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2011年4月の記事

2011年4月11日 (月)

お詫びと、しばしのお別れ

前回の記事に於いて、私の不用意な発言に
コメント欄にて無用な論争や対立を生んでしまい、大変申し訳ありませんでした。
私個人としては決して、こういう展開を望んでいたわけではなく
あくまで一ブロガーのつぶやき、心中の吐露という程度の意味合いだったのですが
いささか行き過ぎた言葉の表現、理屈の飛躍が
一部の方々に予想以上に強く伝わってしまい、波紋を呼んでしまったようです。
その点については心よりお詫びし、今後は言葉の表現に配慮したいと思います。

一部の方の反論コメントやいつもお越しになるお仲間の擁護コメント
双方の立ち位置を解析、交通整理された方のご意見は
今後も折りに触れ、参考にさせて頂きます。
また、もう一年以上も交流がないにも関わらず
積極的にご参加頂いたミクシィのお仲間に対しては
失礼ながら予想外だっただけに大変嬉しく、本当に感謝の念を禁じ得ません。
しかしながら、これだけの論争になったにも関わらず
さながら某巨大掲示板のごとき、一線を越えた無益なやりとりに陥らず
決して場を荒らさないご配慮に満ちたコメンテーター各位の良識には
改めて感服しました。
今さらながら私は、素晴らしい方々のお仲間にさせて頂いていると確認できた次第です。

私の考えに反論された方も、ご本人なりに被災者の事を考えてのご配慮だった事は
充分理解できました。お腹立ちもごもっともです。
また、お辛い過去をお話頂いたお仲間にも、本当に申し訳なく思います。
全ては私の責任と、深く反省しております。

そんなわけで今回は、皆様に大変なご迷惑をおかけしてしまったので
その反省の意味も兼ね、しばらく記事更新をお休みさせて頂きます。
再開時期ははっきりと決めてはいませんが、季節の変わり目にでもお会いできればと
おぼろげながら考えています。
その時にまた、満足に言葉も操れない不器用なおバカが居た事を思い出して下されば
これほど嬉しいことはありません。




さて。舌足らずながら、お詫びとご挨拶は以上ですので
ここから先は、お時間がおありの方にのみご覧頂ければ幸いです。

前回の記事にて、なぜ私があんな過激な表現に走ってしまったのか
思い当たる過去の体験を、少しお話させて下さい。
後味の良いお話ではないですし、忘れたい過去を思い出す方もいらっしゃるでしょうから
そうした配慮の意味でも、記事にはすまいと考えていたのですが
自らの辛いご体験を吐露頂いたお仲間もいらっしゃいましたので
私も口をつぐまず、お話させて頂こうと思います。



1995年1月下旬。私は神戸市長田区の瓦礫の上に立っていました。
お察しの通り、お仲間・かたつむりさんのご体験と同じく
同年1月17日に起きた阪神・淡路大震災の被災地に居たのです。
震災から9日後。名古屋から12時間をかけて向かった震災取材でした。

かたつむりさんのコメントにもあったように、被災地の景観は
テレビの報道とは比べ物にならない程、悲惨なものでした。
駐車場が一階ふきぬけだった為、自重に耐え切れず無残に崩れ落ち
外壁も剥がれ落ちて全てのレーンが外から見える、高層ビルのボウリング場。
ドミノ倒しのごとく均一にひしゃげ倒れた、下町の商店街。
報道写真で記憶に残る、倒壊した高速道路以上の惨状が
目の前に広がっていたのです。

まず酷かったのは、市内中心部の道路不通でした。
地震の為に盛り上がったアスファルト地盤や倒壊した建物の瓦礫が道路を塞ぎ
通行止めの連続で、目的地は目の前なのにまったく近づけない。
不案内な神戸で遠回りに次ぐ遠回りを強いられる為に
持参した地図など何の役にも立たず
唯一頼れるのは、たまたま私のキーホルダーについていたコンパスだけでした。
しかも地震の影響で地磁気さえ狂っているのか、方角が正確に表示されない。
わずかな針の角度だけを頼りに、なんとか移動できたのです。

それでも被災された現地の方々に較べれば、私たち取材班などはるかに楽でした。
震災9日後にしてまだ、ドアの外れた自家用車を住居とした不自由な生活を強いられ
座席に座って食事ができるご家族はまだ良い方で
街のあちこちには、落ち着く先が定まらない人々や行方不明のご家族を探す人々が
あてもなくさまよい歩く姿がありました。
夕方、裏路地の片隅には、ブルーシートで急ごしらえしたテントのそばで焚き火が起こされ
わずかばかりの毛布に身を包んだ被災者が、身を寄せ合って暖をとるような有様でした。
その中にはまだ、年端の行かぬ子どもの姿もあったのです。

都心とはいえ、冬真っ只中の神戸は予想以上の極寒で
コンビニの店頭在庫も、依然としてゼロ。
食品の入荷体制も救援物資も、まだまだ流通ルート未整備の状況でした。

今回の東日本大震災でも、被災地に向かった報道記者が
中継時、悲惨な現場を前に「言葉になりません」と感想を漏らす場面が散見されましたが
この感覚ばかりは現地に立った者にしか分かりません。もちろん私も同じでした。
あまりにも自分の常識とかけ離れた場に居合わせてしまうと
人間は感情を表現できなくなってしまうのです。
今回の震災よりも小規模だった阪神大震災、しかも被災9日後にしてこの惨状。
人々は皆うなだれ、誰も言葉を発しません。
ご自宅が被災し着替えもままならず、服が埃で真っ白の方さえいらっしゃいました。

自分の立つ瓦礫の下に、未だに生き埋めの方がいらっしゃるかもしれない不安。
全てが傾く周りの建築物の中で、平衡感覚が徐々に壊れてゆく気持ちの悪さ。
いつ余震が起こり、後ろのビルが崩れて下敷きになるか分からない恐怖。
ほとんど割れ落ち、片付けもままならないビルの窓ガラスも、危険な地上の凶器でした。
これらも私をはじめ、被災現場に立った者にしか分からない感覚でしょう。
そこではサイレンが鳴るだけで、胸の締め付けられるような恐ろしさがあるのです。

こんな状況下で全てを失った被災者に対して、冷静な取材などできるわけがありません。
ジャーナリストとしては失格でしょう。でも私はカメラを回す前に
目の前の被災者を、やはり放っておけなかった。
ロケスタッフ全員を説得し、万が一の為に社から持参した私たちスタッフの非常食や
カセットコンロなどの生活物資をできる限り節約し
余った分を、現地の支援施設に寄付させて頂きました。
大した量にもなりませんでしたが、そうでもしなければ
まるで物見うさんに訪れた人非人のようで、とてもいたたまれなかったのです。

その結果私たちも、寒さと飢えには苦しめられました。
停電、断水などによるライフラインの停止はとりわけ深刻で
取材中もトイレや入浴には困り、仮設トイレの長い列にも並びました。
朝の洗顔や歯磨きさえ、贅沢なことだったのです。
度重なる深夜の余震で不眠症になり、殺気だったスタッフ間でいさかいも起きました。
スタッフ全員がじわじわと、精神的に追い詰められていたと思います。

取材中、現地で奇跡的に営業を再開していた餃子の王将で、食事を摂った時のことです。
震災から唯一残った食材が使われ、できるメニューは餃子とラーメンのみでしたが
近隣の方や私たちにとっては、砂漠のオアシスのような場所でした。
でもそこでも、私たちの隣に座った現地の方々の間では
「隣のだれそれが、家の下敷きになって亡くなった」
「近所のだれさんがまだ行方不明」など、耳を疑うようなやりとりが
日常会話のごとく交わされ、震災直後の傷跡を色濃く感じさせるのでした。
傍観者に過ぎない私たちはただ沈鬱になるのみで
お気の毒なあまり、非常に肩身の狭かったことを今も覚えています。

取材の間に、こんな光景を何度見たことでしょう。
被災地というのは、そういう所なのです。
いやおうなしに「死」を身近に感じさせられる所。近しい人との別れと隣り合わせの所。


そんな取材を続けること一週間。
私たちは阪神大震災の震源地とされた淡路島の北淡町、
今で言う淡路市の西北部にいました。
それまでの取材で、もう地震の惨状には免疫が出来たつもりでしたが
この震源地の状況は、そんな私も絶句せざるをえない程でした。
それは例えて言えば、今回の東日本大震災で大きな被害を出した
岩手県大船渡市のような景観。
全てが崩れ落ち、建物と言える物は何もありませんでした。
大船渡と唯一違ったのは、被害の大半が津波ではなく
地震による「火災」らしかったこと。
震災後半月近く経っていたのに、瓦礫の山からはまだこげた匂いが立ち上り
どことなく街の色が、黒くくすんだ印象でした。
そこで私は、その後の人生観を変えた一瞬に出会ったのです。

たぶん住宅街であったであろう、瓦礫の山を眺めていた私は
視線の隅にほんの少し覗く、赤い点に気がつきました。
黒い煤だらけの中に赤の差し色というのは、やはり目立つのです。
近づいて覗いてみれば。
それは昭和20年代ごろの少年雑誌、「少年」か何かの表紙でした。
書名は焼け落ちていたので、正確には判別できません。
でも頬を輝かせて元気に笑う少年の扉絵が、あの頃の雑誌特有のものである事は
私にもなんとか分かりました。
目に留まったのはその表紙のバック色、鮮やかな赤だったのです。
その雑誌の焼け残りが数冊分。
さらにその近くには、怪獣のソフビらしき人形の焼け残りがありました。
「らしき」としか言えないのは、たぶん火事の熱でソフビが熔けてしまったせいで
形が判別できなかったからです。

そうです。たぶんこの雑誌やソフビの持ち主は
私と同じ、懐かしグッズのコレクターだったのでしょう。
はたして持ち主は助かったのか。それとも。
それを見た瞬間、今回の取材で体験した数々の場面や
自ら経験した被災地の不自由さが
まざまざと思い出されました。

震災数日後ならまだしも、生死を分ける惨事の直後であれば
必要な物は、怪獣ソフビやレアアイテムでは決してなく
一杯の水、一個のパン、一枚の毛布、そして安心して眠れる場所であろうと。
そして安否を心配されるご親族には、「同じ視線で心配する心」。
安っぽいヒューマニズムとお笑い下さい。
でもそれは私が被災地で感じた、現実が持つ肌合いなのです。

ほどなくして地元の消防団らしき方々が現れ、そのお宅の探索を始めました。
邪魔になってはとその場を離れましたが、しばらくして彼らは神妙に両手を合わせると
雑誌やソフビの持ち主であっただろう「彼」のご遺体をブルーシートに包み
静かに運んで行きました。
彼を見送ったのは、澄みきった寒空と瓦礫の山だけでした。

この光景は、今も私の目に焼きついています。
もし「彼」が助かったとしても、私はまず手当てを施したでしょう。
フィギュアや怪獣ソフビではなく水を、食料を差し出したでしょう。




前回から何度も申し上げていますが、これは私だけの経験であり、感覚です。
この経験が、前回の私の「行き過ぎた表現」に繋がっているのです。
被災地以外の人々には、そんな配慮は必要ないというご意見もおありでしょうが
あの数々の悲惨な現場を、北淡町であの「赤い表紙」を見てしまった私には
そういう発想はどうしても出来なかった。考えられなかった。

もちろん本記事冒頭のごとく、人には色々なお考えがありますから
他の方のご意見・姿勢を否定するものでは決してありませんし
このお話も、前回記事のいいわけのつもりではありません。
この感覚がおかしいと感じられる方もいらっしゃるでしょうが、なにとぞその際も
性別の不自由なおバカのたわ言とお笑い頂くにとどめ、ご勘弁下されば幸いです。




過去の震災でこんな経験がありながらも、今回の東日本大震災では何も出来ず
奇しくも震災後一ヶ月となった今、発生直後の衝撃を
早くも忘れかけている自分が居ます。私もまた”ずるい”のです。
前回の記事で、最も申し上げたかったことがこれでした。
一部の記述が問題になった為に、本筋とは別の部分が
クローズアップされてしまいましたが。

でも記事をアップすることで、自分の「ずるさ」を自覚
再認識することが出来ました。
そんなずるい自分に今、何が出来るのか。

前回の記事での「オタクイーンの名を返上」にも関係しますが
実は記事アップと前後して手持ちのオタクグッズの大半を処分
買い取ってもらったお金を、すべて義援金に回しました。
大した物は持っていなかったので、さほどの額にはなりませんでしたが
それでも何もしないよりはましですし、それが今私にできる精一杯です。
それが被災地で何かの役に立てば、その方がよほど有意義と思います。
手放した怪獣ソフビたちは可愛そうでしたが、きっとわかってくれるでしょう。

おかげで今は、DVDレンタルの一枚80円という料金にも熟考を強いられる
貧乏生活ですが、かえって気分はスッキリ、サッパリしましたし
被災者の皆さんのご心痛を考えれば、こんな貧乏など楽なものです。

そんな事情により、もはや今の私は
コレクション云々を語れる「オタク」ではありません。
ですからもちろん今後は「オタクイーン」の名も返上いたします。
他人様とコレクションの数など競わず、季節の移り変わりを見守りながら
妹分のファーやわずかな手持ちのおもちゃと共に
のんびり自然と戯れるのが、私には似合っているようです。



だらだらと長い駄文におつき合い頂いた方、ありがとうございました。
不謹慎な表現、ブログにふさわしくない描写に眉をひそめられた方にも
心からお詫び致します。

もし再開の折に覚えていらっしゃったら、またからかってやって下さい。
私もほぼゼロからの出発なので、以前にも増して大したお話など出来ませんが。
なお冒頭の通りこの機に、しばらくブログから離れますので
コメント頂くのは非常に有り難いながら、お返事がかなり遅れる無礼を
なにとぞお許し下さいませ。

被災地からの桜便りが、今は唯一の楽しみです。

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2011年4月 5日 (火)

ずるい陽春

Photo

昨日からの暖かさに誘われ、久々に訪れたいつもの公園。
平日のお昼どきというのに、すでに大勢の親子連れで賑わっていました。
楽しげに走り回る幼児。サッカーやバトミントンに興じる小学生。
風に揺られて、どこからともなくしゃぼん玉が飛んできました。
まさに春爛漫。凍える冬から解き放たれた人々は
満開の桜の下、心ゆくまで春を謳歌しているようです。

偶然ながら昨夜遅く、NHKBSプレミアムで
久々に小津安二郎監督の『東京物語』を観ました。
再見するたびに新たな発見のあることが、名画の素晴らしさですが
今回の鑑賞で私の琴線に触れたのは

”悲劇が記憶から風化してゆくことの罪深さ”

でした。

どんなに愛する者との死別でも、時の流れはその哀しみを忘れさせてゆく。
戦死した夫の事を、最近は思い出さない日もある事に罪深さを覚え
「私、ずるいんです」と夫の父親に告白する未亡人・原節子。
そんな彼女に対し、亡き息子の事は忘れ再婚を勧める義理の父・笠智衆。
記憶の風化は残酷な反面、優しくもあると。

発生直後は日本全土が注目した東日本大震災も
徐々に明らかになる被害の詳細とは裏腹に、被災地域以外の人たちは
日を追うごとに、普段の生活に戻りつつあります。
世間全体が、4月の声と共に新年度モードにシフトし
連日、被災地域の惨状を伝えていたブラウン管も
お馴染みのタレントがアドリブをタレ流す、あい変らずの世界に戻ってしまいました。
これは記憶の風化なのか。
常に刺激を求める視聴者に、もはや震災の話題は飽きられてしまったのか。

それはネット社会でも同じでした。
日々、死者や行方不明者が信じられないほど増加してゆく中
何事もなかったように、震災前と全く同じペース・テンションで
オタク記事をアップし続ける、一部のブログ。
それらを目にするたび、失礼ながら筆者の人間性さえ疑ってしまい
同類と思われたくないあまり正直、ネット活動を辞めることも考えました。
私はオタクである前に、人の痛みを分かりたい人間だからです。

自分や家族の歴史が全て詰まった家が、濁流に流されてしまった方々や
今も避難所で不自由な暮らしを強いられている方々がいる事を知っていながら
新作特撮の話題や、オタクグッズの自慢で盛り上がれるわけがない。
もし、そういう事が真のオタクの姿勢なら
私は喜んで、オタクイーンの名を返上いたします。

でもやはり時は、記憶を風化させていくようです。
あれほど心を痛め、被災者に何も出来ない自分に罪深さを覚えた日々も
桜の便りを聞けば、やはり気分が華やいできます。
そんな自分は「ずるい」のか。しょせんは前述のブロガー諸氏と同類なのか。
昨夜再見した『東京物語』の原節子さんと同じく
記憶の風化、忘れる事による罪の意識は
昼夜を問わず、私を攻め立てます。
悪夢にうなされ夜中に目覚める事も、幾度かありました。

「そんな風に、自分を責めるのは良くない」
「積極的な消費、生活の活性化こそ、日本に元気をもたらす手段」
私のように迷う者に対して、こんな事がよく言われます。
でもそんな言葉をかけられても、はいそうですかと素直に遊べない。割り切れない。

形だけのお悔やみ記事もそこそこに、悲しんでばかりいられないと
いつものオタク記事に戻る事は
「立ち直りが早い」んじゃなくて
ただ「震災の話題から目をそむけたい・耳を塞ぎたい」だけじゃないのか?
「積極的な消費」を口実に、被災者の心情も考えずフィギュアを買い集める事が
はたして良い事なのか?

でもそんな疑問や迷いも、時と共に薄れてゆく事に
罪の意識やジレンマを感じる方が、よほど人間的じゃないかと思うのですが
いかがでしょうか?


そんなわけで今日、美しい桜とそれを楽しむ人々を前にしながらも
彼らと私は、決して越えられない薄い膜で隔てられているような気がして
毎年のように、春を素直に楽しむことはできませんでした。
せめて元気を出そうと持って行った、写真手前のブリキ宇宙船ですが
奇しくも、賑わう公園と私の境界線になってしまったようです。

今日の記事を目にされた方は、きっとさまざまなご感想をお持ちでしょう。
ですからこれはあくまで、私だけの考えです。
お気を悪くされたらお詫び致しますが、今の私の偽らざる思いでもあります。

昨夜の『東京物語』放送後、番組ホスト役の山本晋也監督が
こんなお話をされていました。

『原節子さん演じる彼女はきっと
「自分がずるい人間である事」を、誰かに言わずにはいられなかったんだろうね。』

たぶん私も同じなのでしょう。ずるいんです。私も。
それを認める事で、一歩前へ出られるような気もします。

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