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カテゴリー「怪獣原体験」の記事

2009年3月24日 (火)

感動は割り引かれない

前回のお話でポスターをひっくり返していたら、こんなモノが出てきまして。

Photo
ご存知、1984年の復活『ゴジラ』と1995年の『ガメラ 大怪獣空中決戦』の「割引券」です。しかも大量発掘
まー期せずして、ここで復活G×Gが実現したわけですが
前売券じゃなく、こうした割引券を10枚単位で持っているところが
オタクの魂百まで的感覚を思い起こさせ、複雑な気持ちだったりして
当時の私は、何を目指していたんでしょうか


でも、こんな紙モノひとつにも、それなりに時の流れは刻まれているもので。
当然ながら、こういう割引券には地元の上映館が印刷されているんですが
ここに印刷されている劇場は今、全て閉館しているんです。
『ガメラ 大怪獣空中決戦』の公開からすでに14年。ここに記された劇場は
すべて単独館ですから、シネコンの台頭によるしわ寄せも大きかったのでしょう。
すべて名古屋の劇場ですが、子ども時代から生粋の名古屋育ちの私には
記された館名一つ一つに、それぞれ思い出があります。
映画を観るという行為が劇場の記憶と重なり合う私にとって
それぞれの劇場の思い出は、そのまま映画の空気にさえ直結するのです。

まー「ネヴュラ」では、これまでもそういう『映画館の思い出』を綴ってきましたから
今日はそういうお話は控えましょう
その代わり、ちょっと思い出してみたいのが、今回の写真『割引券』の事で。

最近は映画鑑賞もすっかり前売券派、また木曜日のレディースデー派に
なっちゃった私ですが、当然の事ながら子供の頃は、
映画に前売券があるなんて思ってもいませんでした。
私が映画という物を初めて意識したのは、多くの方と同じように
通っていた小学校の校門で配られていた『割引券』だったのです。


その記憶は、通学路の途中に貼られていた劇場のポスターなどと
セットになっていましたね。
「うわー今度は、こんなすごい怪獣映画がやるんだ」
「こんな怪獣見たことないけど、強そうだよねえ。」
(また知ったかぶりの友達がひとしきり講釈などするんですが、
ほとんどは勘違いか捏造だったりして

大迫力のポスターと校門で貰った割引券が揃えば
仲間の話題はその新作に一点集中。
しかもポスターの場所は通学路ですから、毎日目に触れるわけで、
そこを通れば必ず話題は「新怪獣」の武器や生態に
特化するばかりという日々でした
当時の子どもが怪獣に触れる場所は、決して部屋やお店ばかりでなく
街頭にも溢れていたんですね。「刷り込み」が著しいのも無理はありません


私の人生初の劇場映画鑑賞が1970年公開の『ガメラ対大魔獣ジャイガー』
であった事は、「ネヴュラ」でもずいぶん昔にお話しました。


扉のむこうの「身長60メートル」

http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/2006/05/60_667c.html

とにかく映画初体験でしたから、劇場の扉の向こうに怪獣が
ホントに居るんじゃないかなんて恐怖に怯えちゃったという
なんとも可愛い原体験だったんですが。
おそらくその時、連れて行ってもらったきっかけも
校門近くで貰った「割引券」だったと思います。


そうだ。今書いていて思い出しました。間違いなく割引券です。
ちなみに「対ジャイガー」の前年、1969年に公開された
『ガメラ対大悪獣ギロン』の時も割引券を手にしたのですが、
なぜかその時は連れて行ってもらえなかった苦い思い出が。
うーん成績が悪かったのか
そのリベンジという事で、「ジャイガー」の割引券を親に見せつけ
「今度こそ!」と直訴したような記憶もあります。
あのモチベーションはどこから湧いてきたのかと。


きっと当時の私の脳内は、90%以上が怪獣で占められていたのでしょう。
残りの10%は、プラモデルと食べる事が半々くらいで。
まー当時の私たちにとって、話題の怪獣映画を観られないという事は
それほどの一大事だった訳ですね。
まさに毎日が怪獣まみれ、プラモの海を泳いでいたような感覚さえあります


まーそれだけ思い入れの強い「割引券」でしたが
それは何となく「新作映画の情報を知る手段」だったような気もしますね。
映画の「名刺」と言うか。今で言うチラシ的役割を担っていた感覚があります。

考えてみれば、子どもが怪獣映画のチラシを手にするなんて事
1960年代から70年代にはほとんどありませんでしたから。
実際、チラシそのものも作られていなかったんじゃないかと思います。
後年の資料本や復刻された宣材にも、チラシというのは見かけませんし。
それだけ情報の少なかった当時、怪獣映画のメインターゲットだった
子どもたちには、雑誌の特集記事に加え、割引券とポスターくらいしか
作品の情報を得る手段が無かったのです。

またその名称の通り、入場料がほんの少し割り引かれる所も
子どもにとっては嬉しい余録でした。
親が同伴ならともかく、子供同士で行く事になれば
入場料をお小遣いでやりくりするのが当然となります。
もうそうなると割引券の有無だけで
鑑賞できるかどうかの明暗は分かれてしまうのです。

なにしろお小遣いに、余裕なんてありませんから。
割引券利用の入場料。そもそもそれだけしか手元には無いわけで。
たとえ10円20円の割引でも、予算編成に大きく響くわけです。
もし割引券が無かったら、その分を欲しかったプラモデルの予算から
切り崩す事となります。ああ悩む


「ガメラ対深海怪獣ジグラ」を観に行けば
狙っていた日東のゼンマイ歩行怪獣「ステゴン」を買うことが出来なくなるし。
(新マンのアレじゃなくて、日東オリジナル怪獣プラモの方ですが
うーんジグラかステゴンか。

割引券が一枚あるかないかで心はさながら人生の命題のように乱れに乱れ
勉強なんか手に付かなくなるのです。

(選択肢が怪獣だけというのも、当時の空気ですが
割引券への思い入れが強くなるのは、そんな理由からかもしれませんね。

大人になった今でも、割引券を見かけると「束ゲット」してしまうのも
当時誰もが思いついた「割引券複数利用でタダ?」という稚拙な作戦が
心の隅に残っているからかもしれません。まー子どもの知恵、尋ねても必ず
モギリのお姉さんに怒られましたから、笑ってお許し下さい


物心つき、前売券を求めるようになってからは、割引券の必要もなくなりましたが
それでもあの「校門前で配られる割引券」によって新作映画の公開
また夏休みや冬休み、春休みの訪れを知る感覚は、忘れられないのでした。

と同時に、「鑑賞の是非に大きく影響する」通知表も。
何しろ当時、怪獣映画の公開時期は、子どもの長期休暇と連動していましたから
どこの家でも、怪獣映画鑑賞の実現は通知表の結果と直結していましたよね。


お小遣いのやりくりと共に、ちょっとした焦りを割引券に感じるのは
そんな記憶も加わっているからかもしれません。
あっ、今気がついちゃった。という事は。
劇場鑑賞した怪獣映画の本数が、当時の成績のパロメーターという事?
しまった!じゃー私の60~70年代・怪獣映画鑑賞本数はヒミツという事に


割引券の写真から、また恥ずかしい過去のお話となってしまいました。
でもそんな事を思い出せるのも、怪獣映画最盛期を経験出来た証でしょうね。
新作冬の時代の今、あの時代が懐かしいです


Photo_2




怪獣映画のポスターの代わりに
桜がチラホラ咲く公園をひと歩き。
今日までの累積歩数、310944歩。
人類メタボーまで、あと61

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2008年3月30日 (日)

乗船許可願います

いよいよ明後日ですね。
「ネヴュラ」読者の方には、この一言でピンと来た方も多いと思います。
古の特撮作品をこよなく愛する拙ブログで「明後日4月1日」と言えば、もうあれしかありません。

朝日ソノラマ亡き後、ホビージャパン社から復刊する「ビジュアルSF世代の雑誌」。そう。『宇宙船』の発売日です。

きっとお仲間を含め様々なブログで、このニュースは大きく採り上げられる事でしょう。
何しろ私のように、1980年代に最も多感な時期を過ごした特撮ファンにとって、この『宇宙船』という言葉は特別な意味を持つものですから。

この誌名を聞いて万感の思いを持つ者の一人として、今日は古いオタクの昔話などをお話してみようと思います。
何しろ創刊時に生まれた方が現在は28歳にもなろうという古い雑誌です。
四半世紀以上前のお話ですから、若い方は決してご無理なさらぬよう

「宇宙船」創刊前夜の1970年代後半。怪獣やヒーローなど、イメージの奔流とも呼べる特撮映像に魅入られた私達特撮ファンは、その喉の渇きにあえいでいました。
当時は「仮面ライダー」に代表された第二次ヒーローブームも沈静化し、ゴジラ映画も「メカゴジラの逆襲」を最後に一時の休止期間を迎えるという、特撮冬の時代を迎えていました。
一日に何本もヒーロー番組が放送され、全国どこかで怪獣と防衛チーム、ヒーローの攻防が繰り広げられていた日々を過ごした私たちは、潮の引くように去ったブームの残照に思いを馳せ、祭りの後の寂しさを覚えていたのです。


私の周りでも、当時やっと普及し出した家庭用ビデオのある家に仲間が集まり、テレビ撮りのSF映画などを固唾を呑んで見守っていたものです。
リアルタイムの新作が望めなかった当時は、そんな経験が何よりも贅沢に思えたものでした。
情報入手の遅れで、平日の正午に突然放送された「宇宙水爆戦」のタイマー録画を忘れ、その後一週間は友人から口をきいてもらえなかった事も懐かしい思い出です。
(本当なんですよ。なにしろ当時はその手の作品のビデオソフトなんて国内販売はされていなくて、字幕無し、目が飛び出るほど高い海外ソフトが唯一だったんですから)


ちなみに当時、東宝ビデオから「東宝名作選集」として一般映画と同時に発売された『ゴジラ』(1954年版)のビデオソフトは、なんと5万円もしました。
VHSソフトが5万円ですよ!しかも一部カット版で。

無料で放送される地上波の映画がいかに貴重だったかがお分かりと思います。そんな時代でした。

枯渇する特撮作品、ヒーロー番組の息吹再び。私達ファンはかつての名作を研究・分析し、クリエイターの思いやスピリットを発掘する作業に傾倒しました。
丁度この頃、十代後半の間で吹き荒れた「機動戦士ガンダム」ブーム(ガンプラブームはもう少し後ですが、ファン間では既に本放送時に話題騒然、私も第2話以降、布教活動に回っていました)も追い風となり、アニメーション作品の復権と並んで特撮作品にも再びスポットが当たったのです。


後に「第三次特撮ブーム」と呼ばれるこの時期に、「ソノシート」などで昔からアニメ・特撮作品の製作ルートと太いパイプを持つ朝日ソノラマが気勢を吐いたのは、むしろ時代の要求と言えたのかもしれません。

Photo1979年6月。当時、アニメ専門誌「OUT」「アニメック」などで小さく採り上げられる特撮作品の記事で乾きを癒していた私は(こうやって書くと本当にオタクですね)地元の小さな書店である本を見つけました。
少し前から「月刊 マンガ少年」などを購読していた私は、朝日ソノラマから「その手」の匂いを感じてはいましたがこの本を手にした時の驚きは忘れられません。
後年、かの『宇宙船』の前身としてファンの語り草となる伝説の一冊、『月刊マンガ少年別冊 すばらしき特撮映像の世界』です。
私はこの一冊を、リアルタイムで入手したのでした。


なにしろ『特撮』という単語をタイトルにした書籍など当時は皆無。今でこそその単語は一般の方々にも知られていますが、70年代後半の時期はファン間での一種の隠語、最近の例で言えば「SFX」「VFX」などの単語の流行り始めのような雰囲気だったのです。その『特撮』という単語を堂々と、しかもタイトルに。
もうその気概だけで私の目は
「クロックアップ」以上の早さでレジへ向かったのは言うまでもありません

中身もタイトルに恥じない、素晴らしいものでした。
当時、ファンタスティックコレクションなどで特撮作品研究本の口火を切ったソノラマだけあって、その内容も、単なる作品レビューなどに留まらない「癖のある」記事ばかり。

確かにかつての作品の名場面など、いわゆる客寄せ的なカラー記事もあるにはあるのですが、それよりも編集陣が目指したものはむしろ、「かつての作品をどう思ったのか」「なぜ我々は魅了されたのか」という「魅入られた立場からの主張」だったのではないかと思います。
写真は「怪獣マリンコング」(これを共通の話題とするのも無理があるかも)のシナリオ採録ですが、これだって「テレビ怪獣演出の萌芽」的な研究姿勢から出てきたものではないかと思うのです。


ほとんどの作品がDVD化され、苦労なくそれらを再見出来てしまう現在、この試みは非常に徒労のようにも見えます。
しかし
クリエイターにとって作品の設計図であるシナリオを読んでみる事、このシナリオ表現をどう映像化したのかを考えてみる事は非常に重要。
クリエイターの辿った道を追体験する事で「創造」の「想像」を喚起させるような意味合いを感じるのです。

よくある「セリフの言い回しが」「このシーンは予算の関係で」的な重箱隅突きではない、「伏線」「人物配置」「見せ場の作り方」などなど、「面白い作品はどう生まれるのか」という部分への探求姿勢。
当時の私は、この姿勢に非常に共感を覚えました。


実際この方式は、今も時々購読する研究誌「シナリオ」「ドラマ」と同じですもんね。これを特撮作品でやってしまう所に、非常な新しさを感じたのです。
同時期に発売された『円谷英二の映像世界』(実業之日本社刊)で実相寺昭雄監督が行った、「ゴジラ」(1954年版)に於ける【ゴジラ上陸シーン、本編と特撮カットのカット割り採録】に通じるものがあるような気がします。


さらに私は、この本で「作品へのアプローチの仕方」「視点」というものを学んだような気がします。
「そうか。ウルトラマンは夢をくれたんだ。」という視点。「良かった、悪かった」じゃなくて、「どう良かったのか」「どこに魅力を感じたのか」という視点を、その一文は私に与えてくれたのでした。


まーおバカな私ですからそういう一言にも感動しちゃったんですが、実際のところこの一冊は、そこかしこに「同じ作品でも、切り口によって様々な顔を見せる」「切り口の見つけ方にライターの個性が出る」という事を教えてくれたような気がします。
要は、それまで映画業界で連綿と行われてきた「映画評論」の手法を特撮作品に導入したという事なんですね。
子供向けと言われてきたそれらの作品には、これまでその視点は無かったんです。特撮評論業界に於ける双葉十三郎氏や植草甚一氏の発掘。
この本が果たした役割はそんな所にあるのでしょう。

さて。前段が随分と長くなっちゃいましたが、この『すばらしき特撮映像』のヒットが『宇宙船』創刊の原動力となった事は、後年様々な文献でも語られていますね。
事実、翌年の1980年1月に発売された創刊号には、その編集方針が色濃く移植されていました。
この創刊号、私はまたしてもリアルタイムで入手しているんですが、この表紙を書店で見かけた時、正直「熱さ」を禁じえませんでした。

描かれているロボットのフォルム。イラストのタッチ。色使い。
このイラストは今をときめく開田裕治氏によるものですが、当時名も売れていなかったであろう開田氏はまさに一怪獣ファン。さらに思い切り趣味に走ったその構成も気持ちよく、あらゆる意味で、この本はライターや編集者も含め、私たちの一つ上の怪獣世代による総力戦だった訳です。


で、これも後年、編集者やライターの間で語られる事ですが、結局この創刊号って「商業誌的ファンジン」のスタンスですよね。
確かに未開拓分野ゆえノウハウもなく、読者との間合いも掴めない創刊号ですから、掲載記事も試行錯誤、手探り状態のまま進む訳です。
そこでソノラマは大博打を打ったと。


記事の蓄積が無い分、それまでファンジンなど個人で書かれてきた特撮作品への熱い思いをそのまま載せてしまうという英断。
あまつさえ、それらファンジン代表者の座談会まで企画してしまう。この試みは、当時のアニメ誌にもなかったんじゃないかと思うんですが。

(「OUT」誌での「ガンダムSF是非討論」などはちょっとそれっぽかったですが、なにしろ相手がプロの高千穂遥じゃ・・・)


つまりこの「ファンジン全面展開」は「深夜番組がゴールデン枠に進出した」ような物なんですね
それら識者の息吹に大変な刺激を受けました。
普段、自分の仲間内で語り合っているような私見、解析、思いがどんどん飛び出すわけですから。
「そうそう。そうなのよねー。やっぱりみんな、あの場面ではそう思ってたんだ。」
そこで語られた作品への共通認識、同じ思いに、感慨深かった方も多かったのでは?

さらに参加者全員から当たり前のように語られる意見、さらに独自の視点で展開する作品論に、私は目からウロコが落ちっぱなし。

今で言う「一人ロフト・プラスワン状態」


実際「ネヴュラ」での私の語り口や視点は、この『宇宙船』から学んだものが多いんですよ。まーあの才気溢れる評論の数々には、私など足元も及びませんが

実はこれが、私の感じる『宇宙船』の真骨頂だったんです。
しかし、創刊初期にあったこの「意見を交わす」というスタンスも、号を重ねるごとに段々薄まっていきましたね。

それは仕方がない事なのかもしれません。
丁度この頃から爆発的に普及したホームビデオ、さらに需要によって生まれた低価格のレンタルビデオ店。『宇宙船』の歴史は、日本の映像ソフト普及の歴史でもあるからです。

その津波のようなソフトリリースに追われ、ジャンル作品を幅広く扱う誌面は自然と新作ソフト情報に割かれ、やがてはビデオ・フィギュアカタログかと揶揄される程となってしまいました。


「あの、思いを語り合う場を提供する気骨はどこに?」
そんな思いを抱いてしまうのは、決して私だけではなかったと思います。

「『宇宙船』の役割は終わった。」特撮作品、キャラクターフィギュアなどに特化した雑誌が次々と創刊される中、そんな声も多く聞かれました。
一応、全号はコンプリートしたものの、今世紀に入ってからの刊行時は、私も「読む」と言うより「買ってすぐ本棚行き」なんて事が多かったような気がします。
誌面に魅力を感じなくなっていたんですね。
別にカタログなんて見たくないと。


2005年7月号での休刊時。「惜しまれつつ」と世間では言われますが、果たして実際はどうだったんでしょうか?
時代の要求とはいえ急速に進んだカタログ化の末、ネット情報のフットワークに足をすくわれてしまった。
こんなイメージが、私にはどうしても付きまとってしまうのです。
ただ、ネット普及以前に宇宙船が果たした情報発信の役割、これも否定できません。新作ソフトリリースの報に小躍りした事だって十回や二十回じゃないですから(多いですね


私にとって『宇宙船』は、時代という磁気嵐に飲み込まれた果敢な映像宇宙の開拓者なのかもしれません。
ただ私は思います。
ドック入りし、再度の出航に挑む意義はどこにあるんでしょうか?


ネット社会の一般化によって、今や出版業界は非常に厳しい状況と言われます。情報フットワークでネットに負けたソノラマ版『宇宙船』に対し、HJ版『宇宙船』にはどんな武器が搭載されているのか。私にはそこが非常に気になります。
その創刊時、大きな武器となっていた「意見を交わす場」というスタンスも、今はネットが担っています。正直、このブログのように、誰もが自分で雑誌を刊行しているような状況が当たり前。いや、そのレスポンスの速さ、動画までアップできる環境は、むしろ放送局と言っても良いでしょう。
もうあの頃の技は通じないような気がします。


この現況に雑誌という媒体で勝負を挑むとすれば、そこにはかなり周到な、また思い切った戦略が必要な筈なのです。
その『秘密兵器』とは何か?編集部の勝算は?

また情報誌になっちゃうのかなー。新作ソフトのカタログなのかなー。
創刊時からのお付き合いだからこそ、今回の再出航は気になる事ばかりです。


でも、私はちょっと期待もしています。
80年、送り手と読者の関係を変えた『宇宙船』の名を冠するからには、きっと凄い、掟破りの新機軸を用意しているであろう事を。

そんな期待を胸に、私は再度『宇宙船』に乗船しようと思います。
クルーは新しくなっていても、きっとフロンティアスピリットだけは受け継がれている。そう信じたいですから。

明後日。興奮と共に誌面記事をアップできる事を楽しみにしています

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2007年11月 7日 (水)

電光石火作戦

吹きすさぶ風に揺れる駄菓子屋さんの小さな暖簾は、さながら西部劇の酒場のドアのよう。エンリオ・モリコーネのウエスタンBGMが似合いそうな空気の中、彼は一人、一世一代の賭けに臨みます・・・

前回のラスト、超人バロム1カードのラッキーカードを携えて駄菓子屋のおばさんを出し抜くべく勝負の舞台に立った小学生の従弟。彼は果たしておばさんに一矢報いる事が出来たのでしょうか?
今日の記事は前回記事の続きです。初見の方は11月5日の記事を先にご覧下されば、お話の流れがよりおわかり頂けます。

この日、駄菓子屋に向かったのは従弟一人でした。私は同行しなかったので、ここから先は後日従弟本人から聞いたお話です。その点はご了承下さい。

Photo細心の注意を払い幾多の練習を経て作り上げた作戦を、彼は実行に移しました。
いつものように店先に並んだバロム1カードの袋を一つ持つと、手馴れた手つきでおばさんにお金を渡し左手にカード袋を持つ彼。その時彼の右手の中には件のラッキーカードが。彼はおばさんの目に止まるようカード袋を持ち直し、目の前でおもむろに、そして確実に袋の口を破いていったのです。
袋はうまく破れました。おばさんは店内のお菓子やおもちゃのかたづけに気を取られ、さほど彼の手元を気にかけていません。

さあ、ここからが練習の成果。彼は袋を覗き込むフリをしながら左手に右手を重ね、右手のラッキーカードを袋に滑り込ませる事に成功しました。
袋の中では買ったカードとラッキーカードが重なった状態です。
さあ、そしてここからが最大の難関。何度も練習した技の見せ所。


袋からゆっくりとカードを引き出す彼。
袋から出てきたのはさっき忍び込ませたラッキーカード。
「カードのすり替え」セカンドディール成功!まさに電光石火の早業!


「あっ、ラッキーカードだ!」彼は驚くフリをして(きっとワザとらしかったんでしょうけど(笑)おばさんにカードを差し出しました。
「えーっ?」顔色一つ変えずにカードを受け取るおばさん。
沈黙の時間が流れます。
心臓の鼓動音が聞こえそうなほどの緊張。


「カイジ」風に言えば「彼は待った・・・。敵、自ら、泥土に足を踏み入れるのを。
顔を伏して待った・・・」って所でしょうか。
(クイズミリオネア・解答待ちシーンのBGMをご想像下さい(笑)

ところが、従弟からこの先を聞いた私は、意外な展開に驚きました。
なんと、おばさんの口から出た言葉は。


「あー、このラッキーカード、古いヤツだね。」

古い?古いってどういう事?予想もしなかった展開に彼は大パニック。
「このラッキーカード、変わったんだよ。」
目の焦点も定まらない彼の前に差し出されたのは、おばさん言うところの「新ラッキーカード」でした。
けげんな顔で覗き込む彼。

そのカードは、確かに彼が持っていたカードとはいくらかデザインが違っていました。文面の内容はほぼ同じなのですが、「ラッキーカード」の文字を取り囲む円の形や文字の配列に大きな差があったようです。

「取替え期限切れのカードが混ざってたんだねえ。おばさんは知らないよ。」
確かにその場で袋から取り出した(と見せかけた)カードですから、ここで「期限前に出たカードだからいいじゃない」とは反論できない。
彼は泣く泣く、カードを持って退散したのでした。

セカンドディールには成功した彼でしたが、その後の展開はいかに優れたカード・テクニックでも解決できなかったようです(笑)。
「あの時のショックは忘れられないよー。きっとあのカード、まだ家のどっかにしまいこんであるよ。捨てられないもん。」よっぽどショックだったのでしょう。その時の様子を彼は今でも話してくれる程ですから(笑)。


Photo_2今こんな事が起こったら子供はすぐさま親に告げ口、お店は詐欺行為でつるし上げられちゃうなんて大事になっちゃうんでしょうが、当時の駄菓子屋さんの雰囲気ってこんな感じでしたよね。
このカードの一件はもとより、例えばむき出しの状態で売っているドーナツを持って「これちょうだい」とおばさんに渡した瞬間、おばさんがうまく受け取れなくてポロッとお店の床に落ちちゃったり。そんな時、おばさんに涼しい顔で「私は知らないよ」なんてうそぶかれた事も。
もっと凄いのもあります。、例の「5円引き怪獣ブロマイド」を目当てに行った私たち。ところがたまたまお店では品切れで、なんとおばさんは店の奥の住居部分から「自分の子供に与えたブロマイド」を持ち出してきたのです。
それを平気な顔で売りつけられそうになった事もありました。
(さすがに断りましたが。だってむき出しなんですから。あれは袋から出す瞬間が楽しいのに。しかも差し出されたプロマイドはウルトラセブン怪獣「ガブラ」のアップ(爆笑)。

頂いたコメントにも書かれていましたが、この「駄菓子屋の攻防戦」が当時の空気なんですよね。この雰囲気は「ALWAYS 三丁目の夕日」一作目、駄菓子屋のシーン(「スカばっか」コールが素晴らしい)で再現されています。
地方は違えど昭和30年代から40年代あたり、コンビニ誕生以前までは、駄菓子屋さんは「大人と子供のかけ引きの場」でもあった訳です。

ところで。ちょっとお話は戻りますが、先ほどの「ラッキーカードのデザイン」の一件、一体なぜそんな事が起こったのでしょうか?
この事実、従弟の名誉の為にも(笑)今改めて考えてみると、当時の「バロム1カード」流通の裏事情がやや推測出来るような気もするのです。まあ推論に過ぎませんがこれも「ネヴュラ」向きの話題、大人の遊びとしてお聞き下さい。

Photo_6 ひょっとして例のバロム1カード、駄菓子屋さんのおばさんが言った言葉に大きな悪気は無かったんじゃないかと。
このバロム1スナックの写真、スナックの左下に映っているカード袋に「駄菓子屋でカードだけで売られていた時の袋?」という説明文がついていますよね。この「?」が曲者なんですよ。要はスナックに添付されていたカードと、駄菓子屋さんに流通していた頃のカードって、当時、その二つがはっきり選別されていなかったんじゃないかと推測できるのです。

ひょっとしてスナック添付のカードが駄菓子屋ルートに流れ、単体で売られていた可能性もあると。例えばブルーのカード袋のまま。当時そういう混乱から、スナック添付のカードについてはメーカー・問屋さん・小売店間に「このカードは当たりがあって引き換え景品が存在する」という情報が行き渡らなかったのかもしれません。
ただそうなると、袋に印刷された「その場でアルバムカレンダーがもらえます」という記述が疑問ですね。駄菓子屋のおばさんはそれを不思議に思わなかったのか無視したのか。まー当時、そういう記述は結構いい加減でしたしね。もらえるはずの景品がお店の都合で違う品物になっていたり(笑)。


Photo_7 あるいはスナック添付のカードを作りすぎた為、駄菓子屋ルートでも販売するけど、景品については間に合わないからカードとセットに出来なかった事情も考えられますね。
だから駄菓子屋のおばさんは従弟のラッキーカードの存在を知らなかった、もしくは知っていても景品がセットされていなかったから引き換えようがなかったのかもしれません。
従弟が引き当てたラッキーカードは、ひょっとしてスナック添付のカードだったかもしれないのです。彼も運の悪い時期にカードを当てたものです(笑)。


で、メーカーの混乱もおさまり生産ラインが整備されて、(中身は同じでも)駄菓子屋売り専用のカードがパッケージされたもの、それが「?」マークのついた黒いカード袋だったんじゃないかと。同時に景品引き換えシステムも軌道に乗り、駄菓子屋さんでもやっと引き換えが可能になった時、ラッキーカードのデザインも一新したのではないでしょうか。
そう考えればなんとなく辻褄が合いそうな気がします。

おばさんもこの時、ラッキーカードの存在を知ったのでしょう。同じバロム1カードでも、ある時期から景品が添付されるようになって、子供への説明に困ったと。「古いカード」というセリフも、おばさんの苦しい言い逃れだったのかもしれませんね。

Photo_4そんな風に末端の小売店にまで混乱を与えてしまうのも、当時のメーカーの大らかさゆえでしょう。考えてみれば、こういう混乱はラッキーカードにちゃんと景品の引き換え期限を明記しておけば避けられるんですよね。おぼろげながらバロム1カードには引き換え期限が印刷されていなかったような記憶があります。従弟の混乱もきっとここから来たと。(識者の方、もし違っていたらごめんなさい。私がすべて悪いんです。)
写真は仮面ライダースナックのラッキーカードですが、これにはちゃんと締切日が明記されていますよね。単体で駄菓子屋さんに流通しなかったカードであってもこういう風にセキュリティーがきちんとなされている。
カードの精度も含め、ライダーカードが今もって研究者の対象になっている理由が分かるような気もします。

なーんて。カードの実物を一枚も持っていない私など、決して偉そうな事は言えないんですが(笑)。

Photo_5駄菓子屋さんの攻防について結構辛辣な事もお話しましたが、駄菓子屋さんのおばさんって決して前述のような怖い人ばっかりでもなかったような気もします。
夕方、お店を覗くと、「宿題は済ませたの?」「もうすぐ夕ごはんだから、あんまりお菓子食べちゃいけないよ」なんて、まるで母親のように私たちの事を心配してくれたおばあちゃん達も多く居ました。
私がお店を覗くのは、そのおばあちゃんとの会話を(いや、話しかけられるのを、ですね。)楽しみにしていたからという事も間違いないのです。


おそらく今、こういう家族のような会話が成立するお店は、都市部より地方の方が多いのでしょうね。私も番組の撮影などで時々地方都市に出かけると、町の小さなタバコ屋さんでこんな会話を楽しめる事があります。
古い人間なのか、そういう出来事がある度に「今度のお仕事は得しちゃったな」なんて思える事も多いですね。あの駄菓子屋さんのやりとりや今回のようなエピソードが何故か記憶の中で輝いているのは、その根底に人間同士のコミュニケーションがあったからなのかもしれません。

頂いたコメントの中にありました。例え駄菓子屋さんのおばさんが怖くても。
「でも毎日通ってたんだよなぁ~。」

また行きたくなるお店。子供時代には数多くあったそんな貴重な場所は年を経るとともに少なくなっていきます。大事にしたいものですね。
たとえ店主との間に「電光石火作戦」のかけ引きがあっても(笑)。

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2007年11月 5日 (月)

秘技・セカンドディール

久しぶりに見ました。
小学生の買い食い(笑)。
今日も覗いた、行きつけの大型駄菓子ショップで。

片手にかじりかけの板チョコを持ったやんちゃそうなボクちゃんが、余った手でガムをレジに差し出す瞬間。
「はい。10円ね。」優しそうにお金を受け取るお店のおばちゃん。
こんな光景を見たのは何年ぶりでしょうか。
とにかく、彼の片手の板チョコがポイント高い。チョコを食べながらガムを買う。
もう子供にとっては天にも昇る贅沢、ドンペリとキャビア並みの豪遊。
(盛り上げすぎですね(笑)。

そんな光景に懐かしい自分の幼少時代を思い出していると、つい私も衝動買いしたくなっちゃって。手を出しちゃいました。
Photoご存知、マルカワのフーセンガム。今回は復刻パッケージ6個パックという限定品です。
箱には「みなさまに愛されて60周年」なんて書かれていますから、このマルカワガムの発売は1947年という事になりますねー。
そりゃーとんま天狗やジャガーの眼(表記はガムに従いました)のイラストがあっても不思議じゃないと。このパックの中で一番新しいキャラクターがひょっこりひょうたん島というのも、考えれば恐ろしいお話ですよね。

こんなパックが58円で手に入るとは。今度はケース買いを画策しようかと(笑)。

Photo_2歳だけは重ねている私も、さすがに「ジャガーの眼」の放送には間に合わなかった世代ですから、これらのパッケージを懐かしいとは思えないのですが、中身のフーセンガムは子供の頃からよく食べていました。
私が子供の頃は、ガムと言えば母親に買ってもらうロッテなどメジャーなメーカーから、駄菓子屋御用達の「トップサン」「コリス」「フルタ」なんていう二流どころまで様々でしたね。吹いて遊べるコリスのフエガムや、粉だらけで口の中でポキッと折れちゃうフルタの甘ーい板ガムなんかは、今もその食感までしっかり思い出せます。
このマルカワのフーセンガムも、一箱に四粒も入っているというお徳感から、私の毎日の友でした。
柔らかい食感とジューシーな味わいが好みにピッタリだったのです。
でも年とともに一粒ずつ食べる事の無意味さを感じるようになると(笑)、その興味はスマートなネーミングの「グリーンガム」や「クールミントガム」へと移っていったような気もします。
「マルカワ卒業、ロッテ入学」ってところでしょうか(笑)。

でも子供って、こういう風にパッケージにキャラクターがついたお菓子が好きですよねー。中身は同じ商品なのに、「ジャガーの眼」と書いてあるだけで特別な味に思えちゃいますから。
(「ジャガー」に拘りすぎですね。別に「ひょうたん島」でもいいんですが(笑)。
マーチャンダイジングが子供番組の大きな利益として制作側に認識されるようになった1960年代後半。私などが子供の頃は、まさにこういうキャラクター菓子の黎明期でした。
この「本放送時に食べたキャラクター菓子」の記憶は、私たち、ウルトラやライダーのリアルタイム世代のみに与えられた素晴らしい宝物なのです。

考えてみれば、いかに何でも手に入るヤフオクだって、当時発売のおもちゃは出品されても当時の「お菓子」の現物までは出品不可能ですもんね。当たり前のお話ですが。
それくらい、私たちが本放送当時に触れた「時代の空気」は再現不可という事なのでしょう。公開が始まった「続ALWAYS」だって叶わないすばらしい記憶が、今も決して消えることなく脳裏に焼きついているのです。

Photo_3例えば私などは、「ウルトラマン」のお菓子と言えばこの「シスコ」が原体験。今でもシスコと言えばウルトラマンを思い出すほど、頻繁に「ウルトラお菓子」を買っていました。
プラモデルやソフビなどのおもちゃほど高価ではないこれらお菓子は、まさに子供たちの日常に密着したキャラクターグッズの代表格。

なにしろ夕方、母親にくっついてスーパーへ行けば、比較的おねだり成功頻度の高い(笑)アイテムでしたもんね。
ガムの包み紙に印刷された転写シールやイラスト図鑑、怪獣クイズなども、夕食までの時間を楽しむ絶好のおまけでしたよね。この頃はどこの家でもタンスや机に怪獣の転写シールが所狭しと貼られ、眉をひそめる母親と子供たちとの攻防戦が繰り広げられていました。メーカーも罪なおまけを発明してくれたものです(笑)。

キャラクターという物が今ほど普遍的な人気を持っていなかった当時。
これらキャラクター菓子は、ある意味放送期間中のみの限定商品の様相を呈していました。私たちがそれらのお菓子に特別な記憶を持つのは、それだけ販売期間が短かった理由もあると思います。
なにしろ新番組が始まっちゃえば、昔の番組のお菓子などはたちまち店頭から姿を消してしまう状況でしたから。かのウルトラマンでさえプラモやソフビはともかく後番組の「キャプテンウルトラ」の放送開始と共にシスコのラインナップは「キャプウル」一色、「マン」の商品は嘘のように無くなってしまったのです。
今のように、新作の放送が無くても常にお菓子が発売される状況など考えられなかった訳ですね。


Photo_9 たとえばこの、森永「宇宙少年ソラン」ガム。これにも忘れられない思い出があります。もう年齢さえ思い出せないほどの昔、私は風邪で熱を出しまして、当時父親におぶってもらってお医者さんまで行った記憶があるのです。診察が終わった帰り道。なぜか父親が持たせてくれたのがこの「ソランガム」でした。きっとどこかで買って来てくれたのでしょう。風邪の熱の為、味覚はまったくありませんでしたが、このパッケージだけははっきり憶えています。ヒーローの存在は、体や心が弱った時ほど記憶の奥底に響くものなんですね。
ひょっとすると私が今コタを飼っている事だって、このソランの相棒、宇宙リスのチャッピーの影響が無いとは限らないのです(笑)。

Photo_5お菓子そのものの魅力以外で私たちの世代に一大ムーブメントを起こしたのが、ご存知こちら「カルビー仮面ライダースナック」。これは本当に買いまくりました。
おまけのライダーカードが現在のトレーディングカードの先駆けであるとか、本放送とリンクした、ストーリーや怪人の露出ペースの高度な計算とか、後年色々な研究がなされていますが、当時このスナック(いや、カードですね)のまさに中心ターゲットだった私達子供の感覚からすると、これはそんな大人の解析以前に「仮面ライダーという番組を体感する上で最も身近なアイテム」という色合いがもっとも強かったような気がします。


当時を知る方々ならよくご存知の「スナック投棄事件」や「アルパムゲットはカルビー宇都宮営業所の方が早くて確実」の噂などなど、まさに子供たちが主役となった様々な出来事、風説などが飛び交ったブームでした。
個人的にはこのちょっと甘辛いスナック、結構好きだったんですよ。ですから当時はかなり無理して食べていました。でも結局カード欲しさに毎日買っていると、そのストックに食欲が追いつかなくなってくるんですよね。
私の学校でも問題になりましたよ。お菓子屋さんの前の側溝に大量のライダースナックが捨てられていた出来事とか。
(ro_okuさん、憶えてますよね?)


そんなムーブメントが飛び火し、「ライダー商法」とでも言うべきスナック・カードのコンビネーションは、第二次怪獣ブーム時のあらゆるヒーロー・スナックに波及しましたね。
前置きが長くなりましたが、今日の本題はここから始まります。
ちょっとした謎もありますから、覚悟してお聞き下さい(笑)。


第二次怪獣ブームもたけなわ、ライダー人気も最高潮に達した1972年。東映が制作したヒーロードラマ「超人バロム1」。
読者の皆さん説明する必要もないでしょうが、この「バロム1」、東映の等身大ヒーローとしてはライダーの後続番組的な流れを持っていたんですね。
ライダーの石森章太郎氏に続き、さいとうたかお氏を原作に招くなど(両氏とも当時表記)、このバロム1で変身ブームの勢いをさらに加速しようとした東映の意欲が窺える番組でした。
で、このバロム1、お菓子の展開もライダーに習ったきらいがありまして。
カードとのカップリングはそのままに、和泉せんべい本舗から「超人バロム1スナック」としてライダースナックそっくりのお菓子が発売されたのでした。


Photo_6当時、ライダースナックとこのお菓子を食べ比べていた私。どちらかと言えば少し塩気が強く、和風の味付けがされた「バロム1スナック」の方が好みだったのですが、なにしろ番組の魅力は「ライダー」の方がはるかに上と感じてしまい、そうそうに浮気を解消。結局はバロム1カードも中途半端なラインナップに終わる結果になりました。

実は、私がこちらのスナックを見限った理由は、まだ他にもあったのです。

Photo_7こちらの写真をご覧下さい。
これは当時駄菓子屋さんで売られていた丸昌製、超人バロム1のミニプロカード。手元に残っていたデッドストックです。これ、たぶんこんな形で9枚つづりのシート売りがされていたと記憶しているんですが、よーくご覧頂くと一枚一枚の切り離し用ミシン線と、カードごとの印刷部分が少しずれているんですよね。



Photo_8当時の印刷、裁断工程の技術はこんなものだったのかもしれませんが、私はこれが許せなくて。と言うのも、件の「バロム1スナックカード」もこの丸昌製同様、裁断線と印刷線がずれているものが非常に多かったからなのです。
写真のカードはそのスナックカードの現物とは別物ですが、まースナックカードはこのずれたシートを裁断した物とお考え頂ければ間違いないと思います。
これは当時のカルビー製菓と和泉せんべいの外注管理能力の差でしょうね。だってライダーカードにはこんな裁断のずれはめったに無かったですから。そんなわけで、子供心に企業力の差を感じてしまった私は(笑)そうそうにバロム1スナックから撤退してしまったのでした。

ところがここに、バロム1カードを極めるべく情熱を燃やす人物が一人。
何を隠そう、私の二歳下の従弟でした(笑)。

何故かバロム1の勇姿に心を奪われた彼は放課後の全ての時間をカード収集のみに捧げ(大げさですね(笑)、そのコレクションもみるみる増えていきました。
さて。彼もスナックを買い続けてカードを集めたのでしょうか?
実は、懸命な彼は別の手段でカードを手に入れていたのです。


先ほどごらん頂いた「バロム1スナック」のパッケージ写真をもう一度ご覧下さい。よく見るとパッケージの下に「後にカードだけ駄菓子屋でも販売」という説明文がありますよね。
つまりこのスナック、カードだけ単体で売っていた時期があったのです。
従弟はこの事実を見逃しませんでした。近くの駄菓子屋さんで目ざとくこのカードを見つけ、せっせと買い集めた訳です。

作戦成功、しばらくはこの状態は順調に進み、彼はカードのコンプリートまであと一歩まで迫りました。さすが私の従弟、オタクの血も濃かったようです(笑)。
ところがコンプリート手前で、彼は意外な壁に当たりました。
「そう言えばこのバロム1カード、アルバムってないんだっけ?」


そうです。ライダーカードならあのコレクターの勲章、ラッキーカードが無くては手に入らない「アルバム」があります。しかしこのバロム1スナック、アルバムの存在、そして入手方法は?
さあ困りました。ひょっとしてラッキーカードがあるのか?今までそんなカードは見たことがありません。ラッキーカードを出す事が彼の新たな目的に加わったのでした。
そんなある日。望みはついに叶えられました。裏に「ラッキーカード」と大きく印刷されたカードを彼は引き当てたのです。

「やった!」喜びに胸を躍らせカードの説明を読んだ彼。
ところがそこに書かれていたのは意外な内容でした。
ライダーカードには書かれている筈の「このカードをどこどこへ送り・・・」等の説明がまったく無いのです。当然、送り先の住所も無い。


「じゃあこのカード、どこへ持っていけばいいの?」不安で一杯になった彼は、とりあえずカードを買ったお店へ向かいました。ところが。
カードを見せる彼に、お店のおばさんは怪訝な顔でこう言ったのです。

「わからないねー。仕入先からも何も聞いてないし。
だいたいこれ、本当にうちで買ったカード?見たことないよこんなの。」

さあ彼はパニック。カードだけで本体のスナックはありませんから、製造元へ問い合わせる事もできません。おばさんにさえ疑われてはもう手はない。
でもここで負けてはオタクがすたる。
考え抜いた彼は、必殺のウルトラプレーを編み出しました。


「セカンドディール」ってご存知でしょうか?カードマジックなどで使われるテクニックの一つで、重ねたトランプの一番上のカードを開いたと見せかけて二枚目のカードを開き、一番上を開いたように見せかける高等技術です。
もうおわかりでしょう。彼は手にそっとラッキーカードを忍ばせ、そのお店で別のカードを買って、袋を開いた瞬間に買ったカードとラッキーカードをすり替えようとしたのです。
それが「セカンドディール」。目の前で開いたカードがラッキーカードなら、お店のおばさんも信じないわけにはいかないでしょう。


子供にとってこういう事っておそろしく緊張を誘いますよね。大人相手の大勝負という感覚があります。でもラッキーカードは間違いなくそのお店で買ったものだし、おばさんが知らないのは無責任以外の何物でもないですから。ある意味お店への制裁でもあったのでしょう。
開封済みのカード袋を使った練習。ラッキーカードとのすり替え。わざとらしくなく驚く言い回し。小学生がその持てる技術を尽くして百戦錬磨の大人を出し抜こうとしているのです。
周到なその計画はまるで「カイジ」の限定ジャンケンのよう(笑)。


さて。ここで読者の皆さんに、ちょっとしたお願いです。
この続き、どうなったと思いますか?ちょっと考えてみて下さい。

提示されるデータは今日の記事が全てです。
これはすべて事実。子供時代に現実に起こった事ですしその結末も判明していますから、別にこんな事をする必要もないのですが、ここまでお話して、ちょっと結末を謎にしてみたくなりました。
まー大した結末でもありません。ガッカリされるかも。。
もし皆さんがこの従弟本人だったら。
駄菓子屋のおばさんの気持ちになってみるのもいいですね。


昔の事実を元にした、頭の体操とでも思って下さい。
続きは次回お話しましょう。ちょっとした空き時間にできる創作活動。
これが「ストーリーを生み出す」という事なんですよね(笑)。

2007年7月31日 (火)

今日もチャンピオン気分

「ネヴュラ」をご覧の皆さんにひとつお尋ねします。
貴方は「まんが派」ですか?
それとも「チャンピオン派」ですか?


この質問の意味がお分かりの方は、きっと1969年から1978年にかけ、もっとも多感な子供時代を過ごされた方でしょう。
もう夏も本番。全国的にはまだ梅雨明けしていませんが、毎日の酷暑はもう真夏以外の何物でもないですね。夏休みが始まった子供達が毎日元気に羽根を伸ばしている今、私たち「大きなおともだち」も、遠い昔、子供の頃の夏の思い出を紐解いてみたくなるものです。

戦後のベビーブームによって子供達が全国に溢れかえった60年代から70年代。あらゆる業界が子供をターゲットに商戦を展開していました。邦画界も例外ではなく、子供達を顧客の大きな鉱脈と設定、学校が長期休暇となる春休み、夏休み、冬休みなどを狙って子供用に特別興行を企画、大きな収益を上げていたのです。現在でもこの時期、劇場ではいわゆる「ファミリー向け」と称する子供用作品が公開されていますが当時の勢いは現在の比ではなく、もう「親にとっては迷惑この上ない(笑)」番組編成で子供達の興味を煽っていたのです。少子化が問題となっている現在、あの時代の空気は再現する術もないのでしょうね。少し寂しい気もします。

丁度この時代、まさにターゲットの中心に居たであろう(笑)私も当時の邦画界の思惑に乗せられ、お休み直前、終業式近くにテレビで頻繁に流される予告篇、「近日公開」の文字に心を躍らせたものです。

さて。ところで冒頭の質問ですが、この質問の「まんが派」「チャンピオン派」とは、当時子供邦画界(そう呼びたくなる気持ちもお察し頂けるでしょうが)を二分した東映、東宝の長期休暇用特別興行「東映まんがまつり」「東宝チャンピオンまつり」の事。
まーご説明するまでもありませんね。

私など、夏休みに限らず「○休み」とくればもうこれを観に行きたくて行きたくて。まさにお休み時期の一大イベント。友人たちと先を争って「もう行った」「まだ行ってない」とその「戦歴」を自慢しあう事がお休み時期の風物詩ともなっていました。

ご存知の方には不要でしょうが一応ご説明しておきましょう。この二つの「まつり」、大まかに言えば、劇場公開用に製作された新作映画と当時テレビで人気を博していた子供番組を数本カップリングした作品編成だったのですが、その社風の違いから東映と東宝では作品の色合いに大きな違いがありました。

やはり「わんぱく王子の大蛇退治」(1963年)「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968年)など、昔からアニメーションのノウハウを蓄積しテレビアニメ界でも大きなシェアを占めていた東映は、劇場用新作も自社製作のヒーロードラマやアニメーションを中心に、当時のアイドルを使った30分程度の中篇を織り交ぜていました。(「ウルトラセブン」「スベクトルマン」などがラインナップされた時期もありますが、これらをやや例外的な扱いに感じてしまうのは私だけでしょうか?)
「仮面ライダー」で一世を風靡した東映ではありますが、こと劇場用新作に関してアニメーション作品の印象が強いのは、やはりその精緻なアニメ技術によるものでしょう。

Photo_1092その「東映まんがまつり」に対し、「東宝チャンピオンまつり」は同じくテレビの子供番組やアイドル作品が中心のラインナップでありながら、どちらかと言えば実写作品に重きを置いた編成が特徴でした。やはりゴジラの昔から特撮作品に定評のある東宝。皆さんご存知の通り円谷プロとの太いパイプも功を奏して、「帰ってきたウルトラマン」「ミラーマン」「ウルトラマンタロウ」「レインボーマン」など、東宝・円谷プロ製作の番組を編成上の大きな売りとしていたのです。
そして「チャンピオンまつり」最大の魅力は、東宝のドル箱作品「ゴジラ」シリーズをメインに置いた点。

Photo_1093それまでに製作された{キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」など、ゴジラ中心の特撮映画を再編集・改題してリバイバル公開。またチャンピオンまつり用に製作された新作怪獣映画を目玉とし、「今回の怪獣はコレ!他にも人気作が沢山あるよ!」という売り方に徹した広告戦略が大きな特徴でした。
「まつり」のタイトルを冠したのは東映の方が一年以上前ですから、東宝は東映との差別化を図る意味でも怪獣映画をメインに据える必要があったのでしょう。

ともあれ、この点で両社のカラーは大きく分かれ、当時の子供達に「アニメの東映」「怪獣の東宝」という印象を植え付けたことは間違いありません。(少なくとも私はそうでした(笑)。

いつもながら前置きが長くなりましたね。
という訳で冒頭の質問へ。

Photo_1094私の答えは(おわかりでしょうが)
「筋金入りの「チャンピオン派」でした(笑)。

生まれて初めて劇場鑑賞した映画が大映「ガメラ対大魔獣ジャイガー」だった私には、その時から頭の中に「映画=怪獣が暴れるもの」という頑強な公式(笑)が出来上がってしまったため、他の作品を劇場鑑賞しても映画として認識出来ないという一種の「すりこみ」が確立してしまったのでした(笑)。
またそれに輪をかけて、私の両親はなぜか「子供には怪獣を見せておけば」的な考えがあったようで、連れて行ってもらった映画はことごとく怪獣映画ばかり(笑)。
当然の事ながら「東映まんがまつり」と「東宝チャンピオンまつり」は夏休みなどを狙った同時期公開だったのですが、私の家族はまるで「まんがまつり」を避けるようにチャンピオンまつりばかり絨毯爆撃するありさまで。そんな両親の元、私はオタクとして純粋培養されたのでした。
これは今は亡き両親のシナリオにあったのでしょうか(笑)。


そんな中何の間違いか、実は二度ほど「まんがまつり」を観た事があります。
「アリハバと40匹の盗賊」(1971年)「マジンガーZ対暗黒大将軍」(1974年)をメイン作品とした興行でした。

ところがですね。物足りないんですよアニメでは(笑)。
「やっぱり映画は実写だな」なんて生意気にも思ってしまったのでした。今考えればそれは単なる誤解に過ぎないものだったのですが。劇場用アニメにも優れた作品は数多くありますし。
当時から私はおバカだったという訳ですね(笑)。


Photo_1098 ただ幼年期に浴びるように怪獣映画を劇場鑑賞してしまった私にとって、それ以上の迫力を味わうには困難を極めました。なにしろ身長50メートルの巨体が街中で戦うんですから。
そういうのを「映画」と思い込んでしまったら、中途半端なアクション映画なんてハムスターが遊んでるようなものに見えてしまって。(コタちゃんごめんね(笑)。

私の「迫力のハードル」をそこまで上げてしまったもの。それが年3回、心憎いまでに子供の心を掴んだ「東宝チャンピオンまつり」だったのでした。
「チャンピオンまつり」は、子供の集客が落ちた78年に残念ながら終焉を迎えましたが、「まんがまつり」は「アニメフェア」とタイトルを変えて最近まで存続していました。

Photo_1096今は沈黙を守っていますが、つい数年前まで新作が製作されていたゴジラ映画。その新作であっても、ここ数年は年一本のお正月公開が恒例でしたね。
ゴジラファンはこの公開を楽しみに一年を過ごしていたわけですが、この「チャンピオンまつり」の時期に比べれば、お楽しみは随分と割り引かれていたような気がします。
なにしろ「チャンピオンまつり」の公開はほぼシーズン毎。
たとえリバイバルとはいえ、春・夏・冬に怪獣が劇場鑑賞できるという環境は、今考えれば異常事態ですよね。しかも私は各作品のオリジナル公開に間に合わなかった世代なので、もう全部が「初鑑賞」!

ただその為、オリジナルとチャンピオンまつり用に改題されたタイトルの違いに戸惑った時期もありましたが。
(「怪獣総進撃」と「ゴジラ電撃大作戦」が別作品と思っていたり(笑)。


今改めて「チャンピオンまつり」を振り返ってみると、それはまさに夢のような体験だったような気がします。「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」DVDのオーディオコメンタリーでコメンテーターの樋口氏(平成ガメラ特技監督)も語っていますが、チャンピオンまつりは公開時の同時上映が常時6本くらいあったんですよ。全部観るとなんと4時間近く。劇場の往復時間、帰りの食事時間も入れれば完全に一日のレジャーです。
もうその日一日は怪獣漬け(笑)。映画・食事のついでにデパートでプラモデルでも買ってもらった日には、一生の幸せをすべて使ってしまったような幸福感に包まれたまま、夜は怪獣の夢になだれ込む事が出来たのでした。(当時ですからね。当時。今は女子ですからもっとオトメチックですが。ウソつけって?(笑)。

きっと今の子供達は、これだけのイベントに相当するものが無いんじゃないかと思います。確かに今もアニメ映画があり、大迫力の洋画スペクタクル作品も公開されているんですが、「4ヶ月に一回ゴジラに会える」というあの空気とは違う。
この公開スパンは今は再現できないでしょう。

DVDで毎日鑑賞という手もありますが怪獣の迫力は小さなテレビ画面では味わえません。劇場ロビーに貼られたロビーカードを食い入るように見つめ、先を争ってバンフレットを求めたあの空気。怪獣に圧倒された子供達が作り上げる特別な空気が、チャンピオンまつりの劇場には漂っていたような気がするのです。
作品だけではない「空気」。自宅で作品を再見した時、その空気を吸い込んだ者だけが当時の興奮を脳内再生できるのかもしれません。同じ作品をDVD鑑賞していても、おそらくDVD初鑑賞者と私たちチャンピオンまつり体験者は、網膜に別の作品が焼き付けられているのです。

Photo_1097そんな憧憬を感じてしまうのがこの「夏休み」の時期。根拠の無いワクワク感を覚えるのも無理はありませんね。私はこの高揚した気分を「チャンピオン気分」と呼んでいます。
そんな気分が高じた私は十数年前、オタクな友人たちを集めて「チャンピオンまつり」の興奮を再現したイベントを開いた事がありました。
作品を流すだけではなく色々な趣向を凝らした身内イベント。
7~8人程度のささやかな集まりでしたがその空気はあの「チャンピオンまつり」そのまま。楽しい一夜でした。

その頃の事は以前「ネヴュラ」でもお話しています。
興味を持たれた方はこちらをご覧下さい。


自宅で「TVチャンピオン」
http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/2006/07/post_6045.html

でも考えてみると、その時感じた空気は今の「ネヴュラ」にも通じるものがありますね。最近は私の問いかけにお答え頂けるお仲間も増え、さながら「ネヴュラ」は映画ファン、怪獣ファンの集いと化している感さえあります。大変有難い事です。
熱い思いがこもった皆さんとのやりとりはピュアだった子供の頃の会話そのまま。今日も私は皆さんのおかげで「チャンピオン気分」を楽しんでいます(笑)。

最後にちょっとお知らせを。
本日7月31日(火)21:00より翌8月1日(水)15:00まで、ココログではシステムメンテナンスを行います。メンテナンス中、記事の閲覧は出来ますが、トラックバック・コメントの受付が出来ません。何卒ご理解の上、ご協力をお願い致します。

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2006年8月 9日 (水)

私は見た!メカゴジラ秘密基地

「うーん・・・」痺れるほど腕を組みっぱなしで眺め続けたショーウィンドー。
今日もお仕事の帰り道、暑さを避けるように寄った「オタクショップ」で、またしても目の毒、「心を熱くさせる」アイテムに出会ってしまいました。

一昨年、ゴジラ生誕50周年を記念して発売された、バンダイ製「超合金メカゴジラ2」。
発売されていた事は知っていましたが、出荷数が少なかったからか店頭で見かける事はついに叶わず、今日パッケージと共に発売の事実を初めて知った、「幻のアイテム」だったのです。
新製品の情報には極端にうとい私。毎回中古店に出回る度に初対面を果たすアイテムは数知れず。今日もそのパターンでした。

まるで楽器屋さんでウィンドーのトランペットを眺める黒人少年のような気持ち。予算が・・・。
今日のところは引き上げ、とばかりに組んだ腕をほどきました。

帰り道。ミニバイクを飛ばす私の脳裏には、メカゴジラのパッケージにあった、あるオマケの写真と、そのキャプションが浮かんでいました。
「スペースチタニウムのレプリカ付」。

スペースチタニウム。そうです。読者の皆さんはもうご存知でしょう。メカゴジラの外皮を構成する宇宙特殊金属。
メカゴジラの初登場作品「ゴジラ対メカゴジラ」で判明し、メカゴジラの宇宙サイボーグ性を演出した金属の名称です。
私には、この宇宙金属にまつわる、ある思い出があるのです。

Photo_113 1974年春。「ゴジラ対メカゴジラ」公開時、私の周りでは、仲間達による「メカゴジラ賛美」の声でもちきりでした。当時は空前のロボットアニメブーム。テレビでは「マジンガーZ」が空前の人気を誇り、後年まで語り継がれる劇場超大作「マジンガーZ対暗黒大将軍」を7月公開に控えた、あの頃でした。
子供達はメカニカルなヒーローの活躍に心を奪われ、毎日が「ロボット・メカ」のオンパレード。時代のエッセンスを敏感に吸収してきたゴジラ映画が踏み切った「ゴジラのロボット化」も、ストライクゾーンど真ん中の企画として子供達に歓迎されたのでした

Photo_114 メカゴジラは(映画の出来はともかく)ケレン味あふれる登場シーンからゴジラに対する圧倒的な強さ、全身武器というメカニカルな魅力で、ゴジラを凌ぐ人気を得ました。
確かに、当時現役で子供していた私達の間にも、「もはやゴジラは古い。これからはメカゴジラだ」的な空気が蔓延していたのは事実です。
Photo_115 Photo_116 いち早く映画を観た私はもう博士気取り。「メカゴジラの皮膚はスペースチタニウム」っていう金属で出来てるんだ。」と触れ回っていたものです。周りの仲間も「へえー。そんな金属あるのかなー」「超合金Zみたいな物かー」なんて言っていた時代でした。(このあたり、今改めて書くとホントに、おバカ丸出しですね。お恥ずかしい)

んなある日、私は見つけたのです。「スペースチタニウム」を。

Photo_121 Photo_122 高度成長の余韻が残り、公害が社会問題化していた1974年。当時、私の家の近くにも大きな金属加工工場がありました。この工場でも、製品加工で余った「金属クズ」を一時的に工場の裏などに出していたのです。

学校の帰り道、その工場の裏を通った私。
その時、見慣れた筈の金属クズの中にキラリと光る、あるパーツが。

直径5センチ程の、円形の、銀色に光る金属のかけら。
それはまるで、劇場で観たメカゴジラの、「あの表面」にそっくりだったのです。

Photo_119 当時すっかりメカゴジラに心酔していた私は、そのかけらを、そっと持ち去ったのでした。
私はそのパーツを「スペースチタニウム」と名付け、メカゴジラへの思いをさらに強くしていったのです。仲間にも「スペースチタニウムって、こんな色、表面なんだ」と自慢しまくり。

皆さんにも憶えがありませんか?子供の頃、今考えると本当にガラクタとしか思えない石や貝、果てはボルトやナットみたいな物まで、まるで宝物のように大切に集めていた記憶。
私はそれを、素晴らしい事だと思うのです。

そこにはきっと、「ガラクタが宝物に見える」子供達の「夢見る力」があったと思うからです。当時発売されていた、本物とは似ても似つかない怪獣のソフビ人形も、きっと子供達には「映画やテレビで見た通りの本物」に見えていた事でしょう。

実際私だって、「スペースチタニウム」が本物とは思っていないんですよ。でも、そこには夢をフォローする何かがあった。
愛用していた自転車はサイクロンより早い、夢のスーパーバイク。
近くの神社に生えている松の木は、まるで大怪獣。
Photo_120 スペースチタニウムがあった工場だって、私の目には「メカゴジラの秘密基地」に映っていたのです。きっとあの工場の中には大きなドックがあって、メカゴジラが整備されているんだ、なんて。

皆さん、お笑い下さい。私は本当に子供の頃からこんな、妄想癖のひどい子供だったのです。でも少なくとも、当時の私の仲間は、多かれ少なかれそんな子ばっかりでした。
そうじゃなきゃ、怪獣ゴッコなんて成り立ちませんよねー(笑)。

年を重ねてしまった今、そういう気持ちを持ち続けるのは難しいと思います。
そりゃそうですよね。毎日のお仕事の中でそんな事ばっかり考えていたら、生活していけませんから。
でも、私は考えます。きっと「ネヴュラ」をいつもご覧頂いている方々は、そんなピュアな気持ちを忘れていないってね。
私が拝見しているいくつかのブログで、怪獣やプラモデル、おもちゃなどの記事を読んでいると、皆さん楽しそうですもん

あの、スペースチタニウムを見つけた頃の私の気持ち、分かって頂ければ嬉しいです。

成長するにつれ、どこかへ行ってしまった「スペースチタニウム」。今日のあの「オタクショップ」での特別封入パーツは、あの時とは比べ物にならない程いい出来でした。
でも、パッケージの写真一つで、結構思い出すものですね。
なんか、思い出させてくれた今日のメカゴジラが、妙にいとおしい気持ちになってきました。うーん。予算を捻出しなきゃなー。

どうやら狙っていた秋物のスカートは、先送りになりそうです(泣)。

2006年8月 3日 (木)

ジェットビートル・コンプレックス

「怪獣出現!」フジ隊員の声に緊張が走る科特隊日本支部。
「全員出動!」ムラマツキャップの号令を受け、ヘルメット片手に飛び出す隊員たち。
基地のカタパルトから轟音とともに垂直離陸する「ジェットビートル」。
胸躍る、「ウルトラマン」の名シーンです。

星川航空のセスナ機、ヘリコプターの昔から、ウルトラシリーズの戦闘シーンを盛り上げた「ウルトラメカ」の数々。レギュラー、ゲストメカを含め、各シリーズで個性溢れる超兵器が番組の未来感、SF感を演出していました。

ウルトラシリーズに限らず、洗練されたデザインでひときわファンの多い、円谷プロの超兵器。これはもう、ゴジラのデザイン以上に好みが別れるところではないでしょうか。
私の周りのマニアの間でよく話題に上るのが、
「ジェットビートル派かウルトラホーク派か」という物。

ここで大体、私は不利な立場に立たされます。

そうです。私は生粋の「ジェットビートル派」なんです。

1s ジェットビートル。科学特捜隊の専用機。岩本博士によって開発されたこの超兵器は、空対空、空対地における戦闘攻撃、さらに兵員輸送、移動作戦室などあらゆる作戦行動を目的とする万能機です。機体下面に3基のロケットブースターを持つ事で垂直離着陸、空中リフト機能を合わせ持ち、機体後部には2基の推進用ジェットエンジンを装備しています。(ハセガワ発売のプラモデル解説書より)
ハイドロジェネートロケットを装備して宇宙へ向かったり、数々のオプションパーツで作戦を遂行する姿は、単なる攻撃用兵器以上の汎用性で、「万能機」の設定を十二分に活用していました。

昔から、アットホームな雰囲気に安らぎをおぼえる私。
ウルトラシリーズにおいても、ハードな未来感が売りの「セブン」も好きですが、ハートウォームな空気が流れる「マン」により心が引かれるんですよ。
この番組上に流れる空気の差は、超兵器のフォルムにも表れているようですね。

3_2 よくマニアの方の考察に、「ウルトラホーク1号こそウルトラメカの頂点」「三機分離合体は画期的」「成田亨デザインの最高傑作」などの表現があります。実際放映当時、プラモデルもホークの方が売れたようですし(笑)。私の周りでも圧倒的に「ホーク派」が多く、私はいつも肩身の狭い思いをしています。
「ビートルのどこがいいの?」と聞かれると、私はちょっと困ってしまいます。ホーク1号を称えるような理論的な解析が思い浮かばないからです。ちょっと考えて、こう答えるしかないのです。

「あの丸さがいい」。

Up 私には「ジェットビートル」のあの丸い形が、シャープなシルエットの「ウルトラホーク1号」よりも、より身近に感じるのです。笑われちゃいますが(笑)。
ジェットビートルの操縦席に流れる空気は、そのフォルムと同じように「丸かった」。
上空からムラマツ隊長に傘を落とした操縦席。休暇で訪れたパティ隊員とメンバー全員で東京を眺めた操縦席。ホシノ少年が勝手に忍び込める操縦席・・・(これは小型ビートルか。でも流れる空気は一緒でしたね。)
ジェットビートルの操縦席では、緊張感と共に、いつもやさしい空気が流れていました。
どうも私はああいう「昭和の空気」(とでも言うのでしょうか)に弱くて。

クールに戦闘を行うウルトラホークのカッコ良さも捨てがたいのですが。

Photo_79 こんな私のビートル好きを決定的にした、幼い日のエピソードがあります。
ある日、小学校の図工の授業でなんと、「プラモデルを作る」というものがあったのです。
各自200円程度のプラモデルを買ってきて、授業中に組み立てるという(笑)。
これは、当時プラモまみれの毎日を送っていた私にとって、夢のような出来事でした。
「授業日」が近づくにつれ、もうクラスメイトは気が気じゃありません。私も「工作材料代」だからと大いばりでお金をもらい、いきつけのおもちゃ屋へ向かいました。

当時日本中の子供が同じだったと思いますが、200円のプラモデルなんてそう簡単に買えるものではありません。毎日顔を出すおもちゃ屋で目ぼしいキットを見つけると、「これは自分の獲物。いつか必ず買う」とばかりに、商品棚の奥に隠したりして勝手に「取り置き」していたのです。
今日はその「取り置きキット」を引き取る日。意気揚々とお店に入ったのはいいのですが・・・

ない!取り置きキットが売れちゃった!
そのキットこそ、ブルマァク製ゼンマイキット「宇宙ビートル」だったのです。
(識者の方は疑問でしょう。あのビートルは300円。200円では買えないよ。と。
そのお店はプラモデルが2割引。親からは200円もらって、貯金から40円足したのでした・・・それも無駄でしたが)

もう真っ青。他の「行き着けおもちゃ屋」を探しましたが、当時爆発的な人気を誇ったこのキット、どこにもありませんでした。
しぶしぶアオシマ「ワイルド7」のミニキットを買って、失意のうちに学校へ。そして迎えた授業の時間。そこには・・・

なんとそのビートルは、よりによってクラスメートの手に渡っていたのでした。
考えてみれば当然のお話。小学生の行動範囲なんてたかが知れています。ビートルを「取り置き」していたのは私だけじゃなかった、というオチです。
彼の不器用な手元を見ながら、「あー、窓のクリアパーツにセメダインつけちゃだめ」なんてハラハラしていた事をよく覚えています。

Photo_80 この日以来、「ビートルは見たら買わないと無くなる」という、強い「ジェットビートル・コンプレックス」が私にはあります。今だにあるんだから子供の頃のトラウマって大きいですよねー(笑)。そんなこんなで集めた「ビーコレ」。今ではどこでも手に入る「ビートル」ですが、どんなに集めても集め足りないアイテムの一つです。と言ってる割に抜けてる物も多くて。ひとえに経済的理由です(泣)。

あの時買えなかった「宇宙ビートル」。最近はいろんなメーカーから復刻されて、手に入りやすくなりました。いい時代になったものです。
でも、わがままを一つ言わせてもらえれば。

Photo_81 これ、中身はほぼ一緒だけど「箱絵」が違うんですよねー。私のトラウマキットは「初版」。
どこか、初版の箱絵で復刻してもらえませんか?
もうパソコンで箱絵作っちゃおうかな(笑)。

2006年6月27日 (火)

ガメラ対オタクイーン

「必然たり得ない偶然はない!」と銀河万丈氏ものたまわれている通り、タイトルのお話をするきっかけに出会ってしまいました。

Photo_17 貴重な梅雨の晴れ間の一日、いつものウォーキングで通る公園の道に「それ」は待っていました。一目でそれとわかるシルエットは・・・

1_1 2_3 ご期待通りの「カメ」さんでした。なんでこんなところに。まあこの公園は池が近い自然公園なので、カメが「ウォーキング」していても不思議じゃないのですが。「これは私にガメラについて書けという、永田雅一さんのお告げ?」という訳で、記念写真に納まってもらいました。寝てたのかな?ちょっと眩しそうなお顔も可愛らしい。

「ガメラ対大魔獣ジャイガー」がガメラ映画初体験の私。思い入れもハンパじゃありません。ダイエット中のスローガンは(脂肪を)「芝公園に落とす!」でしたから。
私が親しんだ、昭和から最近の平成ガメラ映画までを振り返ると、まず思い出すのは「視点の多彩さ」でしょうか。ガメラ自身が回転ジェットで空を飛ぶ為、視点にバリエーションが出来、飽きさせない。「ガメラ 大怪獣空中決戦」を観たとき、これはゴジラじゃ出来ないな、と思ったものです。歩く、吼えるといった動きに限定されるゴジラに比べ、文字通り「陸・海・空」を自由に動ける訳ですもんね。

Photo_18 対戦怪獣も特徴を際立たせた者が多く、一頭として似た者が居ないというのも子供には分かりやすかったです。そして何よりも、ガメラをはじめとする怪獣たちの能力がまさに「怪獣類」としか言いようのない「超能力」ぶり。

甲羅から火を噴き空を飛び、火炎を吐くガメラ。
万物を焼き尽くす虹色の光線と、逆に凍らせる冷凍光線を操る
バルゴン。
マッハ3.5で空を切り裂き、300万サイクルの超音波メスを発射する
ギャオス。
合体、巨大化してガメラと対峙する「宇宙人」バイラス。
頭から手裏剣(!)をも発射する「ジャンプする包丁」ギロン。
どう考えたって飛びそうもないデザインなのに、左右のエラをブースターのように使って500メートルもの大ジャンプを決め、あまつさえガメラの体に卵を産みつけるジャイガー。
人間の脳波をコントロールし、細胞活動停止光線を発射する
ジグラ・・・

いわば怪獣そのものが「超兵器」ですよこれは。

こんな怪獣達に負けていない人間側ですが、ガメラシリーズに際立つ特徴は、怪獣を生物として捉え、弱点を想定した点でしょう。
太陽光線に弱いギャオスを外にクギ付けにする為、好物の血液のダミーを使って呼び寄せ、首が後ろに回らない構造を逆手にとって、血液の台座を回転させる作戦には唸らされたものです。加えてこの「対ギャオス」なんて、映画の王道「タイムリミット戦」ですから盛り上がらない訳がない。
「怪獣を倒す」事にドラマの全てが収束していく組み立てはスピード感にあふれ、楽しさいっぱいのエンターテイメントとして、今も愛してやまないシリーズです。

昔、「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(1971年)を観に行った時の「事件」も忘れられません。
あろうことか私が見に行った劇場では、「呪いの館 血を吸う眼」(1971年東宝)との同時上映だったのです。今考えてもあり得ない2本立て。
同級生の友人と2人で行った怖がりの私。「対ジグラ」を観た後、どーしても「眼」が観たいという友人に付き合ったまではいいのですが、怖くてスクリーンが直視できない。
怖がる私を元気付けようと、心優しい友人は上映中、劇場の中で大声で叫びました。

「さあみんなでガメラ音頭を踊りましょう!」

当然の事ながら他のお客さんからは非難ゴウゴウ。
誰にでもある「昭和」のほろ苦い思い出です。今は遠い地で暮らしている友人ですが、いまだに交流があります。

ちょっと長話になってしまいました。ごめんなさい。
そういえばウォーキングの行きに出会ったあの「カメさん」、帰りに見たら影も形もなかった。その時私の目には、回転ジェットで飛び去ったカメさんの姿が見えたような気がしました。きっとそうですよね、湯浅、金子両監督。

2006年6月26日 (月)

禁断のゴジラ映画

今日は少し怖いお話です。
最近噂で聞いた学説ですが、過去に公開されたある映画に特殊な細菌が仕掛けられ、公開時に劇場で観た観客にはスクリーンから散布されたその細菌により、一生その後遺症が残るというもの。「リング」の呪いのビデオよりたちが悪い。
学説を発表した生物工学学者の重沢博士はこう語っていたそうです。
「日本でだって三千年前のハスの実に花を咲かせたじゃないか。」さすが重沢博士。凡人にはまったく理解不明のお言葉。

気になるその映画のタイトルは「キングコング対ゴジラ」。1962年に公開され、空前の観客動員数を記録した怪獣映画の決定版です。そしてその細菌の名前は「菌ゴジ」!観る者すべてを一生、「怪獣映画依存症」にしてしまう恐ろしい細菌だそうです・・・なんてね。

まあ、こんなところにしましょうか。それにしたって事実、この映画についていったいどれだけの人達が語ったでしょう。今この時間にだって、世界中の何人がリスペクトの記事を書いているでしょう。この「キングコング対ゴジラ」に関して言えば、おそらくゴジラシリーズの初作「ゴジラ」よりもファンは多いのではないかと思うのです。
東宝映画創立30周年記念の超大作。アメリカのモンスター「キングコング」をゲストに迎え日本代表「ゴジラ」との夢の対決を実現させた、リメイク不可のドリーム・ムービーでした。

冒頭の一文だって、あながち作り話とは言えません。あの映画との初対面が劇場だった人なら、「菌ゴジ」に感染した自覚症状があるでしょう?
この細菌の恐ろしいのは「一生もの」という所です。しかも潜伏期間はゼロ。すぐに発病します。そして年を経るに従って、作品の素晴らしさについてますます語りたくなってくる。グッズを集めたくなってくる。他のゴジラシリーズと比べるゲージになってしまう。非常にやっかいな病状が持続するのです。なぜ分かるのか?私も感染者だからです。

1962年の初公開時には間に合わなかった私。初めて観たのは1970年のリバイバル公開「東宝チャンピオンまつり」の時でした。
私もこのブログで関連記事を書いた事がありましたが、生まれて初めて観た映画が「ガメラ対大魔獣ジャイガー」だった私に追い打ちをかけ、一生抜けられない「怪獣オタク」にしてしまった作品こそ、この「キングコング対ゴジラ」。本当に罪な映画です。

観た当日の事は、まだ昨日の事のように思い出せます。幼い日、母に連れられて入った映画館。リバイバルとはいえ、第二次怪獣ブーム前夜のゴジラの人気はすざまじく、客席は立ち見が出る始末。通路に立ってかかとを上げ、食い入るように画面を見つめる私の、「目」ではなく「全身」にそれは襲いかかってきました。
それまで雑誌やテレビなどで見たどのゴジラとも違う、堂々とした体躯。劇場に響き渡る、このゴジラ独特の「ちょっと低めの」鳴き声。
数あるゴジラのデザインの中でもこのゴジラ「キンゴジ」は、ひときわ異彩を放つデザインでファンの人気もダントツの「名優」。まさに孤高の一頭と言っていいでしょう。私はよりによってスクリーンでのゴジラ初体験を「キンゴジ」でしてしまったのです。

その時の私の感動たるや、修飾語抜きで「天地がひっくり返るような迫力」。ゴジラが、キングコングがスクリーンから転げ落ちてくるんじゃないかと思う程。自分の心臓の鼓動が、コングの故郷、ファロ島のドラムのリズムとユニゾンしている!とでも言えば分かっていただけるでしょうか。日本映画最高の時期に、円谷英二が盟友、本多猪四郎と組んで作った怪獣映画の傑作は、幼い子供に一生もののトラウマを残したのでした。

後々考えても、この「キンゴジ」とのファーストコンタクトは仕組まれていたんじゃないかと思うほどです。今でもこれを越える怪獣映画というと・・・ちょっと考えてしまいます。
まあ言ってみればこの「キンゴジ」 、すごい所ばかり。
初公開時の観客動員数は1,255万人、ゴジラ映画史上第一位の「勤ゴジ」だし、
シリアスとコメディのバランスがとれたストーリーは「均ゴジ」で、
ゴジラの造形も太めながら動きは俊敏な「筋ゴジ」 
思わず敬い慕う「欽ゴジ」なんてね。
これほどのトラウマを残す映画ですから、劇場でもしこの「キングコング対ゴジラ」がリバイバルされたら、ご自分のお子さんを「怪獣オタク」にしたくない皆さん、
この作品だけ連れて行かない「禁ゴジ」にするのが賢明です。
ちなみにビデオ、DVDはスレスレOK。未見の方、一度ご覧下さい。

Photo_15 2_2 写真は部屋にあった、マルサン商店の「ゴジラ」復刻プラモデルその他。
メーカーの遊び心で金メッキの「金ゴジ」仕様にしてあります。
とは言っても映画の「キンゴジ」の体色は真っ黒ですが。

2006年5月30日 (火)

扉のむこうの「身長60メートル」

見つけました!探していたメイベリンの口紅「ドラゴンフライ・レッド」最後の一本!いそいそと買いこんですかさず向かうのは、コスメショップの近くの「オタクショップ」。(先日ウルトラマンを買ったお店です)ウインドーに鎮座するのはゴジラの縫いぐるみ俳優「中島春雄」さんのソフビ人形6,300円也。「これが四千円台なら即ゲットなのにい~」これが今日のアフターファイブの私。「口紅とソフビ」という取り合わせも何ですが、どうしてこんなに怪獣好きになっちゃったんでしょう。今日は私を怪獣好きにさせた「原体験」のお話です。

「生まれて初めて映画館で観た映画」って憶えていますか?人それぞれ、生まれた年代によっても違うでしょう。この質問は相手の歳を探るときなんかにもよく使われますよね。歳をごまかそうとして瞬時に考えたりして。私の場合正直言ってこの映画体験さえなかったら今、これほどのオタク人生を歩んでなかっただろうなーと思います。

私が幼かった頃、世間は「怪獣ブーム」のまっ只中。テレビのチャンネルをひねれば特撮番組にお目にかかれた、ある意味「特殊な時代」だったんです。当然ながらこの活況を見逃す邦画界じゃありません。映画が娯楽の殿堂の座をテレビに奪われつつあったこの頃、新たな活路を見出す為に、戦後のベビーブームによって生まれた多くの子供たちをターゲットに、映画界でも「怪獣映画」を邦画各社がこぞって製作していた訳です。

まあ、幼い子供を一人で映画館へ行かせる訳にもいかず、当然「映画館初体験」は親が連れて行く事になります。少子化の今では考えられない事ですが、当時、子供相手の映画企画は秋を除く春夏冬、おそろしい程の番組編成でもって映画界に君臨していたのです。親はそれこそよりどりみどり、「子供企画」と銘打っている所に行けば良かった訳ですね。

で、親はおそらく、その頃私が熱中していたテレビ特撮の映画版程度の発想で私を連れて行ったと思うんですよ。「ガメラ対大魔獣ジャイガー」(大映1970年3月21日公開)に。

映画館という場所そのものに行ったことのなかった私は、大きな看板の掲げてある入り口や館内のロビー、売っているグッズ(私の行った映画館では「パンフレット」ではなく映画をコミカライズした漫画、絵入り組み立て飛行機、怪獣ブロマイドなどをビニール袋にパックして販売していました)などがすべて初体験。もう興奮のルツボ状態。ところがここで親にとっても全く誤算だった大事件が勃発。今でもはっきり憶えていますが映画館って(当然ですか)ロビーの奥に扉があって、ロビーに映画の音が漏れてくるでしょ。映画が完全入替制になったのはごく最近の出来事なので、当時は上映途中で館内に入るのなんて当たり前だったんです。間の悪い事に私たちは「ガメラ対大魔獣ジャイガー」のクライマックス・怪獣対決シーンに入場してしまったのでした。

「映画というものをまったく知らない幼い子供が、扉の向こうから大音響で漏れてくる怪獣の声を聞いてしまったら・・・」          中に怪獣が居る!と思ってしまったんですよ。

もう怖くて怖くて。(たぶん泣いちゃったと思う)親は苦笑いしながら私を引きずって「扉」を開けたのでした。

居たんですよ。そこに怪獣が。

スクリーンに映し出されていたのはガメラとジャイガーの空中戦。ご存知の方は思い出して下さい。あそこはガメラとジャイガーの顔のアップがやたらと多いでしょ。今のように大画面テレビやプロジェクターなんて家で楽しめない時代、「映画館のスクリーン」なんて大きな画面も初体験。ガメラの身長60メートルって家で「予習」してきてるからもう「本物」に見えちゃいますよ。一生もののトラウマでした。結局そのクライマックスから同時上映の「透明剣士」を経てもう一度「ガメジャイ」は観てきた訳なんですが、ストーリーなんかより最初のインパクトがあまりにも大きくて。

2_1 普通こんな体験を最初にすれば、「怪獣キライ」になりそうなんですが、その時の体験をさらに増幅させ、怪獣好きを決定的にしてしまった体験をこの後またしてしまう事となるのです。お話が長くなるので、それはまた別の機会に。写真は「家のジャイガー集めてみました」集合写真。ごめんなさい。トラウマ怪獣の割に家にはあんまりなかった。 

          「炎三四郎もガッカリだ(笑)」