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2007年11月25日 (日)

長谷川圭一の実験

今日のお話は、作品をご覧になった方以外はお分かりになれません。
また多分にネタバレを含みます。ご注意下さい。
元ネタがあまりに有名な作品なので、一言でストーリーが語れてしまう難しさがあります。

ですからもう抵抗しません。未見の方には非常に難解な作品紹介になってしまう事をお許し下さい。
『ULTRASEVEN X Episode8 BLOOD MESSAGE』。


23日深夜26時15分から放送されたこの作品。例によってタイマー録画の上、ちょっとしたついでに鑑賞した私は、ストーリーが進むにつれて形容しがたい気持ちとなりました。最後にはちょっと笑みさえ浮かべ(笑)。
「これは・・・ 今日のライター、随分ギャンブラーだなー。」
スタッフロールにクレジットされた脚本担当は、平成ウルトラファンには既におなじみの長谷川圭一氏。劇場用ウルトラや「GMK」などでもその手腕を発揮し、その独特の世界観が大きな支持を得ています。その長谷川氏がこのエピソードを。

ネットで先ほどまで、このエピソードに関するブログ感想を検索していました。そこでは大変面白い反応が見られ、私はそれらの感想に新鮮な驚きを覚えました。
「なるほど。今のブロガー諸氏はこのストーリーにこういう反応を示すのね。」
この私の「感想に対する感想」そして、今回のサブタイの意味がお分かりの方は、私が言わんとする事をなんとなく予想できると思います(笑)。
現行作品の1エピソードについて感想を慎重に避けてきた私でしたが、今回だけはお話させて下さい。
私が受けた驚きは、それほどまでに強いものだったのです。

お話の都合上まず最初にバラしてしまいますと(ここは断腸の思い(涙)、今回のストーリーはかのアルフレッド・ヒッチコック監督の代表作「サイコ」(1960年アメリカ)を下敷きにしています。要は「サイコ」でアンソニー・パーキンス演ずる主人公が、今回「X」の敵となるわけです。ただ精神的に母親と同化する「サイコ」の主人公とは違い、今回のストーリーで主人公が同化するのは自分の妻。「サイコ」の犯人である殺人鬼を殺戮本能を持つエイリアンと位置づけ、「X」の世界観に取り込もうとする脚本的戦略です。
他にもストーリー上にはヒッチファンへのくすぐりがあちこちに見られます。
合成麻薬「VERTIGO」はもちろん「めまい」(1958年アメリカ)、ドラマ内で重要な小道具となる赤いコートのシルエットはとりもなおさず「殺しのドレス」(1980年。こちらは自称「ヒッチコッキアン」ブライアン・テ゜・パルマ監督)という具合。


ストーリー上にはヒッチ作品の引用も堂々と行われています。
なにしろ主人公とその妻は劇場で「サイコ」「めまい」を鑑賞したと語られ、ストーリーの重要な鍵となる「No●man」のメッセージは・・・
もうおわかりですね。書いててちょっと心苦しくなってきました(笑)。


これ以上ストーリーについて語るのは少々気が引けるので(笑)これくらいでご勘弁下さい。こういう有名作品を下敷きとするストーリーを説明するのは非常に難しい。「サイコ」の認知度は人それぞれだからです。ですから未見の方にお話しようとすれば鑑賞済みの方には怒られてしまう。
『結末を話さないで下さい』映画の代表作を冒涜するなと言われそうで(笑)。

今回のお話は作品の「内容」と作品の「周辺」の二つに分けて考えなければなりません。まず「内容」についてお話しましょう。
無知ながらヒッチ好きの私は「BLOOD MESSAGE」鑑賞後、不思議な味わいを覚えました。
「ストーリーは「サイコ」だけど、映像表現はヒッチの文法じゃないな。」

前述の通り、このエピソードのシナリオは長谷川圭一氏が手掛けています。このシナリオを映像化した監督は小中和哉。期せずして平成ウルトラでもタッグを組み、諸作をものにしたお二人が手を組んだ作品です。
「X」は深夜オンエアを意識したアダルトな作劇が魅力ですから、お二人にとっては資質を活かす絶好の機会でもあった事でしょう。
確かにこのエピソードは、子供を意識しないで済む「X」ならではの世界観、ストーリーではありましたが、意外にもホラーテイストは抑えられているような感触でした。
あのカミソリのようなヒッチ・タッチとは意識的に雰囲気を変えている。


おバカな頭でちょっと考えてみましたが、この処理には二つの要因があるような気がします。
一つ目は「オマージュとパロディーの境界」。
まーこう書いてしまうと身も蓋もないのですが(笑)、要はあそこまで元ネタがはっきりしてしまうと、カット割りまで真似した時に「これ、そのまんまじゃん」と言われてしまうと。せいぜいあの「エイリアン覚醒・開眼カット」のトラックショット程度が限界でしょう。(ご想像通り「サイコ」のシャワーシーン、ラストカット「ジャネット・リー目アップ」へのオマージュとしてですが)
「オリジナルのまんま。」これはライター、ディレクターにとって結構な屈辱なんですよね。ですから何とかしてオリジナリティーを出そうと頑張るわけです。
この気持ちは同業の私もよく分かります。
劇中反復されるミスリード・カット(視聴者に対しては明らかにアンフェアですが、これは確信犯ですね)を見ていて「うーん苦しいけど、きっとこうせざるをえなかったんだろーなー」とお二人の心中を察してしまったのは私だけではないでしょう(笑)。
個人的には、いかに登場人物の記憶違いを描写する為とはいえ、視聴者に嘘をつくミスリードの演出はあまり好きではありません。
あくまで好みの問題ですが。


二つ目は「現場の事情」。
なんか私、作品について語る時こればっかり言ってるような気もしますね(笑)。ただテレビドラマ製作の現況を見ていると、そのあまりの映画との違いにそう思わざるをえないんですよ。
テレビドラマは撮影期間の事情によるシーン数、カット数の時間的・機材的制約が映画とは比べ物にならない程多い為、監督が一生懸命考えたミラクルな発想も「現場の事情」で諦めざるをえない事が頻出するのです。


ご覧になった方は思い出して下さい。劇中で印象深かった一連の夜のシーンや主人公宅、雨の劇場前のシーン、あれはきっと物凄く時間の無い中で撮っていると思います。同じアングルで人物だけが違うカットも頻出しますが、きっとあれも照明を決めてから俳優だけを入れ替え、手早く撮っているはずです。現場の立場からすれば、本当は少しでも変化を付けたい筈なんです。同じカットなんて何度も使いたくない。
でも現場の切羽詰った状況がそれを許さないのです。
毎度のおバカな私見なのでまた怒られちゃうかもしれませんね(笑)。
先に謝っておきます(汗)。


ところで。ヒッチファンの方々がここまでお聞きになったなら、きっと一つの疑問に捉われるんじゃないかと思います。
「ヒッチコック作品はカット割りやトリッキーな撮影手法、さらに卓越した編集センスが真骨頂。だから「映画そのもの」と言える筈。
あえてそれを封じたような方法は、ヒッチ作品全てに共通するストーリー性の弱さを露呈させてしまうんじゃ?」


そうです。まさにその通り。多くのデ・パルマ作品を持ち出すまでもなく(笑)、ストーリー展開に重きを置かないヒッチ作品のプロットは、ある意味「監督の引き出しの数や、その演出を具現化する現場の環境」をあぶり出すような効果があるのです。
その事はかつてのテレビドラマ「ヒッチコック劇場」製作時、ヒッチ本人も語っています。「テレビ作品は何かと制限が多く、映画のようにきめ細かい作劇ができない。」
正確な記述ではありませんが、このような発言と記憶しています。

私はこう考えます。「映画は絵、テレビはおしゃべり」という厳然たる住み分けが存在する環境では、「絵」に頼るヒッチ作品はテレビには向かないのではないかと。
「サイコ」に於ける、観る者の心を恐怖のどん底へ突き落とす「シャワーシーン」の演出など、テレビ作品には望めないのでしょう。


さて。長々と「内容」についてお話してきました。続いては「周辺」について。
先ほど、ネットでこのエピソードの感想を検索したお話をしましたが、その時感じた驚きはこの「周辺」に関する事でした。

それらはオンエア後まださほど時間も経っていない現在での記事ばかりでしたから、そのほとんどはキャストやストーリーに関する感想でしたが、そんな中で目立ったのが「エイリアンの猟奇性や流血シーン、SEVENの露出度」に関するものだったのです。
「あれだけ流血シーンが多くては子供には見せられない。」
「最後にSEVENは一瞬出てくるだけ。しかもアイスラッガーとウルトラビームの一撃でとどめ。もっと肉弾戦が見たい。」

大まかにはこういった感想が大半でした。元ネタ「サイコ」に関する言及などほとんどゼロに等しい。「サイコ」の認知度は驚くほど低かったのです。
これは私には非常に面白かった。
おそらくこれが、今の一般視聴者の代表的なご意見なのでしょう。


この現況を見て私は思いました。
ひょっとして今回「SEVEN X」製作スタッフは、この現況を調べたかったんじゃないかと。
要は今回の「BLOOD MESSAGE」は、今のウルトラ作品ターゲット視聴者に対する「サイコ」認知度、もっと言えば「有名元ネタ」の調査だったような気がするんですよ。非常にうがった見方ですが。
そう考えなければ、あそこまで意識的な「オマージュ」が理解できない。


前述の脚本担当、長谷川圭一氏は1962年生まれ。「サイコ」を映画演出の教科書とした世代です。(余談ですが、かの実相寺昭雄監督も「サイコ」シャワーシーンのカット割りで演出を勉強した世代。かようにヒッチは世代人の先生的存在だったんですね。)
今回の作品を見る限り、やはりヒッチにもそれなりにシンパシーを感じていたと推察します。でもそれをあえてウルトラ世界に持ち込む発想は理解できない。これは作品の否定ではありません。「裏を感じる」という意味です。
これまでもウルトラシリーズには、大なり小なりオマージュ的なエピソードが散見されました。しかしそれらは旧作ウルトラへのオマージュやあからさまなアニメパロディーであって、ここまでの有名映画を元ネタにした作品はちょっと記憶にありません。
(私のいいかげんな鑑賞経歴による記憶です。違っていたらごめんなさい。)


確かに「サイコ」も今やクラシックスリラー。名作の肩書きを常に意識せざるをえない作品です。これだけ持ち上げられている作品だから今更「古い」とは言えない事も事実でしょう。「サイコ」初見の方には、常に「否定できない」という先入観が付きまとっている訳です。
ひょっとして長谷川氏はこの「サイコ」のプロットが現代も通用するかどうかを試したかったのかもしれません。ご自身とヒッチとの距離、またヒッチは「古い」かどうかを探る意味でも。これはウルトラ世界を舞台にした、非常に先鋭的な実験に思えます。そしてこの実験に、シリーズ構成の八木毅も「乗った」のではないでしょうか。
あるいは長谷川氏、八木氏のパワーバランスは逆だったかもしれません。
「ヒッチをやりたいんだ」という八木氏の熱い思いに「八木ちゃんも好きだねー。今更臆面もなくヒッチって」なんて笑う長谷川氏、なんて図も思い浮かんだりして(笑)。


ただ私はこのエピソードに、長谷川氏の「もう一つの実験」も感じてしまいました。
「BLOOD MESSAGE」を鑑賞された方がまず思い浮かべるラストシーン、ジンとエレアの会話。そしてクライマックス、ジンがXに変身する直前のエイリアンの「サメオ殺し」シーンです。
ラストシーン、エレアのセリフが今回のエイリアンとジンの境遇をオーバーラップさせる事で、ストーリーを「SEVEN X」全体のテーマにまで押し広げようとする長谷川氏の戦略を見る事は容易ですが、それをこれまでの路線とするなら、その直前「サメオ殺し」を敢行するエイリアンに手を出さない、Xに変身しないジンの描写はどう解釈すればいいのでしょうか。
あの変身スピードを考えれば、ジンはエイリアンを止める事だって出来たはずです。それをあえてしない。ジンはサメオを見殺しにしたのでしょうか?それともエイリアンの復讐劇を認める側に立ったのでしょうか?この二点を考え合わせると、「SEVEN X」の世界観には驚愕すべきものがありますね。

(このあたり、未見の方にはまったく分かりませんよね。本当にごめんなさい。
ネタバレを極力避けるためには仕方ないんです(涙)

もしもこの描写が「SEVEN X」の目指す地平を暗示するなら、これは平成ライダー以上の実験、「ネクサス」など目じゃないほどのダーク・ストーリーと化す可能性も大ですね。
長谷川氏が試した実験は、これまでのウルトラ世界を大きく覆すような展開に繋がるのでしょうか。

ただそれもある意味、エイリアンストーリーがたどり着くべき一つの到達点なのかもしれません。視聴者は主人公「X」をヒーローと思い込みたい。でもこの世界はそんなお約束さえ裏切るのかも。
ジンの過去について何も知らされない私たちは、製作側が仕掛けた数々の実験に心地よく翻弄されているようです。
まさか視聴者の注意をヒッチ・ストーリーに向けておいて、その端に「X」のテーマを覗かせる高等技術だとしたら、それも恐ろしくトリッキーな技ですね。


私の想像以上に深く、重い意味を突きつける「X」というネーミング。
やはりこのドラマは深夜、リアルタイムで見るのが正しいようです(笑)。

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コメント

 ん~、なるほど~‥‥。今、いくつかのブログでのインプレを見てまいりましたが、たしかに『サイコ』について言及されているところは少ないですネ。

 私はこの『セブンX』の結末については、ちょっと厭世的なものになるような予感がしているんですヨ。「地球のモラルはこのままではいけない」という、円谷プロのメッセージが込められたものといえばいいのでしょうか。エンディング主題歌の選曲は「VAP所属のグループだから」というよりも、そんな結末の世界観を表現するための「ラウド・ロック」が選ばれたのだと感じています。だから、売人のリーダーの殺害シーンは敢えてボカしてあるというか、「止めようと思ったのに止められなかった」とも、「敢えて見逃した」とも見えるようにつくられているように感じました。
 「この世界の救世主」なのであって、だれもセブンXが「地球の平和を守るヒーロー」なんて言っていませんから(^_-)-☆

 妙に「謎」を散りばめて収拾がつかなくなってしまう特撮番組がたくさんある一方で、全く「謎」を意識させないけれども感じさせる『セブンX』は、もしかしたら傑作になるような予感がしています。

自由人大佐様 その後私もネットで今回のエピソードの感想を検索してみましたが、やはり「サイコ」と関連づける感想は少ないですね。これはウルトラと同じ頻度でクラシック映画に親しんできた私には非常に不思議な印象でした。
やはり何人かの識者諸兄もおっしゃるように、最近のファンはウルトラならウルトラ、ライダーならライダーの世界だけを追求するスタンスなんでしょうね。
そういう鑑賞姿勢は、作品にジャンル分けをしない私などにはむしろもったいないように見えて仕方がありません(笑)。

おっしゃるように、確かに「SEVEN X」には厭世的な方向性が見て取れますね。
現時点で、主人公ジンがストーリーの中心ではなく傍観者的な立場に追いやられている事とも無関係ではないでしょう。毎回登場するエイリアン達に対するXの解決方法はあまりにも応急的で、根本的な解決にはなっていないからです。
ただこれはオリジナルセブンの頃からあった課題ですから、ここでもし新たな方向性が提示されればそれこそヒーローストーリーの根幹をゆるがす程の大事件となるのですが。

前述の方向性は「サメオ殺し」についても表れるところです。これもおそらく製作サイドで「X」のスタンスに迷いが見られるゆえの処置なんでしょうね。
私も「止められなかった」案に一瞬傾きましたが、そうであればあの直後の変身スピードが理解できない。つまりあそこでは変身の瞬間をしっかり見せて、変身タイムの長さを視聴者に印象付ける必要があったのかもしれません。つまりあそこはシナリオ・演出サイドの確信犯、共謀作業という事になります。
まーこれも受け取る人それぞれ、いろいろな解析を期待しての措置なのかもしれませんね(笑)。

これもおっしゃる通りですが、「X」劇中で提示されている謎は最近よくある「謎の為の謎」になっていない所がいいですね。今はこの「解決されるであろう謎」の行方に期待したい所です。

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