予算に挑むテクノロジー
こたつ導入と共に、ネヴュラ座大画面による映画鑑賞の機会も増える昨今。
おまけに年末とくれば、自然と上映作品も特撮映画に偏ってきます
今日も「地球防衛軍」(1957年東宝 本多猪四郎監督)を堪能したんですが、気まぐれで、音声をオーディオコメンタリーに選択。
川北紘一監督、樋口真嗣監督による熱いトークを楽しんでいました。
同業の私にとってこのお二人のコメンタリーは教えられる事も多く、これまで何度も聞いたんですが、久しぶりに琴線に触れたやりとりがありましたので、今日はそのお話をしましょう。
ご存知の通り、この「地球防衛軍」という作品は、SF映画の世界的黎明期と言える1950年代後半、東宝が放った特撮映画のクラシックとして、今も燦然と輝く名作です。
まさに「月刊少年雑誌の口絵を映像化した」という表現が似合う劇中の登場兵器、ストーリーのSF感覚は、今もオールド特撮ファンをして「過ぎ去った未来」に誘う魅力に溢れているのです。
制作当時においても、ミステリアンやモゲラ、マーカライトファープといったSFガジェットはすでに絵空事、豊かな創造の翼を極限まで広げた上での産物であった事でしょう。
後々、ウルトラマンなど驚異のイメージで後世まで名を轟かせるクリエイター、円谷英二氏の才能は、この一篇においても充分に発揮されているのです。
かのDVDコメンタリーは2001年に収録されたもの。
件の作品を中学生時代に封切鑑賞した川北監督と、封切当時には影も形もなかった樋口監督による感覚のズレが微笑ましくもあり、好対決といった趣を楽しめるのですが、その中で私が驚いたのは、コメンタリー収録後7年を経た今、語られた一つの課題が依然として顕在化している事でした。
この「地球防衛軍」に限らず、世界規模の危機が描かれる東宝特撮映画では、しばしば世界の要人が一堂に会する国際会議や、人類の敵に対抗するべく組織された国際防衛軍による基地、侵略者との戦闘現場など、本編中にも大パノラマシーンが描写されます。
それはいわゆる「怪獣から逃げる群衆」などのモブシーンとは異なり、出演者一人一人に確実な演技力が求められる場面。
つまり全員が俳優でなければならないシーンなのです。
しかもそれらの舞台は広大な会議場や作戦本部、怪獣出現現場の最前線。
繰り広げられる丁々発止のやりとりや侵略者との手に汗握る攻防はドラマの緊張感を盛り上げ、それがこの種の作品の一つの見せ場でもあるのですが、樋口監督の弁によれば、近年の作品では、そういう場面が作りにくくなったと言うんですね。
なぜ、そういう場面が作りにくくなったのか。
これには二つの理由があるような気がします。
まず一つ目は、いつもの私見ですが。
そうした場面の緊張感を作り上げる為には、演技力に長けた俳優を多く配置し、セリフや動きに説得力を持たせなければなりません。
しかし最近は、まずそういう「地球的危機に立ち向かえるような度量を感じさせる俳優」が少なくなったような気がするのです。
三船敏郎、志村喬、丹波哲郎、上原謙、田崎潤氏などの重鎮クラスが。
言わば彼らは、洋画史劇に於けるチャールトン・ヘストンのような役どころで、要するに「東宝SFを象徴する地球代表顔」なんですよ。
最近の作品はそのあたりのキャストが軽いから、地球規模の災害に対抗する説得力が出ない。
しかも彼ら一人だけでは、重みは出ません。
細川俊夫や小沢栄太郎、田島義文氏のような中堅クラスが居て、さらに池部良、佐原健二、平田昭彦氏のような若手クラスが配置される事により、各世代一丸となって脅威に対抗するという図式に説得力が出るような気がします。
これは決して、古の俳優諸氏に対するノスタルジックな思い入れだけではないと思うんですよ。作品に対する彼らの「真摯な姿勢」が、画面に説得力を与えていたのかもしれません。
またスタッフと同じく、彼ら俳優もそれらの作品のパイオニアゆえ、試行錯誤の良さが画面に表れていたとも言えるでしょう。どんな作品にも、苦労の跡は残るものなのです。
ただそれはキャスティングを行う制作サイドの問題で、俳優個々の問題とはちょっと違います。
「地球を守れそうな顔を集める」という制作サイドの努力の賜物と言えましょう。
そういう意味で最近の作品はキャスト、スタッフとも「過去作品の既視感に縛られている」ようにも感じます。
「特撮映画だからこういう演技をしなきゃ。これくらいでいいんでしょ。」
みたいな妙な納得の仕方ですね。
最近のこの手の作品で重宝されている津川雅彦さんだって、そういう意味での納得感がやや目立ってしまって「地球は絶対に渡さない」感が薄いように思えます。ただまあ、そんな事を言っていても始まりません。これも時代の流れ。
いきなり重鎮俳優が現れるなんて事はありませんしね
で、二つ目。これはコメンタリーに関連した事なんですが。
昔の作品は、編集による画面の後処理が今ほど簡単に出来なかった為に、できる限り撮影現場で映像を完璧に成立させようとする。
要は撮影に手間をかけることが当たり前だったんですね。
多人数のシーンなら、現場に多人数を集める必要があったと。
それは今の撮影方針の逆と、樋口監督はコメンタリーで語っています。
実写とみまごうばかりのCGIの作成が可能になってしまった現在、極端に言えば俳優をクロマキーバックの前で演技させ、後で会議場や作戦室のCGIと合成すれば、理論上では画面は成立してしまう。
まあそれは極端な例、実際には行われていないとはいえ、そんな事さえ可能になってしまったために、制作側としてはいかに撮影現場の時間を短縮するか、後編集に重点を置くかという方向に方針が移っていると言うのです。
簡単に言えば俳優はあくまで画面上では「パーツ」扱い。背景など数々のパーツは別撮り、またはCGIで作成して、後編集で画面にコラージュすれば作品が出来てしまうわけです。
多人数が同一場面に収まるシーンだって、技術的には、俳優個々を別々に撮影、後編集で画面に「張り合わせる」事だって可能。
この方法、邦画ではよく一人二役などのシーンなどに使われますが、洋画やCM制作の現場では多くのバリエーションが試されていますね。ワイドショーで時々組まれる「CM制作の裏」みたいな特集で、皆さんもご覧になったことがおありかと思います。
グリーンのバックの前で、俳優一人だけが演技する画面。
それが完成画面では、周りに家があり相手俳優が居て、まるでロケ撮影のような臨場感が獲得されるというアレです。
スター・トレックのホロデッキが現実化したようなものでしょうか。
映像の世界では、もうそういう事が当たり前に行われているわけですね。
確かにこれは、映像技術という点では革新的と言えましょう。
ところがこの技術に、現時点では俳優の生理が追いついていない。そんな感覚を受けるのです。要は、俳優の演技とCGIが完璧にシンクロ出来ないんですね。
相手と係わる際、人間は常に相手の動きや表情から感情を推し量りながら、それに見合ったリアクションをとります。それは器物に対しても同じで、重いものと軽いものでは持つ時の力の入れ方だって違うものなのです。
もし、そうした対象物がなかったら。バックも何もない状態で、パントマイムのような演技を要求されたら。相手は別撮り、バックはCGIという現場だって、これからは決して不思議じゃないのですから。
実はこの部分が、現在の俳優に求められる新しい演技のスキルなのです。
そうした技術革新に追いつけるか追いつけないかが、演技者としての行く末を左右するのかもしれません。
コメンタリーで樋口監督は、「(地球防衛軍のような作品は)そういう意味で、大勢の俳優が一堂に会する場面を撮影できる贅沢な時代の産物だった」という趣旨の意見を語っています。
ではなぜ、俳優を一堂に集める事が出来ないのでしょうか?世界の危機を背負って立つ重鎮が不在とはいえ、人を集める事なら出来るはずなのに。
皆さんももうお察しと思いますが、それらの理由は一つです。
全ては「予算」の問題。
たとえ重みのある俳優がキャスティングできたとしても、彼らを同じ日数だけ拘束し、同じスタジオで同時に演技させるだけの予算、言うなれば映画会社の体力が、今の邦画界には無いという事なのです。
大御所俳優同士のスケジュールを合わせるだけで、ギャラは天文学的な数字になるわけですから。
ですからどうしても、一画面内を占める俳優の人数が少なくなる。
もしどうしても大人数を配置したかったら、重鎮は少人数で残りはエキストラか、もしくは「別撮り、後処理による合成」に頼るしかありません。
でもそれを実現させるには、まだ俳優のスキルが足りない。
CMは15秒だから可能なのであって、長尺の映画にはまた別の呼吸が要求されるからです。
平成ライダーなどのアクションシーンに多用される場合もありますが、あれもライダーワールド的異世界だから成立する画面であって、通常シーンではやはり浮く感覚は免れないと思いますし。
ただ最初からCGIのみで構成されるシーンなら割り切った演出も可能ですね。
以前に聞いたお話ですが、「スター・ウォーズエピソード1 ファントム・メナス」(1999年アメリカ ジョージ・ルーカス監督)に登場するバトル・ドロイド軍団のみのシーンなどは、「俳優をはめ込む必要がない」という理由で、予算が割安のCGIで押し切っています。
おそらくあのシーンに俳優が密接に絡んでいたら、予算は大幅にアップしていたでしょう。
ルーカス一流の判断が、あの迫力シーンを成立させたんですね。
シーンの是非はともかく、そういう判断力もクリエイターには必要と思います。
ただその為には、実写を超えるCGIのクォリティーが不可欠ですが
これからの特撮映画にとって、実写とCGI・編集技術の二人三脚は、作品のクォリティーを保つ上で要となるでしょう。
従来は考えられなかった驚異の映像だって、続々と生まれています。
しかしながら黄金時代の東宝特撮映画のように、多人数の会議シーンや戦闘シーンに見られる臨場感、生の迫力は、最新テクノロジーをもってしても追いつけない所があります。過去の作品が秀でている点、そこから学ぶ点はまだまだ多いのです。
やはり映像作品は人間が作るもの。新旧と優劣は別物なんですね。
現代のクリエイターは最新テクノロジーを使って、邦画黄金期の制作体制に追いつこうとしているのかも。その努力が過去の作品を超えた時。その時こそ、新たな偉業の誕生と言えるのでしょうね。
「地球防衛軍」公開から早や51年。私なんてまだまだです。
自分の番組のタイトルCGにさえ迷う始末で。
ああ円谷監督にはまだ遠く。まー一生追いつけないでしょうが
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コメント
この記事へのコメントは終了しました。
こんにちは!
『地球防衛軍』という映画は見たことがありませんでした。 同名のゲームならやったことあるんですけどね笑
円谷監督には及ばないと書かれていますが、オタクイーンさんも特撮関係のお仕事をなさってるんですか?
投稿: アラ | 2008年12月20日 (土) 14時05分
アラ様 私はアラ様とは逆に、「地球防衛軍」というゲームの存在を知らなかったという大ボケ者で


こんな風に世代やジャンルの違う人たちが情報を補完できるところが、ネットのやりとりの良い所なんですよねー。
私もちょっと興味あります。ゲーム「地球防衛軍」
映画の方は、まさに日本特撮SFの古典にして名作の誉れも高い一本。
ゴジラシリーズと並んで押えておきたい作品です。
DVDレンタルもされていますので、機会あればぜひご覧下さい
私は地方で細々と番組制作を行う、一介のディレクターに過ぎません。

御大、円谷監督と較べられるのもおこがましいくらいで
でも番組の絡みで、しばしば特撮の経験もあります。
まー低予算ゆえ「実写で出来ないから特撮」という、情けない理由ばっかりですが
投稿: オタクイーン | 2008年12月20日 (土) 23時11分
僕は将来特撮関係の仕事に就きたいと思っているのですが、一体何を勉強したらいいのかも分からない状態で笑
だから番組を製作されているディレクターさんにはすごく憧れます!
『地球防衛軍』は色んな怪獣や宇宙人を倒していくというストーリーもシステムもとても単純なゲームなのですが、だからこそ長持ちするんですよね笑
結構友達が集まった時の定番ゲームになってます。
投稿: アラ | 2008年12月20日 (土) 23時29分
アラ様 単純なゲームほど愛着が湧きますよね。
複雑なものはその複雑さが魅力なので、クリアした瞬間に推理小説を読了しちゃったような達成感を覚えてしまうんですね。
その代わり、謎解きの楽しみはもう味わえないという
個人的には、私も単純なゲームの方が長く楽しめると思います。
私も映像専門の学校などは出ていないので、今の職業に就くまでは、何をどうして良いか全く分かりませんでした。

素人からの業界入りだったんです。
でもきっかけさえ掴めば、後は何とかなるもので。
苦労も多いですが、喜びも大きいです。
幾つになっても、自分の作品がブラウン管に登場する瞬間の喜びは格別で
アラさんも頑張って下さい。私で答えられることがあればお話しますので、お気軽にご相談など下さいね
投稿: オタクイーン | 2008年12月21日 (日) 17時03分
ありがとうございます!頑張ってみたいと思います。
投稿: アラ | 2008年12月21日 (日) 21時03分
アラ様 そのお気持ちが何より大切ですね

実際に現場に出て、想像を絶するような苦難を経験するたび、夢を砕かれる事も多いですが、その時自分を支えるもの、それこそが初心なのです。
偉そうな事を言ってすみません。頑張って下さい。
いつかお仕事でご一緒できる日を、楽しみにしています
投稿: オタクイーン | 2008年12月22日 (月) 14時56分