風の中のスバル
「鼻が利く日」というのがあります。
今日もそんな予感があって。
なんとなく人々で賑わう市内中心部へ出かけたくなり、吸い寄せられるように足が向いちゃったんですね。「あのお店」へ。 そのお店とはこちら、トミカショップ。
たまーにしか覗かないのに、今日はどうしても行きたくなりまして。
不思議な事です。で、案の定。カンが当たりまして。このコーナー。いやーいい物めっけ
大好きなスバル360。
それも限定版、カスタムモデルのパトカーです。
東京店リニューアル記念だそうで。
トミカショップ限定とありますから余計に貴重。案内によると、トミカショップって国内で三店舗しかないそうなので、これはラッキー以外の何物でもありません。
普段、ネットで新製品情報などを全然調べていない私にとって、こんな出会いはまさに偶然の出来事なのでした。発売は一週間前ですが
「カンで新作をゲット」なんて効率悪いことこの上ないですが、これも私の性癖、あい変らずのグータラ癖はどうにもならず
他にもいくつかのお店を回って、あー大漁大漁
あい変らず、安いものばかり拾い集める貧乏ショッピングですが、それはそれで満足感も大きいものです。こんなもんですよ。貧乏女の休日なんて
お天気に恵まれたのも気分上々の理由の一つでした帰るのももどかしく封を開けてみれば、ご覧のとおりの可愛い一台が。
いつも思うんですよ。
スバル360って、最近の軽四よりはるかに可愛いフォルムだなあと
私にとってこのてんとう虫は、生涯に一度は乗りたい車のナンバーワンなのです。ちなみに二位はルノーサンク・ターボですが。
「ネバーセイ・ネバーアゲイン」仕様の前述の通りこのパトカーは、車体後部をリ・モデルしたカスタムバージョン。
代表的な猫背のクーペ・モデルとは違い、後部の車内面積が大幅にアップしています。
このタイプ、乗っている人が近所に居まして。
もちろん最近のお話です。
地元の交差点などでよく見るんですよ。もう可愛い可愛い。「タランタンタンタン」って独特の排気音で元気に走っています。
色も当時のベージュっぽいキャメルで。その一台の周りだけは昭和の空気ですね。
あまりの懐かしさに、周りの車も微笑んでいるような雰囲気さえあったりしてでもカスタムタイプは後年になって知ったモデルでした。
で、やっぱり馴染み深いのはこの「トリプルファイター・デビラーカーモデル」ですね。
遡ればウルトラセブンのスチールでよくお目にかかる、あのタイプです。てんとう虫とダン隊員とのミスマッチがなんとも和やかな雰囲気でした
別にカラーリングも「つや消し黒」や「スカイブルー」ではなく、写真のようなベージュ系が記憶にあります。
小学生の頃、同級生と真剣に相談したんですよ。
「あのスバル、何万円するんだろう?」(「万円」って所が子供ですね)
「何年働けば買えるんだろう?」なんておバカすぎる会話
それくらい欲しかったんです。
あのスーパーカー・ブームの頃だって、フェラーリBBとランボルギーニ・カウンタックの最高速が2km差、なんて騒いでいるクラスメートを尻目に、スバルの事ばっかり考えてましたから
「スバルだって水平対向十二気筒を乗せれば、ポルシェ930ターボなんて軽く抜いちゃうよ」なんて神をも恐れぬ暴言も
発進直後に空中分解するなんて考えもせず
そんな憧れを持ったのも、父が乗っていた車がスバルじゃなかったせいでしょう。
我が家はそれほど裕福でもなかったので父は社用車のトヨタパブリカを自家用に使っていました。その後、自家用にスズキ・フロンテを購入しましたが、これまたエンジンがかからないひどい中古で
冬の寒い朝、父の通勤時には、家族全員で後から押し、やっと発進できた苦い思い出もあります。今考えればパッテリーの不調程度の原因だった筈なんですが、何故か毎日毎日押しがけで
まだ暗い早朝5時半。父の乗るフロンテを母と私と妹三人でよいしょ、よいしょと数十メートル。車の重みが手からフワリとなくなる感触がエンジン起動のサインなんですが、走り去る運転席の窓から、父が手を振って挨拶するんですよ。
それを見送る私達三人。ああ昭和
今は懐かしい思い出ですが、きっと近所の人は、仲のいい家族だと思っていた事でしょう。あー恥ずかしい。これがスバルならちゃんと走ったのかもと
まーそんなおバカ話はともかくお話をスバルに戻しましょう。
1958年誕生のスバル360。
これは国産初の大衆車として歴史に残る一台だそうで。車の歴史などはまるで無知な私ですが、ことこの車に関しては色々な逸話を聞きます。
中でも特に心に残ったのはNHK「プロジェクトX-挑戦者たち- 日本初のマイカー・てんとう虫町をゆく」でしょうか。
まさにNHKでなければ出来なかったあの超名作番組(業界内では有名なお話ですね。スポンサーの絡みを考える必要が無いという意味であれほど羨ましい番組もありませんでした)で採り上げられたこの車の開発秘話は、もう私の涙腺を刺激しっぱなし。
テレビ番組、しかもドキュメント風演出のスタイルで、あれほど涙なしには見られないエピソードも珍しいです
まー涙もろい私のことですからあまり信用されるのも恐縮ですが、他の回はともかく、このエピソードだけは今でも時々見ます。まるで名作映画を見るように。
しかも自分の番組に、このテイストを随分採り入れたりして
カット頭からナレーションCUEまでの「間」とか
まーその内容を私のつたない話術でご説明するのも番組に対して失礼。
もう全篇が感動の連続ですが、私が心を打たれたのは、「偉業とは逆境の中から生まれる」という教訓ですね。
確かに「X」は、どんなエピソードも「逆境からの偉業」がテーマですが、スバルの場合は車という身近な存在だけに、特にその思いがダイレクトに伝わりました。この一台、現在なら「可愛らしさを目指して開発」なんて邪知されそうですが、実はまったく違う目的で作られたものだったんですね。
この事実に、私は本当に衝撃を受けました。
開発した富士自動車工業のメンバーは、そもそも戦後、国産初の乗用車を目指して1500CCの車を試作していたそうじゃありませんか
航空機開発のノウハウ、高い技術力を持ちながら、メインバンクから融資を断られ量産は頓挫、国産車第一号の栄冠はトヨタ・クラウンに奪われてしまいます。
「スクーター会社と合併、スクーターのラインでなら車を作れる」という現実を突きつけられるスタッフ。ここで屈しないところが凄いんですよね。
「作れる」と言われているだけで「作れ」とは言われない。
そこで車への夢を諦めないところが。いやー尊敬のまなざし
確かに航空機開発の自負、1500CC開発の技術を捨てられないという意地はあったでしょう。でもスクーターラインで360CCの車を作ってやろうという発想転換はなかなか出来ないと思いまして。
考えてみれば古今東西、万物は小型化の方が難しい訳です。
1500CCは可能でも、その1/4の排気量の車が作れるとは考えない筈で。
初の国産車・クラウンの価格は101万円。発売された1955年当時、この価格は庶民の5年分の年収だったそうです。新築の住宅より高かったとか。
一般人にとってまだまだ自動車は夢のまた夢。
チーフ・百瀬晋六氏以下プロジェクトチームは、このクラウンとは逆の発想、大衆車第一号を目指した訳です。この発想の転換も凄い。
百瀬氏はなぜ、この発想に至ったんでしょうか。
これが極めて人間らしい、共感できる理由なんですよね。
当時、百瀬チーフの家にも車が無く、自転車が主な移動手段だったそうです。
しかもその購入は「月賦」で。(口が裂けてもローンとは言いません)
高額なクラウンは購入など不可能。でも車があればどんなに便利か。
庶民でも手が届き、家族が乗れる車が作りたい。
それだけなんだそうです。シンプルにして最も説得力のある理由。
自分が欲しいから。これ以上に強く、素直な理由も無いですねー。
私も一緒ですから。番組は「自分が見たい」という理由で作ってます
新車開発に賭ける百瀬氏の情熱は大変なものだったそうで。
ほとんど会社に泊まりっきりで、めったに帰宅しなかったそうです。
ほぼ一日中開発、研究に勤しむ彼についたあだ名が「エンドレス百瀬」。そんな百瀬氏の元に集ったスタッフにも、車に賭けるそれぞれの思いがあったそうで。
開発途中の苦労話は多く語られましたが、中でも私が最も驚いたのはあのボディーラインの誕生理由でした。前述の「可愛らしさ」とはまったく別で。
フォルクスワーゲンを模したようなあの丸っこいラインって、なんと「ボディー剛性を高める為」にデザインされたんですね
なにしろ排気量360CC。車体重量は350kgに抑えなければ走らない。
ボディーチーフ・室田公三氏は、ボディー素材に最も軽い0.6mmの鉄板を考えたんですが、これが曲げるとグニャグニャだったそうなんですよ。薄すぎて
そこで考え出されたのが、鉄板の曲面加工。要は卵の殻の理屈ですね。
その処理でボディー剛性は飛躍的に高まったそうです。
いやーあの可愛い形にそんな苦労があったとは。つくづく「虚飾を取り払ったフォルムこそ最も美しい」なんて高尚な言葉を思い出したりして。
あのフォルムの魅力は「機能美」によるものだったんですね
「スバルクッション」と賞賛された「ねじり棒ばね」にも感動しましたね。
従来のサスペンション機構では場所を取りすぎ、軽四輪のサイズ規格からはみ出してしまう。その為に編み出されたのが「一本の棒」というサス。
このばねも実用化までには大変なご苦労があったそうです。
現在では「トーションバー」と呼ばれるこのサスにも、血の滲むような努力があったんですね。技術的な事など理解できず恥ずかしい私ですが、新たな試みにつきまとう生みの苦しみはよくわかります。
その足回り担当、小口芳門氏の思いも心を打ちました。
当時、小口氏は奥様がご病気で、入退院を繰り返していたそうです。
めったに外出できない体調で。そんな奥様を見て、小口氏は思ったそうです。
自分が作った車に女房を乗せて、外の景色を見せてやりたい。
なんて優しい人。ウルウルしました。私
そんなスタッフの努力により、スバル360は、大衆車第一号として歴史に名を残す名車となりました。
その名声の理由は、決して45万円という低価格だけではなかったのです。
なーんて。私が調べたような語り口になっちゃいましたね。ごめんなさい
それだけこの番組は、語りたくなる魅力に満ちていた訳です。
番組の最後、共に苦労した開発スタッフがスバルに乗せた思いは、数々のエピソードによって雄弁に語られました。
開発チーフ、「エンドレス百瀬」氏は、スバルにご家族を乗せてドライブへ。
彼はそのご家族の為に、スバルを開発したのです。
寡黙な百瀬氏も、その日だけは喜びを隠さなかったとか。そして「ねじり棒ばね」の小口氏。
彼はなんとこのスバル360で、退院する奥様を迎えに行ったそうなんです。
まさに「スバルに乗った王子様」
この一幕を見た時、私はもう号泣しました。
嘘じゃありませんよ。
自分の作った車で女房を迎えに行く。
究極の男気、最大の優しさ。
こんなご主人を持った奥様は世界一の幸せ者です。
もー羨ましくってしょうがない単に可愛いと思うだけのスバル360にも、こんな感動秘話がたくさんあったんですね。番組をそのまま受け取るのもいけませんが、登場したスタッフご本人の言葉や涙に嘘は無いと信じたいです。
いやーまだまだ自分は不勉強で
「プロジェクトX」は何年も前に放送されましたから、ご覧になった方も多いでしょう。未見の方はお時間あるときにでもご覧頂ければ。
DVDでも発売・レンタルされていますので
日常に溢れるどんな物にも、きっとこんな開発秘話があるんですよね。
読者の皆さんの中にも自動車設計に携わる方がいらっしゃると思います。
きっと日々の業務の中で、同じような生みの苦しみをご経験されているんでしょうね。無知な私など、そのご努力にひたすら感服するばかりです。
その部分を知らずにあれこれツッこむのは簡単ですが、それが恥ずべき行為である事も肝に銘じておきたいと思います。
「分かってないという事が分かってない」のは、何にも増して非礼と思いますから。それは何より私に言える事でスバル360に関してはまだまだ語りたい事がありますが、今日はこんな所にしましょう。
この名車に思いを馳せながらトミカを見ていて、ちょっと昔の味に触れてみたくなりました。
で、いい所にこの「復刻版金ちゃん焼そば」が
年代は全然違いますが、ちょっとレトロなお食事という事で。
中島みゆきを知らないコタも、この味にはご満悦のようです
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