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カテゴリー「日本沈没」の記事

2007年2月26日 (月)

「暗示力」の欠如

山間の田舎町にしつらえられたロープウェイ。
今日は入社試験当日。希望に燃えた若者がロープウェイに乗り込んだと思って下さい。
ゴンドラには彼一人。今まさに動き出そうとしたゴンドラへ静寂を破って飛び込んで来たのは痴話喧嘩の男女二人連れ。
若者と男女の三人を乗せたまま、ゴンドラは出発してしまいました・・・

以前、「シナリオ教室」なるものに通っていた事がありました。
お仕事の合間に通っていた為、ほんの僅かの間しか在籍できませんでしたが、業界内のお話なども色々聞けて少なからず勉強になりました。冒頭の一文は、その頃考えた5分程度のシナリオの筋書きです。

この後のストーリーを考えてみて下さい。貴方ならどう展開しますか?私はこう考えました。

二人連れの内、女は金切り声を上げ男ともみ合います。
男は懐に拳銃を忍ばせていました。その拳銃が暴発、弾はゴンドラの天井を貫通し、ゴンドラを支えているワイヤーを切断してしまいます。傾くゴンドラ。
残ったワイヤーではゴンドラは支えきれません。
咄嗟に若者は落ちた拳銃を拾いますが、恐ろしくて持て余してしまいます。意を決して男に組み付く若者。男は女を蹴飛ばし、女はゴンドラのガラスを割って地上に落下・・・


ドラマはこの後まだ続くのですが、部屋を片付けていて久しぶりに見つけたこのシナリオを読んで、私は苦笑してしまいました。
「こんなシナリオ、今だったら絶対書けないなー。」


シナリオという物は映像作品の設計図と言われます。シナリオなしにストーリーを構築する事は出来ません。「ネヴュラ」読者の皆さんならそれはよくご存知だと思います。
シナリオライターと監督は違う才能を必要とする、という事もよく言われますね。ストーリーという世界を構築するシナリオライターを創造者とするなら、それを形にする監督は表現者、という分け方が最も端的だと思います。
実際には監督と同様に、カメラマンや照明マンをはじめとするスタッフ、監督の意図を画面上で形にする俳優も大事なファクターである事は言うまでもありませんが。

ただ、その表現の全ての元は「シナリオ」にあるのです。
このシナリオの出来が悪いと、どんなに監督やスタッフ、俳優が頑張っても、いい作品は生まれないのです。


冒頭の作品(「ケンカ」というテーマを講師から与えられ、急場しのぎで書き上げた物ですが)に、私が苦笑してしまった理由、それは、「人物がまるで駒のように扱われている」という印象から来たものでした。これじゃあまりにも人物描写が薄っぺらすぎますよね。
コントにもなりません(笑)。

シナリオという物を実際書いてみると分かりますが、これは普通の文章表現の手法がまるで通じない代物なのです。小説やエッセイなどを書き慣れた人がシナリオには手も足も出ないという事はよくあります。実際私が初めてシナリオに接した頃痛烈に感じたのは、「シナリオには中途半端が無い」という事でした。
小説やエッセイなどに頻繁に登場する文、「・・・と思った」「・・・と感じた」などの表現は、シナリオでは禁句なのです。
「思った」などという抽象的な映像など無いからです。


シナリオには必ず、「思った」という表現の代わりに、その人物が思った事を具体的に暗示する行動が記されていなければならない。例えば「怒った」なら物に当たるとか、「安心した」なら床にへたり込むとか。シナリオは人物の感情の暗示なのです。
ここにシナリオライターの人生経験が大きく表れます。
この行動の「暗示」が高度であればある程、そのシナリオは良く出来ているのです。


冒頭の稚拙なシナリオに、私が「今は書けない」と思った理由はもう一つありました。
「人の生き死にがあまりにも軽く書かれている。」
それだけ若かったという事なのかもしれません。


「ネヴュラ」でもお話した通り、私は昨年11月、母を亡くしています。その4年前には父を見送っています。この年になって両親を失ってしまうと、そう簡単に「人が亡くなるストーリー」なんて書けなくなっちゃうんですね。弱くなったのかも知れませんが。
あの最期を看取った瞬間の、何とも言えない虚脱感、喪失感。
涙が出せればまだいい方で、元来気の小さい私などは亡くなった事実を認めたくなくて、ただお通夜や葬儀の準備に追われる事で、自分のアイデンティティーを保っていたような気がします。
まあ、こんな事がお話できるようになっただけ落ち着いたという事で(笑)。暗いお話でごめんなさいね。

ただ図らずも起こったそんな出来事の後で、私の中の何かが変わったような気がするのです。
「軽々しく人の生き死にを書く事はできないなー」なんて。

別に重いお話をしようという訳ではありません。でも私が失意の中で鑑賞し、不覚にも涙でぐしょぐしょになってしまった作品「東京物語」(1953年松竹 小津安二郎監督)に於けるシナリオの「暗示」の仕方は、それはそれは素晴らしいものでした。
こういうシナリオが書ける人、そしてそれを表現できる人って、人生を深く生きている人なんだなーと思ってしまう。
より作品を理解できるような気がします。
脚本の野田高梧、そして共同脚本の小津監督の人生観が、この作品には色濃く表れているのです。

実は最近、昨年公開の映画「日本沈没」DVDをコメンタリー音声で再見しまして。
キャスト篇、スタッフ篇の両方で、色々な裏話なども聞けて興味深かったのですが、樋口監督以下関係者が楽しそうに語るコメントを耳にしながら感じた事がありました。
「この人たち、映画制作のキャリアは長いかもしれないけど、進化する特撮技術と遊ぶのが楽しいだけなんじゃないかなー?」
ごめんなさいね。私にはそう聞こえてしまいました。できればこのコメンタリーにシナリオの加藤正人さんも加えて欲しかったのですが。

アルフレッド・ヒッチコック監督がかつて「映画は準備が終わったら後はスポーツだ」という名言を残しました。確かに言いえて妙。過酷な撮影現場では予定されたカットを消化するだけで精一杯で、シナリオの内容を吟味し直す余裕など無いからです。ですから撮影に入る前に、そのシナリオが本当に作品のテーマを訴えているか検討する必要があります。
昨年の「沈没」の場合、再見してみて思ったのは、まず加藤正人氏のシナリオの段階で「日本が沈むという未曾有の災害を画面毎に暗示できていなかったのでは」という事で。

各々のシーンが、祖国を失う日本人の心情を表現できていなかったような気がするのです。

まあそりゃそうですよね。現実にそんな災害に遭った事なんか無いんですから。でもこの作品ではそれを表現しなければならない。そこが難しい所なのです。
前作(1973年 森谷司郎版)との差は、単にストーリーやキャスティングの他に、そういう「暗示力」とでも呼べる部分の差もあったような気がします。

日本を沈没から救う為、名誉ある死を遂げた小野寺、結城の二人が印象的な2006年版「沈没」。ところが私にはこのストーリーから、彼らが失った命の重さが伝わって来ませんでした。
それに対して1973年版の旧作は、小野寺をはじめとするメインキャストは誰一人亡くなっていないにも関わらず、引き裂かれるような悲壮感、国が亡くなる喪失感、沈没に怯える人々の小さな命の叫びなどが感じられたのです。
この差は何処から来るものなんでしょうか?


いつもながらの陳腐な考えなのでお笑い頂ければいいんですが、やはりその差は「制作者の人生経験の差」ではないかと思います。中でもああいった作品の場合、戦争経験は災害時や難民の描写大きく活かされる事でしょう。
監督の森谷氏はじめ、脚本の橋本忍氏も第二次大戦の影を感じた世代。73年版の製作当時には、スタッフの間にも身近に戦争経験者が数多く居たのでは。そうした人々の知恵や感じた空気(これが大きいんですよ)が、シナリオにも演出にも大きな「暗示力」となって働いたのではないかと思います。そしてそれが全てのスタッフ、キャストに伝わり、あの独特の悲壮感を生んだのではないかと。
私などが言及するのもおこがましいですが、73年版の教科書は「第二次大戦」だったのかもしれません。


これは批判ではないので誤解されるといけませんが、2006年版にはどこか「かつてこのタイトルの名作があった。それを教科書にしてちょっと変えてみました」という空気が見えるんですね。
ここに73年版と06版の決定的な差があるような気がして。
実際の悲劇を教科書にした73年版と、その73年版を教科書にした06版。
この図式がある限り、最初から結果は見えていたのでは。


当然の事ながら私は戦後生まれなので、これは推測に過ぎません。しかしながら、これは私自身にも言える事なんですね。
冒頭の一文などはまさにそのいい例で。
結局「味わった事の無い経験は、作品にしても説得力に欠ける」という事です。

戦後生まれの樋口氏や加藤氏に、戦争の空気を暗示する表現を求める事自体が無理なお話なのです。ですから06版「沈没」は、戦後生まれの世代が精一杯作った習作、とでも位置づけるのが適切なのかもしれません。
73年版との最も大きな差異、「N2爆薬」の説得力の無さが全てを物語っているような気がします。爆薬そのものではなく、そこへ至るストーリーの運び、暗示力の問題です。


今、ハリウッドでも優れた作品の企画に飢えているそうで。
リメイク作品が増えるのはそういう事情なのですが、作品というものは創られた時代の空気を色濃く反映するもの。
軽々しくリメイクに手を出すと、先人の偉業のうわべだけをなぞった中途半端な作品に成り果ててしまいます。

江戸川乱歩は自作の小説を年少者向きに書き直し、「少年探偵団シリーズ」として刊行、反響を呼びましたが、私には今のリメイク作品はそんな「年少者向けに噛み砕いた」作品群に見えます。
前作のネームバリューに頼らず、オリジナル企画で勝負した「習作」ではない作品を期待するのは、私のわがままでしょうか?

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2007年1月20日 (土)

そして心はメガリスの崩壊

「ちょっと複雑な心境だけどなー。」
お仕事の合間を縫って訪れたDVDショップ。

Photo_446 奇しくも昨日は1月19日。「119・防災の日」だそうで。ここに発売日を持ってくるという意気込みを感じて予約買いしちゃいました。
DVD「日本沈没スペシャル・コレクターズ・エディション」

去年の7月15日、公開初日に鑑賞して以来いろいろ難癖をつけて来たいわく付きの作品ですが、なんだかんだ言っても「日本沈没」というタイトルには弱いんですよね。どうしても手が伸びてしまうのです。

お仕事も一段落。満を持して「ネヴュラ座5.1サラウンド」なんて贅沢な環境で半年ぶりに鑑賞したこの作品。部屋の灯りも消してまさに劇場環境を再現、飲み物もしっかり用意しました。
あの時から心を寝かせ、思いを熟成させた上での再会は・・・

「う~ん・・・」
鑑賞直後の印象はやっぱりこの一言。

自宅でリラックスして観た分、より作品にダイレクトに向かい合えたとは思います。一度鑑賞していますからその「ショック」も和らいでいるとは思ったのですが、やはり劇場で鑑賞した直後の印象が拭いきれない。
「やっぱり何かが違うなー。」


今回再会してみて、劇場で初鑑賞した時の漠然とした居心地の悪さの原因がなんとなく分かったような気がしました。
Photo_447 根本的な原因は一つ。それに付随した演出テイスト。さらに根本的な原因を作ったであろう制作者側の発想について。
大まかに分けるとこの三点じゃないかと。

まあ以下は、オリジナルとも言える1973年公開の森谷司郎版に心酔した私ゆえの、ちょっと斜めな見方でしょうからお気になさらず(笑)。

まず第一に「根本的な原因」として。
この作品が何故私の心に響かなかったのか。これ、当たり前のお話で。
今回の「日本沈没」って、日本が沈没するっていう現象がメインのお話じゃないですよね。

これは昨年の公開時、色々な方々のサイトでも書かれていたことなので皆さんご存知かもしれません。下世話なお話をしてしまうと「フルコースディナーを注文したらメインディッシュがサラダだった」という時の感触に近いのかなーと。
「私はステーキが食べたかったのに」って(笑)。


1973年版が物差しになっちゃった私は、あの骨太な、「沈没」メインのお話に心を奪われ、「日本沈没」とタイトルが付けば当然そういうお話と心に固くロックが掛かっているのでした。ですから当然、物語は主人公達はもとより、私達観客までが沈没の恐怖、人間の無常観、未来への希望などを画面から受け取れるものだ、と思い込んでいたんですよ。ところが今回の作品にはそれが見事に欠落している。
この作品、「日本沈没という現象を背景にした個人のドラマ」ですよね。
確かに原作どおり、小野寺、玲子、田所博士などのメインキャストは名を連ねています。役どころもほぼ同じ。なのに何故、こんなにテイストが異なるのでしょう。

結局この一言に尽きます。以前もお話した事ですが。
「メインキャストが沈没の被害に遭っている、という感覚が画面から伝わってこない。」
これが「沈没メインじゃない感」を醸し出しているのではと。


今回と1973年版の「沈没」を比較して論じた批評にこんなような事が書いてありました。
「今回の作品は、1973年版のように中盤の「東京大地震」や、後半の「富士山噴火」など、作品の顔となるシークエンスが無い。その為作品の全体像がぼやけてしまい、強烈なメッセージを受け取りにくくしている。」
私もそう思います。「沈没」という未曾有の大災害の恐ろしさは、具体的な描写なくしては伝わらない。
今回の作品は「沈没が災害ではない」感触さえあります。


ちょっとお話は飛躍しますが、「映画を活性化させるには敵の存在が重要」というセオリーがあります。
敵が強ければ強いほど、主人公が敵に打ち勝った時のカタルシスが大きくなるという事です。

「日本沈没」というドラマの場合、この「敵」は「沈没現象」なんじゃないかと。
この地殻変動の恐ろしさがしっかり描かれていないと、ラストに向かってストーリーが疾走していかない。ドラマがまったりしてしまうんです。

その「地殻変動の恐ろしさ」を観客に認識させる事が前述の「作品の顔」であり、そういった大災害に主人公達が巻き込まれる事で、観客は事の重大さを肌で感じられるのでは、なんて思っちゃうんですよ。

以前も何度かお話しましたが、今回の作品では「都市の陥没」は北海道を除いて、人々が退避した後に起こります。唯一人々を襲った北海道にも、主人公側のキャストは一人も被害に遭っていない。
メインキャストにとっては対岸の火事なんです。
私流にお話させてもらえば前作の沈没現象は『怪獣』、今回のそれは『雨』ぐらいの違いがあります。唯一心が痛んだシーンは、やはり首相が阿蘇で亡くなる所でしょうね。あの展開には衝撃を受けました。
ただ他のキャストは依然として「ATフィールドの中」(笑)。
なぜここまで頑なに、メインキャストを安全圏に置こうとするんでしょうか?

ここからは二つ目、その感覚をさらに増強させる演出テイストのお話です。


今回の作品、前述の通り「主人公が立ち向かう敵が分かりにくい、もしくは表現が薄い」という根本的な原因ゆえに、既に物語の牽引力が弱くなっています。それに輪をかけてウラメに出てしまったのが「主人公側への過剰な崇拝、もしくは特別扱い」。
これは公開当時、結構色々なサイトに書かれていた「小野寺ワープ」などが端的に物語っています。あれだけ国内が大混乱になっているというのに、政府関係者でもない彼がなぜあんなに楽に国内を移動できるのか。しかも被災地ばっかり(笑)。

こういう「特別扱い」は他にもあります。玲子が暮らす「ひょっとこ」のメンバーが避難した後、その店内で小野寺が「一緒にイギリスへ行こう」と玲子にもちかけるシーン。あの近所って「ひょっとこ」付近の避難民で大混乱になっているはずですよね。時間経過は照明で表現されていますが多少の喧騒は残ってももいい筈。でもその喧騒が店内にはまったく漏れてこない。全然違う場所のように見えます。
災害時の「空気感」が希薄なんでしょうね。

他にも首相官邸、田所研究所、結城の部屋に至るまで見事に「この地方に被害はない」(笑)。壁にひびさえ入っていないんです。1973年版のD計画本部で見られたあの壁の亀裂、あの怖さを欠いているんですね。
おまけに彼らメインキャストが声高に日本の悲劇を嘆いている場面には、一瞬たりとも「余震」が来ません。地震の方で揺らしどころを加減しているかのようで(笑)。

「沈もうとしている日本と、主人公達が居る日本が『別の日本』に見えてしまう。」
この演出の失敗(愛を込めてそう言ってしまいましょう)が、ドラマの緊張感を著しく欠いているのです。


Photo_448 実は私は、そうした根本的な原因で今回の演出テイストを創り上げてしまった樋口監督の気持ちがよく分かります。以前、劇場鑑賞日にお話した記事には「前作と同じ事ができないという強迫観念」と書きました。その思いは今も変わっていませんが、今回DVDで再会して、また別の「制作者側の発想」が推測できたような気がするのです。
これは1973年版をリアルタイムで観、その後の「沈没人生」(イヤな言い方ですね(笑)の過ごし方が極めて近い、樋口監督と私の思いなのかもしれませんが。

1973年版を観すぎると、こうなる。

これは前述の「同じテイストを避ける」という意味合い以外に、もう一つの意味があります。1973年版をあまりに観すぎ頭の中で反芻しすぎると、1973年版で描いた事はもう描かなくてもいいんじゃないか、なんて思いに囚われてしまうんじゃないかと。
あるインタビューで樋口監督が語っていました。「タイトルを「日本沈没」と付けた時点で既に日本が沈む事は分かっているんだから、わざわざ時間をかけてその兆候を語ったり、大災害を描く必要はないんじゃないか。だから今回は既に日本は沈む事が判明していて、その時期が早まるという風にしたんです。」

そうなんです。頭の中で前作が確立されてしまうと、「観客全員の中に前作があるもの」と思い込みやすいんです。私もそうでした。あれほど話題を呼んだ前作を観ていない人が居ないなんて信じられない、なんておバカな先入観を持ってしまうという。
これは制作者側にとって非常に怖い思い込みなんですね。
私も自分の番組でよくやります。「ここまで毎回同じテイストでやってるんだからたまには全然違う事を」なんて思いに囚われて。
でも、その回がその番組初見の視聴者だって居るんですよね。だから変えない。
「前作ありき」の制作意識はいわゆる「視聴者おいてけぼり」と呼ばれるんですよ。

今回の「沈没」は、若干この「樋口監督の「日沈愛」が暴走したもの」とも捉えられるんです。
これはある意味、前作にハマった私などには少しむずがゆい、逆に近親憎悪的な見方でもありますが。


Dvd ともあれ、やっぱりDVDを手にしてしまった「沈没」。出来はどうあれ、私はこのキラータイトルを冠されるとパプロフの犬状態です。ありえないお話ですが、もし73年当時のラジオドラマがCD化でもされようものなら、また予約買いしちゃうだろーなー。
なんだかんだ言ってきましたが、規模はまったく違えど私も樋口監督と同じような心持ちであったという事が発見できた、今回の再会。
過去のイチャモンが見事に自分に向けられたヤブヘビのような状況で。まさに持論が「メガリスの崩壊」を起こしてしまったと。

樋口監督、お互い73年版の呪縛からは逃れられないようですね。
「わしは日本と心中です」という田所博士の言葉が、胸に響きます(笑)。

2006年8月14日 (月)

今だに心はデラミネーション

朝6時からのウォーキングで、午前中はすっかりダウン。まったく自分が使い物にならず。まだお休みだから良かったような物の。
まどろんでいる内に、意識化にある2006年版「日本沈没」への胸のつかえの元がちょっと分かったような気がしました。(午前中「沈没」していたせいですかね(笑)。

奇しくも今日、8月14日で公開初日より1ヶ月。初日に観てから寝かしておいた思いが発酵するのに丁度いい頃合い。書かずにいると頭に溜まっちゃって収拾がつかなくなるので、とりあえず今日は「鑑賞1ヶ月後」のつたない私見を綴ってみようと思います。
今日はネタバレがありますので、未見の方はご注意下さいね。

2006年版鑑賞後、ブログを検索していろんな方々のご意見を拝見しましたが、そこで起こった胸のつかえは、
「なぜこんなに評価が分かれるのか」という物でした。

2006年版の評価は「良かった」と「大失敗作」の真っ二つに分かれるのです。
どうもこの評価、私が考えるに「鑑賞する視点」によって分かれるような気がします。

「良かった」という人の視点は、出演者のキャスティング、日本が沈むというバックポーン、全体的なテーマなどに感情移入できた、いわゆる出演者の視点「沈む側」の視点に立った観方ではないかと。
私の周りでも演出うんぬんというよりは、「草なぎ君カッコイイ」「コウちゃん素敵」「もしも日本が沈んだらどうしよう・・・」的な感想が実に多いのです。小野寺の特攻、絶体絶命の「ひょっとこ」メンバーの元にかけつける玲子などに「感動した」と感じる向きもいらっしゃるようで。

それに対し、「良くなかった」という視点を持つ人の多くは、1973年版の旧作映画を観てストーリーを熟知しており(または旧作への心酔が強く)要は演出側、もっと言うと日本を「沈める側」の視点に立った人ではないかと思うのです。

こう考えた時、私の中で(ちょっとですが)胸のつかえが取れたような気がしました。「沈む側」「沈める側」相反するこの二つの視点で見ると、この2006年版は「役者の演技は良いけれど、ストーリー・演出に難あり」という事なのでしょうか。

さて、私はバリバリの「沈める側」として(笑)2006年版鑑賞1ヵ月後の感想を書いてみたいと思います。(ちょっと力入りすぎですね。いつもの調子で読んで下さいね。)

まず最初に言いたいのは「脚本のメリハリの無さ」でしょうか。

ドキュメンタリーじゃない以上、劇映画は「ストーリー」が命ですよね。とすれば、ストーリー制作側は、観客の気持ちを演出意図に準じてコントロールする必要があります。
この「日本沈没」という映画の場合、日本が沈むという地殻変動の恐ろしさや規模というものを観客に充分与えなければ、ラストのあの「大逆転劇」のカタルシスが得られないと思うんです。これがドラマ作りのセオリーではないかと。

ところがこの2006年版は、「この大変動があまり悲惨に見えない」。

田所博士の調査によって、沈没の時期が早まった事を国民は知らない。「沈むんなら逃げなきゃ」程度の思いで淡々と避難する。無事避難の終わった、誰もいない都市は静かに沈んでいく。
その映像はまるで「絵ハガキ」のように見えてしまうのです。

例えば1973年版であれば、田所博士が調査船の上で「最悪の場合、日本列島の大部分は海に沈んでしまう」というセリフ(「日本が沈む」という言葉を田所博士はここで初めて使うので、サプライズ・ワードでしょう)を放った直後、映画中盤の見せ場となる東京大震災が起こります。
後半、山本首相が国民に日本沈没の事実と、非難命令をテレビで発表した直後、富士山が爆発。その爆発に巻き込まれて離れ離れになる小野寺と玲子、といったように、
「沈没をドラマチックに盛り上げるストーリー作り」がされているのです。

こういうメリハリが欲しかったんですよね。
例えば、沈没時期が早まった事実を玲子に言えない小野寺、といったような(これじゃ1974年のテレビ版ですね)小さいお話にせずに、(ものすごくおいしい設定だと思うんですよ)「沈没迫る!」なんてマスコミにスッパ抜かれて、それを知った国民は大パニック、そこへさらなる大変動が・・・危機に陥る人々。真相を隠匿した政府の発表の遅れと、地震による空港施設の壊滅、津波などにより日本に「閉じ込められる」国民。高まる不信感に追い詰められた政府の対応は!なんて方向へ物語を持っていく事はできなかったんでしょうか。

他にも、鷹森大臣(大地真央)がN2爆弾設置の為、各地から船を集めるくだりでも、その交渉の難航状況の描写がまったくない。
1973年版では、海外に難色を示される国民引き受け交渉の様子が活写され、緊張感を盛り上げていたのとは対照的です。
こういう盛り上げがもっと要所要所にあれば、と思えてなりません。

言ってみれば2006年版は、その事実をドラマ部分不在のまま伝える脚本作りに於いて、「沈没リサーチ200X」とでも言いたくなるような、ドキュメント方式のストーリー展開だったのでは。
小野寺と玲子のラブストーリーがメイン、という観方もありますが、あの程度で「ドラマ」って・・・成瀬巳喜男の諸作を観てみて下さい(笑)。
これは実は演出の問題ではなく、ストーリー・脚本作りの問題です。要は「設計ミス」という所でしょうか。ですから樋口監督ばかりに非難が集中するのはちょっとかわいそうかもしれません。

次に言いたいのは「演出の未熟さ」でしょうね。

実は私、「日本が沈没しない」というラストはアリ、と思うんです。前述した、悲惨な部分やドラマチックな展開をきちんと描いていけば、ラストで「人間の英知と命が地殻変動に勝つ」というドラマを力技で見せることができたと思うんです。
ところが鑑賞後、そういう清々しさがないのは、きっと脚本の問題に加えて、そこかしこに見える樋口監督の「1973年版への心酔ぶり」なんですよ。

インタビューなどで監督が「1973年版との接点」と語る、1973年版と同じタイトルロゴ、タイトル後の富士山バックの新幹線や「この地方には、まだ被害はない」のスーパー。こんな演出って必要なんでしょうか?
こういう演出がある事で、監督の「前作を変えたい」という強い意識が削がれてしまう。

「こんな所に前作と同じカットがあるんだよ」という遊びにしか見えないのです。
加えて、監督のお好きな「新幹線大爆破」(1975年東映)の「タバコの灰」のカット繋ぎ、「望郷」(1937年フランス)の汽笛の演出などの「オマージュ」の数々。

こんなハードなお話に遊びなんて必要でしょうか。これは素人の発想ですよ。「ガンダム」で宇宙空間に飛ぶ鉄人28号を見つけて喜んでいるファンと同じレベルですよ。
どうせなら、「1973年版とまったく違うが、これも「日本沈没」だ」と言われる作品を作る、この作品だけの名シーン・名ゼリフを作る。それくらいの意地を見せて欲しかったです。
これはどう弁明されても納得できません。というのは、1973年版が制作された時は、森谷司郎監督は「マネ」なんて事、微塵も考えていなかった筈ですからね。

そして最後、これは私が逃れられない1973年版フリークであるがゆえの弱みなので、本当にお許し下さい。
今だに結論が出ていない事なんですが、「キャスティング」についてです。

要は1973年版と印象が変わったキャストが、私の中で整理出来ていないんですね。例えば「日本沈没」という作品の中で、私が一番のヒーローだと思った「田所博士」。2006年版では豊川悦司が演じましたが、私には今一しっくりいかない。
これはもう私の中で、「豊川悦司だから良くない」のか、「1973年版の小林桂樹じゃないからイヤダ」なのか、区別ができないのです。
これははっきり言って、鑑賞1ヶ月後も引きずっている感覚です。
こんなもんですよ。ファンなんて(笑)。

リメイク作品であるハンデはよく分かります。樋口監督もそれなりに頑張ったとは思います。でも、脚本・演出についてはもう、完全に1973年版に軍配が上がります。
「日本沈没」としても「映画」としても。

くだらない事を長々とお話して申し訳ありません。思いの強さがお分かりいただければ幸いです。おバカなんで、短くまとめられないんですよ。ブロガー失格でしょうかね(泣)。

最後に小ネタをひとつ。福岡県で先日、「日本沈没」上映中の劇場内で消火器をぶちまけた41歳の男の人が逮捕されたらしいですね。
お酒に酔っていて、災害発生のシーンで我を忘れた笑えない行動だそうですが、これも後世、公開中のエピソードとして語り継がれるんでしょうか。

「日本珍没」とかタイトルを付けられてね(笑)。

2006年8月 6日 (日)

明日の沈没予想

Photo_88 いやーとうとう買っちゃいました。
「日本沈没TELEVISION SERIES プレミアム・ハザードBOX」DVD9枚組!
全26話+特典映像+解説書+初回限定特典オリジナル・マウスパッド!
この散財で、私のこの夏のレジャーは終わりです(泣)。

この夏公開の映画「日本沈没」に合わせて発売されたスペシャルBOX。
Photo_89 実は、私はこのテレビ版のDVDを2枚持っているんです。以前単品で発売されていたものですが、2枚買ったところで資金が続かなくなってしまって・・・
市場には全巻が発売されていたのですが、買いだしたのが遅かったため、徐々にショップからも姿を消し・・・ついに手に入らなくなってしまったのです。
「日本沈没」フリークを自負する私はその時の屈辱を晴らす為、今回の映画公開でなんらかの動きがあるものと、市場の動向を狙っていたのですが、「直感とイマジネーション」が当たったようです。

Photo_90 さて、このDVDBOX、実はまだ開封していません。
まあ、実際には1巻と2巻は単品で持っているので、あわてて開ける必要もない、というのが一つの理由ですが、せっかく「ネヴュラ」で皆さんにお話を聞いてもらっている事だし、という事で、今日はちょっとお遊びをしてみようかと思います。

私はこのテレビ版を、1974年の本放送、1980年代に一回だけされた再放送、そして2年ほど前に買った単品DVDの1話から6話までしか見ていません。
その記憶を駆使して、このDVDBOXを再見する前に、テレビ版沈没の印象、感想を語ってみようと思います。見る前に文章にしておくと、いかに自分が記憶の中で事実を美化しているか、ねじ曲げているかがわかるかなー、なんて思いまして。
必死に思い出すと、自分がこの作品のどこに一番惹かれたかがわかりますよね。
ある意味自分に対する「実験」。
記憶をふまえ、再見前に「テレビ版日本沈没を予想する」わけです。

まず、この作品を本放送で見た時、やっぱりやってしまったのが「映画との違い」でしょうね。同じ「日本沈没」というタイトルでありながら、半年間26話もあるわけだし、映画と同じ訳がないと。どこが違うの?と、子供の私は目を皿のようにしてブラウン管を凝視していました。で、これは再放送、DVDともに思った印象です。ちなみに「映画」という表記は以後、すべて1973年公開の前作を注します。

その1  『寄り目の『わだつみ』
映画、テレビともストーリー前半、海底乱泥流発見などの名場面を盛り上げた、深海潜水艇「わだつみ」。10万メートルもの潜水性能を持ち、当時のハイテクを駆使した純日本製の潜水艇でした。この「わだつみ」、テレビ版は映画のものと(おそらく)同じ設定のものを使っているはずなのですが、テレビ版は映画のものとデザインが微妙に違うのです。
Photo_91 写真は最近復刻された、テレビ版の「わだつみ」ミニキットの箱絵ですが、これを見て映画版との違いがわかる方はかなりの「沈没」フリークですよね。
そう、「ネヴュラ」をごらんの方はもうおわかりでしょう。
テレビ版の「わだつみ」はフロントのライトが「寄り目」なのです(笑)。
子供の頃、この「寄り目」を見た時、変な印象を持ったものでしたが、後にDVDのオーディオコメンタリーで、新作映画の樋口監督が同じ事を言っていたのが笑えました。

その2  『ヒゲの田所博士』
その鬼気迫る演技で、映画版に絶大な緊迫感を与えた「田所博士」。「わしは、日本と心中です。」首相との別れのシーンは、いまだに私の中で一級品の輝きを放っています。
この田所博士は、映画版、テレビ版とも同じ、小林桂樹が演じています。いずれもさすがの名演技なのですが、映画版とテレビ版では、そのキャラクターが若干違うのです。
Photo_92 外見上の差は何と言っても「ヒゲ」。テレビ版はソフトなイメージのおヒゲによって、映画版の、眼光鋭い狂気の天才、というイメージが影を潜め、演出設計の差も手伝って、「日本を憂うやさしいおじさま」というキャラクターになっていたのでした。
確か娘さんが居て、涙の再会を果たす、なんてシーンがあったような無い様な・・・(笑)。

その3  『超兵器ケルマデック号』
Photo_93 映画版ではビニールシートに覆われ、船体の下半分しか見えなかった「わだつみより性能の劣る」フランス製深海潜水艇、ケルマデック。本当に映画では影の薄い存在でしたが、テレビ版では八面六臂の大活躍を見せていたのが印象的でした。
田所博士と小野寺は、このケルマデック一隻で、離島や沈没によって取り残された人々の元へ駆けつけていたような印象があります。(さあ、このへんから記憶が曖昧ですよ(笑)。
映画版ではまったくと言ってもいいほど活躍しなかったケルマデックだったので、このテレビ版での活躍は私にとって大きな楽しみとなっていました。「燃料は?」「そんな性能あったの?」なんてツッコミもものともしない、まさに「超兵器」だったのです。

その4  『ご当地沈没』
Photo_94 テレビ版の魅力を語るとき、最も多く言われるのがこれでしょう。毎回日本のどこかに異変が起こる。天才田所博士の「次は何処どこが危ない!」という予言の通り、毎週、日本の名所が沈んでいくのです。
これも子供の頃の私には、不謹慎ながら見所となっていました。もう「怪獣の出ない怪獣映画」でしたから。それくらい特撮の精密さはテレビ作品とは思えないくらいのクオリティーを見せていました。
印象に残る「沈没劇」は、よく話題に上る「金閣寺」などの有名なお話ではないんですが、
埋立地で作業をしている作業員の人たちが、周りが次々と沈んでいって取り残される、といったエピソード。追い詰められる恐怖が幼い心にトラウマを残しました(笑)。

その5  『そして・・・『あしたの愛』
このテレビ版の主題歌は五木ひろしの「あしたの愛」。いかにも、という歌なんですが、特撮ファンでこの歌が好きな人って多いんですよ。
番組のテイストをよく表した曲だと思います。日本が沈んでいく悲しみと、祖国を失っても生きていれば希望はある、というメッセージを持っていたと思います。
番組中にはよく、こんな場面があったと記憶しています。田所博士と小野寺(テレビ版では村野武範が出演)が、「どんな状況になっても、最後の一人まで助けるんだ!」と語るシーン。
これがおそらく、「無常」を感じさせた映画版とは違うテイストの、テレビ版のメッセージではなかったのでしょうか。この会話が繰り返される事で、地球規模の地殻変動に立ち向かう小さな人間の、心の叫びを描く事ができたと。

・・・とまあ、こんな所でしょうか。
かなり記憶に頼った所があるので、間違っていたらごめんなさい。でも、事実と若干違っていても、「受けたイメージ」はきっと、テレビ版をご覧になった方ならさほど変わらないと思います。

さあ、ささやかな私の「夏の収穫」いよいよ開封です。
この「明日の沈没予想」を再確認する作業が始まります。26話あるからたっぷり楽しめそう。
きっとその感想を「ネヴュラ」で語る事もあるでしょうね。

2006年7月27日 (木)

あなたの物差しは?

Photo_60 今日も真夏日。ハードな仕事を終え、フラフラと立ち寄ったHMV。
公開中の「日本沈没」サントラCDの、今日は発売日だったのでした。こんなものを手に入れるとつい昔の習性で、本屋でムック本に手が伸びる始末。ふーん。これ、第2版じゃない。増刷してるんだ。売れてるのね。

当然、今日のBGMはこのサントラ。岩代太郎作曲の、悲壮感に満ちた調べが流れる度に、数々の場面が浮かんできます。映画を反芻する上で最高のアイテムですね。
記憶の中で美化されている分、実物の作品より「いい作品」に勝手になってくれます。

しかしながら、私の中ではこのサントラ、楽しさ半分、悲しさ半分の印象がつきまといます。
楽しさは「新鮮な作品と出会える喜び」。
そして悲しさは「物差しと比べてしまう悪い癖」。

私に限らず、どんな趣味の方でも、いや仕事にだって、「他人に譲れない自分の物差し」があるものですよね。
まあ、こういうブログで固いお話もどうかと思いますので、「趣味」に限らせていただいても、それが自分の嗜好に正直であればあるほど「ここは譲れない」という好みやこだわりが出てしまうもので。

私などは年とともに、ますます「物差し」と比べるガンコ癖が付いてしまい、作品の出来とは関係なく、好みに合うかどうかを判断基準にしてしまう「色メガネ」が鑑賞の大きな邪魔となってしまっています。これは私の周りのマニア仲間全体に言える事で、たまたま好みの作品の傾向が似ているせいか、それ以外の作品はもう、酷いこき下ろし方。
私も反省しなければいけないのですが。

ここ数日、時間がある時に、公開中の「日本沈没」の感想をネットでよく見ています。
公開初日に作品を観る事ができた役得ですが、この感想がいろいろあって、大変面白い。
言ってみれば昔雑誌の「宇宙船」で、ゴジラ映画の新作が公開される度に、編集部スタッフから外部ライターまでが寄ってたかって感想を発表していた、あの雰囲気に近いのです。
ネットという、誰もが参加できるメディアゆえか、投稿者の裾野もうんと広がり(当たり前ですね)、実に千差万別の意見が飛び交う状況です。

こんな事はおそらく、観客層を限定するゴジラ映画では到底あり得ない事でしょう。
特撮を売り物にしながらも、今風にラブストーリーを主軸に置いた「タイタニック」的広報戦略が功を奏したのか、夏のデートムービーとして定着しつつある「日本沈没」ならではの現象です。

例によって私見ですが、感想の内容は大きく二分されるようで。
一つは「キャスト重視のストーリー感動派」
いま一つは「旧作と比較した作品分析派」ですね。

まあ、前者はやはり出演俳優に感情移入した意見が多いので、これはこれで興味深いのですが、やはり私など「古いタイプ」のオタクとしては・・・言わずもがな(笑)。
Photo_61 どうしても1973年版の旧作と比べてしまうのです。これはもう仕方がないこと。
いろんなブログでの感想を見ていると、いかに73年版が多くの人たちに影響を与えていたかがよく分かります。そうでなければ、これ程検索で記事が引っかかるわけがない。
私を含め、新作「日本沈没」を熱く語る人たちの心には、73年版が厳然たる「物差し」として存在しているのです。

正直なところ、リメイク作に関してこれ程議論が交わされる作品も珍しいですよね。
「物差し」になっているという事は、それだけ人々の心に73年版が強く残っているという事なんだろうなと、ちょっと嬉しくなったりして。

意見を読んでいて意外だったのは、73年版を知らずに新作を観て感想を書いている人がかなり居た事です。それだけインパクトのある作品だったからでしょうか。
そりゃそうですよね。日本が沈むんだから(笑)。
そんな人たちの意見には「迫力があった」「特撮が凄かった」「感動した」などが多く、おおむね好評だった事が窺えます。
これらの人たちはこれから、この新作を一つの物差しとして考える事になるのでしょう。

こと映像作品に限って言えば、作品を測る上での「物差し」は、その人が最初に出会った作品によってかなり左右されるようです。
このブログでもしつこいくらいに書いている、怪獣映画、ヒーロー番組にしたってそれは同じで、最初に衝撃を受けた作品が名作であればある程、「長い」物差しが出来てしまう。
後年その物差しを越える作品に出会う事の困難さを、最初に課せられてしまうのです


私達「第一次怪獣ブーム」に育った人たちが最も辛いのはそこですね。最初にオリジナルを見せられすぎた、という。考えてみれば、今も連綿と作り続けられているウルトラ・ライダー・戦隊シリーズなどは、その「初作」から体験し、ゴジラ、ガメラに関しても、観客動員数が一番多かった、盛り上がっていた頃を原体験としている訳ですから。

そういう時代に生まれた事を自慢している訳でも、何でもないんです。同年代の方ならなんとなくお分かりですよね。
「水が一番澄んでいて、冷えていた頃を知っているが故の、今の喉の渇き」というか。
1995年に「ガメラ 大怪獣空中決戦」が公開された時、乾きが癒されませんでしたか?
あんな、十数年に一度の体験だけを望みに生きているような気がするんですよ。

まあ、そんな「物差し」というこだわりにしたって、今のマニアから見れば「古い物差し」なのかもしれませんね。
今の作品も頑張っているとは思うんですよ。
でもなぜかいま一つ私達の「古い物差し」を越える、いや新しい物差しを作る程の作品に出会えない。旧作の遺産だけでやっているような気がする。
そんな閉塞感を感じるのは私だけでしょうか。

「ネヴュラ」をご覧になっている奇特な皆さん。
最近、あなたの物差しにかなう作品に出会いましたか?
もし、おすすめの作品があったら、ぜひ私に教えて下さい。
なんてね。テレビ関係者の私が言ってちゃいけないんですが(笑)。

2006年7月15日 (土)

私の心は乱泥流

日本海溝の底、8740メートルの深海に挑む潜水艇「わだつみ」。
突如船体を襲う、強烈な振動。船窓から海底を覗く田所教授の顔が驚愕に震える。
「乱泥流だ!」

ご安心下さい。これは1973年版「日本沈没」の1シーン。ネタバレではありません。
さて、今日観た新作の「日本沈没」。このシーンは・・・・

かなりの期待と気合で臨んだ新作「日本沈没」。
朝4時半起きで熱いシャワーを浴び、朝シャンで気分もスッキリ、メイクも完璧。まゆ毛もうまく引けました。この日の為に新調したワンピース(もうこれはドレス?)をまとえば、すでに臨戦態勢。一人で行くのにまるでデート。
そう。今日は「映画とデート」の気分なのでした。
劇場は拡大ロードショーのふれこみ通りの600席。これは大迫力が期待できます。お客さんの入りもそこそこ。開演のチャイムが鳴りました。そして場内が暗くなり・・・・

ここからは、帰ってからのお話です。さすがに公開初日という事もあり、ネットで調べても全国で「観ました」という記事のオンパレード。キャストの感想、作品の考察とりまぜて、おもしろい閲覧ができました。
今日観たばかりのこの作品、私もお話したいのは山々なんですが、まだご覧になっていない方も多いはず。
そこで今回は、私なりにネタバレにならない程度の感想を書きたいと思います。
(私見ですからね)

ひょっとしてカンの良い方はわかっちゃうかもしれないので、
(このブログの読者は、1%の言葉で120%の読解力をお持ちなのでうかつな事は書けなくて)後は皆さんの自主性にお任せします。

まず、今回の作品、テイスト(あくまで「作品の雰囲気」)は、かなり73年版と異なります。
物語の進み方はむしろ「1962年公開のあの東宝映画」に近いです。
ほら、「We did・・・」
そして、登場人物の雰囲気はあえて言えば「1961年公開のあの東宝映画」でしょうか。
「シアワセダッタネ・・・」
物語のあちこちには、樋口監督がインタビューなどでしばしば話していた、「お好きな映画」のオマージュがちりばめられています。1975年公開の「あの」映画とかね。あと偶然でしょうが、1937年の「あの」外国映画を思わせるシーンもありましたね。

そして肝心のストーリー。これは劇場で確認して下さい。
私は、うーん・・・ノーコメント。

鑑賞後の印象は、樋口監督、本当に前作の映画が好きだったんだな、という事。
と言うのは好きすぎるあまり、「同じ事をやっても絶対に前作を超えられない」という脅迫観念にも似たものを画面から感じ取ったからです。でも作るのは楽しくて仕方がない。いきおい、自分の好きな映画のすべてをこの作品に盛り込んだ、そんな雰囲気が漂います。でもそれは仕方がない事で、リメイク作品の宿命のようなものですよね。

そういう意味では、あえて自分のフェイバリット作をリメイクするという「攻め」に出た樋口監督の姿勢は高く評価すべきと思います。「あの名作を今作ればこうなる」という気概も充分感じました。特撮の盟友、神谷監督もよくやっていると思います。

ところが。(ここからはさらに私見です。ご気分を害された方はごめんなさい)
今回の映画に、前作にあった、思わず他人に話したくなるような「名場面」「名ゼリフ」があったでしょうか?辛口のようですが、これに関しては私は「前作」に軍配を上げたいと思います。「カンです」「ただちに門を開いて避難者を宮城内に入れてください」「このつっかえ棒がなくなったらどうなるかって事だよ!」「わしは日本が好きだった。これからも、日本人を信じたい」・・・ちょっと考えただけでも奔流のようにあふれ出てくる前作の名ゼリフに匹敵するセリフが、今回の作品ではどうしても見あたらないのでした。
いわゆる映画の「顔」となるべき名場面、
「コク」となるべき名ゼリフの不在、という所でしょうか。

「セリフが浮いてる」と感じた部分は何箇所かありましたが。
年で頭が固くなり、「感力」が鈍っているせいですよね。そう思いたいです。

本当は他にも書きたいことは山ほど(おそらく私の記事のボリュームで50記事分ほど)あるんですが、今日は一応、これくらいにしておきましょう。ご意見ある方、ぜひお聞かせ下さい。

とはいうものの、やっぱり「日沈」といえばどうしても、お財布のヒモはゆるんでしまい・・・
またまた劇場の売店に張り付いて、こんなものまで買ってしまったのでした。

2006 ファイルセット、ポストカード、パンフレット、そして劇中活躍する「わだつみ6500」のミニモデル。
ドレスを着た女性がこんなのを血眼になって買っている姿を想像してみて下さい。
小林桂樹さんならこう言うでしょう。
「わからん!・・・もうさっぱりわからん!」

2006年7月14日 (金)

「監督の仕事」を観たい!

あの黒澤明の名作「椿三十郎」を、森田芳光監督がリメイクするというニュースを聞きました。
主演は織田裕二だそうです。彼があの、三船敏郎が演じた役を演るわけですか。
となると、仲代達矢の役は誰が?その演出は?・・・

映画のリメイクの話が出ると、私は必ずこうなってしまいます。前から何度も記事にしていますが、リメイク作の監督にとって、その制作は最初からハンディキャップ戦。しかもこの作品って、ある意味「結末の一太刀」が話題になった作品ですよね。
「ネタが割れている」作品をあえて選んだ森田監督の胸中は?勝算は?
周囲のプレッシャーにめげずがんばって欲しいものです。

こと映像作品において、監督の力量こそが作品の要、と私は思います自分が似た仕事(規模は比べ物にならないくらい小さいですが)に携わるひいき目を差し引いても、監督によってこうも作品のテイストが変わるものかと、呆然とする事もあったりして。
これは同じ俳優やキャラクターを主役に据えた、シリーズ物の映画などでものすごく如実に出ますよね。

私は「バットマン」シリーズが大好きなんですが、1・2作目のティム・バートンのダークなムードが好みで、3・4作目のジョエル・シュマッカーにはちょっとガッカリしていたんです。
ところが!昨年公開された5作目「バットマン・ビギンズ」を見てビックリ!私の理想とするバットマン映画はこれだったんです。バートン作品のダークなムードは影をひそめましたが、全編に流れる「ハード」な空気。「犯罪をやめなければ・・・殺す!」という姿勢の、バットマンの異常なテンション。コレクターズDVDを予約して買ってしまいました。
クリストファー・ノーラン監督。彼の名前は、私の中に永遠に刻まれたのです。

そんな訳で、昔から映画を「俳優」ではなく「監督」で観る癖が付いている私は、周囲と話が合わない事がたびたび。特に私の周りはやっぱり「あの人が出てるから観たーい」という人たちばかりなので、「なんであんたはあの俳優が出るのに観ないの?」ばっかりです。
けっして特別意識を持っているわけではないんですが、一種の職業病なんでしょうね。

私にとって映画とは娯楽ではなく、
「監督をはじめとするスタッフ・キャストの仕事を観にいく」という感覚なんですよ。


だから観る前にはものすごくテンションが上がります。
若い映画マニアのように「Xデー」の数日前から関係情報は一切シャットアウト。先に観たなんて人が現れないよう、できる限り公開初日、一回目の上映に出かけます。その日は完全に「映画」中心の一日。全集中力を映画に注ぐので、見た後はクタクタになっちゃいますが、その作品がお気に入りとなったらもう止まらない。劇場販売のグッズを2万円分以上買い込み、あまつさえ周囲の書店、CDショップを「絨毯爆撃」。荷物だらけになって帰ったこともあります。その日はもう上機嫌。DVDが待ち遠しくてしょうがないという、
典型的な「映画オタク」なんですよね。

それはやはり、その仕事を成功させた「監督とスタッフ・キャスト」への賞賛がさせる行動なんでしょう。
「その作品を劇場で観た、歴史の証人」的な記録を残すという行為。

いい年して何書いてるんでしょうね(笑)。
だから必ず、入場料を払って観る。実は試写会にも何度か行った事があるんですが、どうも「お金を払っていない分、文句も言えなきゃ賞賛もできない」的な居心地の悪さを感じるんですよ。「映画に参加していない」感なんでしょうか。映画への接し方が真面目すぎるのかもしれません。でもそうなっちゃう。
笑って下さい。自分でもおバカだと思いますから。

以前、幼なじみが出演した舞台公演を観にいった折、このブログで書いた感想が、「酷評」なんて言われた事がありました。本人には申し訳ないなと、後で電話で謝ったりもしましたが、私が作品を観る姿勢は今日書いた通り、「真剣勝負」なのです
ヒマつぶしなら絶対行きません。かなりの気合を入れて観にいくのです。だからそれなりの感想も出てしまう。許して下さいね。嫌いだったら言わないんですから。

「そんな観方をしていたら、映画を純粋に楽しめないんじゃないの?」と、周囲からもよく言われます。ところが、そういう観方にもそれなりの楽しさがあるんですよ。
世の中に溢れる「映画好き」の方々のブログ。その中には私のような観方をする人も多くいらっしゃいます。そりゃ楽しいですよ。監督に共感できる幸せ!

さて、とりとめのない事を長々と書いてしまいました。
何故こんなにテンションが上がっているかというと・・・
それは明日の「ネヴュラ」に続く!

2006年7月 3日 (月)

6番目の日本が沈む時

さすがに昨日は風邪でダウン。今日はその分を取り返そうと、朝4時半起きでがんばりました。おかげでお昼の1時には仕事も終わり、さて何しようかと考えたとき、ふと思いついた単語が。

「人間には不思議な感覚がある。
それほど関心を持たずに聞き流した言葉が、何かの瞬間に甦る。」

「日本沈没」。最近、どこかで聞いたこの単語。以前から気になっていたんですが、何故思い出したのか?「そーだ!前売り券買ってないじゃん!」
2_6 最近の映画鑑賞は、すっかり「レディースデー」ばっかりの私なんですが、気合いを入れて観たい映画だけは前売り券を買うようにしているのです。今月15日から公開のこの映画、これは私にとってかなりのイベント。気分を盛り上げようと、早速(プレイガイドではなく劇場で)前売り券をゲットしました。こうして鑑賞当日までワクワクしながら待つのも、映画オタクの私にとって楽しい時間なんです。

「・・・来ますぞ!」

この「日本沈没」という作品。言うまでもなく、小松左京のSF小説で、1973年の発表当時440万部を売り上げた大ベストセラー。流行語にもなりましたねー。
この作品、発表当時のブームも手伝って、原作小説に始まり、週刊少年チャンピオン連載の漫画(さいとうたかを氏)、ラジオドラマ、映画(1973年東宝)、テレビドラマ(1974年TBS)
と、都合5つのメディアで展開され、それぞれの作品が見せる独自の「沈没」ぶりを楽しめた訳です。当時子供だった私も、身近なラジオドラマ(平日デイリー!)などは夜の放送だった為、楽しみにしていました。そんなオタクな子供のメインイベントと言えばやはり、「映画」でしょう。そんなワクワク感が、今回で6番目となる「日本沈没」にもあるのです。

「何もせんほうが、ええ」

1_3 1973年の映画公開当時、私はこの作品を、劇場を変えて都合3回観ています。
やっぱり最初観た時のインパクトが強すぎたんでしょうか。何度も観に行きたくなる魅力があったんでしょーねー。正直、翌年に放送されたテレビ版は、特撮こそ凄かったもののストーリーはかなり改変され、「別物」としか思えなかったですから。やはり原作と、それをうまく映像化した映画版の魅力に取り付かれた私にはちょっと・・・って感じで。
この映画版のすばらしい所は、設定やセリフなど重要な所はほとんど変えず、原作のエッセンスをうまく映像作品として再現している所だと思います。
このあたりは脚本の橋本忍、そして監督の森谷司郎の手腕でしょうねー。
「いい部分は変える必要はない」という割り切り。これが大事なんですよね。変えることで原作の良さを台無しにしている映画もたくさんありますから。

「あの旦那が張り切ってる。お遊びで済めばいいんだがなあ」

そしてこの映画版、出演者のテンションがハンパじゃない。
物語は「日本が沈む」という一大災害(地球規模ですよね)を中心に、潜水艇の操舵士、小野寺俊夫(藤岡弘)を通して描く一般国民側の「個のドラマ」と、国の代表である山本総理(丹波哲郎)を通じて描く国家レベルの「群のドラマ」を交互に描く構造。
そしてこの「個」と「群」の間に入るのが名優、小林桂樹演じる「田所博士」その人!
もう私なんかは「田所博士」といったら小林桂樹しか思い浮かばないもん。「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年松竹)の高英男ぐらいのハマリ役。この頃の小林さんは恰幅がよく、頬のふるえなんかはもう「モスゴジ」(笑)。このキャスティングで映画版の成功は決まったようなものだったと思います。
さらに、首相役の丹波哲郎がまた凄い。この映画、特撮ばかりが話題になりますが、私には特撮より、むしろ本編側の演技に鬼気迫るものを感じます。その白眉は物語のクライマックス、首相と、日本を影で操る大物、渡老人(島田正吾)との会話。「日本民族の将来」について語るシーン。ここはカット毎に撮らず、カメラ2台で通しで撮影されたそうですが、ここの重苦しい空気感は言葉で表現できません。加えて丹波さんは、「いい間」で涙を流し、しかも顔をうまく照明に向けて涙を光らせるという離れ業を見せます。これぞ役者根性!

もちろん特撮のすばらしさは言うまでもありませんが、それだけではない「演技の重厚さ」が1973年版「日本沈没」の凄さ。まさに「黒澤組」森谷司郎と「円谷組」中野昭慶の才能が幸福に融合した作品だと思うのです。

「樋口監督、「日沈」を頼みます!」

新作「日本沈没」の樋口監督が、この1973年版にリスペクトしている事はよく知られています。私も彼と同年代ですから、幼少期にあの作品に出会ってしまった者の気持ちも痛いほどよく分かります。
(余談ですが、私のダイエット計画の名称は「D計画」でした。)
だからこそ樋口監督にはがんばって欲しいのです。
「自分はクリエイターなのか、アレンジャーなのか」と自問自答を続ける監督。その苦悩の一端が見え隠れするであろう今回の作品を、私は膝を正して観たいと思います。
「6番目の日本が沈む時」私はスクリーンから何を受け取るのでしょうか。
「ローレライ」の出来が私にとってちょっと辛かっただけに、
いやな「直感とイマジネーション」がはずれる事を祈っています。