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2007年11月の記事

2007年11月30日 (金)

来たのは誰だ

Photo むっ!テレビの上にうごめく影は! ネヴィラ71、解析願います!
Photo_2
ストレイカー指令、ユーエフオーではないようてすが。
Photo_3
こんな生物、チルソニア星には存在しない。

さて。今日私が入手した癒されアイテムの正体は!?
おバカな謎を残しつつ次回へ!
(依然、多忙につき、まともな記事はもうしばらくお待ちを(涙)

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2007年11月29日 (木)

レトロロボごっこ

Photo スクランブル!暗黒ホラー軍団接近!
Photo_2
グロテスター四機合体!デスクロス現象発生!
大空魔竜、緊急発進スタンバイ!
Photo_3 ・・・ってあんた。いきなりの
ボリューションプロテクトはないんじゃない?

今日はハードワークで頭もフェイスオープン状態。
  これくらいでご勘弁下さい。
  でもこの記事にすかさずコメントできる方もかなりの
(以下、自主規制)

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2007年11月28日 (水)

ぶらりオタク旅 慕情篇

先日、27日の「ネヴュラ」で、オタクショップ「まんだらけ」の新規オープンについてお話しました。
この日、私はお仕事上でちょっとしたショックを受け(笑)、取り乱したままお店へ赴いた為、やや浮き足立った感覚で店内を回ってしまったのですが、今回ぐんと売り場面積も増え、品揃えも豊富になった店内を散策していると、それなりに思うところもありまして。
「これはもう、オタクショップと言うよりオタクデパートだねえ。」
これが私の偽らざる感覚でした。


お店入口からすぐの『ショーウィンドー』に鎮座するお宝グッズは、私たちの世代が遊び親しんだ仮面ライダーのおもちゃやプラモデル。『エスカレーター』で上った二階に広がる『トイやグッズのフロア』には、ハードディテールの怪獣やキャラクター・美少女フィギュアなどが所狭しと並んでいました。
貧乏オタクの私が求める昔のプラモデルやおもちゃなどのアイテムは格段に減り、それらは売り場の隅に少し残るのみ。
「ここまで冷遇されているという事はひょっとして?」淡い希望を胸に駆け寄ってみても、その値札は相変わらずのプレミア付きという(涙)。


結局、今回の移転・リニューアルは、まんだらけというお店のターゲットの見直し的な意味もあったのでしょう。名古屋のアキバ、大須という地域性も無関係ではない筈です。まー考えてみれば、もともと古書店として出発したまんだらけですから、おもちゃ関係は言わば付随業務。
売れる商品の客層を考えた今回の措置は実に正しいと。ごもっともです。

でも思っちゃうのはその「商品と売り場の威容のミスマッチ」。
ショーウィンドー。エスカレーター。トイグッズのフロアといった、およそオタクグッズには縁遠い数々の新機軸(笑)は、私のような古いオタクにはとても眩しく、またよそよそしく映ってしまいました。
きっとオタクショップのこういう店構えは、東京など首都圏にお住まいの皆さんには当たり前なのでしょうが、独自の文化で有名な名古屋。今でもマニアなお店にはそれなりの頑固な古さを求めてしまう私なのでした。
名古屋市民の私ながら、相変わらずのズレた感覚がお恥ずかしい。
東海地方の読者の方、変な事言ってごめんなさいね(涙)。


また、「古い玩具の必要以上なVIP待遇」という感覚もありました。
昔、私たちが子供の頃に、おもちゃ屋さんや駄菓子屋さんの店先に並んでいた言わば駄玩具的な代物も、立派なショーウィンドーに収まってまるで貴金属扱いなんですね。それらが一階の入口付近にディスプレイされているという事は、言わば客寄せの話題づくり。
宝石店で純金のサンタクロースを飾るのと同じ発想なのでしょう。

かく言う私もそんな戦略に乗せられ、ライダー目当てにフラフラと入口を潜ってしまったクチです。ジャンルは違えど人間の心理をたくみに突いたこの商品配置はお見事。結局このお店は、商品がオタクグッズに変わっただけの「宝石店」なんだなーと痛感した次第です。お値段も宝石並みだし(涙)。


レジでかいがいしく働くコスプレの店員さんを眺めながら、「この、ウィンドーのライダーグッズが現役で売られていた頃、彼らはまだ生まれてなかったんだろうなー」なんて感慨にふける事もしきり。
私とグッズの間に立ち塞がる「ガラスの壁」の厚さも手伝って、つくづく古いオタクである事を思い知りました(複雑な爆笑)。


ネットショッピングという便利なツールを知って以来、私もおそまきながら全国のトイショップやヤフオクでそれなりにお買い物を楽しんでいます。やはりグッズの検索範囲が地元のみから全国に広がった事で、これまで考えられなかったような珍品、奇品も目にする事ができました。
ただ、それらも予算さえ折り合えば手に入ってしまうという信じられない現状を目の当たりにすると、古い私などは嬉しさと同時に、ちょっとした戸惑いも覚えてしまうのです。
前述のまんだらけといいネットショッピングといい、世の中が進むにつれてオタクグッズ流通の形態も変わっていくんだなー、なんて。


またこういうお話をすると「オタクイーン、また昔の事ばっかり書いて。そんな話をされたってわかんないよー」なんて言われそうですが(笑)、私のような古いオタクには、どうしても「足で探したグッズ」の記憶と楽しさを懐かしく思ってしまうもので。
お許し下さい。
それは今でも変わっていません。そんな懐かしい感覚を思い出させてくれたのは、この日「まんだらけ」の後に覗いた、一軒の古書店でした。

新・まんだらけの大須からさほど遠くない場所に、上前津という町があります。このあたりの広域は名古屋の神保町とでも位置づけられる所で、かつては多くの古書店が軒を連ねていました。
最近は時代の流れも手伝って出版業界も斜陽、それらの古書店も次々とお店をたたみ、今は気骨ある「頑固なお店」だけが細々と営業を続けています。

今は映画や昔のテレビ番組、知る人ぞ知る作品までネットで気軽に検索できる世の中ですが、私が若さに任せ、オタクとして知識欲旺盛だった時代には、それらの情報や評価、作品の見方などの知識は、すべて先人の偉業とも言える古い文献に頼らざるを得ませんでした。まだ朝日ソノラマの雑誌「宇宙船」や「ファンタスティック・コレクション」が世に出る前の時代です。自然と足は古書店へ。お休みの日などは時間を惜しんで日参したものでした。


古書店通いに慣れた方々はご存知でしょうが、古書店ってご主人の趣味が商品の傾向にダイレクトに反映されますよね。それはどんな個人商店にも当てはまる事ですが、言わば趣味の延長でお店を開いてしまったような古書店には(笑)特にそんな傾向が強いような気がします。何か他人様の書庫を訪れているような感覚も、その印象に拍車をかけているのでしょう。
お好きな方はそんな商品の傾向を見比べ、掘り出し物を狙う訳です。
馴染みのお店も一、二軒はおありかもしれません。

そういうお店の引き戸(ちょっと立て付けが悪いともっと良いんですが)を開け、独特の香りが充満する店内へ一歩踏み込んだ瞬間のピンと張り詰めた空気。私はあの瞬間が好きなんです。二つの思いが交錯するあの瞬間が。
一つは「今日は掘り出し物がありそうだな」という期待。
もう一つは「縁あれば訪れるであろう、ご主人との古本談義」の楽しみ。


この一帯には、かつて映画の研究本やムック本を専門に扱うお店も何軒かありましたが、今は二軒だけになってしまいました。その貴重な二軒の内、昔から通う一軒には、これも「いかにも古本屋のご主人」という強面の御仁が奥にしっかりと鎮座。買い取った本の処理のかたわら、お客の動向から選ぶ書棚の一冊までを目の隅でじっと観察しているのです。(「度の強い黒縁メガネを鼻にかけ」なんて言えば絵になるんですが、件のご主人はメガネをかけていなくて(笑)。
考えてみれば古書店の店主は売るだけでなく買い取りもお仕事。元来「人を見る」という性癖を持ち合わせているんですね。
そこが一般書店の店員さんとの大きな違いです。

お客としては、この「お店に入った瞬間から始まる、店主との勝負」がそれなりに楽しいんですよ。
書棚に並ぶ専門書の数々は、ご主人にしてみれば「お主、この本の価値が分かるか?この本に書かれている高尚な内容が理解できるか?」というお客への挑戦である訳です。

そんな挑戦に対し、私達お客もそれなりに応戦します。
手に取る一冊が「講談社ムック」であってはならないと(笑)。「そんなものは新刊でとっくに手に入れてますよ」なんて体を保ちながら、涼しい顔でワイズ出版の限定研究本なんかを愛でるといった余裕が欲しいところです。
そんな姿に店主の目もキラリ、瞳の奥で「やるな、この客」なんてね。
店内では、そんな無言の勝負が繰り広げられている訳です。


でも結局、ご主人だってこういう「分かっているお客さん」を待っているんですよ。確かに商売ですからお客さんの選り好みは出来ませんが、いわゆる「稼ぎの為の一般古書」よりも、「通好みの一冊」を理解するお客へは、一種の仲間意識が湧く訳なんですよね。
以前私がお財布をはたいて、新東宝作品のポスター本を二冊購入した時です。普段はめったに笑わないご主人が「あっ、この大きさじゃ普通の袋には入らないね」なんて笑顔一杯に、件の本を大事に抱え、大きな袋に入れてくれた事を思い出します。
当時、発行点数も少なかった新東宝関係の書籍はきっと貴重な物だったのでしょう。ご主人だって、こういう希少本は大事にしてくれるお客の元へ嫁入りさせたい筈。そういう意味で、私はこの二冊に限り、ご主人のお眼鏡に叶ったような気がして妙に嬉しかった記憶があります。
ただ後にも先にも、ご主人の笑顔を見たのはその時だけですが(笑)。


例によってお話が脱線してしまいましたね。
で、まあ、「まんだらけ」の帰りに寄ったこのお店で私が求めた研究本「ジェームズ・ボンドへの招待」ですが、これはまだご主人にとっては「甘い」一冊だったのか、差し出してもニコリともされませんでした。
「今日は私の負けか。うーんまだ修行不足。」
心で泣いて代金を差し出す一瞬。これも一般書店にはない古書店のみの楽しみ、大きな付加価値なんですよね。


古書店に限らず「物を買う」という行為には、昔はまだ人と人の感情のやりとりがあったような気がします。別に今、それが無くなってしまった訳ではありませんが、ショーウィンドーに大事そうに収まった貴金属のようなおもちゃが並ぶまんだらけでのやりとりは、昔の「駄菓子屋のおばさんとの攻防」などとはまた質の違ったものとならざるを得ませんよね。
駄菓子屋さんを知らない世代がスタッフである現在では仕方のない事かもしれません。でもやっぱり私は、オタクグッズの購入をただのお金のやりとりだけで終わらせたくない、という願望がどこかにあります。
私が古書店にやすらぎを求める理由は、その品揃えだけではないのかもしれません。

それは決してお互いニコニコ明朗会計、オリエンタル・スマイルの応酬という意味ではないんですね。
駄菓子屋のおばさんからは「子供に対する厳しさや愛情」を、古書店のご主人からは「同好の士の心の交流」を、どこかに感じたかったのでしょう。

あの眼光鋭い古書店主の眼差しは、決してブックオフでは体験できないものだからです。


いやーそれにしても、つくづく私のオタクスタイルは古いですよねー。
マニア諸氏のブログを拝見する度にそんな思いを強くしてしまいます。
ただ、こうやってお話していてふと思ったんですが、ひょっとして私はこういうスタイルの古さを楽しんでいるのかもしれませんね。
「古い手段で古い物を求める」という粋な遊びに、喜びを感じているのかも。
人と触れ合いながら逸品を探す旅。
それはそれで奥深く、また楽しいものです。
もうすぐ12月。先日一つ年を取り、やがて新しい年を迎えようとする今、また私は時代に乗り遅れているようですね。


でもそう言いながらも、またヤフオクの海へ飛び込んじゃうんだろーなー。
目の飛び出そうな高額商品に指を咥えながら。
その矛盾も承知しているんですが(笑)。

2007年11月27日 (火)

同じ星の下に

きわめて私事で申し訳ありませんが。
私、今日が誕生日なんです。

年齢だけは考えたくもないですが、誕生日というのはそれなりに感慨深いもので。と言うのも。
今日11月27日は、あのガメラシリーズ初作「大怪獣ガメラ」の封切日(1965年)なんですよ。言わば今日はガメラの誕生日なんですね。
年は違えど、ガメラと私は誕生日が同じ。私のオタクは生まれた時から決定付けられていたのでしょう。
これ、去年もお話しましたね。すいませんしつこくて(涙)。
で、今日はこんな風景を。

Photo_13 特別な日の今日は、近くのオタクショップで彼と待ち合わせ。
私の背丈ほどもあるマッチョな彼は、いつもここで待っててくれる。

Photo_14 いつもは凛々しく、険しい表情の彼も、今日だけはちょっと優しい面持ち。
Photo_15 「同じ星の下に生まれた二人は、これからもずっと一緒だよ。」
キャー!私、一生オタクを全うします~(喜)。

Photo_16 甘美な時間はあっという間。でもここに来ればいつでも彼に会える。
七夕の彦星と織姫のように、毎年この日は彼とのデートに決めよっと。
(いろんな意味で涙)

撮影を許可してくれたお店のお兄さん、ありがとう(礼)。
Photo_17 でもこんな記念日も、基本的に無頓着なのがこの子。
ま、期待はしてないけど(涙)。

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目も眩む落ち穂の中を

大ショック。
年末年始の特別番組の都合で、私の担当番組が数回飛ぶ事に。

一本毎の番組契約でお仕事を貰っている私には、この編成の都合というのが大変恨めしい。お仕事が減れば減った分だけ収入にも響きます。
これがフリーの立場の弱い所。まーそれなりの埋め合わせを期待する事として、今回は泣く泣く承諾しました。
こんな場末のディレクターを苛めて何が楽しいのよと(笑)。


そんな事情を知らされた事もあって、昨日は局からの帰り道も荒れに荒れ(笑)、とにかく思いつくままに馴染みのお店に飛び込む始末。
「むしゃくしゃした時は欲しかったワンピースなんかを衝動買いするのがいいのよ」なんて昔の仲間ものたまっていましたが、毎度貧乏な私にはそんな散財などできません。せいぜい近くのオタクショップでリーズナブルなグッズを買い漁るのが関の山。おまけにギャラも減るとあってはお財布の紐も締まるというものです。
小春日和ながら、私の懐には寒い木枯しが(涙)。

Photo_2というわけで買ってきました。この二つの包み。
読者の皆さんには御馴染みのマークの通り、一つはオタクの殿堂「まんだらけ」、そしてもう一つも近くの古書店で求めたものです。つまり二つとも新品ではありません。今日は、この二つにまつわる胸の内をつらつらとお話しましょう。
例によって大した事など喋れませんが(笑)。



東海地区にお住まいの読者の方々は、かの「まんだらけ」が今月23日に店舗を移転、新規オープンした事をご存知と思います。
私が知る数々のオタクショップの中で最も品数が多く、また物によっては驚きの低価格で手に入るこのお店は、お金のない私には非常にありがたい存在でした。そのまんだらけが新規オープンとあっては駆けつけないわけにもいきません。
とは言うものの人ごみを避けたい私は、オープン初日からおととい日曜日までの三連休を避け、昨日、局でのお仕事の帰りに寄る事を計画していました。

そこへ冒頭の大ショックですからもー心は千路に乱れ、あろう事ならお店ごと買い取らんばかりの勢いで押しかけて行ったのでした(かなり大げさ(笑)。


なんでも名古屋店は今回の移転で、まんだらけ全店舗中最大級のフロア面積となったそうで。以前のお店の2.5倍の品揃えも伊達じゃありません。さすが「名古屋のアキバ」こと大須に進出して来ただけの事はあります。
諸事情で写真などお見せできないのが残念ですが。

Photo_3 いつもの事ながら「地図の読めない女」である私は、お店に掲げてある売場案内を見ていても位置関係がさっぱりわからない。
カンを頼りに目当ての売場を探しウロウロしていました。
で、見つけたのがこれ。もったいぶらずに開封しますと。


Photo_4これです。大したものじゃありません。前述の通り懐に木枯しが吹く私にはこの程度の散財が精一杯です。まー野口先生お一人とさよならする程度ならこれはこれで嬉しい買い物じゃないかと。ドリルも付いてるし(笑)。
これ、TAITO製のプライズ商品だそうで。
これまで何度かお話していますが、私はこの手のプライズ品をリアルタイムで入手した事がありません。
もともとゲームセンター等へ通う習慣がない上、目当てのアイテムを手に入れる為にお金をつぎ込む度胸もないんですよ。何千円使っても手に入らなかったらどーするの、というマイナス思考なんですね。
ですから自然とこういう場でしか手に入れられないと。
まー今日のサブタイにもある「落ち穂拾い」がお似合いという訳です。

Photo_5 これも何度もお話していますが、最近のこの手の商品ってものすごく出来が良いですよねー。
乾電池はサイズ比較用ですが、スケール換算しますとおそらく1/72くらいですよ。これだと今は無きイマイが2000年に発売した電動走行キットとほとんど同じ大きさ。
かのキットは今、アオシマから再発売されていますから入手も簡単ですが、写真の一台が手に入っちゃうと製作意欲も格段に下がるというもので(笑)。
いつかは作ろうと在庫確保に走っていた私の苦労もここまでかと(涙)。


Photo_6 以前ご紹介したアオシマ製・新世紀合金メーサー車と並べてみました。
キャーかっこいい!
そのハードディテールと並んでもまったく見劣りしないこの威容。
この手のモデルってそのほとんどはディスプレイ状態で一生を終えるでしょ?たとえ可動モデルでも一日中動かしている訳じゃないですもんね。だったらこれで事足りちゃう。それほどのディテール、カラーリング、ウェザリングという事ですよ。
恐るべしプライズアイテム。


でも私、これに出会うまでお店をウロウロ、いろんな物に目移りしましたが、その中で一つの永遠の課題を突きつけられまして。
ある商品を手に取った時の事です。皆さんもご存知の通り「まんだらけ」っていうお店は、お客さんが売りに来た商品を買い取り、利益分を上乗せして売り場に並べるという典型的な「古物商」ですよね。ですから売り場の商品に、いわゆる問屋卸という意味での「新品」は無い訳です。
それはお店のスタッフからも聞きました。
ですが、
手に取った商品には、スタッフが加えた一文が載っていたのです。
「うれしい未開封」。


まー確かに、こういうお店にお客さんが売りに来る商品は、開封の物も未開封の物もありますよね。自分が新品で買った時、それを開封するかしないかはお客さんの自由ですから。最近はプレミア買取を期待して複数購入、商品価値が上がるまで自宅で寝かせているコレクターも当たり前ですし。
そこで一つ思うのは、こういう商品って買取の段階で「開封・未開封」ってどこで判断するんだろうという事で。

例えば超合金魂みたいな商品って、
箱を開けただけぐらいなら未開封、中のパーツ袋を破ってパーツを確認したら開封、みたいなチェックラインがあるんでしょうか?
となると、商品を買ったお客さんがズルをして箱だけ開け、メインのパーツだけ組み立ててさんざん遊び、丁寧にまた箱に戻して「未開封」なんて売りに出す、なんて事もあるんでしょうか?結局そこは自己申告の世界、お店の買取スタッフも、そこまでのデリケートな判断は出来ないような気もするんですよ。
もうそうなったら、後は売り手と買い手のかけ引きになっちゃいますね。
こういうお店では、日夜そんなかけ引きがくり広げられているんだろーなー、なんて思っちゃったりして。


私がそんな気持ちになったのは、その商品の状態を見たからでした。
「うれしい未開封」と書かれているのにその商品は結構箱も凹み、それなりに痛みもひどいものだったのです。

ここで私は思いました。
「未開封というだけの付加価値でこの商品を選ぶなら、開封品でももっといい状態の商品の方が良くない?」

これは究極の選択ですよね。本当に個人の価値観の問題です。未組み立ての状態が基本のプラモデルは別として、通常のおもちゃは箱から出してディスプレイする事を常としている私のような者の考えでしょうね。
「未開封」という事にこだわる方はきっとまた別の考えをお持ちでしょう。
でも、もしこの商品が本当は「開封品」だったとしたら?買取時にそれを「未開封」と偽っていたとしたら?
う~ん、疑い出せばきりがありません。私のような無知なオタクは、そんな古物商のディープな世界にまで思いを馳せてしまうのでした(笑)。


さて。「まんだらけ」を後にした私は、その足で近くの古書店に。名古屋にお住まいの方なら大須からさほど遠くない古書店街もご存知と思います。
今は随分寂れてしまいましたが、私は今も珍本や買い逃した名著などを漁りに、これらのお店を覗く事も多いのです。
(何か「サライ」みたいな文体になってきましたね。ちょっと枯れすぎですね。大体こういう話題のどこが女子なんだか(笑)。

Photo_7 そんなお店の二階(まーこう言えば粋人にはすぐ分かると思います)で求めたのがこちらの一冊。実はこの本、私は以前にも二回、このお店で手に取っています。昨日、三回目の訪問でようやく購入です。慎重派と言えばそれまでですが、単に思い切りが悪いだけと言うのが本当の所で。冒頭の「事件」が背中を押してくれました(とでも言わなきゃ気持ちの収まりがつかなかったりして(涙)。
何の本だと思いますか?

Photo_8 ほら。どーですかこの帯に書かれた強気の文句。最初私がこれを手に取った時、この挑戦的な一文に俄然闘志が湧き上がりましたね。
「どれくらい難しいのか試してみようじゃないの」なんて。まー私のようなおバカに限ってこういう一文に騙されやすいんですね(笑)。
ごらんの通り、購入時のままハトロン紙のカバーは外していません。こういう気配りは古書店ならではのものですね。考えてみれば一般書店に新刊で平積みされ、多くのお客さんに立ち読みされている物よりも、この状態の方が数段綺麗のような気もします。
この本に限らず、私がムック本などを求める時も古書店をよく利用するのは、一般書店の立ち読み済みよりもこちらの方が状態が良いと感じるからなのです。おまけに安ければそれに越した事はないと(笑)。


Photo_9 件の一冊の正体はこれ。ジェームズ・チャップマン著「ジェームズ・ボンドへの招待」という007シリーズの研究本でした。これ、以前の二回の訪問でパラパラと流し読みしてみましたが、確かに難しい。よくあるストーリーレビューや裏話本じゃないからです。
僭越ながら言わせて頂ければ、ある程度映画の歴史や作品が作られた背景、その周辺までの予備知識が無ければ分からない内容なんですね。
著者のスタンスは私の立ち位置に近く、「作品の内容や表現から何が見えてくるか」「作品を通じて何を読み解くか」という姿勢が貫かれた、映画評論本の王道です。

ただ、頭が足りない私のような者の感想など足元も及ばない所がプロの評論家たる所以で。やっぱりこれで生計立ててる人は違うなと(笑)。


実は私、かねがね007シリーズの本格的研究書が無い事を不満に思っていました。確かに大型プログラム・ピクチャーの域を出ない内容とも思いますが、それでもあれたけの作品数を誇るシリーズ、識者が放っておくのはもったいないでしょうと。
この本は7年前、2000年の刊行ですから私は見逃していた事になりますね。
相変わらずこういったアンテナは鈍りっぱなしで。お恥ずかしい限りです。

Photo_10 私がこの本に惹かれたのは、あるページの写真を見たからでした。
これは皆さんもよくご存知のヒッチコック映画「北北西に進路を取れ」(1959年アメリカ)の名場面、トウモロコシ畑で複葉機に襲われるケイリー・グラントの写真です。
これを見た時私は「やっと007側からのヒッチコック解析が現実となった」という感慨があったのです。


Photo_12古くからの映画ファンはご存知と思いますが、これまで007シリーズは「ヒッチコック・サスペンスの粗雑な亜流」的な見方が大方の見解で、それは私を含む熱心なボンド・ファンにもやや重荷となっていたのです。
これは実際、私の印象なのでさほど間違ってはいないと思います。

で、その見解を振りかざし、007シリーズを揶揄していたのはヒッチコック研究者がほとんどだったんですね。ただその解析はある意味で当たっているとも思います。ですから007崇拝者は、その事実を「見て見ぬふりをしていた」という訳です。
これまでの007研究本でもその論旨は「007こそが一番。亜流でなどありえない」というもので、読み手の私などは正直これはちょっと公平性を欠いているんじゃないの、なんて思ってもいたんですよ。やっぱり007ってヒッチの影響下にあるよね。それは認めた方が潔いんじゃないかなー、なんて。


そんな私の溜飲を下げたのがこの「一枚の写真」でした。
この一枚が載っているという事だけで、この本は公平性を重んじているんじゃ、と私に感じさせてくれたのです。
007側がヒッチ作品に目を向けるなんて、本当にシリーズ開始以来初めてじゃないでしょうか?これでいいんですよ。そんな嬉しささえ感じてしまえる一冊という訳です。

ただ、まだ私はこの写真以外、本の内容をほとんど把握していません。
まーどんな内容であろうとも、「本音で語ってくれる」という期待は持続できると思います。
楽しいものですよ。たとえ「はっきりいって難しい」本でも。私はこの本の前にひれ伏し、足りない頭ながら一生懸命ついて行きます。評論のあり方を勉強する意味でも、この一冊は良い教科書になるのかもしれませんね。


という訳で昨日は、落ち穂拾いと言いながらもそれなりに収穫もありました。
冒頭のショックとこの収穫で、まー痛み分けといった所でしょうか。
たまにはこういう小さな喜びも欲しいですよね(笑)。

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2007年11月25日 (日)

JIA PENG FANGとコーヒー

世間がお休みの時にお仕事に励む私。
今日も打ち合わせと台本作成に追われ、今は頭もカラッポ。
もう文章なんて書きたくありません(笑)。でも書いちゃう(失笑)。

再開後、それなりに忙しい毎日の中で、おバカながらいろいろな私見を語っていますと、たまにはちょっと息抜きなどしてみたくなるもので。
ですから今日はいつもの濃い話題はちょっとお休み。軽~いお話です。
「ネヴュラ」には珍しく、音楽の話題です。でも大して知識もない私。専門的なお話なんてできません。あくまでその音色に対しての印象、感覚についてです。

以前から私は、「ネヴュラ」執筆時には部屋でその日のテーマに合ったBGMを流し、気分を盛り上げる事を常としています。ただいつも横にいるコタには大きい音はかわいそうなので、ケージごと別の部屋に連れて行きますが。
ただそれもブログネタがコタの時は別のお話。「コタコント」執筆時のBGMは「天才バカボン」主題歌(もちろんファーストシリーズ)と決まってるんですよ。
これがまたコタのビックリ顔によく合っちゃって(爆笑)。
まーそんな事はともかく。

最近のお気に入りはサブタイ通り、世界的二胡奏者「JIA PENG FANG」。
公式HP http://www.jia-pengfang.com/

お恥ずかしい話、私、最近までこの方の存在を知らなかったんです。
ところがこの夏あたりから次第に高まってきたアジア諸国への興味と共に、中国の代表的楽器「胡弓」へと目が向いて来まして。そこで色々聞き比べているうちに彼のアルバムに出会った訳です。
朝は「グロイザーX」の主題歌で目を覚まし、昼間はダニー・エルフマンの「バットマン」スコアをBGMにお仕事に励む私にとって癒し系の音楽などは縁遠い世界。
ですから最初、彼の美しくも物悲しい二胡の音色に触れた時、私は未知の感覚に震えました。
「こんな音楽が沁みるとは、私も年を取ったんだなー」なんて(笑)。

私は本当にこのジャンルには無知なので、詳しい方には「何を今さら」なんて怒られそうですが、彼は映画「LOVERS」や「もののけ姫」などのレコーディングにも参加しているんですね。
数々のCMにも曲を提供、日本でも有名な二胡奏者だったんです。
いやー知らなかった。全国的に恥をさらすようですが、嘘をつかない「ネヴュラ」、知らない事は知らないとはっきり言い切ります。あー恥ずかしかった(涙)。

二胡という楽器にはまったく予備知識がありませんでした。まーなんとなく「中国音楽で使われるポピュラーな楽器で、独特の物悲しい旋律が売りのアレだよね」程度の認識だったのです。
JIA PENG FANGのアルバムに触れた時も、この二胡のテイストを期待していました。他にも何人かの二胡奏者のアルバムを借り、聞き比べていたのですが、彼の奏でる独特の旋律が好みに合ったようです。まーヴァンゲリスに心酔する私ですから、どこか琴線に触れる所があったのかもしれませんね。

ご存知の方も多いでしょうから特に詳細な説明は避けます。一言で言えば「デリケートにして大胆。技術に裏打ちされた豊かな感情表現」といった所でしょうか。
どんな楽器も同じですが、私は特に二胡から奏者の心の内をダイレクトに感じます。一流のミュージシャンが皆そうであるように、彼も、二胡を通して私の心に訴えかけてくるのです。その思いとは何か。歌詞の無い二胡演奏の曲から受ける印象は、きっと鑑賞時の心の有り様をストレートに反映、また増幅させるものなのでしょう。

彼の二胡をBGMに書いた最新記事は、今月13日の「晩秋の春一番」でした。
母の一周忌法要を点描したこの記事のバックには、彼のデリケートな二胡の調べが流れていたのです。そう言えばお分かり頂けるでしょうか。
私にとって彼の曲は、自らの胸の内を素直に綴る上で絶好のBGM、言わば「心をもみほぐす」役割を担ってくれるのかもしれません。
やっぱり「天才バカボン」の一方で、こういう曲も必要だなーと(笑)。

インスタントながらこの年になってやっと覚えたコーヒーの味も、彼の芳醇な世界を堪能する上で大きな助けとなってくれているようです。
やっぱり彼の曲には苦いブラックがよく似合います。
オタクの私もたまには、こんな風に大人の女を気取ってみたい事もあるんですよ。
二胡にハマるあたりが変わっているとは思いますが。
とまあ、今日はこんなところでご容赦下さい。
彼の奏でる二胡の旋律に身を委ねたくなってきました。

小春日和の昼間でしたが、夜はこんな癒しの曲が似合う寒さです。
皆さんも風邪等にはお気をつけ下さいね(笑)。

長谷川圭一の実験

今日のお話は、作品をご覧になった方以外はお分かりになれません。
また多分にネタバレを含みます。ご注意下さい。
元ネタがあまりに有名な作品なので、一言でストーリーが語れてしまう難しさがあります。

ですからもう抵抗しません。未見の方には非常に難解な作品紹介になってしまう事をお許し下さい。
『ULTRASEVEN X Episode8 BLOOD MESSAGE』。


23日深夜26時15分から放送されたこの作品。例によってタイマー録画の上、ちょっとしたついでに鑑賞した私は、ストーリーが進むにつれて形容しがたい気持ちとなりました。最後にはちょっと笑みさえ浮かべ(笑)。
「これは・・・ 今日のライター、随分ギャンブラーだなー。」
スタッフロールにクレジットされた脚本担当は、平成ウルトラファンには既におなじみの長谷川圭一氏。劇場用ウルトラや「GMK」などでもその手腕を発揮し、その独特の世界観が大きな支持を得ています。その長谷川氏がこのエピソードを。

ネットで先ほどまで、このエピソードに関するブログ感想を検索していました。そこでは大変面白い反応が見られ、私はそれらの感想に新鮮な驚きを覚えました。
「なるほど。今のブロガー諸氏はこのストーリーにこういう反応を示すのね。」
この私の「感想に対する感想」そして、今回のサブタイの意味がお分かりの方は、私が言わんとする事をなんとなく予想できると思います(笑)。
現行作品の1エピソードについて感想を慎重に避けてきた私でしたが、今回だけはお話させて下さい。
私が受けた驚きは、それほどまでに強いものだったのです。

お話の都合上まず最初にバラしてしまいますと(ここは断腸の思い(涙)、今回のストーリーはかのアルフレッド・ヒッチコック監督の代表作「サイコ」(1960年アメリカ)を下敷きにしています。要は「サイコ」でアンソニー・パーキンス演ずる主人公が、今回「X」の敵となるわけです。ただ精神的に母親と同化する「サイコ」の主人公とは違い、今回のストーリーで主人公が同化するのは自分の妻。「サイコ」の犯人である殺人鬼を殺戮本能を持つエイリアンと位置づけ、「X」の世界観に取り込もうとする脚本的戦略です。
他にもストーリー上にはヒッチファンへのくすぐりがあちこちに見られます。
合成麻薬「VERTIGO」はもちろん「めまい」(1958年アメリカ)、ドラマ内で重要な小道具となる赤いコートのシルエットはとりもなおさず「殺しのドレス」(1980年。こちらは自称「ヒッチコッキアン」ブライアン・テ゜・パルマ監督)という具合。


ストーリー上にはヒッチ作品の引用も堂々と行われています。
なにしろ主人公とその妻は劇場で「サイコ」「めまい」を鑑賞したと語られ、ストーリーの重要な鍵となる「No●man」のメッセージは・・・
もうおわかりですね。書いててちょっと心苦しくなってきました(笑)。


これ以上ストーリーについて語るのは少々気が引けるので(笑)これくらいでご勘弁下さい。こういう有名作品を下敷きとするストーリーを説明するのは非常に難しい。「サイコ」の認知度は人それぞれだからです。ですから未見の方にお話しようとすれば鑑賞済みの方には怒られてしまう。
『結末を話さないで下さい』映画の代表作を冒涜するなと言われそうで(笑)。

今回のお話は作品の「内容」と作品の「周辺」の二つに分けて考えなければなりません。まず「内容」についてお話しましょう。
無知ながらヒッチ好きの私は「BLOOD MESSAGE」鑑賞後、不思議な味わいを覚えました。
「ストーリーは「サイコ」だけど、映像表現はヒッチの文法じゃないな。」

前述の通り、このエピソードのシナリオは長谷川圭一氏が手掛けています。このシナリオを映像化した監督は小中和哉。期せずして平成ウルトラでもタッグを組み、諸作をものにしたお二人が手を組んだ作品です。
「X」は深夜オンエアを意識したアダルトな作劇が魅力ですから、お二人にとっては資質を活かす絶好の機会でもあった事でしょう。
確かにこのエピソードは、子供を意識しないで済む「X」ならではの世界観、ストーリーではありましたが、意外にもホラーテイストは抑えられているような感触でした。
あのカミソリのようなヒッチ・タッチとは意識的に雰囲気を変えている。


おバカな頭でちょっと考えてみましたが、この処理には二つの要因があるような気がします。
一つ目は「オマージュとパロディーの境界」。
まーこう書いてしまうと身も蓋もないのですが(笑)、要はあそこまで元ネタがはっきりしてしまうと、カット割りまで真似した時に「これ、そのまんまじゃん」と言われてしまうと。せいぜいあの「エイリアン覚醒・開眼カット」のトラックショット程度が限界でしょう。(ご想像通り「サイコ」のシャワーシーン、ラストカット「ジャネット・リー目アップ」へのオマージュとしてですが)
「オリジナルのまんま。」これはライター、ディレクターにとって結構な屈辱なんですよね。ですから何とかしてオリジナリティーを出そうと頑張るわけです。
この気持ちは同業の私もよく分かります。
劇中反復されるミスリード・カット(視聴者に対しては明らかにアンフェアですが、これは確信犯ですね)を見ていて「うーん苦しいけど、きっとこうせざるをえなかったんだろーなー」とお二人の心中を察してしまったのは私だけではないでしょう(笑)。
個人的には、いかに登場人物の記憶違いを描写する為とはいえ、視聴者に嘘をつくミスリードの演出はあまり好きではありません。
あくまで好みの問題ですが。


二つ目は「現場の事情」。
なんか私、作品について語る時こればっかり言ってるような気もしますね(笑)。ただテレビドラマ製作の現況を見ていると、そのあまりの映画との違いにそう思わざるをえないんですよ。
テレビドラマは撮影期間の事情によるシーン数、カット数の時間的・機材的制約が映画とは比べ物にならない程多い為、監督が一生懸命考えたミラクルな発想も「現場の事情」で諦めざるをえない事が頻出するのです。


ご覧になった方は思い出して下さい。劇中で印象深かった一連の夜のシーンや主人公宅、雨の劇場前のシーン、あれはきっと物凄く時間の無い中で撮っていると思います。同じアングルで人物だけが違うカットも頻出しますが、きっとあれも照明を決めてから俳優だけを入れ替え、手早く撮っているはずです。現場の立場からすれば、本当は少しでも変化を付けたい筈なんです。同じカットなんて何度も使いたくない。
でも現場の切羽詰った状況がそれを許さないのです。
毎度のおバカな私見なのでまた怒られちゃうかもしれませんね(笑)。
先に謝っておきます(汗)。


ところで。ヒッチファンの方々がここまでお聞きになったなら、きっと一つの疑問に捉われるんじゃないかと思います。
「ヒッチコック作品はカット割りやトリッキーな撮影手法、さらに卓越した編集センスが真骨頂。だから「映画そのもの」と言える筈。
あえてそれを封じたような方法は、ヒッチ作品全てに共通するストーリー性の弱さを露呈させてしまうんじゃ?」


そうです。まさにその通り。多くのデ・パルマ作品を持ち出すまでもなく(笑)、ストーリー展開に重きを置かないヒッチ作品のプロットは、ある意味「監督の引き出しの数や、その演出を具現化する現場の環境」をあぶり出すような効果があるのです。
その事はかつてのテレビドラマ「ヒッチコック劇場」製作時、ヒッチ本人も語っています。「テレビ作品は何かと制限が多く、映画のようにきめ細かい作劇ができない。」
正確な記述ではありませんが、このような発言と記憶しています。

私はこう考えます。「映画は絵、テレビはおしゃべり」という厳然たる住み分けが存在する環境では、「絵」に頼るヒッチ作品はテレビには向かないのではないかと。
「サイコ」に於ける、観る者の心を恐怖のどん底へ突き落とす「シャワーシーン」の演出など、テレビ作品には望めないのでしょう。


さて。長々と「内容」についてお話してきました。続いては「周辺」について。
先ほど、ネットでこのエピソードの感想を検索したお話をしましたが、その時感じた驚きはこの「周辺」に関する事でした。

それらはオンエア後まださほど時間も経っていない現在での記事ばかりでしたから、そのほとんどはキャストやストーリーに関する感想でしたが、そんな中で目立ったのが「エイリアンの猟奇性や流血シーン、SEVENの露出度」に関するものだったのです。
「あれだけ流血シーンが多くては子供には見せられない。」
「最後にSEVENは一瞬出てくるだけ。しかもアイスラッガーとウルトラビームの一撃でとどめ。もっと肉弾戦が見たい。」

大まかにはこういった感想が大半でした。元ネタ「サイコ」に関する言及などほとんどゼロに等しい。「サイコ」の認知度は驚くほど低かったのです。
これは私には非常に面白かった。
おそらくこれが、今の一般視聴者の代表的なご意見なのでしょう。


この現況を見て私は思いました。
ひょっとして今回「SEVEN X」製作スタッフは、この現況を調べたかったんじゃないかと。
要は今回の「BLOOD MESSAGE」は、今のウルトラ作品ターゲット視聴者に対する「サイコ」認知度、もっと言えば「有名元ネタ」の調査だったような気がするんですよ。非常にうがった見方ですが。
そう考えなければ、あそこまで意識的な「オマージュ」が理解できない。


前述の脚本担当、長谷川圭一氏は1962年生まれ。「サイコ」を映画演出の教科書とした世代です。(余談ですが、かの実相寺昭雄監督も「サイコ」シャワーシーンのカット割りで演出を勉強した世代。かようにヒッチは世代人の先生的存在だったんですね。)
今回の作品を見る限り、やはりヒッチにもそれなりにシンパシーを感じていたと推察します。でもそれをあえてウルトラ世界に持ち込む発想は理解できない。これは作品の否定ではありません。「裏を感じる」という意味です。
これまでもウルトラシリーズには、大なり小なりオマージュ的なエピソードが散見されました。しかしそれらは旧作ウルトラへのオマージュやあからさまなアニメパロディーであって、ここまでの有名映画を元ネタにした作品はちょっと記憶にありません。
(私のいいかげんな鑑賞経歴による記憶です。違っていたらごめんなさい。)


確かに「サイコ」も今やクラシックスリラー。名作の肩書きを常に意識せざるをえない作品です。これだけ持ち上げられている作品だから今更「古い」とは言えない事も事実でしょう。「サイコ」初見の方には、常に「否定できない」という先入観が付きまとっている訳です。
ひょっとして長谷川氏はこの「サイコ」のプロットが現代も通用するかどうかを試したかったのかもしれません。ご自身とヒッチとの距離、またヒッチは「古い」かどうかを探る意味でも。これはウルトラ世界を舞台にした、非常に先鋭的な実験に思えます。そしてこの実験に、シリーズ構成の八木毅も「乗った」のではないでしょうか。
あるいは長谷川氏、八木氏のパワーバランスは逆だったかもしれません。
「ヒッチをやりたいんだ」という八木氏の熱い思いに「八木ちゃんも好きだねー。今更臆面もなくヒッチって」なんて笑う長谷川氏、なんて図も思い浮かんだりして(笑)。


ただ私はこのエピソードに、長谷川氏の「もう一つの実験」も感じてしまいました。
「BLOOD MESSAGE」を鑑賞された方がまず思い浮かべるラストシーン、ジンとエレアの会話。そしてクライマックス、ジンがXに変身する直前のエイリアンの「サメオ殺し」シーンです。
ラストシーン、エレアのセリフが今回のエイリアンとジンの境遇をオーバーラップさせる事で、ストーリーを「SEVEN X」全体のテーマにまで押し広げようとする長谷川氏の戦略を見る事は容易ですが、それをこれまでの路線とするなら、その直前「サメオ殺し」を敢行するエイリアンに手を出さない、Xに変身しないジンの描写はどう解釈すればいいのでしょうか。
あの変身スピードを考えれば、ジンはエイリアンを止める事だって出来たはずです。それをあえてしない。ジンはサメオを見殺しにしたのでしょうか?それともエイリアンの復讐劇を認める側に立ったのでしょうか?この二点を考え合わせると、「SEVEN X」の世界観には驚愕すべきものがありますね。

(このあたり、未見の方にはまったく分かりませんよね。本当にごめんなさい。
ネタバレを極力避けるためには仕方ないんです(涙)

もしもこの描写が「SEVEN X」の目指す地平を暗示するなら、これは平成ライダー以上の実験、「ネクサス」など目じゃないほどのダーク・ストーリーと化す可能性も大ですね。
長谷川氏が試した実験は、これまでのウルトラ世界を大きく覆すような展開に繋がるのでしょうか。

ただそれもある意味、エイリアンストーリーがたどり着くべき一つの到達点なのかもしれません。視聴者は主人公「X」をヒーローと思い込みたい。でもこの世界はそんなお約束さえ裏切るのかも。
ジンの過去について何も知らされない私たちは、製作側が仕掛けた数々の実験に心地よく翻弄されているようです。
まさか視聴者の注意をヒッチ・ストーリーに向けておいて、その端に「X」のテーマを覗かせる高等技術だとしたら、それも恐ろしくトリッキーな技ですね。


私の想像以上に深く、重い意味を突きつける「X」というネーミング。
やはりこのドラマは深夜、リアルタイムで見るのが正しいようです(笑)。

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2007年11月23日 (金)

超兵器配備無計画

Photo 今日はいつものオタク部屋を離れ、こちらからお送りしましょう。
久しぶりにプラモ製作を始め、再起動した工作室。
狭いながらも楽しいプラモ部屋です。今日も先ほどまで作業でした。

Photo_2 製作中なのは先日お話した「ガンダムTR-1[ヘイズル改]」。
数十年ぶりのガンプラで少々勝手もちがいます。
目ぼしいパーツだけでもこんなにあるんだもん。

これだってほんの一部です。ランナーから切り出してゲート処理、下地色を塗るだけなのにもー大変。

Photo_3 でも最近のガンプラのパーツ精度は凄いですね。
ほとんどパテの出番がありません。

Photo_4 貧乏ながら必死の思いで入手したエアブラシシステム。
ピカピカの外観が、いかに宝の持ちぐされかを物語っています。
もっと使ってあげないとねー。
Photo_5 半年前に作ったゼンマイ怪獣ガレロンと記念写真。
ガレちゃんの応援に応え、今回もがんばります。
(とはいえ手の遅い私。完成時期はあくまで未定です(涙)。

2007年11月22日 (木)

BGMはマライア

シーン① オタク部屋(今朝)

Photo_6来たよー!コタちゃん。

えっ?かんぱが?






Photo_2
そうじゃなくて。
ザらスとハンズの冬カタログ。毎年楽しみにしてるのよ。

ふ~ん。おねえちゃんごのみのかたろぐね。
Photo_3
今年のクリスマスはまずこれかなー。
ロマンチックじゃない?部屋にプラネタリウムなんて。

電源を入れるだけで星空が見えるのよ。
でもくらくなったらわたしあそぶから、
むーどないけどね。うるさくて。



Photo_30プラ怪獣もいいよねー。
通はザらスオリジナルを見逃さないのよ。

これ、すてごん?


Photo_39カレンダーはやっぱり来年の干支で揃えないとねえ
ひだりのやつってはりねずみ?




Photo_38となるとツリーも欲しいよね。

わたしだったらのぼれそうだけど。

じゃー今日は、お仕事の帰りに見てこようかな。
いつもずるいよ。おねえちゃん。


シーン② オタク部屋(夕方)

Photo_34 どうだった?なにかいいものあった?
・・・電源タップとプラカラー。予算の問題。
う~ん。りそうとげんじつね。




Photo_35で、カレンダーは・・・

よかんはしてたけどやっぱりわたし?やだよー。
それで?つりーは?

ツリーはね・・・ ほら。


Photo_13 あっ。きれいー。
・・・もう街はクリスマス一色なのよ(しみじみ)。

名古屋駅名物・ナナちゃん人形。
  市民はこのナナちゃんの衣替えで、季節の移り変わりを感じます。

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2007年11月21日 (水)

恋する「ネヴィラ」

「やっぱり。そーだよねー。」
ブラウン管(オンエアはブラウン管テレビ鑑賞なので)前で一人喜んだ私。

珍しく点けていたゴールデンタイム・午後6時55分からのTBS系「水トク!クイズ!日本語王07」。何気なく見ていた私でしたが、ある一瞬で俄然目が輝きました。

ご覧になった方も多いと思いますが、この番組は普段私たちが何気なく使っている言葉の使い方や意味、また語源などをクイズ形式で解説してくれるという内容。
こんなお勉強風の番組しか楽しめなくなった自分に若干の寂しさを感じながらも、「ヘキサゴン」の作り物めいたボケの応酬よりはマシと思い、出演芸人の発言を無視して鑑賞していました。

目からウロコが落ちたのは番組開始後まもなく。英語をカタカナに直した表記についての問題でした。以下は番組中の出題とはちょっと方法が違いますが、あえてわかりやすくご説明しましょう。

「コミニュケーション」という表記は正しいかどうか?

ほとんどの読者はおわかりと思いますが、これは間違い。
正解は「コミュケーション」でした。

私、これを聞いて永年の戦いに決着がつきました。
というのは、この「コミュニケーション」という表記について、私はもう30年以上前から周りの人たちと議論を繰り返していた経歴があるからです。

私が「COMMUNICATION」という英語のカタカナ表記を「コミュニケーション」と覚えこんだのははるか昔。
それ以来、学校や職場で「コミニュケーション」という表記や言い回しを聞くたび「それって『コミュニケーション』じゃないの?」と尋ねる事数十回。

その度に「いや。間違いなく「コミニュ」だ」と力説する者、「英語のカタカナ表記だからどっちでもいいんじゃないの?」とはぐらかす者など、相手の反応もさまざまでした。
さらに不幸な事に、私の周りには一人として「コミュニ」派が居なかったのです。前述のようなあいまいな反応に翻弄され、「コミュニ」派の私は30年以上日陰の生活、まるで隠れキリシタンのような生活をを余儀なくされて来たのでした。(そこまで深刻でもなかったですが(笑)。


その永年の鬱積が今日のこの番組で一気に解消。実に晴やかな気分に包まれたと言えば皆さんにもお分かり頂けるでしょう。それはまるで冤罪事件の無実が証明されたような感動。クラスメートの給食費を盗んだのは私じゃないのよ的嬉しさが体の中を駆け抜けたのでした。

「オタクイーン、そんな細かい言い回しになんでそんなにこだわるの?」とおっしゃる方も多いでしょう。まーこれは私の性分、割り切れない事が気になって仕方がない性格のせいでしょうね。
幸いな事に、その性分は今のお仕事にも随分役立っています。
番組の企画書や台本を書くことが重要なお仕事であるディレクターにとって、言葉の表記は非常に正確性を求められるものだからです。
例えば取材先と打ち合わせを行った時。取材先は自分達の業界用語が世間でも通用すると思っています。ディレクターはその用語を租借し、一般の視聴者にも分かる言い回しに変えなければならないのです。


一つ例を挙げましょう。皆さんは大変意外に思われるかもしれません。
これからの季節に活躍するマフラーなどに使われる「カシミヤ」っていう高級服地がありますよね。これはインドのカシミール地方に生息するヤギの毛から作った織物の意味なんですが、放送用語では「カシミア」が正しいんですよ。

「ヤ」「ア」の違いでしかありませんが、この表記で以前、局のアナウンサーと大論争を起こしまして。だってユニクロをはじめ、今広告を打っているほとんどのメーカー、ブランドは「カシミ」という表記なんですから。さらに始末の悪い事に商品のタグまで「カシミ」表記なんです。これには参りました。

で、件の商品を販売しているブティックのスタッフに聞いてみても「カシミ」と覚えこんでいて疑問に思った事もなかった、という返事。以前「カシミ」と覚えた私は気になって仕方がなく、この素材名をナレーション原稿に書いても気持ちが悪くて仕方がない。こうなったら最後の手段、という事で、局の番組審議室とアナウンス部の両方に問い合わせる事にしました。
返答はこうでした。
番組中の表記について局側の見解を統一する役割の番組審議室の見解は「カシミア」。局の顔として正確な発音を心がけるアナウンス部の見解は「部内の全ての表記は広辞苑を基準にしているので、この場合も広辞苑に従う。」


この返答を聞いた私は即座に広辞苑をひっくり返し、そこに記された「カシミア」という表記にほっと胸を撫で下ろしたのでした。参考までに、制作部内の国語辞典数種類を全て調べてみましたが、なんとこれが、広辞苑以外はすべて「カシミヤ」表記だったのです。
世間一般の表記、また辞典数種類の「多数決」では明らかに「ヤ」でも、放送局としての見解は「ア」という、非常に奇妙なケースですよね。
まー結局、この件をアナウンサーに説明して読んでもらったわけなんですが、どんなに指導しても「ア」と「ヤ」が区別できるほど正確な発音が出来なかった為、どっちつかずの結果に終わっちゃいましたが。
私の苦労はなんだったのと(笑)。


でもこういう事って、正式な発音を理解しているかどうかでお仕事の進め方がまったく違ってきますね。ナレーターに「どっちなんですか?」と聞かれた時、ディレクターがオロオロしていてはお仕事全部の信頼性が失われてしまいます。
ほんのちょっとした事ですが、これは非常に大切な事だと思います。
蛇足ですが参考までに。テレビのコマーシャルなどで謳われている「カシミヤ」表記が放送局上黙認されている理由を推測しますと、これはおそらく「広告制作主であるスポンサーの判断を優先する」という一種のグレーゾーンによるものでしょう。
でも局が制作する番組では正確な表記を求めるという事なんでしょうね。
ただこの判断も局によって微妙な差があるようです。ですから全国的な統一見解ではない事を付け加えておきましょう。念の為。

こんな事を考えていてふと見れば、私のブログタイトル「恋するネヴュラ」の表記も、実は同じようなケースじゃないのと思い当たりまして。まーこれはブログ開設以前、自分の中では既に決着がついている事ですが、いい機会なのでちょっとお話しますと。

Photo_7ブログタイトルの「ネヴュラ」表記の言われがかの「スペクトルマン」から来ている事は、以前お話したとおりです。
ところがこの表記、「スペクトルマン」という番組上の表記とはちょっと違うんですよね。

写真は番組タイトルが「スペクトルマン」に変わってからのオープニング映像の1コマです。
他のヒーロー番組の例にもれず、スペクトルマンもオープニングには勇壮な主題歌が流れ、その歌詞が画面の下にテロップ表示されていました。画面に出ている歌詞をご覧頂けば違いは一目瞭然、「ネヴラ」じゃなくて「ネヴラ」になっていますよね。


これ、意外にも「スペクトルマン」という番組中では統一された表記なんですよ。あのアバウトな設定が魅力の(笑)「スペクトルマン」に於いて、この表記の統一性はちょっと驚きです。
歌もよ~く聞けばちゃんと「ネヴラの星の正義の勇士」と歌っています。

(個人的には前主題歌「スペクトルマン ゴーゴー」の方が好きですが、今回は便宜上この歌で)。
「ネヴィラ」。これは当然の事ながら「星雲」という意味ですが、これを頑ななまでにこう表記した理由はちょっと推測できません。この単語の由来は、あのヒューゴー賞と並び称されるSF文学の金字塔、ネヴュラ賞から来たものじゃないかと思ってもみるんですが、今ひとつ判然としませんね。「ュ」が「ィ」に変わった理由が。

「スペクトルマン」を心の源とする私のブログなら、本来は「恋するネヴラ」とすべき所なんですよね。鷺巣富雄氏に敬意を表する意味でも。
実際迷ったんですよ。でもそうしなかった理由は、やはり「なんとなく正式表記は『ネヴラ』なんじゃないのかなー」という私の性癖から来てしまった事なのです。
それに、まさか自分でもここまで続ける事が出来、おバカなブログとして皆さんに可愛がって頂けるとは思ってなかったんで(笑)。


そういう意味でも、認知度が上がった「ネヴュラ」の表記を変更する事はちょっと考えにくいですね。まーこれからも「ュ」で行きます。こんな機会で申し訳ありませんが、これからも「ネヴュラ」でよろしくお願い致します(笑)。

さて。期せずしてスペクトルマンの話題が出た所で、ちょっとこれも皆さんにお聞きしたい事がありまして。よくある怪獣名の表記についてなんですが。
スペクトルマンの初期タイトル「宇宙猿人ゴリ」第9話に登場した怪獣。
怪獣ファンの読者の皆さんはきっとご存知でしょう。鳥の羽根を持つ巨大な鼠の体から、鼠の双頭が伸びたあの醜悪な姿。
鼠のイメージ通り、恐ろしい病原菌を持つ怪獣。

「あー、あれ。たしか「ネズバードン」とか言わなかったっけ。」
ひょっとして、こう覚えている方も多いんじゃないでしょうか。素晴らしい。
ウルトラ怪獣に比べ格段に知名度では劣るピープロ怪獣の名前をそこまで記憶されているだけでも拍手ものです。


Photo_8ところがこの怪獣、正式名称は「ネズバードン」じゃないんです。
正式名は「ネズバーン」。
「ド」じゃなくて「ト」なんですよね。
「だって鼠の体に鳥の羽根でしょ。
鼠と鳥で「ネズバードン」じゃん。」

ごもっとも。でも「ネズバートン」なんです。
このエピソードのタイトルテロップもちゃんと「恐怖のネズバートン」、劇中でもゴリは「ネズバートン」と呼んでいます。

不思議ですねー。どう考えたって「ネズ」と「バード」でネズバードンですよね。このネーミングセンスはさすがに私も不思議でなりません。
まーこのあたりがピープロ特有のセンスなんでしょう。
なんといっても「ボントトルエカ」のピープロですから(笑)。


この辺を語りだすとゲルショッカー怪人「ガニコウモル」が「カニコウモリ」じゃない理由まで弁護しなければならないので(笑)「ま、そういう事」ぐらいに止めておきましょう。
でも、怪獣名としては濁点の多い「ネズバードン」の方が迫力では上なんですが。理にかなってるし。ああ三球照代の世界(笑)。

こんな風に、怪獣の表記について掘り下げてみるといろいろ面白そうですね。これからも時々思い出してみたいと思います。

さて。今日の最後はちょっとした謎を。
日本で定着した単語の語源についてです。
お話の途中、物議を醸し出した「カシミア」とはまた別のお話なんですが、メンズファッションを扱う高級ブティックで先日、初耳の語源を聞きまして。


「日本語として定着したある紳士服ジャンルの語源は、イギリス・ロンドンの地名「サビル・ロウ」から来ている。」

この日本語表記を聞いた私はいい年してビックリ。なにしろそんな物にまったく縁のない生活なので、新鮮な驚きを味わってしまいました。
博識な読者の皆さんはご存知の事でしょうね。いやー私は知らなかった。
答えは伏せておきましょう。ご存知ない方はちょっと調べてみて下さい。

あえてヒントを言えば・・・
まー、「セ・シボン」と「佐世保」みたいな関係です(笑)。

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能面一対

「なるほどねー。これはプロデュースサイドの手腕だね。」
最近、注目している新作ウルトラ「ULTRASEVEN X」。
全国ネットじゃないのが惜しいですが、なにしろキー局がお世話になっているCBCテレビなので見ないわけにもいかず(笑)。


毎週金曜、深夜26時15分からの放送なのでさすがにタイマー録画は免れず、翌日ゆっくり見るという不良視聴者ですが、現在第7話まで放送済みのこのシリーズ、それなりに健闘しているようには思えます。
ただオリジナル・セブンの昔から抱える「ヒーロー出現と共にストーリーが終わる、または落としどころが決まってしまう」という永遠の課題だけは、今もって解決には程遠いですが。
セブンのデザインを復活させた理由も、大人の事情が透けて見える年代以外には理解できない事と思います。
とはいえ冒頭の感想にあった通り、「製作予算に合った世界観」の構築に関してはかなりの高レベルを保っているという印象です。何も大掛かりなセットを組んだり超兵器が登場するだけがヒーローストーリーと思ってはいないので、これはこれでいいんじゃないかと。
むしろこういう虚飾を取り払った世界観の方が、ストーリーのコクを味わう事ができます。いろいろ好みもおありでしょうが。

「SEVEN X」はもう全話を収録、製作を終えての放送と聞きましたから、テコ入れ等で設定が変更される心配もありません。ストーリー後半のポイント、主人公が探す「失われた過去」の真相に期待したいところです。

ところで読者の皆さん。私は「SEVEN X」のある部分に、ちょっとした違和感を抱いています。残念ながら放送されていない地域の方々もHPなどで確認できると思いますから、ちょっと覗いてみて下さい。
私が抱いた違和感はこういう事です。
「主人公『ジン』って、SEVEN顔じゃないよね。」


今回リファインされたウルトラセブン、「SEVEN X」の顔をご覧頂けばお分かりと思います。これは私には、最近のリファインデザインの流行を踏襲した「怒り顔」に見えます。オリジナル・セブンが怒ったらこんな顔になるだろうなー、そんな事を思わせる険しい顔。釣りあがった眉がそんな印象を与えるのでしょうか。マッシブな体躯もその印象に拍車をかけているのかもしれません。
それはそれである意味、完成されたデザインと思います。
ところが、この「X」の険しい顔と変身前の姿、人間体を演じる「ジン」こと与座重理久氏のお顔を比べてみると、ちょっとその印象がオーバーラップしないんですよ。


平成ライダーあたりから派生した最近の流行、いわゆるイケメン顔の与座氏の顔は、「X」に感じる怒りやワイルドさとはやや趣を異にした甘いマスクなんですよね。
ストーリーのクライマックス、与座氏がウルトラアイを装着し「X」に変身した瞬間、そこには不思議な違和感が生まれるんですよ。
「別人感」とでも言うようなものが。

ひょっとしてこれが大きな伏線で、これからの後半ストーリーに大きく関わってくるような製作側の仕掛けだったりしたら、私はそのシリーズ構成の妙に大きく頷く所ですが。

いつもながらそんなささいな事を考え、過去のウルトラヒーローの人間体を思い浮かべていた所、ひとつの面白い印象に気がつきました。
「ハヤタ隊員って、つくづく「初代マン顔」だったなー(笑)。」


Photo「ネヴュラ」読者の方々には説明するのも失礼ですが、初代ウルトラマンの人間体・科特捜隊のハヤタ隊員を演じたのは、当時の東宝映画所属の若手俳優、黒部進さんです。
彼の端正な顔立ちや颯爽としたイメージは、劇中の「怪獣退治の専門家」科学特捜隊のエリート隊員にピッタリ。
その彼が稀代の宇宙人ヒーロー、ウルトラマンと一心同体になり、毎週登場する怪獣や宇宙人と戦う、という斬新な設定が、「ウルトラマン」というドラマの新しさであり、また大きな魅力でもありました。


ウルトラシリーズも生誕41年目を迎える今年、私を含め皆さんは当たり前のように感じられるかもしれませんが、「ヒーローの変身前と変身後のイメージに違和感が無い」という事って、実は結構重要な事じゃないでしょうか。
そりゃまー合体したとはいえウルトラヒーローと地球人は「別人」ですから、顔形が違っていても不思議じゃないんですが、あまりにイメージがかけ離れているのもちょっと受け入れがたいと思いますし。
で、私だけかもしれませんが、ウルトラシリーズ中、変身前・人間体のイメージが変身後のイメージに一番しっくり来るのは、やはり初代マンだったような気がするんですよ。


印象的にはその次が森次「セブン」浩司氏、長野「ティガ」博氏、篠田「タロウ」三郎氏と続きます。意外にも団「新マン」次郎氏はあまりイメージが合わない。やっぱり初代マンと同じ顔のせいでしょうか、どうしても「マン」と言えば黒部氏のイメージが重なってしまうのです。要は黒部氏のフェイスラインがマンのそれをイメージさせるんですね。団氏の鋭角的なフェイスは、丸みのあるマンの顔とはちょっと違う感じがしちゃうんですよ。
余談ですが、初代と新マンのイメージを分けるのはあの体の模様の違いではなく、むしろスーツアクターの体型差によるプロポーションや、胸などボディー造形の違いによる所が大きいのではと考えるのですが。


この印象の違いは、初めてウルトラに接した年代によるものが大きいですね。「新マン」がリアルタイムなウルトラヒーローだった方には、「マンと言えば郷秀樹」という絶対的なイメージがおありでしょうし。ですから前述の印象はあくまで私だけの物、いつもの私見とお考え下さい。

さて僭越ながら、今回もあくまで私の印象でお話を進めさせて頂きますが(笑)、「初代マン=ハヤタ」という実にピッタリなイメージは、当時のスタッフによって予期されていたのでしょうか。それが気になった私は(気にし出したら止まらないもので(笑)、手持ちの色々な文献、インタビューなどをひっくり返して、自分なりに考えてみました。

Photo_2以前にも、「ウルトラマン」劇中に於けるハヤタ隊員とマンの関係、露出のバランスについてはお話しましたね。「マン登場まで、ハヤタはマンとしての意識をほとんど露出していない」という印象です。それがストーリー進行上「ギリギリまで健闘する科特隊・その健闘に応えて現れるマン」という図式に繋がり、独特のカタルシスを生んでいたものと思います。
はたしてそれはスタッフの計算によるものなのか、それともあの黒部氏のキャラクターによって偶然生まれたものなのか。そこが気になるんですよ。
これはおそらく、当時のスタッフにも明確な答えは出せないでしょう。
色々な証言や黒部氏ご本人のインタビューから推測するしかありません。
でもこんな推測も楽しいお遊び、例によって真実と違っていたら、関係者の方々に深くお詫び致します。


Photo_6いつもの私見ですが、私の印象ではその要因はどうやら、ハヤタを演じた黒部氏によるものが大きいように思います。
黒部氏を含む「マン」スタッフ・キャストのインタビューなどを調べてみて、面白い事に気がついたからでした。

「ウルトラマン」メインキャストの中での、黒部氏起用の経緯やその演技についてです。それについて、黒部氏ご本人はこんなようなお話を語っています。
「当時、自分のような若手俳優はとても役を選べるような立場ではなかった。与えられた役をそのままこなす。これが自分の仕事だった。」
と同時に、ハヤタという役柄についてこうも語っています。
「当時の東宝の若手であの手の役をこなせる役者は、ちょうど自分しか居なかったんじゃないか。一期下には黒沢年男がいたけど、彼はちょっとハヤタには「濃い」じゃない。ハヤタという都会的な役に当てはまるのは、当時自分くらいしか残って居なかったと思う。」
実際には非常に謙虚な語り口でしたが、大まかにはこんな内容でした。
あくまでご本人の印象ですが(笑)。


皆さんもご存知と思いますが当時、ヒーロードラマの主役というのは、通常のドラマとはやや違う配役経緯が取られていたようです。
要はあくまで「主役は変身後」という事ですね。ですから変身前の姿はあくまで「変身までの仮の姿」。乱暴な言い方をすれば「繋ぎ」に過ぎなかった訳です。最近の作品ではそれもかなり変わってきましたが。
(ちょっとキャラ勝負に流れすぎる最近の傾向もどうかと思いますが(笑)。
当時おそらく黒部氏も、「主役はウルトラマンなんだから人間体はそれらしいルックスなら演技力は二の次」的な感覚で選ばれたのではないでしょうか。


Photo_3ちょっと科特隊のメンバーを思い出してみて下さい。
映画界のベテランにして風格抜群の小林「ムラマツ」昭二氏、豪放闊達な猛者、石井「アラシ」伊吉氏、ギャグメーカーにして表情豊かな二瓶「イデ」正也氏、前作「Q」からのスピンオフキャスト、桜井「フジ」浩子氏。
いずれも特撮番組経験者、もしくはどこへ出しても恥ずかしくない芸達者ばかりです。こうしたバイプレーヤーに囲まれ、黒部氏はさほど主人公らしいスタンスを持てなかったのかもしれません。東宝怪獣映画に出演経験のある黒部氏ご本人も、このメンバーの中ではやや影がうすいような気がします。

「ヒーロー作品はバイプレイヤーが大事」という不文律は、この作品に限らず映画界の鉄則です。時代劇なんかでも、迫力ある立ち回りを作るのは主役より切られ役の演技による所が大きいからです。「マン」という特撮側の主人公が居ればそれはなおの事。そういう意味で、この「ウルトラマン・キャスト」は実に当時らしい配役だったと言えます。


私のそんな印象は、スタッフやキャストによって語られた撮影裏話によってさらに裏付けられました。
「富山県出身の黒部氏はセリフの上でなかなか訛りが抜けず、撮影現場でもよく小林キャップに「訛ってるね」と言われていた」
「当時の番組はセリフは全てアフレコ。(撮影後、セリフのみをスタジオで口合わせで録音する方法)黒部氏はこのアフレコが科特隊メンバー中一番下手で、口とセリフを合わせるのに大変苦労した」
「走る演技の多い科特隊メンバー。若干O脚気味の黒部氏は走る姿がスマートに決まらず、よく飯島敏宏監督から「走る練習」を指示されていた」

などなど・・・
黒部氏・桜井氏のインタビューのみなので若干公平を欠くかもしれませんが、実際ご本人の口から語られた証言なので、まあリップサービス率も低いものと思います。

確かに他のメンバーの裏話もまんべんなくあるのでしょうが、この黒部氏関連の裏話を聞いていて思ったのは、当時の黒部氏の「新人ぶり」でした。
平たく言えば「他のメンバーに遅れを取っていた」という印象なんですね。
石井氏などに多かったやんちゃゆえの裏話じゃなく、「勉強中の俳優の苦労」が窺えるのです。このお話を聞くにつれ、私には「ハヤタはマン顔」というイメージの一端がちょっと推測できるような気がするんですよ。


Photo_4「マン」劇中、ハヤタ隊員ってさほど表情豊かじゃありませんよね。非常にステレオタイプの二枚目で、人間的な奥深さを感じさせる表情がほとんど無い。
これはひょっとすると、当時の黒部氏の演技力不足によるものだったんじゃないかと。
ご本人の懸命な感情表現も残念ながら演技に反映されなかったのでは。
ところがこれが意外な効果を生んだと。ラテックスやFRPで造形されたウルトラマンの顔って表情がありませんよね。後の研究でこの顔は角度によって、また見る人の感情を反映して様々な表情を映し出す「能面的効果」を生むものと言われてきました。
実はハヤタ隊員の顔にも、この「能面的効果」があるような気がするんですよ。表情作りが不得意だった黒部氏の顔に、私たちが感情を反映させたと。


Photo_5ちょっと考えてみて下さい。例えば「マン」前作「ウルトラQ」の主人公、万城目淳を演じた佐原健二氏がハヤタ隊員を演じていたとしたら。
演技力に裏打ちされた佐原氏が作り出す豊かな表情は、あの朴訥仁のようなウルトラマンの人間体としては少し感情を饒舌に語りすぎると思いませんか?
そう考えると、半ば偶然にキャスティングされた黒部氏のあの「演技力不足」が、ウルトラマンの神秘性に大きく影響しているように思えるのです。
「マン」の成功に秘められた数々の運命のいたずらはこれまでにも色々語られてきましたが、ことキャスティングに関してもこういう奇跡が感じられるあたり、「マン」の奥深さを強く感じますね。


単なる顔立ちだけでなくその表情までお互いに影響し合い、絶妙なバランス感覚を見せたウルトラマンとハヤタ。偶然とはいえこれだけの相乗効果を生み出した運命の巡り合せに感慨を禁じえません。
改めて「ウルトラの星に導かれる人々」という言葉の重みを感じてしまいますね。


インタビューのラスト、黒部氏はこう締めくくりました。
「ウルトラマンイコール黒部進なんですよ。ですから表裏一体。
要するにある部分、僕の血の中にウルトラマンていうのは組み込まれてる。
僕の血の一滴みたいなもんですよ。」


ウルトラマンとハヤタ。能面と表される二つの顔を繋ぐ熱い血は、今後も私たちを魅了し続ける事でしょう。ただインタビューに答える黒部氏の表情は、当時よりもはるかに豊かになっていましたが(笑)。

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2007年11月19日 (月)

あえてのG

・・・迷う。
例によって商品棚の前で腕組みをしたまま、身動き一つ取れない私。

「買うた・やめた音頭」は免許皆伝級の私も、今日ばかりは事情が。
「やっぱり買っとこ。」
830円程度の代物でここまで悩む私は、つくづく小心者と思います。

Photo_10これを見て懐かしさがこみ上げる方もいらっしゃるでしょう。
ご覧の通り、「Dr.スランプ アラレちゃん」のイラストパッケージもあでやかなバンダイ製プラキット「ファンタジーライオン」です。

これは同テレビアニメが放送されていた1982年に発売されたものの再版。この夏・四半世紀ぶりに突然発売され、オールドファンの感涙を誘った逸品でした。

当然の事ながら、初版発売当時はDr.スランプブームの真っ只中(アニメは原作の人気を受けて製作されるので、実際にはピークをちょっと過ぎていました)。
このブームを蚊帳の外から眺めていた特撮ファンの私でしたが、定期購読していたホビージャパン誌の’82年10月号にこのキットの改造レビューが掲載されて以来、そのあまりのラブリーさにすっかり虜となってしまいまして。
早々、入手したまでは良かったのですが、なにしろ自分の力量も顧みず改造に挑んでしまった為見事に失敗、キットは志半ばにして未完成のまま、記憶の片隅に追いやられてしまったのでした。
先日、地元のお店でこのパッケージを見た途端、当時の苦い記憶がまざまざと甦ったのは言うまでもありません。
ところが当時の敗退の痛みが邪魔をしてリベンジに踏み切れない(笑)。
さんざん思案した上の購入となったのでした。


先ほど「先日」と言いましたが、実は購入したのは今日、先ほどなんです。
それほど迷っていたという(笑)。繰り返しますが830円(税込)。
でもこういう時って笑える事が重なるもので。これを持ち帰りちょっと昔のキットの整理などをやっていたら、見つかっちゃったじゃありませんか。
例の「苦渋の塊」が(笑)。


Photo_2よせばいいのに二つ並べてみました。やっぱりご他聞に漏れず、どんなキットでも初版と再版では箱のデザインも微妙に違うんですね。左が再版、右が初版です。イラストはほぼ一緒でも、商品ロゴや黒の縁取りなど、細かい所に違いがあります。

Photo_11箱の横などは全然違いますね。上が再版です。まー確かに、今回再版されたラインナップはシリーズのごく一部ですから、初版ほどのシリーズ告知はできない事情もありますね。
「ロビーアラレ」なんてぜひ再版して欲しかったですね。
MGMが許さなかったんでしょうか(笑)。

さて。この「ファンタジーライオン」、実は今日の本題とはあまり関係がありません。
今日、お店を覗いた本来の理由は、件のキット購入ではなかったからです。

今年4月。自室の工作机の整理を機に、数年ぶりにプラモデルを製作しました。「ネヴュラ」でもその様子は数日間に渡ってお話したので、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。その工作机もここ数ヶ月は物置と化していたのですが、秋の衣替えとともにまた片付けを行いまして。ほぼ半年振りに「製作スタンバイ状態」に戻ったのです。
勝手なもので環境が整うと、また何か作ってみたくなるもので。ここ数日間、久しぶりになじみの模型屋さんをあちこち覗いていたのでした。
前回のミニゴジラもその時の拾い物だったのです。


前回、4月の工作では「昔のキットを昔の雰囲気で作る」と言うのが大まかなねらいでした。選んだキットはアオシマ製ゼンマイ怪獣ガレロン。大変楽しい時間を堪能しました。しかし今回は、またちょっと違った時間を味わってみたくなっちゃいまして。
懸命な読者の方はお察しと思います。今回のサブタイの意味はここから来ているのです。
「あえてのG」。今回は「G」のプラキットを素材に考えました。


今回の「G」はゴジラでもガメラでもありません。怪獣ではないのです。
今最もお店で入手しやすい「G」。
そうです。「ネヴュラ」始まって以来の暴挙。ガンプラに挑戦です。
「なーんでオタクイーン、またベタなネタを」と思われた皆さん、ごもっともです。いい年して今更アムロも無いだろうと(笑)。


Photo_4ガンダムのプラキットが発売された1980年。私もご他聞に漏れず、お店の在庫を奪い合ってキットを作り倒した世代です。RX-78だけでも4体、MS-06も何体かはモノにしました。
当時、「ガンダム」という作品のクオリティーが評価され、大きな波がマニア層を直撃していたんですね。そんな波の中誕生したキットもマニアを充分満足させるクオリティーを持っていました。

当時はまだガレージキットが全国シェアを持つ以前。怪獣のキャストキットが一万円以上した時代。要は「あの頃のSFキットは、MPC製のスターウォーズかガンダムくらいしかなかった」という事なんです。ですから私も、作品の好き嫌いはともかくガンダムを追い求めたと。今思えばそんな気もしています。

Photo_6その出来は、今の目で見れば決して満足の行くものではありませんでしたが、とにかく「形」にはなっていた。量産型という劇中の発想が功を奏し、同じキットを複数作る事に意義を見出せたのもガンダムが初めてでした。
とにかく当時、その売れ行きは凄まじいものでした。1/144リックドムなんて店頭に並んでも数秒で売り切れ、私はしばらくその存在さえ確認できないほどでしたから(笑)。

そんな過去がDNAに影響しているのか、今でも私は店頭で新作のガンダムキットを見ると一度は手に取ってしまいます。究極のキットと前評判が立った「マスターグレード」などは商品化第一号のRX-78-2を店頭で見るなり二個ゲット、作る予定も無いのに。まったく悪い癖が付いてしまったものです。

Photo_5もう作らなくなったガンダムキットを甥っ子達に持っていったのもこの春。10個以上減らしたのに、まだ部屋には結構残ってるんですよねこれが。
もう情けないくらいです。

ですがこれらを作る気になれないのは、いつか私の先輩が言っていたある言葉によるもので。

「マスターグレードは作ってる気にならない。作らされてる感じがする。」

私もパーツを見ていてそう思うんですよ。これ、きっと作っていて楽しく感じないんだろーなー、なんて。
これは個人的な感覚なのでお許し下さいね。
「このハイクオリティーキットのどこに文句があるんだ!」とおっしゃるのもごもっとも。へそ曲がりの独り言と笑っていただければ。

そんな私が、何故今ガンプラを作ろうとしているのか。
いやー実は、ちょっと試してみたくなったんですよ。
「ガンプラでどこまで楽しめるか」という事を。
要は私、ガンプラに限らず最近のプラモデルから遠ざかりすぎてちょっと食わず嫌いになっちゃってるのかも、なんて思いまして。

楽しいか楽しくないかはやってみなきゃ分かんないよねえ、なんて。
気がつくのが随分遅いですが。
そんな単純な理由で、今回の素材はバリバリの「ガンプラ」にしようと。


とはいえガンプラブランクも長い私、いきなりマスターグレードみたいな複雑なキットは荷が重過ぎます。でもそれなりの充実感は味わいたい。
で、キット選定にはいくつかの基準を設けてみました。


 あくまで「ガンダム」系MSを作る
  ザク系も好きなんですが、今回はガンダムの「形」にこだわります。
 あまり商品化されていない機種を選ぶ
  しかも完成品が出回っていては全然モチベーションが上がりません。
 スケールは1/144程度、キットの予算は1,000円程度
  お仕事の関係であまり作業時間が取れないので。
  実質作業が二週間程度で収まるようなキットが良いんです。
  予算はそれ以上に深刻な理由(笑)。
 改造はしない。ストレート組み
  今回は一種の「リハビリ工作」なので、難しい事には手は出しません。
  つまり、無改造でも映えるキットを選ぶ事となります。
 キットに付随する設定は無視
  初作と逆シャア、0083程度の知識しか持ち合わせていない私には、
  ○○戦の試作機がどうの、××空域で活躍したなんたら、なんて設定は
  まるでチンプンカンプン。あくまでも形だけで選びます。
  設定は勝手に作っちゃいます。ガンダムである事さえ無視します(笑)。
 「楽しむ」事
  ガンプラである事に縛られない。キットはあくまで素材と割り切ります。
  どんなに発想が飛躍してもOK。今回はむしろそっちに力を入れます。


つまりガンプラを素材にして、ガンダム世界にはこだわらない物を作ろうと。
ガンダムに思い入れの少ない者にしか出来ないお遊びです。
これは私にとっては「ボトムズ」では決して出来ない芸当です。いちいち設定にこだわりすぎちゃってまったく前に進めない。
今回はもっとお気楽にやります。
でもこれは「ガンダム」という作品の出来とはまったく関係ない事ですから、ファンの皆さん、怒らないで下さいね。


Photo_7で、お店の売り場をグルグル回って「形」だけで選んだのがこちら。
「RX-121-1 ガンダムTR-1[ヘイズル改]」なるものです。いやー最近のガンダムは名前も長いですねー(こういう言い方するとまたファンに怒られるんだろうなー(涙)。

このゴツいいでたちが何ともそそります。ボトムズ好きの私はこの手のデザインに無骨さを求めるタイプなので。
ガンダムでなくなるギリギリのラインでシルエットを成立させているデザインセンスがいいですね。映像作品ではなく、雑誌掲載ストーリーのみに登場する機体というのも自由度があって良いです。
まー設定は変えちゃうんだけども(笑)。


Photo_8そんな訳で、今回はこれをまな板に乗せ「あえてのG」を楽しんでみようと思います。ただいつもながら飽きっぽい私、さらにお仕事と「ネヴュラ」更新の合間を縫っての製作となりますので、今年中に完成できれば良い方でしょう。
まーあくまでお遊びですので気長にお待ち下さい。失敗したらその時はその時。笑ってやって下さい。
キット設定のアイデアを下さるのも面白いですね。

またこれを機会に、皆さんも童心に返ってプラモデルに触れてみては?
進行状況をブログでお知らせし合うのもいいですよね。写真も載せられるブログならではの楽しみ。
いやー今はそんな事さえ出来ちゃうんですねー。


Photo_9「あえてのG」「あえてのTB」「あえてのMJ」「あえてのTDF」・・・
「ネヴュラ」のお仲間なら、いろんな「あえて」に挑戦できそうですねー。
これが本当のプラモデルの楽しみかもしれませんね(笑)。

2007年11月18日 (日)

もう一つの過去

Photoこのカンゲキ、このヨロコビ。
ついにやりました。
永年探し続けたマルサン電動ブリキ製「世紀の大怪獣ゴジラ現る!!
」を、私はついに手に入れたのであります。
有線リモコン、目を爛々と光らせて白い煙を吐き、雄叫びを上げながら歩くという凄い性能。
嗚呼、考えただけでも身震いします。


Photo_21966年の発売時、なんと1,100円という超高額商品。
ヤフオクでもめったに見かけず、たとえ見かけてもその落札価格は無可動で10万円は軽く超えるほどの逸品。これまではこんな文献をため息とともに眺めるのが精一杯。文字通りマニア垂涎のキラーアイテムでした。それが今、眼前に。
この素晴らしさ、皆さんにどうお伝えすればよいのでしょうか。私の貧困なボキャブラリーでは何万語を尽くしても語り足りないこの存在感。
全高30センチもありましょうか。その大迫力には圧倒されるばかり。


Photo_3どうです、この巨大な・・・
おねえちゃん、そういうおおげさなものいいはどうなの?ぶろぐてきに。
(あんたは出てきちゃ駄目でしょ。
こういう大事な時に。)



Photo_4・・・こんなミニコントはともかく(今日の記事は構成的に失敗(涙)、これは皆さんお察しの通り、昨日手に入れたTOYS CLUB製ミニフィギュア「KITAHARA WORLD TOY COLLECTION」、通称・北原コレクションの一つ。
決してコタに「ヘリプロン結晶G」を与えた訳ではなく(笑)。


Photo_15先日、地元の家電ショップでこれを見つけたときは驚きましたねー。なにしろ最近はこういうミニフィギュアのリリースアイテム選択もかなりディープなものがある上、基本的な生産個数が少ないですから、まず発売されている事実を知った段階で売り切れている事も多いのです。それがなんと、家電ショップに普通に売っていたんですから。
思わず店員さんに発売時期を尋ねたところ、おとといの金曜日に入荷、新製品かどうかも分からないとの返事。
「あまり見かけない商品の上、この1ケースしか入らなかったんですよ。」八割方こちらの購買予定を見越したそんなくすぐりに負け(涙)、即ゲットしてしまいました。
まー、ここでブリキゴジラを見逃しては寝覚めも悪い。
北原さんもずるいと言うか何と言うか(笑)。

帰宅後、ネットでリリース情報を調べてみました。どうやらこれは発売直後のようでしたが、どこのショップも品薄の様子。このシリーズは以前から知っていましたが、今回のラインナップはヤフオクにも出品されていません。やっぱり目ざといファンのコレクションに収まっているのでしょうか?私のような田舎のオタクには窺い知れない世界です。わずか5センチ程度のフィギュアとはいえそこはゴジラ、人気度が違うんでしょうね。

そんな訳で幸運にも手に入れられたこのミニフィギュア。もともとユルユルソフビやブリキのロボットなどかわいい系の造形が好きな私は、こういうアイテムにも目がありません。
以前からこの北原コレクションにも惹かれるものがあったのですが、いずれも購入時期を逃してしまい悔しい思いをしていたのです。

ですから今回の入手はこの上ない感激。ブラインドボックス仕様には一抹の不安もあったのですが幸運にもダブリは皆無で、シークレットを除く全10種を無事揃える事ができました。「1BOXで全ての商品は揃いません」というパッケージの注釈は体に悪いですね(笑)。

さすがあの北原照久氏のコレクション。以前のラインナップにも瞠目しましたが、今回の10点も小粒ながらいい味のアイテムが選択されていますね。
いずれも1940~60年代に生産された物のミニチュア化ばかりです。
今回は「ネヴュラ」には珍しく、解説書を見ながら一つずつご紹介していくことにしましょう。同じアイテムの色違いは並べてあります。
山下達郎のアルバムをBGMにご覧下さい(笑)。


Photo_6まずはこれ。「スリンキー ドッグ」と呼ばれるワンちゃんのおもちゃ。
1950年代の日本製です。

実物はブリキ製で胴体はバネ、手前の紐を引くと胴体のバネが伸びて下半身が後からついて来るそうです。
胴体がバネだったら、結構壊れやすかったんじゃないかなーなんていらない心配をしたりして(笑)。

これ、CGアニメ映画のモデルになったそうですが、私は件の映画を知らないのでこのワンちゃんが活躍する場面を観ていません。
きっと可愛いんでしょうねー。


Photo_7子供のような顔の「トランク・ポーター」は1940年代の作。
なんとオリジナルはセルロイド製だそうです。

背中には、なんでも鑑定団で有名になった占領下の日本「Occupied Japan」の表示があります。
トランク下の車輪で前進、車輪のゼンマイが足と連結、歩いているように見えるそうです。
でも、1940年代の日本で「ポーター」なんて言ったって、ちょっとピンと来なかったんじゃないかと思いますねー。
空港のポーターをイメージしているので海外の空港には居たんでしょうが、当時、海外旅行が出来た人なんて超ブルジョア(セレブとは言いません)ですよねー。


Photo_8鮮やかな原色に彩られたラジコンカーは当時の子供たちの憧れ。
1950年代のものだそうです。
これも日本製だそうですが、とてもそうは見えませんね。主に海外輸出用だったようです。高かったんでしょうねー。
だいたい当時、手元でコントロールする物っていうのは現物とコントローラーを太いコードで繋ぐ「リモコン」が出始めた頃。私が生まれた年に買った扇風機もそうでした。「コードが繋がってないのに動く」という概念が無かったんですね。
ですから私など、そんな高価なラジコンを買ってもらう事など夢のまた夢。妹の服の背中に母の長い物差しを挿してアンテナに見立て「イモート・コントロール」なんて遊びをやってました。これがまた言う事を聞かない妹で(笑)。


Photo_9前述のラジコンに比べればまだ庶民感覚があるのがこの「ファンシー トレイン」。
某機関車トー○スに似ていますが、これも1950年代のマルサン製だそうです。
単一電池二本で動くブリキのおもちゃ、と言えば、まだ何となく手触りを思い出せますね。汽笛を鳴らし、顔を赤く光らせて腕を振りながら進むそうです。
当時、こうして機械を擬人化したものは多かったんでしょうか?私が与えられたブリキのおもちゃはほとんどキャラクターものばかりでしたから、こういうオリジナルにはとんと記憶や思い入れはありません。
(今の子供たちにもウケそうなデザインですよね。なんてまとめたいですけど、いつの時代の子供も古さは敏感に嗅ぎ分けるので、そこはちょっと疑問という事で(笑)。


Photo_10何と言っても私たちの世代に馴染みが深いテイストのおもちゃは、この「ロボタンクZ」。
1950年代から60年代のものだそうです。

ロボットと戦車が合体した電動可動で、しばらく前進すると止まり、内臓のソノシートが回って音が出るというスーパー・ハイテクメカ(笑)。胴体のライトを点滅させながら機銃を掃射までするそうで、こんなロボットを友達が持っていたら、もう日東やアオシマの怪獣プラモじゃ歯がとても立たなかったでしょうね。
仲間内の最終兵器的存在として君臨したであろう事は間違いなし。何を熱く語ってるんでしょうか(笑)。
でも面白い事に、このロボタンクも生産年代によって部品の材質が違うそうで。腕がブリキ製からプラスチック製に変わった他、細部も少しずつ異なるんだそうです。
思えばこの頃、おもちゃの材質のみならず生活用具のあらゆる部分にプラスチックが進出してきたんですね。
そんな時代の転換期まで感じさせてしまう逸品です。


Photo_11最後はこれ。1950年代のブリキ製「レーダー ロボット」。これ、私だけの感覚かもしれませんが、かえってレトロ・フューチャー的な新しさを感じてしまうんですよ。
その無表情な顔立ち、シックな色使い。日本製という事ですが、どこかヨーロッパ系アート作品の香りを感じます。
コントロール・ボックスがロボットの顔型なのもいいですね。このボックスとロボット本体で一つのアートと言うか。
子供のおもちゃと言うよりもオブジェ的な、大人の感性に訴える何かがあります。
最近、このおもちゃの正確な復刻版が発売されていまして、私はひそかに狙っているんですが、それは決して懐古的な感覚からじゃないんですね。
幼少期、こんなおもちゃを目にした事のない私にとって、このロボットは懐かしさの反面「新しいもの」に映るんですよ(笑)。


Photo_12・・・とまあ、全長5センチ程度のおもちゃについて下らないお話をして来ましたが、こうして集めてみると独特の存在感がありますね。今、目の前にあるんですが、その空間だけは怪獣ソフビなどとはまた違った雰囲気です。
正直なところこれらは全部、私の年代では間に合わなかったものばかり。
一度もこれらで遊んだ事はありません。
まー年代以上に金銭的な事情も大きかったと思いますが(笑)。

でもこれらを見ていると、なんとなく「遊んだような気になってくる」というのが不思議なんですね。子供時代、実際に私が手にしたのはもっと安い、フリクション走行の自動車や手回しローターのヘリコプターだったはずなんです。でもこれらも懐かしい。なぜなんでしょうか。


実はそれが、このおもちゃ達の大きなアピールポイントなのかもしれません。別に今、これらを見ても、「今、これで遊びたい」とは思いませんよね。でも大人になった今でもこんなミニチュアを欲しくなるのはきっと、これらを通して「子供の頃これで遊んだ頃」という「もう一つの過去」を頭の中で作りたいという意識があるからと思うんですよ。
それは決して、実際の過去を否定するものではありません。あの輝いていた子供時代は誰の心にもある宝物でしょう。でも「きっと子供の頃、これで遊んだらまた楽しかっただろうな」という甘い夢を見る事だって、決して罪にはならないですしね。


そんな大人たちに「もう一つの過去」を運んでくれるミニフィギュア。
どんな最新技術を使っても実現できない素敵なギミックを、これらはわずか5センチのボディの中に秘めているのかもしれませんね。


最後に、何か気の効いた文句の一つも唸ろうかと思いましたが、頭の無い私には何も浮かびません。
まーとりあえず、一番勢いがあった頃のゴジラのブリキ玩具を腕白だった子供時代の自分と重ね、デジャブーの世界に遊ぶといったような感覚でしょうか。上手くいえなくて歯がゆいですね。
腕白だった昔の自分。今は違う意味で「おてんば」でもありますが(笑)。

2007年11月16日 (金)

いろんな意味でビックリ

Photoあれ?おねえちゃん、ないてない?
そーなのよコタちゃん。もう涙目。





Photo_2 これ、珍しいから買ってきたんだけど。
お菓子だと思って甘く見てたら、もー辛くて。後から来るのよ辛さが。

あいかわらずおばかねー。
Photo_3
で、あわてて最近お気に入りのこれを食べたら、今度は甘くて甘くて。
これ、ふつうのきっとかっとよりあまいもんねー。
Photo_4
だから今度はこれに手を出して。結果は火を見るより明らか。

あくじゅんかんだよー。わたしだってやらないよー。
Photo_5 なんか甘いものない?あっ、きなこもちだ!
うっ、あまりのしょっくにげんかくまで(怖)。

Photoおまけに記事執筆中、「グリーンマン・マーチ」を聞いていてまたビックリ。
この曲の作曲(曲使用?)経緯についてご存知の方はぜひコメント下さい。すごく気になります。
番組担当者はよほどのパチンコ好きだったんでしょうか?(笑)

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2007年11月15日 (木)

路地裏ティファニー

前回のお話で、久しぶりにキャラクターのマグカップなどを並べてみたので、何となく手持ちのキャラグッズを見直してみたくなりました。

世の映画ファンと同じく、劇場で作品を鑑賞する事がベストと考えるタイプの私は、公開前から劇場で前売り券を求め、特典のグッズを眺めながら封切日を心待ちにするのが何よりの楽しみ。貧乏ゆえ、最近は毎週木曜日のレディースデーを利用せざるをえない状況とはいえ(笑)、話題作や絶対外せない作品は今でも前売り券を求め、「これはイベントなのよ」と自分に言いきかせているのです(笑)。

そういう並々ならぬ気合いの戦利品とも言えるのが、手元に残る前売り券の半券と、前述の前売り券購入特典のグッズ。
こういう物ってべつに大したものじゃないんですが、「前売り券を買わないともらえない」「数に限りがあります」的なレア物感がグッズそのものの価値を大きく上げているんですよね。もちろんそれは金額的なものじゃなく、自分の心に占める思い出の大きさという意味ですが。

この前売り特典、昔はポスターが多かったんですが、最近はバッジやストラップ、キーホルダーなど身に付けるものが多くなったような気がします。古い映画ファンの私などは、特典のポスターを部屋に貼る事がテンションアップの一種の儀式だったんですが(笑)、やっぱり時代の流れなんでしょうね。
前売り特典のボリュームと映画への期待感が比例するように感じられるのは私だけでしょうか(貧乏根性ですねー(涙)。

劇場でしか手に入れられないプレミアムグッズも垂涎の的でした。
作品が気に入ってしまうと資金の額も考えず、トランペットが欲しいアメリカの子供のごとく売店のウインドーに張り付いて離れない私。何故かその瞬間は一万二万の出費も何のその、自分が叶恭子やパリス・ヒルトン並みのセレブにでもなったような錯覚に陥るのでした。
例え手にするのがゴジラのソフビだったとしても(笑)。


そんな訳で(意味分かりませんね(笑)久々にこの前売り特典、劇場販売グッズを引っ張り出した私でしたが、これ、価値はともかく意外に小物が多くありまして。
ちょっと一度の記事ではご紹介できないんですよ。ですから今日はとりあえず、最近の流行とも言える「身に付ける小型プレミアムグッズ」のいくつかをご覧頂きたいと思います。
中には劇場以外で求めた物もありますが、まーそれもいいのではと。
駄菓子屋さんの店先にありそうな物ばっかりですが、それを大事にするのが「ネヴュラ」流。学校帰りの気分でご覧下さい。

Photoまずはこれ。ご覧の通りのバッジ各種(笑)。
「ランボー怒りの脱出」(1985年・)「ロスト・ワールド ジュラシック・パーク」(1997年)、そして、「ゴジラ1983復活フェスティバル」(1983年)のものです(ランボーのみ販売品、他は前売り特典)。

ランボーやジュラシック・パークも今はそれなりに懐かしいですが、何と言っても怪獣オタクの私には「ゴジラ1983」が思い出深いですね。この時期、怪獣ファンは前年に行われた大規模なリバイバル企画「東宝・半世紀傑作フェア」で上映されたゴジラ他三本の怪獣映画に興奮、黄金期の作品の素晴らしさを再認識していたのです。
あの興奮再びとの願いを聞き入れた東宝が翌年打った興行がこの「1983」でしたね。ゴジラ作品含め10本の特撮映画が上映された夢のようなラインナップに、私たちはお仕事の疲れも忘れて(笑)、劇場へ通ったものでした。

Photo_2ちょっとした珍品バッジがありまして。
これは私の地方、東海地区だけのローカル放送「ラジオDEごめん」という深夜番組の特製バッジ。
実はこの番組、かのブースカがイメージキャラクターだったんです。
わざわざ円谷プロからブースカの着ぐるみを取り寄せて番組中に出演させたほど。

地元局の中京テレビには、この手のキャラクターが好きなスタッフが多かったんですね。私もその中の数人とお付き合いがありますが(笑)。
この番組の製作スタッフと間接的に関わりのあった私は、視聴者プレゼントでもあったこのバッジを何故か手にする役得に恵まれたのでした。
いいでしょこのデザイン。なんとなく罪がなくて。
お気に入りの一つなんです。


Photo_3劇場販売グッズの定番、キーホルダー。
まーこれも並べてみると、作品のロゴが前面に出すぎて使うには抵抗がありますねー(笑)。でも使わなきゃ作品を楽しんだ事にはならないと。オタクのジレンマですね。
「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅢ」(1990年)「007カジノ・ロワイヤル」(2006年)は前売り特典、「ダイ・ハード3」(1995年)「必殺!主水死す」(1996年)は劇場販売でした。

こういうものって思い切っちゃえばすごく手軽に使えるんですが、なにしろロゴは普通の印刷ですから使っている間にハゲていっちゃう。上映期間も終わり、世間から作品の話題が消えるのと、キーホルダーの印刷がハゲ落ちるタイミングが同じというのも実に見事です。
ひょっとしてインクの調合を計算してるんじゃないかと思える程で(笑)。


何故そんな事を思うのか。私、このキーホルダーに関しては、前売り特典はともかく劇場販売分は二つずつ買う事にしてるんですよ。使う分と保存分。この中の「ダイ・ハード3」なんかはもう一つを使い倒しました。もちろん見事にロゴ印刷は無くなりましたが(爆笑)。
保存と使用を両立させようとしたら、この手しかないですよね。
ただ、プレミアを付けての売却用やトレード用に買う事はありませんね。資金が回らないのももちろんですが、何より主義じゃない事が大きいんでしょうね。

Photo_4この携帯ストラップも最近の流行ですね。
「ガメラ3 邪神覚醒」(1999年)は劇場販売、「ダイ・ハード4.0」(2007年)は前売り特典でした。

「ガメラ3」のストラップは大変お気に入りで当時二つ購入、一つはバッグに付けて喜んでいました。作品の内容もそうでしたが、各種のグッズも大人用のシックなデザインでしたね。このストラップもまじまじと見なければ「ガメラ」って判らないほどのデザインですもんね。
今、こうやって見ると、改めて二個買いしておいてよかったと思います。

何しろバッグにつけたもう一つはシルバーのメダル部分をいつの間にか無くしちゃいましたから。あの時は泣きましたが、この保存分を見て自分を慰めました(笑)。

Photo_5これはご覧の通りのネクタイピン。女性はブローチとしても使える逸品です。これはいずれも大阪のゼネラルプロダクツ製。劇場販売とは関係ありませんが、まあいーかと(笑)。
これ、意外と使いやすいんですよ。いずれも七宝焼の高級感がウェアと合わせやすい。
大きさは2センチ前後と小さいのでどこに付けても控えめにマニアを主張できます。科特隊ならもちろん付ける位置は一つ。「胸に付けてるマークは流星」(笑)。
立花レーシングチームのエンブレムも、知らない人にはおしゃれなポイントに映るんですよね。そのデザイン性の高さが大変お気に入りなんです。

さらにマニアックなのが「S.H.A.D.O.」のマーク。私がさりげなく付けたこれを発見してニヤリとする、ストレイカー指令似の男性が居たら良いんですが。現実はオタク仲間に爆笑されるばかりです(笑)。

Photo_6バッジ、キーホルダー、ストラップ、タイピンと、ややお洒落グッズ系に傾いてきましたので次はこれ、腕時計を。
左は文字盤のスターフリート・マークが控えめに主張するスター・トレックモデル。これは市販品ですがかなり使い込みましたねー。飽きのこないシックなデザインが大のお気に入りだったんですよ。これだったらお仕事用のスーツにも合うし、ちょっとカジュアルなウェアにもOK。
小さな自己主張の中にさりげなく光るマニアックさが良いんでしょうね。

それに比べると右のGフォース・スウォッチは・・・(笑)。でもスウォッチってもともとこういう物ですもんね。これは「ゴジラVSメカゴジラ」(1993年)公開時の劇場販売品。当時はスウォッチブームでしたから、別にこれをつけて歩いていても世間から浮かなかったわけです。でもスウォッチってその希少性からコレクターが居ましたよね。収集目的で買う人も多かったような気がします。私もご他聞に漏れず、この腕時計は一度もつけたことがありません。もう動かないから今は使えませんが(笑)。

Photo_7アクセサリー、腕のおしゃれときたら、次はやっぱり目元のドレスアップでしょう。
というわけでこれ。

言わずと知れた「新必殺仕置人」(1977年)唯一の公式グッズ、劇中強烈な存在感を放ったキャラクター「死神」(河原崎建三)の「ギリヤークマスク」です。
これをかければ貴方も枯葉の中から颯爽と登場できるかも・・・

中途半端なボケで墓穴を掘ったところで(笑)、これはもちろん「ウルトラQザ・ムービー星の伝説」(1990年)の宣伝グッズでした(虎のバットが飛んで来そう(汗)。
劇中登場する「遮光器土偶型宇宙人」の目をイメージしたサングラス型おもちゃ。ポリ製です。


Photo_8これは何かのイベントで配られたものと記憶していますが、こんなグッズを作るあたり、製作した松竹映画の力の入れようがわかりますね。実相寺昭雄監督作品という事もあり、私もこの時は気合いの入り方が違いました。今でも前売り半券を見るたび、当時の熱気を思い出します。
今回のお話の主旨と外れるので、作品の印象についてはまた別の機会にお話しましょう。

でもこういうのこそ「時代の空気を吸い込んだグッズ」って言うんでしょうね。このロゴが入ってなかったら、今の人には「キール・ローレンツ?」なんて言われそうで(笑)。

「ガラクタばっかり見せていーかげんにしろ」なんて怒られそうなので、今日はこれくらいでご勘弁下さい。お察しの通り、今日お見せしたのは一部です。怪獣映画に足しげく通う私には、こんなガラクタがもーちょっとあります。それはまた今後、ジャンル分けしながら少しずつご覧頂く事にしましょう。
でもこの程度の物ばっかりですから、あまり期待しないで下さいね(笑)。


Photo_11普段しまいこんであるこういう物も、改めて見直すと当時の熱気を思い出し、微笑ましく感じるものですね。私にとってはこういう品物が、ティファニーのオープンハートよりも数段嬉しいものなんです。考えてみれば高いアクセサリーをねだる女子よりも、私の方が安上がりな女なのかもしれませんね。
ただ、これらの品に込められた思い出はどんな宝石にも負けないと思っています。まー今日のサブタイ通り、「路地裏ティファニー」とでも呼べるものなんでしょうね。


作品に興奮した数々の思い出が封じ込められた、愛すべきグッズたち。
年を経るごとに、その思い出は
輝きを増していくようです、なんて言ったら、ちょっとカッコ付けすぎでしょうか(笑)。

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2007年11月14日 (水)

アキコスープが沁みる夜

Photo_2「こういうのが欲しかったのよ。」
空き時間にウロウロさまようオタクショップ。
そんな一軒で出会ったこれ。

まー、なんてことないウルトラマンのマグカップなんですが。リーズナブルな価格は私の心を八つ裂き光輪に(意味不明)。


Photo_14ウルトラマン生誕40周年を記念してバンプレストから出たプライズ商品。私はこれが賞品となる「一番くじ」というものを試したことがないので、こういう品を見かけるのはオタクショップの店頭がほとんどなのです。
中身をよく確認もせずにレジへ走った私でしたが、いざ開封してみればそこはさすがウルトラマン。40年の歴史を感じさせる大人向きのシックなデザイン。Cタイプ風のモノクロコントラストが渋い逸品ですね。

Photo_4裏面はこんな感じ。好敵手バルタンのシルエットの中心にはおなじみの流星マーク。
このマグカップが作られたのは最近ですから、きっと「ネヴュラ」読者の中にもお持ちの方はいらっしゃるでしょうね。
相変わらず情報入手が遅い私(笑)。

色、デザイン、大きさとも丁度いいので、これからはこれが毎日のホットコーヒー担当、ブログ執筆の友となることでしょう。

考えてみれば、おもちゃ以外にも生活雑貨のあれこれをキャラグッズでまとめている私。以前にもちらりとご紹介した事もありましたが、ことこういった食器やカップ類にはあまり力を入れていませんでした。
おもちゃやプラモデルはともかく、生活雑貨は「使ってナンボ」というポリシーの私にとって、食器やカップは消耗品という位置づけだったからです。

今日はたまたま前述のようなカップとの出会いがあったものの、普段は別に「どうしても怪獣のカップじゃなきゃキーボードが進まない!」なんて事はありません。
別にカップのデザインなど気にせずコーヒーをすすり、無い頭を使って駄文をヒネり出すわけです。でも今日、件のカップが手に入ってみると、手持ちのキャラカップの個数などもちょっと気になりまして。久しぶりに並べて見てみたくなりました。

Photo_5で、出てきたのがこれだけ。それほどありません。全て現役選手です。
前述の通り、私はこういうカップやコップなどをコレクションと捉えていないので、その個数やレア度などには全く無頓着なのでした。オタクの風上にも置けませんね(笑)。
ですから写真の通り、さほど珍しい物もなければ大事にしまってあるわけでもなく。まー集めたわけじゃないですからねー。
どちらかと言うと「集まっちゃった」という感じで。

でも改めて見てみると、これはこれで時代を感じさせるから不思議ですね。
丁度、鉄人や少年ジェットが描かれた昔の子供茶碗が今貴重なのと同じようなもので。レア度は比べ物になりませんが(笑)。
でもこれらはこれらで、一つ一つに思い出や隠し技があったりして楽しいんですよ。今日は文字通りコーヒーブレイク、ウチのキャラクターカップ達をごらん下さい。

Photo_6まずはこれ。この肖像画、誰だか分かりますか?左肩に飛んでいる白いお饅頭(笑)がトレードマーク、ご存知スターフリートの勇士、ジェームズ・T・カークその人です。演じるのはもちろん、ウイリアム・シャトナー。要はこれ、スター・トレックのマグカップなんですね。
これ、もらい物なんですよ。私がまだ局勤めだった頃、同僚に熱狂的なトレッキーが居まして、彼がアメリカ旅行に出かけた時のお土産なんです。ですからこれはアメリカ製。どうも絵が大味とか、全体の作りが甘いとかの印象は、アメリカ製ゆえなんですね。

Photo_7裏面はこうなっていました。「キャプテンカーク」と大きく書かれていますから間違いない(笑)。下の「スタートレック」ロゴもオリジナル通りだし、底面の印刷にはパラマウント社の承認も記されていますから、これは正式なライセンス商品なんでしょう。承認の年号は1991年。割合最近の物なんですね。
実は、今回ウルトラマン・マグカップを入手したのは、このカップに理由があったのです。それまで、ブログ執筆中のコーヒーはこのカップを使っていたんですが、ちょっとカップが大きすぎて(さすがアメリカ製)、一杯飲み終わるまでにお腹がタプタプになっちゃうんですよ。
確かに、コーヒーを注ぐ段階で量を調節すればいいんですが、どうも貧乏性の私は「満タン好き」なんで、カップ自体を小さくしないと納得できないと。

で、「気に入るのがあれば」となんとなく探していた時、冒頭のカップに出会ったのでした。

とはいえこのカップも、カーク船長のご尊顔を見ていると味わい深いものがありますよね。
なんとなくこのカップにも助けられた印象があります。執筆中の文章を読み直していて「ここはちょっと「非論理的」だな」なんて思った時は、彼の目が光っていたような気がしましたから(笑)。


Photo_16次はこれ。これはもう説明の必要もありませんね。1992年、テレビ東京系の再放送やレーザーディスク・BOXのリリースによって盛り上がったサンダーバードブームに乗って発売された、数々の商品群のひとつです。

これらは本当によく使いました。
夏はむぎ茶やジュース、冬はスープやココアなど。最近までコーヒー嫌いだった私にとって、この二つは食事時、食卓の友だったのです。
よくよく見てみれば、コップ、マグカップとも今だに飽きのこない良いデザインですよね。
やはり一番人気の2号をメインに据えたレイアウトの勝利でしょう。

この92年のブーム時、私は他にもいくつかTBグッズを集めたんですよ。
なにしろ当時はペーパーバッグからステーショナリー、ぬいぐるみに至るまで、あらゆるジャンルにTB商品が溢れかえっていましたから。
それも楽しい思い出です。


Photo_9これは最近のファンの皆さんにも記憶に新しいですね。1997年の「シト新生」公開時、劇場販売された「NERV」印のマグカップです。これ、何故入手したか覚えていないんですよ。きっと当時のエヴァ人気に押され、自分を見失っていたんでしょう。
なにしろ同時にNERVピンバッジだの、例の「エヴァ文字ステッカー」だのを多数買い込んだ覚えがあります。ちょっと恥ずかしいですね。
リツコさんに言われそうです。「ぶざまね。」

Photo_10これも時代を感じさせる品。1980年代前半に突如巻き起こった「必殺仕事人」ブームのあおりを受けて発売された「仕事人湯呑」です。
この「仕事人」というロゴを見て当時の熱気を思い出す方は、やっぱり秀さんの真似をして口にお箸を銜えた記憶がおありなんでしょうか(笑)。
実は当時、私はこの仕事人ブームを非常に疎ましく思っていました。筋金入りの旧必殺ファンの私は、あのアイドル化したホスト風二枚目仕事人たちの姿に「そうじゃないでしょう!」という強い憤りを抱いていたのです。おバカですねー(笑)。

そんなある日、たまたま友人と京都・太秦撮影所に出かける事となった私。この時、私は一縷の望みを持ちました。
「この仕事人ブームに乗って、仕置人など昔のシリーズのグッズも発売されるかも。」

雑誌などで仕事人グッズの発売を知っていた私。多くの旧必殺ファンと同じく、そんな淡い期待を抱くのも無理はありません。逆に言えば当時、巷に溢れた仕事人のグッズ展開に比べ旧シリーズのそれはあまりに少なかったのです。

貯金をはたき、意気揚々と太秦を訪れた私でしたが、現実は無情でした。
ぜーんぜん無い。撮影所内のお店に溢れるグッズは見渡す限りどれもこれも「仕事人」のみ。中にはオリジナルロゴを使わず、単に毛筆で「仕事人」と書いただけの海賊版まである始末でした。つくづくこのブームは「必殺」じゃなくて「仕事人」ブームなのねと肩を落とした事を覚えています。

そーなるともうヤケで(笑)。まるで意地のように「仕事人」グッズを買いまくりまして。秀さんの半纏からロゴ入りタオル、エプロンなどなど。この湯呑はその一つだったのです。

Photo_11当時、この湯呑でお茶を楽しむ時は、このロゴが「仕置人」や「仕事屋」だったらなあとかなわぬ思いに胸を痛めたものでした。
ちょっと大げさですが(笑)。

でもこれ、裏面が良いんですよ。今日までこの名文句をすっかり忘れていました。
いいでしょこれ。この文句ならシリーズ共通ですから。こっちを手前にして置いておけばよかったですねえ。まあそれも今は遠い「夢ん中」なんてね(笑)。


ざっとこんな所ですね。他のコレクション以上に大した物はありません。
凄腕のコレクター諸氏には鼻で笑われそうな代物ばかりで。
でも今日改めて眺めてみると、これらのカップやコップ、湯呑の類は、私にとっては「その作品が一番輝いていた頃の遺品」に映るんですね。
考えてみればこれらの品はコレクターズ・アイテムじゃないですから、フィギュアなどのように恒常的に店頭に並ぶ物じゃない。オリジナル・リバイバルを抜きにして、ブームの末端商品とでも言うべき位置づけなんですよ。

これらは別にどんなデザインでも本来の使用目的に支障は無いわけですから。ただ売り上げに繋がるという理由だけでイラストやロゴが入る。言わばブームの仇花ですよね。一つ一つを見る度、当時の思い出が色鮮やかに浮かび上がってくるのもその為なのでしょう。それに乗せられる私がいかにおバカかは、皆さんもよくご存知と思います(笑)。

Photo_12冒頭で紹介したウルトラマン・マグカップを、コーヒーの前にちょっと使ってみたくなりました。入念に洗った後で注いだ一杯はこれ。
ちょっと分かりづらいですが、これ、スープ春雨なんですよ。大好きなコンソメ味。

ウルトラマン・マグに注ぐスープならこれはもちろん「特製アキコスープ」でしょうと。
ツルツルと美味しくいただきました。
そこそこ暖かかった日中ですが、夜は熱ーいスープが恋しい寒さ。
今年の冬はこのカップで体を温めることにしましょうか。


ただくれぐれも気をつけます。「イデコーヒー」だけにはしないよう(笑)。

2007年11月13日 (火)

晩秋の春一番

「お花、増やしてもらえませんか?これじゃちょっと寂しいから。」
会場への道すがら、寄った花屋さんで供花の花束を手に取った私。
先日、11月11日は昨年亡くなった母の命日。
日曜日と重なった事もあって近しい親戚と一周忌法要を行いました。

母が亡くなって一年。早いものです。「ネヴュラ」でも他界直後の心境をアップしました。当時、失意の底にあった私を励まして下さったのも読者の皆さんでしたね。ネットでのそんなやりとりが今も記録に残る事の不思議さを感じます。
毎日の生活に追われ、故人を偲ぶ機会も無いまま過ぎていく日々にあってこうした節目を大事に思えるのも、私が年をとった証拠なのかもしれません。

とはいえあれから一年。遺影写真を見つめる心持ちも当時とは若干違ってきました。幸いにも遺影は箱にしまいこんであったので(笑)、母は埃もかぶらず相変わらずの笑顔を私に向けてくれています。ただ髪だけは真っ白ですが(笑)。

ちょっと早めに着いた法要会場。法要室の豪華な構えを見るにつけ、自宅に質素な仏壇しか構えていない私は改めて親不孝に苦笑い。遺影の母の表情もちょっとほころんだように見えます。
「やっぱりそっくりだなー」なんて自分と遺影を見比べていた所へ、妹一家や例の「バロム1カード」の従弟一家、親戚一同が姿を見せました。
近しい者だけの集まりなので緊張感もなく。さながら少し早いお正月のようです。

父の代からのお付き合いがあるお寺のご住職は御年82歳のご高齢ながら、パソコンとカーナビを使いこなすハイテク僧(笑)。今日も車で4時間の道のりを駆けつけて下さいました。
やがて定刻、11時30分から法要開始。お盆のお墓参りも出来なかった私には、静かに響く経典が厳かな調に感じました。昔は意味も分からず、退屈な時間であったはずなのに。不思議なものですね。
見よう見まねで焼香を行う小学生の甥の姿も微笑ましく(笑)。

法要後の食事でもエネルギッシュなご住職のパワーに圧倒されっぱなしで。
「わしが車の免許を取ったのは昭和18年。当時は自動車免許は特殊技能でなあ。」なんて闊達に話すその姿はとても82歳には見えず(笑)。
その語気と年季の違いに圧倒された私は思わず従弟と顔を見合わせ、今上映中の「ALWAYS 続三丁目の夕日」の話題で応戦するのが精一杯でした。
「この映画は昭和34年が舞台でしてね。当時はトヨペットクラウンやダイハツミゼットが活躍してましたよねー。」そんな昔話に、ご住職のお顔もほころびます(笑)。

でもさすがに80代、60代、40代前後、10代が一堂に会すると話題が合いませんねー(笑)。でも核家族が当たり前となった現在、こういう機会はむしろ貴重なんでしょうね。
例によってバロム1カードの話で盛り上がる私と従弟の後でDSに興じる甥っ子達を見るにつけ、世代の移り変わりを感じます。
仮面ライダーはともかく、翌年に放送された「超人バロム1」が大人の話題とは。私は月光仮面やスーパージャイアンツの話にもついて行けるんだけどなーと(笑)。

にぎやかな時間も過ぎ、全員で母のお墓へ向かう事となりました。法要会場からお墓へは車で一時間の距離。各々の家族の車で分かれて移動するのですが、この時いつも私の車に乗りたがるのが二人の叔母でした。
叔母達は一人住まいの私をいつも気遣ってくれ、この日も車中で母の思い出を話したがっているようでした。
移動中の車の中から街並みを眺め、「ここはねえちゃんとよく来たねー」「ここの洋服がねえちゃんはお気に入りで」なんて話題に興じる叔母達。
そんな会話が私をも母の思い出に誘います。

「ねえちゃんは色も派手好きで、正面にポイントがある服が好みだったねえ。」
「でも、一緒にそれを買いに行く私は恥ずかしかったよー。「それを買うか!」って目を覆いたくなるようなのばっかり買うんだから。」
笑っていいんだか悪いんだか(笑)。

猛暑だったこの夏、叔母達がひそかに母のお墓を見舞ってくれていた事も、この車中で初めて知りました。失念してしまった私はしきりに恐縮していましたが、その時叔母の言った言葉が忘れられません。
「あんたのお母さんは私たちの姉妹でもあるんだから。そりゃ行くのは当たり前だよ。この年になると寂しいもんさ。やっぱり親や姉妹に会いたくなって来るもんだね。」
60代。かつて、勤める会社のミスコン優勝経験者でもあった叔母の美貌にかげりが見えていたのは、決して年齢だけが理由ではなかったのでしょう。

車中では、ここ数日の気温の低下も話題になりました。
「急に寒くなったねえ。風も寒いもん。」「そうだねえ。」
こんな他愛のない話の末に、叔母がこんな事を言ったのです。

「なんかもう、昨日は今年の春一番がふいたらしいよ。」

「おばちゃん、それを言うなら初木枯しでしょう?」
思わずツッこんだ私。照れ笑いする叔母でしたが、私はこの空気の流れに懐かしさを感じてもいました。
そういえば、母が亡くなってからこんな会話をしてないなー。なんて。
母もよくトンチンカンな事を言って周りを笑わせていました。私が今もおバカなのは母の遺伝とも言えるのです。そんな母亡き後、私はずっと一人でしたから、こんな会話についホロリとなってしまったのでしょうね。

午後2時半。折からの小雨も止み、霊園は薄日差す寒空となっていました。
予想以上に強い雨後の寒風がお線香や蝋燭の点火を阻みます。
母が好きだった真紅のバラが目に鮮やかな花束が、お墓に凛とした刺し色を与えています。このメンバーで、あと何度ここを訪れる事ができるのでしょうか。
年を経るごとに、親しい人達ともやがてお別れの時が来る事でしょう。
きっとその後も世の営みは絶える事なく続いて行くんでしょうね。
お墓を清める水の空桶とひしゃくで遊ぶ甥っ子達を見ながら、そんな思いに捉われる自分が不思議でした。きっと寒さのせいでしょうね。

日も翳りを見せて来ました。
「来年は父の七回忌、母の三回忌が重なります。皆さん、その時はよろしく。」
供物のお菓子や果物を取り合う甥っ子たち。(何故か叔母も交じっていました(笑)。そんな一幕も一段落。この駐車場で解散です。勝気に手を振って走り去るご住職に続き、みんなそれぞれの車に分乗、帰路につきます。

方向の違う私の車には誰も同乗しません。
一台ずつ走り去る縁者の車を見送ると、駐車場には取り残されたように私一人。
風が寒い。
逃げるように車に乗り込むと、そこにはまだ叔母達の残り香がありました。

初木枯しを春一番と間違えた叔母。
そんな何でもない一言に癒されてしまう私は、きっとどこかでまだ母の思い出を追い求めているのでしょう。

ガラにもなく、こんな歌を思い出しました。

寒いねと 話しかければ 寒いねと   答える人の いるあたたかさ

                                           俵 万智 

「退院」3日後

前回の「ネヴュラ」で、幼馴染の舞台公演を鑑賞する予定をお話しました。
その予定通り先週の土曜日、午後7時の千秋楽に合わせて家を出た私。
万が一に備えて車で向かった事が功を奏して、途中のにわか雨も余裕で回避、現場へたどり着いたのが開演の15分前。


いつもの事ですが、私は舞台公演の場合、必ず最前列か近い位置に席を取ります。映像と違い、演劇は登場人物のクローズアップなどカメラが勝手にエモーションをコントロールする事が出来ないので(当たり前ですが(笑)少しでも演者の表情や仕草などが分かる位置に居たいという思いがそうさせるのでしょう。
舞台全体が見渡せる位置に陣取るのも一つの方法、本来はその方が演出家の意図を正確に把握できるのでしょうが、どちらかを取れと言われれば私は接近鑑賞を選びます。
舞台に少しでも近づく事で、作品に参加したような気分を味わいたいからです。

開演真近という事もあり客席は前方がほぼ満席ではあったものの、かろうじて見つけた空席に身を滑り込ませた私。毎度の事ながらこの瞬間は心地よい期待感と軽い緊張感で心も引き締まります。開演ベルが1ベルだけだった理由が鑑賞者だけの共通の秘密なのも、こうした舞台作品の楽しみの一つ(笑)。
劇団名古屋創立50周年記念公演第2弾「ナース・コール」(久保田 明演出)はこうして幕を開けました。

この作品、図らずも私はこの「前方鑑賞」で意外な事を発見しました。
その発見の意味は追ってお話しすることとして、まずこの作品の概要を簡単に。

時は現代。ある地方都市の総合病院内科病棟。
命の現場という過酷な職場で働くナースチームが主人公。彼女達は医師との立場の格差や人手不足による過労、さらに業務の中核をなす患者との関係や病気との闘いなど、医療の現実に悩み苦しみながらも、お互いを思いやりチームワークを駆使してたくましく生き抜いてゆく・・・
大まかに言えばこんな所でしょうか。タイトル「ナース・コール」とは言うまでもなく、彼女たちナースと患者とを結ぶ緊急呼び出しボタンの事です。
彼女たちはこのコール音が鳴るたび、どんな状況下でも患者の元へ駆けつける義務がある訳です。


病院では様々なドラマが起こります。患者を中心に医師やナースたちが生活を共にするその空間はもはや一つの街。患者や同僚とのコミュニケーションは普通の職場とはまた違った様相を呈します。人の生死にさえ立ち会わねばならない心労も常人の比ではないでしょう。過酷な労働状況の中、彼女たちナースを勇気付けるものは何なのでしょうか。
強い職業意識?同僚との絆?息抜きの時間?
ナースにだって当然プライベートはあります。しかしプライベートにまで侵食してくる職業上の軋轢にも彼女たちは立ち向かわねばなりません。
ナース一人一人の辛さや悩み、悲しみを癒す時間を与えてはくれない厳しい現場。皮肉な事に彼女たちナースには、自らを治す「心のナース」は付いてくれないのです。


こんな現場設定でストーリーは進みます。私は予備知識を何一つ仕入れていなかった為、作品全体のキャスト数、全体の時間尺などを全く知らずに鑑賞に臨んだのですが、正直最初の場面、舞台となるナースステーションに現れるキャストの人数には驚きました。ナースだけで7人程、医師や患者なども含めればセリフの整理だけでも大変です。
「こんなに多数のキャストをうまく色分けする事なんて出来るんだろうか?
これをうまく描き分けられる戯曲は相当の力量が無ければ出来ないし、演出する技量、さらに演者一人一人にもかなりの力量が要求されるんじゃないかなー。」
自分の技量も考えず、そんな要らない心配をしてしまった私(笑)。


結局ナース役だけで総勢9名。これは凄い。と言うのは、ナースさんって当然の事ながら全員職場ではナース服ですよね。事前に演者の顔を知らない公演初鑑賞の観客から見れば、全員の見分けがつかなくなっちゃう訳ですよ。前述の通り、映像と違い顔のクローズアップなどできない舞台作品では、演者一人一人の区別をつけやすくするため体型や衣裳などで色分けする事が多いのですが、この作品ではそれを禁じ手としている。しかしナース服の着こなしには一人一人のキャラクターを生かした小技が効いていて、そこに各々の性格を匂わせる辺り、演出側の苦労がしのばれます。
実際、その部分はなかなか成功していたと思いました。なにしろ重要なつかみどころですから、ここで混乱を招くと後が続きませんよね。
まーこんな感じで、この後の感想も勝手な思い込みで書いてみます。
今回も例によって、ストーリーの詳細より全体の印象や気になった点を挙げていきますので、未見の方には分かりにくいかもしれません。
関係者の方々、見当違いな意見でしたらどうぞお許しを。


結局、一切の舞台転換を行わず、ストーリーはナースステーションと、中階にしつらえられた病室を舞台に進行していく訳ですが、私にはこれも好印象に映りました。これは戯曲の設定や演出・会場の制約など様々な事情から来たものかもしれまぜんが、舞台上の転換を行わない事で、ここがナース達の「生活空間」という印象を観客に強く与えているからです。
勤務中はもとより勤務開けでも帰らない事情、また勤務時と勤務前の緊張感の違いなどで彼女たちの性格を浮き彫りにでき、さらに一種の「たまり場感」まで漂わせ(笑)。
舞台ゆえの不自由さを逆手に取り、ナースも人間という感覚を鑑賞者に与えるこの空間設計は見事でした。


さらに唸ったのは、「ドラマは必ずナース・コールで区切られる」という手法でした。
これは素晴らしい発想ですね。全てを映像作品に置き換えて考える私には、この暗転のタイミングは実に新鮮に映りました。ストーリーはほぼナースステーションを中心に進む為、当然ナース同士や患者、医師等との会話がメインとなる訳ですが、セット転換が無い為暗転のきっかけが作りにくい。しかし、会話がどんなにエキサイトしていても、そこにナース・コールが入る事で場面がストレスなく強制中断できる訳です。部屋の中でどんなに相手と喋っていても、電話が鳴ると会話が中断するのと同じ理屈。かねがね舞台作品の暗転タイミングは難しいと感じていた私はこの手法に大満足。
戯曲、演出の勝利と言えましょう。


2時間20分という公演時間もこれくらいが限界でしょう。途中、10分の休憩時間がありましたが、私はこの休憩よりもストーリーを続けて欲しいという感覚がありました。「えっ、もう1時間以上経っちゃったの?」なんて印象でしたから。ただ、私の斜め後ろに座っていた女性二人組が「舞台って長いんだねー」と話していたのが気にはなりましたが。それだけ印象は人それぞれという事ですね(笑)。
後半も特にストレスを感じず、流れに身を委ねる事ができました。


さて。唸らされた部分や好印象の場面をお話してきましたが、この作品、実は私の中では消化不良の部分も多くあります。無知ゆえの感想である事も分かっているんですが、これも偽らざる事実ですのでお話したいと思います。なーに、コタのおならとでも思って(笑)。
大まかには三点ありました。

まず一つ目。これが前述の「接近鑑賞」で発見した事なんですが。
実はこの作品、見ていてものすごく「カット割り」がやり易かったんですよ。

一人がセリフを言った時、受ける人間のリアクションが想像しやすい。つまり映像作品ならセリフの途中から次のカメラをどこに向けるか、どのサイズにするか容易に判断できる訳です。
それはつまり、テレビ的という事なんです。


私はこの劇団の作品鑑賞経験は決して多くありません。たかだか数本の作品を見せて頂いただけなので安易な判断は出来ないんですが、少なくともそれまで鑑賞した数本の作品は「舞台ならではの間、仕掛け、演出」があったような気がするんですね。会話一つ取っても、絶対に映像作品ではありえない濃厚な「間」や独特のタイミングがあった。でも今回の作品は、さしてドラマ演出経験の無い私でも容易にカットが割れてしまった。
鑑賞直後、私はこの感覚にちょっと戸惑ってしまいまして。

ただ、数日を経て思い直してみれば、これも当然の事なんて結論に。
これ、きっと確信犯的に行っていますよね。要は「群像劇と言える今回の作品は、会話中心に物語を進めていかなければ全員を描ききれない」という事なんでしょうね。
確かにそうです。2時間20分の中にあれだけのドラマを入れたら、とても人物の心情をセリフ以外でじっくり描く、なんて事はできないと思いますから。


ただそれは私には、また以前書いた不満を思い出すきっかけとなってしまいまして。
「観客の不在」です。

たまたま見ていたテレビで、「舞台に於いては観客さえも演出の一部」という言葉を聞きました。つまり「舞台作品は、観客の心の動きを舞台上の演者が意識し、それを踏まえて演技するからライブで行う意義がある」という事なんです。これは私も随分前から考えていました。私が舞台作品を鑑賞に赴くのはその「舞台との一体感」を味わう為でもあるのです。しかしそれは今回も叶わなかった。
「カットが割れてしまう。」それは同時に、舞台の上の出来事がまるでブラウン管の中のドラマのように見えているという事なんです。
前述の通り、これをもし確信犯的に行っているのなら、おそらく「舞台との一体感」はこの劇団には望めないのでしょう。
ただそれは私との方向性が違うというだけの事で、決して間違っているという事ではありません。
関係者の方々、誤解なさらないよう。私が勉強不足なんですよね(笑)。

二つ目。これは全体から受ける印象だったんですが。
「ドラマの牽引力の弱さ」を感じてしまいまして。

実は途中の休憩、開始から1時間強が過ぎた段階で休憩の案内が出たとき、私がすぐ続きが観たいと思った理由は、「えっ?前半の最後の『引き』があの新ウィルスだけなの?ナース達のドラマやキャラの描き分けは意外に淡白なのね。もっと仕掛けがあると思ったのに」という思いだったのです。
あそこで休憩に入るのは実にサプライズ。もうちょっと引きが欲しかったなと。
鑑賞後、その思いの要因について色々考えてみました。ただ私の軽い頭では大した事も思いつかず(笑)。

結局、たどり着いたのはこんな事でした。
「前半、ナース達が抱える問題の描き方が足りなかった、もしくは魅力的なキャラクターが創出できなかったからかなー。」

今回の作品は「ナース達」という言葉で語らなければならない程、一人一人の個性は突出して描かれていません。確かに描き分けはなされていました。ただ「個性」と言うにはちょっと弱かったような。わずかに一人、やや印象的な描かれ方をされたキャラクター「桐原うらら」が居ましたが、彼女は私の目には非常に惜しく映りました。

こういう群像劇の場合、観客に感情移入させやすいキャラクターを配置しストーリーの交通整理と牽引役を任せる事で、ドラマを分かりやすく進める事が出来るのですが、彼女の場合、少しパワー不足の印象があったかなと。その元気と愛らしさは非常に好感が持てるのですが、それプラス「何か」が欲しかった。「何か」とは何なのか?「彼女の元気の裏付け」とでも言うべきものでしょうか。私にも分かりません。それが分からない私に偉そうな事を言う資格など無いんですが(涙)。本当にごめんなさい。

決して彼女を演じた小林みかさんに原因がある訳ではありません。
むしろ健闘したと言えましょう。小林氏の名誉の為に申し上げます。 戯曲から来る要求、演出意図、演者の練習量や演技のスキル、さらには劇団のカラーなど様々な事情が絡みます。一概に原因は指摘出来ません。
また突出したキャラを創出しない事で群像劇としての側面を強調しようとしたのであれば、私の読みは見当違いだったことになります。
(きっとそれが真相でしょう(また涙)。
もともと彼女は、そういう意図で演出されていなかったのかもしれませんね。このあたりは演出・久保田明氏にお尋ねしたい所です。


三つ目は前述の事とも関係があるのですが。
「ラストの不安定な着地感」。

実は私、あのラストシーンでちょっと「あれっ?」と思ってしまいました。
一応、「数々の問題は解決に向かい、それぞれ悩みは抱えながらも彼女たちは強く生きてゆく」というエンドである事は納得できるんですが、何となく不安定感が残る。

これは「ストーリーに対して演技が突っ込み不足」という事なんでしょうか?
要は演者が、戯曲の要求するキャラの深みに達していないという事なのかもしれません。
「出し切っていない」感が付きまとう。
「もうちょっとあるでしょう」と感じてしまう。

そんな中残念ながら、私が今回の作品で一番印象に残ったキャラは「椿弥太郎医師」でした。ラストシーン、あの場面に登場していない椿先生の容態が一番気になってしまったのです。
タイトルは「ナース・コール」なのに、その印象はすべて椿先生に集約されてしまうという事実。あくまで私の印象ですが。
女優陣総力戦で挑んだナース達の演技は椿先生の前に霞んでしまったという事なのか?
それは私にも分かりません。ただそれは、決して彼が美味しい役どころだったという理由だけではないと思います。私には天性の素質と確実な実力を備えた演者、谷川伸彦氏の魅力の勝利と映りました。


色々勝手な事ばかり言ってしまい、大変申し訳ありませんでした。
頭もなく、演劇にも大した知識を持ち合わせていない私の事、舌足らずや見当違いの箇所があれば何なりとご指摘下さい。

ともあれ、2時間20分の長尺を飽きさせず、軽快なテンポで描ききった演出陣、練習時間の無い中その演出を具現化した出演者の皆さん、さらに医療器具など入手困難な小道具手配に奔走されたスタッフや、陰で作品を支えた製作陣の方々には大変敬服致しました。
いい作品を観せて頂き、感謝しています。


公演後、ロビーで出迎えてくれたro_okuさん、しすけさんのテンションの高さが、私は大変嬉しかった。やっぱり演じるほうも観る方も楽しくなきゃ嘘ですよ。鑑賞後、あれこれ考える事が出来るのも、作品に魅了されたからなんでしょうね。
私のこんな「創造好き」の病は、どんなナースも治せないようです(笑)。

2007年11月 9日 (金)

台本こわい

今日の「ネヴュラ」は、きわめて個人的、かつ真面目なお話です。
おタクな内容はまったく出てきません。そちらの方面をご期待の方には申し訳ありません。

とはいえ頭の軽い私の事ですから、別に深刻になる程の事も無いんですが。
まーお時間ありましたら、ちょっとお付き合い下さい。

今日11月9日と明日10日の二日間、幼馴染のro_okuさんが所属する社会人劇団が公演を行う事は、以前ちらりとお話したと思います。
私も彼の劇団には因縁浅からぬ付き合いがありまして、二年前の彼の劇団復帰後は時間ある限り公演を鑑賞しています。「ネヴュラ」でも公演後の下手な感想を何度かアップしていますので、ご記憶の方もおありでしょう。

今回の公演、私はお仕事の都合で明日、10日の鑑賞を予定しています。
今日は公演初日ですから、きっと彼は、初日の舞台を済ませた後もダメ出しや明日に備えての準備に追われている事でしょう。
今もこうして同年輩の仲間が頑張っている姿を見ると、昔好きだったアーティストが現在も活躍している事実に勇気づけられるような嬉しさを覚えてしまいます。

彼は私に先駆けブログを開設、公演の度に芝居に関する様々な思いを綴ってきました。ほぼ毎日彼のブログを訪れる私は、その文面から彼の胸の内を思う事が日課ともなっているのです。
ここ数日、彼のブログには今回の公演について、様々な思いが書かれていました。
彼の劇団は出演者が制作スタッフも兼ねる為、プロの俳優のように与えられた役の事だけを考える事ができません。演技以上に舞台の進行など様々な不安要素が降りかかる訳です。今回、彼は舞台上の役と、スタッフ業務との比重の置き方に戸惑っているようでした。

(ro_okuさん、違ってたらごめんね。文面からはそう読み取れました。)

「ネヴュラ」を読まれている方はご存知の通り、私はテレビ番組の演出というお仕事を生業としています。まー大した番組も手掛けてはいませんが一通り演出について学んでは来ました。そういう意味で、彼の辛さや戸惑い、本番に対する不安などの気持ちは少なからず分かるような気もするのです。

先日の彼のブログも、本番前の不安な気持ちが書かれていました。
どんな舞台でも本番前は不安なものとは思いますが、今回は練習時間の不足や出演者の体調不良など色々な理由により、今までにない程の不安だというのです。

その気持ちはよく分かります。舞台作品はチームプレー、個人の努力ではどうにもならない点は多くあります。自分の演技の仕上がりがいくら良くても、相手役が同じレベルの演技力を持っていなかったらお芝居として成立しない。相手のミスのフォローにも限界がある。それはキャストとスタッフの間にも当てはまる事です。
段取り通りの転換、大道具・小道具の配置。音楽や照明その他、全ての要素がハーモニーを奏でてこそ、舞台は初めて作品としてのメッセージ性を持つものだからです。

こういう事ってどんなお仕事にだって当てはまりますよね。会社運営はチームプレーですから。当然の事ながら、それは私のお仕事、番組作りも同じです。
どんなお仕事だって不安は付きまといます。お仕事の進め方に数学の公式のような「絶対解答」は無いからです。だから人間はあれこれ迷う。

まあ、ここで心の内を話すのもお恥ずかしいですが(笑)、私、番組ロケの前日は寝つきが悪いんです。不安で。
ディレクターとしての私は何が怖いのか。カメラの前に立つ訳でもない私が。これはなかなか理解されない事ですが。


ものすごく単純な事です。
当日、台本とスケジュール通りに進むかどうか。
これだけです。
今までのロケの中で、台本とスケジュールが完璧にコンプリートされた事はありません。正直、ゼロです。


何がそれを邪魔するのか。きっと聞かれたらビックリしますよ。
お天気。これ一つでもスケジュールは大幅に変わります。以前、雪の為にロケ現場へ行けなかった事がありました。
道路が渋滞する。取材場所の移動時間がスケジュール通りにいかない。
当然撮影時間も短くなります。

出演者が台本を把握していない。「そんなの考えられないよ」とおっしゃるかもしれません。でも現実にはよくあります。「把握している」とはセリフを覚えているという事じゃないんです。「アクシデントが起きても台本に書かれたキャラクターを維持できるか」という事です。
思った絵が撮れない。「混雑する駅前」という絵を撮ることがいかに至難の業か。一日の間で駅が混雑するタイミングは、実はほんの一瞬しかないんですよ。
出演者が道を歩くシーン。「名カット」と思った瞬間、カメラの前を車が遮る。
街頭インタビューで相手が逃げる。これ、皆さんお笑いになるでしょうが、取材側としては藁にもすがる気持ちで声をかけているんです。
待ち人来たらず。取材先の出演者がドタキャンした。もしくは著しく遅れる。

その他撮影許可が下りない、カメラの前に群がるピースサインの子供、日照時間の短さによる冬のオープン撮影のタイトさ・・・挙げていけばキリがありません。
ロケというのはこんな風に、不確定要素が極めて強いものなのです。


ディレクターとしてはこういう不測の事態も充分に考慮しているんですが、どんなに準備万端と思っても予想できないのがアクシデント、起こる事は起こるんです。
で、これらすべてのアクシデントは「原因の如何に問わず、すべてディレクターの責任」。

たとえば雨が降ったなら「屋外で撮影するシーンを屋内に変更してもシーンは繋がるか。」「もし屋外にこだわるなら撮影スケジュールを調整できるか。もちろんタレント、スタッフ全て含めて」という判断を瞬時に行わなければならない。
現場で出演者の演技があまりにもまずかったらその出演者の出番を削るか、極端な場合はその役そのものを無くすかしなければならない。その場合、極端な台本の修正が必要となります。ストーリーの進行や役の相関関係も考慮に入れなければなりません。

この重要な判断がディレクターに任される訳です。どうします?半年先までスケジュールが詰まっているタレントの、貴重な一日を調整するなんて。
その責任の重さ。
何故責任がディレクターにのしかかるのか。これは全て「作品は監督の心づもりひとつで何とでもなる」という、映像作品の特長によるものです。
要は「手抜きして中途半端なカットや演技でOKを出せば現場は早く終わるけど、いい作品はできない」という事です。
ですからディレクターはその「手抜きの誘惑」と闘わなければならない。


ロケ当日にはこんな事が山のように起こります。
「お前が悪い訳じゃない。でもお前が悪いんだ」なんて禅問答みたいな事を言われ続けてはや数年(笑)。そんな事態になったらカット割りだってメチャクチャ。台本通り撮れる訳がありません。正直、ロケ当日が来るのが怖いですよ。出来れば逃げ出したいくらいです。
誰も助けてくれない。不安です。
寝つきが悪くなるのも当然かもしれませんね。


皆さんの夢を壊すようで申し訳ありませんが、番組制作というのはこういう事態への対処がほとんど。カメラの前でタレントがはしゃいでいる場面は本当に楽しいんじゃなくて「人工的に楽しそうにしている」場面なのです。
カメラの後ろにはいつも、不安げに台本とスケジュールを見つめるディレクターが居ると思って頂ければ間違いありません。
でもそれがディレクターのお仕事なんです。テレビに夢を感じて業界入りした新人たちも、まずそんな現実とのギャップにショックを受けます。いったい何人、何十人が志を挫いた事でしょう。
三ヶ月続けばましな方、大体は一週間で辞めていきます。私の机に置かれたギブアップの置き手紙も一通や二通じゃありません。

立場は違えど、私だって冒頭のro_okuさんのように台本が、スケジュールがこわい。ロケは不安です。
出来ればカット割りを終えたら後はスタッフに任せたい。
正直、理不尽ですよね。お天気の責任まで取らなければならないなんて。


ここでお話しするのもなんですが、私にはロケ前日に必ず心に浮かべる言葉があります。おまじないと言うか、自分への暗示と言うか。

「勝負は怖いと思った時、すでに負けている。」

これ、実は「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)の劇中、岡本信人扮する利助というキャラクターが言ったセリフなんです。セリフの重さに反して、意外に劇中ではサラリと言われているのであまり印象には残らないんですが、私はこの言葉が妙に好きなんですよ。
決してこんな風に達観している訳じゃないんです。こんな風に自分を奮い立たせなければとてもロケには臨めない、という意味での暗示なんです。


怖がった結果が負けなんじゃなくて、怖いと思った事そのものが負けなんだという考え。だから私はロケ前日には構えて「怖い。不安だ。」というセリフを言わないようにしています。極端な話、明日の天気予報が雨でも「明日は私が晴れさせてみせる!」と豪語して、天気予報が間違っているとまで思い込みます。怖いと思った瞬間、負けですから。

きっと誰だって本番は怖いものなんですよ。準備が完全でなかったり、納得行く練習ができていなければなおさら。私だってそうなんですよ。
だから自分を騙してでも奮い立たせる。なんて言うか「ちょっとでも隙を見せれば、「負け」はその隙から忍び込んでくる」みたいな感覚があるんです。

もちろん、私だってそんな偉そうな事言ったって不安は拭い去れないし、ロケはいつも失敗の連続です。後悔しない日の方が少ないでしょう。
でも人間、どこかでそんな風に、不安に折り合いをつけていかなければならないんでしょうね。


お話の趣旨が見えなくなってきました(笑)。
彼のブログの「不安」という言葉に反応してしまったのかもしれません。
いつもながらの勝手な思い込みです。笑ってやって下さい。
きっと彼は、そこまで深刻な意味でこの言葉を使ったわけじゃない。そう信じたいです。
本番初日。彼の不安は少しは解消されたのでしょうか。
その結果は、明日の舞台が証明してくれるでしょう。
商業劇団ではないにせよ、そこは鑑賞料金を取って見せる有料公演。お仕事とは違うスタンスとはいえ、ある種の緊張感は必要と思います。
ただ、たとえそんな緊張感や不安を抱えながらも、彼にはいつまでも頑張って欲しい。そんな願いも持っているのです。


今日はこんな私的なお話にお付き合い頂いて申し訳ありませんでした。
ある意味「悪ガキの悪あがき」的な同志観を感じる幼馴染の事だったので。
でもro_okuさん、こんな年になっても、お互いチャレンジャーだねえ。(笑)。

2007年11月 8日 (木)

コターズ・ブートキャンプ

Photoあれ?おねえちゃん、
さいきんふとった?

あっ、気にしてる事を。
そーなのよー。
秋はなんでもおいしくて。




Photo_3あわててこれに挑戦したんだけど、
二日でギブアップ。
えーっ、こんじょうなし。








Photo_9わたしはまいにちきたえてるよー。
たいけいいじのため。
どう?このはーどなとれーにんぐ。

うーん、背中がかゆいの?




Photo_5
あっ、いったなー。
けーじぐらいらくらくのぼってみせるよ。

ほんとー?
じゃーやってみせてよ。




Photo_6 あらっ?
Photo_7 すご~い!
Photo_8
ま、ざっとこんなもんよ。すたいるいじにはやっぱりきんとれね。
どう?このくびれ。
くびれって・・・首の場所もわかんない(笑)。

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2007年11月 7日 (水)

電光石火作戦

吹きすさぶ風に揺れる駄菓子屋さんの小さな暖簾は、さながら西部劇の酒場のドアのよう。エンリオ・モリコーネのウエスタンBGMが似合いそうな空気の中、彼は一人、一世一代の賭けに臨みます・・・

前回のラスト、超人バロム1カードのラッキーカードを携えて駄菓子屋のおばさんを出し抜くべく勝負の舞台に立った小学生の従弟。彼は果たしておばさんに一矢報いる事が出来たのでしょうか?
今日の記事は前回記事の続きです。初見の方は11月5日の記事を先にご覧下されば、お話の流れがよりおわかり頂けます。

この日、駄菓子屋に向かったのは従弟一人でした。私は同行しなかったので、ここから先は後日従弟本人から聞いたお話です。その点はご了承下さい。

Photo細心の注意を払い幾多の練習を経て作り上げた作戦を、彼は実行に移しました。
いつものように店先に並んだバロム1カードの袋を一つ持つと、手馴れた手つきでおばさんにお金を渡し左手にカード袋を持つ彼。その時彼の右手の中には件のラッキーカードが。彼はおばさんの目に止まるようカード袋を持ち直し、目の前でおもむろに、そして確実に袋の口を破いていったのです。
袋はうまく破れました。おばさんは店内のお菓子やおもちゃのかたづけに気を取られ、さほど彼の手元を気にかけていません。

さあ、ここからが練習の成果。彼は袋を覗き込むフリをしながら左手に右手を重ね、右手のラッキーカードを袋に滑り込ませる事に成功しました。
袋の中では買ったカードとラッキーカードが重なった状態です。
さあ、そしてここからが最大の難関。何度も練習した技の見せ所。


袋からゆっくりとカードを引き出す彼。
袋から出てきたのはさっき忍び込ませたラッキーカード。
「カードのすり替え」セカンドディール成功!まさに電光石火の早業!


「あっ、ラッキーカードだ!」彼は驚くフリをして(きっとワザとらしかったんでしょうけど(笑)おばさんにカードを差し出しました。
「えーっ?」顔色一つ変えずにカードを受け取るおばさん。
沈黙の時間が流れます。
心臓の鼓動音が聞こえそうなほどの緊張。


「カイジ」風に言えば「彼は待った・・・。敵、自ら、泥土に足を踏み入れるのを。
顔を伏して待った・・・」って所でしょうか。
(クイズミリオネア・解答待ちシーンのBGMをご想像下さい(笑)

ところが、従弟からこの先を聞いた私は、意外な展開に驚きました。
なんと、おばさんの口から出た言葉は。


「あー、このラッキーカード、古いヤツだね。」

古い?古いってどういう事?予想もしなかった展開に彼は大パニック。
「このラッキーカード、変わったんだよ。」
目の焦点も定まらない彼の前に差し出されたのは、おばさん言うところの「新ラッキーカード」でした。
けげんな顔で覗き込む彼。

そのカードは、確かに彼が持っていたカードとはいくらかデザインが違っていました。文面の内容はほぼ同じなのですが、「ラッキーカード」の文字を取り囲む円の形や文字の配列に大きな差があったようです。

「取替え期限切れのカードが混ざってたんだねえ。おばさんは知らないよ。」
確かにその場で袋から取り出した(と見せかけた)カードですから、ここで「期限前に出たカードだからいいじゃない」とは反論できない。
彼は泣く泣く、カードを持って退散したのでした。

セカンドディールには成功した彼でしたが、その後の展開はいかに優れたカード・テクニックでも解決できなかったようです(笑)。
「あの時のショックは忘れられないよー。きっとあのカード、まだ家のどっかにしまいこんであるよ。捨てられないもん。」よっぽどショックだったのでしょう。その時の様子を彼は今でも話してくれる程ですから(笑)。


Photo_2今こんな事が起こったら子供はすぐさま親に告げ口、お店は詐欺行為でつるし上げられちゃうなんて大事になっちゃうんでしょうが、当時の駄菓子屋さんの雰囲気ってこんな感じでしたよね。
このカードの一件はもとより、例えばむき出しの状態で売っているドーナツを持って「これちょうだい」とおばさんに渡した瞬間、おばさんがうまく受け取れなくてポロッとお店の床に落ちちゃったり。そんな時、おばさんに涼しい顔で「私は知らないよ」なんてうそぶかれた事も。
もっと凄いのもあります。、例の「5円引き怪獣ブロマイド」を目当てに行った私たち。ところがたまたまお店では品切れで、なんとおばさんは店の奥の住居部分から「自分の子供に与えたブロマイド」を持ち出してきたのです。
それを平気な顔で売りつけられそうになった事もありました。
(さすがに断りましたが。だってむき出しなんですから。あれは袋から出す瞬間が楽しいのに。しかも差し出されたプロマイドはウルトラセブン怪獣「ガブラ」のアップ(爆笑)。

頂いたコメントにも書かれていましたが、この「駄菓子屋の攻防戦」が当時の空気なんですよね。この雰囲気は「ALWAYS 三丁目の夕日」一作目、駄菓子屋のシーン(「スカばっか」コールが素晴らしい)で再現されています。
地方は違えど昭和30年代から40年代あたり、コンビニ誕生以前までは、駄菓子屋さんは「大人と子供のかけ引きの場」でもあった訳です。

ところで。ちょっとお話は戻りますが、先ほどの「ラッキーカードのデザイン」の一件、一体なぜそんな事が起こったのでしょうか?
この事実、従弟の名誉の為にも(笑)今改めて考えてみると、当時の「バロム1カード」流通の裏事情がやや推測出来るような気もするのです。まあ推論に過ぎませんがこれも「ネヴュラ」向きの話題、大人の遊びとしてお聞き下さい。

Photo_6 ひょっとして例のバロム1カード、駄菓子屋さんのおばさんが言った言葉に大きな悪気は無かったんじゃないかと。
このバロム1スナックの写真、スナックの左下に映っているカード袋に「駄菓子屋でカードだけで売られていた時の袋?」という説明文がついていますよね。この「?」が曲者なんですよ。要はスナックに添付されていたカードと、駄菓子屋さんに流通していた頃のカードって、当時、その二つがはっきり選別されていなかったんじゃないかと推測できるのです。

ひょっとしてスナック添付のカードが駄菓子屋ルートに流れ、単体で売られていた可能性もあると。例えばブルーのカード袋のまま。当時そういう混乱から、スナック添付のカードについてはメーカー・問屋さん・小売店間に「このカードは当たりがあって引き換え景品が存在する」という情報が行き渡らなかったのかもしれません。
ただそうなると、袋に印刷された「その場でアルバムカレンダーがもらえます」という記述が疑問ですね。駄菓子屋のおばさんはそれを不思議に思わなかったのか無視したのか。まー当時、そういう記述は結構いい加減でしたしね。もらえるはずの景品がお店の都合で違う品物になっていたり(笑)。


Photo_7 あるいはスナック添付のカードを作りすぎた為、駄菓子屋ルートでも販売するけど、景品については間に合わないからカードとセットに出来なかった事情も考えられますね。
だから駄菓子屋のおばさんは従弟のラッキーカードの存在を知らなかった、もしくは知っていても景品がセットされていなかったから引き換えようがなかったのかもしれません。
従弟が引き当てたラッキーカードは、ひょっとしてスナック添付のカードだったかもしれないのです。彼も運の悪い時期にカードを当てたものです(笑)。


で、メーカーの混乱もおさまり生産ラインが整備されて、(中身は同じでも)駄菓子屋売り専用のカードがパッケージされたもの、それが「?」マークのついた黒いカード袋だったんじゃないかと。同時に景品引き換えシステムも軌道に乗り、駄菓子屋さんでもやっと引き換えが可能になった時、ラッキーカードのデザインも一新したのではないでしょうか。
そう考えればなんとなく辻褄が合いそうな気がします。

おばさんもこの時、ラッキーカードの存在を知ったのでしょう。同じバロム1カードでも、ある時期から景品が添付されるようになって、子供への説明に困ったと。「古いカード」というセリフも、おばさんの苦しい言い逃れだったのかもしれませんね。

Photo_4そんな風に末端の小売店にまで混乱を与えてしまうのも、当時のメーカーの大らかさゆえでしょう。考えてみれば、こういう混乱はラッキーカードにちゃんと景品の引き換え期限を明記しておけば避けられるんですよね。おぼろげながらバロム1カードには引き換え期限が印刷されていなかったような記憶があります。従弟の混乱もきっとここから来たと。(識者の方、もし違っていたらごめんなさい。私がすべて悪いんです。)
写真は仮面ライダースナックのラッキーカードですが、これにはちゃんと締切日が明記されていますよね。単体で駄菓子屋さんに流通しなかったカードであってもこういう風にセキュリティーがきちんとなされている。
カードの精度も含め、ライダーカードが今もって研究者の対象になっている理由が分かるような気もします。

なーんて。カードの実物を一枚も持っていない私など、決して偉そうな事は言えないんですが(笑)。

Photo_5駄菓子屋さんの攻防について結構辛辣な事もお話しましたが、駄菓子屋さんのおばさんって決して前述のような怖い人ばっかりでもなかったような気もします。
夕方、お店を覗くと、「宿題は済ませたの?」「もうすぐ夕ごはんだから、あんまりお菓子食べちゃいけないよ」なんて、まるで母親のように私たちの事を心配してくれたおばあちゃん達も多く居ました。
私がお店を覗くのは、そのおばあちゃんとの会話を(いや、話しかけられるのを、ですね。)楽しみにしていたからという事も間違いないのです。


おそらく今、こういう家族のような会話が成立するお店は、都市部より地方の方が多いのでしょうね。私も番組の撮影などで時々地方都市に出かけると、町の小さなタバコ屋さんでこんな会話を楽しめる事があります。
古い人間なのか、そういう出来事がある度に「今度のお仕事は得しちゃったな」なんて思える事も多いですね。あの駄菓子屋さんのやりとりや今回のようなエピソードが何故か記憶の中で輝いているのは、その根底に人間同士のコミュニケーションがあったからなのかもしれません。

頂いたコメントの中にありました。例え駄菓子屋さんのおばさんが怖くても。
「でも毎日通ってたんだよなぁ~。」

また行きたくなるお店。子供時代には数多くあったそんな貴重な場所は年を経るとともに少なくなっていきます。大事にしたいものですね。
たとえ店主との間に「電光石火作戦」のかけ引きがあっても(笑)。

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2007年11月 5日 (月)

秘技・セカンドディール

久しぶりに見ました。
小学生の買い食い(笑)。
今日も覗いた、行きつけの大型駄菓子ショップで。

片手にかじりかけの板チョコを持ったやんちゃそうなボクちゃんが、余った手でガムをレジに差し出す瞬間。
「はい。10円ね。」優しそうにお金を受け取るお店のおばちゃん。
こんな光景を見たのは何年ぶりでしょうか。
とにかく、彼の片手の板チョコがポイント高い。チョコを食べながらガムを買う。
もう子供にとっては天にも昇る贅沢、ドンペリとキャビア並みの豪遊。
(盛り上げすぎですね(笑)。

そんな光景に懐かしい自分の幼少時代を思い出していると、つい私も衝動買いしたくなっちゃって。手を出しちゃいました。
Photoご存知、マルカワのフーセンガム。今回は復刻パッケージ6個パックという限定品です。
箱には「みなさまに愛されて60周年」なんて書かれていますから、このマルカワガムの発売は1947年という事になりますねー。
そりゃーとんま天狗やジャガーの眼(表記はガムに従いました)のイラストがあっても不思議じゃないと。このパックの中で一番新しいキャラクターがひょっこりひょうたん島というのも、考えれば恐ろしいお話ですよね。

こんなパックが58円で手に入るとは。今度はケース買いを画策しようかと(笑)。

Photo_2歳だけは重ねている私も、さすがに「ジャガーの眼」の放送には間に合わなかった世代ですから、これらのパッケージを懐かしいとは思えないのですが、中身のフーセンガムは子供の頃からよく食べていました。
私が子供の頃は、ガムと言えば母親に買ってもらうロッテなどメジャーなメーカーから、駄菓子屋御用達の「トップサン」「コリス」「フルタ」なんていう二流どころまで様々でしたね。吹いて遊べるコリスのフエガムや、粉だらけで口の中でポキッと折れちゃうフルタの甘ーい板ガムなんかは、今もその食感までしっかり思い出せます。
このマルカワのフーセンガムも、一箱に四粒も入っているというお徳感から、私の毎日の友でした。
柔らかい食感とジューシーな味わいが好みにピッタリだったのです。
でも年とともに一粒ずつ食べる事の無意味さを感じるようになると(笑)、その興味はスマートなネーミングの「グリーンガム」や「クールミントガム」へと移っていったような気もします。
「マルカワ卒業、ロッテ入学」ってところでしょうか(笑)。

でも子供って、こういう風にパッケージにキャラクターがついたお菓子が好きですよねー。中身は同じ商品なのに、「ジャガーの眼」と書いてあるだけで特別な味に思えちゃいますから。
(「ジャガー」に拘りすぎですね。別に「ひょうたん島」でもいいんですが(笑)。
マーチャンダイジングが子供番組の大きな利益として制作側に認識されるようになった1960年代後半。私などが子供の頃は、まさにこういうキャラクター菓子の黎明期でした。
この「本放送時に食べたキャラクター菓子」の記憶は、私たち、ウルトラやライダーのリアルタイム世代のみに与えられた素晴らしい宝物なのです。

考えてみれば、いかに何でも手に入るヤフオクだって、当時発売のおもちゃは出品されても当時の「お菓子」の現物までは出品不可能ですもんね。当たり前のお話ですが。
それくらい、私たちが本放送当時に触れた「時代の空気」は再現不可という事なのでしょう。公開が始まった「続ALWAYS」だって叶わないすばらしい記憶が、今も決して消えることなく脳裏に焼きついているのです。

Photo_3例えば私などは、「ウルトラマン」のお菓子と言えばこの「シスコ」が原体験。今でもシスコと言えばウルトラマンを思い出すほど、頻繁に「ウルトラお菓子」を買っていました。
プラモデルやソフビなどのおもちゃほど高価ではないこれらお菓子は、まさに子供たちの日常に密着したキャラクターグッズの代表格。

なにしろ夕方、母親にくっついてスーパーへ行けば、比較的おねだり成功頻度の高い(笑)アイテムでしたもんね。
ガムの包み紙に印刷された転写シールやイラスト図鑑、怪獣クイズなども、夕食までの時間を楽しむ絶好のおまけでしたよね。この頃はどこの家でもタンスや机に怪獣の転写シールが所狭しと貼られ、眉をひそめる母親と子供たちとの攻防戦が繰り広げられていました。メーカーも罪なおまけを発明してくれたものです(笑)。

キャラクターという物が今ほど普遍的な人気を持っていなかった当時。
これらキャラクター菓子は、ある意味放送期間中のみの限定商品の様相を呈していました。私たちがそれらのお菓子に特別な記憶を持つのは、それだけ販売期間が短かった理由もあると思います。
なにしろ新番組が始まっちゃえば、昔の番組のお菓子などはたちまち店頭から姿を消してしまう状況でしたから。かのウルトラマンでさえプラモやソフビはともかく後番組の「キャプテンウルトラ」の放送開始と共にシスコのラインナップは「キャプウル」一色、「マン」の商品は嘘のように無くなってしまったのです。
今のように、新作の放送が無くても常にお菓子が発売される状況など考えられなかった訳ですね。


Photo_9 たとえばこの、森永「宇宙少年ソラン」ガム。これにも忘れられない思い出があります。もう年齢さえ思い出せないほどの昔、私は風邪で熱を出しまして、当時父親におぶってもらってお医者さんまで行った記憶があるのです。診察が終わった帰り道。なぜか父親が持たせてくれたのがこの「ソランガム」でした。きっとどこかで買って来てくれたのでしょう。風邪の熱の為、味覚はまったくありませんでしたが、このパッケージだけははっきり憶えています。ヒーローの存在は、体や心が弱った時ほど記憶の奥底に響くものなんですね。
ひょっとすると私が今コタを飼っている事だって、このソランの相棒、宇宙リスのチャッピーの影響が無いとは限らないのです(笑)。

Photo_5お菓子そのものの魅力以外で私たちの世代に一大ムーブメントを起こしたのが、ご存知こちら「カルビー仮面ライダースナック」。これは本当に買いまくりました。
おまけのライダーカードが現在のトレーディングカードの先駆けであるとか、本放送とリンクした、ストーリーや怪人の露出ペースの高度な計算とか、後年色々な研究がなされていますが、当時このスナック(いや、カードですね)のまさに中心ターゲットだった私達子供の感覚からすると、これはそんな大人の解析以前に「仮面ライダーという番組を体感する上で最も身近なアイテム」という色合いがもっとも強かったような気がします。


当時を知る方々ならよくご存知の「スナック投棄事件」や「アルパムゲットはカルビー宇都宮営業所の方が早くて確実」の噂などなど、まさに子供たちが主役となった様々な出来事、風説などが飛び交ったブームでした。
個人的にはこのちょっと甘辛いスナック、結構好きだったんですよ。ですから当時はかなり無理して食べていました。でも結局カード欲しさに毎日買っていると、そのストックに食欲が追いつかなくなってくるんですよね。
私の学校でも問題になりましたよ。お菓子屋さんの前の側溝に大量のライダースナックが捨てられていた出来事とか。
(ro_okuさん、憶えてますよね?)


そんなムーブメントが飛び火し、「ライダー商法」とでも言うべきスナック・カードのコンビネーションは、第二次怪獣ブーム時のあらゆるヒーロー・スナックに波及しましたね。
前置きが長くなりましたが、今日の本題はここから始まります。
ちょっとした謎もありますから、覚悟してお聞き下さい(笑)。


第二次怪獣ブームもたけなわ、ライダー人気も最高潮に達した1972年。東映が制作したヒーロードラマ「超人バロム1」。
読者の皆さん説明する必要もないでしょうが、この「バロム1」、東映の等身大ヒーローとしてはライダーの後続番組的な流れを持っていたんですね。
ライダーの石森章太郎氏に続き、さいとうたかお氏を原作に招くなど(両氏とも当時表記)、このバロム1で変身ブームの勢いをさらに加速しようとした東映の意欲が窺える番組でした。
で、このバロム1、お菓子の展開もライダーに習ったきらいがありまして。
カードとのカップリングはそのままに、和泉せんべい本舗から「超人バロム1スナック」としてライダースナックそっくりのお菓子が発売されたのでした。


Photo_6当時、ライダースナックとこのお菓子を食べ比べていた私。どちらかと言えば少し塩気が強く、和風の味付けがされた「バロム1スナック」の方が好みだったのですが、なにしろ番組の魅力は「ライダー」の方がはるかに上と感じてしまい、そうそうに浮気を解消。結局はバロム1カードも中途半端なラインナップに終わる結果になりました。

実は、私がこちらのスナックを見限った理由は、まだ他にもあったのです。

Photo_7こちらの写真をご覧下さい。
これは当時駄菓子屋さんで売られていた丸昌製、超人バロム1のミニプロカード。手元に残っていたデッドストックです。これ、たぶんこんな形で9枚つづりのシート売りがされていたと記憶しているんですが、よーくご覧頂くと一枚一枚の切り離し用ミシン線と、カードごとの印刷部分が少しずれているんですよね。



Photo_8当時の印刷、裁断工程の技術はこんなものだったのかもしれませんが、私はこれが許せなくて。と言うのも、件の「バロム1スナックカード」もこの丸昌製同様、裁断線と印刷線がずれているものが非常に多かったからなのです。
写真のカードはそのスナックカードの現物とは別物ですが、まースナックカードはこのずれたシートを裁断した物とお考え頂ければ間違いないと思います。
これは当時のカルビー製菓と和泉せんべいの外注管理能力の差でしょうね。だってライダーカードにはこんな裁断のずれはめったに無かったですから。そんなわけで、子供心に企業力の差を感じてしまった私は(笑)そうそうにバロム1スナックから撤退してしまったのでした。

ところがここに、バロム1カードを極めるべく情熱を燃やす人物が一人。
何を隠そう、私の二歳下の従弟でした(笑)。

何故かバロム1の勇姿に心を奪われた彼は放課後の全ての時間をカード収集のみに捧げ(大げさですね(笑)、そのコレクションもみるみる増えていきました。
さて。彼もスナックを買い続けてカードを集めたのでしょうか?
実は、懸命な彼は別の手段でカードを手に入れていたのです。


先ほどごらん頂いた「バロム1スナック」のパッケージ写真をもう一度ご覧下さい。よく見るとパッケージの下に「後にカードだけ駄菓子屋でも販売」という説明文がありますよね。
つまりこのスナック、カードだけ単体で売っていた時期があったのです。
従弟はこの事実を見逃しませんでした。近くの駄菓子屋さんで目ざとくこのカードを見つけ、せっせと買い集めた訳です。

作戦成功、しばらくはこの状態は順調に進み、彼はカードのコンプリートまであと一歩まで迫りました。さすが私の従弟、オタクの血も濃かったようです(笑)。
ところがコンプリート手前で、彼は意外な壁に当たりました。
「そう言えばこのバロム1カード、アルバムってないんだっけ?」


そうです。ライダーカードならあのコレクターの勲章、ラッキーカードが無くては手に入らない「アルバム」があります。しかしこのバロム1スナック、アルバムの存在、そして入手方法は?
さあ困りました。ひょっとしてラッキーカードがあるのか?今までそんなカードは見たことがありません。ラッキーカードを出す事が彼の新たな目的に加わったのでした。
そんなある日。望みはついに叶えられました。裏に「ラッキーカード」と大きく印刷されたカードを彼は引き当てたのです。

「やった!」喜びに胸を躍らせカードの説明を読んだ彼。
ところがそこに書かれていたのは意外な内容でした。
ライダーカードには書かれている筈の「このカードをどこどこへ送り・・・」等の説明がまったく無いのです。当然、送り先の住所も無い。


「じゃあこのカード、どこへ持っていけばいいの?」不安で一杯になった彼は、とりあえずカードを買ったお店へ向かいました。ところが。
カードを見せる彼に、お店のおばさんは怪訝な顔でこう言ったのです。

「わからないねー。仕入先からも何も聞いてないし。
だいたいこれ、本当にうちで買ったカード?見たことないよこんなの。」

さあ彼はパニック。カードだけで本体のスナックはありませんから、製造元へ問い合わせる事もできません。おばさんにさえ疑われてはもう手はない。
でもここで負けてはオタクがすたる。
考え抜いた彼は、必殺のウルトラプレーを編み出しました。


「セカンドディール」ってご存知でしょうか?カードマジックなどで使われるテクニックの一つで、重ねたトランプの一番上のカードを開いたと見せかけて二枚目のカードを開き、一番上を開いたように見せかける高等技術です。
もうおわかりでしょう。彼は手にそっとラッキーカードを忍ばせ、そのお店で別のカードを買って、袋を開いた瞬間に買ったカードとラッキーカードをすり替えようとしたのです。
それが「セカンドディール」。目の前で開いたカードがラッキーカードなら、お店のおばさんも信じないわけにはいかないでしょう。


子供にとってこういう事っておそろしく緊張を誘いますよね。大人相手の大勝負という感覚があります。でもラッキーカードは間違いなくそのお店で買ったものだし、おばさんが知らないのは無責任以外の何物でもないですから。ある意味お店への制裁でもあったのでしょう。
開封済みのカード袋を使った練習。ラッキーカードとのすり替え。わざとらしくなく驚く言い回し。小学生がその持てる技術を尽くして百戦錬磨の大人を出し抜こうとしているのです。
周到なその計画はまるで「カイジ」の限定ジャンケンのよう(笑)。


さて。ここで読者の皆さんに、ちょっとしたお願いです。
この続き、どうなったと思いますか?ちょっと考えてみて下さい。

提示されるデータは今日の記事が全てです。
これはすべて事実。子供時代に現実に起こった事ですしその結末も判明していますから、別にこんな事をする必要もないのですが、ここまでお話して、ちょっと結末を謎にしてみたくなりました。
まー大した結末でもありません。ガッカリされるかも。。
もし皆さんがこの従弟本人だったら。
駄菓子屋のおばさんの気持ちになってみるのもいいですね。


昔の事実を元にした、頭の体操とでも思って下さい。
続きは次回お話しましょう。ちょっとした空き時間にできる創作活動。
これが「ストーリーを生み出す」という事なんですよね(笑)。

2007年11月 4日 (日)

想像力と創造力

「公演、来れる?」
昨夜、部屋でコタと遊んでいた時かかってきた、ro_okuさんからの電話。
もうすぐ、彼の出演する社会人劇団の公演日なのです。
もちろん行くつもりの私は、彼に鑑賞予定の日時を伝えました。

こうして、今も果敢に同い年の仲間が創造の現場で頑張っている姿を思うと、私も俄然勇気付けられますね。人生、守りに入りがちな私たちの年代にも、まだ熱い思いが残っている事に喜びと頼もしさを感じます。

実は今日、私はロケに備えて台本を執筆していました。ロケ日程の関係でどうしても台本は日曜日の作成になってしまいます。平日、休日などと言っていられないフリーの私には、もうこんな生活が慣れてしまったようです(笑)。

これは私に限らず、台本作成者すべてに言える事と思うんですが、台本って「あくまで映像作品の為の設計図」なんですよね。
「この場面は役者にこういうセリフを言わせて、ここではこんなシーンを入れて・・・。そうすればきっとこんな効果が出るだろう」なんて考えるのはあくまで想像上の事なんですよ。

ですから実際、撮影現場でキャストがカメラの前に立ち、スタッフがフル稼働して出来上がった映像を編集、BGMが付いた時点で、「あー、これは自分の想像通りだ」なんて思う事はめったにありません。
「ここはこうしておけば良かった」「テンポが出なかったなー」「狙いと違った所でいい味が出たなー」なんて事の方が多い。
いや、ほとんどそればっかりかもしれません。
ですから、例えば台本で「A」というテイストを狙っていても、実際出来上がった作品は「Aダッシュ」「B」なんて事だって当然あります。
私などロケ現場や編集室で「やった!思った以上のカットだ!」とか、「ここ、編集でいい雰囲気が出たねえ」なんてその「偶発性」に一喜一憂する事もよくあります。

映画やドラマ好きの皆さんはよく耳にされると思います。「この作品は脚本はよかったけど、それを演出が活かしきれていない」「こっちの作品は脚本は大した事ないけど、それをキャストや演出が補った」などなど。
私のように映像制作に携わる人間は、こういう解析が非常に気になります。予算もなくスタッフも少ない私の番組などはともかく、大勢の人間が携わるドラマや映画などは、脚本という設計図を元に多くの人々の思惑や努力・テクニックが交錯し、その結晶が一つの作品に結実するからです。

今や総合芸術としての立場が確固たるものとなった映像作品に於いて、それを生み出す側には何が必要なのか。
これはもう間違いなく「創造する力」でしょう。
私が『想像』ではなく『創造』という言葉を使ったのには理由があります。


前述のように、映像作品にとって台本、脚本はあくまで設計図なんです。言ってみれば「絵に描いた餅」『想像の産物』なんですよね。それを映像化する為には、脚本を映像というジャンルに置き換える上での『創造力』が必要とされるのです。

具体的な例で言えば、脚本に「ゴジラ、天をも貫く咆哮」とあったとしましょう。小説などではよく見かける描写ですが、あなたならこの一文をどう映像化しますか?
ゴジラの顔からズームアウト?逆に都市の真ん中で吼えるロングショット?
ゴジラをビル越しに舐めて、咆哮と共に手前のビルのガラスが割れる?
こんな風に、文章一つでも映像のバリエーションは無限大にあるのです。
これを撮影条件やストーリーの緩急、場面そのものが要求するテーマなどに添って選択、適切なカットを作り上げるのが監督をはじめとする現場スタッフなんですね。


で、これが重要なんですが、撮影現場に居ると「このカットはどのカットの繋がりなんだっけ?」なんて混乱がよくあるんです。お時間ある方は一本の映画が何カットで出来ているか数えてみて下さい。おそらく天文学的数字になると思います。それほど多いカット中、「自分が作品のどの位置を作っているのか」という事を正確に把握する事。良く撮れたカットに惚れるだけじゃなくて、それが作品の中で効果的かどうかを冷静に判断する事。監督にはそういう全ての要素を鳥瞰する技量が必要とされる訳です。
「創造力」とは、そんな幾多の混乱を経て脚本という設計図を「時間」という流れの中に定着させる力なのかもしれません。当然、予算やキャスティングなど、プロデュース的な要素も絡んできます。脚本段階では予想も出来なかった事だって勃発するでしょう。
どんなにつまらないと思う作品も、それが脚本を元にしたクリエイティブな作業である限り、幾多の困難を経ているのです。


ですから実際、ネットなどでよく見かける「評論」というふれ込みの「感想」などで、まるで作品をコケ下ろすように書かれるその内容を見るにつけ「この文の作者は、制作者の思いをまるで分かってないな」と思ってしまいます。

私もそういう輩の轍を踏まないよう気を付けているのですが、実際それは映像作品を鑑賞する者にとって非常に陥りやすい部分なんですよね。
「この部分が良くなかった」「考えられないほどの駄作」などと書かれた感想があるとしましょう。でもそれは、とにもかくにも「作品」というものがまずあって、それを見なければ書けない事ですよね。
つまりその時点で「制作者」と「評論者」は同じ地点に立っていないんですよ。

評論者はもう絶対的に「作品が無ければ何も語れない」訳です。そういう意味で、全ての作品は既に制作者が絶対的に有利なんです。
無ければ感想が書けないんですから。
以前にもお話した事ですが、作品という物を支配するパワーバランスは「制作者80%、鑑賞者20%」と思います。もう作った側が絶対的に偉い。


「こんな作品なら自分が脚本を書いたほうがまだマシ」などという、神をも恐れぬご意見もたまに目にします。これだって鑑賞側が「20%の範疇」で書いているに過ぎません。
じゃーこの鑑賞者はその非難の的となった作品を観る前に、それを超える脚本を書けたのでしょうか?
「書ける訳ないじゃん。観たからこそ脚本の不備だって分かるし、修正点だって分かるわけでしょ?」
その通り。じゃあ実際、その作品の制作者達は、その作品を完成させる前に「全く同じ作品」を観ていたのでしょうか?


お分かりでしょうか?その時点で制作者は鑑賞者の二歩も三歩も前を歩いている訳です。出来上がったものについてあれこれいうのは簡単ですが、それにはまず「この作品がこの世に存在しなかったら、自分はこれと同じレベルの作品を創造できただろうか」という事をまず考えるべきじゃないかと思うんですよ。

「いや、オタクイーンは業界人だからそう感じるんでしょ?」
確かに。そのご意見もごもっともなんです。確かに普通の人々にとって映画くらい無責任に観たいですよね。入場料やレンタル代を払ってるんだから好きな事くらい言わせてよと。ですから私は、そういう素直な感想はまったく否定しません。
むしろ制作者達はそんなピュアな感覚の方に共感するはずです。「あそこの主人公のセリフに泣けたー」とか、「あの敵役、憎たらしかったね」とか。そんな根源的な感覚の方が分かりやすい。
要は個人的な「好き嫌い」なら問題ないんですよ。でも「良い悪い」という観点で意見を言うなら、「何故良かったのか」「悪かった原因は何か」まで考える必要はあるだろうと。


さらに「脚本が・・・」とか「カットの繋ぎが・・・」「テーマが・・・」など、作品の本質的な部分にまで言及、しかも苦言を呈するのであれば、それ相当の覚悟が欲しいという事なんですよね。それなりに理論武装する事も必要でしょうし。それが制作側に対する礼儀というものです。
おそらく、一介の現場経験も無いファンに面と向かってひとりよがりな理屈を振りかざされたら、スタッフも黙ってはいないでしょう。
「じゃああなたは、私たちの作品を超える作品を作った事があるの?」なんて言われるのはまだましな方、ほとんどの人は理屈で言い負かされてしまう筈です。
「ドラマの力学も分からないくせに」なんて(笑)。


「卵の良し悪しは、卵を産まない者でも分かる」ってよく言いますよね。
でも、「卵を産んだ者は、産まない者よりもっと良し悪しが分かる」んですよ。


私の場合、それが鑑賞者としての立場上たとえ20%の範疇であっても、極力「残念な部分はなぜそうなってしまったのか」を推測するようにしています。
マーケットリサーチの不備なのか。プロデュースミスなのか。ディレクションミスなのか。ミスキャストなのか。
その原因はスタッフの体調や制作時期にまで及びます。
そこまで考えなければ、作品を観たという事にはならないと思っているのです。
で、「あそこはこうすれば」などと考えてもみるのですが、それにしたって「観た後」ですから、所詮感想に過ぎませんね。出来上がってしまった作品に対して何を言っても。どんな作品であれ、制作者の足元にも及ばない意見という事も分かっているのですが。そんな謙虚な姿勢を忘れたくないと思います。
映画「大日本人」を完成させた松本人志も、作り手側の感触としてこんな事を語っていました。
「映画はライブと違い、内容のクレームが修正不可能な所が恐ろしい」と。


ここで冒頭のお話に戻りましょうか。
幼馴染、ro_okuさんの公演は今月の9日と10日の二日間、名古屋市の大きな劇場で行われます。ライブで繰り広げられる演劇作品は映像作品と違って公演ごとに微調整が可能ですから、また違った見方も出来ますね。

映像作品と比べ、演出者や舞台監督と演者の関係が若干違うような気がします。
何しろ「映像と違って撮影という要素が存在しない」という部分が大きいでしょう。またライブである為、演者の入れ替わりや場面転換の物理的段取りも大きく影響します。
ただこちらもやはり「戯曲」という想像の産物に全てのキャスト・スタッフが肉付けし、舞台という場に定着させるという意味で『創造力』がものをいう場である事は変わりありません。


私としては戯曲という「想像」の部分、またそれを形にする上での「創造」の部分の両方に大きく惹かれます。面白いのはきっと、この二つのバランスが取れていては面白くないかもしれないという所なんですよ(笑)。
「想像」に「創造」が負けては話になりませんが、その逆はとんでもない傑作を生む可能性を秘めていると。


今日はちょっと固いお話になってしまいました。
でもこんな楽しみがあるから、作品鑑賞はやめられません。
ただro_okuさんにとっては、今日のお話は物凄いプレッシャーになると思うけど(笑)。


*蛇足ながら付記として
以前読んだある映画評論に「脚本家は創造者・監督は表現者」という意見がありましたが、今回は現場の立場から、あえて少し違った捉え方をしてみました。
最近の作品を見ていると、その垣根も低くなってきたような気もします。

2007年11月 3日 (土)

タコスコタ

Photo_26 最近のお気に入り、ベビースタータコス味。スパイシーな刺激が私好み。
Photo_27 なにこれ?おいしそうだねー。
めざといねえ。タコはコタを呼ぶって事?
Photo_28もったいぶらずにちょうだいよー。
だめだめ。そんなの食べたらお腹こわすよ。
あんたには刺激が強すぎるんだから。




Photo_30 かわりにこれをあげるよ。ヘルシーな豆腐ボール。タコ焼き仕立て。

ふーん。きょうはたこづくしなのね。
Photo_31

なーんて言ってたら・・・
あれ、どこ行ったの?






Photo_36わちゃー。また怪獣とたわむれちゃって!
もう友達と思ってない?







Photo_40 あっ!大事なティガの指人形を。
劇場版の入場者特典だったのよ、それ。




Photo_42 うーんしょうりのあじ。
・・・結局おにぎりせんべいなのね。まったく、ティガを倒すとは。
その体力、タコス味も平気かもね(呆)。

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黒き同胞

「ネヴュラ」休止中、数多く映画を見た事は、数日前にもお話しましたね。
中には久しぶりに再会し、新たな私見に繋がる作品も何作かありました。

単体で作品を評価できず、いつもその製作背景や他ジャンルとの関連付けに興味が湧く私は、こじつけと言われながらもそんな偏った方向へいつも走ってしまうのです(笑)。

今回、何度目かの鑑賞を果たした「バットマン」(1989年米 ティム・バートン監督)も、そんな一本でした。
読者の皆さんもよくご存知のこの作品、公開当時、私の街の駅前には実際撮影に使われた(と言う触れ込みの)実物大バット・モービルが展示され、迫力負けしてしまった私はその場で前売り券を買ってしまった恥ずかしい記憶があります。
昔から単純な私でした(笑)。

Photo_14公開初日、本国アメリカで大ヒットという前評判を胸に意気込んで劇場へ向かった私でしたが、これが予想に反して初回待ちのお客さんの列が異常に短い。
「初日、劇場に長蛇の列!バットマン、日本でも大人気」的なニュースを当て込んでカメラを構える報道陣の苦笑の前で、私は肩身の狭いを思いで列に加わっていました。
その後、初回上映を鑑賞後の私の印象は。
これ、実に「微妙」な感覚だったんですね。

私が受けたこの感覚をお分かり頂くには、少し当時の時代背景を補足する必要があるでしょう。
Photo_15「バットマン」が公開された1989年。これより以前のアメリカンヒーロー・ムービーは、「スーパーマン」(1978年米 リチャード・ドナー監督)に代表される超大作が当たり前でした。
さらに時を前後して製作されたスター・ウォーズ後期三部作、またインディジョーンズシリーズなどの大ヒットにより、世界的に一種のレトロヒーロー・スペースオペラ・また冒険活劇など誰もが楽しめるアドベンチャー作品のブームが起こっていたのです。
「ジェットコースター・ムービー」なんて言葉も流行りましたよね。それらの作品に見られる、予算を大量につぎ込んだ超豪華なキャストやハイテクノロジーを駆使した特撮、一点の曇りもない娯楽性重視の作品群に慣らされ、私たちはアメコミヒーロー物と言えばこういうポップコーン・ムービーばかりだと思い込んでいたのです。
「バットマン」の公開は、そのブームもやや沈静化したエアーポケット的な時期だったように記憶しています。
ヒーロー作品が影を潜めた時期、その独特のカタルシスに飢えていた私たちはそのニュースに飛びつきました。
「また、あの爽快感溢れるアメコミの世界に浸れる!」ファンはそう信じて疑わなかったでしょう。しかもジョーカー役はあのジャック・ニコルソン!かつての「スーパーマン」でのマーロン・ブランドに匹敵するほどのビッグ・ネームの登場に込められた製作陣の気合に、その期待はいやがおうにも高まっていきました。


しかしながら公開された「バットマン」の世界・そのストーリーは、予想を全く覆すものでした。

Photo_16昼なお暗く、暗雲垂れ込める犯罪都市、ゴッサム・シティーに暗躍する「怪人」バットマンと、工場廃液の影響で地元のギャング幹部が狂人(超人ではなく)した「地獄の道化師」ジョーカーとの戦い。
文章化するとそれなりに期待もできそうなのですが、実際の作品はカタルシスよりも登場キャラクターのフリークス性が強調され、従来のヒーロー作品とはかなり趣を異にしたものだったのです。

後に、それは監督を務めたティム・バートンの資質や、当時アメリカで再評価されつつあったバットマン本来の姿、「暗い犯罪ストーリー」という事が分かってきたのですが、そういう背景を全く知らずに鑑賞に臨んだ私などにとって、このあえて爽快感を排除したような作品世界はまさにサプライズ、たちの悪いブラックジョークでも見せられたかのような後味を残したのでした。

当時、鑑賞した仲間たちの反応も実に様々で。
「バットマンは面白くない。強くないもん。」
「ジョーカーの振る舞いはじめ、作品そのものが笑わせたいのか興奮させたいのか判然としない。クライマックスの「ロング拳銃」なんて、どう受け取っていいものか?」
「アメリカで何故ヒットしたのか、その理由が理解できない。」
なんて、散々な言われようでした(笑)。


要は、それまで日本人が体験した事のないアメコミ世界だったんですね。
主人公はみんなに愛される正義の遂行者で、圧倒的な超能力を持ち、運さえ味方に付けて絶対的な悪を粉砕する暗黙の不文律から「バットマン」は大きく外れたものだったのです。
当時、皆さんはこのティム版「バットマン」にどんな印象を持たれたでしょうか?


実は、へそ曲がりな私はこのティム版バットマンに心酔してしまったクチでした。正直「スーパーマン」「スター・ウォーズ」より好きなんです(笑)。

Photo_17本国アメリカ同様、それまで日本でバットマンと言えば、あのアダム・ウエスト主演のテレビシリーズが圧倒的な知名度と人気を誇っていましたね。映画化もされました。
私もあの番組は大好きで、今でもバットマン役・広川太一郎の「真面目な口調でおちゃらける」バット・トークをよく覚えています。

たしかに荒唐無稽ではありましたが、私があの番組から受けた印象はあくまでヒーロードラマ、古きよき時代のアメリカを感じさせる良質の英雄譚でした。あの明るいキッチュな世界の住人、バットマンを信じていたそんな私にとって、あのダークかつヒーロー性を削ぎ落としたティム・バットマンは、まるで冷や水を浴びせられたような衝撃だったのです。

そのショックの中でも特に大きかったのは、「バットマンが作品内でヒーロー扱いされていない」という事でした。このゴッサム・シティーの闇を駆ける「コウモリ男」は、犯罪者としてマスコミからマークされる程のサイコ・キャラクターとして描かれているんですね。

悪の汚名を着せられながらも犯罪者達から恐れられる恐怖の存在。
ゴッサムのマフィアたちが彼を恐れるのは彼が正義の元に犯罪を暴き、その罪を白日の下に晒すからではないのです。


「悪には容赦しない。」この狂気にも似た信念が、今も衰えないバットマンのハードで危険な魅力なのでしょう。
私はこれにやられてしまいました。ジョーカーやペンギン、キャットウーマンなど、その後に続くサイコ・キャラクターの影に隠れてしまうきらいもありますが、バットマン自身もまたジョーカーらと同じ、一歩間違えば危ない道に片足を突っ込むサイコ・キャラクターなのです。
私はその危うさに、たまらない魅力を感じます。


ところで思うんですが、アメリカではスーパーマンと並ぶ人気を博すバットマン、日本での人気は今ひとつですよね。何故なんでしょうか?
ちょっと考えてみましたが、これはやっぱりバットマンが「日本人が理想とするヒーロー像」とはかけ離れているからと思うんですよ。

どんな姿をしていてもヒーローの心は清廉潔白、悪とは正面切って堂々と対決する。後ろから不意打ちなんてもってのほか。自分は不利な立場に立っても敵より優位な立場には立たずフェアプレー。倒した相手にも慈悲の心。日本のヒーローは常にそういう「潔さ」をとも言うべき条件が求められています。
前回お話した「仮面ライダー」にも、その伝統は継承されていますね。
「バットマン」はどう違うのでしょうか?

Photo_18ティム・バットマン以降のバット・ムービーの中で私が最も好きな作品は、一昨年前公開された「バットマン・ビギンズ」(クリストファー・ノーラン監督)なんですが、その中に印象的な場面があります。麻薬密輸ルートを聞き出すため、裏組織と結託する悪徳警官を宙吊りにするバットマン。その鍵がある島にある事を聞きだしたバットマンに警官はこう叫びます。
「そこはサツも近づけねえ(ほど恐ろしい)場所だ!」

そこでバットマンはこう言い放つのです。
「俺がサツに見えるか!」
バットマンは警察の手先ではない。彼は自分の論理で、ゴッサムから悪を追放する事に命を賭けているのです。たとえ両親が殺害されたという私情、言わば復讐に基づいたものであっても。


「ビギンズ」では、そんなバットマン=ブルース・ウェインが自らのモチーフにコウモリを選んだ理由が描かれています。
「ゴッサムを仕切る資産家の自分が普通に訴えても犯罪は無くならない。
何かとんでもない事、悪さえ震え上がるほどのシンボルを作り出すことが必要。」
そんな「悪に恐怖を与える必要性」から、自らが幼少期に恐怖を感じ、後々までのトラウマとなった闇の使者、コウモリを採用したという理由ですが、それで分かる通りウェインがコウモリを選んだのはスパイダーマンのように特殊なクモに刺されたから、なんてキャラ繋がりの理由ではなく、彼の個人的な好みからなのです。


ただ「悪に恐怖を与える為」に自らをコウモリに仕立て上げるという発想そのものが、すでに私には理解できない。
そもそも「動物に扮装する」という理由そのものが。
そこで私はこの強引とも言える理由を、二つの意味で自分に納得させました。


一つは「そんな発想をするくらい、ウェインという男は病んでいる」という事。
要は「悪を粛正する」なんて言ってもどこかで「暴力への憧れ」「人を裁くという思い上がり」を捨てきれない、心のバランスを欠いた危ない人物なんだろうな、という事で。
「一歩間違えれば悪人」という人物が主人公。
これはこれで非常に魅力的なんですよね。
事実、バットマンは自分を英雄とは思っていないでしょう。「悪人が外道に立ち向かう。」まともに考えれば珍妙なあのバットスーツに主人公の歪んだ狂気が投影されているとすれば、それはそれで深いなーと感じたのです。


で、もう一つ。実はこれが今回の本題なんですが。
「アメリカ人というのは、そんな無理な理屈づけをしてまでバットマンを作品化したいのね。」言い換えれば「それほどバット・ムービーはアメリカ人にとっておいしいビジネスなのね」という事でした。
ただそれは製作背景を推測した納得の仕方であって、日本人の私などには何故そこまでアメリカ人がバットマンをヒーロー視し、人気を集めるのかが理解できない。


日本人にとってもっともメジャーなアメリカンヒーローはまず「スーパーマン」じゃないかと思います。今、「スパイダーマン3」がレンタル開始され、どこへ行っても貸し出し中の感がありますが、スーパーマンの人気はスパイダーマンの比ではない。まさに「超人」という意味を持つスーパーマンは、まさにアメコミヒーローのリーダー的存在なのでは。
日本人から見てもスーパーマンのヒーロー性は実に分かりやすい。日本人が求めるヒーローの条件を全て持ち合わせているからです。実際には前述のスパイダーマンにしたって、同じ意味で日本人には受け入れられやすいと言えるでしょう。
ところがバットマンは、と言うと・・・。

バットマンのスーツは強化服ではありません。言わば防弾チョッキ程度の代物。
宇宙人でもなく強化改造もされていない常人が、コウモリ型の防弾チョッキを着こんで夜ごと街中を暗躍している訳で。
私のように「トラウマにより精神的バランスを崩した男が、正義の名の下に街を徘徊する」とでも折り合いを付けなければ、このキャラクターは理解できないのです。
ですから私はとてもバットマンを「正義のヒーロー」とは思えません。
何と言うか・・・「正義オタク」とでも言えばいいのでしょうか(笑)。
このスタンスは日本のヒーローには無いと思います。もし和製ヒーローでバットマンに迫るアイデンティティーを持つキャラクターをご存知の方がいらっしゃったらぜひご一報下さい。
(「快傑ズバット」は・・・やっぱりちょっと違いますね(笑)。


来年にはまた新作映画が公開されるバットマン。ここで思うのは、「バットマンがこれだけアメリカ人に愛され、今だにビッグ・バジェットの作品が作られ続けている、つまり商売になる理由は、アメリカのファンがバットマンにヒーロー性を感じているとしか考えられない」という事なんですよ。
この感覚、皆さんはどう思われますか?


この日本とアメリカのヒーロー観の違いを考えていた私は、一つ似たケースを思い出しました。
「ネヴュラ」ではもはやおなじみ、日本を代表する怪獣王についてです。

Photo_21日本とアメリカの「ゴジラ」に対する認識って、バットマンとはまた違う意味で「差」があるんじゃないかと。
今更説明する必要もなく、核の被害者として日本を蹂躙する怪獣・ゴジラ。現用兵器では葬れず、人類は都市を破壊するその姿に己の罪深さを映し出す・・・。
初代ゴジラ誕生から53年。そのキャラクターは様々に変化し、共演怪獣も数多く登場して、今やゴジラ映画は世界に「カイジュウ」という名を定着させた感さえあります。
しかしながら日本の怪獣ファンは、時代と共にどんなにゴジラのキャラが変化しても、「核の申し子」というゴジラの本質だけは常に感じているような気がするのです。
「畏怖の念」「近寄りがたい何か」・・・。


Photo_22ところが、おそらくアメリカの「カイジュウファン」はこの感覚が理解できないんじゃないかと思うんですよ。
1970年代の「チャンピオンまつり版ぼくらのゴジラ」の露出がアメリカで最も多く、それがゴジラのイメージとして定着したからという理由だけでは語れない何かがあると思うのです。核の被害国じゃないから、という理由だけでもないと。
考えてみればそうですよね。「地球上に一頭しか存在しない」「毎回対戦怪獣が出現する」「常に勝ち続けるヒーロー性」などなど。
こういう存在に、動物としてのリアリティーを感じろという方に無理があります。エイリアンやプレデターの方がよっぽど実在しそうですね(笑)。


彼らにとって毎回、敵怪獣とプロレスまがいの格闘を演じ、勝利の雄叫びを上げるゴジラという存在は、もはやキングコングのようにしか見えないのかもしれません。
英語に「どうも」という意味の言葉が無いように、アメリカ人にとって「核の象徴」という感覚は無いのです。


何かの本で読んだ事があります。アメリカ人のゴジラ観を表現した言葉。
「ゴジラはいつも俺たちの味方。大きいけど気のいいヤツさ。」

日本人にとってバットマンのヒーロー性が希薄なのと同じように、アメリカ人にはゴジラは人類の罪の具現化ではなく、巨大ヒーローに映るのでしょう。

日本人はバットマンを、アメリカ人はゴジラを。
お互い、それぞれの本質を理解できない。


ただそれはまったく悪い事じゃないと思います。日本のファンもアメリカファンもお互い歴史に引きずられていない分だけ、自由な受け取り方が出来るんでしょうね。
個人的には、この意識の差はこれからのジャンル作品にとって大変な可能性を秘めているような気がします。


この差を埋めるという発想じゃなく、お互いの受け取り方の差を先鋭化させていくことで、キャラクターというものにさらなる新発想が生まれる素地があるような気も。
その意識の差を逆手に取るようなアクロバット的キャラクター像が、この部分には秘められているんじゃないかと思います。


国によって各々違う顔を見せるバットマンとゴジラは、実は図らずして国民性の違いを映し出す鏡のような存在かもしれませんね。そういう意味で、「黒き同胞」とも言えるこの二つのキャラクター、今後のジャンル世界を変える起爆剤となるのでしょうか。

日本人である私には、極めて和風な発想しか出来ませんが(涙)。

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2007年11月 2日 (金)

孤独なマスカレード

「今日のアクセルは気合が入るわー」とばかりに、いつものミニバイクをフルスロットルで吹かして出かけた繁華街。
毎月1日の映画ファン感謝デーに、これほど感謝した日もありません。

実にタイミングよく時間が取れた昨日、満を持して鑑賞して来ました。
「仮面ライダー THE NEXT」。

「ネヴュラ」をご覧の方々には今更説明の必要もないこの作品。一昨年前公開された「THE FIRST」の続篇として製作された、劇場版ライダーシリーズの第二弾です。

Photoえー正直に白状しますと。
私、この作品にはまったく期待していませんでした。以前にも記事にちらりと書きましたが、前作「THE FIRST」の出来があまりにも辛かったので、もう日本のヒーロードラマはこれが限界なんだろーなー、なんて暗澹たる気持ちを引きずっていたのです。
事実、今回の公開日さえすっかり忘れていました。記憶から抹消したかったのです。
ところが先日、公開初日にご覧になったお仲間・自由人大佐さんの感想を拝見し俄然モチベーションアップ、お仕事のスケジュールを調整して鑑賞に臨んだ訳なのでした。

「大当たり!」
つまらない前置きを抜きにして上映直後に感じた思いは、この一言に尽きました。この出来なら映画の日じゃなくても正規の入場料が惜しくない。
かなりビックリ。
今だ興奮冷めやらない気分のまま言いますが、こんな感動は「ガメラ 大怪獣空中決戦」以来といっても過言ではありません。


Photo_2まさかあの「THE FIRST」の続篇が、こんなに充実した作品になるなんて。
ライダー史に残る傑作である以上に、和製ヒーロードラマの歴史を塗り替える程の大傑作として後世に語り継がれる作品じゃないでしょうか。

ここ数日浴びるように映画を見たので、「テーマの語り方」「世界観の作り方」にはシビアになっているんですが、そんな目で見てもこの作品、ある種「理想的なライダーワールド」を現出して見せた超傑作なのです。
いやー、こんな傑作を劇場鑑賞するきっかけを与えて下さった自由人大佐様、本当に感謝します。もしこれを後々DVDで見ることしか出来なかったら、私は地団駄を踏んで悔しがったと思いますから。

この「THE NEXT」、私がなぜこれ程までに感動したかと言いますと。
それにはまず前作「THE FIRST」の問題点からお話しする必要があるのかもしれません。

私が「THE FIRST」に対してまず感じたのは、「この作品はいったい誰がターゲットなの?」という事でした。オープニングの旧ライダー主題歌、天本英世氏の生前のライブフィルムの使用、宮内洋氏の出演。
これはもう間違いなく旧作への目配せ、製作側の「シリーズ第一弾なんだから旧作ファンにも見てもらいたい」という戦略ですよね。

ところが、その戦略が旧作ファンにはどう映ったか?

私などはこういういやらしいまでの「媚」を見せられると、もう耐えられないほどの苦痛に見舞われるのです。皆さんもお感じになられませんか?
「旧作の主題歌や死神博士の顔なんて、部屋でいつでも見られるよ」と。

そうです。旧作にこだわらない、新しいライダーを見たいと願っている私のような者にはそういう「媚」はむしろマイナス、「こういう演出を懐かしいと感じる程度のぬるい観客が相手なら、そもそも私の求める作品じゃない」と思ってしまいます。そんな訳で、私は「THE FIRST」はオープニングから萎えっぱなしでした。
そして案の定、「何をどう見せたいのか」が曖昧なまま進むストーリー。

ここについては少し弁護が必要でしょう。理由は二つ。

一つは前述の、旧作からの目配せを観客がどこまで望んでいるのかという目算を見誤った事。そもそも「旧作をリアルにリメイクする」という製作意図を掲げたからには、正確にマーケットリサーチを行いターゲットを絞り込む必要がある訳です。
ここが少し甘かった。

ただそれは、シリーズ第一弾である以上仕方ない事なのかもしれません。何しろ映像作品に「試作品」はありません。駅前でサンプルを配って消費者にアンケートを取る訳にはいかないのです。言うなれば「THE NEXT」の成功は、この「THE FIRST」の試行錯誤によってもたらされたものとも言えます。

二つ目の理由として「石ノ森作品の作中に流れる空気感の再現の難しさ」が挙げられます。
元来、ライダー原作者、石ノ森章太郎氏が描き出す世界は漫画という二次元作品のみに与えられた独自のもので、あの世界をそのまま実写化した場合、その詩的とも言えるコマ割り、セリフ運びなどが非常に冗長なものになってしまう危険性を孕んでいます。

(ここで白状しますが、私はあの石ノ森作品に流れるやや緩慢な時間の流れが苦手です。永井豪の躍動感が漫画の真髄と感じるクチなので)
実際、石ノ森作品の原作に最も近いとされる「仮面ライダー」テレビシリーズ、第一クール本郷篇に於いてさえ、氏の空気感は再現されていません。
言わばあれは「平山・井上ライダー」であって、これまで「石ノ森ライダー」という物は正確には映像化されていなかったのです。
「THE FIRST」はそこに果敢に挑んだ。


井上敏樹脚本・長石多可男監督による「FIRST」世界は、前述の目配せを抜きにすれば愚直なまでに石ノ森作品の再現にこだわっています。
ところがここに悲しいパラドックスが。
「石ノ森テイストの映像化は、原作のストーリーをなぞると失敗する。」

井上氏・長石氏はそこに気づかなかった。
でもそれは当たり前の事なんですね。私達観客だって、作品が出来上がってみて初めて気がついたはずです。
「FIRST」作中に展開するラブストーリーがまさにその典型。ああいう(石ノ森作品にありそうな)くだりは石ノ森氏の絵、コマ割り、セリフ回し(「・・・」「-」の多用)、もっと言えば(あの繋がった)ふき出しの形があって初めて成立するものなのです。
あの空気感をそのままシナリオ化、実写化すればああなってしまう。
「FIRST」はそういう意味で偉大な実験作という事も出来るのです。


ここで製作スタッフ、特に脚本の井上氏は学んだ事でしょう。
前述のパラドックスにも気がついたはずです。でも私は「お二人、やってもーた」とは思っても、決して非難する気にはなれません。
映像作品に於ける空気感、リズムの創出は、それほどまでに難しいものである事を知っているからです。


Photo_4前おきが長くなりすぎましたね。この「FIRST」の問題点を考えると、「THE NEXT」成功の理由が見えてくるような気がします。
実は私、「FIRST」「NEXT」の関係はその肌合いにおいて、「エイリアン」(1979年米 リドリー・スコット監督)「エイリアン2」(1986年米 ジェームズ・キャメロン監督)の関係に似ているように感じているのです。
(ストーリーや世界観じゃないですよ。あくまで「肌合い」です。)

もうお分かりでしょうがこの「エイリアン」、作品のテイストが一作目と二作目で全く異なっているんですね。お互い独立した香りを放ちながらシリーズとして謳われている。登場するキャラクターは同じなのにそれぞれに違う味わいがある事は皆さんも認めると思います。
「ライダー」も同じ。シリーズなのに、しかもストーリーは続いているのに、その味わいはまったく異なるものなのです。それは何故か?

ここに「FIRST」の反省点を活かしたスタッフの素晴らしい努力が見られるのです。

ネタバレを避けるため、ここでは「NEXT」のストーリーを一切お話しません。
ただスタッフが考えたであろう「ライダー世界の確立化」について推測できればと思います。

Photo_5まず「FIRST」で行った「目配せ」の排除と旧作との設定の関連性の拒否。
いつも思うんですけど、よくこの手のリメイク作品の感想に「オリジナルはこうだったからこういう設定は残しておいて欲しかった」というのがありますよね。
でも、本当にそういう事って必要でしょうか?
例えばそれをもし本当にやってしまったら、今度は「リメイクなのに新しい事をやっていない」って怒るんじゃないですか?ファンの皆さんって。
結局どちらに転んでもファンって納得しないものなんですよ。それなら新しい事をやった方がいいと思いませんか?

Photo_6それはカットワークにも言えます。よく「ライダーって大爆発バックの中をサイクロンでジャンプする正面打ちのカットがカッコいいよね。」と言われますよね。ところが実際「FIRST」で実現されたそのカットを見ると、ストーリーのシリアスさに反して「浮いて見える」んですよ。このストーリーにしてはまともすぎる、綺麗すぎる。業界用語で言う「恥ずかしいカット」になっちゃうんですね。
「NEXT」ではその部分を実に巧妙にアレンジしている。これはアクション監督、横山誠氏の功績でもあるのでしょうが、なによりその見せ方を考案した田崎竜太監督の手腕が評価されるべきでしょう。さらにお二人に加え、その演出を具現化した田中一成撮影監督とのコラボレーションは、まさに演出部門での「三人ライダー」と呼べる素晴らしさです。

Photo_7シナリオ部分で特筆すべきは、「FIRST」の反省を活かした脚本・井上敏樹氏の手腕でした。
ホラー要素の強い「NEXT」ですが、実はこの要素、石ノ森氏の原作が持つ「怪奇アクション」としての味わいとは若干趣を異にするもので、どちらかと言うと最近の劇場用和製ホラー作品のそれに近い肌合いを持っているのです。
この水と油のような要素をどう料理するか。ここに井上氏独特のマジックが発揮されています。
実は「NEXT」のパンフ中、田崎監督のインタビューではこんな発言がありました。「ホラー要素は『FIRST』のラブストーリーに当たる部分。」スタッフは前作でやり残した「石ノ森テイスト」の再現を、今度はホラーに置き換えて実現しようとしたのでしょう。
しかしそこで頭をもたげるパラドックスに、井上氏はどう挑戦したか。
これは私、本当に感心しました。前作のラブストーリーに近いウェイトを占めるこのホラードラマ部分、たとえ冗長さが割り引かれるホラーとはいえ、それをストレスなく見せる為にはそれ相応のシナリオテクニックが必要なのです。井上氏はここで、実に効果的な仕掛けを用意しました。一般の方には一度見ただけでは分からないかもしれません。このストーリーのテンション持続に関するテクニックは同業者として瞠目すべきものがあります。


Photo_8加えて、世界観の構築も素晴らしい。
これは一つの例に過ぎませんが、「仮面ライダーの世界に宇宙人は出て欲しくない」と思いませんか?「新ライダー」でネオショッカー首領の正体が宇宙生物と分かった時、ちょっとガッカリしませんでしたか?
ウルトラシリーズなら何の違和感も無いのに。

作品にはその主人公のキャラクターに見合った世界観の幅というものが不可欠なのです。
「NEXT」はこの「ライダーが居る世界」の構築がほぼベストの状態で保たれている。

平成ガメラシリーズで導入された「ガメラが登場する世界は亀という動物が存在しない」という周到な配慮に匹敵する世界観の幅が、「NEXT」のリアリティーに貢献しているのです。

Photo_9そして「NEXT」最大の魅力、それは「ライダー達の魅力が石ノ森作品とは別の所にある」点にあるでしょう。
この世界観なら、本郷や一文字、風見志郎はああ生きるしかない。志郎の行動動機など、端々に井上脚本ならではの甘さはあるものの、それをストーリーと世界観の勢いで押し切ってしまうポテンシャルを「NEXT」は持っているのです。
たとえ敵を粉砕した所で、戦闘用に肉体を改造された人間達は世間から見れば異端者。彼らには孤独な道しか残されていません。
本篇のラスト近く、志郎が語るあの一言に爽快感など微塵も感じられず、現実社会の冷たさを覚えるのは、「改造人間の孤独」を描ききったスタッフの勝利と言えるのでは。

この味わいは「NEXT」独特のものです。
この寂寥感のみに関しては、私は原作を超えていると感じました。


私たちの世界の裏側で暗躍する「恐怖の軍団」ショッカー。
彼らの暗躍に人知れず戦いを挑む「漆黒の反逆者」に未来はあるのか?
エンドクレジット前にわずかな救いを残しつつも、社会の暗部で今日も続く孤独なマスカレードに思いを馳せさせる「仮面ライダー THE NEXT」。
個人的にはDVD化が最も待たれる一本です。


ただ(いつも通り)一つだけ悔やんだ点を。
ご覧になった方、ご意見いろいろおありと思いますが、私はエンドクレジット終了前に席を立っておけばよかった。
でも、あれを差し引いても満点を上げたい出来でした。
鑑賞後、ミニバイクを飛ばす私の運転ぶりはきっとお察し頂ける事でしょう(笑)。

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2007年11月 1日 (木)

煉獄を駆ける風

「もう映画だねえ。これは。」
レンタル店のパッケージを開けるのももどかしくネヴュラ座の電源を入れた私は、眼前に展開する世界にいつもながらのため息を漏らしました。

この年になって、またあの大吟醸を味わう事ができるとは。
この感覚は、趣味を共有される方ならよくお分かりと思います。
今またこの世界に浸る喜び。
先日リリースされたOVA「装甲騎兵ボトムズ ペールゼン・ファイルズ」。


実は私、今回のお話に関してはあまり自信がありません。お許し下さい。
思い入れが強すぎる作品ってかえって魅力がありすぎて、書いても書いても書き尽くせないジレンマに陥る事ってありませんか?
作品の表層をなぞったレビューやセリフの上げ足とりのようなツッコミならいくらでも出来ますが、それを遊びとして楽しむには私も年をとりすぎました。
本当に語りたい作品だけを舌の上でゆっくり味わいたい。「ボトムズ」はそんな作品なのです。語りつくせないから語りたくなる。そのジレンマが作品世界の深みとなって、えもいわれぬ甘美な味わいをもたらすのかもしれません。
今回も舌足らずながら、この奇跡の新作についてお話しようと思います。

Photo「装甲騎兵ボトムズ」については「ネヴュラ」でもこれまで何度かお話してきました。この6月に放送された「BSアニメ夜話」についての苦言などもご記憶の方がいらっしゃると思います。
「機動戦士ガンダム」と並びロボットアニメの最高峰と評されながらもその知名度は天と地ほどの差。そのマイナーさがまたファンにはたまらない(笑)「玄人好み」の作品です。

ボトムズを知っているか、好きかどうかで、相手のオタクキャリアが読めてしまう程の「リトマス作品」でもあるような気がします。
「往年のロボットアニメの香りを残す最後の砦」と表現した仲間も居ました。


実は私、前述の表現にはちょっと違う感覚を持っています。きっとその言葉の裏には、最近のロボットアニメの「派手な演出、美形、美少女出演」などの作風に対する揶揄があったと思うのですが、実は「ボトムズ」のテレビアニメ版が放送開始された1983年には、既に前述の「派手、美形、美少女」の三拍子の方がアニメ界の主流となっていたのです。
お調べ頂ければお分かりと思います。
私見では最近のロボットアニメはその傾向が極端となり、やや平衡感覚を欠いた「キャラの為の演出」が顕著になっているだけで、基本的にはこの1980年代前半の作風が引きずられているだけのような気がするのです。
ただ支流も太くなれば本流(笑)、それはそれで否定はしません。
ただ「他山の石」感覚は強くなる一方ですが(笑)。

Photo_2お話がちょっと脱線しました。
そんな背景を持つ1983年、「ボトムズ」という作品は、当時にあっても異端の作品、ある種「古い」作風を持っていたのではないでしょうか。
演出は地味、美形、美少女は出てこない、(主人公キリコ・キュービィーは美形と言われますが、性格的にはかなり問題がありますし)
脇を固めるキャラは癖のある連中ばかり。
一言で言えば「ヒーロー然としたキャラが一人も出ない」作品なのです。

「ボトムズ」が玄人好みと言われるのはここに理由があります。要は「ハリウッド作品と言うよりヨーロッパ、それもイギリスやドイツ系のノワール作品」の香りが濃厚なのです。作品中に残る「ATと曇り空」という印象も、そのイメージを後押ししているのでしょう。

Photo_3私はアニメ・特撮作品に一通りの守備範囲を持っていますが、どちらかと言えばアニメ作品への思い入れはさほど強くありません。「ネヴュラ」記事の偏り具合をご覧頂けばお分かりと思います。そんな中この「ボトムズ」だけに突出した魅力を感じる理由は、おそらくそのノワール性ゆえと思います。
ただここで私は不思議な感触を持ちます。
物語には百年戦争という史実が大きなウエイトを占めているのですが、だからといって「ボトムズ」=「戦争映画」という感覚にならない事です。
実際、私は実写作品でも戦争映画が苦手で、その極限状態の描写にはやや目をそむけたくなるきらいがあるのですが、アニメというジャンルの違いを取り除いても「ボトムズ」に戦争映画としての主張を感じない。
「ボトムズ」という作品上、戦争の史実は物語の重要なファクターであり、主人公キリコの運命とも大きく関わる出来事、絶対に外せない設定なのですが、作品のテーマはやや違う所にあるのです。
新作となる「ペールゼン・ファイルズ」に感じたものは、まさにそれでした。

ここから先は「ボトムズ」の大まかなストーリーをご存知の方にしかお分かりになれないかもしれません。ややネタバレになってしまうきらいもありますが、構えてお話しましょう。
乱暴な言い方をしてしまえば「ボトムズ」のテーマは、「神にも等しい存在の異能者・キリコに翻弄される側の人々の物語」じゃないかと思えるのです。


「何でボトムズという作品は、同じ主人公でここまでストーリーを続けられるんだろう」と疑問を持った事があります。よく比較される「機動戦士ガンダム」は、今やガンダムの名を持つモビルスーツ、また似通った世界観を基にしたパラレルワールドのような展開を見せていますよね。別に初作の主人公、アムロ・レイが新作「00」でも主役を張る訳ではないし。
言わばあのシリーズは、一部を除いて異なった世界を描く別作品の集合体なのです。
(そう考えなければとても「Gガンダム」がシリーズとは・・・。個人的にはあれが一番好きだったりしますが(笑)。

Photo_7 ところがボトムズは「メロウリンク」という外伝を持ちながらも、今だにストーリーの本流はキリコ・キュービィーにある。6月の「BSアニメ夜話」でもその点は語られていました。
「ガンダムの主人公はガンダムというモビルスーツだけど、ボトムズは徹底的に主演、キリコ・キュービィーのドラマ。」
ただそう言われてもその理屈はテレビシリーズぐらいのスパンなら考えられる事で。普通テレビアニメのキャラクターはそこまでの幅を持ちません。最終回を迎えれば主人公の主張は言い尽くされ、物語は大団円を迎えるものなのです。
今回の「ペールゼン・ファイルズ」はテレビシリーズの前日談ですが、ここまで過去を掘り下げられてなお魅力を放つキャラ、言い換えればそれだけファンに「過去を知りたい」と思わせるキャラは、そうそう居ないんじゃないかと思います。
なぜそうなるのか。


Photo_4実は「ボトムズ」という作品、主人公キリコはモノローグや数少ないセリフ(笑)で自己の胸の内を語っているように見えて、受け取り方によってはまだ「もう一つ深いところを考えていそうな」キャラなんですね。
スタッフがそう作ってしまったと言うか。
しかも彼自身、自分の過去や存在理由を捜し求めている。

ですから何をやっても謎が残る。キリコに関わる人間は彼を理解・支配しようとすればする程、彼の中に渦巻く巨大な謎を解き明かさねばならない心理に追い込まれる訳です。
ファンの方はお分かりでしょう。キリコとうまく付き合って行けた劇中キャラは、いずれも彼の『謎』に手を出さなかったとは思いませんか?


Photo_5彼の内に潜む『謎』。その謎の虜となってしまった者たちは、自らその謎に翻弄され滅んでいく。キリコ本人が手を下さなくても、彼は支配者にそんな運命を選ばせてしまう存在なのです。
今回の「ペールゼン・ファイルズ」にしても、既にその彼の「魔力」は充分に描かれています。
好むと好まざるに関わらず、彼を利用しようとする者には滅びの道が用意されているのです。
ですから実はストーリーの中でキリコはさほど動く必要がない。周りが勝手にキリコに関わり、その愚かさに気づく事が「ボトムズ」というドラマの推進力なのではと思います。このドラマの構造なら主人公はずっと同じキャラを通し、新作ごとに脇役が一新すれば良い訳ですね。
「ペールゼン・ファイルズ」に至るボトムズ全篇を通じて唯一の主人公がキリコだけと言うのも頷けます。

(ロッチナは・・・彼はあくまで傍観者ですね。ただ彼も「私が異能者であったなら!」という名ゼリフとともに滅んで以来、キリコにとり憑かれてしまいましたが)

このキャラクター配置を持つ限り、「ボトムズ」の魅力は尽きる事が無いでしょう。
極端な話、キリコが主人公なら、あの魅力的なファクター「AT」の設定が一新されてもファンはついて行くような気さえします。(ちょっと問題発言かな(笑)。

Photo_6ただこれは大変素晴らしい構造である反面、主人公には一生の十字架を課す事になります。
キリコは生物学的、また運命的に死から守られている「異能者」という特別な存在。
彼がモノローグで、向かう場所を「地獄」と語る場面は数多くあります。本当の所、彼の安息の場所はこの世のどこにも無いのでしょう。

「死ねない」という事が自分の運命と悟った時、人はどんな気持ちを持つのでしょうか。
生に閉じ込められた感覚。それは「死を意識する故に生が輝く」という人間の深層を裏返すような悲劇なのかもしれません。


キリコは自分の居場所を「地獄」と語ります。しかし私はボトムズのストーリーを通じて、それを少し違う言葉に置き換えました。
「地獄」とは宗教上、罪を償う場所と定義されるそうですが(無宗教の私はウィキで調べました)キリコは別に罪を背負っているわけではない。
「吸血部隊」レッド・ショルダーの過去は断罪されるべきなのか。それはキリコ本人の罪と言えるのでしょうか?
またこの世から逃れられないという意味で、「天国」へ行ける訳でもない。

「煉獄」。こんな言葉が浮かびました。天国にも地獄にもそぐわない魂が向かうその世界は、永遠に生き続けなければならないキリコの運命を象徴しているかのようです。
ただ、煉獄には「魂は後の世で赦される」という意味の記述もありました。
キリコにとって「後の世」とは、あのテレビ版最終回「流星」のラストだったのでしょう。しかしそれも後日談では・・・


閉ざされた世界、この世にしつらえられた煉獄で、それでも自分の居場所を探そうともがくキリコの姿に、私もとり憑かれてしまったようです。
彼の切れ長の目が放つ一陣の涼風が、危険な「謎」へ私を招きます。
「ペールゼン・ファイルズ」が進むにつれ体に回る猛毒を、一杯の美酒のように舌で転がす愉悦。
滅びを誘う、極上の辛口と知りながら(笑)。

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