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2008年4月 5日 (土)

「正義」の「定義」

「久しぶりに劇場鑑賞を予定してるんですよ。インディジョーンズの新作。」
「ええ。でも今回のサブタイトルに使われている『クリスタル・スカル』って、以前から私も温めていたネタなんですよ。先を越されちゃったなーなんて気もあって。まー私なんかが言ってもしょうがないんですが(笑)。」

そんな他愛のない会話を交わしながら進む、午後の番組編集。
やっぱりこの業界、みんなお好きな方ばっかりで

編集マンの彼は、私の番組の組み立てを全て理解してくれています。ですから一度エディットシート(使用カットを抽出した編集指示書)を渡しておけば、任せきりでもOK。
編集卓のキーボードを楽器のように操る彼を後ろで見守りながら、私の頭の中は一つの事に夢中になっていました。
(お仕事をおろそかにしている訳じゃないですよ。押さえる所は押さえます

『宇宙船映像倶楽部』。
先日お話した、雑誌『宇宙船』復活号の読者参加企画です。
概略はこちらを。

4月1日(火)『奇跡の復活』
http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/2008/04/post_94fd.html

『読者の力で作り上げる特撮作品』という企画姿勢にいたく感銘を受けた私は、この所、何をやっていてもこの事が頭から離れないのでした。
本業の番組を作りながら別の作品企画を練る。いつもやっている事ですが、今回はスポンサーや予算の縛りがないだけに発想は自由に広がっちゃって。
昔、ウルトラマンティガの特番企画を夢想していた時も、こんな感じでした。

でも今回は作品研究の特番じゃなく、『作品そのもの』を企画するという夢のようなチャンス。まー考えてみれば、こうして悩んでいる時が一番楽しいんですが。ほとんど実現は不可能ですし。
でも可能性がゼロじゃない所が良いんですよね。ただ企画書をデッチ上げて闇雲に局へアタックするような「勝算無し」じゃない所が。

で、改めて企画依頼の意図をよく読んでみたんですが、今回の「部長」、雨宮慶太監督の提案は、『新しい特撮ヒーロー番組』なんですよ。
『特撮ヒーロー』。この言葉、そしてこの言葉に類する表現を、「ネヴュラ」では今まで何度繰り返したでしょうか。そして私を含め、お仲間や識者の方々も、この言葉に対する思いがいかに強い事か。
まさにど真ん中ストレート、私たちの心を鷲掴みにする言葉ですよね。
『特撮ヒーロー』って。


番組編集も滞りなく終わり編集室を出た私は、局から帰路のミニバイク移動中もずっとこの企画を練っていました。
冒頭の会話に代表されるように、いつも何かをイメージソースとして温めている私は、こういう企画依頼があった時にすぐ出せるよう、「引き出し」を作っておく癖があるんですね。それはディレクターとしての職業病なのかもしれませんが。

ちょっと余談ですが、この『宇宙船映像倶楽部』誌上に於ける企画呼びかけは、放送局の制作会社に対する企画依頼に極めて近いものです。
要は「こういう番組をプレゼンして欲しい」という局からの依頼って、ほぼこの誌面の通りなんです。確かに一般読者向けに丁寧には書かれていますが。
ですから私にとってこの依頼はものすごく分かりやすい。
「ふむふむ。プロット・デザイン・イメージボードか。確かにいい所を突いて来てるね」って感じなんです。番組企画書には最低限必要な項目ですし。
私も企画書を書くときは、これらの項目は外せません。

たとえ『部活』と銘打っていても、宇宙船編集部の意図は「バーチャル番組制作」なんですね。その場からプロを育てたいという気概も、若干は見て取れます。


ともあれ、そんな気概に応えるべく意欲的に取り組みたい企画ですから、色々頭も悩ませているんですが、それなりに引き出しや蓄積されたアイデア・理想とするヒーロー像も無い事はないんですよ。
ところがあれこれ考えているうちに、一つの疑問が湧いてきてしまいまして。

「このヒーロー、一体何の為に戦うんだろう?」

「いつもながらおバカな事を。オタクイーンはそんな基本も分からずにヒーローを作ろうとしてるの?」
そうなんですよ。あい変らずおバカばっかりで
ここの所がどうしてもクリアできない。一体どうしたんでしょうか。
以前はこんな事、考えた事も無かったのに。
「ヒーローは正義を守る為に存在する。正義とは、人々が平和を保つ上の基本理念」みたいな考えがあって、それを何の疑問も持たなかったんです。
まるで空気みたいに。


ここで皆さんに、いつもの質問をさせて下さい。
ヒーローが守るべき『正義』って何なのでしょうか?
今の社会は、一体何をもって『正義』としているんでしょうか?


いや別に、最近の痛ましい事件を糾弾しようとか、その背景を考えてとか、そういう部分に切り込もうという訳じゃないんですよ。
その答えは、とても私のブログなどでは出せないと思いますから。
ところが、『ヒーロー番組』と言われて考えを突き詰めていくと、必ずその部分にぶつかってしまう。設定やディテールなどはいくらでも考えつくんですが、そのヒーローの『目的』が分からない。
実はそれが企画の根幹、企画者の主張である為に、絶対そこはおろそかに出来ない部分なんですよね。


識者の皆さんなら既にお分かりと思いますが、今回の質問、実はかの「ウルトラシリーズ」がずっと模索してきたテーマですよね。
いや、こう言うと語弊がありますね。このテーマは第一次特撮ブームの頃にその萌芽が見られましたが、唯一、問題提起を掲げたのは「ウルトラセブン」だけだったような気がします。
「ウルトラQ」「ウルトラマン」にもこのテーマを採り上げたエピソードはありましたが、ギリギリのところでファンタジーのエリアに落としこんでいたような印象が。
そこがQ・マンが名作たるゆえん、私はそこが好きなんですが。


「宇宙の正義と地球人の正義は同義」というテーマを破綻寸前で乗り切ったQ・マンに対し、「セブン」ではその部分がかなり拡大、辛辣に描かれている事は、皆さんもご存知と思います。
そこが「セブン」の深みであり最大の魅力でもある訳ですが。
地球人の正義を信じたくとも、突きつけられる宇宙正義の前に言葉も無いセブン。二つの『正義』の間に立ち尽くすしかない彼はもはや調停役にさえなれない。
そんな地球人のエゴを見せられるような作劇に、私はついて行けませんでした。
「これがヒーローなの?どこが?」
そんな私の印象を受けたのは、決して私だけではなかったはずです。
セブンに於ける正義とは『地球人のエゴ』に過ぎなかったのでしょうか。
しかしそれがエゴである事に気づき、侵略者と必死に戦うセブンは、最後まで地球人の側に立っていました。


宇宙の正義、言い換えれば『宇宙常識』というグローバルな概念を持ち込み、「それが地球の正義と同義でなくても、地球人は地球正義を押し通す資格があるのか?」という疑問をつき付けたのが「セブン」なら、続く「帰ってきたウルトラマン」に於ける正義は逆にパーソナルな「個」の世界、人間個人の「心」に着目した印象を持ちます。

「初代マンの頃は『一人で十歩歩く』のが美徳だったげど、新マンの頃になると『十人で一歩歩く事』が美徳とされる世の中に変わってきた。」
以前読んだ研究書の記述で、脚本担当のどなたかがおっしゃった言葉と記憶していますが、この言葉に代表される「個」を大切にする姿勢が、新マンの作劇に大きく影響していると思います。


問題作「怪獣使いと少年」などに代表されるように、新マンでは宇宙人の存在が「敵対種」というグローバルな視点ではなく、「個人」というパーソナルな視点で見られているのです。
新マンに於ける正義とは、『個人を尊重し、みんなで一歩歩く事』だったのかもしれません。
それはよく言われる「ウルトラマンの人間化」という部分に大きく表れています。「ネヴュラ」でも何度かお話しましたね。
マン・セブンでは『地球人の守護者』であったヒーローの存在が、新マンでは『地球人と同じ立ち位置』となっているのです。それは主人公、郷秀樹の内面を深く描く作劇に加え、スポ根ブームを反映した「努力するウルトラマン」というイメージによるものかもしれません。
新マンに於ける印象的な敵役・怪獣や宇宙人は、ことごとく「異端を排他する者・異端として排他される者」の象徴、またそういうドラマのきっかけとして登場するのです。


『地球人の正義が宇宙の正義』と主張するQ・マン。
『地球人の正義は、必ずしも宇宙の正義ではない』と主張するセブン。
『個人の違いを認め歩調を合わせる事。それが正義』と主張する新マン。

同じウルトラシリーズでも、作品毎に『正義の定義』が違う。


さらに後発のシリーズでもことごとく正義の捉え方が異なる事は、皆さんもよくご存知と思います。ウルトラ一つとってもこれだけの『正義』があるのです。
(個人的には「ティガ」で模索される正義のあり方など、非常に興味深いですが)
ましてや仮面ライダーなど他のシリーズを加えれば、それこそ『ヒーローの数だけ正義がある』と言わざるを得ません。
一体、彼らは何をもって『正義』としているんでしょうか。


いや、こう言うと語弊がありますね。
彼らの正義はあくまで一つ、人々の平和な生活なのかもしれません。
しかし番組のテーマがそれを許さない。
おそらくその正義が番組のテーマと一致出来たのは初代マンまででしょうから。


「ヒーローは何の為に戦うのか?ヒーローが信じる正義とは?」
言い換えれば、ヒーローが信じる「人々の平和」という正義と番組テーマの関係ですね。その正義を肯定するのか、否定するのか、別のテーマを提示するのか。
実はここが一番難しい。

さらに、この悩みが見当違いであるような雰囲気さえ漂ってきます。
というのは、最近のヒーローは既に「正義を遂行する」という目的を持っていない印象があるからです。


たとえばウルトラマンメビウス。
一応それなりに見ましたが、あれは『正義』という部分のテーマは脇に回って、地球を道場としたメビウスの「修行」やウルトラ兄弟の「地球に対する思い」、そして「地球人とウルトラマンとの交流」がメインとなってますよね。

テーマは『正義とは何か』じゃなくなっているんですよ。
何と言うか「正義というテーマは難しいし、やはり子供には「地球の正義が全て」と言っておきたいから、とりあえずそっちのテーマは置いといて」という風に見えちゃうんですよね。
かつてセブンで提示された問題から逃げているような印象があります。
それは子供番組としては正しい姿勢かもしれませんが、そうなるとウルトラ兄弟の客演が無ければ成立しない。
一度きりのミラクルプレイと言えるかもしれません。


たとえば平成ライダー。
私は「カブト」までしか見ていませんから大した事は言えませんが、彼らのライダー能力は完全に「アイテム化」していますね。
ちょっと威力の強い拳銃を手に入れた程度の設定。

難しいのは、そういうアイテムを手に入れ、仲間内でいざこざを起こしているだけの主人公が「ヒーロー」と呼べるのかどうか、という事なんですね。
かろうじてヒーローの体裁を保っていられるのは、その主人公が貫くルールが正義側に偏っているから。そんな危ういバランスで成立しているドラマ構造のような気がします。
二人のライダー同士の戦いを止めるため変身する三人目のライダー、なんてシーンを、いったい何回見たことでしょう。
私にはそれがただの「ハイパー・ケンカ」に見えてしまう。
非常に小さい世界のお話に見えてしまうんですね。


『じゃあ一体、このヒーローは何の目的で戦うのか?』

私の古い頭では、ヒーローの目的は「正義の遂行」以外に思い当たらないんです。私が突き当たってしまった疑問が、何となくお分かり頂けたでしょうか?


やっぱりヒーローとなる者には正義の心があり、正義を遂行する事が作品の主軸となって欲しいと。それが逆説的にテーマを語るものであっても。
ヒーローは『英雄』という意味なんですから。


「何の為に戦っててもいいんだよ。正義の為でなくても。それが結果的に地球平和に繋がれば。大上段に正義を語るヒーローの方が嘘くさくない?」
そんな声も聞こえてきそうですね。確かにそうかもしれません。
それが時代の流れと言われれば仕方がありませんが。


ただ、たとえそれがセブンで提示された問題であり、今だに答えが出せない問題であっても、一度提示されてしまった疑問から逃げるわけにはいかないじゃありませんか
実はこの問題、昨年NHK-BShiで放送された「怪奇大作戦セカンドファイル デウスの銃爪」でも語られています。ストーリーの主軸とは別の部分ですが。
『今、地球上で起きている紛争や内乱は、全て正義と正義の衝突。』
確かに現実世界では、正義は相対的なものですよね。こちらが正義と思っても、相手から見ればそれは悪、暴力や侵略に見える事もある。
セブンはそこを突いたわけで。
現実世界のこうした問題をヒーロー番組に持ち込む事は、果たして無謀だったのでしょうか。この問題を回避したかに見えるQ・マンでも、やはりどこかしら現実の影が刺していることは、今さら言うまでもないと思います。


今のヒーローは、正義を遂行する必要など無いのか?
もし遂行する必要があるなら、その正義の「定義」とは?
光線で怪獣を破壊することが「生物虐待」と批判される現在、この問題は本当に難しいと思います。
その答えは「ウルトラマンコスモス」が正解だったのでしょうか?


舌足らずで申し訳ありませんが、今、私は、自分の企画にこの問題を採り入れるかどうかを悩んでいます。
完成した企画にそれが活かされるかどうかは分かりません。

やっぱり「問題を避け、爽快なストーリーにしちゃお」となるかもしれませんが。
見るからに邪悪な風貌を持つステレオタイプの悪に、ただ地球の平和だけを信じて戦うヒーローですね。
ただ、今それをやると、今度は「かつてのヒーローのパロディ」「お笑いネタ」に見えてしまうという落とし穴が待っています。これも避けたいですし。


いやー、今の時代にヒーロー番組を企画する事が、こんなに難しいなんて。
「正義」の「定義」。皆さん、どう思われますか?

こんな事を真面目に考える私がおかしいんでしょうが

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宇宙船映像倶楽部」カテゴリの記事

コメント

 「ハイパーケンカ」‥‥。まったくおっしゃる通りです。言い得て妙ですネ(^o^)

 私は『カブト』の途中から見なくなりました。最初はライダーシリーズに宇宙からの侵略者(?)や、地球を守る組織の戦闘員(?)が登場したことに斬新さを感じ、興味を持って見ていました。絶対的な信念を持った主人公は、近年のライダーのように悩みを抱えていない分、各エピソードの結末に爽快感がありました。地球の平和を脅かす「絶対的な悪」が登場することによって、ライダーの「ブレない正義」が描かれていたように思います。
 ところが「組織の謎」が提示されてから「ハイパーケンカ」の様相を呈してきて、またギャグ中心のエピソードに違和感を感じるようになったので、私は見るのをやめてしまいました。

 『龍騎』は「ハイパーケンカ」によって何が描かれようとしているのかわからず、早々に見なくなりました。『剣』は「ハイパーケンカ」や「組織の謎」の部分はありましたが、ライダーの「闘う意義」が最後までブレていなかったので、最後まで見ました。『クウガ』『アギト』『555』は面白かったです。
 こうしてみると、私はオタクイーンさんの指摘されている「正義の定義」を、自分でも知らないうちに「ヒーローが闘う意義」ということに変換していたように思います。

 また、暫定的に「正義」という表現を使わせていただきますが、「正義側の組織・仲間」に「謎」があると、信頼感や爽快感が失われ、私は急速に興味を失うようです。現実の世界でも信頼感が希薄になっているように感じられるのに、わざわざフィクションの世界でそれが描かれなくてもイイのに‥‥と感じてしまいます。子ども向けに「現実とはこういうものだヨ」と教育しようとしているのでしょうかネ。それでは「夢」が無いというか、エンターテインメント性に欠けているというか‥‥。「イヤなら見なければイイ」という意見は当然で、だから私は見るのをやめているわけなんですが(^^ゞ 『クウガ』の五代くんが言った「『キレイゴト』が一番イイんだもん」というセリフこそ、「現実世界の矛盾」を鋭く突いた視点だと思うのです。私はそこに「夢」を感じます。

 「正義側の謎」といっても、「『劇中の登場人物』にとってミステリアス」なヒーローというのは魅力があると思います。ただし、視聴者にとっては身近な存在でなければ、そのヒーローを「ぼくらのヒーロー」として受け入れられないのではないでしょうか。『月光仮面』のキャスト・クレジットの「?」や、イデがウルトラマンの正体を疑うシークェンスなどに、視聴者は「その正体を知っている」という優越感にニンマリしていたことを思い出します。

 というわけで、私が考える「正義」なんですが、積極的に「平和を守ること」だと考えています。しかし、「平和を守る」ということは「現状維持」のわけですから、これには同時に「社会的弱者を救う」という視点が抜け落ちていることも自覚しています。ん~、やっぱり「正義」が揺らいできてしまいますネ‥‥。

 「ヒーロー『番組』」という「フィクションの世界」を構築するには、あまり現実に囚われていては成立しないということでしょうか。「殺人・誘拐・詐欺・窃盗・破壊(・侵略)」などの「悪」がきちんと描かれていれば、それらを阻止または解決するヒーローが「パロディ」に見えることはないとは思いますヨ。
 「怪獣」というあまりにも現実離れした巨大なフィクションの生物に対して、「生物虐待」という概念を適用するのもおかしな話だと思います。だからその解決方法も現実離れしたものになってしまうのではないでしょうか。シロナガスクジラやアフリカゾウが人間社会を破壊する日がやって来るのかもしれませんが、彼らのテリトリーの環境破壊をやめ、元の世界に帰してやることくらいしか、対処の方法は無いでしょう。

 いつも通り、とりとめのない話でごめんなさい。結論的には「仮想の『悪』」を創造し、それを解決させるのが、「正義のヒーロー」を存在させる有効手段の1つでしょう。

「仮面ライダー(旧1号)」の企画の際、
「正義はやめよう。ナチスだって『正義』と言っていたんだから」
と言う意見があり、「自由の戦士」となりました。
(OPナレーションでも、「人間の自由のために」と明言されています)
以後、東映特撮ヒーローは、「自由を脅かす悪の組織が出現→ヒーローがそれに立ち向かう」と言う、対処療法的な構造になっています。
 
平成ライダーは、「アギト」が余りにもヒドかったので、以後は見ていません(「強化服ヒーロー」化していますし。「電王」のみ、#40までみましたが)。
まぁ、「ハイパーケンカ」と「思わせぶりな謎」を見せられるので、ウンザリです。
 
ウルトラシリーズは、「80」の序盤までですね、見たのは(「メビウス」除く)。「他力本願」なフォーマット、「セブン」・「新マン」で提示された「正義への疑問符」が解消されていませんので。
(「他力(ウルトラヒーロー)本願」なのは、やむを得ない措置でしょうけど)
 
日本語訳されているアメコミでは、
「ウォッチメン」、
「バットマン ダークナイト・リターンズ」、
「バットマン ダークナイト・ストラトスアゲイン」あたりで、「個人の正義と社会の正義の対立」等が描かれています。
(ヒーローが承認制になっていたり、モグリのヒーローがいたり)
 
「新しい特撮ヒーロー」は、難しいですね、オリジナリティが。
 
まとまりがなくてすみません。

「正義」とは、相互理解を希求し共生する精神だと思います。
この定義を物差しにすると善と悪が見えてくるのでは?

なかなか難しいテーマに取り組まれてますね。
「善と悪」の二元論でなく、「正義」となると、政治・経済・環境・人種・道徳・教育・福祉・信仰など、関連する要素が多いですからね。
又、置かれた立場や状況でも変わるモノですし、それこそ、100人いれば100通りの「正義」があるのだと思います。

強いて言うならば、「正義」とは、「公正平等であること。害悪を羞じること」でしょうか。
但し、私的には正義=善という解釈にして貰った方が、判り易くて良いです(笑)
JUSTICEでなくGOODNESSの方がしっくり来るかなと。
あくまでも人類目線(コレも正義に反するかも)ですが。

ウルトラマンXX、仮面ライダーXXって、一体何でしょう?
「冠」としてウルトラマン、仮面ライダーというプロットを使っている以上、基本に対する単なる応用編という事なのではないでしょうか?
ウルトラマン(或いはウルトラセブン)、仮面ライダーという基本設定が成り立っているからこその、ウルトラマンXXであり、仮面ライダーXXなのです。

ウルトラマンにおける、「怪獣対(何故か地球を守ってくれる)正義の宇宙人」、仮面ライダーにおける「本当は悪の手先として改造されちゃったけど、正義の心を失わなかったので、悪の秘密結社と戦うことになった改造人間」という基本プロットが出来上がっている上での、新シリーズという事です。

だからこそ、応用編には様々な応用が求められています。いや、本当は何も求められていないはずなのですが、作り手が勝手に誤解しているんですよ。基本から何かを外さなくてはいけないと。

我々オリジナル世代は、ウルトラマンという基本を熟知した上でメビウスを作り、それを見るわけです。メビウスには確かに正義がテーマではなかった。しかし、我々はウルトラマンの基本プロットを知っているから、ある意味でメビウスは楽しめるのです。
でも、子供達にとって、それらの応用編はどう映るのでしょう?
私はオタクイーンさんとは別の意見で、これは明らかに間違っていると思うのです。
初めてウルトラマンを目にする子供が、メビウスだったらどう思うのでしょう?
それが平成ライダーでも同じこと。何が何だかわけが分からないと思いませんか?

ウルトラマンシリーズの中でも、平成ウルトラマンの幕開けとなったティガは、基本に立ち返って「地球を守る正義の人」という印象が強くありました。だからこそ、平成ウルトラマンシリーズでは比較的人気になったのだと思いますし、第一、非常に分かりやすかった。
しかし、ティガが終わり、続編が出てきた時点で、その分かりやすさは段々と影を潜めてしまいます。

作り手は、同じものを作り出す事に抵抗があるんです。前作とは何か変えなくてはならない。だからこそ、ウルトラマンXXも仮面ライダーXXも、どんどん「変格」になっていき、「本格」性を欠いてしまい、結果として子供からも大人からも受け入れられなくなってしまう。
そのテコ入れのために、お母さん視聴者をゲットしようとしてイケメン俳優ばかり使おうとする今の仮面ライダーは最早仮面ライダーではなく、敢えて厳しい事を言うならそれは特撮番組でもありません。

今回の宇宙船の求めているものは、「ウルトラマンXX」でも「仮面ライダーXX]でもありません。新しいヒーローです。
そこに求められるプロットは、子供達にも分かりやすくシンプルで力強い「正義」で良いのではないでしょうか。
ヒーローとは正義の遂行のために戦うのです。いみじくも、昨年アメリカで大流行したテレビドラマ「ヒーローズ」では主人公の一人「ヒロ」はニューヨークの爆発を阻止するために身を挺して任務を遂行しようとします。実に分かりやすいプロットです。
この番組はたくさんのキャラクターが複雑に絡み合って、非常に複雑なストーリーを展開し、そこが面白い部分でもあるんですが、プロットの芯は実に単純明快です。
だからこそ、この番組は面白く、成功したんだと思います。

オタクイーンさんの悩みは、多分、新ヒーローの監督として、いきなり実相寺昭雄を持って来ているからなんじゃないでしょうか?
実相寺は優秀ですが、あくまでも「変格」派。優秀な本格作品の中に一点、異質なものとして浮き上がっているからこそ魅力があるんです。全話実相寺監督作品だったら、混沌としすぎて何が何だか分からなくなると思います。
まず、新ヒーローを作り、それを撮ってもらうならば、監督は飯島敏宏、野長瀬三摩地、円谷一といった正統派であるべきかと。

単純明快なものがあるからこそ、それへの悩みを表現することが生きるんです。
その基本をないがしろにしているから、今のウルトラマンも仮面ライダーも全然面白くないのだと思います。
基本を基本どおり作るというのは作り手にとって一番難しいんだと思います。だから安易に応用編に行ってしまう。しかし、基本をシッカリと作っていないと、面白いものにはなりません。
そういう事なんじゃないでしょうか?

長文失礼致しました。

自由人大佐様 長文の上熱いコメントありがとうございました
「ハイパーケンカ」の表現は、以前からかなり頻繁に、周りの仲間には口走っていた事でしたが、今回皆さんに受け入れられるかどうか心配でした。
「一面的すぎる」なんて逆風が、鬼のように吹くかと思っちゃったりしたもので
でも皆さん、やっぱり同じ事を感じられていたようですね。ちょっと安心しました

大佐さんとは逆になっちゃいますが、実は私の中での平成ライダー(現時点での)最高傑作は『龍騎』なんですよ。ただ誤解されると申し訳ありませんが、私は『龍騎』をヒーロードラマとして見ていないんですね。

『バットマン』が「心にトラウマを抱えた病める男のアクションドラマ」であるように、私は『龍騎』を「それぞれの事情を抱えた若者が、ハイパーケンカの末に見るもの」と捉えていました。事実『龍騎』最終回では、ライダー同士の戦いについて「そこに正義はない」というセリフまで登場します。言わば『龍騎』は、初代ライダーとは真逆の世界を描いているんですね。ですからあれは、私の中ではヒーローではありません。
ただあそこまで「単なるサバイバル戦」に徹底していると、かえってヒーロードラマの呪縛から離れて見る事が出来て、非常に面白かった印象があります。
上手く言えませんが、ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の『CUBE』を観ているような感覚だったんですね。その不条理性も含めて

しかしながら、今回私が考えている「特撮ヒーロー」とは、そういう『正義の無い世界』ではありません。
確かに大佐さんのおっしゃるように『正義とは平和を守る事』である事は間違いないんですよ。古今東西、どんなヒーローを採り上げても、その目的は一つなんです。
ところがそこで頭を悩ますのが、『誰の平和を守るのか』という所なんですよね。

地球温暖化をはじめ、今、地球が抱えている問題は、『地球人が地球の危機に拍車をかけているかも』という部分に集約されていますよね。ですから、地球にとって地球人は必ずしも善ではなくなっている。
『地球の平和』と『地球人の平和』にズレがあるんです。

確かに私も地球人の端くれですから『地球人の平和』を第一に考えてはいます。
ただ、もしその平和を守る事が『正義』としたら。『地球そのもの』を犠牲にしても地球人の平和が優先されるのかという部分に、非常に疑問を感じてしまうんですよね。
「いやー。地球がなくなっちゃったら地球人の平和も無いんだから、地球人の平和=地球の平和でしょう」とも思いたいんですよ。絶対に。
特に私のような小心者は
でもここ数年、その考えに警鐘を鳴らす作品も続出しています。『ガメラ2 レギオン襲来』なんて、ラストのセリフはそのまま問題意識の表れですしね。

今、そこまで問題意識が高まっている状態で、「ウルトラマン」の頃のような「明るい未来志向」の作品が成立するのかという部分が頭から離れないんですよね。
おバカな話ですが

そこをどう処理するのか。『地球の平和=地球人の平和』という、難しい方程式を成立させるにはどうすればいいのか。対立する『悪』とは何を指すのか。
確かに「犯罪」という分かりやすい図式を用いれば、「善と悪」は描きやすいとは思います。しかしそれは『地球人の尺度』でのお話であって、例えば「ティガ」第6話「セカンド・コンタクト」のように、友好の証として相手を食べてしまう存在は善なのか悪なのか、というところまで切り込めないかと考えている訳です。
たとえその末、ホリイ隊員のように「考えるのやめた」となっても

難しいですよね。本当はそこまで考える必要はないのかもしれません。おっしゃるように『仮想の悪』を創造する事も考えました。でも正義の定義がブレているのに、悪の定義が成立する訳がなく
いつもながら、考えすぎなのかもしれませんね。
一度頭を冷やし、もうちょっと単純に発想してみたいと思います。

ともあれ、大佐さんのご意見は大変参考になりました。おっしゃる事もよくわかります。ありがとうございました。
実はこういう風に「正義」について意見を交わす事こそ、今回の企画の最も素晴らしい所なのかもしれませんね。

数々の非礼、お許し下さい。
舌足らずの部分もあります。決してご立腹なさらぬよう。


ゲッターピジョン様 そうですね。確かに『仮面ライダー』企画時、「正義」じゃなく「自由」というやりとりがあったのは事実のようです。
いやー忘れていました。ありがとうございました。

確かに、「正義」は数多くありますが、「自由」は一つですもんね。
考えてみると、東映ヒーローの敵役がことごとく組織編成なのは、おっしゃる所の『ナチス』のように、自由を脅かす存在を象徴しているような気もして興味深い所です

私の企画は現代社会を舞台として考えているんですが、現代社会で『自由を脅かす存在』って何でしょうか。ヒーロー作品は現代社会のメタファーなので、そこがクリアできれば、それはそれで面白いものが出来そうな気がします。

平成ライダーがある種「お気楽過ぎる」のは、そこに「二度と人間に戻れない存在の叫び」が無いところでしょうね。確かに「強化服ヒーロー」ですし。
怒りや悲しみ、命のやりとり感が全く伝わってこないのは、その設定による所が大きいと思います。
そういう意味で平成ライダーは、「ライダーの名前を使った別のドラマ」なんでしょうね。
どの平成ライダーも「自由の戦士」じゃないところが、この現実を明確に物語っているような気もします
「思わせぶりな謎」は・・・
あれはもう仕方が無いでしょうね
きっと当事者のスタッフでさえ、自分で提示した謎が解けないんですよ。あれは不可抗力かもしれませんが、それにしたって無責任ですよね。私も思います

多くの方も思われているでしょうが、ウルトラヒーローで新しい活路を開いたのは、「ティガ」だと思うんですよ。あの最終三部作。あれだけはウルトラヒーロー永遠のネック「他力本願」の呪縛から逃れていると思います。
ただ、以前拙ブログでも書いた事ですが、あの最終話は「ウルトラシリーズ全体の終焉」になってしまった気もします。
あれを目にしたら、その後のどんなウルトラヒーローも嘘に見えてしまう。
いかに「メビウス」と言えど、私の中ではティガを超えていません

「バットマン」の世界なら、「個人の正義と社会の正義の対立」が描けるかもしれませんね。私は未見なので、非常に興味深い所です

G-0様 正義とは「相互理解を希求し共生する精神」。
なるほど。おっしゃる通りです。
という事は、相互理解を拒否する者に対してヒーローは立ち向かう訳ですね。
とすると、今の人類は必ずしも「正義」を遂行しているのか?そこですね。ハードルは。

かなりペシミスティックな考えですが、ひょっとして人類は、「正義を目指して間違いを繰り返す存在」なのかもしれません。そこをどう表現するのか。
やはり現実とフィクションには線引きが必要なんでしょうか。
難しいところです

メルシー伯様 「正義=善」という解釈も確かにありますね。
そういう視点を頂いたのでちょっと考えてみたんですが。

『正義の味方』とは言いますが、『善の味方』と言わないのは何故なんでしょうか?
いや、私も分からないんですよ。本当におバカで。
正直な気持ちです。他意はありませんので誤解なさらぬよう。
やっぱり、微妙にニュアンスが違うからなんでしょうか。

簡単には結論も出ませんのでちょっと置いておきますが
「公正平等」「害悪を羞じる」は今や、ヒーロー世界でも死語となりつつありますね。
アクションやバトルに特化しすぎて、その精神が置き去りにされている。
これは大変危惧すべきことと思います。
思えば、国産初のヒーロー番組・月光仮面のキャッチフレーズは、『憎むな。殺すな。赦しましょう』でした。
実はこの精神が、今のヒーロー番組に最も大事な物なのかもしれません。
私が守っているという訳じゃありません。私だって決して清廉潔白、聖人のような毎日を送っているわけじゃなく

その言葉は確かにお説教じみていますが、ヒーロー番組は決して「アクションゲーム」ではないはず。そこには確固たるメッセージ性が必要と考えますから

 『ウルトラマンガイア』には地球の平和を守るために、「排除すべきもの」として「人間」が採り上げられていました。それに向かって藤宮=アグルは行動を起こしたわけですが‥‥。
 ある意味では私もその意見には賛成です。これだけ環境破壊を繰り返し、便利になり過ぎた生活は後戻りできない状況では、地球の最大の悪者は「人間」なのかも‥‥。今度はガメラの敵になってしまいそうです^^;

 藤宮の行動の根拠は、コンピューターが何者かに操作された結果だったというのは、安易な解決でした。もっと追究するとおもしろい命題でしたが、子ども番組には難しかったのでしょうか‥‥。子どもの「夢」を壊しかねませんし‥‥。
 環境破壊の問題意識の種を子どもたちに植え付けられそうでしたが、解決がウヤムヤになってしまったので、印象に残らないものになってしまったのは残念です。この種が花を咲かせるようには思えません‥‥。

 ただ、この地球が人間も(自然の象徴としての)怪獣も共存していかなければならない惑星なんだ、という最終話の主張は良かったと思います。


P.S.
 日本人にとっては「liberty」と「freedom」の違いが理解されにくいので、「自由を守る」というのは誤解される危険がありますネ。「自由≠自分勝手」ということが前提になっていないと、せっかくの「自由を守る」という設定が、ただの我儘に誤解されてしまいます。

雀坊。様 長文のコメントありがとうございました。
さすが雀坊。さん。しっかりしたご意見に感服しました

ウルトラ・ライダーについては、以前は私も、雀坊。さんのような意見を持っていたんですよ。ところが以前、ちょっとしたきっかけで考えを改めまして。

私の友人も、既に結婚し子供を持つ者が多く居ます。彼らも私と同じくオタクですから、当然のように子供には「オタク英才教育」を施すわけですが、子供にはそれなりに旧作、新作取り混ぜて見せていると言うんですね。
で、子供の反応を窺っているそうなんですが。
予想に反して、子供は初代「マン」「ライダー」も、それぞれの最新作も分け隔てなく楽しんでいると言うんです。
この反応には私もちょっと驚いちゃったんですが、結局、子供って、「訳がわからない部分はスルーする」という鑑賞テクニックを持っているんですね。
「変身」「アクション」部分だけで番組の「印象」を決めている。
要は彼らの頭の中は、「ウルトラファイト」状態なんですよ
(「メッセージ性」は別として)

私達オリジナルファンだって、生まれて初めて実相寺作品を見た時は「ウルトラマンの1エピソード」という位置づけで、別に芸術性がどうの、メッセージの先鋭性がどうのなんて考えもしなかった筈なんです。
(私だけだったらごめんなさい。昔からおバカをこじらせてるもので
ですから現在のウルトラ・ライダーは「オリジナルを知る世代にはその差も目立つけど、子供にはそれが新たなオリジナル」なんじゃないかなーなんて思っちゃったんですね。

社会に出て、別の年代の人たちとお仕事をしていても思うんですが、ウルトラやライダーって長いシリーズなので、年齢によってどのシリーズを見ていたかが異なりますよね。
「初代が一番」「いや私は帰りマンが」「Aこそベスト」こんな会話を何度繰り返したでしょうか
結局、子供時代、感受性が一番強かった時代に出会ったヒーローが、その人にとっては「オリジナル」なんですよ。これは動かしようがありません。

また、私は以前、特撮作品を多く採り上げる番組のスタッフと親交があったんですが、番組を見て彼の所に届くファンレターに書かれた「思い出の作品」の多様さと言ったら
「タロウ」を見てウルトラファンになったという人だって居るんです。
「タロウ」だから良かったんだと。
それが初代マンだったら、その人がウルトラファンになったかどうかは誰にも断言できない。「電撃ストラダ5」「魔人ハンターミツルギ」だって、確実にファンは居る訳です。
作品の物差しは人によってこれだけ違う。
ですから確かに「オリジナルを知るファンから見ると云々」とは言えても、一概に「間違っている」という事は言わないようにしているんです。
以前から拙記事で書いている「好き嫌いは言えるけど、良い悪いは人それぞれ」という主張はその為です。

さて。いつものようにお話が逸れすぎちゃいましたが
ただ前述のように考えれば、「それなら正義の定義なんて深く考える必要は無いんじゃ?」なんて思われるかもしれませんね。ところが、おっしゃる通り「新しいヒーロー」というのは、「新しい視点」が求められるものなんです。
その視点とは「基本の捉え直し」じゃないかと思うんですよ。
「パッケージングの新しさ」と言えるかもしれません。

「ウルトラマン」と「仮面ライダー」。今も続くこの特撮二大ブランド(「戦隊」はゴレンジャーの時点で私はNGでしたので、ここではごめんなさい)って、同じ「戦うヒーロー」を扱っていながら「戦う理由」が違いますよね。
私が模索しているのは、この違いに匹敵する、いや、超える「新しい視点」なのかもしれません。その切り口の一つとして「正義の定義」を考えたと。
別に実相寺視点を狙ったわけじゃないんです。もっと大きな視点で見たいんですね。

例えば今回の「宇宙船映像倶楽部」の部長、雨宮慶太監督の諸作って「基本」でしょうか?正直言って、私は雨宮作品は肌に合いませんが、見た感じ「基本」ではないと思います。ヒネリが中途半端だからじゃないかと思うからです。
そこを突き抜ける事。一回転させる事。
「こんな見方があったのか!」と思わせたい。
それは実現できないかもしれませんが、それを目指す意識は必要だと思うのです。
「ライダー」が「ウルトラ」の逆の発想から生まれたように。

まーこんな事言っていても、所詮私ごときの実力ですから、大した企画にはならないと思います。
でも、目標の1%程度しか形に出来ない実力なら、目標そのものを大きく持てばいいじゃないのと。そうすればおのずと形も大きくなると。
それが私の浅はかな考えです。おバカですねー

不勉強で「ヒーローズ」は未見ですので、作品について語れない無礼をお許し下さい。いずれ機会を見て鑑賞しようと思っています。そこできっと、雀坊。さんの真意が理解できると思います。
「すす、すみませんでした」とひれ伏しちゃうかもしれませんので、その時はお許し下さいね。

こちらも長文失礼しました。有意義なやり取りができ、感謝します。
ありがとうございました

自由人大佐様 そうですね。
確かに「ガイア」に於けるアグルの立ち位置はそこでしたね。
私は「ガイア」は前半でリタイア(自宅テレビ受信状態の関係で、TBS系の映りが著しく悪く)したんですが、そのメッセージが失速してしまったのは残念ですね。
そこがうまく、お説教にならずに描けていれば、新しい局面も見えたと思います。
「人類と地球の両立」というテーマを描くという意味で。

ところが次回作「コスモス」では、ウルトラマンは怪獣を倒さない。これは前述の「地球との共生テーマ」を引き継いだ作劇だったのかもしれませんが、これを見て「ウルトラマンの存在意義」について考えてしまったのは私だけでしょうか?
怪獣と戦わないウルトラマンって必要なの?と。

これは前述のテーマ、また今回の「正義の定義」と反するような気がしますが、これもまた視聴者の偽らざる心情だったんじゃないかと。
要はエンターテイメントである以上「テーマとカタルシスの両立」も必要と言う事ですね。

実に難しい。「相互理解に暴力は必要なのか」という部分まで踏み込むと、もうヒーローの戦闘シーンは不要にさえなってしまう。
きっとどこかで、線引きは必要なのでしょう。
そのさじ加減を考える事。それも今回の企画の大きなファクターです。
ああ悩みは果てしなく

「自由と我儘の違い」も難しいですね。現在の日本は自由が横溢しているので、形として自由を描けないのが難しい所です。その描写を不自然に強調してしまうと、おっしゃる所の「我儘」になってしまいます。

いやーヒーローを考える事で、今の世界、私たちが置かれている状況がよく分かりますね。この企画は予想以上に、私の頭を活性化させてくれるようです

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