2021年12月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  

ネヴュラ・プライベートライン

無料ブログはココログ

カテゴリー「怪獣私見」の記事

2011年5月30日 (月)

手は口ほどにモノを言い

台風2号が接近し、傘も役に立たない暴風雨の中、昨日参加したイベント
『昭和を彩るお二人の先駆者~ヒーローの共演』。

本来なら、皆さんにご意見をお願いした時のお約束通り
当日の模様をいち早くお伝えする必要があるのですが
さすが昭和を代表する二大ヒーロー・鉄腕アトムとウルトラマン。
作品にまつわるお話の興味深さは群を抜いており
お二人や参加者とのやりとりも非常に充実していて
失礼ながら、予想が良い方に裏切られてしまいまして

その為、内容があまりにも盛りだくさんで、短くまとめる自信がありません
ですからその内容は、じっくり腰を据えて
これからおいおい、お話していくことにしたいと思います。
ボキャブラリーの乏しいおバカゆえ、どうぞお許し下さい

長文記事にするか、数回の記事に分けるかなど
今、脳内で構成を練っておりますが
考えがまとまるまで記事がお留守になるのもアレですので
まず先に、もう一つのお約束
昨日古谷さんにお渡しした意見書のラストに付け加えた
「ウルトラマンからの宿題」への拙意見を、ご覧頂きたいと思います

これは前回、4月17日の古谷氏の講演会後
会場で出された古谷氏からのご質問に対し
私なりに結論づけた「ウルトラマン独自の魅力」です。
ですからこの考えは、お仲間にご意見を呼びかける前に
私の中ではまとまっていました。
あい変らずの浅知恵に加え、いつもの無駄な長文ですが
田舎のユルいおバカファンは、ウルトラマンをこう感じたと
受け取って頂ければ幸いです

なお、皆さんから頂いたご意見との公正を規す為
この文は昨日、古谷さんにお渡しした
ほぼそのままの形で再録してあります。

そのため文中、やや意味不明な表記もあるかもしれませんが
意見集のまとめ的スタンスの表記として、ご了承下さいませ。
睡魔との戦いの末、最後まで読破下さった奇特な方には
またご感想など頂ければ幸いです

<以下本文>



もう「モノサシ」なのです。
ウルトラマンという作品を本放送で体験してしまった私にとって
その後のヒーロー番組は
「ウルトラマンと較べてここが違う、あそこが違う」と見えてしまう。
他の作品を論じる上で、動かしようのない基準と化してしまっています。
それほどまでに全ての要素がバランスよく、過不足無く機能していて
どこかが少なければ物足りなく、足せば余計という印象をぬぐいきれない。
言ってみれば、ヒーロー番組の一つの黄金率となっているわけです。

ですから私にとって「なぜウルトラマンが好きなのか?」と聞かれることは
いわば、単位の定義を聞かれるようなもの。
「1ミリはなぜ、あの長さなのか?」
というたぐいの質問に、近いような気がします。
何かを語れるのは、それを較べる基準があるからで
基準そのものの定義は、答えられない。
「ウルトラマン」という作品はそれほど、私の中に大きく根付いています。
「好き嫌い」というより、「だってウルトラマンなんですから」
としか、言いようがないわけです(笑)。

本放送世代で「ウルトラマンのどこが好きですか?」と尋ねられた多くの方が
とっさに答えられない、難しい質問と感じるのは
おそらくこの「自分の理想とするヒーロー像、作品像に最も近いから」
という、極めて根源的な感覚を、ウルトラマンに抱くからではないでしょうか。
ですから、どんなに魅力を語っても語り尽くせない。
両手ですくった水が指の間から零れ落ちるように、どこか言い足りない部分を
残してしまうのです。

とはいえ、これではご質問への答えにはほど遠いですから(笑)
4月のイベント以降、この作品が自分の基準となった理由は何だろうと
改めて「ウルトラマン」全39話を再見しました。
それは非常に楽しい時間であり、また全話を通して見たことで
本放送時、再放送時とはまた異なる、少し離れた見方が出来ました。
それはそのまま自分が「ヒーロー作品に求めるもの」を再確認する作業でも
あったような気がします。

さて。この意見集で他の方も書かれていたように
「ウルトラマン」には、この作品にしかない明るさや未来への希望などが
溢れています。
それは人類や科学文明へのストレートな信頼に裏打ちされた
寓話的な理想世界と考えることもできますが
それはまぎれもなく、輝く瞳で未来を見つめた放送当時の子ども達の目であり
そんな明るい未来を子ども達に託した、制作陣の眼差しにも他なリません。
現在の目から見ればファンタジックに過ぎるような世界観も、意図的なものであり
「ヒーローの形をした光」という、初作のウルトラマンのみが持ちえた印象を
かろうじて保つことのできた、希有な例と思います。

この印象はなぜ、古谷氏が演じられたウルトラマンのみに
持つことが出来たのでしょうか。
後続のウルトラシリーズにはさほど明るくない私ですが
ウルトラマンとの比較の意味で、セブン以降の後続作品を何本か再見した所
一つ、古谷ウルトラマンのみにしか無い特徴を発見できました。

それは一言で言えば
「敵に拳を向けないヒーロー」とでも言うべきものです。
ウルトラマンの基本設定は「光の国の警官」ですから、怪獣や侵略者に対する
立場も「殺戮」「殲滅」ではなく「和解」であると。
怪獣なら軽く諭して、おとなしく居場所に戻ってもらい
知的宇宙人には同じ宇宙生物同士、暴力ではなく説得で和解を目指す。
ウルトラマンのアクションは一見
「肉弾戦」「怪獣プロレス」的印象を与えますが、よくよく見れば
相手との対立構造、そしてその演出意図を理解した古谷氏のスーツアクトは
実にきめ細やかに、初期設定たる「宇宙の秩序」たるウルトラマンの姿を
体現しているのです。

その印象を与えるのは、古谷氏ご本人もお話されていた
「ウルトラマンは握りこぶしでファイティングポーズをとらない」という姿勢。
確かに、画面中心で両手を握ったファイティングポーズが完全に確認できるのは
全39話中、第4話に於けるラゴン戦のただ一度だけで、他の話数はあの独特な
「腰溜めで両手を開き、敵の出方を待つ」ポーズでほぼ統一されています。
しかもウルトラマンの格闘スタイルは、相手の体躯を堂々と受けて立つ
がっぷり四つ組みと、言わばみね打ち的なチョップが非常に多く
敵に大きな打撃を与えるパンチを、ほとんど放たない。
第9話のガボラ、第27話のゴモラなど、逃亡により都市に甚大な被害を与える
可能性が考えられる相手にだけ、その鉄拳をふるうのみです。

第11話のギャンゴ、第34話のスカイドンなどにもパンチは打ちこんでいますが
これはいわゆる演出の遊びや遊戯的アクションであり
シリアスな格闘という意図とは外れているので、同一には語れない気がします。
(ザラブ星人やダダなど、ウルトラマンの手元が相手の背中に隠れて
正式にパンチと確認できない例は除きます)

かようにウルトラマンには、「光の国の警官」たる基本設定が
アクション面においても徹底しているわけです。
後続作品として確認した「ウルトラセブン」と「帰ってきたウルトラマン」の
ファイティングポーズについては、別のお話なので特に語りませんが
もしご存知であれば、私の感じた印象がお分かり頂けると思います。

「最初から、相手に威嚇の意図を与える拳を向けず
なるべく先制攻撃を控えて敵の出方を待ち、堂々と四つに組んで
しかもチョップ技で、相手へのダメージを最小限にとどめる」

子どもの頃には見えていなかった、古谷ウルトラマンだけが持つこのスタイル。
後年、ファンの間で話題になった
「ウルトラマンはなぜ、変身直後にスペシウム光線を放たないのか?」
という疑問も、この格闘スタイルを理解すれば、こんな風に解釈できます。

「宇宙の秩序たるウルトラマンは、決して殺生は望んでいない。
変身時間のリミットまで和解を努力して、それでも相手が改心しない場合のみ
仕方なく鎮魂の思いと共に、銀光の鉄槌を下すのだ」と。

こうして見ると、さながら古谷氏が演じたウルトラマン像は
東宝映画「椿三十郎」(1962年 黒澤明監督)における
入江たか子さんのセリフにあったような
「本当に良い刀は、鞘に入っているもの」を地で行くような存在ですね。
無闇に抜き身を見せず、必要な時にしか刀を抜かないのが誠の強さという。

スペシウム光線発射タイムの問題に関しては
後年、制作スタッフにより色々な裏話が語られていますが
物心ついた後、改めてウルトラマンを見た私には、そんな風に映りました。
39話も制作された中で、格闘コンセプトがここまで守られた例は非常に珍しく
こうした基本設定を、物語の隅々にまで浸透させた制作陣と
それを理解し演技に反映させた、古谷氏はじめスーツアクター諸氏の功績も
ウルトラマンという作品に、大きく貢献していると思います。

思えば。
ウルトラマンが仮の姿・ハヤタ隊員として籍を置く事になった科学特捜隊も
怪獣や宇宙からの脅威に関しては、無用な対立や殺生を避け
第2話のバルタン星人への対処のように、常に和解の姿勢を貫いてきました。
そういう意味で、ウルトラマンと科学特捜隊の基本理念は極めて近く
光の国と地球というベースの違いはあれど
共に他者との和解、ひいては宇宙の秩序を目指して活動する仲間で
あったわけです。

確かにそれは物語の中での絵空事、理想の世界かもしれません。
しかし。どんな相手とも相互理解を目指す姿勢は必要という事や
たとえ種族は違っても、宇宙平和という目的に際しては手を携えられる事。
ウルトラマンという作品にキャスト・スタッフが込めたそんな理想は
古谷氏演じるファイティングポーズ、決して拳を作らない手にも
滲み出ていると思うのです。

ウルトラマンは後年、シリーズ中の別作品で何度も客演しましたが
子どもながらに違和感を禁じえなかった理由の一端は
古谷氏以外のスーツアクターが演じていた以上に
両手に構えた握りこぶしにあったのかもしれないと、今は思います。
ギリリと拳を鳴らし、相手を威嚇し続けるウルトラマンは
私にとって永遠に、別人と映るのかもしれませんね。

物心もつかない幼児期に「ウルトラマン」を初見した私にも
この願いにも近い、作品に込めたキャスト・スタッフの思いの片鱗は
おぼろげながら、きっと伝わっていたのだと思います。
そうでなければ、初放送から45年もの長い間
ヒーロー作品の黄金率として、君臨し続けるわけがありません。

私にとってウルトラマンという作品は、「優しさに満ちた、本当に良い刀」
に会えた、週に一度の至福の時間といったところでしょうか。

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2010年6月 8日 (火)

怪獣な皮膚感覚

結局今日はずっと曇りで寒く、ついウォーキングもおっくうになって
メリハリのない一日になってしまいました。まーたまにはありますよこんな日も
というわけで屋外怪獣も撮れなかったので、今回はこの写真をご覧頂こうかと。


Photo_4

うわっゲハラ来襲!
運転中、突如目の前に現れた大怪獣ゲハラ。哀れ私は愛車ミラ・ジーノと共に
その毛むくじゃらの足に踏み潰されるのでありましたっ

という一幕にしては、毛が二色という所に今ひとつムリがありますが
まーお察しの通り、コレは先日6日の一枚。
法事に出かける前に愛車をきれいにしておこうと
近所のセルフスタンドでコイン洗車機に入った時
運転席から撮った写真です


いつも車は自分で手洗いするのですが、この日は時間が無かったので
初めてコイン洗車機なるものを使ったのですが、案内に従って洗車機に停車
車に乗ったまま、ゴーッという音と共に周りからシャワーと巨大ブラシが
迫ってくる図を見るのは、なかなか新鮮なものでした
ひょっとしてここで洗車機が故障して、ブラシがフルパワー可動。
水の勢いも止まらず、無残にも車はバラバラ。
私はブラシに巻き込まれて、怪獣映画最初の犠牲者のごとく
佐原健二さんや平田昭彦さんの眉をひそめさせるのかもなんて

あらぬ妄想に浸ることが出来ました


車のフロントガラスを覆うような毛むくじゃらの姿なんて、まさに非日常の世界で
目の前に本当に怪獣が出現したら、こんなスケール感なんだろうななんて
ちょっとバーチャルな気分にもなれましたが
この日の体験に限らず、怪獣出現の予兆を感じさせる出来事って
日常生活の中にも時々ありますよね。

私などは古いオタクなのか、どーも「ヘリの音」に敏感なところがありまして

実は今日も自宅上空で、いつもに比べ妙にヘリの飛行音が頻繁に響き渡り
民間機とは明らかに異なる爆音に、部屋から空を仰げば
独特の細いボディーをきらめかせたAH-1Sコブラが
悠然と飛び去る姿がありました。

うーむ明野駐屯地の第5対戦車ヘリコプター隊でしょうか?よく知りませんが
おおーコブラが何機も飛んでる。こういう光景を見ると
なにか尋常ならざる出来事が起こっているのではあるまいかなんて

つい怪獣映画な発想に傾いたりするのですが


テレビ屋が生業のせいか「レギュラー番組を中断して入る臨時ニュース」も
緊張を強いられますね。

特にバラエティー番組など、平和の極地みたいなおふざけを突如割って
報道センターに座るキャスターの2ショットなんかが映し出された日にゃ
その空気感の落差にもう目はクギ付け、何が起こったのと身構えてしまいます。

しかもそういうニュースに限って、良い出来事はありません。
まさかの怪獣出現の時も、こんな感覚を覚えるんだろうなと
不謹慎ながら興奮を覚えたりもするのですが。
現代人が必ず覚えるこの感覚を、うまく演出に取り入れたのが
平成ガメラシリーズであることは、以前にもお話しましたね


まーそういう「怪獣な皮膚感覚」を生活の中で楽しむのも
日常のマンネリを打破する上で、一つの刺激ではありますね。
お話は異なるものの最近のマイブーム、朝日バックや自然バックの怪獣写真も
そんなバーチャル怪獣体験への欲求が、一つの形になったものかもしれません。
昔から台風の夜や雷に妙に興奮するのも、その性癖のなせる技でしょうし。
そもそも怪獣という生物の発想そのものが、自然の猛威の具現化ですから
人間が自然や気象現象に怪獣の影を見るのも、当たり前かもしれませんが


昔は台風や雷、今は洗車機やヘリ、臨時ニュース。
関わる形は変わっても人間のDNAに深く刷り込まれ、畏敬の念を抱かせるもの。
いつの時代にも怪獣的なキャラクターの人気が衰えないのは
そんな人間の、根源的な欲求の賜物かもしれませんね。
うーむ明日もコイン洗車機に行こうかな。一回300円で怪獣体験ができるし

2009年3月16日 (月)

光る心臓

すっかり春めいた公園を、今朝も8時からウォーキング。
その道すがら、首から下げたMP3プレーヤーから
ふいに流れた『大魔王シャザーン』のテーマ曲。

で~てこいシャザーン、だいま~おうシャザーン」
その懐かしいアップテンポの曲調に、心なしか足取りも軽くなりました


で、その時考えました。
「シャザーンって、呼び出す時に主人公の男の子、女の子がつけた
指輪を合わせるんだっけ。」
そーですよね。歌詞にも「指輪と~指輪を~あ~わ~せ~ろゴーゴー」ってあるし。
「という事はコレ、ウルトラタッチの原型ってわけかな。」
指輪合体による変身が斬新だった『ウルトラマンA』は放送が1972年。
『大魔王シャザーン』の放送は1968年ですから、円谷スタッフが
そのアイデアを採り入れたとしても不思議じゃありません。
まーシャザーンに限らず、指輪を合わせる事による変身や魔王召還なんて
昔から多い例なのかもしれませんが。無知な私が知らないだけで
ともあれその時の「シャザーン」主題歌は
ウルトラヒーローの変身方法について考えるきっかけとなりました。

ここ数日の陽気で、木々の緑も彩りを増しています。
私たち人間の寿命や力なんて、自然の生命力の前には儚いものだなー
なんて思いもありましたが、そんな中、一つのおバカな私見が浮かびました。
ウルトラマン変身アイテムの、オリジナル性についてでした。

Photo_2









以前からお話している通り、私なんてウルトラシリーズは
「Q」「マン」「ティガ」くらいしか語れないものですから、
私見もその三作に偏ってしまいます。
中でもやっぱり、ウルトラマンの変身と言えば初代の「ベーターカプセル」。
本放送経験者にとって、幼い頃、懐中電灯をかざしてあの変身ポーズをとる事が
ウルトラマンごっこの定番演出でした

今だにペンライトを好むのは、間違いなくその影響でしょう


Photo_4








ちなみに後年「空の贈り物」本放送翌日に大流行したと伝えられるスプーン変身ごっこですが、少なくとも私の周りで行った子どもは居ませんでした。
みんな真似したというあの逸話はちょっと、当時の空気とは違うような気も。
どちらかと言えば「あんなの違うよ」派が多かったような気がします。
もちろん私も、その一人でしたが
まーそれはともかく。

「ウルトラマン」放送当時の資料によると、あのベーターカプセルには
太陽光に含まれるベーター線が凝縮されているそうです。
それを解放させた光「フラッシュビーム」を浴びる事で
ウルトラマンは地球上での姿・ハヤタ隊員から
一定時間、元の姿を取り戻すことが出来るわけですね。

子供の頃、その設定を知った私は「よくわかんないけどカッコいいなー」
と感激した思い出があります。
ベーター線という言葉の響きが、とんでもなくハイブリットに感じられたんですね。
後に『宇宙猿人ゴリ』でのセリフ「テレポートXレイ』にも驚きましたが
「ベーターだよベーター。テレポートだよこれからは」なんて
わけのわかんない事を口走ったりしてました。あー恥ずかしい
そういう科学用語に弱い、おバカな子どもだったんです


そんな事を考えながらウォーキングしていたんですが
一つの疑問が湧きまして。
そのベーターカプセルによる変身って、元ネタはあるのかなあなんて。
冒頭のお話通り、「指輪合体」などはシャザーン→Aみたいな流れが
なんとなく見えるんですけど、つたない私の知識を紐解いても
スティック状のアイテムを掲げて変身、というパターンは思いつかない。


Photo_5








ウルトラマンの遠い先祖と言える『スーパーマン』だって
メガネを外しスーツを脱ぐのが「変身」ですもんね。
その姿に較べたら、フラッシュビームの光に包まれて巨大化する
ウルトラマンの方が、変身ビジュアルは圧倒的に鮮烈です。
もちろん他のウルトラヒーローも、変身のカッコよさでは海外作品に
一歩先んじているような気もするのですが
もちろんそれは仮面ライダーの変身ポーズにも言える事ですが
それはまた別の機会にお話しましょう。


Photo_6







だからちょっと分からないんですよね。
ベーターカプセルのイメージソースは何だったのか。
少なくとも海外作品では、あんな変身アイテムは見たことがありません。

とすると、国内作品でしょうか。
月光仮面?少年ジェット?まぼろし探偵?忍者武隊月光?ナショナルキッド?
果ては遊星王子から豹の眼、ピロンの秘密まで。
そういう少年活劇のどこにも、似たアイテムは登場しないような気が。
円谷繋がりの東宝怪獣映画にも、それに近い形の物はありません。
あるいは手塚治虫原作の「ビッグX」あたりかも。アニメは1964年からですし。
ただそれも決定的じゃありません。うーん難しい所ですね。
このあたりは今後の研究課題として、実に面白いと思うのですが


同時に、もう一つ考えた事がありました。
春の日差しを一杯に浴びながら、汗を流したせいでしょうか。

「ベーターカプセルとカラータイマーの関係性」についてです。

「ティガ」など平成作品で顕著になったウルトラマンという存在の解釈に
「光」というキーワードがあります。
『ウルトラマンの本質は形を持たない「光」だけど、地球人の目には
銀色の巨人の形に見えるんだ』というアレです。

私はこの説が非常に好きで、今も全てのウルトラヒーローにこの解釈を
当てはめています。
「そーだよねー。ウルトラマンはそれくらい飛びぬけた存在じゃないと」なんて

ウルトラ族だとか趣味は読書なんて所帯じみた設定は、「光」という本質を持つ
超エネルギー体というSF的解釈の前には塵と消えるような気もするのですが
で、その解釈を元に考えて行くと、ベーターカプセルからカラータイマーにかけて
一つの線が見えてくるんですね。
「こうであって欲しい」「こうならいいな」なんて、偏った私見に過ぎませんが


つまり。ウルトラマンの本質が「光」であるなら、M78星雲より太陽光が少ない
地球に於いては3分間しか体力を維持できないだろうし
太陽エネルギーを凝縮するカプセルが変身アイテムであるのも納得できるなと。
このあたりは比較的メジャーな、公式設定の説ですよね。

で、もっと考えを広げると。実はベーターカプセルに凝縮されている「光」こそ
ウルトラマンの本体であり、変身時に解放されたその本体は、別の形になって
地球上でのウルトラマンの形態を保っているんじゃないか
なんて思いが暴走しちゃうんですよ。

その「別の形」とは。そうです。それこそ『カラータイマー』。
つまりカラータイマーこそウルトラマンの本体、M78星雲の生命体であり、
それはただの「ピンチ警告システム」じゃないと


Photo_7






そう考えれば、ベーターカプセルが光る理由も
カラータイマーが点滅する理由も理解できます。
光こそウルトラマンの本質ですから、フラッシュビームが地球上では
ありえないほどの光度であってもおかしくないし。
その本体が眼光以外唯一の光点であり体の中心
言わば心臓部のカラータイマーであるのもおかしくないと。
さらに。彼が放つ武器はすべて「光」を媒体にしていますし。


「その時、ハヤタの体はどうなってるの?」という疑問もあるでしょうが
ハヤタの身体的ダメージがウルトラマンに顕著に影響している例が
見られない事から、やはりウルトラマンがハヤタと一心同体であるのは
「変身まで」なんでしょうね。
ウルトラマンがハヤタの姿では超能力を使わないのと同じく
ハヤタもウルトラマン登場時にはマンの体内で眠っているのでしょう。
ここがセブンとの大きな差ですね。
カラータイマーだって、それがウルトラマン本体だからこそ点滅するわけで。
本当にエネルギー切れ、ピンチの警告なわけです。


それを裏付ける(いや「こじつける」かな)描写も
「ウルトラマン」本編を探せばいくつか散見されますね。


例えば第7話『バラージの青い石』。
このエピソードには幻の町・バラージに、ノアの神としてウルトラマンそっくりの
神像が登場しますが、この神像にはカラータイマーがついていません。
そしてその神像の手にあるのは、アントラーから町を守ると言われる「青い石」。
以前、近い事をお仲間のブログへのコメントに書いた事がありましたが
この石こそ、M78星雲人の本体であるカラータイマーではないかと。
そっくりですもんね。色、形とも。

そう考えれば、神像の胸にカラータイマーが無い理由も理解できます。
石そのものがカラータイマー、光のエネルギーの結晶体ゆえ
アントラーに致命傷を与える事が出来たのでは


Photo_8










また第39話『さらばウルトラマン』。
ウルトラマン最終話となるこのエピソード。宇宙恐竜ゼットンにカラータイマーを
撃ち砕かれるウルトラマンの姿がショッキングでしたが
カラータイマーがただの警告装置なら、なぜ撃ち砕かれた程度で
ウルトラマンは瀕死のダメージを受けたのでしょうか。

眼光は消え倒れ伏し、戦闘不能に陥るまでのダメージを。
これも、本体たるカラータイマーへの直撃から来るものだったと考えれば
カラータイマー=ウルトラマン本体説も頷けるような気がするのですが。


Photo_9









なーんて。頭ガチガチのオタク風解析を語ればこんな風になっちゃうんですが
「そんなわけないよ」「公式設定に逆らうの?」なんてご意見もおありでしょう。
まーそりゃーそうです。こんなのはファンのお遊び。
そっちの方がウルトラマンらしいかな、なんて勝手な思いですので
決して皆様に逆らうつもりはございません。
決して誤解、ご立腹などなさらぬよう


ただ、ここからが最も言いたかったことで。
先日発表された『リトラを護れ!』にも盛り込んだ事なので
今日以前にも漠然と頭の中にあったのでしょう。
ウルトラマンという作品は「そこまで人間と異質の超生命体が
私たち地球人に思いを寄せる」物語だったんじゃないかと。
光と人間が心を通わせる物語。そんな風に感じるんですよ。

それを象徴したのが、『リトラを護れ!』クライマックスの変身シーンなんです。

『ウルトラマン』第13.5話『リトラを護れ!』監督・オタクィーン

http://ameblo.jp/ultra-taiga2/entry-10221822626.html

この変身シーン、リトラを護りたいジロー君とハヤタ隊員が分割画面で
同じポーズをとっていますよね。


Photo








ここでジロー君が掲げるリトラの羽根と、ハヤタ隊員が掲げるベーターカプセルは
共にリトラを護りたいと願う、地球人とM78星雲人の思いの象徴なんです。

「二人」の願いは、あそこで一致している。
だから意識的に、同じポーズにしているんです。
しかも分割画面で、その思いをより強調しているわけですね。


ただ、ウルトラマンはあそこで、ゴメスと戦うことが目的ではなかった。
あくまでリトラを護るために、変身したのです。
だからゴメスのレーザードリルを避けず、飛び去るリトラの盾になったんですね。
ウルトラマンを、ただ戦うだけの存在にしたくなかったんです。


私が考える「ウルトラマン」の世界は、そんな描写にも表れていると思います。
さらにリトラとの関係に、「バラージの青い石」で見られたような
地球とM78星雲人の過去の交流も匂わせて。

本質は光である超生命体が人間と心を通わせるなんて
素敵なセンス・オブ・ワンダーじゃありませんか


そんな妄想が可能なのも「ウルトラマン」という作品の懐の広さなのでしょう。
他の作品では、こうはいきませんからねー。
「カラータイマーは予算の都合による特撮尺から来た」「成田亨氏は嫌っていた」
など、当時の事情は色々ありますが、そこを想像力で補う努力をしたいなと
確かに、平成ウルトラに導入済みの設定ではありますが
M78星雲組に当てはめても、遜色ないと思います。

兄弟設定よりこっちの方が、ウルトラマンの世界が広がるような気も。
光に「兄さん」呼ばわりは似合いませんから


Photo_10











大魔王シャザーンから、今回もずいぶんお話が転がってしまいました
ウルトラマンの潤沢な世界観については、まだまだお話したいことがありますが
今日はこのくらいにしておきましょう。
幼い日、そんな素晴らしい物語を受け取っているから
私は初代ウルトラマンから、離れられないのかもしれませんね



Photo_12




「ハイハイサー」と今日もがんばりました。
今日までの累積歩数、212463歩。

人類メタボーまで、あと
69

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2009年3月12日 (木)

『ゾフィゾフィゾフィ』の呪縛

全てが明るい希望に満ちていた、あの幼い日。
1967年4月9日。
幸運にも「ウルトラマン」本放送の最終回・「さらばウルトラマン」を
「目撃」できた私はそれからの毎日、同じ感動を体験した仲間と
その話題で盛り上がっていました。

お互い、物心もつかない幼児たち。
ホームビデオなど存在しない頃でしたから、頼れるのは鑑賞の記憶だけ。
それでも興奮はさめやらず、大声ではしゃいでいた思い出があります。
「えーウルトラマンしんじゃったよー!」
「ゼットン、つよかったねー。」
幼心にあの最終回は衝撃的で、ただただその感動を伝えるのに
やっきになっていたのですが、その中で一つ、今も忘れられない記憶がありました。
まー子どもでしたから、他愛の無いことなんですが。

「さいしゅうかいにでてきた『ゾフィゾフィゾフィ』って
ウルトラマンとおんなじかおしてたよね。」


当時まだ幼児だった上に兄の居ない私は、少年雑誌などでウルトラマンの最終回が
事前告知されていたなどの知識はありませんでした。
今に至っても、そういう事実があったかどうかは知りませんが

ただ一つだけ、強烈に覚えていたのは。
最終回、瀕死のウルトラマンに「命を二つ持ってきた」宇宙警備隊員・ゾフィー。
事前にその登場を知らされていなかった私たち幼児は
彼の名前をウルトラマンが発したエコー交じりの呼び名

『ゾフィゾフィゾフィ』としか認識できなかったのです。
そりゃそうですよね。事前情報なしですから。
まー当たり前と言えば当たり前。同い年の友達も誰一人
彼の名前が『ゾフィー』という事を知りませんでした。

今、ビデオ等で確認すれば、ゾフィーは登場時に名を名乗っていますね。
でもそれは一度だけ。子どもにはウルトラマンが彼を呼んだ
「ゾフィゾフィゾフィ」の方が、圧倒的に印象的だったのです。


今は信じられないかもしれませんが、1967年の「ウルトラマン」最終回放映当時
事前情報を持たなかった子ども達は、すべからく彼の事を
『ゾフィゾフィゾフィ』と思い込んでいたのではないでしょうか。
少なくとも、私の周りではそうでした

「オープニングの出演者クレジットには表記されていた筈」
というご意見もあるでしょうが、確認してみるとクレジットにはゾフィーの名前は
出ていませんし、登場怪獣欄にもゼットン以外は表記されていません。
ゾフィーの登場はシークレット、今で言うサプライズゲストだったわけです。
まー万が一クレジットされていても、幼児に確認する知恵はありませんしね


まーそういう事はともかく。今回、ここが一番重要なのですが。
ウルトラマンは彼、『ゾフィゾフィゾフィ』の事を
一度も『兄さん』とは呼んでいません。

ウルトラマンとゾフィーは、この時点ではまだ『兄弟』ではないのです。
そんな設定は、かけらほどもありませんでした。



まー当たり前のお話ですね。「ウルトラ兄弟」という設定が確立するのは
1972年の「ウルトラマンA」まで待たねばなりません。
ウルトラ兄弟。当時の子ども達を狂喜させ、後に第一期ウルトラを愛するファン達から
やり玉に挙げられたこの設定は、私にとっても非常に悩ましいものでした。
ウルトラシリーズ全篇を通じ、今やファミリー化にまで発展し、それを基にしなければ
新作が作れないほど大きなバックボーンとなった設定ですね。

私がなぜ、久々にその設定を思い返す事となったのか。
そのきっかけは、ウルトラ映画最新作『大決戦!超ウルトラ8兄弟』を
観た事でした。


昨年公開され、ウルトラ映画史上最高動員数を記録したこの作品。
ご覧になった方も多いでしょう。
M78星雲出身組と平成組のウルトラマンが世界観をリンクさせるという
ギミックに、期待された方も多かったのではないでしょうか。

中でもタイトル通り、M78星雲組には完全に『ウルトラ兄弟』の設定が
組み込まれ、その通りのストーリーが展開しましたね。

それに先駆けること二年。2006年に公開された『ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟』は『メビウス』世界をベースにしたストーリーでしたが
今作共に、兄弟の存在が前面に押し出されたものでした。


両作品とも、私はDVD鑑賞したのですが、その印象はまったく同じで。
身も蓋もなく言ってしまえば。
「出演者全員が自分と知り合いの劇団公演を見せられている感じ。」

お分かりでしょうか。私の感覚を。
要はこの二作品、知り合いが出ているから見ないわけにはいかない。
しかも全員が自分との知り合いである手前、酷評もできない。
馴れ合いのメンバーでおざなりのストーリーが展開される、ヌルーい世界。

そういう感じなんですよね。


正直、これを見て批評しようという気持ちには、とてもなれません。
まーもともと、批評なんて上から目線は嫌いな私ですが、それを「感想」という
言葉に置き換えても、何にも思い浮かばないのです。
「これはこういうものでしょ」「私のウルトラとは違うけど」
という、諦めにも似た感覚があるだけで。


なぜ、こういう気持ちになってしまうのでしょうか。
プロデュース的にもディレクション的にも、素晴らしい作品ではあります。
現在の邦画事情でこれを作り上げたご努力には、本当に感服いたします。
しかもハヤタ隊員やフジ隊員、その他歴代ウルトラ作品のオリジナルキャストが
大挙して出演する、ある意味奇跡のようなキャスティング。
怪獣も旧作のイメージを最新技術でリファインしたスマートな造形。
クライマックスは大迫力のCGで、かつてない戦闘シーンが用意されているというのに。
46インチの大画面で観ても、興奮や感動がいっこうに沸いてこないいらだち。
年を重ねた上の感力の衰えというだけでは説明できない居心地の悪さが
続くばかりで、私は漫然と画面を追う事しかできなかったのでした。


「この作品からは何かが抜け落ちている。
昔、夜も眠れないほど興奮したあのウルトラ世界にあった、何かが。」

何なのでしょうねこの感覚。ご覧になった方、どう思われましたか?


「ウルトラ兄弟かな。一番の原因は。」
その考えに至るのに、時間はかかりませんでした。

平成ウルトラ組のドラマはそれなりに良いんですよ。
テーマも彼らのサイズに合った等身大のもので。
「夢を諦めない」「希望を捨てない」というテーマは、ティガから始まる
平成ウルトラに共通するものですから。

でもそんな彼らを励ましバックアップする役どころの『ウルトラ兄弟』が
どうにも受け入れられない。
さながら異なる血液型の血を輸血されるかのような、強烈な違和感が。

これはもう、第一期ウルトラに魅入られた者に一生つきまとう、重い足かせ
なのかもしれません。


『ウルトラマンは「ゾフィゾフィゾフィ」を、兄さんとは決して呼ばなかった。』
幼い心に強烈に刻み込まれたこの事実だけは、変えようがありません。
あの「マン」最終回の一場面が、後年になってこれほどの影響力を持つとは。

彼らは、人間臭く所帯じみた「兄弟」という世界に似つかわしくはない。
そんな枠に収まりきらないほど、ウルトラ世界は潤沢で神秘的なものなのに。
1980年代、ファンが一番の論議の基としたそのジレンマに、私はまたしても
はまり込んでしまったのでした。


以前、お仲間と電話でウルトラ談義をした時、私はこんな事を言いました。
「私にとってウルトラマンは、作品も存在も初代放送時だけ。
新マン以降に客演した初代マンは、私には別人としか解釈できない。」

この思いは今も変わっていません。
後年の公式設定があろうと黒部進さんが人間体を演じようと
本放送で見た「マン」最終回の印象がそれを上回ってしまうのです。
ある種のトラウマと言ってもいいでしょう。
だから、後続作には全然乗れない。ましてやウルトラ世界を身近にこそすれ
神秘性を奪ってしまった「兄弟」の設定を受け入れられる筈も無いわけです。


これは、作品や設定の良し悪しを言っているわけではありません。
兄弟の設定を導入した事で、ウルトラ世界は現在まで続く人気を
獲得したわけですから。
この事実は非常に大きく、ウルトラというビジネスを成功に導いた
最大功績と言えるでしょう。
ですから良し悪しで行けば『良い』に決まっているんです。


でも以前から申し上げているように、『良い悪い』と『好き嫌い』は違うんですね。
兄弟や家族、シルバー族やレッド族なんて小さな世界じゃなく、
『人間程度の知能ではおよそ理解できない思考回路、生命感覚を持つ存在』
であって欲しいんですよ。ウルトラマンは。

赤い玉に乗って宇宙を移動し、何万歳もの寿命を持ち
生命さえも持ち運べる存在。
これほどの超存在が、兄弟や家族なんて枠に収まって良いはずがないと。
バルタン星人やダダと肩を並べられるほどの、神秘性に満ちた宇宙人なのに。


「ウルトラマンは神じゃない。」
劇場作品『メビウス&ウルトラ兄弟』で、ハヤタ氏の口から
こんなセリフが出ました。
確かに、ウルトラマンは神じゃありません。
でも、人間とはまったく別の存在、『宇宙の謎』であって欲しいんですよ。
人知の及ばない、まさしく『ウルトラな存在』に。


そんな私は、決して『ウルトラ兄弟』という設定を受け入れる事はできません。
ましてや勢ぞろいで戦うなんて。ウルトラマンは戦隊じゃないんですから。

おそらくこの感覚は、新マン、A以降の作品に思い入れをお持ちの方には
ご理解頂けないでしょう。今のお子さん達にも。
すでにウルトラマンは単体ではなく、ウルトラ兄弟ありきの存在になっているし。
幼児期に兄弟設定に触れ、ウルトラファンになられた方も多いでしょうし。

それはそれで良いんですよ。兄弟が入口になる事だっておかしくありません。
ですからきっと、私とウルトラ兄弟ファンには住み分けが必要なんでしょうね。
本放送で「ゾフィゾフィゾフィ」を聴いた者と、それ以降の方と。
視点は違いますが、お互い仲良くやっていきましょう


念のため何度も申し上げますが、それが悪いという事じゃないんですよ。
決して兄弟設定や、作品の出来を否定しているわけではありません。
あくまで個人的な、好みの問題です。

幼児期に受けた印象とは、それほどまでに強いものなのです。
決してご立腹なさらぬよう。


久しぶりに観たウルトラマン新作に、そんな事を考えてしまいました。
まさか、本放送最終回の記憶を思い出すとは。
怖ろしい物ですね記憶って。今まですっかり忘れていました。
あの記憶が、私のウルトラ観を決定づけたという事です。



既に何度も告知させて頂いた『ウルトラマン13.5話 リトラを護れ!』も
このスタンスで作られています。

『ウルトラマン』第13.5話『リトラを護れ!』監督・オタクィーン
http://ameblo.jp/ultra-taiga2/entry-10221822626.html


もし作中で、初代マン初期の空気が再現されていたとすれば
それは、私の中にあるウルトラマン世界が初代のみだからでしょう。
後発の作品は切り離して、と言うより、考えられないんですね。
まーおバカゆえ、頭が回らないのが本音ですが



最後に、一つお詫び致します。
『リトラを護れ!』について、アップされたプログ『光の国の物語』には
たくさんのコメントが寄せられました。本当に感謝したいと思います。


ただ残念に思ったのは。関係者と一部のお仲間以外
「ネヴュラ」読者の反応がほとんど無かった事でした。
二次創作とはいえオリジナル作品ですから
こういう時こそ、読者の皆さんのご意見が聞きたかったんですが。
それは何よりも、私の力不足が原因でしょう。


「ネヴュラ」読者の手をキーボードに向かわせるだけの力が
拙作に無かった事を反省し、今後はさらに精進したいと思います。
ハイクォリティーの写真特撮を実現して下さった、市川大河さんにも
力不足をお詫びします。本当に申し訳ありませんでした

やはり拙作は、新ブログ一作目には荷が重かったようです

『光の国の物語』では、今後もそうそうたるメンバーによる
オリジナルウルトラストーリーが発表されます。

拙作など足元にも及ばない素晴らしい作品ばかりですので、
どうかこれに懲りず、後続作品にも目を向けて下さり
よろしければ感想などコメント頂ければ幸いです。
わがままなお願いで申し訳ありません。なにとぞよろしくお願い致します。



Photo





春を感じさせる陽気に足取りも軽く。
今日までの累積歩数、166135歩。
人類メタボーまで、あと73

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2009年2月27日 (金)

究極の怪獣ゴッコ

えーちょっと遅れましたが。
まとまらないながら、やっぱりお話した方がいいだろうという事で。
前置きなしに始めましょう。

24日深夜、24時10分からNHKで放送された
『テレ遊びパフォー!』特別企画『長髪大怪獣ゲハラ』の感想です。


この『ゲハラ』は、以前「ネヴュラ」のお仲間から頂いたコメントで知りました。
このプロジェクトは、番組内で怪獣のデザインを一般公募、入選作品を主役に、一本の怪獣映画を作ってしまおうというもの。
アートマスターにみうらじゅん氏を迎え、デザインからクライマックスの絵コンテ、特撮スタッフからモブシーンのエキストラまでをボランティアで集め、徹底した視聴者参加で進める一大企画。
件のお仲間は、絵コンテに応募されていたのです。

その繋がりに加え、以前、東宝撮影所の取材にご出演頂いたみうらじゅん氏が手掛ける怪獣映画ですから、これは見ないわけにはいきません。
さらに製作総指揮は平成ガメラの樋口真嗣氏、監督は氏の弟子とも言える田口清隆氏。
この鉄壁の布陣と来れば、期待はいやがおうにも高まります。

Photo













ちなみに番組ホームページはこちら。
http://www.nhk.or.jp/paphooo/project/gehara.html

番組内企画でありながら、出演者・特撮など、かなり本格的な姿勢で進められたこの作品は、完成後に上映会まで開かれ、賞賛の嵐を浴びました。

その話題作の放送ですから、私も万全の準備を整えました。
こういうのは初見の印象が全て。ネヴュラ座46インチでのリアルタイム鑑賞はもとより、タイマー録画も怠りなくセッティング、迎撃態勢は整いました。

劇場気分を出す為に部屋は消灯、こたつの傍にはお菓子と飲み物まで用意しちゃって
で、迎えた24時10分。

本編前のメイキングを耐えるがごとく鑑賞後、ついに公開された『ゲハラ』。
まー本編は15分しかないので、あっという間に終わっちゃいましたが



さて。読者の中でこの『ゲハラ』をご覧になった方、どんな印象を持たれましたか?
と言うのはこの作品、見た人の『怪獣映画マニア度』を計る、モノサシのような効果があるんですね。

鑑賞後、この作品への感想ブログを検索してみたんですが。
「懐かしい」「うわー怪獣映画だ」的なストレートな感想を別として、
一番多かったのが「こんな役者が出演していた」的な一般ファン的意見。
次に「このシーンの元ネタはこの作品」的な旧作ファンの「ちょっと知識自慢」。
続いて「怪獣映画をパロディ化した作品姿勢を認められるかどうか」の意見。
おおまかに分けるとこんな印象です。
他にも特撮技術、怪獣デザイン、今後の怪獣演出のあり方まで言及した記事もありました。


多かれ少なかれ、およそ作品という物は、受け手のマニア度によって前述のように感想が分かれるものですが、この作品の場合「真剣にパロディに取り組む」という製作姿勢だったので、余計に意見が階層化してしまうんでしょうね。
でまあ、その感想はどれもごもっとも。
タイトルバックだけハイビジョンサイズだろうと。
最初の被害者名が「田崎明」さんだろうと。
藤井美菜ちゃんが可愛かろうと。
外人さんが「アタラシ、キカイ」の設計図を持ってこようと。
音楽が伊福部昭氏だろうとゲハラのガス演出が防衛隊員の鼻までワンカットだろうと。皆さんのおっしゃる通りな訳です。

要はこの作品は、そうやってワイワイ楽しむものなんですよ。
ゲハラは「怪獣映画」じゃなくて、「怪獣映画ゴッコ」なんですから


アートマスターのみうらじゅん氏は間違いなく、この作品をそういうスタンスで作っています。
東宝特撮映画を封切り当時に見た末、後々映像ソフトで穴の空くほど鑑賞、
自宅でツッこみを入れている私のような怪獣マニア。
その行動を逐一想定して。
で案の定、見た皆さんは、みうら氏が予想した通りの行動をとっているんですね。
そこまで含めて、この「ゲハラ」は視聴者を「怪獣映画ゴッコ」に巻き込んだ訳です。
作る方も「映画ゴッコ」なら、見る方も「ツッこみゴッコ」。
私を含め怪獣好きな方々は、みうらさんの掌の上で踊らされていると。


「じゃーオタクイーンは、この作品を否定しているの?」
なーんてご意見もおありかもしれませんね。
ところが。私はもうこの『ゲハラ』、もろ手を上げて大絶賛なんですよね
いやー良かった。久しぶりに怪獣映画を見ました。
放送後DVDにダビング、何回再生したことか。

本編5秒前カウントリーダーのところでチャプター分割、いつでもメイキングを飛ばして本編を見られるようにしちゃって


だからこの作品は作り手の「ゴッコ遊び」を楽しめるかどうかが、一つのハードルになっちゃってるんです。
まともな怪獣映画を期待していた濃いマニア諸氏の中には、この作品に憤懣やるかたない方もいらっしゃるんじゃないかと。
「怪獣映画をバカにしてる」「作り手の愛を感じない」などなど。
でもですね。この「憤懣やるかたない」というレベルまで作品のクォリティーを上げる事って、ものすごく大変なんですよ。


よくあるウルトラ、ライダー、戦隊モノのパロディ作品って、マニアの皆さんは「憤懣やるかたない」って感覚にはならないような気がします。私も含めて。
「あれはああいうモノでしょ」と割り切りますよね。
つまりそれは「元々、レベルには期待していない」という暗黙の了解があるからです。
で案の定、作品はそういうレベルですよね。
作り手と受け手の間で、作品レベルに対する認識が共通しているわけです。

ところが『ゲハラ』に関しては「ここまでやったのに何でパロディ?」
みたいな感覚があるんじゃないかと。

実際、本編、特撮共に、そのクォリティーはすごいですよ。
予算はNHKスペシャル一本分。私はその額を知らないので何とも言えませんが、テレビ番組一本分の予算で、あれだけの物を作れるのは本当にすごい。

それはやっぱり、スタッフを含めた視聴者参加企画だったからでしょう。
人海戦術の予算を省けた効果は、実に
大きいと思います。
特撮場面だけ見て平成ガメラの新作カットと言われても、誰も異論は無いんじゃないかと。本気で作ってるから、ちょっと画面が「重い」んですよね。
「フージン」の威力で屋根瓦が飛ぶカットなんて、平成ゴジラを超えたような気も。


でもそのクォリティーは全て、パロディ作品だからこそ必要なんですね。
パロディだからこそ、真剣にやらなければ面白さが出ない。

おそらく、本編中の誰か一人でもおふざけをやっちゃったら。
ゲハラが踊りだすようなまねをしちゃったら。
マニア諸氏はこの作品を「語るに値しない作品」に位置づけるはずです。

それが「あそこまでやったのに感」を持つって事は、それだけまともな作品だった証明なんですよ。


たぶんここで、筋金入りのマニア諸氏はこう思われるでしょう。
「あそこまて出来るんなら、なぜ真面目に怪獣映画を作らないのか?」
実はコレも、予算と大きな関係があります。
あの特撮クォリティーでちゃんとした怪獣映画を作れば、とても15分や30分のストーリーでは着地できません。最低でも一時間は必要でしょう。
その予算があるかどうか。
そのコストパフォーマンスを考えれば、ああいう形にならざるをえません。

今回の成功はある意味、「バカバカしさを勢いで押しきった所」にもあるのです。
「短すぎた」という感想も多かったですが、そう感じるという事は、それだけ面白かったという事ですよね


製作現場の立場で申し上げますと、俳優や特撮の真剣度は画面に出ます。
つまり観客が思っている以上に、製作側は本気なんですね。

怪獣マニアで有名な佐野史郎氏だって、あれは狙ってやっているわけで。
それを分かってツッこまなければ、大人の遊びとは言えないんですよ


おバカな私が巧妙だなーと思ったのは、本編と特撮のテイストの違いで。
この作品、本編のカット割りは「昭和の東宝特撮映画」で、クライマックスの都市破壊シーンは「平成ガメラ」なんですね。
手持ちカメラのブレや画角の切り取り方が。

つまり昔のパロディとは言いながら、ちゃんと現在のニーズに応えているんですよ。


その戦略はおそらく、予算の問題から逆算されたものでしょう。
大セット組み不可能によるパノラマカットの不在、照明機材の制限によるナイトシーン、カメラのブレさえセットのアラを見せないための処置だったと思います。

予算一点集中の金沢駅破壊を存分に見せる事で、ゲハラの存在感をアピールする手腕も見事。46インチで見ても、まったく貧相じゃないんですよね。
ゲハラ対フージンのロングカットが合成に見えないのも、ナイトシーンの利点でした。樋口監督直伝の「節約特撮」は、ここでも最大の効果を上げたわけです。
その中で暴れるゲハラの目の発光が、黒い体躯との素晴らしいコントラストを見せてくれましたね。
「動物の目は光らない」なんてツッこみを入れるのはヤボというもの。
カッコよければなんでもアリと思います。そういう世界観なんですから


ちょっと不足気味に見えたゲハラの「長髪」という特徴も、予算の関係でオミットせざるを得なかったのでしょう。

ビルにからみつくあの長髪とか。もっと見たかったですもんね。
予告編でCG処理された「長髪攻撃」が限界だったのかもしれません。


予告篇と言えば。これは多くの感想で書かれていましたが。
アレの元ネタは、「ガメラ2レギオン襲来」のそれですよね。

昭和の東宝特撮をパロっておきながら、着地点はちゃっかり近作で締めるセンスに感服する訳です。
確かにアレを見て「昭和東宝なのか平成大映なのか中途半端」みたいな感想もあるでしょう。でも、こういうテレビ企画の場合、やっぱり近作ファンへの目配せも必要じゃないかと。
なにしろテレビですから視聴層も広い。「We did it!」は分からなくても、元ネタを平成作品に求める近作ファンの楽しみを残しておくのは、非常に重要なのです。
これが劇場作品やオリジナルビデオだったら、お話は別ですが。
同じ映像作品でも、露出媒体によってはそれほど内容が異なります。
画面だけ見ていては、そういう裏事情は分からないかもしれませんが。


そんなわけで。どこを切っても素晴らしい作品ですが。
唯一、惜しいなと思った点は、今作の田口監督の「文字センス」でしょうか。
私はデザイン学校出身ゆえ、ちょっと過敏に反応しすぎるのかもしれませんが。
たぶんフォントが無かったんでしょう。テロップの書体が昭和作品と違うような。
で、決定的なのは、「テロップが大きい」。
最初の「日本海・能登半島沖」から、ちょっと文字が大きすぎましたね。

昭和作品の雰囲気を出したかったのでしょうが、当時のテロップ文字はあれほど大きくなかったと思います。
さらに言えば、予告編二枚目のテロップ「迫り来る悪魔の侵略者」の「侵略者」に、「インベーダー」というルビは必要なかったような。
ここでは悲しいかな変換できませんが、「魔」の字をいにしえの略字にしたなら、
比較的新しい読みの「インベーダー」じゃなく、普通に「しんりゃくしゃ」と読ませて欲しかったなあと。


なーんて事は蛇足ですね まー私も、ツッこみごっこに参加させてもらったという意味で、ちょっと言わせて頂きました。ごめんなさいね。
でも、それくらいしかツッこみ所がないという事が、この作品の見事さを証明しているわけで。「ゴッコ」なんですから「ゴッコ」。
そうやって楽しむ作品ですよ。これは。


いやーやりますねーNHK
民放じゃこんな企画、絶対に通りませんよ。予算的にも。

発売予定のDVDは、監督が泣く泣く落としたカットを網羅した30分バージョンだそうで。真偽のほどはわかりませんが、それも見てみたいとは思います。
『ゲハラ』の感想、解析など、もしおありでしたら、ぜひお寄せ下さい。
おバカな事しかお話できませんが、それを語るのも「怪獣ゴッコ」の一環なんですから。せっかく盛り上がってるのに、乗らなきゃ損ですよね


Photo_2





今日も寒い中、懲りずにウォーキング。
今日までの累積歩数、52263歩。
人類メタボーまで、あと86

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2009年2月11日 (水)

幻のクライマックス

先日、『七人の侍対ゴジラ』なんて超大作を妄想したおかげで、
創作系のお仲間からコメントを頂きました。それもお二人も

で、私も、昔から見たかった場面、言わば「幻のシーン」を思い出してみようと。
まー頭の無い私ですから、数少ない手持ちの写真から探す程度ですが。

まず、真っ先に浮かぶのはコレですね。

Photo_2意外に思われるかもしれませんが、私が最も見たい怪獣破壊シーンは、
このギャオスなんですよ

しかもこの、「画面手前の人物に対し、奥から低空飛行で迫る昭和ギャオス」
っていうシチュエーションが怖い
以前にもお話したかもしれませんが。

人間と怪獣がどこか隔絶された世界に感じる東宝特撮に対し、大映怪獣は人間世界に容赦なく侵入してくる恐怖が魅力。
しかもこのギャオスは「空からの食人獣」という点で、他の大映怪獣と一線を画しています。

これは公開当時に発売された5円ブロマイドなんですが、この空想場面は今でも夢に出るほど怖い。買った当時、頭に刷り込まれてしまいました。
赤いギャオスの翼、口元が生理的な恐怖を喚起し、人間との距離感も絶妙。
次の一瞬、急降下して被害者が出るか、超音波メスで阿鼻叫喚なんて大スペクタクルシーンが展開されそうな。

『大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス』映画本編にも、ここまで迫力あるシーンは無かったと記憶しています。手前の人がいいんですよ。人が


で、次はコレ。
Photo_3まーこれも皆さんよくご存知の「夢の対決」なんですが、やっぱりキングギドラともっとも名勝負を演じられるのはこの『キンゴジ』でしょう。
あのキングコングと堂々と渡りあった歴代ゴジラ最高のファイター、キンゴジ。
このゴジラなら、ラドン・モスラのサポートがなくてもギドラとのガチ勝負が出来そうな気も。

後の平成ギドゴジより、この昭和ギドラVSキンゴジの方が好カードと思ってしまうのは、邦画黄金期を知る私のひいき目でしょうか


テレビに目を向ければ、やっぱりコレかな。
Photo_4ご存知、ウルトラQ怪獣の揃い踏み。それも当時の着ぐるみを使ったカラー作品で。

巨大化したカネゴンなんて、今の日本では生きていけないだろうなーなんてリアルなお話は置いといて、やっぱりカラーでペギラとパゴスが組み合う図なんて見てみたいですねー。
しかも文明の破壊者・ゴーガまで参戦するとは。

冷凍光線対分子構造破壊光線対強力溶解液対「お金くれよー」攻撃。
しかもみんな東京タワーサイズ。四大怪獣の攻撃に、帝都の運命やいかに!
『大怪獣バトル』でも、ここまで豪華な対決はなかったような気がしますが。
(最近は未見なので、大きな事は言えませんが

他にも見たいシーンは色々あるんですが、今回は写真が見つからなかったのでこれくらいにしましょう。また何か見つかったら、第二弾を考えてみます。


Photo_5最後に。カラーで「Q」と言えば何といってもまず、この対決が浮かぶんですが。
もちろん、CGを使わないオリジナルテイストで。

でもこの夢は、いずれ実現しそうな予感が・・・
だから怪獣オタクはやめられません

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2008年10月 4日 (土)

怪獣大血統

「あらー。しまった。」
ご贔屓のネットショップを覗いてビックリ。
予約したかったオタクグッズに売り切れの表示が。発売前なのに

まだまだ日があるからなんて余裕でいた所への、突然の衝撃でした。
見つけた時が買い時という、オタクの法則をすっかり忘れ
あい変らずのボンヤリ人生で

で、あわてて他のネットショップを検索、何とか予約できました。
あー危なかった

Photo_2頼んだ品はこれ。インスパイアから今月下旬に発売予定の「スペクトルマン」登場怪獣、三つ首竜です。
大きさは20センチもあるそうで

過去、三つ首竜の立体化は数えるほどしかなく(いや、どんなアイテムもそうなんですが)しかもリアル造形による大きなサイズは皆無と言ってよかったので、今回のリリースは嬉しい限り。
雑誌や事情通の方々のブログでこの発売を知って以来、予算を組んで狙っていたのですが。ここに意外な伏兵が登場。
なんと今月末に、あの海底軍艦・轟天号の新世紀合金が発売されるというぢゃありませんか

Photo_8なにしろウチはコタと二匹の貧乏暮らし。そんな高い買い物を両方する事は出来ません
うーむ困った。腕組みがこんがらがるほど考える私。


でも人気アイテムであればあるほど、発売前のネット予約で既にソールドアウトが当たり前。
ネット情報に目を光らせていなければ、発売の事実さえ知らずにゲットチャンスを逃す事もざらですよね


今買い逃せば、二度と手にする事は出来ないと焦る毎日。とりあえず轟天号(限定版・汚し塗装)を先に予約し、この三つ首竜は懸案アイテムだったのですが・・・
今日の売り切れ表示に、背中を押されました
まだ現物は見ていませんが、届くのが楽しみですねー

でも高いなー。上記二点で、今月のオタクグッズ散財は既に2万円を超え
借金などもってのほか、いつもニコニコ現金払いの私は、カードも全く使いません。
その為、手持ちの現金が無くなると、すぐ生活に響いてしまうのです。
先月までは毎日食べていたバナナも、朝バナナダイエットの流行で倍以上に値上げ、しかも品薄で買えないし
一丁48円の特売トウフに、花かつおをまぶした冷やっこを主食とする日々が、とうぶん続きそうで
ダイエットにはいいけど、バナナも食べられない極貧というのはどーなのと
見れば、コタにさえ哀れみの視線を向けられる始末

Photo_3まー愚痴はともかく、三つ首竜とくればもう、スペクトルマン好きの私には必須アイテム。
今もDVDを見ながらの執筆ですが、やっぱりこの独特の雰囲気は、ピープロファンにはたまらないものがあります。
ナイトシーンの暗さも含めて。

(バッテリーライトとレフで何とかなったと思うんですが、現場の事情は現場でしか分かりませんしね


Photo_4「ネヴュラ」をご覧の皆さんなら、この大怪獣のデータをお話する必要も無いでしょうから割愛しますが、この三つ首竜、やっぱりデザインに非常な魅力を感じますねー。
キングギドラ的三本首の解釈が、東宝とピープロでなぜここまで違うのかと

金色に輝く神々しい竜を思わせるキングギドラに比べ、三つ首竜のモチーフは明らかにワニですからねー。
いいわーこの合体ディノクロコ。これがピープロテイストですよ


「豹マン」「ライオン丸」「鉄人タイガーセブン」「シルバージャガー」などなど、とにかく動物をそのまんまモチーフにするピープロの発想は、こと怪獣に関しても存分に発揮されていたようです。
まー「ゴリ」からしてお猿さんですしね

要はピープロって、他社に比べ「キャラ中の動物濃度が高い」んですよ。
ゴキノザウルスやサンダーゲイなんてそのまんまですもんね。バクラーなんかもその系統ですし。ネズバートン、モグネチュードンなんかも・・・
そう考えていくとキリがありません。
交通事故被害者の念が形になった怪獣・
クルマニクラスにしたって、信号機がモチーフなのにちゃんと「動物濃度」がある。目の上のシワとかに
ビーコンなどと較べて見れば、その差はお分かりになるかもしれません。


Photo_5三つ首竜の造形はウルトラ怪獣も数多く手掛けた故・高山良策氏の作ですが、季刊「宇宙船」vol.14(1983年春号)に掲載された氏の怪獣製作日記によると、氏はこの着ぐるみを、1971年6月19日~7月6日の間で製作しています。
製作期間は単純計算で18日。その間、他の仕事もあったでしょうから、実質製作時間はそれより短かったと推測されます。

氏の代表作、ウルトラ怪獣と比較してみましょう。
高山氏初のウルトラマン怪獣・アントラーの場合、同じく製作日誌(「宇宙船」vol.4 1980年秋号)によれば、着ぐるみの製作期間は1966年(と推測)4月12日~5月1日。単純計算で20日間です。

(「宇宙船」vol.4記事の記述「昭和42年」は誤植でしょうか?「マン」アントラー登場回の製作は昭和41年なので、拙記事では誤植と推測、1966年と表記しました。該当号をお持ちか、事情をご存知の方はご教示下さい)
三つ首竜・アントラー共に、一体20日間前後の製作期間である事が分かりますね。要はかけられる手間は同じという事。
日数だけで推測するのはやや乱暴かもしれませんが、どちらかがお手軽造形という訳ではなさそうです。


同じ造形師の手による怪獣なのに、円谷とピープロではテイストが全く違う。
この雰囲気の差はどこから来るのでしょうか?


Photo_6ここからはいつもの私見ですが、やっぱり円谷側もピープロ側も、互いに相手を意識していたという事なのでしょうね。
そうでなければ、同じ造形師の作品がここまで違いを見せる訳がない。
モグネチュードンとグドンが同時期に作られていたなんて、信じられます?


「いやーオタクイーン、それは今の目で見るからだよ。子供が見たら見分けはつかないんじゃない?」
いや。これは、私が子供の頃に強烈に感じた違いなんですよ


あの当時、1971年頃の怪獣ブームをリアルタイム体験された方ならお分かりと思いますが、当時のスペクトルマンは、言わばフジテレビがTBSのウルトラに対抗して放った話題作で、お昼の主婦向けワイドショーなどでもたびたび取り上げられていたんです。

夏休みか冬休み、あるいは春休み、祝日だったかもしれません。
子ども達に向け、当時のワイドショーが「スタジオに怪獣がやってくる」みたいな企画を放送した日がありました。

私はその特集の事を当日、新聞のテレビ欄で知り、正午を今か今かと待ちわびていました。
お昼ごはんは、母が作ってくれるインスタントラーメン。
飲み物はコップの水に過ぎませんでしたが、子供にとって怪獣とラーメンなんてこれ以上無いほどのゴールデンカップリング。
今のように録画機器などない当時、たった一度の放送を網膜と脳に焼き付けようと、いやがおうにもテンションは上がります

で、いよいよ本番。当時、アトラク怪獣と言えば「ウルトラファイト」のイメージが頭にこびりついていた私は、スタジオにも、あの耳の垂れたエレキングや異様にハサミの膨らんだバルタンが現れるものと思っていました。ところが。


ご丁寧にも、スタジオに特設された街のミニチュアセットに現れたのは、なんとスペクトルマン怪獣、サタンキング!
他にも何体か居たと思いますが、はっきりとは覚えていません。(何か今日のお話って、ピープロ怪獣を知る方限定みたいで心苦しいですが
「見た事もない怪獣だ!でもウルトラ怪獣じゃないな。なんか違うもん。」
私はその時、そう直感したのです。


そりゃ子供ですから、フジの番組にTBSのウルトラ怪獣は出ないなんて大人の事情も、サタンキング登場回が放送前なんて局の事情も分かりません。
でも私のオタクセンサーがビンビン反応するんですよ。
「これは絶対、ウルトラマンと戦う怪獣じゃない」って

さんざん街のミニチュアを破壊するサタンキング。ご丁寧に火や煙のエフェクトまで仕掛けてあって。ホリゾントには緑に曇った空まで描かれていました。
当時も今も、ワイドショーは生放送ですから、まさにライブ特撮だったんです。
考えてみれば凄い事ですよねー


まあそんなスタジオでのドンパチはともかく。
幼い私の心には、ピープロや円谷なんてブランドとは関係なく「怪獣の血統」みたいなものが刻み付けられていたのでした。


子供心にもそんな『血統』を感じさせてしまうあたり、ピープロ・円谷の両社がいかにオリジナリティーを競い合っていたかが窺えますねー
現在、ピープロは活動を休止(と信じます)し、本格怪獣番組は円谷の一手市場と化していますが、ピープロテイストを刷り込まれた私などは、キッチュで動物濃度の高いピープロ怪獣の世界をもう一度、なんて思いますねー。
ただそれは「三つ首竜の現代風リファイン」とかそういう方向ではなく、あくまで「スピリットを受け継ぐ」という意味での願望です。

読者の方々だけにそっとお話しますが、例の『宇宙船映像倶楽部』への応募は、私の密かな願い「ピープロテイスト復活計画」の一部でもあるんです。
編集部のスタッフには内緒ですよ


Photo_7いやーまた今回も、三つ首竜のお話から随分脱線してしまいました。
毎度の事ながら呆れるばかり
やっぱりDVDなんか見ながらだと、思いが強くなっていけませんねー。
久しぶりにピープロテイストのお話が出来て、ちょっと嬉しい土曜日の午後です。
ネットショップでの売り切れも、まんざら不幸じゃなかったみたいですね。
散財は凄いけど


こんなに散財が多いと、また働いてお金を貯めなきゃ。
でも考える頭は一つしかないし。
でも口が裂けても言いませんよ。頭が三つ欲しいなんてベタな落ちは

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2008年9月16日 (火)

ウル検・勝手に第81問

先日もお話した通り、例の「ウルトラ検定・3級」の結果が届きまして。
自己採点で分かってはいましたが、全80問中・75問正解で94点。
無事、3級に認定という事で。

お祭りとしては、それなりに楽しくもありましたが。
でもそれから数日、なんか空しい
何でしょう。この空回りする気持ちは

たぶん、こういう事でしょう。
『私はウルトラに、知識でアプローチしようとしていたんだろうか?
ウルトラ世界や舞台裏の単語を正確に記憶している事が、私のウルトラへの愛だったんだろうか?』


決して、満点を取れなかったことへの負け惜しみとかそういう事じゃないんですが
すでにこの疑問は、受検前から感じていたんです。
「だったら、そもそも受けなきゃいいじゃん。検定ってそういうものでしょ。」
そんなご意見もごもっともですね そりゃそうです

でも受検現場へ行けば、また新しい何かが見えてくるんじゃないかなんて期待があった事も事実なんですね。予想もしなかったアクシデントとか。
「まさかこんな問題が」みたいな、知識だけではどうにもならない「愛」を試すようなトリッキーな仕掛けがあれば、なんて。
でもまー、そんなミラクルはなかなか無いもので。

全国規模のイベントですからそこまでの大仕掛けを仕込むのも大変でしょうし、期待する方が無理ですよね。妄想した私に非があるというものでしょう。

そんな妄想を抱くのは、昔、私が経験した、ある入学試験のせいかもしれません。
コメントなどで何度かお話していますが、私は昔、デザインの専門学校へ通っておりまして。その学校の入学試験に、こういう問題があったんです。



問題用紙に描かれていたのは、ある架空の動物のイラスト。
確か木の枝にぶら下がった足の長い動物で、めがね猿と鼠の合いの子のようなフォルムだったと記憶しています。
うろ覚えですが、こんなような問題文でした。


「この架空の動物が誕生した背景・その生態を想像、推理し、文章にて説明せよ。文字数制限無し。」



それまでの人生の中で、私はこんな問題に出会ったことはありませんでした。まーそりゃー、当時の私は高校生活までしか経験していませんから、ここまで常軌を逸した問題に遭遇する機会がなかったんです。
と同時に、この「人間の想像力を試す」「どこまでオリジナリティーの翼を広げられるか」という出題者の狙いには、大きな刺激を受けました。
「これって知識を試すというより、受験者への挑戦じゃないの。」
当時の私はこの一問に大感激。解答用紙が真っ黒になるまで「怪獣私見」を書き込んで、一人悦に入っていたおバカな思い出があります


今にして思えば、それは大学や企業で実践されている論文問題や、発想力テストに近いものだったんですね。
受験者の発想や物事に対する考え、それを人に伝える文章力を試す狙いがある訳です。どこまで他人と違う発想を持てるか。ユニークなアイデアを出せるかにかかっているんですね。
ですからおそらく、この手の問題に正確な点数はつけられないでしょう。
出題した教授が気に入れば合格、なんてレベルのお話で。


私はこういう問題、と言うより「テーマ」が好きなのかもしれません。
ですから「既に決まっている単語や知識を、いかに正確に覚えているか」というジャンルに愛が向かない。「暗記する事」に興味が湧かないんです。
確かに知識は重要ですが、知りすぎていると発想力の邪魔になる。知識だけで物事を構築しようとする為に、発想しようとする回路が働かなくなっちゃうんです。
兵器マニアが戦車のプラモデルを作る際、時々「資料がないから作れない」病に陥る場合がありますが、ちょっと「発想回路の欠落」に通じるような気もするんですね。

もし、そういう史実や知識に愛を注いでいらっしゃる方が不快に思われたらお詫び致します。
そんな皆さんには本当に敬服いたします。決して誤解なさらぬよう。

これは資質の問題。頭の足りない私には到底出来ない事なので
「まーたオタクイーンがおバカ言ってるわ」なんてお笑い頂ければ幸いです



もうお分かりでしょう。私が「ウルトラ検定」のどこに物足りなさを感じたか。
私は今回、3級の問題を15分くらいで終えたんですが、その後ちょっと空しさを感じてしまって。
「これを全問正解する事に、どんな意味があるんだろうか?」
「単語を知ってるって、それほど重要なことなのかな?」

で、今。届いた3級の認定証を手にして、こうも思いました。
「知識って、試すものじゃなくて
『活かす』ものじゃないのかな。」
「確かに知識は3級だけど、私は決して
『ウルトラ力』は高くないな。」


私が漠然と感じた『ウルトラ力』
それはつまり「ウルトラ世界が42年の歴史と共に陥ってしまった袋小路に、この先どうやって新しい光を注ぐのか」という発想の力とでも言うのでしょうか。


過去、ウルトラQ、初代ウルトラマン以外のウルトラシリーズに『ウルトラ力』を感じた瞬間は一度しかありません。
「ウルトラマンティガ」最終三話のみです。好みもありますのであくまで私だけの思いですが。
こればっかりは「やられた!」と思いましたね。
初代ウルトラマン以来、二度と味わえないだろうと思った新鮮な感動が駆け抜けたあの三部作は、これまでのどのウルトラとも違っていながらまさに「ウルトラでしか味わえないドラマ」でした。
これまで「ネヴュラ」でも何度かお話してきましたが、あの三部作こそ、「過去の遺産に捉われない、新しいウルトラを作ろう」とするスタッフの思いが結晶化した瞬間だったのです。


きっと私は知識ではなく、ティガを生み出したクリエイター達の志を目指しているのでしょう。でもそれは、ティガの知識を得る事ではないわけです。
ティガと同じ事をやっていては、ティガを超える事は絶対出来ないからです。
「スカイタイプが出た回は何話と何話」とかそういう知識じゃなくて


例えば、私の思う『ウルトラ力』が試されるような出題が、今回のウル検・3級で出題されていたとしたら。それがまさに「予想もしなかったアクシデント」。
そりゃーもー私は狂喜乱舞。他の問題は全部放っておいて、その回答だけに全精力を傾けるでしょう。
その結果、もし3級に認定されたとしたら、私は今ほどの空しさは感じなかったと思うんですよ。まー無責任な物言いですから、ウル検関係者の方々が反省される事は全くないんですが


前述のように、この手の論文回答は点数化しにくいですし、採点にも手間がかかるでしょう。子供さんも多く受検されましたから、文章力などに不公平感もありますし。
であれば問題とは別枠で、お遊びとして一問くらいそういう出題があっても良かったかもしれませんね。採点外の自由参加扱いで。
回答の中にユニークなものがあれば、ウル検公式HPで発表するとか。
そんな回答の中に、未来のウルトラ作品のヒントが埋もれているかも知れないじゃありませんか。ウルトラ好きが集まるまたとない機会ですし。

実はそういう部分を期待していたんですよ。


ここまでお話すれば、カンのいい「ネヴュラ」読者の皆さんはもうお察しでしょう。「例えばこんな問題はどう?なんて考えてるんでしょ?」
鋭い まさにその通りです。これがブログの利点。
好き勝手書いちゃいますが、例えばこういうのはどうでしょうか?



ifQ.
もし、ウルトラマンがゼットンに勝ち、地球に残っていたとしたら、その後の『ウルトラマン』というテレビシリーズはどういう展開になっていたと思いますか?
また、ウルトラシリーズはどう続いていたと思いますか?



Photo『ウルトラマン』最終話「さらばウルトラマン」で、ウルトラマンを倒した宇宙恐竜ゼットン。ウルトラマンはゼットンに敗れ、地球を去ります。
もし、ウルトラマンが超能力でゼットンを倒し、地球の危機を回避したとしたら。その後のウルトラの歴史は、今私たちが知るものとは全く違ったものになっていたのではないでしょうか?
セブンは?新マンは?またQに戻る?あるいはウルトラシリーズは「マン」で終わっていたかも?となると、その後の「兄弟」の登場もなかったかも?
あのゼットン戦の結末をちょっといじるだけで、ウルトラ世界の歴史はまったく変わってしまうのです。
言わば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」的発想ですね。
後のシリーズにリスペクトしたファンは、そもそもそういう発想からしてあり得ない。自分の好きなウルトラキャラを抹消する事にもなりかねませんから。
とはいえ、決してセブン以降を否定しているわけではありませんよ。
あくまで思考実験ですので、そこは誤解無きよう


知識のみに傾倒していると、こういう発想はなかなか生まれにくいものです。
「だって、ウルトラマンはゼットンに倒されてるじゃん」という所で思考が止まってしまう。

これがオリジナリティーを生み出す上で邪魔になるんです。
少なくとも私の場合は
「知識や歴史を知るから新発想を得られる」というご意見もおありでしょう。
でも「知る」と「縛られる」とは違うんですよね。
私は知識や歴史に縛られたくないと


たぶん「ティガ」を生み出したスタッフは「ウルトラマンはM78星雲の宇宙人」という先入観を打破したからこそ、あの世界観に至る事が出来た筈なんです。私はその部分を賞賛したいですね。
だからこそ「歴史のif」に抵抗がありません。


でも、「翌週にクール星人が攻めてきて」あたりのあるあるネタは今ひとつですね。ましてや「いやいやバンデル星人が」というのも何だか
「ウル検・勝手に第81問」としてお考え下さい。
こればっかりは、知識だけではどうにもならない。
この問題、貴方ならどう料理しますか?
「39話で現場がギブアップしたから」とか「新マンでは初代マンの登場が予定されていた」などの史実はこの際、忘れてみて下さい。
逆に、知識に逃げ込まないことで、純粋に「自分はどういうウルトラが見たいのか」が分かるかもしれませんね。


例によって私が書いちゃうと、また皆さんの発想を妨げる事になりますので、あえて私見はお話しません。
ご自由にお考え下さい。賞品は何も出ませんが


残暑厳しい日中ですが、夜は涼しくなってきました。
ちょっとifの世界に思いを馳せる秋の夜長も、なかなか良いものですよ。
これがホントの「ウルトラQ」だったりして

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2008年8月26日 (火)

まぼろしの笑顔

ちょっと皆さんの記憶力テストを。
お手持ちの映像ソフトを見ずに、記憶だけでお考え下さい。


「ウルトラマン」第一話「ウルトラ作戦第一号」の一幕。
赤い球体の中で、ハヤタがウルトラマンに話しかけられる歴史的なシーンです。
ハヤタに謝罪し、「君と一心同体になるのだ。そして、地球の平和の為に働きたい」と申し出るウルトラマン。
その後、横になリ目を閉じたハヤタにベーターカプセルを与えます。
「困った時にこれを使うのだ。そうすると」
マンの語りに問い返すハヤタ。「そうするとどうなる?」
この時、カメラは目を閉じ横になるハヤタのバストショットを捉えています。


問題は次のセリフです。
「ハッハッハッハッハッ。心配することはない。」
こう笑うウルトラマンですが、この時カメラはカットバックし、ウルトラマンの顔を捉えていたでしょうか?
貴方の記憶に、笑うウルトラマンの表情は刻み付けられていたでしょうか?


懸命な読者の皆さんですからきっと正解も多いと思いますが、実は私、実際の画面と記憶が全く違っていまして。あい変らずのボンヤリですね
皆さんもソフトをご覧下さい。実際にはウルトラマンの笑いは声だけで、画面は前述のハヤタ隊員のバストショットで引っ張っているんです。
つまり「笑い声を聞くハヤタ」という演出なんですね。
一瞬たりとも、ウルトラマンの笑い顔は映っていません。

でも、このカットを確認するまで、私はマンの笑顔が確かに脳裏にありました。
実際には無い映像なのに記憶に残る。これは私だけでしょうか?
何故私は、不気味に笑う宇宙人の顔が印象に残ったのでしょうか?



さて。性懲りも無く、今回もちょっと分かりにくいお話です。ごめんなさいね
「ネヴュラ」は日記という側面もあるので、どうしても日々の思いが出てしまいまして。

実は今、先日来お仲間からお話を頂いているオリジナルストーリーのシナリオ腹案を練っておりまして。
職業柄、私の場合は脳内で映像を想像し、それを文字に落とし込んでいくという手法が身についているゆえ、先日の「怪獣ゴッコ」のような事までやっちゃう訳なんですが。
シナリオは小説ではなく、登場人物の感情の暗示である為、どんなシナリオもセリフと共に「どういう表情や動きをさせれば、この人物の感情を明確に表せるか」に技巧をこらしているわけです。
とかく名ゼリフなどが記憶に残りやすいドラマですが、例えば「無言」や「リアクションのタイミング」だって、非常に重要な要素なんですよ。


今回、シノプシスと呼ばれる大まかなあらすじを作ってみて、まだまだ作劇力の無さを思い知った私ですが、新たな発見もありました。
「怪獣の仕草にも理由がなければ、作品のテーマを語りきれない」という事。
怪獣の動きにしたって、語りたいテーマから逆算されなければならないと思うわけです。「作品世界観の構築」という意味で。


例えばあらすじ上「格闘する二怪獣」という一節があったとしましょう。ところがこの二怪獣、戦う理由は何か?動物本能?天敵だから?因縁があったから?
その理由によって、戦い方はまるで変わってしまうんですね。

ただ組み合って殴り合ってるだけじゃ「ウルトラファイト」になっちゃうんですよ。

暴れる怪獣にしたって、何故その場所を襲うのか理由がなければおかしい訳です。ネロンガは電気を狙って発電所を狙う訳だし、ガマクジラは真珠を食べたいから真珠の輸送車を狙うわけで。

「怪獣が暴れるのに理由なんてない。ただ迫力があればいいんだ」という理屈が、怪獣ストーリーの粗製乱造を生み、堕落させた一因かもしれません。
以前の「宇宙船」企画もそうでしたが、ヒーローや敵役が戦うにはそれなりの理由が必要なわけです。その理由いかんでは、必殺技による敵の殲滅で勝敗を決めない方がテーマをよりはっきり主張できる。
「ウルトラマン」の場合なら、ウーやメフィラス星人の回がそうでしたね。


物語というのはあくまでまず「テーマ」が先にあって、そこから「ストーリー」が導き出されていくものです。
登場人物のセリフ、動き、表情は、すべてこのテーマの為に存在するもので、展開されるドラマ中、一秒たりともテーマに背くことは許されません。
名作と呼ばれるドラマには必ず明確なテーマがあり、そのテーマを骨太に、分かりやすく提示する内容ゆえ、時代を超え人々の記憶に残るのです。

捨石的なギャグやキャラクターの個性ばかりを前面に出したドラマがあっという間に色あせ、時の流れに押し流されていくのはその為です。
「テーマ」より「時代の空気」を大事にしているからです。
流行語や人気スポットが跋扈する1980年代のトレンディ・ドラマなんて、今見たら恐怖さえ覚えるほどで

とはいえ今回、私が取り組んでいるお話は、まだまだ舌足らずな所ばかりの駄作です。まー理屈じゃ分かっていても、才能の無さゆえうまく書けないのが実情で。
作劇って本当に、作者の経験が出ますよね。何か自分を切り売りしているような所があります。人生観や物の見方が、悲しいほど
露呈してしまうんですよ。
頭で考えた、想像上の人物像は決してリアルには描けない。
自分の経験や出会った人間の生の感触が、生きたドラマを生むわけです。

よく「この登場人物にはモデルが居て」なんて裏話をシナリオライターさんがされますが、それもむべなるかなと思います。一つのキャラクターを生み出すって総生半可な事じゃない。人間はそんなに薄っぺらいものじゃないからです。


さて。ちょっとお話がそれましたね
なぜ冒頭に、笑うウルトラマンの件を話題にしたのか。
実はこれ、前述のお話とも大きく関係するんです。
おそらく当時の円谷プロスタッフ間ではこの「ウルトラマンが笑う」という表現に、ちょっと論議があったんじゃないかと思うんですよ。
論議というのは大げさかもしれませんね。物理的、心情的な演出技法で葛藤があったというべきでしょうか。

『物理的』とは、ラテックス成形のウルトラマンの口がうまく動かなかった。ウルトラマンの表情がうまく出せなかったという事。当時の技術的な問題ですね。
『心情的』とは、笑うウルトラマンの顔を映像として見せていいものかという事。

(「謎の恐竜基地」の笑いとはまた別ですよ。第一話でマンはハヤタと「会話」している訳ですから。怪獣相手とは違います。)
で、監督、円谷一氏が下したであろう結論は。
「ここはハヤタの顔にして、視聴者にはマンの笑い顔を想像させよう」というものでした。


結果的に、この演出は成功したと思います。
「未知との遭遇」(1977年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)で、後年、宇宙船内などの映像を追加した「特別編」が公開された時、私の周りのファンは「宇宙人の具体的な姿は見たくなかった。どんなにすぐれた特撮映像も、脳内で膨らんだ想像を上回ることは出来ないもん」と漏らしていました。
あくまで個人の感覚、万人に共通するものではありませんが。
円谷一監督は、この轍を踏まなかったわけです。
ここからは想像ですが、おそらく「マン」第一話、笑うウルトラマンの映像は撮影されていたんじゃないかと思います。
私が監督なら絶対、保険として撮影しておきます
で、編集段階で落としたと。
ここなんですよ。円谷プロスタッフの優れた所は。


冒頭のお話で、脳内でマンの笑い顔を「捏造」されていた方もいらっしゃったんじゃないでしょうか。
でも実際の映像では、あのカットはハヤタの顔で処理されている。
想像させた方が効果が大きいからです。
あそこがハヤタでなく、ラテックス成形の口をぎこちなく動かすマンの笑顔のアップだったら、私たちが受けるウルトラマンのイメージは少なからず変わっていたのではないでしょうか。
CGの発達した現在でも、視聴者が脳内で再生させたマンの笑顔を上回る事は出来ないでしょう。
アルフレッド・ヒッチコック、小津安二郎等、古今東西、名監督と呼ばれる才人がこぞって使う演出「大事な所は見せずして想像させる」という秀逸な試みは、ウルトラマンでも行われていた訳です。



演出とは、それほどまでにデリケートな判断を必要とされるものなんですね。
確かにこういう判断は、ある程度映像が繋がってみないと出来ませんが、映像の流れを想定するという事は、シナリオ段階でも必要なんじゃないかと思います。
「このセリフは話す人のバストショット」「セリフの途中で聞く人の表情」みたいな、ある程度のカット割りを予想する事で、感情の動きが表現できる。そういうカットの繋がりがシーンとなり、それがまとまってシークエンスとなるわけで。
人間に迫る怪獣のサイズだって、襲われる人がどんな感情を抱いているかで変わってくるはずです。
足元のアップなのかバストショットなのか顔のアップなのか。
サイズのみならず、パン・ズームなどのカメラワークも重要でしょう。
心象映像として、実際より大きなサイズに見える事だってありえますし。


極めてプロ的な発想、しかもディレクションに携わる私独自の考え方なので、決して正論というわけではありません。
「カット割りは監督の範疇でしょ」なんて声も当然と思いますし

でも私の場合、それが映像の設計図であるシナリオのような気がします。
「読んだだけで映像が浮かんでくる」という感覚を監督に与える事が、最も優れたシナリオのあり方と思うクチなので。

もちろん予算や現場の事情なども大きいですから、思いが100%実現できる訳ではありません。
でも「どーやるのよこんなト書き」なんて監督が首をヒネるような、小説風のあいまいな表現は避けたいと。書く方だって明確なビジョン、いや「こんなカットなのよ」なんて勝算を持たなければ、あまりに無責任すぎますしね。
そこまで映像を考えて、それを文字の形に変換する事。私にとってはそれがシナリオなんです。上手く変換できるとは決して言えませんが。
繰り返しますが、あくまで私だけの考えなので誤解なさらぬよう


昭和ガメラ映画の脚本を担当した高橋二三氏も、過去のインタビューでこのような趣旨のお話をされています。
『当時の大映のガメラスタッフは優れていた。自分もシナリオを書くとき、ある程度は特撮の手法も考える。でも私がどんな無茶を書こうと、現場スタッフは一度も「これは出来ませんから書き直して下さい」と泣きを入れに来た事は無い。それ程、創造力に長けたスタッフだった。』
それだけ、高橋氏は明確なイメージを持ってガメラのシナリオを執筆されていたという事なのでしょう。そしてその思いに、湯浅監督以下スタッフも応えたと。
監督とシナリオライターはお互いせめぎ合う関係でありながらその実、同じクリエイターである事に変わりは無いと思います。

そりゃー現場は大変だったでしょうが


でもまー立派な事を言いながら、私なんて所詮、ウンウン唸ってこんな程度?みたいなモノしか出来ません。まだまだ書き込みが足らないようです。
でも、そういうレベルを目指すと目指さないとじゃ出来も違ってくると。
たぶん無茶苦茶書いて、お仲間にもご迷惑をかけまくりと思います。
でも私の方でも、それなりに腹案を持ちながら無茶をお願いするという謙虚な姿勢で臨んでいると そこは貫きたいんですよ。
そんな産みの楽しみに浸る日々はまさに至福。お仲間に心から感謝したいと思っています


シノプシスとはいえ、もうそれは自分が考えたストーリー。
子供みたいなものですから。
どんな親御さんでも、子供を誤解して欲しくはないですもんね

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

2008年5月21日 (水)

カリスマ性に代わるもの

先日レンタルした『仮面ライダー THE NEXT』。もー見まくりで。
本編も充分楽しみましたが、同業ゆえ監督の思いなどに最大の興味を持つ私は、田崎(当て字でゴメンナサイ)竜太監督、主演の黄川田将也さんらのオーディオコメンタリーばっかり聴いてます。

色々な裏話やシーン毎に込められた演出、演技への思いが聞けて、非常に面白いコメンタリーなんですが、中でも印象に残ったのが田崎監督による「本郷猛像」でした。
ちょっと要約、補足しますと。



『本郷猛は、その時代の若者達のある種の代表である。
でもその若者達とまったく同じであっては、主人公足り得ない。
若者達からどれだけ「浮いている」か。どれだけ「変わっている」か。
それが主人公たるゆえんであり、オリジナルの本郷猛にもあったと思う。
70年代の若者が持つちょっと排他的な部分などからかけ離れた、真っ直ぐなところがあったり。
それは「NEXT」の本郷も同じと思う。
まったく屈折していない「真っ直ぐさ」という意味で。』



「なるほどねえ。」監督のこの言葉に私は感心しまして。さすが田崎監督と

先日から様々な事情で「ヒーロー像」というものを模索していた私は、「ヒーローが変身する前」いわゆる人間体の時のキャラクターを掴むのに苦心していました。
その時無意識に感じていた事が、ここで言語化されたような気がしたのです。
確かに本郷って、藤岡弘、氏演じるオリジナルライダーの頃からいい意味で「浮いて」いましたよね。


その後、田崎監督はこんな事も話されました。
劇場版本郷、黄川田さんのルックス、プロポーションに触れて・・・
『ヒーローやカリスマと呼ばれる存在は、人間が生まれ持った「この人について行けば命が安全」という本能を刺激する雰囲気を持っている。
本郷猛も、そういうものを持った存在であってほしいと思う。』



その後、お話は黄川田さんの「本郷プロポーション」に続いていくんですが、これも非常に興味深いお話でした。

以前から私も、ヒーローの人間体に感じるカリスマ性を、「他のキャラからの浮き加減」に感じていたような気がするのです。
浮いたという表現が適切でなければ「超然ぶり」と言い換える事もできます。
「頼れるお兄さん」的信頼感を覚えさせる雰囲気と言いましょうか。

出演者全員が並んだ場面で、何も言われなくても「この人がヒーロー」と確信させる何かを持った存在。カリスマ性とはそういう事を言う
のでしょう。

特撮の派手さゆえ、変身後の姿がピックアップされやすい変身ヒーロー。
それも大きな魅力ではありますが、考えてみれば変身前の姿って非常に重要ですよね。本郷猛をはじめ彼ら人間体こそが、ドラマを引っ張る訳ですから。


いつものようにここでお尋ねしたいんですが、皆さんは「変身前のヒーロー像」についてどんな印象をお持ちですか?
私も今回、例の企画書を考えながら、その事がいつも頭にありました。
「ヒーローは普通の人間じゃないんだから、その心理状態もどこか普通と違うんじゃないかなー」なんて。
でも私は普通の人間ですから(異論はおありでしょうが、あえてここは普通と言わせて下さい)そういう心理状態は想像つかない。


ただこの発想にはもう一つの切り口があって。
「元々、本郷猛にはヒーローとなるべき「超然性」「カリスマ性」があって、改造後の能力とは関係ない。その精神性があったからこそ、彼はショッカーに反旗を翻す気になった筈」というもので。
「カリスマ性が先か、ヒーロー能力が先か」みたいなお話ですね。
ヒーロー能力が性格に影響するのかどうか。それはヒーローの出目によってまったく異なりますが、ことライダーに関して言えば、やはり本郷猛のカリスマ性は生来のものだったと思います。


で、ここからは非常に難しいお話なんですが、田崎監督がおっしゃるようなヒーローの「市井の人々からの浮き加減」って、今も昔も不変の物なんでしょうか。

星の数ほど生まれたヒーローの中で、人間体にカリスマ性を感じる作品は多いですね。前述の「仮面ライダー」をはじめ、「ネヴュラ」でも話題に上る「ウルトラマン」も同じ。
ただヒーローを考える上で、ここに実は大きな世代間の違いがあるような気がするのです。
最近のヒーロー番組を応援する子ども達や若者って、ヒーローの人間体に「カリスマ性」を求めているんだろうか、という事ですね。
田崎監督がおっしゃった「本郷猛の真っ直ぐな性格」や、ウルトラマン=ハヤタ隊員に感じる「ゆるぎない正義感」のようなものを。

思えば名作と言われるヒーロードラマは、人間体ヒーローのカリスマ性も大きかったような気がします。


いつもの私見で申し訳ありませんが、最近のヒーロー番組はかなりこの「カリスマ性」が失われているような気がするのです。
ヒーロー番組とはいえ、作品は時代と切り離して考えられないですから、これが今の若者の望むヒーローのあり方なのでしょう。
「カリスマ性を持ったヒーロー」「一点の曇りも無く正義感に満ちた人間体」という存在が、リアリティーを持ちにくくなっているという事なのかもしれません。


田崎監督はこうもおっしゃいました。
『今回のTHE NEXTでも、本郷の真っ直ぐな性格は受け継がれている。』

確かに画面から受ける印象では、本郷の性格は「藤岡本郷」を受け継いでいると思います。
ところがその真っ直ぐな性格が、現代では「笑いのネタ」にされてしまう。
時代のリアリティーを求めると、そういう演出にならざるをえないんですよね。
ですから「THE NEXT」では、本郷のその真っ直ぐな部分を「カリスマ性」として描かずに、ライダー変身後の姿に説得力を持たせている。

劇中、高校教師の設定の本郷は、変身前は徹底的に生徒にバカにされています。重要な役割を持つ生徒・琴美(石田未来)も、本郷が変身するまで彼にカリスマ性を感じないのです。


これは田崎監督の意図とはちょっと違う部分ですね。
監督は人間体の本郷にもカリスマ性を与えたかったようですが、私はそうは感じなかった。これは監督の意図が外れたというよりも、どうしようもない「時代の空気」じゃないかと思います。
ただそのドラマ構造、2号・V3をはじめとするキャラクターの描き方があまりにも素晴らしいので、「NEXT」は絶妙なバランスを保ったまま、大傑作となりえたわけですが。
しかしながらこのドラマに、オリジナルTVシリーズの持つヒーローの魅力はないと思います。

おそらくヒーロードラマは、アクションやキャラクター心理造型のリアリティーと引き換えに、人間体のカリスマ性を失いつつあるのでしょう。
それを
一概に悪い事とは言えません。
人それぞれ受け取り方は違いますし、「NEXT」のように、そのバランス感覚が素晴らしい作品に結実する場合もある訳で。
ただそれはひょっとすると、この作品のみに許された「一回限りの離れ技」だったのかもしれないなー、なんて考えたりして。


「NEXT」の成功要因は、TVシリーズのライダーが本来持っていたヒーロー性の代わりに「リアルなライダーアクション」「ホラー要素」を持ってきた事と思います。
リアルなアクションは、おそらく昔のファンが記憶の中で極限まで美化したライダーアクションを現実化したものでしょう。あれくらい完璧なアクションを見せなければ、ファンの脳内で熟成されたライダーの勇姿には対抗できないのです
「NEXT」のホラー要素は、仮面ライダーという作品が本来持つそれとは異質のものですが、あれを取り去ってしまったら、ただのアクションドラマになってしまう。
「もっとあのライダーアクションを堪能したかったのに。あんなアイドルの悲劇なんて要らないんじゃないの?」というご意見もおありでしょうが、あれはライダーのカリスマ性だけで作品を引っ張っていけない事情が絡んでいるため、どうしても必要なものじゃないかと。


個人的には、ライダーアクションは「ここぞ」という時に少し出すのが効果的なのであって、のべつまくなしに見せるものではないと思います。
オリジナルTVシリーズだってまず戦闘員との「前座」があったからこそ「ライダー変身!」の瞬間にカタルシスを覚える訳ですし。
その場面まで視聴者をドラマを釘付けにするもの。
昔はそれが「変身前のヒーローの魅力」であり、カリスマ性だったのかもしれません。ただこれは、個人個人でヒーローに求めるものの違いにより変わってきますね。私の場合、それがカリスマ性だったという事です。


「キャラクター性」とはまた別ですよ。ハヤタ隊員なんか非常にキャラクター性は薄いですが、カリスマ性はあったと思います。そういう事なんですね。
残念ながら、現在のヒーローはそれが禁じ手となっている。
と言うより、時代に受け入れられないんですね。

「仮面ライダーカプト」の天道総司なんていい線いってたんですが、そのカリスマ性がお笑いネタ化していく過程に、製作陣の苦悩を非常に感じます。


現在、ヒーロードラマの作り手は、おそらくこの「人間体のカリスマ性」に代ってドラマを引っ張る要素を、必死に探しているのではないかと思います。
それがおそらく視聴者に不評の「謎解きの無い謎」であり「笑いの要素」であり「必要以上に複雑な設定」だったりするのではないかと。
「未完成のヒーローが成長していく過程」というドラマ構造も、その一つと言えるのかもしれません。ただ私には、そのどれもが正解ではないような気もします。
ドラマとしては成立していても、カタルシスを感じないからです。


そういう意味では、現在はまさに「ヒーロー不在の時代」なのかもしれません。
いくら変身ヒーローの形をしていても、そこにカリスマ性は無いですから。

個人的には、作品にカタルシスやパワー、勢いを生むものは、ヒーローそのものの魅力と思います。
まーこれも、古いオタクの戯言なのかもしれませんね。
もはや、ヒーローにカリスマ性を感じてはいけないのかもしれません


ただ、月光仮面に始まり、ウルトラマン、仮面ライダーと、人間体にカリスマ性を感じるヒーローを見て育った私などは、この現状に大変な閉塞感を感じます。
非常に思うんですが。今のヒーローファンって、たぶん自分とヒーローを同じ目線で見てますよね。「友達感覚」と言うか。
ですから戦う意味そのものも変質せざるをえない。「人類の平和」よりも「ごく仲間内の危機」の為に戦うヒーローの方が、リアリティーを持つ訳です。
ここが私などとは決定的に違う所ですね。
私の時代、ヒーローは文字通り「英雄」。見上げる存在でしたから。

見知らぬ人を被害者にしない為に戦う、オリジナルTVシリーズの本郷。
自分の生徒や知人を被害者にしない為に戦う、「NEXT」の本郷。
この差なのかもしれません。

たぶん「藤岡本郷」なら、「NEXT」で被害者となったChiharuファンクラブ会長、岡村を助けられたのかも。
自分の目の前で怪人に襲われる人間を、助けられない訳はない。
そう思わせる何かを、昔のヒーローは持っていたのです。


そういう意味では「NEXT」も前述の要素に近いですが、あれは観客の心理が「友達感覚」に行く前に、アクションとホラーの「絵」で押し切ってしまう。
失われたカリスマ性に代わり、それらの要素が奇跡的にうまく機能しているんですよ。穴を埋めていると言うか。
「キャラクターのパワー」より「作品のスタイリングの良さ」なのかもしれません。
それが逆に、ライダー世界のリアリティー構築に繋がるあたりは見事ですが。
テロ組織としてのショッカーのスケール感は、今作が一番リアルと思います。
あるいはそれが、ドラマ作りの一つの突破口だったのかもしれませんが、おそらくそれだけでは「人間体のカリスマ性」に取って代わる事は出来ないでしょう。
前述の「一回限りの離れ技」というのはそういう意味。
劇場作品だからこそ出来た事なのかもしれません。
それはそのまま、「NEXT」への賛美でもあるのですが


いつもながら、とりとめのないお話でごめんなさい
ただ、私はいつも考えています。
もしよろしければ、お時間ある時にでもお考え下さい。


最近のヒーロードラマのどの部分に、魅力を感じますか?

人間体のカリスマ性に代わる、ヒーロードラマの魅力がもしあるなら。
それは「解けない謎」や「ギャグ」や「未完成ヒーローの成長
」なのでしょうか?

また、それらを魅力と感じる方のご意見も、ぜひお聞きしたいです。
頭の固い哀れな私に、なにとぞご教授を

Photo

これは決して、最近のヒーロードラマの批判ではありません。
きっと作り手も、そこを必死に模索しているのです。
私もそこを追及したいと。無い頭を絞って
ファン一人一人がそこを真剣に考える事に、きっと意義があるんですよ。
「つまらない」「見たいヒーローじゃない」って言ってるだけより、その方が建設的ですもんね

にほんブログ村 テレビブログ 特撮へ

より以前の記事一覧