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2007年11月 3日 (土)

黒き同胞

「ネヴュラ」休止中、数多く映画を見た事は、数日前にもお話しましたね。
中には久しぶりに再会し、新たな私見に繋がる作品も何作かありました。

単体で作品を評価できず、いつもその製作背景や他ジャンルとの関連付けに興味が湧く私は、こじつけと言われながらもそんな偏った方向へいつも走ってしまうのです(笑)。

今回、何度目かの鑑賞を果たした「バットマン」(1989年米 ティム・バートン監督)も、そんな一本でした。
読者の皆さんもよくご存知のこの作品、公開当時、私の街の駅前には実際撮影に使われた(と言う触れ込みの)実物大バット・モービルが展示され、迫力負けしてしまった私はその場で前売り券を買ってしまった恥ずかしい記憶があります。
昔から単純な私でした(笑)。

Photo_14公開初日、本国アメリカで大ヒットという前評判を胸に意気込んで劇場へ向かった私でしたが、これが予想に反して初回待ちのお客さんの列が異常に短い。
「初日、劇場に長蛇の列!バットマン、日本でも大人気」的なニュースを当て込んでカメラを構える報道陣の苦笑の前で、私は肩身の狭いを思いで列に加わっていました。
その後、初回上映を鑑賞後の私の印象は。
これ、実に「微妙」な感覚だったんですね。

私が受けたこの感覚をお分かり頂くには、少し当時の時代背景を補足する必要があるでしょう。
Photo_15「バットマン」が公開された1989年。これより以前のアメリカンヒーロー・ムービーは、「スーパーマン」(1978年米 リチャード・ドナー監督)に代表される超大作が当たり前でした。
さらに時を前後して製作されたスター・ウォーズ後期三部作、またインディジョーンズシリーズなどの大ヒットにより、世界的に一種のレトロヒーロー・スペースオペラ・また冒険活劇など誰もが楽しめるアドベンチャー作品のブームが起こっていたのです。
「ジェットコースター・ムービー」なんて言葉も流行りましたよね。それらの作品に見られる、予算を大量につぎ込んだ超豪華なキャストやハイテクノロジーを駆使した特撮、一点の曇りもない娯楽性重視の作品群に慣らされ、私たちはアメコミヒーロー物と言えばこういうポップコーン・ムービーばかりだと思い込んでいたのです。
「バットマン」の公開は、そのブームもやや沈静化したエアーポケット的な時期だったように記憶しています。
ヒーロー作品が影を潜めた時期、その独特のカタルシスに飢えていた私たちはそのニュースに飛びつきました。
「また、あの爽快感溢れるアメコミの世界に浸れる!」ファンはそう信じて疑わなかったでしょう。しかもジョーカー役はあのジャック・ニコルソン!かつての「スーパーマン」でのマーロン・ブランドに匹敵するほどのビッグ・ネームの登場に込められた製作陣の気合に、その期待はいやがおうにも高まっていきました。


しかしながら公開された「バットマン」の世界・そのストーリーは、予想を全く覆すものでした。

Photo_16昼なお暗く、暗雲垂れ込める犯罪都市、ゴッサム・シティーに暗躍する「怪人」バットマンと、工場廃液の影響で地元のギャング幹部が狂人(超人ではなく)した「地獄の道化師」ジョーカーとの戦い。
文章化するとそれなりに期待もできそうなのですが、実際の作品はカタルシスよりも登場キャラクターのフリークス性が強調され、従来のヒーロー作品とはかなり趣を異にしたものだったのです。

後に、それは監督を務めたティム・バートンの資質や、当時アメリカで再評価されつつあったバットマン本来の姿、「暗い犯罪ストーリー」という事が分かってきたのですが、そういう背景を全く知らずに鑑賞に臨んだ私などにとって、このあえて爽快感を排除したような作品世界はまさにサプライズ、たちの悪いブラックジョークでも見せられたかのような後味を残したのでした。

当時、鑑賞した仲間たちの反応も実に様々で。
「バットマンは面白くない。強くないもん。」
「ジョーカーの振る舞いはじめ、作品そのものが笑わせたいのか興奮させたいのか判然としない。クライマックスの「ロング拳銃」なんて、どう受け取っていいものか?」
「アメリカで何故ヒットしたのか、その理由が理解できない。」
なんて、散々な言われようでした(笑)。


要は、それまで日本人が体験した事のないアメコミ世界だったんですね。
主人公はみんなに愛される正義の遂行者で、圧倒的な超能力を持ち、運さえ味方に付けて絶対的な悪を粉砕する暗黙の不文律から「バットマン」は大きく外れたものだったのです。
当時、皆さんはこのティム版「バットマン」にどんな印象を持たれたでしょうか?


実は、へそ曲がりな私はこのティム版バットマンに心酔してしまったクチでした。正直「スーパーマン」「スター・ウォーズ」より好きなんです(笑)。

Photo_17本国アメリカ同様、それまで日本でバットマンと言えば、あのアダム・ウエスト主演のテレビシリーズが圧倒的な知名度と人気を誇っていましたね。映画化もされました。
私もあの番組は大好きで、今でもバットマン役・広川太一郎の「真面目な口調でおちゃらける」バット・トークをよく覚えています。

たしかに荒唐無稽ではありましたが、私があの番組から受けた印象はあくまでヒーロードラマ、古きよき時代のアメリカを感じさせる良質の英雄譚でした。あの明るいキッチュな世界の住人、バットマンを信じていたそんな私にとって、あのダークかつヒーロー性を削ぎ落としたティム・バットマンは、まるで冷や水を浴びせられたような衝撃だったのです。

そのショックの中でも特に大きかったのは、「バットマンが作品内でヒーロー扱いされていない」という事でした。このゴッサム・シティーの闇を駆ける「コウモリ男」は、犯罪者としてマスコミからマークされる程のサイコ・キャラクターとして描かれているんですね。

悪の汚名を着せられながらも犯罪者達から恐れられる恐怖の存在。
ゴッサムのマフィアたちが彼を恐れるのは彼が正義の元に犯罪を暴き、その罪を白日の下に晒すからではないのです。


「悪には容赦しない。」この狂気にも似た信念が、今も衰えないバットマンのハードで危険な魅力なのでしょう。
私はこれにやられてしまいました。ジョーカーやペンギン、キャットウーマンなど、その後に続くサイコ・キャラクターの影に隠れてしまうきらいもありますが、バットマン自身もまたジョーカーらと同じ、一歩間違えば危ない道に片足を突っ込むサイコ・キャラクターなのです。
私はその危うさに、たまらない魅力を感じます。


ところで思うんですが、アメリカではスーパーマンと並ぶ人気を博すバットマン、日本での人気は今ひとつですよね。何故なんでしょうか?
ちょっと考えてみましたが、これはやっぱりバットマンが「日本人が理想とするヒーロー像」とはかけ離れているからと思うんですよ。

どんな姿をしていてもヒーローの心は清廉潔白、悪とは正面切って堂々と対決する。後ろから不意打ちなんてもってのほか。自分は不利な立場に立っても敵より優位な立場には立たずフェアプレー。倒した相手にも慈悲の心。日本のヒーローは常にそういう「潔さ」をとも言うべき条件が求められています。
前回お話した「仮面ライダー」にも、その伝統は継承されていますね。
「バットマン」はどう違うのでしょうか?

Photo_18ティム・バットマン以降のバット・ムービーの中で私が最も好きな作品は、一昨年前公開された「バットマン・ビギンズ」(クリストファー・ノーラン監督)なんですが、その中に印象的な場面があります。麻薬密輸ルートを聞き出すため、裏組織と結託する悪徳警官を宙吊りにするバットマン。その鍵がある島にある事を聞きだしたバットマンに警官はこう叫びます。
「そこはサツも近づけねえ(ほど恐ろしい)場所だ!」

そこでバットマンはこう言い放つのです。
「俺がサツに見えるか!」
バットマンは警察の手先ではない。彼は自分の論理で、ゴッサムから悪を追放する事に命を賭けているのです。たとえ両親が殺害されたという私情、言わば復讐に基づいたものであっても。


「ビギンズ」では、そんなバットマン=ブルース・ウェインが自らのモチーフにコウモリを選んだ理由が描かれています。
「ゴッサムを仕切る資産家の自分が普通に訴えても犯罪は無くならない。
何かとんでもない事、悪さえ震え上がるほどのシンボルを作り出すことが必要。」
そんな「悪に恐怖を与える必要性」から、自らが幼少期に恐怖を感じ、後々までのトラウマとなった闇の使者、コウモリを採用したという理由ですが、それで分かる通りウェインがコウモリを選んだのはスパイダーマンのように特殊なクモに刺されたから、なんてキャラ繋がりの理由ではなく、彼の個人的な好みからなのです。


ただ「悪に恐怖を与える為」に自らをコウモリに仕立て上げるという発想そのものが、すでに私には理解できない。
そもそも「動物に扮装する」という理由そのものが。
そこで私はこの強引とも言える理由を、二つの意味で自分に納得させました。


一つは「そんな発想をするくらい、ウェインという男は病んでいる」という事。
要は「悪を粛正する」なんて言ってもどこかで「暴力への憧れ」「人を裁くという思い上がり」を捨てきれない、心のバランスを欠いた危ない人物なんだろうな、という事で。
「一歩間違えれば悪人」という人物が主人公。
これはこれで非常に魅力的なんですよね。
事実、バットマンは自分を英雄とは思っていないでしょう。「悪人が外道に立ち向かう。」まともに考えれば珍妙なあのバットスーツに主人公の歪んだ狂気が投影されているとすれば、それはそれで深いなーと感じたのです。


で、もう一つ。実はこれが今回の本題なんですが。
「アメリカ人というのは、そんな無理な理屈づけをしてまでバットマンを作品化したいのね。」言い換えれば「それほどバット・ムービーはアメリカ人にとっておいしいビジネスなのね」という事でした。
ただそれは製作背景を推測した納得の仕方であって、日本人の私などには何故そこまでアメリカ人がバットマンをヒーロー視し、人気を集めるのかが理解できない。


日本人にとってもっともメジャーなアメリカンヒーローはまず「スーパーマン」じゃないかと思います。今、「スパイダーマン3」がレンタル開始され、どこへ行っても貸し出し中の感がありますが、スーパーマンの人気はスパイダーマンの比ではない。まさに「超人」という意味を持つスーパーマンは、まさにアメコミヒーローのリーダー的存在なのでは。
日本人から見てもスーパーマンのヒーロー性は実に分かりやすい。日本人が求めるヒーローの条件を全て持ち合わせているからです。実際には前述のスパイダーマンにしたって、同じ意味で日本人には受け入れられやすいと言えるでしょう。
ところがバットマンは、と言うと・・・。

バットマンのスーツは強化服ではありません。言わば防弾チョッキ程度の代物。
宇宙人でもなく強化改造もされていない常人が、コウモリ型の防弾チョッキを着こんで夜ごと街中を暗躍している訳で。
私のように「トラウマにより精神的バランスを崩した男が、正義の名の下に街を徘徊する」とでも折り合いを付けなければ、このキャラクターは理解できないのです。
ですから私はとてもバットマンを「正義のヒーロー」とは思えません。
何と言うか・・・「正義オタク」とでも言えばいいのでしょうか(笑)。
このスタンスは日本のヒーローには無いと思います。もし和製ヒーローでバットマンに迫るアイデンティティーを持つキャラクターをご存知の方がいらっしゃったらぜひご一報下さい。
(「快傑ズバット」は・・・やっぱりちょっと違いますね(笑)。


来年にはまた新作映画が公開されるバットマン。ここで思うのは、「バットマンがこれだけアメリカ人に愛され、今だにビッグ・バジェットの作品が作られ続けている、つまり商売になる理由は、アメリカのファンがバットマンにヒーロー性を感じているとしか考えられない」という事なんですよ。
この感覚、皆さんはどう思われますか?


この日本とアメリカのヒーロー観の違いを考えていた私は、一つ似たケースを思い出しました。
「ネヴュラ」ではもはやおなじみ、日本を代表する怪獣王についてです。

Photo_21日本とアメリカの「ゴジラ」に対する認識って、バットマンとはまた違う意味で「差」があるんじゃないかと。
今更説明する必要もなく、核の被害者として日本を蹂躙する怪獣・ゴジラ。現用兵器では葬れず、人類は都市を破壊するその姿に己の罪深さを映し出す・・・。
初代ゴジラ誕生から53年。そのキャラクターは様々に変化し、共演怪獣も数多く登場して、今やゴジラ映画は世界に「カイジュウ」という名を定着させた感さえあります。
しかしながら日本の怪獣ファンは、時代と共にどんなにゴジラのキャラが変化しても、「核の申し子」というゴジラの本質だけは常に感じているような気がするのです。
「畏怖の念」「近寄りがたい何か」・・・。


Photo_22ところが、おそらくアメリカの「カイジュウファン」はこの感覚が理解できないんじゃないかと思うんですよ。
1970年代の「チャンピオンまつり版ぼくらのゴジラ」の露出がアメリカで最も多く、それがゴジラのイメージとして定着したからという理由だけでは語れない何かがあると思うのです。核の被害国じゃないから、という理由だけでもないと。
考えてみればそうですよね。「地球上に一頭しか存在しない」「毎回対戦怪獣が出現する」「常に勝ち続けるヒーロー性」などなど。
こういう存在に、動物としてのリアリティーを感じろという方に無理があります。エイリアンやプレデターの方がよっぽど実在しそうですね(笑)。


彼らにとって毎回、敵怪獣とプロレスまがいの格闘を演じ、勝利の雄叫びを上げるゴジラという存在は、もはやキングコングのようにしか見えないのかもしれません。
英語に「どうも」という意味の言葉が無いように、アメリカ人にとって「核の象徴」という感覚は無いのです。


何かの本で読んだ事があります。アメリカ人のゴジラ観を表現した言葉。
「ゴジラはいつも俺たちの味方。大きいけど気のいいヤツさ。」

日本人にとってバットマンのヒーロー性が希薄なのと同じように、アメリカ人にはゴジラは人類の罪の具現化ではなく、巨大ヒーローに映るのでしょう。

日本人はバットマンを、アメリカ人はゴジラを。
お互い、それぞれの本質を理解できない。


ただそれはまったく悪い事じゃないと思います。日本のファンもアメリカファンもお互い歴史に引きずられていない分だけ、自由な受け取り方が出来るんでしょうね。
個人的には、この意識の差はこれからのジャンル作品にとって大変な可能性を秘めているような気がします。


この差を埋めるという発想じゃなく、お互いの受け取り方の差を先鋭化させていくことで、キャラクターというものにさらなる新発想が生まれる素地があるような気も。
その意識の差を逆手に取るようなアクロバット的キャラクター像が、この部分には秘められているんじゃないかと思います。


国によって各々違う顔を見せるバットマンとゴジラは、実は図らずして国民性の違いを映し出す鏡のような存在かもしれませんね。そういう意味で、「黒き同胞」とも言えるこの二つのキャラクター、今後のジャンル世界を変える起爆剤となるのでしょうか。

日本人である私には、極めて和風な発想しか出来ませんが(涙)。

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