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2008年5月21日 (水)

カリスマ性に代わるもの

先日レンタルした『仮面ライダー THE NEXT』。もー見まくりで。
本編も充分楽しみましたが、同業ゆえ監督の思いなどに最大の興味を持つ私は、田崎(当て字でゴメンナサイ)竜太監督、主演の黄川田将也さんらのオーディオコメンタリーばっかり聴いてます。

色々な裏話やシーン毎に込められた演出、演技への思いが聞けて、非常に面白いコメンタリーなんですが、中でも印象に残ったのが田崎監督による「本郷猛像」でした。
ちょっと要約、補足しますと。



『本郷猛は、その時代の若者達のある種の代表である。
でもその若者達とまったく同じであっては、主人公足り得ない。
若者達からどれだけ「浮いている」か。どれだけ「変わっている」か。
それが主人公たるゆえんであり、オリジナルの本郷猛にもあったと思う。
70年代の若者が持つちょっと排他的な部分などからかけ離れた、真っ直ぐなところがあったり。
それは「NEXT」の本郷も同じと思う。
まったく屈折していない「真っ直ぐさ」という意味で。』



「なるほどねえ。」監督のこの言葉に私は感心しまして。さすが田崎監督と

先日から様々な事情で「ヒーロー像」というものを模索していた私は、「ヒーローが変身する前」いわゆる人間体の時のキャラクターを掴むのに苦心していました。
その時無意識に感じていた事が、ここで言語化されたような気がしたのです。
確かに本郷って、藤岡弘、氏演じるオリジナルライダーの頃からいい意味で「浮いて」いましたよね。


その後、田崎監督はこんな事も話されました。
劇場版本郷、黄川田さんのルックス、プロポーションに触れて・・・
『ヒーローやカリスマと呼ばれる存在は、人間が生まれ持った「この人について行けば命が安全」という本能を刺激する雰囲気を持っている。
本郷猛も、そういうものを持った存在であってほしいと思う。』



その後、お話は黄川田さんの「本郷プロポーション」に続いていくんですが、これも非常に興味深いお話でした。

以前から私も、ヒーローの人間体に感じるカリスマ性を、「他のキャラからの浮き加減」に感じていたような気がするのです。
浮いたという表現が適切でなければ「超然ぶり」と言い換える事もできます。
「頼れるお兄さん」的信頼感を覚えさせる雰囲気と言いましょうか。

出演者全員が並んだ場面で、何も言われなくても「この人がヒーロー」と確信させる何かを持った存在。カリスマ性とはそういう事を言う
のでしょう。

特撮の派手さゆえ、変身後の姿がピックアップされやすい変身ヒーロー。
それも大きな魅力ではありますが、考えてみれば変身前の姿って非常に重要ですよね。本郷猛をはじめ彼ら人間体こそが、ドラマを引っ張る訳ですから。


いつものようにここでお尋ねしたいんですが、皆さんは「変身前のヒーロー像」についてどんな印象をお持ちですか?
私も今回、例の企画書を考えながら、その事がいつも頭にありました。
「ヒーローは普通の人間じゃないんだから、その心理状態もどこか普通と違うんじゃないかなー」なんて。
でも私は普通の人間ですから(異論はおありでしょうが、あえてここは普通と言わせて下さい)そういう心理状態は想像つかない。


ただこの発想にはもう一つの切り口があって。
「元々、本郷猛にはヒーローとなるべき「超然性」「カリスマ性」があって、改造後の能力とは関係ない。その精神性があったからこそ、彼はショッカーに反旗を翻す気になった筈」というもので。
「カリスマ性が先か、ヒーロー能力が先か」みたいなお話ですね。
ヒーロー能力が性格に影響するのかどうか。それはヒーローの出目によってまったく異なりますが、ことライダーに関して言えば、やはり本郷猛のカリスマ性は生来のものだったと思います。


で、ここからは非常に難しいお話なんですが、田崎監督がおっしゃるようなヒーローの「市井の人々からの浮き加減」って、今も昔も不変の物なんでしょうか。

星の数ほど生まれたヒーローの中で、人間体にカリスマ性を感じる作品は多いですね。前述の「仮面ライダー」をはじめ、「ネヴュラ」でも話題に上る「ウルトラマン」も同じ。
ただヒーローを考える上で、ここに実は大きな世代間の違いがあるような気がするのです。
最近のヒーロー番組を応援する子ども達や若者って、ヒーローの人間体に「カリスマ性」を求めているんだろうか、という事ですね。
田崎監督がおっしゃった「本郷猛の真っ直ぐな性格」や、ウルトラマン=ハヤタ隊員に感じる「ゆるぎない正義感」のようなものを。

思えば名作と言われるヒーロードラマは、人間体ヒーローのカリスマ性も大きかったような気がします。


いつもの私見で申し訳ありませんが、最近のヒーロー番組はかなりこの「カリスマ性」が失われているような気がするのです。
ヒーロー番組とはいえ、作品は時代と切り離して考えられないですから、これが今の若者の望むヒーローのあり方なのでしょう。
「カリスマ性を持ったヒーロー」「一点の曇りも無く正義感に満ちた人間体」という存在が、リアリティーを持ちにくくなっているという事なのかもしれません。


田崎監督はこうもおっしゃいました。
『今回のTHE NEXTでも、本郷の真っ直ぐな性格は受け継がれている。』

確かに画面から受ける印象では、本郷の性格は「藤岡本郷」を受け継いでいると思います。
ところがその真っ直ぐな性格が、現代では「笑いのネタ」にされてしまう。
時代のリアリティーを求めると、そういう演出にならざるをえないんですよね。
ですから「THE NEXT」では、本郷のその真っ直ぐな部分を「カリスマ性」として描かずに、ライダー変身後の姿に説得力を持たせている。

劇中、高校教師の設定の本郷は、変身前は徹底的に生徒にバカにされています。重要な役割を持つ生徒・琴美(石田未来)も、本郷が変身するまで彼にカリスマ性を感じないのです。


これは田崎監督の意図とはちょっと違う部分ですね。
監督は人間体の本郷にもカリスマ性を与えたかったようですが、私はそうは感じなかった。これは監督の意図が外れたというよりも、どうしようもない「時代の空気」じゃないかと思います。
ただそのドラマ構造、2号・V3をはじめとするキャラクターの描き方があまりにも素晴らしいので、「NEXT」は絶妙なバランスを保ったまま、大傑作となりえたわけですが。
しかしながらこのドラマに、オリジナルTVシリーズの持つヒーローの魅力はないと思います。

おそらくヒーロードラマは、アクションやキャラクター心理造型のリアリティーと引き換えに、人間体のカリスマ性を失いつつあるのでしょう。
それを
一概に悪い事とは言えません。
人それぞれ受け取り方は違いますし、「NEXT」のように、そのバランス感覚が素晴らしい作品に結実する場合もある訳で。
ただそれはひょっとすると、この作品のみに許された「一回限りの離れ技」だったのかもしれないなー、なんて考えたりして。


「NEXT」の成功要因は、TVシリーズのライダーが本来持っていたヒーロー性の代わりに「リアルなライダーアクション」「ホラー要素」を持ってきた事と思います。
リアルなアクションは、おそらく昔のファンが記憶の中で極限まで美化したライダーアクションを現実化したものでしょう。あれくらい完璧なアクションを見せなければ、ファンの脳内で熟成されたライダーの勇姿には対抗できないのです
「NEXT」のホラー要素は、仮面ライダーという作品が本来持つそれとは異質のものですが、あれを取り去ってしまったら、ただのアクションドラマになってしまう。
「もっとあのライダーアクションを堪能したかったのに。あんなアイドルの悲劇なんて要らないんじゃないの?」というご意見もおありでしょうが、あれはライダーのカリスマ性だけで作品を引っ張っていけない事情が絡んでいるため、どうしても必要なものじゃないかと。


個人的には、ライダーアクションは「ここぞ」という時に少し出すのが効果的なのであって、のべつまくなしに見せるものではないと思います。
オリジナルTVシリーズだってまず戦闘員との「前座」があったからこそ「ライダー変身!」の瞬間にカタルシスを覚える訳ですし。
その場面まで視聴者をドラマを釘付けにするもの。
昔はそれが「変身前のヒーローの魅力」であり、カリスマ性だったのかもしれません。ただこれは、個人個人でヒーローに求めるものの違いにより変わってきますね。私の場合、それがカリスマ性だったという事です。


「キャラクター性」とはまた別ですよ。ハヤタ隊員なんか非常にキャラクター性は薄いですが、カリスマ性はあったと思います。そういう事なんですね。
残念ながら、現在のヒーローはそれが禁じ手となっている。
と言うより、時代に受け入れられないんですね。

「仮面ライダーカプト」の天道総司なんていい線いってたんですが、そのカリスマ性がお笑いネタ化していく過程に、製作陣の苦悩を非常に感じます。


現在、ヒーロードラマの作り手は、おそらくこの「人間体のカリスマ性」に代ってドラマを引っ張る要素を、必死に探しているのではないかと思います。
それがおそらく視聴者に不評の「謎解きの無い謎」であり「笑いの要素」であり「必要以上に複雑な設定」だったりするのではないかと。
「未完成のヒーローが成長していく過程」というドラマ構造も、その一つと言えるのかもしれません。ただ私には、そのどれもが正解ではないような気もします。
ドラマとしては成立していても、カタルシスを感じないからです。


そういう意味では、現在はまさに「ヒーロー不在の時代」なのかもしれません。
いくら変身ヒーローの形をしていても、そこにカリスマ性は無いですから。

個人的には、作品にカタルシスやパワー、勢いを生むものは、ヒーローそのものの魅力と思います。
まーこれも、古いオタクの戯言なのかもしれませんね。
もはや、ヒーローにカリスマ性を感じてはいけないのかもしれません


ただ、月光仮面に始まり、ウルトラマン、仮面ライダーと、人間体にカリスマ性を感じるヒーローを見て育った私などは、この現状に大変な閉塞感を感じます。
非常に思うんですが。今のヒーローファンって、たぶん自分とヒーローを同じ目線で見てますよね。「友達感覚」と言うか。
ですから戦う意味そのものも変質せざるをえない。「人類の平和」よりも「ごく仲間内の危機」の為に戦うヒーローの方が、リアリティーを持つ訳です。
ここが私などとは決定的に違う所ですね。
私の時代、ヒーローは文字通り「英雄」。見上げる存在でしたから。

見知らぬ人を被害者にしない為に戦う、オリジナルTVシリーズの本郷。
自分の生徒や知人を被害者にしない為に戦う、「NEXT」の本郷。
この差なのかもしれません。

たぶん「藤岡本郷」なら、「NEXT」で被害者となったChiharuファンクラブ会長、岡村を助けられたのかも。
自分の目の前で怪人に襲われる人間を、助けられない訳はない。
そう思わせる何かを、昔のヒーローは持っていたのです。


そういう意味では「NEXT」も前述の要素に近いですが、あれは観客の心理が「友達感覚」に行く前に、アクションとホラーの「絵」で押し切ってしまう。
失われたカリスマ性に代わり、それらの要素が奇跡的にうまく機能しているんですよ。穴を埋めていると言うか。
「キャラクターのパワー」より「作品のスタイリングの良さ」なのかもしれません。
それが逆に、ライダー世界のリアリティー構築に繋がるあたりは見事ですが。
テロ組織としてのショッカーのスケール感は、今作が一番リアルと思います。
あるいはそれが、ドラマ作りの一つの突破口だったのかもしれませんが、おそらくそれだけでは「人間体のカリスマ性」に取って代わる事は出来ないでしょう。
前述の「一回限りの離れ技」というのはそういう意味。
劇場作品だからこそ出来た事なのかもしれません。
それはそのまま、「NEXT」への賛美でもあるのですが


いつもながら、とりとめのないお話でごめんなさい
ただ、私はいつも考えています。
もしよろしければ、お時間ある時にでもお考え下さい。


最近のヒーロードラマのどの部分に、魅力を感じますか?

人間体のカリスマ性に代わる、ヒーロードラマの魅力がもしあるなら。
それは「解けない謎」や「ギャグ」や「未完成ヒーローの成長
」なのでしょうか?

また、それらを魅力と感じる方のご意見も、ぜひお聞きしたいです。
頭の固い哀れな私に、なにとぞご教授を

Photo

これは決して、最近のヒーロードラマの批判ではありません。
きっと作り手も、そこを必死に模索しているのです。
私もそこを追及したいと。無い頭を絞って
ファン一人一人がそこを真剣に考える事に、きっと意義があるんですよ。
「つまらない」「見たいヒーローじゃない」って言ってるだけより、その方が建設的ですもんね

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コメント

うーん……うーん。
オタクィーンさんに「例の企画」をお願いしている身ですが
実は自分の中には、二つの相反する想いがずっと混在しています。
自分が市川森一氏を敬愛していて
でも上原正三氏にも傾倒していることは
ブログを読んでくださってる皆様にはもう知られてると思いますが
そこで自分としていつも葛藤があるのが
「許せない」
という価値観なのです。

市川森一氏は、この一言が書けなくて
子ども番組を去ったともとれる発言をしています。
「許さないとは何様なんだ、お前は完璧な人間のつもりか。
人間には必ず間違いがあり、それを許しあうことで社会がある。
人が成した事に対して、許す、許せないと言えるのは神だけだ。
思い込みと決め付けの正義からくる『許せない』が描けなくなった」
そういった談話を、後に市川氏は残しました。

一方、上原正三氏は「許せない」という言葉に
最終的に「ヒーローの生きる道、戦う理由」を求めました。
正義なんてどうでもいい、その時のその自分が
許せないもの、許すわけにはいかないものと戦え。
新マン・郷秀樹は確かに次郎少年に
「君も大きくなったら、許せないものと戦える大人になれ」
そう言い残して地球を去りました。

この二つは全く真逆をいっているようにみえて
実は「万人が共感する絶対正義など、実はどこにもない」
この一点で共通しています。

また、市川氏の言葉は裏を返せば
「人が人を許さないとか、決め付けてしまうことは許せない」
とも受け取れます。

ヒーローの条件。
それは「決して譲れないものを守り続ける覚悟と行動力。
その、ヒーローの「譲れないもの」が
みている視聴者、子どもに共感を呼べるか呼べないかが
そのヒーローの存在価値になるのではないでしょうか。

自分は、ヒーローが「正義」「正しいこと」「教育」などを
主張しようとすると、アレルギーで胡散臭く感じてしまうという
そういう感性を子どもの頃からもってしまっています(笑)
それが「少女とのどうでもいい約束」でも「子犬の命」でも
自分が決めたことを貫き通して掴む物。
自分はそれを見たくて、ヒーロー物を見ています。

だからもちろん、そこで描かれた「ヒーローの主義・主張」が
向かう方向が自分にとって、興味がなかったり価値がないと判断した場合
見るのを止めたりもしてしまいますね(笑)

オタクイーンさん、開設二周年おめでとうございます~ああ、遅すぎますね。。
これだけの面白く深いお話を二年も続けていらっしゃることに感服いたします!!!
この調子で三周年、五周年と迎えられるといいですね。。
そのうち、単行本か何かにまとめられると、、、なんて夢を見たくなるボリュームになってきましたね。 

『仮面ライダー THE NEXT』
まだみてません、、、、今日の帰りにでもレンタルしに行きま~す。
ヒーローの変身前の「カリスマ性」は必然だと思います、が、リアリティを追求すると世間から浮いてしまい、笑いの対象になるというジレンマは、なるほどーーと考えてしまいました。
そうなった原因の一つに仮面ノリダーの影響も大きいと思います。リバイバルのキッカケになったことは認めますが、それと同時に熱血漢=お笑いの構図も出来上がった様に思いますね。
自分も時代の空気なのかなぁ~とも考えましたが、よくよく考えてみると昭和ライダー放送当時も、実はリアルに本郷が存在したら笑いの対象だったのでは???と少し違った考えも浮かびました。
ヒーローにカリスマ性は必須だと思いますし、そうでないと視聴者を引きつけられないと思いますね。
自分にとって「本郷猛」は子供のころ、憧れのオ・ト・ナでした。
それは藤岡さんの元々持っている魅力もあったのでしょうが、とにかく理想の大人像でしたね。あんな大人になりたいと・・・
そういうヒーローを演出しようとすると、必然的に超然とした人物になってしまいます。でも超然としてなければリアルすぎて魅力がない・・・
うーん、難しい課題ですね~
演出のことも番組のことも分からない自分の浅はかな分析ですが、今のヒーロー番組作りってリアルで無くてはならないという間違った理想に向かっていっているように思います。
「リアルじゃないとダメじゃん!」とお叱りを受けるかもしれませんが、リアリティって何だろう?って考えてみたくなりました。
自分は時々はまってしまう連続ドラマがあるのですが、そういうドラマってリアリティ溢れる人物の登場、ストーリー展開で毎週に楽しみに観賞するのですが、よく冷静になって考えてみると実は全くありえないキャラ、ストーリーだなぁ~と思うことがしばしばです。
実は現実では絶対ありえないような人物、ストーリーを、あたかもリアリティがあるかの様に錯覚させらているんですね~まさに「お釈迦様の手のひら」状態です(笑)
そのような視聴者さえも気づかないスケールでの「カリスマ・ヒーロー」の出現を願ってやみません~

「ファン一人一人がそこを真剣に考える事に、きっと意義があるんですよ。」って言葉、本当に身に沁みます。。批判だけの無責任なファンにならないためにも・・・

オタクイーンさんのツボをついた記事に、つい長文になってしまいました~

市川大河様 返事が遅くなり、申し訳ありませんでした
頂いたコメントについて、私なりにつらつらと考えておりました。
こうしたやりとりが出来る事はブログの大きな利点ですね。
今回のお話は、ヒーローの存在についての根源的理由であるだけに、お答えも難しかったのではと少々反省もしています

実は市川さんのコメントに近い事を私も考えておりまして。
ただ若干の違いもあります。
ご意見に沿って補足させて頂きますと。

市川森一、上原正三両氏の「許せない」という価値観の違いは、ずっと「ヒーローの自己矛盾」として課題となっていました。
これは例の「宇宙船映像倶楽部」用企画を考案する上で、避けて通れぬ懸案事項だったのです。
で、結局、自分の中での落とし所は。

『人間の中には、本能や倫理に根ざした「絶対正義」、理念や主義に根ざした「相対正義」とでも呼べる二つの正義が、常に葛藤を繰り返しているのでは』という考えでした。

例えば、野に咲く花を踏み荒らす者に対する「許せない」という感情は、誰に教えられたものでもなく、人間全てに備わった「絶対正義」じゃないかと思うんですよ。
完璧な人間じゃなくても、許せないものは許せないと。
どんな事情があったとしても、その時覚えた怒りは誰にも止められないんじゃないかと。
で、理念や主張が自分と違う者に対して抱く「許せない」という感情は、主義の差から来る「相対正義」じゃないかと。

ですから、市川森一、上原正三氏おっしゃるところの「絶対正義などどこにもない」というお考えには、ちょっと悩む点もあります。
未だに割り切れないんですが、絶対正義って、本当にどこにもないんでしょうか?
「正義は一つじゃない」という意味なら、充分納得出来るんですが。
確かに、正義の数は無数にあると思います。
人と人の対立は正義のぶつかり合いとも言えますし。
でも「戦争には行きたくない。たとえ敵国でも、人を殺めることはしたくない」という思いは、人間の根源にある「絶対正義」の叫びなんじゃないかと思ったりもします。
その心の叫びが報われるか否かは別として。

で、ここからは市川さんと同じ考えですが
『ヒーローの「譲れないもの」が
みている視聴者、子どもに共感を呼べるか呼べないかが
そのヒーローの存在価値になるのでは』というご意見には全く賛成です。
ただここが難しい所で、おそらく最近は「正義の多様化」により、共感のハードルが怖ろしく高くなっているような気がするんですね。
初代ウルトラマンの頃には、万人の中で「譲れないもの」の価値観はまだ平均化されていたと。
ですからドラマも作りやすかったと思います。
いかに佐々木・実相寺作品が揺さぶりをかけても、やはりウルトラマンは我らのヒーロー足りえたわけです。

ところが現在は、その「譲れないもの」があまりにも多様化しすぎているために、一見しただけではヒーローが「何を譲れない」のか分かりにくい。
「ULTRASEVENX」に至っては、主人公が何をやりたいのか判然としないままストーリーが進みます。
ですからカタルシスが生まれない。
ストーリーの着地点が判然としないからです。
また、平成ライダーなどに見られる「自分の主義のみの為に戦う主人公。その結果が、たまたま市井の人々を守ることに繋がる」という設定の危うさも、ストーリーのパワーを奪っているような気がするのです。

『そこで描かれた「ヒーローの主義・主張」が
向かう方向が自分にとって、興味がなかったり価値がないと判断した場合
見るのを止めたりもしてしまいますね(笑)』
というご意見にも全く賛成。ただ初代マンの頃に比べ、最近のヒーロードラマは「譲れないもの」の多様化によって「興味がなかったり価値がないと判断」する確率が増しているのではと思ったりするのですが・・・

決して「正義」を声高に掲げるだけがヒーローストーリーではないと思います。
おそらくまだまだ可能性はあるはずなんです。
しかしながら、記事に書いた「謎」や「ギャグ」「成長」などが、主人公のパワー・カリスマ性に取って代わるだけの魅力を持つかどうか。ここなんですよね。
ドラマはバラエティー番組じゃない筈。
ストーリーの仕掛けだけでは、作り手の思いを伝える事は出来ないと思いますから。

例によって、下らないお話で申し訳ありませんでした
ご意見ありがとうございました。
頭の足りない者の戯言です。なにとぞご立腹なさらぬよう。

尚、「例の企画」については現在、鋭意考案中です。
またご連絡致しますので、しばしお待ち下さいませ。
ご期待に沿える出来かどうかはわかりませんが

大和少年様 お祝いコメントありがとうございます。
返事が遅れ、申し訳ありませんでした

大和少年さんはじめ皆さんのおかげで、何とか二年続けられる事が出来ました。
ふり返ってみれば、おそらく私一人で寂しく記事を書いていては、ここまでとても続かなかったと思います。
ただ長いだけのおバカ記事に目を通して下さり、コメントでやり取りさせて頂けたからこそ、新しい発想も湧き、モチベーションもより上がってきた訳です。
これがブログの最大の利点ですね。ありがたい事です

おっしゃる通り、ヒーローからカリスマ性を奪って行ったのは一連のパロディー番組と思います。
ただ思うのは「ノリダー」もきっと、時代の空気の産物なんだろうなーという事ですね。
とんねるずがやらなくても、きっと誰かがヒーローネタをギャグにしていたと。そういう空気でしたよね。あの頃は。
視聴者もそう思っていたんですよ。「ヒーローの存在ってわざとらしいよね」って
で、その結果がどうなったか。
実は、まだ突破口は見つかっていないんじゃないかと思います。

記事に書いた「仮面ライダー THE NEXT」は、ホラー要素に加え、ファンの脳内イメージをほぼ完璧に視覚化したアクションで、これまでのライダー作品と一線を画す出来栄えとなりました。
でもあれは一度だけの離れ技。推理小説のトリックと同じで、二度と使えないような気がします。

本当に難しいですよね~。カタルシスとリアリティーの両立って。
大和少年さんの「NEXT」鑑賞後のご感想を是非お聞きしたいです。

以前読んだシナリオテクニック本の受け売りなんですが
「ドラマというのは元々、日常をリアルに描く事を目的としていない。必ず何らかのテーマ、メッセージを伝える目的がある。」というものです。
全てがテーマから逆算されている。主人公の部屋の電子ジャー一つとっても、テーマから吟味された厳重な選定がなされている訳です。
私もそれはよくわかります。ドラマ中、テーマから逆算されないものは画面上何一つ無いと言っていいでしょう。
日常であって日常でないんですよ。
ですから本来、「何かがおかしい」「こんな事あり得ない」の連続の筈なんですよね

本当を言えば、そこはドラマのお約束。
昔なら作り手と視聴者の間に「そういう所は目をつぶって」と暗黙の了解があったものなんですが、今はそのお約束が破られていますよね。
NG大賞などもいい例です。作り手の方で「これは作り物でーす」と触れ回っているようなものですから。
以前、先輩ディレクターともよく話しました。
「視聴者って、そこまでして笑いたいのかなー」なんて

ただ時代の要請であればそれも致し方ない事。
テレビはそうやって進化してきた訳ですし。
ここは一つカリスマ性に代わって、ヒーローのパワーを失速させないファクターを考えたいものです。
個人的にはやはり昔の、一点の曇りも無い「頼れるお兄さん」が理想なんですが

こうやって考えていくと、ヒーロードラマの構造に触れたみたいで感慨があります。
おバカな考えも、一つ一つの積み重ねで形に出来るんじゃないかなんて、勝手な妄想に浸っております。
これからもよろしくお願い致します。
記事のレベルアップは望めませんが

 藤岡弘さん演じる本郷猛は、特に新1号編での本郷は、ひたすらに「熱い」男でした。熱狂している視聴者にとっては、その一挙手一投足が「カッコいい~」と痺れる要素だったのですが、醒めた目で見ると、それは恥ずかしいほどに非現実的でした。
 こういう「熱さ」は、大和少年さんのコメントにもあるような「パロディ」「お笑い」を通過してしまった今となっては、笑いの対象となってしまうのですかネ。突き抜けた「熱さ」は、「醒めている」メンバーも抱える戦隊シリーズでないと描けないのかもしれません。「熱い」レッドを、「クールな」ブルーがたしなめることで、「笑い」になってしまう直前で、作品内でウマくバランスをとっているのでしょう。だから戦隊シリーズはずっと続いて作られてきたのかも。
 クールな主人公というと、「静弦太郎」は今の時代に合っているように思います。

 今でも「ナルニア国物語」や「パイレーツ・オブ・カリビアン」「ランボー」「インディ・ジョーンズ」など、昔話や古今東西のファンタジー作品、アクション作品が映像化されていますが、ヒーローは健在なのだと思います。そして、それを大衆は歓迎しています。その魅力は何か。
 そこにはまず、舞台設定が重要なんでしょうネ。熱いヒーローが揺るがない正義を信念に大暴れできる舞台。ヒーローを成立させるには、その存在できる設定が必要だということが充分に理解できます。そこにリアリティーとの擦り合わせは不要なのだと思います。ヒーローが活躍できるのはフィクションの世界だからです。
 特撮ヒーロー、特に最近のライダーシリーズでは、「舞台のリアリティー」をまず設定してしまうところに、最初から無理があるのでしょうネ。私は「リアリティー不要」という立場を考えます。「リアルな特撮」は大歓迎ですヨ。
 リアリティーから逃げる手法としては、「銀河の彼方の架空の惑星」や「近未来」、「遠い昔」、もしくは「思い切ったファンタジー世界」といった舞台が好都合なんでしょうネ。そこに『ウルトラマン』『インディ・ジョーンズ』『カリブの海賊』が成立した鍵があると思われます。

 そして、「カリスマ性」と「正義」の復権を! 価値観が多様化しようと、悪いものは悪い! それを解決してこそのヒーローであると、私は固く信じています。
 話を戦争にまで広げてしまうと、イデオロギーの対立が生じてしまいますよネ。大きくてもテロリズムくらいの規模の、日常生活を脅かすハッキリとした「悪」がちょうど良いでしょう。
 「人間の自然破壊によって現れた怪獣」という設定、描写がヒーローを成立しにくくなるのなら、そこには触れないという決断が必要になるでしょう。ここのコメントのテーマとしては掟破りですが、私は「カリスマ性」に代わるヒーロー性は見たくないし、不要だと考えています。「己の信念に悩むヒーロー」なんて、カッコよくない! だから「未完成のヒーローの成長物語」も「解けない謎」も、見ていてイライラするだけなんです。

 もう1つ考えているのは、TVシリーズなら「1話完結」フォーマットも復活してもらいたいということです。そうすれば「解けない謎」の描写も無くなるでしょうし、何より毎回カタルシスが感じられます。そして、バラエティ豊かなストーリーが展開されるように思われます。


 毎度の薄っぺらな意見で申し訳ありません‥‥(^^ゞ


P.S.
 『THE NEXT』でのアクション・シーンに、実は私は満足していないんです。「ホッパー」というコードネームの「バッタの改造人間」なのだから、もっと驚異的なジャンプ力の描写が見たかったと。ビルの40階まで跳んでしまうのはさすがにやり過ぎとしても、5階くらいには届いて欲しいし、距離にしては30mくらいは跳ぶ映像が見たかった‥‥。1号・2号のクライマックスが屋内だったことが不満なんです。
 サイクロン号のアクションは堪能しました。今回、ここまでサイクロン号を活躍させてくれた監督には、この映像を見せてくれたことへの感謝で一杯です。

皆さんの意見を読んで、もう一度考えてみました。
そこでちょっとおぼろげながら見えた部分などを。

歴史経過における世代交代は
「上の世代が左だったから俺らは右へ」
「上の世代のミニスカブームがウザかったから、あたし達は長くしよう」
といったように、相対化の揺り返しを起こします。

市川・上原両氏のみならず、70年代に起きた正義否定は
正義を掲げた日本やドイツが巻き起こした
いわば「自分等の上の世代価値観の起こした歴史的結果へのアレルギー」
それが巻き起こしたとも受け取れると思います。

正義という価値観が、自分にとって胡散臭く感じてしまったのは
「俺もお前も名もない花を、踏みつけられない男になるのさ」
は、まさに自分にとっても守るべき、譲れない価値観なのですが
そこを「正義」という概念に落とし込もうと利用する者は
そこで意図的に飛躍を起こさせることが、しばしばあるからです。

「名もない花でも踏みつけられない」は正義だよな?
なら、花を踏みつける奴を許すな。
花を踏みつけるような奴を育んだ環境を否定しろ。
その環境を、花が踏み潰される前に滅ぼせ。
そのためにはこちらから攻めていけ。
「正義」とは「正しい義」だから
正しい者は何をやっても許されるのだ
いやむしろ、正しい者が率先して行動を起こさないといけない。

イラクへ攻め込んだアメリカも
こうやって、人の基本理念の深層心理に常に存在する
(オタクィーンさんや自由人大佐さんが仰ったような)
「人が人と繋がりながら、人として生きる根源の感情」を
上手く利用して、エクスキューズを与え
そして戦争へと誘導していったように、自分には見えるのです。

「正しい義」、どうして人は自分の抱いた素直な感情に
客観的な「正さ」を与えないと、立ち上がれないのでしょう?
「俺のやっていることは、俺の個人感情の勝手ではない。
俺がやっていることは正しいことであり、義である」
「正義」という二文字の単語は
私にはそういう言い訳にも聞こえます。
先日亡くなられた、某国民的英雄作家だった人は
「私は正義ではない、正義の味方なのだ」と仰ってましたが
この言葉こそ「正しさ」を自分の目的のために借用するが
自分は自らがその「正しさの是非」に対して責任を負わないという
卑怯な物言いであるという印象を受けます。

そこで行った戦いの責任は
あくまで自分にあるのではなく、自分の外側にある絶対的な正さにあるのだと
自分にはそう聞こえてしまうのです。

ヒーローは、怪獣や宇宙人を暴力で制圧し、命を奪う存在です。
ならばそこでヒーローを名乗るのであれば
せめてそこで取った行いに対しては、そこで生じた責任を
全て自分で背負う覚悟を持ってほしいなと、個人的に思うのです。

ただ、そこを突き詰めると「タイガーセブン」が究極になってしまいます(笑)
あれを観て、カタルシスや爽快感を得ることは、少し常人には難しいと思います(笑)

誤解なさらないでいただきたいのは、自分はオタクィーンさんや自由人さんの提唱される
真実の正義、正義とは、今の時代にこそ正義を、という
そこの根幹を全否定したいわけではないのです。

ただ、このやり取りが純粋に楽しいのです(笑)
自分がリスペクトする、尊敬できる人が
自分と違った主張をしていて、意見を交換できるというのは
(身勝手で申し訳ないですが)自分個人にとっては
物凄く楽しくて、ためになるのです。

個人として生まれ育った人間が、自分とは違う価値観を受け入れるためには
まず、自分ではないその他人を尊重して向き合えるかが鍵になり
そこでは互いの価値観の違いに「正しい」「間違い」はなく
そして、自分だけが抱えた「それ」を、言い訳をせずに自分の責任で差し出して
そして、相手が差し出してきた物を受け取って飲み込む。
それが出来た時、人と人の出会いと接触はお互いに化学反応を起こし
それぞれを、出会う前よりも一段階深い存在にしてくれます。

ヒーローと怪獣・怪人も、実はそうなのではないでしょうか?

うーん……難しい問題ですね。

>市川大河さん

 大丈夫ですヨ。お気になさらないでください。
「何が何でも説き伏せてやろう」とか、「オレの言っていることが絶対正しい」なんて、私はこれっぽっちも考えていません。薄っぺらな意見で、吹けば飛ぶようなものですが、「私はこのように考えています」という紹介をしているだけですから。

 そうですネ、ヒーローといえど、相手の命を奪う闘いに挑むのですよネ。その責任はとらなければならない‥‥と。でもそこで、私は「ヒーローは悩んではいけない」と思うのです。悩むのは脚本家(^o^)
そういう矛盾点に悩みながら、世間からの疑問に答えていかなければならないのは脚本家であり、その矛盾点をヒーローに語らせ、悩ませてはならないと思うのです。虚構の世界だからこそ、ヒーローには完全無欠でいてもらいたいし、そんなヒーローを成立させるのが脚本家の力量だと思うのです。
‥‥あ、これは「私が望む形でのヒーロー」を成立させるための前提です。過去~現在の脚本家の方々を否定しているのではありません^^;

 今、『レスキューフォース』という番組が土曜日朝に放映されています。私は2回ほど見たのですが、悪者が巻き起こした災害から、人々を救出する活躍を見せるヒーロー番組です。特撮ヒーロー版『サンダーバード』といった感じでしょうか。そこにはブレが無くて、ヒーローが思い切り活躍できる場面が用意されていると感じられます。『赤影』や『アイアンキング』が大好きな我が次男(小4)は、この番組には積極的にチャンネルを合わせて見ています。しかし、最近のライダーや戦隊は見ないんですよネ。彼曰く「訳わかんない」のだそうで。ちょっと前に彼が好んでいた番組は『リュウケンドー』でした。こちらもヒーローにブレが無い作りでした。
 私は彼の好みが何となくわかります。自信過剰でもハッタリでもいいから、カッコよく活躍するヒーローが見たいのではないのかなぁと。その方が見ていて面白いですから。価値観が多様化したのは大人たちであって、まだ未分化の子どもにとっては、勧善懲悪は理想なんでしょう。私もまだ未分化だったりして‥‥(^^ゞ

 ヒーローが悩むのは、「強敵にどうやったら勝てるのか」という程度がイイのかなぁ‥‥。

 「正義とは何か」という意見を真っ直ぐに受け止めず、何だかはぐらかしているようでごめんなさい。私にはやっぱりここが肝心で、ここから先へは進まないように考えています。

>自由人大佐さん
そうそう、うん深く納得です。
自分が以前書いたブログの内容なんですが
>筆者が知る限りにおいての「ウルトラ」とは
>子どもが自分の意思で観て、格好良いウルトラマンと強い怪獣の対決を楽しみ
>そこでワクワクしたり憧れたりしながら、面白さに浸り
>その中で、ほんのちょっと生まれた
>「よく分からないけど、今日のこの話はただ面白いだけじゃなかった。
>この感覚はなんだろう?」を、やがてウルトラを卒業していった先で
>その人生の流れによっては大人になってから思い出したり
>改めてウルトラを再び目にしたりした時などに
>初めて自分だけの「作品との絆」を、発見したり納得したりして
>また、自分の子どもへと受け継いでいく、そんな「娯楽」なのである。
この感覚は大事にしたいなと思うのです。

自分はあえて言及しませんでしたが
実は自分は、一部の作品以外平成ライダーをあまり観ていません。
肌に合わないし、最初のコメントでも書いた
「主人公が求めるものに共感をもてない」からであります。

それを好きな人を否定しませんし、その作品も否定しません。

けどそこで思ったのは、自分が今回最初に主張した
「正義なんてどこにもないのでは?
ヒーローを描くときには、その主人公ならではの価値観で
描くしかないのでは?」
という意味合いにおいては
実は市川・上原が描いた昭和のヒーローの
まさに延長線上に、平成ライダーはいるはずなのです。

なのに、昭和ヒーローに共感できて
平成ライダーにまったくシンクロ出来ない自分がいて
このアンビバレンツもまた、自分が内包する面白い矛盾として
いつか向かい合いたいと思っていたところに
今回このように、オタクィーンさんのブログで
お二人の興味深い意見に触発される形で
ついつい調子に乗って楽しんでしまったというわけです(笑)

おかげで、少し自分の中にある「楽しい矛盾」に関して
今後どう向き合っていくべきかが、少し見えてきたような気もしますですよ。

結論は出なくても良いんだと思います。
いやー楽しいんですよこういうの(笑)

自由人大佐様 市川大河様
非常に有意義なやりとりをさせて頂き、ありがとうございます

実はヒーローを根本的に考えるって、こういう事なのかなーと思ったりします。
「正義」やヒーローのあり方、現代のヒーロー像に対する考え方や「自己矛盾」まで含め、同じヒーローを愛する方々でこれだけ考え方が違う。その違いや共通点を語り合うことは、非常に意義深いと思うのです。
ファン同士のこうした意見交換こそ、明日の新ヒーロー誕生に結びつく事と信じて疑いません

大佐さん、市川さん、どちらのご意見も頷けるところばかりですし、また私なりに異論を唱えたい部分もあります。
今回のやりとりで重要な項目は、おそらく二つに分けられると思います。
一つ目は「正義という言葉の定義」
二つ目は「ヒーローが活躍できるフィールド・ファクター」
じゃないかと。

一つ目の「正義という言葉の定義」については、以前にも皆さんと活発なやりとりをさせて頂いた通り、結論は出ていません
まーこれは、確かにお二人がおっしゃる通り、出なくてもいいんでしょうね。私もそう思います。

市川さんの
<『正義という価値観が、自分にとって胡散臭く感じてしまったのは
「俺もお前も名もない花を、踏みつけられない男になるのさ」は、
まさに自分にとっても守るべき、譲れない価値観なのですが
そこを「正義」という概念に落とし込もうと利用する者は
そこで意図的に飛躍を起こさせることが、しばしばあるからです。』
というご意見。新鮮な視点に感服いたしました。
ただ、このご意見について、私なりに頭を絞ってみたんですが。

古今東西、
<『「名もない花でも踏みつけられない」は正義だよな?
なら、花を踏みつける奴を許すな。
花を踏みつけるような奴を育んだ環境を否定しろ。
その環境を、花が踏み潰される前に滅ぼせ。
そのためにはこちらから攻めていけ。』
と考えたヒーローって居たでしょうか?
怪獣や宇宙人は毎週襲ってくる侵略者だからと決めて、先に変身して攻め込んだヒーローって居たでしょうか?
(悪役なら結構居ましたが

そう考えた時点で、「花を踏みつける者を許さない」という考えとは発想が別の次元になっているんじゃないかと。
この場合「発想を飛躍させる者」は、完全に論理のすり替え、悪意を持っていますよね。
発想の出発点は誰もが共感できるのに、着地点は共感できない。そういう飛躍が考えられるから、その価値観を「正義」という名に落とし込むのが胡散臭いという考え方は、私には無いんですよ
市川さんのご意見を否定しているわけではありませんので誤解無きよう。全ての意見は平等ですから

ひょっとして「正義」という言葉がしっくりこないのであれば、別の言い方でもいいのです。
『自分の持つ倫理観に誠実であろうとする姿勢』なんてどうでしょうか。
いやー文才がなくてごめんなさい
ともあれ、そういう『悪意を持って発想を飛躍させようとする発想』が無いからヒーローなんじゃないかなと思ったりもします

ヒーローの活躍って、基本的には「防衛戦」ですよね。
あくまで敵あっての変身であり、悪事あっての戦闘な訳です。
私も最初のコメントでは『野に咲く花を踏み荒らす者に対する「許せない」という感情』と書いています。
『踏み荒らしそうな者』じゃないんですね。あくまで『踏み荒らされた事に対する、相手への怒り』なんですよ。
これは全てのヒーローに共通する行動原理じゃないかと思います。だからそれが「正義」と同義である事を疑いもしませんでした。
こういう考えもあるという事で。お許し下さい。

で、もう一つ思ったんですが、「正しさ」って客観的なものでしょうか?
私の中で「正しさ」という概念は、「自分の倫理観に誠実である事。」あくまで「主観」なんですよね。
ですから自分が正しいと思えば、それが間違っている事がわかるまで自分を貫きます。おバカ正直という奴で
もちろん間違いに気づけば素直に認め、謝罪し正しますが。
理想論かもしれませんが、人間には持って生まれた共通の倫理観が備わっていて、それをそう簡単に裏切れるものではないと思っています。
そういう倫理観の裏切りは、なんとなく「自分を自分で汚している」ような気になるからです。
ですからそれを「絶対正義」と思っちゃったんですね

で、二つ目の「ヒーローが活躍できるフィールド・ファクター」ですが。
これは大佐さんがおっしゃる
<『リアリティーから逃げる手法としては、「銀河の彼方の架空の惑星」や「近未来」、「遠い昔」、もしくは「思い切ったファンタジー世界」といった舞台が好都合なんでしょうネ。』というご意見に賛成です。
これ、実は昭和の末期、竹内義和さんがおっしゃっていた「北斗の拳の法則」に近いものがありますね。
「遠い異世界や、世界を一度リセットする事。これがヒーローを誕生させやすいフィールド」という説です。
ただ、これは本当に好みなので恥ずかしいんですが、私はあくまで現代劇にこだわりたいんですよね
せいぜい2~3年先の未来程度で。

というのは。お考え頂くと分かるんですが、異世界やリセットされた世界って、世界観の構築、辻褄合わせが大変なんですよ。
いい加減な世界観だと何でもアリになってしまう。
ヒーローの活躍に有難みがなくなっちゃうんです。
敵にやられて地面にひれ伏す主人公の「擦り傷の痛み」って、現代の地球だから皮膚感覚がわかるんじゃないなー、なんて思うんですね。
「その星は重力が違うから、転んでも痛くない」なんて言われたってわかんないよー、なんて感じで。
まー好みですから

<『自信過剰でもハッタリでもいいから、カッコよく活躍するヒーローが見たいのではないのかなぁと。その方が見ていて面白いですから。』これも大賛成です
たぶん留意しなければならないのは「さじ加減」なんでしょうね。国内全てのクリエイターが抱える永遠の悩み、『リアリティーとカタルシスのバランス』に尽きます。
こればっかりはやってみなければわからない。
なぜなら。「ヒーローのリアリティー」って、台本には書き込めないからです。いざ着ぐるみが完成、アクターが着て動いてみて、やっと「あーこんな感じか」と分かる。
カタルシスに関してだって、全ての編集が終了してからじゃないと分からない。編集のリズムやエフェクトひとつで、作品のイメージって全然変わりますもんね

でもつくづく思います。
ヒーローって、本当に矛盾を孕む存在ですよね。
存在理由、戦う理由、掲げる正義、どれ一つとっても明確な答えなど出ません。
ファン一人一人の心の中にそれぞれのヒーロー像が存在し、それらが万華鏡のように、おぼろげな姿を形作っている。
ひょっとすると、ファンそれぞれが感じるヒーロー像って、そのファンの心を映し出す鏡なのかもしれませんね。

いろいろと勝手な思いばかりお話し、申し訳ありませんでした。
私も自分の中にある「楽しい矛盾」に対して、こういうやりとりから見えてくる何か。それに出会う喜びを求めて、ヒーロー世界を追求しているのかもしれません
意見の違いもあって当然。むしろ違った方がヒーローを何倍も楽しめます。

いやーつくづく私は、お仲間に恵まれている事を再認識しました。
ブログでここまでの濃いやりとりが出来るとは考えもしませんでした。これもお二人のおかげです
いつもながらのつまらない記事に、ここまで真剣にお考え頂いた労力、お時間に、心より感謝致します。
ありがとうございました。
また今回のやり取りに於けるお二人のご意見は、一切否定するものではありません。無礼な発言等でご気分を害されるようでしたら、無知なおバカのたわ言とお許し下さい。

P.S.
市川様 たぶん「例の企画」でも今回の論点は散見されるかもしれませんが、やりとりの通り結論を導くのは難しいようなので、未消化のまま提示される可能盛大です。なにとぞお許しを

大佐様 『THE NEXT』のライダーアクション、確かにジャンプ描写は無かったですね。
本郷の最初の変身シーンなどにあってもよさそうなものですが、私は特にジャンプ無しに違和感を覚えませんでした。
ひょっとするとあの変身シーン、脳内で記憶補正していたのかもしれません。昔のライダーでよくあった「トオー」の後に着地カットという編集に慣れちゃったんでしょうね。
あい変らずのお気楽観客でした


あまりこの話題で引っ張るのはアレなんですが(笑)
あ、そうか、自分は言葉足りなかったなという点を一つだけ。

「正義という言葉を旗印にして、利用したヒーロー」
はい、いません(笑)
というか、自分が危惧し、危うく思っているのは
テレビの中のヒーローではなく、「正義という言葉・概念」を現実で使う存在になのですね。

それがテレビや漫画の中ではなく、現実の政治・軍事において
「正義」という言葉が用いられる時は、かなりの確率で、それを上手く私利私欲のために
利用しようと思う人間の存在を感じてしまうということなんですね。
押井守っぽく言うならば「歴史の教科書はそんな連中の名前でいっぱいだ」
とでも言うんでしょうか(笑)

三種三様の意見交換の中で、結論が見えるのではなく
新たな視点と方向性が見えてくるという
非常に貴重な経験をいただけたことは、これは僥倖だと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

市川大河様 私の方こそ言葉が足りず、申し訳ありませんでした。

「正義という言葉を旗印にして、利用したヒーロー」
については、市川さんが危惧されている事が『「正義という言葉・概念」を現実で使う存在』であるという意味は読み取れておりました。

ただ、あえてそれをヒーローに置き換えた理由は。
たとえ現実世界で語られる「正義」という表現に市川さんが危うさを感じられていたとしても、その表現を私利私欲のために利用しようと思うヒーローが実際には居ない事を言いたかったのです。

現実世界で「正義」という言葉に感じる胡散臭さは、虚構のヒーロー世界とイコールであって欲しくはない。
そこに明確な一線が引かれているからこそヒーローはヒーロー足りえ、人々はそこに魅了されるのではないかと。
これは私が感じるヒーロー像に沿ったものであり、ひとりよがりな考えかもしれませんが、ヒーロー本人が信じる「正義」を疑う事は、ヒーローの存在意義を根底から覆してしまうような気もするのです。

過去、確かに「正義を揺さぶる」問題は何度も作品化されました。
しかしながら、それはあくまで「アンチテーゼ」であり、ヒーローの本道は揺るがないものと信じたいです。

そこは自由人大佐さんのご意見に近いものがあります。
やはりヒーローは悩んじゃいけないと。
正義という言葉を利用しちゃいけないと。
現実世界の正義が危うさに満ちているからこそ、虚構の世界には揺るがない正義が存在してもらいたいのです。

勝手な意見で申し訳ありません。
稚拙な願望を抱いてしまう無知をお許し下さい。
決して押し付けではありませんので、ご立腹なさらぬよう
これからも、こうした真摯な意見交換が続けられる事が、私の切なる願いです。

 あまりこの話題で引っ張ると、他の人を置いてけぼりにしてしまうような‥‥。私は楽しいのですが(^^ゞ

 本来のテーマ、「カリスマ性に代わるもの」って、なかなか無いですネ。ヒーローをどういう立ち位置にするかということが複雑に絡むようで。
 で、やっぱり「熱いヒーロー」を囲む登場人物たちが、そのヒーローを頼りにしている、そのヒーローなら全幅の信頼ができる、という世界を構築することなんでしょうネ。「アイツなら‥‥」というシチュエーションに身震いするほどワクワクします。

 この討論のように、「ヒーロー」という存在について、これほどいろいろな見方があるのだなぁと、大変感心しています。1つのヒーローから広がる無数のスペクトル。あ、洒落ちゃった(^^ゞ それらのスペクトルのどこに力点を置くかによって、これまでにも数多の作品がつくられてきました。
 「カードで闘う」「2人が合体して変身する」「主人公がロボットを操縦する」「変身アイテムは携帯電話」「メカが合体してロボットになる」「悪の組織に改造された主人公」「ヒーローは宇宙からやって来た巨大宇宙人」などの目先の特異性にばかり囚われて、「魅力的なヒーロー像」という視点が最近は抜けてしまっているのでしょうか。まぁ、スポンサーのおもちゃ販売の戦略もあって、理想どおりのヒーローがつくれない現実もあるのでしょうネ。今のご時世、『闘え!ドラゴン』のような作品は生まれないでしょう。売れるタイアップ玩具がヌンチャク程度では‥‥^^;

 前回のコメントに書き忘れてしまいましたが(忘れるほどなのか?)、『デカレンジャー』もなかなか熱いヒーローでした。コメディ的要素もありますが、ヒーローの信念にブレがありません。あ、これも近未来が舞台の設定です。そういえば『ティガ』も近未来のストーリーですネ。
 そもそも、超兵器が登場するような作品は、近未来が舞台にならざるをえないのかも‥‥。

 そんな中で、『クウガ』はしっかりと現在を舞台とし、リアリティーとの擦り合わせには成功した作品でしょうか。これは奇跡に近いと思いますし、同じようなことをやっても『クウガ』の二番煎じと言われてしまうのでしょうネ。だから、こういった作品はもう出て来ないかも‥‥。
 もしかしたらオタクイーンさんの作品が、この分野に一石を投じてくださるのでしょうか! 楽しみです~(^o^)/

 「正義」というのが難しい世の中というのも悲しいです‥‥。単純に「憎い怪獣 ぶっ殺せ」とはいかないんですよネ‥‥。せめてヒーローには作品世界の中では爽快に大暴れして、多くの人の幸せを守ってもらいたいです。

 市川大河さん、オタクイーンさん、次の討論の機会を楽しみにしています。

自由人大佐様 今回のやりとりは本当に有意義なものでしたね。
やはり皆さん、ヒーローに対して熱い思いをお持ちである事を再認識しました。
ヒーローの魅力を語る事、現代の問題点を語る事、そのやりとりを通じて、意見の相違点を確認する事。
こうした、お互いを刺激しあう営みこそが、新しいヒーローを生み出す大きな原動力と思います

ヒーローのカリスマ性に関しては、おそらく「代わるもの」は無いんでしょうね。
私も大佐さんのご意見に賛成です。
これはちょっと違うお話かもしれませんが、例えばスポーツ選手など現実世界のヒーローにも、やはりどこか常人には無いカリスマ性がありますもんね。
彼らが達成した偉業や生きる上での姿勢などが、自然とそうした雰囲気を生み出すものなのでしょう。
現実、虚構を問わず、やはりヒーローは「憧れる存在」であって欲しいと思います。

存在そのものが人間の能力を超えた存在であるヒーローは、やはりその心持ちも違うものであって欲しいと。
そこから醸し出されるオーラのようなものに、カリスマ性は宿るのでしょうね。

ですからおっしゃる通り、あまり目先の特異性で新しさを求めても、そこには「設定の袋小路」が待つだけかもしれませんね。
結局、シンプルで強い存在が時代を超えるのでしょう。
そういう意味では確かに、マーチャンダイズ主導型のヒーロービジネスは、シンプルなヒーローの魅力を奪っていますね。
マーチャンなど眼中に無かった頃の初代ウルトラマン誕生時に学ぶ事は多いです。
その点は上原正三氏も非常に危惧されていましたが、制作現場とプロデュースサイドの立場の違いもあり・・・
おもちゃが売れなければ番組も作れない。
特撮ファン永遠の課題ですね

残念ながら私は『デカレンジャー』『クウガ』共々、全話を通じた視聴が叶わず。
飛び飛びの鑑賞で。いやーダメなオタクです
でも、おっしゃる事はなんとなく分かりますよ。
確かに両作品とも、新しいものを作り出そうとする気概に溢れていました。
そこから先はもう、好みの問題でしょうね。

個人的には、どちらかと言うとウルトラ世界が好みの私。
例の「宇宙船」企画にもその嗜好は投影されていますが、それだけではない新機軸を・・・(うーん言いたいけど言えない まー採用は無理なので、7月以降にでもまたお話します)
でもやっぱり、考える所に意義があるのではと。
過去のクリエイター達の苦悩を追体験できるなんて機会、一生に何度もありませんから

私も、今回コメント下さった大佐さん、市川さん、大和少年さんに感謝したいです。
かつて仲間と語り合った熱い日々を思い出し、久々に充実した時間を過ごせました。
本当にありがとうございました。

またおバカな問いかけなどさせて頂く機会もあるかと思いますが、呆れずおつき合い下さいね

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