「暗示力」の欠如
山間の田舎町にしつらえられたロープウェイ。
今日は入社試験当日。希望に燃えた若者がロープウェイに乗り込んだと思って下さい。
ゴンドラには彼一人。今まさに動き出そうとしたゴンドラへ静寂を破って飛び込んで来たのは痴話喧嘩の男女二人連れ。
若者と男女の三人を乗せたまま、ゴンドラは出発してしまいました・・・
以前、「シナリオ教室」なるものに通っていた事がありました。
お仕事の合間に通っていた為、ほんの僅かの間しか在籍できませんでしたが、業界内のお話なども色々聞けて少なからず勉強になりました。冒頭の一文は、その頃考えた5分程度のシナリオの筋書きです。
この後のストーリーを考えてみて下さい。貴方ならどう展開しますか?私はこう考えました。
二人連れの内、女は金切り声を上げ男ともみ合います。
男は懐に拳銃を忍ばせていました。その拳銃が暴発、弾はゴンドラの天井を貫通し、ゴンドラを支えているワイヤーを切断してしまいます。傾くゴンドラ。
残ったワイヤーではゴンドラは支えきれません。
咄嗟に若者は落ちた拳銃を拾いますが、恐ろしくて持て余してしまいます。意を決して男に組み付く若者。男は女を蹴飛ばし、女はゴンドラのガラスを割って地上に落下・・・
ドラマはこの後まだ続くのですが、部屋を片付けていて久しぶりに見つけたこのシナリオを読んで、私は苦笑してしまいました。
「こんなシナリオ、今だったら絶対書けないなー。」
シナリオという物は映像作品の設計図と言われます。シナリオなしにストーリーを構築する事は出来ません。「ネヴュラ」読者の皆さんならそれはよくご存知だと思います。
シナリオライターと監督は違う才能を必要とする、という事もよく言われますね。ストーリーという世界を構築するシナリオライターを創造者とするなら、それを形にする監督は表現者、という分け方が最も端的だと思います。
実際には監督と同様に、カメラマンや照明マンをはじめとするスタッフ、監督の意図を画面上で形にする俳優も大事なファクターである事は言うまでもありませんが。
ただ、その表現の全ての元は「シナリオ」にあるのです。
このシナリオの出来が悪いと、どんなに監督やスタッフ、俳優が頑張っても、いい作品は生まれないのです。
冒頭の作品(「ケンカ」というテーマを講師から与えられ、急場しのぎで書き上げた物ですが)に、私が苦笑してしまった理由、それは、「人物がまるで駒のように扱われている」という印象から来たものでした。これじゃあまりにも人物描写が薄っぺらすぎますよね。
コントにもなりません(笑)。
シナリオという物を実際書いてみると分かりますが、これは普通の文章表現の手法がまるで通じない代物なのです。小説やエッセイなどを書き慣れた人がシナリオには手も足も出ないという事はよくあります。実際私が初めてシナリオに接した頃痛烈に感じたのは、「シナリオには中途半端が無い」という事でした。
小説やエッセイなどに頻繁に登場する文、「・・・と思った」「・・・と感じた」などの表現は、シナリオでは禁句なのです。
「思った」などという抽象的な映像など無いからです。
シナリオには必ず、「思った」という表現の代わりに、その人物が思った事を具体的に暗示する行動が記されていなければならない。例えば「怒った」なら物に当たるとか、「安心した」なら床にへたり込むとか。シナリオは人物の感情の暗示なのです。
ここにシナリオライターの人生経験が大きく表れます。
この行動の「暗示」が高度であればある程、そのシナリオは良く出来ているのです。
冒頭の稚拙なシナリオに、私が「今は書けない」と思った理由はもう一つありました。
「人の生き死にがあまりにも軽く書かれている。」
それだけ若かったという事なのかもしれません。
「ネヴュラ」でもお話した通り、私は昨年11月、母を亡くしています。その4年前には父を見送っています。この年になって両親を失ってしまうと、そう簡単に「人が亡くなるストーリー」なんて書けなくなっちゃうんですね。弱くなったのかも知れませんが。
あの最期を看取った瞬間の、何とも言えない虚脱感、喪失感。
涙が出せればまだいい方で、元来気の小さい私などは亡くなった事実を認めたくなくて、ただお通夜や葬儀の準備に追われる事で、自分のアイデンティティーを保っていたような気がします。
まあ、こんな事がお話できるようになっただけ落ち着いたという事で(笑)。暗いお話でごめんなさいね。
ただ図らずも起こったそんな出来事の後で、私の中の何かが変わったような気がするのです。
「軽々しく人の生き死にを書く事はできないなー」なんて。
別に重いお話をしようという訳ではありません。でも私が失意の中で鑑賞し、不覚にも涙でぐしょぐしょになってしまった作品「東京物語」(1953年松竹 小津安二郎監督)に於けるシナリオの「暗示」の仕方は、それはそれは素晴らしいものでした。
こういうシナリオが書ける人、そしてそれを表現できる人って、人生を深く生きている人なんだなーと思ってしまう。
より作品を理解できるような気がします。
脚本の野田高梧、そして共同脚本の小津監督の人生観が、この作品には色濃く表れているのです。
実は最近、昨年公開の映画「日本沈没」DVDをコメンタリー音声で再見しまして。
キャスト篇、スタッフ篇の両方で、色々な裏話なども聞けて興味深かったのですが、樋口監督以下関係者が楽しそうに語るコメントを耳にしながら感じた事がありました。
「この人たち、映画制作のキャリアは長いかもしれないけど、進化する特撮技術と遊ぶのが楽しいだけなんじゃないかなー?」
ごめんなさいね。私にはそう聞こえてしまいました。できればこのコメンタリーにシナリオの加藤正人さんも加えて欲しかったのですが。
アルフレッド・ヒッチコック監督がかつて「映画は準備が終わったら後はスポーツだ」という名言を残しました。確かに言いえて妙。過酷な撮影現場では予定されたカットを消化するだけで精一杯で、シナリオの内容を吟味し直す余裕など無いからです。ですから撮影に入る前に、そのシナリオが本当に作品のテーマを訴えているか検討する必要があります。
昨年の「沈没」の場合、再見してみて思ったのは、まず加藤正人氏のシナリオの段階で「日本が沈むという未曾有の災害を画面毎に暗示できていなかったのでは」という事で。
各々のシーンが、祖国を失う日本人の心情を表現できていなかったような気がするのです。
まあそりゃそうですよね。現実にそんな災害に遭った事なんか無いんですから。でもこの作品ではそれを表現しなければならない。そこが難しい所なのです。
前作(1973年 森谷司郎版)との差は、単にストーリーやキャスティングの他に、そういう「暗示力」とでも呼べる部分の差もあったような気がします。
日本を沈没から救う為、名誉ある死を遂げた小野寺、結城の二人が印象的な2006年版「沈没」。ところが私にはこのストーリーから、彼らが失った命の重さが伝わって来ませんでした。
それに対して1973年版の旧作は、小野寺をはじめとするメインキャストは誰一人亡くなっていないにも関わらず、引き裂かれるような悲壮感、国が亡くなる喪失感、沈没に怯える人々の小さな命の叫びなどが感じられたのです。
この差は何処から来るものなんでしょうか?
いつもながらの陳腐な考えなのでお笑い頂ければいいんですが、やはりその差は「制作者の人生経験の差」ではないかと思います。中でもああいった作品の場合、戦争経験は災害時や難民の描写大きく活かされる事でしょう。
監督の森谷氏はじめ、脚本の橋本忍氏も第二次大戦の影を感じた世代。73年版の製作当時には、スタッフの間にも身近に戦争経験者が数多く居たのでは。そうした人々の知恵や感じた空気(これが大きいんですよ)が、シナリオにも演出にも大きな「暗示力」となって働いたのではないかと思います。そしてそれが全てのスタッフ、キャストに伝わり、あの独特の悲壮感を生んだのではないかと。
私などが言及するのもおこがましいですが、73年版の教科書は「第二次大戦」だったのかもしれません。
これは批判ではないので誤解されるといけませんが、2006年版にはどこか「かつてこのタイトルの名作があった。それを教科書にしてちょっと変えてみました」という空気が見えるんですね。
ここに73年版と06版の決定的な差があるような気がして。
実際の悲劇を教科書にした73年版と、その73年版を教科書にした06版。
この図式がある限り、最初から結果は見えていたのでは。
当然の事ながら私は戦後生まれなので、これは推測に過ぎません。しかしながら、これは私自身にも言える事なんですね。
冒頭の一文などはまさにそのいい例で。
結局「味わった事の無い経験は、作品にしても説得力に欠ける」という事です。
戦後生まれの樋口氏や加藤氏に、戦争の空気を暗示する表現を求める事自体が無理なお話なのです。ですから06版「沈没」は、戦後生まれの世代が精一杯作った習作、とでも位置づけるのが適切なのかもしれません。
73年版との最も大きな差異、「N2爆薬」の説得力の無さが全てを物語っているような気がします。爆薬そのものではなく、そこへ至るストーリーの運び、暗示力の問題です。
今、ハリウッドでも優れた作品の企画に飢えているそうで。
リメイク作品が増えるのはそういう事情なのですが、作品というものは創られた時代の空気を色濃く反映するもの。
軽々しくリメイクに手を出すと、先人の偉業のうわべだけをなぞった中途半端な作品に成り果ててしまいます。
江戸川乱歩は自作の小説を年少者向きに書き直し、「少年探偵団シリーズ」として刊行、反響を呼びましたが、私には今のリメイク作品はそんな「年少者向けに噛み砕いた」作品群に見えます。
前作のネームバリューに頼らず、オリジナル企画で勝負した「習作」ではない作品を期待するのは、私のわがままでしょうか?
最近のコメント