽快な「背骨折り」じゃなかったのがちょっと残念ですね。ひょっとするとそれがLED・電池付き発光台座のシークレットなのかなと思ったり(笑)。

まー私の鉄さまですから、それくらいの特別扱いは当然よねー。なんて頭カラッポの発言をしてみたくなるのもお許し下さい(汗)。

Photo_7なんだか思い入ればっかり先走っちゃってごめんなさい。他キャラクターのフィギュアには目もくれない所も「鉄」ファンの悲しい性です。
ただ思うのは、この「必殺仕事人 THE HISSATSU」という商品、出荷点数は多くないだろうという事で。
こういうアイテムはあっという間に売り切れるか、逆にマニアックすぎて売れ残るかのどちらかでしょうね。定番商品としてシリーズ化なんてされたら、逆にこっちが驚いちゃいます(笑)。

いずれにしても、数年前には考えもしなかったこういうフィギュアが今現実に手元にある事を素直に喜びたいですね。もし皆さんも身近でこれを見かけたら、一度手に取ってご覧下さい。私の相変わらずのおバカぶりを思い出しながら(笑)。

先日、鉄について書いた過去の記事に、みみさんという方からコメントを頂きました。
鉄の大ファンというみみさんはなんと誕生日が「新・必殺仕置人」最終回の三日前だったそうです。放送データから見ればその日は1977年11月1日。リアルタイムで鉄を知らない世代が再放送やソフト鑑賞でその魅力に惹かれていく事は、古い必殺ファンとしてこの上もない喜びです。今回のフィギュア発売によって、また新たな世代が必殺シリーズに目を向けてくれる事を期待したいです。
この場をお借りしてみみさんに感謝いたします。
またご意見下さいね。


月食にかまけて、また勝手なお話をしてしまいましたね。
そういえば主水役の藤田まことさんも、「月が笑ってらあ」なんて主題歌を歌っていました。

「お前も好きだなー」なんて、私も月に笑われているのかもしれません(笑)。

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2007年7月 8日 (日)

右手の刃が鈍る訳

「ダイ・ハード4.0?」
今朝からちょっとそんな気分の私。なんと、私の住む地域のNTTサーバーが今朝から午後2時頃まで不調で、ネットがまったく繋がらなかったのです。そうとは知らず自分のパソコンやモデムの故障と思い込んだ私は、メーカーはじめあらゆる所に電話しまくり。
最後にかけた修理依頼のサービスセンターで事の次第を知り、ほっと胸を撫で下ろした訳です。
「サーバーの問題だったんだ。いやー一時はサイバーテロかと。」

そんなこんなで午前中はやきもき、午後はバタバタでもうこんな時間です。本当に時間を浪費した一日でした。
まーそんなアクシデントもたまにはあります。とにかく今記事を書ける事がなにより有難いと(笑)。

さて今日のお話、サブタイトルの「右手」を「めて」と読まれた方には既に内容はお分かりと思います。まータイムリーなネタですし、「ネヴュラ」読者ならひょっとして昨日から予想されていたかもしれませんね。そうです。そのお話です。
昨夜放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2007」。
ご覧になった方も多いかもしれません。

この番組、随分前に完成していたらしいのですが、何故か放送までに随分時間がかかりましたね。ファンの間ではいつ放送されるのかが話題の中心でした。07年7月7日という大変縁起の良い日に放送日を持ってきたのは制作側の意図か、はたまた単なる偶然だったのでしょうか。朝日放送の山内プロデューサーなら考えそうな事ですが今回は違う方ですし(笑)。

多くの皆さんは「昔の必殺が好きなオタクイーンの事だから、きっとこの番組をボコボコにするんじゃないの?」なんて思われている事でしょう。
でも、意外とそうでもなかったりして(笑)。

こういう番組に対して怒りを覚えなくなったのは私も年をとった証拠かもしれませんが、正直な所「あ、それなりに頑張ってるな」というのが鑑賞後の印象でした。
それはファンとしてだけでなく、いろいろな思惑をない交ぜにしつつ作品を作らねばならない制作陣の思いが透けて見えてしまう、悲しい性ゆえなのかもしれません。
ご覧なった皆さんはどんなご感想をお持ちになられましたか?

今日このお話をするに当たって、「仕事人」をキーワードに感想が書かれたブログをざっと検索してみました。(番組公式サイトの掲示板も見ましたが、やっぱり投稿する人ってご贔屓筋すぎてあまり参考にならず(笑)でも今回に関して言えばもう制作側の思惑は大成功。朝日放送のしたたかな戦略は見事に功を奏したと言えます。
ご興味ある方は検索してみて下さい。その9割はジャニーズ3人出演について、その内また9割が大倉忠義にキャ~、という女性ブロガーの感想だったのでした(爆笑)。
良くも悪くもこれが現実。そして視聴率アップの最短手段なのです。
掲示板ではごくまれに旧必殺ファンの方から「あれは必殺じゃない。昔のテイストの必殺を見たい」的なご意見がありましたが、この場をお借りして言わせて下さい。
「そうおっしゃるからには、貴方の頭の中にはさぞや素晴らしい「昔の必殺テイスト」のオリジナルストーリーがおありなんでしょうねー。」
旧必殺を支えた名匠たちが第一線から退いて久しい現在。今、旧作のハードなストーリーを作品化する事は、いかに現場スタッフの充実を図っても至難の業なのです。「スタッフは昔の必殺を見ていない」というご意見に至っては失笑もので。その発言が出た段階で、投稿者の素人ぶりが白日の下に晒されてしまうのです。投稿者は今作の監督をご存知無かったようですね(笑)。

ここで難しいのは、前述のような筋金入りの旧必殺ファンの(憤懣やるかたない)立ち位置なんですが(笑)、実はこれはまるで筋違い、ゴジラファンがUSA製ゴジラに向かって「あれはゴジラじゃない」と言っているようなものじゃないかと思います。

たとえ藤田まことが中村主水を演じていようと、要所要所に「荒野の果てに」が鳴り響こうと。あれが「必殺」と思うから腹が立つのです。
あれは「必殺に似た何か」(笑)。

おそらく旧必殺ファンはその思いを、1982年あたりの「仕事人ブーム」の頃からずっと抱き続けてきたと思います。ですから今回の特番もまったく期待していなかった筈。
実は私もそうですから。
こんな時、旧ファンはこの言葉を呪文のように唱え、自分を納得させていました。

「あれは『仕事人』。『必殺』じゃない。」

面白かったのは前述の検索ブログの内容で、全体の傾向として「新仕事人」あたりを知っている事が既に通、マニアという共通認識があるんですよ。
「大倉君は三田村邦彦に比べたらまだまだねー」みたいな。
しかも、ストーリーについては「暗い」「もうちょっと笑いがあっても」というものが多い。
これは、現在テレビ番組を支持するメイン視聴者の層を把握する上で実に興味深い事だと思います。

今、必殺という言葉に反応する層の大部分はそういう年代なんですね。
制作陣はこのターゲットを実に正確に把握し、ど真ん中ストレートのおいしい料理を作って差し出した訳です。
これは視聴率を上げる為の措置としては実に正しい。

私はこの姿勢を実に潔いと思いました。
実際のところ、旧必殺ファンや私のようなコテコテのマニアに受ける番組を今作っても、昨日の作品ほど話題にはならなかったでしょう。これは今の視聴者が「必殺」という番組に持つイメージが、ジャニーズメンバーが出演する事(前述のファンには東山氏なんて既に眼中に無いんですが)を差し引いても、「明るく笑えるストーリー」「華麗でカッコよく、浮世離れした殺しのシーン」などである事を如実に表しています。
いいんじゃないでしょうか。これはこれで。

ところが昨夜の「2007」、これで終わるほど単純な構造ではないと、私のようなおバカは考えてしまいました。
今回、私が着目したのは二点。そして最近の必殺が抱える「パワーバランス」が一点。
一つ目の着目点は「脚本」です。

今回、この「2007」に関しては、おそらく殺しのシーンを完全に「別コーナー」と割り切って、それ以前のドラマに心血を注いだ形跡が見られます。
セリフの端々に、ソフトにくるんでいるものの旧必殺ファンへのさりげない目配せがあるのです。

例えば花御殿のお菊(和久井映見)に呼び出された中村主水(藤田まこと)が彼女に進退を尋ねられ、諦め気味に放つ、
「役所勤めが終わったらな。家、出てってくれって言われてんだ」というセリフ。
旧必殺ファンならこんな八丁堀は見たくない。でも彼にそんな無様なセリフの中に「もう昔の必殺ではないんですよ」という脚本家からのメッセージが見えます。

逆に、今回の犠牲者の一人となる小料理屋女将・薫(原沙知絵)が、夫の仇加賀谷玄衛門(佐野史郎)の前で自害直前に放つセリフ。
「お前達のこの屋敷、私の血で汚してやる。私の血はこの雨と共にこの庭に染みこみ、屋敷中に行き渡る。やがてこの加賀谷は崩れ落ちる!」
この一言に込めた、虐げられた女の凄まじいまでの怒りと怨念は、仕事人ブームの頃の作風とはやや趣を異にすると思います。どちらかと言えば旧必殺、「仕置人」あたりで出てきそうなセリフです。

今作の脚本を担当した寺田敏雄は「エスパー魔美」などのライターとして知られますが必殺は初登板。
彼は旧必殺ファンだったのではないでしょうか。
脚本は制作主である朝日放送、テレビ朝日の意向を組み入れて作るものだけに現在の視聴者ニーズに逆らう事は出来ませんが、その枷の中に彼が密かに入れ込んだ「旧作へのリスペクト」(オマージュではなく)を見逃さないのも、ファンに与えられた特権のような気がします。

二つ目の着目点は「美術・照明」です。
「2007」は必殺初となるハイビジョン撮影でした。フィルムとは大きく異なり、細部まで捉えられてしまうこの撮影方法により、美術や照明の立て込み、作りこみにも相当な手間がかけられたのではと推察します(冒頭の火事シーンの迫力、要所要所のクレーンカットの素晴らしさも含め)そういう意味で、画面作りに関する限りこの作品には破格の予算が投入されているのではと思います。
照明機材の豪華さも尋常ではない。私は特に、仕事人たちのアジトとなる「三番筋の裏通り、尼寺裏門近く」の美しさには息をのみました。稚拙な表現ですが、さながらAFVモデラー・バーリンデンが自作モデルに施すドライブラシにも似た「光の階調」をあの照明に感じたものです(ワケがわかりませんね(笑)。
照明・林利夫、美術・原田哲男の見事な仕事ぶりを見るだけでも、この作品の価値は充分にあると感じました。

さて。やや褒めちぎってきましたが、問題は最後。
「最近の必殺が抱えるパワーバランス」についてです。

関係者の方がご覧になられていたらお許し下さい。あくまで個人的な感触です。
「必殺商売人」で監督デビューし、「必殺始末人」あたりから顕著になってきた石原興監督の作風についてですが。
カメラマンとして必殺初期からシリーズを支えてきた石原氏は、今や必殺スタッフの中でも最古参の一人に数えられる存在。

テレビ屋の端くれとして申しますが、番組というのは古くから関わってきたスタッフの発言力が年々増していくものなのです。「この番組はこういうスタイルなんだから」という意見は、新スタッフには反論しにくいもの。
これを「番組の動脈硬化」と言います。
必殺にも、この動脈硬化が起こっているような気がするのです。

その元凶が石原氏一人とは言いません。しかしながら石原作品を見るにつけ、良くも悪くも彼の個性が作品の品格に影響していると感じるのは私だけでしょうか。

それは「簡潔すぎるタイトルバック」
「カット頭からアクション始めまでの「間」の短さ」
「無理矢理なインサートカットの挿入」
「余韻の無いエンディング」などなど・・・

これらを見るにつけ、私は以前お仕事を共にしたカメラマンのセリフを思い出します。
彼はこう言いました。「カメラマンは絵が可愛い」。
つまり、カメラマンは自分が撮った映像に惚れこむ。それが編集によって不要なカットになる事が耐えられない。ストーリーを犠牲にしても惚れた映像を使ってもらおうとするんです。

カメラマン出身の石原監督にも、そういう「ストーリーより絵を優先」という匂いが若干見られるような気がするのです。あくまでも私の印象とご理解下さい。
ですから今回の「2007」も、一つ一つのカットは本当に凄い。正直、ここまで凄い映像はテレビでも少ないでしょう。でも編集がちょっと辛い。人間の生理に合っていないような気がします。

例えば前述の「薫の自害」シーン。
(番組開始後1時間18分頃です。録画された方はご覧下さい。)

本来私の生理なら、この薫の「恨みの遺言」はワンカットで押していくか、センテンスごとに3カットに分けられると思います。
ところが完成作品では2カット、それも最後のセンテンス「やがてこの加賀谷はく」でカットを割って「ずれおちる」でややアップのカットとなっているのです。

これはおそらくカメラのピント合わせの問題、もしくはドリーの限界だったと推察されますが、私はあの繋ぎでせっかくのエモーションが断ち切られてしまった。
こういう場合、現場ではロング、アップ両カットともセリフ終わりまで収録し、後に編集で繋ぐのが定石です。そうしなければ微妙なセリフの「間」が再現できないからです。ですからおそらくあのサイズ違いの2カット、原沙知絵はセリフを最後まで言っているはずなんです。どこを編集ポイントにしても成立する筈。
しかし石原氏はああ繋いでしまった。これはやはりカメラや機材の事情など、「絵」を優先させる石原氏の思惑が絡んでいるのではと思えてしまうのです。

ちょっと専門的なお話になってしまいましたね(笑)。このカット割りの事情にお詳しい方、ご意見ぜひお寄せ下さい。私も勉強させていただきたいと思います(笑)。
カメラマンと監督の才能は似て非なるものと私は思います。まれに両方の才能を併せ持つ逸材も居ますが、その多くはどちらかの素養への傾向が強い。これは良い悪いの問題ではありません。どちらも映像作品には欠くべからざる才能であり、その両輪がうまく作用しなければ作品は成立しないのですから。

「必殺」のお話からちょっと外れてしまいました。いつもながらおバカな私。
でも今回の「2007」、決して出来は悪くないと思います。
ですが「良い悪い」と「好き嫌い」は別で・・・
「勢いは買うけどベクトルが違う」という感触でしょうか。
私の「旧必殺好き」は、もう治らないようです(笑)。

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2007年5月 1日 (火)

サキエルの立場は

今日の新聞折込Photo_752 チラシ。    










マヤちゃんのあまりのボケに、動揺を隠し切れない秀さん。
Photo_753  










奥山新影流VSプログレッシブナイフ。
シンジ君不利かも(心配)。
                                                                                               

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2007年3月 9日 (金)

あんかけの主水は何を想う

「あれーっ?」
今朝9時11分。たまたま点けたテレビをチャンネル換えしている内に、一瞬映った「必殺仕置人」第一話「いのちを売ってさらし首」のクライマックス。

こういうのってたとえ半秒でも分かりますねー。そりや穴の空くほど見た必殺シリーズですから、セリフの順番からカット割まで反射的に思い出せる。
当然チャンネルはそのまま。「こんな時間になぜ仕置人?」と期待していたら、ほどなくスタジオには見慣れた長いお顔が。

この番組はNHK総合の朝ワイド「生活ホットモーニング」。
今日は「この人にトキメキっ!」というトーク企画で藤田まことさんが採り上げられていたのでした。

スタジオには藤田さんがゲストとして呼ばれ、過去の経歴から近況までを語るという内容。
この番組は朝8時30分からの放送でした。私がテレビを点けたのは9時11分でしたからトークはもっと前から始まっていたのでしょう。お話は丁度藤田さんの経歴が「仕置人」に差し掛かったところで。運が良かった(笑)。

Photo_563 「必殺シリーズ」の顔、藤田まこと。
シリーズ中最多出演を誇り、名実共にシリーズのイメージを決定付けたキャラクター「中村主水」を演じた俳優さんです。

シリーズを通じてほとんどの作品に出演している事からも、この主水の人気の高さが窺えますね。「必殺」と言えば「ムコ殿」というのが一般の方々の認識ですもんね。
同心という立場でありながら、裏では非合法に悪人を始末する「殺し屋」の顔を持つ彼の設定は、シリーズ開始直後も、そして今も世のサラリーマンの心を捉えて離さないようです。現在でもどこかの局で必ず過去のシリーズが再放送されている事からも、シリーズの根強い人気が証明されています。

今日の番組では藤田さんの芸歴に触れ、「必殺」以前と以後で藤田さんご本人の意識がどう変わったかを掘り下げていました。
司会者からの質問に藤田さんは「やはり『芸人・藤田』から『俳優・藤田』になったきっかけは「必殺」と語っていました。
「ネヴュラ」読者の皆さんならば、藤田さんが必殺以前に出演し、大人気となった国民的番組「てなもんや三度笠」を憶えていらっしゃると思います。

「てなもんや三度笠」。1962年5月6日から6年間にも渡って放送された公開お笑い番組でした。現在で言う「吉本新喜劇」タイプの方式で、時代劇スタイルの珍道中もの。
関西でも指折りの構成作家、香川登志緒の脚本を、「出演者に一秒の何分の一のタイミングを要求するディレクター」澤田隆治が演出した、驚異的な完成度を誇る伝説の作品でした。
全309回にも渡る大長編コメディーは関西地区で60%を超える視聴率を稼ぎ出し、今だに「関東のシャボン玉ホリデー、関西のてなもんや」と言われる程の知名度を誇っています。

この「てなもんや」で、当時売り出し中だった藤田まことは主人公、「あんかけの時次郎」を演じました。もともと長い顔と流麗なトークが売り物だった彼は、ビジュアル的にもセリフ回しも舞台向きだった訳です。
利発な坊主白木みのるを従え、明るい渡世人として口八丁手八丁で諸国を旅する時次郎のキャラクターはお茶の間に受け入れられ、彼はまさに「時の人」となりました。


番組は「三度笠」以降も「一本槍」「二刀流」と続きましたが当初の勢いは続かず、やがてシリーズは終了。藤田さんはこの「てなもんや」の看板を背負ったまま、後の仕事が決まるまで辛い生活が続いたようです。

1972年。「必殺」は当初、緒方拳主演の「仕掛人」がスタート。その高視聴率に気を良くした制作局、大阪朝日放送のプロデューサー山内久司氏は、直ちに続篇の制作を決定します。
「徹底的にテレビ化した」という山内氏の「必殺」は、図らずも時代劇の衣を被ったビカレスク・ロマンとして視聴者の共感を得、続篇「必殺仕置人」(1973年)をさらなる「テレビ化」へ誘う事となります。

Photo_564 今日の番組で藤田氏が語った、興味深いお話がありました。
「仕置人」開始当時、藤田氏は中村主水のキャラクター作りに苦心していたそうです。

「昼間は奉行所の昼行灯、夜は凄腕の殺し屋」なんて設定はそれまでの時代劇には無かったものですし、前作「仕掛人」にも類するキャラクターは出演しません。
参考になるものが何も無い上、過去に自分が演じたキャラクターは軽めの渡世人「時次郎」タイプのみ。

実際どう演じていいか分からす、「仕置人」撮影開始当初、京都撮影所での彼は「殺し屋」としての顔を意識しすぎて、いつも仏頂面を崩さなかったそうなのです。
写真は「仕置人」当時の藤田氏です。昼間も殺気を漲らせた、迫力ある「殺し屋」中村主水。

ある撮影日の朝、彼は当時の監督、三隅研次さんからこう言われたそうです。
「あんた下手やなあ。」
藤田氏の演技はまるでなってない。三隅監督にはそう映ったようで、その日の午前中は撮影中止。キャスト、スタッフを別室で待たせて二人だけの話し合いとなったそうです。

その時の三隅監督のお話はこんな内容。
「てなもんやでの明るい演技と、殺し屋としての殺気だった演技。あんたにはその二面性を求めてるんだから。」

Photo_568 山内プロデューサーはじめ、監督以下「必殺」スタッフは、藤田氏の「てなもんや」での経験を買っていたのです。昼間は「時次郎」のような明るさを見せ、夜は切れ味鋭い「殺し屋」になる。その二面性を演じられるのは藤田氏を措いて他には居ないと。
撮影を中断した午前中、三隅監督の思い、演技指導を受けた藤田氏。後年思い返しても「それが中村主水の出発点」との思いが強かったと語っていました。

後にファンの間で語られる「仕置人当時の藤田氏の知名度は「てなもんや」どまり。何故彼が起用されたのか」という疑問の裏には、新しい時代劇を模索するスタッフの努力、先見性があったのですね。
事実、藤田氏演じる中村主水ほどの二面性を持ったキャラクターはシリーズを通して見当たりませんし、彼の昼間の明るさが「殺し」という陰惨なドラマをお茶の間向け番組として成立させている事は間違いないでしょう。

Photo_565 これはプロデュースサイドの考え方です。
ファンは番組終了後、全話を見渡して研究する訳ですが、当然の事ながらキャスティングの段階では作品は一話も出来ていない。
制作側としては制作前の段階で、演出や役者の演技を予想して(ある意味期待して)キャスト・スタッフ集めを行う訳ですね。
ましてや画面に顔を晒す役者などはシリーズが始まったら「演技が下手だから」と言って変更する事など出来ない訳で。

ですから後々「成功した」と言われる番組の裏には、その番組のテイストを計算してスタッフ・キャストを集めた制作陣、そしてその願いに応えた演出・出演者の総合力があるのです。

その日以来「中村主水」を探す道を歩んだ藤田氏。彼が「主水」を掴んだと感じたのはシリーズ開始後3年が経過した頃と言います。3年と言えば「必殺仕業人」(1976年)の頃ですね。
セピア色の色彩設計、牢屋見回りに格下げされた極貧の主水、番組全体に流れる寂寥感が印象的な、シリーズ中最も「寂しい」主水が描かれた作品でした。
「仕業人」は今も根強いファンが多い作品。
あの頃藤田氏は「主水」を自分の物にしていたのです。


Photo_566 役者という存在を傍らで見ている私は、「役作り」というものの難しさがなんとなく理解できます。
架空のキャラクターと言えど、人知の及ばない宇宙人などを演じるならともかく(これはこれで難しさがありますが)血の通った人間を演じる以上、そこには感情に裏打ちされた表情、動きのリアリティーが要求されるのです。
そのリアリティーの裏には人間観察、そして与えられた役への探究心が必要なんですね。
以前シナリオの事でもお話しましたが、役者も「経験していない事は演じにくい」と言う事です。新人俳優の演技の幅の狭さ、ベテラン俳優の深みある演技の差は、そんな所に出るのでしょう。
同じセリフを何通りにも演じ分けるベテラン俳優の技を見る度に、そんな思いを強くします。

Photo_567 今日の番組終盤、藤田氏は優しい「おじいちゃん」の顔を見せました。
お孫さんからのメッセージカードを肌身離さず持つ彼は、もはや「種無しかぼちゃ」の同心ではなく何処にでもいる好々爺でした。
この藤田氏の感情、稚児に対する優しい眼差しを見るにつれ、「俳優・藤田まこと」に新たな演技の深みが加わるような気がしてなりません。

若輩の私が言うのは生意気ですが、一人のファンとして期待したいのは、人生経験を積んだ役者の顔、立ち振る舞いからにじみ出る「深み」なのです。

「必殺」も、今回スペシャルドラマとして新作が制作されたそうです。その内容は決して期待できるものではなく、また藤田氏の主水再登板も不安要素いっぱいですが、今日のトークで藤田氏が見せた「深み」がもし新作に生かされているのならば、という一点だけを信じて鑑賞に望む事としましょう。(儚い望みですが)
演技とは経験を重ねる足し算。山内プロデューサーも想像しなかった「新しい主水」が見られる事を信じています(笑)。

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2007年2月20日 (火)

大江戸カジノ・ロワイヤル

劇場鑑賞から早や二ヵ月半。
自宅で過去の作品を見返しながら劇場で初見したイメージを反芻してみましたが、なかなかそれは変わらないものですね。

「007カジノ・ロワイヤル」。
自他ともに認める007ファンの私は、劇場で新作を鑑賞する度に旧作と比べ、時期外れのこんな時にも思いを馳せたりするのです。

Photo_535 昨年末この作品が公開された時、いろいろな方のブログで感想が書かれていました。
賛否両論あって面白かったのですが、その中で共通したご意見が一つ。
「カジノシーンが少し長く感じた」というものでした。
実は、これは私も共感した事で。

いきなり私見ですが、映画という大スクリーンで見せるメディアは本来、大仕掛けなアクションやSFなど、見世物的な素材が適しているような気がします。
ジョルジュ・メリエスの昔から、映画という物は「見た事も無いものを見せる」という出目があるのです。

ギャンブルやディスカッションなど大きな動きを作りづらい場面は、実は演出家にとって最も頭の痛い、エモーションを持続しにくい部分なのではないでしょうか?
(私も自分で演出していてそう思います。つい単調なカットの切り返しが多くなってしまって)
逆に言えば、そういう場面をエキサイティングに演出できる監督は恐るべき才能の持ち主という事も出来ますが。

かねがね感じていましたが、そういう「動きを出しづらい場面」は、大スクリーンよりむしろブラウン管(今は液晶画面でしょうか)の方が向いているような気がします。
つまりテレビ画面ですね。

映画の「動」に対してテレビの「静」。これも業界でよく囁かれる事です。
暗い場所でスクリーンだけを見せる映画と、生活感が回りに溢れた部屋の中で小さい画面を見せるテレビとは、もともと選ぶ素材も演出方法も異なって当たり前なのです。

お台所で食事の後片付けをしながら、画面を見なくてもストーリーが把握できる。実はこれがテレビというメディアに向いている素材なのです。「映画は絵、テレビはおしゃべり」と言われる所以がここにあります。
シドニー・ルメット監督の名作「12人の怒れる男」(1957年アメリカ)がテレビ向き、と言われる理由もそんなところにあるのでしょう。

いつもの癖で、お話が「カジノ・ロワイヤル」から随分逸れてしまいました。
ここらで軌道修正をしますと(笑)、あの作品中、敵役のル・シッフルをカードゲームで追い詰めるボンド、という場面は、私にとって「名作番組を思い出させる」絶好の機会でした。
あの場面を反芻すればする程、ギャンブルという素材がいかにテレビのスケールに合っているかがよく分かるのです。

(いい悪いではなく、向き不向きの問題なので誤解の無いよう)

私はギャンブルなど全く才能が無く、実生活でそういう場面に出くわしても全然興味を示さないのですが、その実ドラマ作りにとって非常に魅力的な素材と感じます。
欲、かけ引き、意地、そしてカタルシス。ドラマに必要な要素の全てが「静」の場面に集約されている気がするからです。
その為テレビ番組には、ギャンブルに絡めた名作ドラマが複数存在します。
その多くはシリーズドラマの一本として放送される為、映画ほど話題に上らない事も多いのですが、それでも語り継がれる名作はあるもので。


賢明な「ネヴュラ」読者の皆さんからすれば本当に無知な私ですが、それでも「その緊張感はカジノ・ロワイヤル中のカジノシーンより上」と思った作品は二本ありました。
今日のタイトルはその内の一本を暗示したもの。(一部の方にはバレバレですが)
そうです。その作品です。「命ぎりぎり勝負を賭ける」あれです。

Lp 「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)。
ご存知必殺シリーズ初期の作品として放送されたいわゆる「非主水作品」です。

シリーズの顔として後期必殺を代表するキャラクター、中村主水はこの頃まだレギュラー化していなかった為、この作品は傑作でありながら知名度の低い、埋もれた傑作と言えるかもしれません。
しかしながらそのクオリティーの高さは特筆もので、私の中で必殺全シリーズ中三本の指に入るほど好きな作品なのです。

くどくど説明するのも野暮なので簡単にお話しますが、
この作品は「殺し技が見所の必殺」として見ると幾分面白みに欠けます。

殺し技というより「殺しの緊張感」に重きを置いているからです。演出側から見て、「緊張感」へドラマの力点を振るのは自分で自分の首を絞めるようなものなんですが、スタッフはあえてその領域に挑戦したんですね。
しかも今日採り上げるのは、全シリーズ通しても極めて珍しい「悪役が殺されない」エピソードで。
お好きな方、この流れを読んでたでしょ(笑)。

第20話「負けて勝負」(1975年5月16日放送)。
必殺ファンの間でも今だに語り草になっているこの作品です。

私は「カジノ・ロワイヤル」を観た時、即座にこのエピソードを思い出しました。「負けて」の「勝ち」なんて(笑)。
この「仕事屋」に登場するメインキャラクター、半兵衛(緒方拳)と政吉(林隆三)は、いわゆる「殺し屋」としてのスタンスを取っていません。
と言うのは「仕事屋」=「殺し屋」ではないからです。

一言で言えば「裏の便利屋」という所なんですね。だから殺し「も」手掛ける仕事、と考えるのが妥当で。
実は二人とも、殺し屋としてはプロではないんですね。
そこに生まれる「敵に負けるかもしれない殺しの緊張感」が、ファンの心を捉えて離さないのです。


3s ところが良くした物でこの二人、恐るべき特技があります。
ギャンブルの才能です。

一か八かに強いその天性のカンで殺しの非力さをカバーしてしまう。これもファンにはたまらない設定でした。数々の修羅場をそのカンで凌いできた二人だったのですが・・・
「負けて」に登場した敵、伊三郎は、そのままギャンブラーだったのです。つまり同じ土俵での勝負という訳。
これは恐るべき敵でした。
ギャンブルの腕と才能が唯一の武器であった二人は、そのプライドを賭けて伊三郎に臨みます。
勝負はポーカー(江戸時代に!)


伊三郎は博打の腕も立つ上美形を生かしたプレイボーイ。
半兵衛は一度ポーカー勝負で伊三郎に大敗し、ギャンブラーとして伊三郎に対抗意識を持ちます。
さらに半兵衛の内縁の妻お春に言い寄る伊三郎。伊三郎はお春が半兵衛の女と知りません。(一時間番組ゆえのご都合主義と捉える事もできますが、ここはストーリーにうねりを加える為の、脚本家・田上雄の手腕と見たいですね)

天才と見られた伊三郎ですが、実は場を貸す大和屋の女主人と密通、しかもカードにイカサマを仕掛けていました。
このイカサマにより身代を潰された大店・田島屋が一家心中するに至ってシリーズの定石通り「許しちゃおけない」展開となる訳ですが・・・


ここから先は「博打で殺す」半兵衛、政吉の見事な手際の良さを味わえる、至福の時間が展開します。
実は今回、半兵衛は3重の意味で伊三郎を意識しているわけですね。
「ギャンブラー」として。「仕事のターゲット」として。さらに無意識にしろ「男」として。

この重層的な思惑が、「負けて勝負」というエピソードを名作足りえているのかもしれません。
しかし、クライマックス場面で見る者の喝采をさらうのは、実は半兵衛ではないのです。
相棒、政吉のあの「ポーカーフェイス」。そして受けて立つ伊三郎の、あのワンカット37秒にも及ぶ顔のアップ。(ここは伊三郎の表情だけでドラマを引っ張る、松本明監督と役者の戦いですね)


4s 練りに練られた脚本。張り巡らされた伏線。濃密な空気感。緩急自在のカット割の妙。
ここに至ってはもう「必殺」であるとかないとか言うお話じゃないんですね。
「ドラマ」としての完成度。テレビというメディアの特性を活かした演出の到達点じゃないかとさえ思います。

未見の方に配慮してラストはお話しません。でも半兵衛・政吉コンビは見事な仕事ぶりを見せます。
このエピソードも立派に「仕事屋」の一篇なのです。
おそらくこれも、必殺シリーズという番組が本来持つ世界観の幅なのでしょう。


ドラマの面白さや殺しのダイナミズム、照明の美しさなど数々の魅力を持つ必殺シリーズですが、実はこうした「テレビ的な緊張感」を表現した演出も特筆すべき作品群と思います。
さて、意識的に伊三郎の俳優名を伏せてみました。ここでお話しましょう。
名優、津川雅彦。津川さんの37秒アップは効きますよー(笑)。


テレビ作品のエピソード紹介も多い「ネヴュラ」。この辺のテレビシリーズってDVD化はされていても、なかなかレンタルまでされていないのが現状で。
でも偏屈な私は、「貴重な時間を返して!」と叫びたくなる作品の紹介より、たとえ見るのが困難でも名作の名にふさわしい作品をお話したいですね。
ただ、たまたま「仕事屋」は今、CSでオンエアされているそうですから(記事は偶然ですが)もし機会があればご覧頂ければと思います。

「どうせつまらないだろう」って?
賭けましょうか?う~ん。五千両!
きっと「負けて勝負」のクオリティーは、キングのフォーカードの上を行っています!(笑)

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2006年11月 5日 (日)

「必殺」の二文字が持つ意味

「まず予習だよね。」
昨夜9時から放送された「土曜プレミアム・仕掛人藤枝梅安」。
必殺好きな私。昨日はそんな気合で、昼間から「闇の狩人」(1979年俳優座=松竹 五社英雄監督)、「必殺仕掛人」第一話「仕掛けて仕損じなし」(1972年9月2日放送 深作欣二監督)なんかを見ちゃったりして。マニアのいやらしさが出ちゃってお恥ずかしい限りです。「準備万端・お手並み拝見」的な。まあ児戯にも等しいお遊びなのでご勘弁を(笑)。

さて、そんな気合で見た最新作、梅安は、やはりビデオ映像ならではの質感と、主演の岸谷五朗が醸し出す独特の世界観が新鮮で、2時間という長尺を飽きさせないものでした。

ご存知の通り、「仕掛人・藤枝梅安」は、1972年から放送が開始された「必殺シリーズ」の第一弾にして唯一の原作物。その設定やテイストにかなりの違いがあるものの、「お金を受け取り人を殺める」者達の生き様を描いたドラマの原点と言えるお話です。
主人公、藤枝梅安は、江戸品川台町で鍼治療を営む医者。しかし夜のとばりが降りると江戸の闇を駆け抜け、世の為にならない悪人を始末する「仕掛人」となります。
時代劇作家、池波正太郎が作り出したこの魅力的な人物は、その後形を変えながら闇に生きる数々の仕事師たちのモデルとなったのは言うまでもないでしょう。

やはり原作物という事で、時代劇の一キャラクターに名を連ねる仕掛人梅安。これまで番組化される毎に、色々な俳優が梅安を演じてきました。ファンとしてはこの魅力的なキャラクターを今回どんな俳優が演じるのか、という部分に最も興味が湧くもので。加えて梅安を取り巻く人物達が醸し出す雰囲気にも注意が注がれるのです。

今回の作品では、梅安役の岸谷五朗を始め、仲間の仕掛人・彦次郎役に小日向文世、小杉十五郎役に原田龍二。元締め役・音羽屋半右衛門役に藤田まこと。
この布陣は私の目には、大変手堅くまとまったものと見えました。奇をてらわない直球勝負ですね。

元来「仕掛人」という作品は主人公達の人間模様が物語の面白さに繋がっているので、演者にはかなりの演技力が求められるものなのです。ある意味「引き出しの数を試される物語」と言ってもいいでしょう。

人間臭さ爆発の、個性溢れるキャラクターが織り成すドラマのうねりの中で主役を張る岸谷梅安は、実に今回の番組のテイストを象徴していたと思います。
ドラマの空気も原作の雰囲気を生かした、しっとりとしたものでした。こういう空気を再現することはおそらく企画の段階で決められた事なのでしょう。エピソードの中身に関しては原作のいくつかが組み合わされたようですが、完成作品には池波世界が見事に再現されていたのではないでしょうか。

この「仕掛人」、原作に触れる機会も数回ありました。講談社文庫で発売された小説はもとより、池波氏の対談なども楽しませてもらったクチです。特に対談は、仕掛人が生きた時代の背景を実に趣深く感じることができました。
こんな風に時代小説に触れる機会など、オタクの私には珍しい事で(笑)。

やはりこれは、72年の「必殺」仕掛人の影響というものでしょう。今では考えられないことですが、1980年代の「仕事人」ブームの頃まで、世に出た必殺シリーズ関連の文献、研究書のたぐいなどは皆無に等しいものだったのです。必殺シリーズに心酔するマニアはそれこそ藁をもつかむ思いで池波作品に飛びついたものでした。原作の持つ、芳醇な作品世界に触れられたのもそんな経緯があったからこそ。

で、その時私は、多くのマニアが感じたものと同じ感触を原作に持ちました。
「テレビの梅安と違うじゃん!」
朝日放送版「必殺仕掛人」は、この原作とはまったく違うテイスト、内容なのです。
キャラクターだけ借りた「別物」と言ってもいいでしょう。
いや、キャラクターの性格付けさえ違う。


昨日放送された作品が原作に極めて近いテイストを持つものだっただけに、その直前「必殺」仕掛人を「予習」してしまった私は、十数年前感じたあの違和感を思い出したのでした。
主人公梅安は両方とも同じ鍼医者、殺しの手口も同じ、周りのキャラクターもほぼ同じ布陣。(これは異論もおありでしょうが。「必殺」版は原作「殺しの掟」とのキャラクターコラボが行われているので。まあ、人物の位置関係がほぼ同じと解釈していただければ)

もっと大きく言ってしまうと、どうやらこれは原作を映像化した全ての梅安と、必殺版の梅安の違いのようなのです。

昨日の「仕掛人藤枝梅安」に登場する主人公、「岸谷梅安」には、医者ならではの風格、分別が表現されていました。
「仕掛ける」という、人を殺める行為の受け取り方も常人に近かったような気がするのです。

仕掛けを行った日は家に帰りたくないとか、惚れた女と床を共にしたくないとか。血の香りを嗅いだ人間の弱さと言うかやるせなさが感じられるんですね。こういう部分は原作のエッセンスを実に忠実に抽出していると思います。
「悪人とはいえ、見も知らぬ人物を手にかける」という罪の重さも感じている。

人間ならではの矛盾も感じています。梅安は貧しい患者からは治療費を受け取りませんが、「その分仕掛けで稼いでいる」と静かに語ります。
元締め・音羽屋は「悪人を始末したお金で人助け」などと持ち上げますが、梅安はそんな事を感じてはいません。
人を助ける手で人を殺める。そんな自分の矛盾を百も承知でいながらこの世界から抜けられない。
そんな人間の心の葛藤が表現されているんですよ。

これは原作を映像化するという制作側の体制からくるものなので、その目論見は成功したと言っていいと思います。

そんな人間味溢れる原作版「岸谷梅安」に比べ、「必殺仕掛人」で緒方拳が演じた梅安はまったく違うキャラクターでした。
当時の緒方の年齢が原作の設定より若かった事もあるでしょうが、とにかくエネルギッシュ。
「悪い奴は殺っちまえばいいんだ」と言わんばかりの迫力で、アクションにつぐアクションを展開します。
一話完結ながら長期間のシリーズを引っ張っていくための措置だったのでしょう。
前述の治療とお金を巡るセリフにも、「緒方梅安」ならではの理屈が感じられる部分があります。
第一話「仕掛けて仕損じなし」で語られたセリフです。
「仕掛人稼業で稼ぐから、こうやって凝った身なりして何不自由なくうまい物も食えるんだ。だから銭金に構わず貧乏人の病を治す気にもなるんだ。」
微妙な違いですがお分かりでしょうか。「原作版」岸谷梅安と違い、「必殺版」緒方梅安は、お金が入らなければ自分が悪人側に回る事もいとわないような危なさがあるのです。

言ってみれば「無頼性」があるんですね。「危険な男」という側面が感じられます。
この原作からのキャラクター変更は緒方拳自身が行った事だそうで。後年緒方はあるインタビューで梅安の役作りについてこんな趣旨の事を語っています。
「人を治した手で人を殺す。そんな矛盾も人の心の一つよ。そんな風に考えて演じました。」
緒方梅安は悩んでいないのです。ふっきれている。
「悩む梅安」も魅力がありますが、私はこの「正毒併せ持つ男」に、さらなる深みを感じるんですね。

ひょっとして緒方梅安は、ある部分で仕掛けの仕事に中毒的な快感を感じているのかもしれませんね。劇中ではそれほど明らかにされていませんでしたが、梅安が見た世界はおそらく「人間が見てはいけない世界」。お金で人を殺める人物が徐々に倫理を蝕まれ、やがて到達してしまう恐ろしい境地なのかもしれません。

緒方梅安だけが持つ「必殺」の二文字は、原作版の梅安がその入り口で躊躇していた修羅の道を象徴していたのではないでしょうか。
後期の必殺シリーズはヒーロー性を全面に出した痛快時代劇と化していましたが、第一作「必殺仕掛人」を始めとする初期必殺には、こういった「悪を承知した男」の崩壊劇的な要素が随所に感じられたのです。


的となる相手を「必ず殺す」事を課せられた仕事師たちは、眼前で事切れる悪人に自分の末路を見ていたのでは。
「必殺」の二文字は自分にも向けられていたと。
「いずれ私も地獄道。」職業として仕掛人を選んだ原作版に比べ、必殺版は「どんなに気取っていても同じ穴のムジナ」的な無頼感がたまらない魅力を持つのです。


ただ、これは好みの分かれる所。
私はやはり、緒方梅安の信奉者です。
女って、危険な香りを持つ男に魅力を感じるものなので(艶)。

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2006年10月29日 (日)

放送VS興行

Photo_316 このテープをご存知ですか?
放送業界に携わる方なら、「もう見飽きた」とおっしゃるのでは。そうです。これは私が生業としているテレビ業界で、今も現役で使われている取材用テーブ「ベーターカム」という代物なのです。

今日、私はこのテープを大量に整理していました(500本近くあったかな)で、その内何百本かを自宅に運び込むという力仕事でもう、クタクタ。その時ばかりは「女の子」してられなかったので、思いっきり頑張っていましたが(笑)。

古いテープが見つかる度に取材当時の思い出が思い出され、ちょっと懐かしい時を過ごしましたが、そんな中でも「ネヴュラ」の事を忘れていない私。つくづくブログが生活に根付いた事を感じます。
「ネヴュラ」でもテレビドラマの魅力について何度かお話していますが、番組制作の現場を見る度に昔のような名作が生まれる素地のない事を思い知らされます。
オリジナリティーの欠如でしょうか。一つの企画が当たると、全ての番組が同じテイストで番組を制作してしまう。
昔はバラエティー番組でさえ、番組ごとに特徴があったのに。

名作と呼ばれる一話完結のテレビドラマも絶えて久しい今。まあそんな事を愚痴っていても仕方ありませんが、そうした名作テレビドラマにあった物って、いったい何でしょうか?
私などは「魅力的なワンパターン」じゃないかと思うのです。
今でも語り継がれる名作テレビドラマというのは、放送時間帯や想定される視聴者層、時代の要求などに合わせた番組テーマ、世界観、ストーリー、カタルシスの置き所、名ゼリフなどが渾然一体の魅力となって、人々の心に訴えるものではと感じます。
皆さんも「マイ・フェイバリット・テレビドラマ」を思い出して下さい。「こんな番組で」「毎回こんなシーンが必ずあって」「このセリフ聞きたさにチャンネルを合わせ」なんて絶対ありますよね。特に「セリフ」などは真似をしやすい分、放送で毎回反復されると「これを聞かなきゃ番組を見た気がしない」なんて、非常に魅力的なファクターとなる訳です。
要は「水戸黄門の法則」といった所でしょうか(笑)。

一話完結ではありませんが世界観という点では、今も作り続けられている恋愛ドラマだって確固たるものがありますよね。あのユルい世界観の縛りがあるからこそドラマが成立する訳で。出演者、演出スタイルの統一感もそうですが「主人公が最終回で宇宙人と判明、巨大化して街を破壊」なんて「月9」、見たことありませんから(ちょっと見たいかな(笑)。

こんな風にテレビドラマには、制作陣が考えに考えた「スタイル」がある訳です。名作と呼ばれるドラマは、そのスタイルに視聴者が共感した事に市民権を得、語り継がれていく訳ですね。

名作テレビドラマと聞いて私などがまず挙げたいのが(散々お話してますからお分かりでしょうが)「必殺シリーズ」。私が「一生で一度でいいから作ってみたい番組」の最有力候補です。
意外でしょ。ウルトラシリーズではないんですよ(笑)。

名プロデューサー、山内久司さんが生み出したこの名作ドラマは、前述のテレビドラマのスタイルをほぼ完璧に満たしています。
ちょっと思い出してみてください。悪人登場、弱者の被害、巻き込まれる主人公、報復の手段となる「お金」、カタルシス溢れるクライマックス。箸休めに挟み込まれるコメディーシーンに至るまで、実に計算されつくした番組設計には唸らざるを得ません。
でもこのスタイル、考えてみればヒーロードラマの定番スタイルなんですよね。
そんなパターンの中にあって、「必殺」しか持ち得ない魅力とはいったい何でしょうか?

私見ですがそれは「お金で人を始末する」という部分と、「主人公が魅力的なアウトロー」という部分に感じます。
(中村主水はアウトローじゃないって?あんないびつな人間も居ないと思いますが(笑)。

こんな風にあっさり語ってしまうと「愛が無い」なんて言われそうですが、あまりに自分との距離が近すぎて語れない作品ってありますよね。「全てが魅力」と言ってもいいシリーズですから。
そのあたりはまあ、おいおい。

「ハードボイルド時代劇」として1970年代を駆け抜けた必殺シリーズは、1980年代「新仕事人」の頃から超人気時代劇としてブレイクします。若い視聴者層をターゲットにしたアイドル的な出演者、「仕事」シーンのショーアップ化が当たったんですね。(前期必殺ファンである私はこの流れには・・・)
この人気を見逃さなかった松竹映画は、当然のように映画化に踏み切ります。80年代に量産された「必殺」劇場版がそれ。95年の「主水死す」まで都合6作品が制作されましたね。(70年代の「仕掛人梅安」、90年代以降の「始末人」「三味線屋勇次」などは傍系作品として考えますが)
この劇場版必殺、ご覧なった方はどう思われましたか?

私などは、全ての必殺映画はもう「必殺」じゃないと思っちゃうんですよね。
「必殺シリーズ」っていうのは、悪人を人知れず闇に裁くアウトローの「悲哀」のドラマだと思っている訳です。
人を殺める罪の深さ。一度手を染めてしまったら二度と幸せを掴めない仕事師の業。正義感というより「悪人の倫理観」。理想と現実の板ばさみに苦しむ人間の葛藤が魅力なんですよ。口ではどんなに悪態をついていても、心の中では確固としたルールを持つ主人公が「外道」を見た時の怒りに共感する訳です。
テレビ版の基本フォーマットは、そのドラマを描くのに実に最適でした。実際あのパターンが無かったら「必殺」じゃないといってもいいんじゃないかと。
確かに異色作もありましたが、それは毎回のパターンがあったからこそ成立する訳で。その異色作であっても、やはり最後は悪人が始末される。仕事師の葛藤の末に。ここは変わらないんです。

色々な評論でも言われていますが、劇場版必殺シリーズは一作毎にテイストが全く異なっています。ですから元々、「どこが違って」などとは語れないんです。
Photo_319 例えば、私が前期必殺テレビ版のテイストに最も近いと思う「必殺!Ⅲ 裏か表か」(1986年松竹 工藤栄一監督)にしても、これはもう「お金で人を殺める仕事師のお話」ではないですよね。
「お金を巡る巨大な裏組織の抗争に巻き込まれた、表の顔の仕事師達の末路」じゃないですか?これ。

第一、基本的に「暗殺」が暗黙の了解だった必殺のフォーマットを破っちゃってるからカタルシスが生まれない。美学がないんですよ。「小さな武器で一人一殺」の基本も破られてるから刀を持った数人を相手にできる訳が無い。要は「爆弾に竹槍で向かう事に説得力が無い」んですね。あれでは仕事師達がただの無鉄砲に見えてしまう。
もともと「必殺」は、ああいう風に大スケールのお話にすると破錠をきたす作りなんですよ。
なんかもう全ての劇場版必殺は、必殺シリーズが本来持っていた構造的問題をクローズアップしているように見えてしまって。

「必殺4 恨みはらします」(1987年松竹 深作欣二監督)では、最後に拳銃まで登場します。仕事師はああいう武器を使えない立場の者だから面白かったのに。
「ミノフスキー粒子が無くなったガンタム世界」みたいで(笑)。

時代劇としては派手で面白いとは思いますが。
演出も力が入ってましたしね。
でもテレビ版の、文字通り「剃刀のような」演出の冴えは、まさにテレビ版だから成しえたものでは、と思っちゃうんですね。

テレビ番組の劇場版に潜む落とし穴は、この「必殺」が実に雄弁に語っています。
でも私はこの劇場版必殺、別に嫌いじゃないんですよ。
むしろ同情に値する作品に見えちゃって。

もともとお茶の間に「無料で」放送するテレビ作品と、劇場で「有料で」公開する「興行」としての映画は、同じ映像作品としてもまったく違う目的で創られています。
「映画は興行収入を上げなければならない」。
映画もテレビも、見る側にとっては大した違いは無いかもしれませんが、これは天と地ほど違う商業原理なのです。

テレビと同じ事をやっていては劇場版の意味が無い。劇場版を制作する意味は「テレビでできない事を映画で制作して、テレビ版ファンの興味を引き、観客を動員する」という事なのです。
企画の段階で既に違う作品。違和感を感じるのは当然の事で。
ただ難しいのは、「テレビだから成立するお話」である見極めが企画側に無いとひどい結果になってしまうという事。

「テレビ版の延長線上のお話」ならいいんですよ。出演者はテレビ版と同じなんだから、同じテイストを求めてしまうのは当然の事で。
でも期待していたテイストが味わえない。
あえて言ってしまえば劇場版必殺は「テレビでは出来ないお話」じゃなくて、「作っても必殺の魅力が出ないから、慎重に避けてきたお話」に見えてしまうんですね。
きっと脚本陣、監督陣も苦労されたと思います。「必殺のタブーに挑戦」と言えば聞こえはいいですが、それはファンにそっぽを向かれる両刃の刃ですから。
いくら「刃」好きの必殺ファンでも、いただけないものはいただけないと(笑)。

劇場版必殺について山内プロデューサーは「松竹から持ち込まれた企画で、チャンバラを見せる事が目的」と語っていますから、テレビ版とは一線を引いていたのでしょう。
そんな意味からも、私の中では「必殺作品の鬼っ子」として愛着のある作品群です。
でも作品の出来としては圧倒的にテレビ版の方が上。お金をかければいい作品ができる訳じゃないんですね。

放送と興行。テレビドラマがある限り、この二つの相反するメディアはこれからも作られ続けていくでしょう。
ただ、テレビ版に魅了されて劇場版を観た時、その魅力を再確認させてくれる作品はほとんどありません。
私的にはやはり「住み分け」が必要と思うのですが。


Photo_318 今日の最後はこのお話で。
「ゴジラ」が毎週一話完結のテレビシリーズだとしたら、どんなストーリーになると思います?劇場版と絶対違うテイストになると思いませんか?
「流星人間ゾーン」は別にして。
あれは準レギュラーでしたから。
ね。住み分けってやっぱり必要でしょ(笑)。

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2006年9月 2日 (土)

仕置人からの手紙

私の「必殺」好きをご存知の方は、かなり昔から「ネヴュラ」をご覧の方でしょう。
以前、その思いを書いた記事に久しぶりにコメントを頂き、「必殺」オタクの血がまた騒ぎ出しました。(カテゴリー「必殺シリーズ」から入っていただければ、記事をご覧頂けます)

必殺シリーズに関しては、どれくらい語っても語りつくせない思いがあります。「特撮好きは必殺好き」なんてよく言われますが、どうもあの作品には、オタクの血を騒がせる何かがあるようです。なにしろ私が今の仕事を決めた動機の一つはこの作品にあるのですから。Photo_148
特に最高傑作の呼び声も高いシリーズ第10弾「新・必殺仕置人」(1977年)についての思い入れは尋常ではなく、昔の記事にもある通り「念仏の鉄」を演じた名優、山崎努氏に手紙を送った程。

シリーズ一作ずつを語っていてはハードディスクもオーバーフローするくらいなので(笑)今回は山崎氏から送られたご返事の手紙を元にしながら、「新・必殺仕置人」のみについて私見をお話しましょう。

1980年代に吹き荒れた「仕事人ブーム」のおかげで一気に上がった「必殺シリーズ」の知名度。実際、その時期までは、この異色時代劇の評判は一部のマニアを除いてさほど高いものではなく、私などはそのマイナー加減に喜びを感じていたのです(笑)。

その番組内容もとても一般受けするものではなく、いろんな意味でハードそのもの。深いテーマ、斬新な演出などに魅了された私は、他の番組に無い「鋭さ」を見ていました。
そんな私も、シリーズ第17弾「新・必殺仕事人」(1981年)あたりから加熱するアイドル的人気に応じ、徐々にソフト化する内容、殺しの「ショー化」に、古くからのファンの方々同様、幻滅を禁じえなかったのは事実です。

Photo_149 そんな私の唯一の心のよりどころは、前述の「新・必殺仕置人」最終回で、壮絶な最期を遂げた「仕置人・念仏の鉄」の存在でした。
旧作「必殺仕置人」(1973年)での初登場以来、その強烈な存在感で、必殺シリーズ出演の全キャラクター中かなり人気の高いこの男に、私は理想の「仕事師の姿」を見たのです。

「鉄」を演じた山崎氏に私が書いた手紙には、ある大きな質問が書かれていました。
「鉄」の役づくりについてでした。「鉄」をどんなキャラクターとして受け取ったのか。演じるに当たってどんな演技プランで臨んだのか。

まだ今の仕事に就く前でしたから、思えばぶしつけに失礼な質問をしたと反省しています。いわゆる普通のファンレターではなく、質問状のような内容だったんですね。
しかしながら山崎氏は、そんな素人の失礼な質問にも、実に丁寧に答えて下さいました。

私のお話より、本当は文面をそっくり見たいでしょ?でもそれを勝手にやっちゃうとご本人には失礼ですし、何より私宛の「ラブレター」ですから、ちょっとご勘弁下さい。差し支えない部分の内容をかいつまんでお話しましょう。
必殺ファンには当時の山崎氏の役作りの考え方が分かる、貴重な資料だと思います。
もし、(あり得ないお話ですが)山崎努さんご本人がこれをご覧になっていたら、なにとぞお許しいただきたいと思います。

意外にも山崎氏は、「鉄」の役を「力を抜いて楽しく演りました」と語っています。なるほど。鉄の「殺し屋にあるまじき余裕」は、そういう山崎氏の姿勢の表れだったんですね。
水戸黄門ほどではないにしても、最後は悪玉が退治される時代劇の通俗的パターンの中で、どれだけ遊べるか、というのが、山崎氏の願目だったそうです。

Photo_152 「仕置人」を憶えていらっしゃる方、ちょっと思い出してみて下さい。それまでの時代劇、とりわけ「殺し屋」と呼ばれたキャラクターの中で、「鉄」のようなキャラって居たでしょうか?
当時の「必殺シリーズ」プロデューサー、朝日放送の山内久司さんは語っています。「それまでテレビ時代劇に登場した多くの主役キャラは、剣一筋、女も要らぬ、信じるのは正義のみと言うものが多かった。それを全部ひっくり返したのが「必殺」のキャラ。」

プロデュースサイドの制作方針に乗ったとはいえ、前作「必殺仕掛人」の藤枝梅安(緒方拳)の影響も残しつつも、また違った役へのアプローチを、山崎氏は行った訳です。
そのアプローチが成功したのは、その後のシリーズに「仕留人」の大吉(近藤洋介)や、「仕置屋稼業」の印玄(新克利)など、鉄のイメージを踏襲したキャラクターが登場した事でも明らかです。

キャラクターとして、正義の味方ぶりにどこか照れているところ、が出来てきた、と山崎氏。水戸黄門や大岡越前に笑ってしまうお客さんと同じレベルで役を作ったとの事です。
なるほど。そういうことだったんですね!当時、私のようなおバカなマニアは、前述の二作品の良さに気がつかず、「これのどこが面白いの?」なんて笑っていましたから、ここは山崎氏の策略に見事にハマった訳です。
そしてこの後の一文が、私の思いと見事にシンクロした、素晴らしい名文。

「日常原則で生きている人間への毒矢のようなものを鉄に持たせました。」

そうですよね!鉄が魅力的なのはまさにこの部分。「あんたそんな人生で楽しいの?」と、常にアイデンティティーに揺さぶりをかける存在感が、まさに鉄の真骨頂。私が鉄に憧れるのはここなのです。「楽しい」と胸を張って言い切れない後ろめたさが、皆さんにもありませんか?
必殺シリーズの看板キャラクターとしてご存知の「中村主水」(藤田まこと)。その対極に立つキャラクター、「念仏の鉄」。当時、「昼と夜の顔を使い分ける、<羊の皮を被った狼>。サラリーマンの憧れ」として人気を博した主水の、さらに上を行くイメージが、私の中にはありました。

「鉄は世の中のシクミ(原文ママ)など、はじめからどうでもいいと思っているのです。だから世の中に対するありきたりな怒りなどありません」

そうです。鉄には世の中のルールとは別の、自分だけのルールがあり、それに触れた物だけに激しい怒りを表しました。最終回、筋に合わない殺しを行う組織への所属を示唆された時に、彼がつぶやく「外道にだけはなりたくねえよ」というセリフが、彼の心情をはっきりと物語っています。

人間、社会通念に沿って生きなければ社会というものが成立しません。しかし心のどこかに、「法では認められているけど倫理上自分は許せない!」というルール