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2007年7月の記事

2007年7月31日 (火)

夏のお嬢さん

Photo_1099あ、おねえちゃん。
ちょっと見てみて。
なによー。今日はあんたから。




Photo_1100
どう?鼻のあたま。
だいぶきれいになったでしょー。

ほんとだねー。ちゃんと気にしてるのね。
そりゃそーよ。明日から8月。夏のスキンケアは女の常識よ。
プロポーションだって気をつかってるんだから。
Photo_1101 この子だれ?エビちゃんっていうの?
わたしに比べたらまだまだねー。

・・・すごい自信ね(笑)。
Photo_1102 と言いながら、その突然の菜食は?

・・・ダイエット(汗)。

そんな彼女の頭の中は・・・
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やっぱりね(笑)。
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<ネヴュラより皆様へ>
本日7月31日(火)21:00より翌8月1日(水)15:00まで、ココログではシステムメンテナンスを行います。メンテナンス中、記事の閲覧は出来ますが、トラックバック・コメントの受付が出来ません。何卒ご理解の上、投稿いただく際はお手数ですが上記時間外にお願い致します。

今日もチャンピオン気分

「ネヴュラ」をご覧の皆さんにひとつお尋ねします。
貴方は「まんが派」ですか?
それとも「チャンピオン派」ですか?


この質問の意味がお分かりの方は、きっと1969年から1978年にかけ、もっとも多感な子供時代を過ごされた方でしょう。
もう夏も本番。全国的にはまだ梅雨明けしていませんが、毎日の酷暑はもう真夏以外の何物でもないですね。夏休みが始まった子供達が毎日元気に羽根を伸ばしている今、私たち「大きなおともだち」も、遠い昔、子供の頃の夏の思い出を紐解いてみたくなるものです。

戦後のベビーブームによって子供達が全国に溢れかえった60年代から70年代。あらゆる業界が子供をターゲットに商戦を展開していました。邦画界も例外ではなく、子供達を顧客の大きな鉱脈と設定、学校が長期休暇となる春休み、夏休み、冬休みなどを狙って子供用に特別興行を企画、大きな収益を上げていたのです。現在でもこの時期、劇場ではいわゆる「ファミリー向け」と称する子供用作品が公開されていますが当時の勢いは現在の比ではなく、もう「親にとっては迷惑この上ない(笑)」番組編成で子供達の興味を煽っていたのです。少子化が問題となっている現在、あの時代の空気は再現する術もないのでしょうね。少し寂しい気もします。

丁度この時代、まさにターゲットの中心に居たであろう(笑)私も当時の邦画界の思惑に乗せられ、お休み直前、終業式近くにテレビで頻繁に流される予告篇、「近日公開」の文字に心を躍らせたものです。

さて。ところで冒頭の質問ですが、この質問の「まんが派」「チャンピオン派」とは、当時子供邦画界(そう呼びたくなる気持ちもお察し頂けるでしょうが)を二分した東映、東宝の長期休暇用特別興行「東映まんがまつり」「東宝チャンピオンまつり」の事。
まーご説明するまでもありませんね。

私など、夏休みに限らず「○休み」とくればもうこれを観に行きたくて行きたくて。まさにお休み時期の一大イベント。友人たちと先を争って「もう行った」「まだ行ってない」とその「戦歴」を自慢しあう事がお休み時期の風物詩ともなっていました。

ご存知の方には不要でしょうが一応ご説明しておきましょう。この二つの「まつり」、大まかに言えば、劇場公開用に製作された新作映画と当時テレビで人気を博していた子供番組を数本カップリングした作品編成だったのですが、その社風の違いから東映と東宝では作品の色合いに大きな違いがありました。

やはり「わんぱく王子の大蛇退治」(1963年)「太陽の王子 ホルスの大冒険」(1968年)など、昔からアニメーションのノウハウを蓄積しテレビアニメ界でも大きなシェアを占めていた東映は、劇場用新作も自社製作のヒーロードラマやアニメーションを中心に、当時のアイドルを使った30分程度の中篇を織り交ぜていました。(「ウルトラセブン」「スベクトルマン」などがラインナップされた時期もありますが、これらをやや例外的な扱いに感じてしまうのは私だけでしょうか?)
「仮面ライダー」で一世を風靡した東映ではありますが、こと劇場用新作に関してアニメーション作品の印象が強いのは、やはりその精緻なアニメ技術によるものでしょう。

Photo_1092その「東映まんがまつり」に対し、「東宝チャンピオンまつり」は同じくテレビの子供番組やアイドル作品が中心のラインナップでありながら、どちらかと言えば実写作品に重きを置いた編成が特徴でした。やはりゴジラの昔から特撮作品に定評のある東宝。皆さんご存知の通り円谷プロとの太いパイプも功を奏して、「帰ってきたウルトラマン」「ミラーマン」「ウルトラマンタロウ」「レインボーマン」など、東宝・円谷プロ製作の番組を編成上の大きな売りとしていたのです。
そして「チャンピオンまつり」最大の魅力は、東宝のドル箱作品「ゴジラ」シリーズをメインに置いた点。

Photo_1093それまでに製作された{キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」など、ゴジラ中心の特撮映画を再編集・改題してリバイバル公開。またチャンピオンまつり用に製作された新作怪獣映画を目玉とし、「今回の怪獣はコレ!他にも人気作が沢山あるよ!」という売り方に徹した広告戦略が大きな特徴でした。
「まつり」のタイトルを冠したのは東映の方が一年以上前ですから、東宝は東映との差別化を図る意味でも怪獣映画をメインに据える必要があったのでしょう。

ともあれ、この点で両社のカラーは大きく分かれ、当時の子供達に「アニメの東映」「怪獣の東宝」という印象を植え付けたことは間違いありません。(少なくとも私はそうでした(笑)。

いつもながら前置きが長くなりましたね。
という訳で冒頭の質問へ。

Photo_1094私の答えは(おわかりでしょうが)
「筋金入りの「チャンピオン派」でした(笑)。

生まれて初めて劇場鑑賞した映画が大映「ガメラ対大魔獣ジャイガー」だった私には、その時から頭の中に「映画=怪獣が暴れるもの」という頑強な公式(笑)が出来上がってしまったため、他の作品を劇場鑑賞しても映画として認識出来ないという一種の「すりこみ」が確立してしまったのでした(笑)。
またそれに輪をかけて、私の両親はなぜか「子供には怪獣を見せておけば」的な考えがあったようで、連れて行ってもらった映画はことごとく怪獣映画ばかり(笑)。
当然の事ながら「東映まんがまつり」と「東宝チャンピオンまつり」は夏休みなどを狙った同時期公開だったのですが、私の家族はまるで「まんがまつり」を避けるようにチャンピオンまつりばかり絨毯爆撃するありさまで。そんな両親の元、私はオタクとして純粋培養されたのでした。
これは今は亡き両親のシナリオにあったのでしょうか(笑)。


そんな中何の間違いか、実は二度ほど「まんがまつり」を観た事があります。
「アリハバと40匹の盗賊」(1971年)「マジンガーZ対暗黒大将軍」(1974年)をメイン作品とした興行でした。

ところがですね。物足りないんですよアニメでは(笑)。
「やっぱり映画は実写だな」なんて生意気にも思ってしまったのでした。今考えればそれは単なる誤解に過ぎないものだったのですが。劇場用アニメにも優れた作品は数多くありますし。
当時から私はおバカだったという訳ですね(笑)。


Photo_1098 ただ幼年期に浴びるように怪獣映画を劇場鑑賞してしまった私にとって、それ以上の迫力を味わうには困難を極めました。なにしろ身長50メートルの巨体が街中で戦うんですから。
そういうのを「映画」と思い込んでしまったら、中途半端なアクション映画なんてハムスターが遊んでるようなものに見えてしまって。(コタちゃんごめんね(笑)。

私の「迫力のハードル」をそこまで上げてしまったもの。それが年3回、心憎いまでに子供の心を掴んだ「東宝チャンピオンまつり」だったのでした。
「チャンピオンまつり」は、子供の集客が落ちた78年に残念ながら終焉を迎えましたが、「まんがまつり」は「アニメフェア」とタイトルを変えて最近まで存続していました。

Photo_1096今は沈黙を守っていますが、つい数年前まで新作が製作されていたゴジラ映画。その新作であっても、ここ数年は年一本のお正月公開が恒例でしたね。
ゴジラファンはこの公開を楽しみに一年を過ごしていたわけですが、この「チャンピオンまつり」の時期に比べれば、お楽しみは随分と割り引かれていたような気がします。
なにしろ「チャンピオンまつり」の公開はほぼシーズン毎。
たとえリバイバルとはいえ、春・夏・冬に怪獣が劇場鑑賞できるという環境は、今考えれば異常事態ですよね。しかも私は各作品のオリジナル公開に間に合わなかった世代なので、もう全部が「初鑑賞」!

ただその為、オリジナルとチャンピオンまつり用に改題されたタイトルの違いに戸惑った時期もありましたが。
(「怪獣総進撃」と「ゴジラ電撃大作戦」が別作品と思っていたり(笑)。


今改めて「チャンピオンまつり」を振り返ってみると、それはまさに夢のような体験だったような気がします。「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」DVDのオーディオコメンタリーでコメンテーターの樋口氏(平成ガメラ特技監督)も語っていますが、チャンピオンまつりは公開時の同時上映が常時6本くらいあったんですよ。全部観るとなんと4時間近く。劇場の往復時間、帰りの食事時間も入れれば完全に一日のレジャーです。
もうその日一日は怪獣漬け(笑)。映画・食事のついでにデパートでプラモデルでも買ってもらった日には、一生の幸せをすべて使ってしまったような幸福感に包まれたまま、夜は怪獣の夢になだれ込む事が出来たのでした。(当時ですからね。当時。今は女子ですからもっとオトメチックですが。ウソつけって?(笑)。

きっと今の子供達は、これだけのイベントに相当するものが無いんじゃないかと思います。確かに今もアニメ映画があり、大迫力の洋画スペクタクル作品も公開されているんですが、「4ヶ月に一回ゴジラに会える」というあの空気とは違う。
この公開スパンは今は再現できないでしょう。

DVDで毎日鑑賞という手もありますが怪獣の迫力は小さなテレビ画面では味わえません。劇場ロビーに貼られたロビーカードを食い入るように見つめ、先を争ってバンフレットを求めたあの空気。怪獣に圧倒された子供達が作り上げる特別な空気が、チャンピオンまつりの劇場には漂っていたような気がするのです。
作品だけではない「空気」。自宅で作品を再見した時、その空気を吸い込んだ者だけが当時の興奮を脳内再生できるのかもしれません。同じ作品をDVD鑑賞していても、おそらくDVD初鑑賞者と私たちチャンピオンまつり体験者は、網膜に別の作品が焼き付けられているのです。

Photo_1097そんな憧憬を感じてしまうのがこの「夏休み」の時期。根拠の無いワクワク感を覚えるのも無理はありませんね。私はこの高揚した気分を「チャンピオン気分」と呼んでいます。
そんな気分が高じた私は十数年前、オタクな友人たちを集めて「チャンピオンまつり」の興奮を再現したイベントを開いた事がありました。
作品を流すだけではなく色々な趣向を凝らした身内イベント。
7~8人程度のささやかな集まりでしたがその空気はあの「チャンピオンまつり」そのまま。楽しい一夜でした。

その頃の事は以前「ネヴュラ」でもお話しています。
興味を持たれた方はこちらをご覧下さい。


自宅で「TVチャンピオン」
http://spectre-nebura.cocolog-nifty.com/cultnight/2006/07/post_6045.html

でも考えてみると、その時感じた空気は今の「ネヴュラ」にも通じるものがありますね。最近は私の問いかけにお答え頂けるお仲間も増え、さながら「ネヴュラ」は映画ファン、怪獣ファンの集いと化している感さえあります。大変有難い事です。
熱い思いがこもった皆さんとのやりとりはピュアだった子供の頃の会話そのまま。今日も私は皆さんのおかげで「チャンピオン気分」を楽しんでいます(笑)。

最後にちょっとお知らせを。
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2007年7月29日 (日)

媚びないパラボラ

ここ二日ばかり写真をご覧頂いた「66式メーサー殺獣光線車」。ようやくまともにご紹介する事ができます。
「オタクイーン、この名作メカをおちょくりすぎだぞ!」とお怒りの貴方、申し訳ありませんでした(笑)。


Photo_1082このメーサー、今月24日に発売されたばかりの新作アイテム。
私は2ヶ月ほど前、楽天ショップで予約していましたから店頭での買い逃しは心配なかったんですが、なにしろ一度発売が延期になったものですからちょっと待たされ感が大きくて。

でもその分、届いた時の嬉しさもひとしおでしたが(笑)。
バンダイの「超合金魂」に始まり、ここ数年続いている名作メカのリアルディテール商品ラッシュは、ここへ来てついにこのアイテムの発売実現に至りました。

この商品はアオシマ文化教材社のブランド「新世紀合金」の新作。
このブランドは他にも「謎の円盤UFO」などのITC関連、また「宇宙海賊キャプテンハーロック」などのアニメーション関連メカなどがラインナップされ、「大きなおともだち」から熱い注目を集めています。

Photo_1083そのスペックも大したものです。
1/48という大スケールは牽引車・装置車合わせて全長356mmの迫力で見る者を圧倒。大人のファンも納得のハイディテールはどの角度からの鑑賞にも耐えます。
あまつさえLEDライト内蔵により、単三電池二本であの「リレー部・バラボラ部発光」が実現されているのです。

写真では分かりませんが、実際にはリレー部・通称「かま首部分」が下から上に流れるように発光していくんですよ。まさに劇中のギミックをそのまま再現した逸品。
「出来ないのは、光線を発射する事だけです。」というアオシマの気概が伝わって来ます(笑)。

ご存知の方も多いでしょうが、実はこの「メーサー車」は今回、2種類発売されています。
「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ」に登場した66式。そして「地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン」に登場した70式。後述の70式は「サンダ対ガイラ」でデビューした66式のミニチュアを流用した言わば「ディテールダウン版」の為、66式に比べて各部が省略されています。ですから私もこの2タイプの発売予告を目にした時は迷わず66式のみを(例によって2個)発注(笑)。まー、こればっかりはしょうがないですね。

それにしてもこのメーサー車、今回の発売は非常に感慨深いものがあります。このアイテムは東宝メカの中でもかなり人気の高い物でありながら、これまであまり3D化に恵まれなかった事でも有名で。
遡ればゼネラルプロダクツのペーパーモデルに始まり、ボークスのキャストキット(3万円もしました!)、海洋堂の1/35ソフビキット、ウェーブの1/78プラキット、そして最近発売のバンダイ「東宝マシンクロニクル」ぐらいのものです。
「結構出てるじゃん」と思われるでしょうが、これらで完成品はバンダイ製のみで、他のアイテムは全て組み立て式。いずれも高度な工作技術を必要とするものばかりで、私はそれらの完成品など見た事がありません。

それでも「いつかは私も腕を上げて」と、全てのアイテムを手に入れてしまうところがメーサー信者の辛い所。私もご他聞に漏れず買い揃えました。
しかしそのパーツ数、完成までのあまりに遠い道のりに恐れをなし、諦めのため息とともに手放してしまいましたが(涙)。

「私の上を何台のメーサーが通り過ぎて行ったことか。」そんなメーサー遍歴を経た末の発売ですから私の喜びもお察しいただけると思います。2日も引っ張る気持ちもお分かりになるかと(笑)。

Photo_1085それにしても、実際のプロップを精密に再現したこのメーサーを見ていると、つくづくその格好良さに惚れ惚れしますね。全長36センチ近い大きさにも圧倒されます。
ラチェットによる砲塔の回転。かま首と連動して常に並行を保つパラボラ部。ディスプレイモデルとして歴代のメーサーでこれを超えるものは無いでしょう。この手のアイテムによくあるランナー付き別パーツの追加工作やステッカーの後貼りもないし。箱から出せば完成品。いやー21世紀の今、こんな一台に出会えるとは。(新世紀合金なんだから当たり前ですが(笑)。
「バンダイがプラキットを出すらしい」などと、これまで色々なデマに流され一喜一憂していた日々が夢のようです。

さて。このメーサーで遊び倒している内に(どんな女子なんでしょうか(笑)毎度のおバカな疑念が浮かんで来まして。
「何故私は、これほどまでにメーサーに惹かれるんだろう?」

メーサーに限らず、これまでも東宝特撮映画には数々のオリジナル兵器が登場し、ファンの間では「東宝自衛隊」なんて名称も定着しています。それら数々の名画を彩ったスーパーメカの中には、まれに突出した人気を博するものがありますよね。
メーサーもその一つです。


確かに人気の理由の一つがそのフォルムの素晴らしさにある事は間違いありません。
東宝超兵器を数多く手掛けた美術スタッフ、井上泰幸によるこのデザインは、特殊生物を攻撃する為に開発されたという設定にリアリティーを与え、もはや怪獣と並ぶほどのキャラクターとして成立しています。この「超兵器のキャラクター性」という部分は「ネヴュラ」でも以前お話しましたね。

確かに以前のお話に書いた思いも強いんですが、実際この大きさのメーサーを目の前にすると、また新たな私見が湧いてきてしまうんですよね。
「うーん。対戦怪獣やドラマの要求に「媚びてないところ」かなー」なんて。


要は「怪獣と並ぶほどキャラが立っているという事は、対戦怪獣とはまったく別の魅力を持っている」という事なんじゃないかと。
これには二つの意味があります。
「対戦怪獣と同じようなフォルム・能力ではない。」
「非常にリメイクされにくい、強烈なオリジナリティー。」


このメーサー車で言えば、「サンダ対ガイラ」で運用される際「L作戦」という作戦行動の要となり、木曽川付近に誘い込んだガイラを高圧電流で牽制、とどめを刺す勇姿が印象的でした。
目標となるガイラはフランケンシュタインの細胞が増殖した姿らしいという以外特に目立った武器や攻撃本能はありません。
しいて言えば食人ぐらいでしょうか。
ですからこのメーサー車は、ガイラ出現とともに開発された訳ではないですよね。


確かに怪獣映画には、怪獣の特徴や弱点を踏まえた上で開発された兵器・作戦も多数登場します。名場面を繰り広げる事も多いですが、不思議とそれらは「急ごしらえ」の印象を免れず、兵器としては不完全ゆえ「キャラとして立っていない」というものがほとんどと思います。ですからメーサーのような「対戦相手を特定せず、純粋に兵器として開発された」ものの方が印象に残りやすいのではないかと。
人類が自力で開発した兵器が未知の特殊生物に立ち向かう。ドラマの都合じゃないリアルな設定がキャラを立たせているような気がするのです。

Photo_1089ただ、メーサーのキャラの立ち方は他の兵器に対して突出しています。その理由も分かるような気がするんですよ。
もし「サンダ対ガイラ」劇中でメーサーがガイラに負けていたらこれほどの人気は出なかったのではないかと。つまり劇中でメーサーはガイラを圧倒しちゃうんですね。
この負け知らずの強さがメーサー人気を決定付けたと思うんです。

しかもあのハードでリアルな世界観のドラマですから怪獣対人類の構図に説得力がある。
後年「ゴジラ対ガイガン」でメーサーは再度出演しますが、まるで印象に残らない「ヤラレメカ」ぶりでした。結局、ゴジラやアンギラスが吹き出しでしゃべるような世界観では、メーサーにリアリティーなど求めようがない訳です。
今見れば「ゴジラ対ガイガン」もそれなりに面白いですが、あの作品ではメーサーは居心地悪そうでしたよね(笑)。

Photo_1086メーサーは後年「ゴジラ×メカゴジラ」(2002年 手塚昌明監督)で「90式」としてリメイクされました。66式と並べれば、デザインを変えながらもメーサーとして成立させる作業がいかに難しいかがお分かりと思います。
確かにメーサーの名は1984年の「ゴジラ」(橋本幸治監督)から復活しましたが、「パラボラが付いていればメーサー」と言わんばかりの扱いでしたよね。

あれでは戦車と同じ。ある評論にありましたが「攻撃が怪獣に対して効いているかどうか分からないのでは、兵器として印象に残らない」という一文はまさに言いえて妙と思います。
皆さん、それらの「やられメーサータンク」にキャラクター性をお感じになりましたか?
私にはあれは「旧作に媚びている」としか映りませんでした。
「メーサーはキャラクターなんだから、ガンダムの戦闘シーンで一瞬宇宙空間を飛ぶ鉄人28号みたいな扱いはちょっと」という印象
です。
メーサーでも倒せないほどゴジラは強い?だったら観客にそれを納得させるだけの演出が必要ですよね。その点「ゴジラ×メカゴジラ」ではそういう部分がきっちりと書き込まれていました。負けるにしても理由が必要なんですよ。

さて。「ゴジラ×メカゴジラ」で思い出すのが、90式メーサーを前座として登場したメカゴジラこと機龍。
私は個人的には機龍の存在理由がどうしても納得できない。

以前にもお話しましたが、この作品で語られた「機龍がゴジラ型をしている理由」は、「このフォルムはロボット工学的に極めて優れており、戦闘の為のフォルムとしては一つの完成形」というものなんですよ(笑)。
こういう理屈を耳にする度に「何故そこまでメカゴジラというキャラに媚びなきゃならないのか」「そこまで媚びるなら平成ガメラ並みの理論武装は出来ないのか」と思ってしまいます。
うまい理由付けが一つあるだけでいいんですよ。でも私がどんなに頭をひねっても、対ゴジラ兵器をゴジラ型にする理由が思い浮かばない。


確かに「メカゴジラかっこいー」と喜ぶ子供は前述の理屈に納得するでしょう。だったらゴジラ映画は永久にそのレベル。
私が納得する新作は望むべくもありません。いくら「メカゴジラには理屈じゃないカッコよさが」と思おうとしても、その「媚びている」という理屈が私の前に大きく立ちふさがるのでした(笑)。

結局、メカゴジラという着地点が先にあるからドラマに無理が来ちゃうんですよね。
それがある限り、釈由美子がいかに機龍の中で叫ぼうと命を賭けて戦おうと「ゴジラ×メカゴジラ」は私には楽しめません。
ただ、映画には作品のターゲットや興行目的など色々な思惑が絡みますから、これはあくまでも私見です(笑)。

でも前作「GMK」はあそこまで納得できたのになー、なんて思いも強かったりして(笑)。

またまたお話がそれましたね。ただ結局「機龍」にしても「メカゴジラ」という縛りを無くし純粋兵器という経緯を与えられれば、66式メーサーと同じ位置につけたと思うんですよね。
その縛りを取り去ってしまったらどんな兵器になったのか。
もっと自由な発想、ひょっとしてメーサーを超えるデザインが出来たかもしれませんね。

Photo_1087私には、ドラマの冒頭で見事な負けぶりを見せた90式メーサーの方が兵器として魅力的に映りました。
66式の存在を史実とし、その発展形として90式にリアリティーを与えている訳ですね。これは明らかに「媚び」の姿勢ですが、その理由付けもギリギリ納得できます。

どうせ旧作に媚びなきゃならないならこういうエクスキューズが必要なんですよ。だから90式と同じ作品に登場した機龍が余計浮いて見えてしまう。
たぶん私だけの、いつものおバカな思いでしょうが(笑)。


Photo_1088さて。実は私のウォーキングルート、いつもの公園にもパラボラ兵器があるんですよ。
これも「ネヴュラ」開設当時お話した事があるんですが、今回は久しぶりに再撮影してきました。

以前は「地球防衛軍」のマーカライト・ファープに見立てたんですが、どうでしょうか?メーサーにも似てるでしょ。
ただこのバラボラ、別にメーサーは意識してないと思いますよ。媚びてないから美しい(笑)。

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2007年7月27日 (金)

メーサー親子 お出かけ篇

Photo_1079 みんなー、はぐれちゃだめよ。
ちゃんとお母さんの見える所に居るのよ。
おかーちゃーん。おなかすいたー。
・・・やれやれ。だから夏休みは困るのよ。
子連れで出かけると心配事が多くて。

Photo_1080
あんたたち、ちゃんとしてないと、緑色のこわーいおじさんに怒られちゃうよ。
おかーちゃん、お昼は8番らーめんがいい。
はいはい。いい子にしてたらね。
Photo_1081
おばちゃーん、わたしは王将がいい。

(親戚の子は好みが微妙に違うの図(笑)

今日もハードワークの為、ご覧のとおり頭がシオシオのパーです。新入荷メーサーの詳細はさらに次回へ(涙)。

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2007年7月26日 (木)

迎撃準備完了

Photo_1078 特殊生物攻撃用兵器・本日「ネヴュラ」到着。
直ちに実戦配備へ。
これで高品格も怖くない!(笑)

(今日はハードワークだった為、これが限界です。
やっと発売されましたね。詳細は次回までお待ち下さい。)

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2007年7月25日 (水)

ちゃぶ台冒険王

Photo_1069ちょっとコタちゃん、こっちおいで。
なに?ごはん?




Photo_1070あんた最近、鼻のあたまが薄いけど。
ケージの網をかじった時こすっちゃうんでしょ。散歩したいの?

うん。だっておもしろいもん外は。そういうお年頃なのよ。
しょうがないなー。ちょっとだけだよ。

Photo_1071
というわけで。
テーブルの上におやつのプリッツを置いて、お散歩タイム。
Photo_1072

ところがこの始末。
まー予想はしてたけど。
外が珍しくてしょうがないのね。



Photo_1077うーん。これがおねえちゃんのコレクションね。こんなことやってるから婚期が遅れるのよ。
ほっといてよ!
なんて言ってるうちに・・・
Photo_1074
あっ!
コタちゃん大丈夫?Photo_1075
心配して損したわ。
そんなとこかじって。プリッツはいらないの?




Photo_1076
うーん美味。
・・・結局食べるんじゃないの。
また出してあげるから。何事もガマンが大事よ(笑)。
(こんな感じで、最近はたまに散歩させてます。)

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文句だけは美しいけれど

昨日も暑かったですねー。時間があったので昼間ウォーキングに出ましたが、もう歩くだけでフラフラになるほどで。
常に水分補給を心がけないと熱中症が怖くて。

私の地方はまだ梅雨明けしていませんが、これだけ暑ければ気分はもう夏本番。なにかと夏の風物詩が恋しくなっちゃいます。

私などおバカなオタクにとって、夏と言えば恐怖ドラマなども風物詩の一つ。久しぶりにレーザーディスクを引っ張り出して(うーん古い)「怪奇大作戦」なんかを見ちゃったりして。
皆さんも頷かれるもしれませんが、俗物の私などはシリーズドラマを見るにも特に偏りが大きい。どんな番組にもお気に入りのエピソードがありまして。まー難しいお話よりも、単純に楽しめたり怖がれたりするのが好きなんですよ。
「ウルトラセブン」と「帰ってきたウルトラマン」を繋ぐミッシング・リングなんてLDジャケットに記されてはいても、「そー言われればそうだけど、私はそんな事あまり気にしてないし」と、とにかく見たいお話だけを再生するという、マニアの風上にも置けない鑑賞姿勢だったりします(笑)。

Photo_1064そんな訳で、その時の気分で選んだエピソードは第8話「光る通り魔」(1968年11月3日放送 上原正三・市川森一脚本 円谷一監督)。
最近「ネヴュラ」読者層も大変レベルが上がり、素晴らしい識者諸兄がご覧になっているので、私などが偉そうに語れる事など何も無いのですが、それでもこのエピソードを未見の方の為、最低限の説明は必要でしょう。
いつもながら舌足らずなストーリー解説ですが、何も無いよりは増しと言う程度でお聞き下さい。

この「怪奇大作戦」と言う番組、通常では考えられないような怪奇現象を科学的に解析、その裏に隠された犯罪を暴きだす半官半民の犯罪捜査組織「SRI」の活躍を描く30分ドラマです。前述の通り「ウルトラセブン」の後番組として、1968年9月15日から翌69年3月9日まで、全26話が放送されました。
「セブン」の後を受けただけあって、スタッフも「セブン」の布陣がほぼそのままスライド、「セブン」で築かれたリアルかつシリアスなドラマ作りが活かされています。ただ後述しますが、その世界観はウルトラシリーズとは趣を意にしている感触を受けます。(しっかり「セブン」を意識して書いてますね。なんて一貫性の無い私(汗)。

この番組の売りは、何と言っても毎回登場する「怪奇現象」。
吸血鬼、人喰い蛾、生首、生きている人形、絵画から抜け出る人間などなど、まー夏にふさわしい賑やかな(笑)メンバーで。
ただこれらは昔ながらの怪談や恐怖譚ではなく、SRIの科学的捜査によって現代社会にふさわしい理由付けがされる訳です。
子供の頃この番組をリアルタイムで見た私は、そんな科学的解析などどっかへ飛んでしまって、「怖い番組」という印象しか残っていないのでした。おバカでしょー(笑)。


で、今日再見(もう何度目でしょうか)した「光る通り魔」。この作品、大まかなビジュアルイメージは東宝映画「美女と液体人間」(1958年 本多猪四郎監督)に繋がるものがあります。
「美女と~」をご覧になった方なら、この「光る通り魔」で起きる怪奇現象の雰囲気は即座にお分かりになるでしょう。

Photo_1065住宅公団に勤める女性社員・陽子の目の前で、彼女の上司がアメーバ状の発光体に襲われます。発光体は陽子を見張るように彼女の身辺に出没、彼女のフィアンセも狙われてしまいます。
意思を持ち、何かを伝えたいかのように陽子に近づく発光体。発光体を「燐光人間」と名付けその正体を追跡するSRI。
わずかに残った燐反応を手がかりに真相を追う彼らの前に意外な真実が・・・


こんなお話です。30分のドラマですから余分な遊びが一切無い。まー実にストレートかつツボを抑えた展開でつき進む、といった印象を受けます。
今と違い、30分の一話完結ドラマがまだ生きていたこの頃、シナリオライターにも30分でテーマを訴えるテクニックが備わっていたのでしょう。「マン」「セブン」で腕を鳴らした上原・市川両氏も、実に手馴れた様子でこのドラマを紡いでいます。

不思議な事に私、クールな肌合いの「セブン」はどうも苦手なんですが、この「怪奇」は大好きなんですよ。「ウルトラセブン」という番組はセブン本人が出なければ良質のSFストーリーなのに、なーんて評論を時々目にしますが、ひょっとして私も無意識の内にそれを感じているのかもしれません。あくまで私見ですが。

Photo_1066今回は都合上、ストーリーの続きをお話しましょう。
実は陽子の身辺で捜査線上に浮かんだ人物が一人。陽子の同僚・山本伸夫。生真面目ながら彼が陽子に恋心を抱いていた過去を知り、山本が燐光人間を操っているのではというSRIメンバー・牧の推理を、陽子は言下に否定します。

「山本さんは犯人じゃないわ。死んじゃったんですもの。」
陽子はそんな山本を疎ましく思っていたのです。
三ヶ月前、山本は陽子に遺書を渡し、故郷の阿蘇に身を投じていたのでした。
陽子の証言の直後、彼らの前に現れる燐光人間!


何故、陽子の前にこれほど燐光人間が現れるのか。阿蘇へ飛んだ牧は、その火口である推理を抱きます。
「もし、マグマの中央に落ち込めず、岩場へ転げ込んだとしたら。死の苦しみに耐えきれず、この毒ガスと地獄の熱気の中から再び這い上がって行ったとしたら。
それは恐ろしい生への執念だ。
その執念が、彼の体をも作り変えて行ったとしたら。
考えられん。人間が生物で無くなってもなお生きるなんて事。
しかも、有史以前の地層をむき出しにしたこの地獄の底から。」


Photo_1067この推理、そして彼の中での常識とのせめぎ合い。これが「怪奇大作戦」という作品全体を貫くスタンスではないかと思います。
異形の存在に常識で挑む人間の姿。これはウルトラシリーズとは一線を画す世界観ではないでしょうか。「怪奇」の舞台は私達の世界。怪獣や宇宙人が存在するアンバランス・ゾーンではありません。

しかし火口の熱気の中で、牧は生物の根源に根ざした確信を掴みます。
「そうか。有史以前。すべての生物が、この地獄の熱の中から這い上がって行ったのではなかったのか。」


ここで視聴者は、山本が頑強な執念により「生物の姿を捨てて」燐光人間に変化して行った事を知らされるのです。
山本の胸の内に燃える「頑強な執念」とは。一つには陽子への思いがあったのでしょう。そしてもう一つは。

これは未見の方の為に伏せておきましょう。
彼が人間の姿を失ってまで訴えたかった事。しかしそれを越えて尚、迎えなければならなかった悲痛なラスト。
その後味の悪さが特徴でもある(笑)「怪奇」ですが、このエピソードに於けるラストシーンの残酷なビジュアル、そしてそれを見守る事しかできないSRIメンバーの姿は、かの「特捜最前線」を思わせるものがあります。(私見ですからね。私見(笑)。


久しぶりにこの「光る通り魔」を見た私は、ある思いに捉われていました。
「このストーリー、後味の悪さ。どっかで感じた事あるなー。」
実は私、この後二度目のウォーキングに出かけたのですが(おバカでしょ)その間もずっと考えていました。
思い当たりました。脳内アドレナリンが記憶に影響したようです。
カンのいい読者の方は、今日のサブタイでお分かりでしょうね(笑)。

「このお話って「故郷は地球」じゃん。」
「故郷は地球」。「ネヴュラ」最多登場かもしれない「ウルトラマン」第23話(1966年12月18日放送 佐々木守脚本 実相寺昭雄監督)。

Photo_1068ウルトラクリエイターの異端児として、常にシリーズのアンチテーマを訴え続けてきた実相寺監督の問題作です。
宇宙開発競争の中、ある国が打ち上げた人間衛星が失敗、その国は非人道的な計画を隠蔽しました。宇宙を漂流するパイロットは自力で地球を目指しましたが、彼の体組織は宇宙空間に適応、怪獣のような姿になってしまいました。
彼はそんな姿になりながらも、自分を見捨てた人類への復讐という「執念」の為に地球に戻ってきたのです。
宇宙飛行士の名はジャミラ。人間衛星の失敗から目を背けようとする人類は彼を敵とみなし、攻撃を開始します・・・


このエピソード、ご存知の方も多いでしょうからこれ以上の説明は不要ですね。個人的には「光る通り魔」のテーマは、この「故郷は地球」に極めて近いと感じました。
ジャミラの末路については今更説明する必要も無いでしょう。
彼は何も悪い事はしていない。宇宙開発の犠牲者ですよね。
しかし人類は異形の者を許さない。異形であるだけで既に「敵」なのです。そして彼の訴えは実を結ばなかった。
彼は国際平和会議を阻止する事は出来ませんでした。他ならぬ「地球の守り」ウルトラマンの手によって。

(このウルトラマンのスタンスについてはこれまで色々語られてきたので、また別の機会にお話しましょう。)

実は「光る通り魔」では、燐光人間・山本はジャミラより幸福でした。彼は自分を陥れた者に一矢を報いたのです。しかしそれでも彼は悲しい存在でした。異形でありながら人間の心を持つ者。その末路は常に悲劇を免れないのでしょうか。
「故郷は地球」と「光る通り魔」。同じテーマを描く二作品ですが、前述の通りそのテイストは大きく異なります。
調停役たる宇宙人・ウルトラマンを幕引き役に回し、地球人が直接手を下さない事で寓話のオブラートに包もうとした「故郷は地球」(包みきれたとは言いがたいですが)に対して、「光る通り魔」で山本に鉄槌を下すのは彼と同じ人間、SRIのメンバーなのです。


一矢を報いた山本に対し、警視庁の町田警部はこう語ります。
「しかしまあ、浮かばれようというもんじゃないか。」
でも、この場面には続きがあるのです。
その残酷なエンディングをご覧になった貴方の胸には、きっと「故郷は地球」のラスト、ジャミラ・プレートの前で悲痛に叫ぶイデ隊員の言葉が去来する事でしょう。


なんか「怪奇」について語ると、こういうシメになっちゃうんですよね。本当はもっと明るくお別れしたいのに(笑)。

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2007年7月23日 (月)

作らせる側の論理

スタッフに案内され覗いた局の防災ルームには、前任者と引継ぎを行う新たな担当者の姿がありました。
アポなしの訪問をちょっと後悔しましたが、名刺交換と共に交わす挨拶に込めたやり手らしい彼の眼光は、私を捉えて離しませんでした・・・

正直な所今日のお話は、興味の無い方にはつまらないかもしれません。前日のお話とは真逆の、映像業界の内幕を暴露するようなエピソードだからです。ですから古の名作番組に心酔され、夢を求めている方にはあまりおすすめできません。
おそらくアクセス数は激減、コメント0は確実でしょう(笑)。
しかしながら映像作品は常にこういう内幕と背中合わせに作られている事も事実。私たち現場スタッフは、こういう現実にいつも晒されているのです。

局の隣のファッションビル、一階のおしゃれなレストラン。顔なじみの様子でどっかと腰を下ろした彼は、初対面とは思えぬ親しさで私を手招きしました。
「暑いねえ。まあ冷たいものでも。」
そう切り出した彼は、私が今手掛けているレギュラー番組のスポンサー担当者。この7月、これまで私が懇意にしていた前任者の配置換えとともに、新たに番組担当のポストについたのでした。
それまでの彼はまさに営業畑一直線。これまでも地元の各局との付き合いを通じて数々の番組を立ち上げてきたベテランです。その数々の番組名を聞いただけで、彼の営業手腕の確かさ、ある種の豪腕ぶりが窺えます。
彼は今回の配置換えに関して若干の不満を漏らしていました。曰く「社内でのやんちゃが過ぎて今のセクションに来ちゃいまして。」本当はプロダクション付きの担当者としてデスクの前に座っているよりも飛び込みでバリバリ仕事を取って来たい。それが自分に向いているんだ。彼はそう言いたかったようでした。
「いや、決してテレビ担当を軽く見ている訳じゃないんだけど」とフォローするあたりはさすがに営業、抜かりはありません(笑)。

「私が配置換えになった理由を推測するとね。」スポンサー営業部で活躍していた彼は営業方針の違いで役員クラスと衝突。
左遷の雲行きを感じて根回しをしたもののトップメンバーをフォローしきれず、人事会議の40分後には内示を言い渡されたそうです。
「そりゃ分かるよね。全員に配られる名刺が私だけ無かったんだから。」無理に苦笑いを作る彼の顔には悔恨の文字が張り付いていました。


実際、こういう事ってよくありますよね。「ネヴュラ」読者の皆さんはいずれも毎日激務に勤しまれている方々ばかりでしょうから、ご自分では無いにしろ職場でそういう場面をご覧になった事もおありと思います。私でさえそんな場面を見る事は日常茶飯事、それは厳しい現実です。
彼の話は続きます。彼と交代に営業のポストに就いたのはこれまで私の担当だった管理部長さんでした。その部長、彼とは逆にこれまでずっと番組担当だったものですから営業の事などまったく素人。
彼としては心配で仕方がないと。
「俺がこれまで掴んできたお客をうまく回してくれるかどうか。そればっかりが気になっちゃってさ。」営業職に携われる読者の方は、彼の気持ちがよくお分かりになるのでは?
今は気ままなフリーの身とはいえかつてはそんな経験も経てきた私には、彼の言葉の端々に浮かぶ営業職への未練が他人事とは思えないのでした。

「さて。」目の前のアイスカフェオレを飲み干した彼は、満を持してという表情で本題に入りました。
お話の内容はこうです。

今、当社から局の制作部を通じ、依頼している番組。その内容の見直しを図りたい。ついてはまず、現場責任者の貴女の意見を聞きたい。

「なるほど、いかにも営業担当者らしいやり方ね。」
私はその時、そう思いました。

テレビ番組の内幕にお詳しい読者はお分かりと思います。とかく番組というのは出演者、脚本家、監督などスタッフにスポットが当たりがちですが、実は局のプロデューサー、広告代理店、そして何よりもお金を出すスポンサーが動かなければそもそも成立しない。これは厳然たる事実です。

通常、番組製作のルートとしては
スポンサー代理店局営業局プロデューサープロダクションプロデューサー現場ディレクター
という流れがあります。

私のお仕事の場合、途中に広告代理店が入らないやや特殊な事情が絡んではいますが、それでもこういう重要なお話の場合、本来ならプロダクションプロデューサーからお話が来なければおかしいのです。私はこのお話を聞くのは初めて。結論から言えば一番上から途中をカットし、一番下へお話が振られた事になります。
言わば「超トップダウン」という訳です。

これは元営業担当ならではのやり方、俗に言う「根回し」ですね。
こんなお話がスポンサーから直接される事はめったに無い。
私はちょっと戸惑いました。こんなお話、現場に直接されても困ると。私に決定権は無いし。局やプロダクションの思惑が複雑に絡み合う「番組」という商品の見直しを、こんな形で決める事は乱暴すぎると。
ただ、彼の思いは別の所にあったようです。
営業として現場の声を拾い続けてきた彼には「全てを知るのは現場スタッフ」という哲学があったんですね。


「俺は前任者のスタイルをそのまま引き継ぐ事は好きじゃない。自分が来た以上、自分にしか出来ない仕事を残したい。営業職には未練もあるが、こうなったら腹を括りたいんですよ。その為には現場をよく知る方のご協力が必要なんです。」
おそらく同年輩であろう彼の言葉を話半分にしか取れない私でしたが、それでも「まず現場」と語る彼の思いはそれなりに伝わっては来ます。
ただ、はいそうですかと乗れないのが大人の事情。
スポンサーとディレクターのスタンドプレーを許すほどテレビの世界は甘くはないと(笑)。


「とりあえず、現場担当として「こう変えたい」「こんな企画が面白いんじゃないか」という案が欲しい。とりあえず予算は度外視して。」
力説する彼の表情には、元営業担当者ならではの意地が見え隠れしていました。
「いい企画なら予算は考える。なーに予算繰りなんて社の裏表を知り尽くしている俺に任せろ。うまくやるから。」という表情。
あー。これが言いたかったのねー(笑)。
「貴女が番組作りのプロなら、俺は予算集めのプロだぜ。」
その自信。


私はこういう人物は嫌いではありません。確かに営業担当者ならではの大風呂敷感は拭えませんが、とりあえず「何かを残したいんだ」「流されたくないんだ」という気概は伝わってくる。
実際、過去に名作と呼ばれたテレビ番組の裏には、きっとこういう「新しい事をやりたい」という思いがあった筈でしょうから。


実際、映像作品の製作現場に於いて予算のあるなしは作品の出来、存続に大きく影響します。
初作「ウルトラマン」が毎回の予算超過によって、作れば作る程赤字が膨らんでいった事は有名ですよね。
他にも大映映画「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」でギャオスが放つ超音波メス。あの画面合成処理は一回につき当時の金額で3,500円の工賃が発生し、湯浅監督はギャオスが超音波メスを吐く度に「正」の字を書いてカウント、予算表とニラメッコしていたなんてエピソードも聞きます。
かように作品とは予算と隣り合わせ、大変シビアな現実なのです。


ですからたとえハッタリとはいえ、スポンサーという言わば「作らせる側」の気合が見て取れるのは実に頼もしい。
20年前の私なら有頂天になっていた事でしょう(笑)。
年を重ね、今ではそんなお話にモチベーションを上げる程若くはなくなりましたが、「ちょっと夢を見られるかな」なんて嬉しい気持ちになれた事も事実です。
何より私、「企画大好き」なんですよ(笑)。

そんな性癖の片鱗は、「ネヴュラ」読者の皆さんならお感じになっている事でしょう。「オタクイーン、毎回変な事ばっかり考えるなー。企画と言うより妄想だな。これは。」
そう。妄想。「WOO」を発案した頃の金城哲夫のように。
確かに不定形生物を映像化する映像技術が無かった1963年当時、彼の発想は妄想の域を出なかったでしょう。しかしやっぱり「考える事」「発想する努力」は必要と思うのです。
考え方によっては、彼は「CG時代に先駆けた発想を持っていた」という見方さえ出来るのですから。


「とりあえず秋をめどに番組内容を一新したい。斬新な企画を待ってますよ。」
気がつけば一時間が経っていました。その実現までにはきっと山ほどの紆余曲折があり、おそらくこんな密談だけでは何も変えられないかもしれません。
根回しの山。私も今日の持ちかけを上に報告する義務があるでしょう。でも久しぶりに「新企画」へのきっかけが出来ました。

こういう事があるから、テレビ屋はやめられない。

お店の前で別れた彼の後ろ姿は夏の陽炎に包まれ、まるでオーラを纏っているように見えました。

2007年7月22日 (日)

優しい嘘

こんなお話を聞かれた事はありませんか?

「ゴジラのネーミングの言われは「ゴリラ」と「クジラ」の合成語」
「1954年の「ゴジラ」で、ゴジラが国会議事堂を破壊する場面では、観客から拍手が起きた」
「スペシウム光線のポーズは西部劇で拳銃を構えるポーズから来ている」
「スペクトルマンに登場する防衛チーム・怪獣Gメンの超兵器「ボントトルエカ」の語源は、「勇者」という意味のロシア語」

などなど・・・

特撮ファンの間では、これらはわりあいメジャーな「噂」です。
丁度、特撮作品に関するファン活動も盛んになり、各作品の研究が積極的に行われていた1970年代後半から80年代にかけて、これらの噂がまことしやかに流れました。
当時、私たちファンはこんな裏話に一喜一憂し、仲間と面白おかしく語り合っていたものです。ゴジラ映画のエアポケットとも呼べる76年から83年頃は、こんな話題で乾きを癒す事しか出来なかったんですね。当時は「宇宙戦艦ヤマト」「機動戦士ガンダム」が産声を上げた時期でもありますが、ここでそちらのジャンルに興味が行かなかったことで、自分が筋金入りの特撮ファンである事を再認識させてもくれました。(83年の「装甲騎兵ボトムズ」にははまりましたが、今回は別のお話です(笑)。

当時、全国で同時多発的に起こったムーブメントにより輩出された多くの「特撮識者」達はその後マスコミ等で活躍、その趣味を活かして実際に作品作りに携わったスタッフに直接取材、件の噂の真相を解き明かしてくれました。
当時、特撮ファンのバイブルとも言えた雑誌「宇宙船」や、彼らが続々と刊行した研究本をむさぼるように読んでいた私は、永年疑問に思っていた「噂の真相」に触れる度、驚きとともに大きな感慨を覚えていたものです。(うーん全然女子らしくないなー。もうちょっと話題を考えたほうがいいかなと思う今日この頃(笑)。

結局、それらの研究は1990年代に花開き、造形ノウハウ面ではハードディテールのガレージキット、また演出ノウハウ面では平成ガメラを頂点とする新作に繋がっていったと個人的には感じています。
そういう意味で、現在の特撮作品はこの頃の作品研究が大きな礎であったと思うのですが。

さて。実は今日のお話、この「研究」そのものについてではありません。実は冒頭の「噂」の出所に関する疑問です。こんな事をブログで書く酔狂は私ぐらいのもんでしょうが、ちょっと思う所あったものでいい機会かと。
これは想像の域を出ませんが、実は冒頭の「噂」、それぞれが違う経緯を持ってスタッフからファンに伝わったもののような気がするのです。
これは私がテレビ界に入って感じた「現場の感触」からの意見です。事の真意は闇の中。ただ当たらずとも遠からず、程度の認識でお聞き下さい。

Photo_1059まず最初の「ゴジラのネーミングの言われは「ゴリラ」と「クジラ」の合成語」。
これは後々の研究で明らかになった事ですが、これ、事実です。
ところがこの一文だけでは足りない。つまり、「事実の前半だけが広まっちゃった」という事なんですね。

1954年。「ゴジラ」第一作が企画された頃、その主演怪獣のネーミングに頭を抱えていた特技監督・円谷英二は、当時東宝撮影所で一際目立っていたある俳優に目を付けました。
豪放にして体が大きな彼は、後にゴジラと名付けられるその怪獣のイメージにピッタリだったのです。円谷は彼をイメージソースに怪獣のネーミングを決定しました。

その彼、東宝演劇部の網倉志朗は「ゴリラのような体、クジラ肉が好物」というキャラクターでした。「ゴリラとクジラ」という部分はここから来たものだったそうです。

ここで面白いのはこの「ゴリラとクジラ」という部分。
80年代、私が聞いた噂では「陸で一番強い動物・ゴリラと、海で一番強い動物・クジラの合成で、地球で一番強い怪獣だ」というものでした。噂と真相の着地点はリンクしているものの、そこまでの道筋が違うのです。


この手の「子供話系」の噂は他にもあります。例えば「ゴジラの鳴き声は、世界の動物の声の合成」なんていうのもそうですね。現在は皆さんもご存知の通り、真相は音楽も手掛けた伊福部昭の作で「コントラバスの玄を擦った音」なのですが、どうしてこういう事が起こるのでしょうか。
これはまあお察しの通り、おそらく公開当時観客の興味を煽るために作られた一種の「パブリシティー記事」が伝わったものと言えるでしょう。今のように当時のスタッフの証言が得られなかった80年代、研究材料と言えば古書店を回って手に入れた、当時のプレスリリースぐらいしかなかったのです。
(それを入手する執念も凄いですが)。


続いて二つ目のケース。
Photo_1060「1954年の「ゴジラ」で、ゴジラが国会議事堂を破壊する場面では、観客から拍手が起きた」というもの。
これ、事実です。当時「ゴジラ」の監督助手を務めていた梶田興治氏が実際に劇場で体験したという証言がありますから間違いないと思います。ところがこの噂、一度ファンの間を駆け回った後で「どうやらこの話は、話題づくりの為に捏造されたものと思われる」なんて解析が出現、私たちも「そーだよねー。ちょっと出来すぎた話だもん」なんて思っていました。
それが最近になって、前述の梶田氏の証言で再びひっくり返っちゃった(笑)。
非常に不思議なお話ですが、これはおそらく「又聞きによる事実誤認」なのではないでしょうか。


こういう事はよくあります。経緯を推測すると、まず「ゴジラ」公開時、梶田氏が体験したこの劇場での出来事を懇意のスタッフに話したと。(おそらく思い入れたっぷりに。)
聞いたスタッフはそれを覚えていましたが、後に研究者からの取材を受け、その事を語る時どうしても「個人の考え」が入る。その為「彼はそんな事言っていたけど本当かどうか」なんて、表現が曖昧になる。あくまでも推測ですが。
それが人から人へ伝わると「そんな出来すぎた話、作り話じゃないの」という事になっちゃう。「伝聞の落とし穴」ですね。
伝えている本人には決して悪気は無いんですが、人づてに伝わる中で事実が変わっていってしまうと。


「事実誤認」はこの業界には多くあります。特に「ネーミングやポーズなどの発案理由」については山ほど。
Photo_1061三つ目の「スベシウム光線のポーズは西部劇で拳銃を構えるポーズから来ている」というのもその一つ。
このスペシウムポーズの発案者は「ウルトラマン」第二話「侵略者を撃て」の監督、飯島敏宏氏という事はよく知られていますが、前述のセリフ、どなたのものと思いますか?
驚くなかれ飯島氏ではなく、特殊技術を担当された高野宏一監督なんですよ。
この「侵略者を撃て」の特殊技術担当は的場徹監督。何故高野監督にこんな証言が可能だったのか?


これは今でも大きな謎です。これは20年近く前、ウルトラマンの特別対談番組で高野監督自らが語っていますが、どうもその語り口から見て(映像なので感触も分かるんです)
「~じゃないかなあ」というニュアンスが強い。

つまりこういう事は、スタッフ間のコミュニケーションの中で「なんとなく」伝わるものなんですよね。
ですから実は正解なんて無い。
「そうとも言えるし、違うとも言えるし」みたいなニュアンスなんですね。
ですからこの場合「誤認」と言うよりも「真実の一端かも」くらいに受け止めた方がいいのかもしれません。
ポーズ発案者・飯島監督にもはっきりした理由は無かったのかもしれません。「色々やっている内に、なんとなくね」なんて言いそうじゃないですか?飯島監督なら。
真実をご存知の方、無知な私に是非ご教授を(笑)。


さて。最後の一つ。これは今では笑い話ですね。
「スペクトルマンに登場する防衛チーム・怪獣Gメンの超兵器「ボントトルエカ」の語源は「勇者」という意味のロシア語」
「スペクトルマン」を始め、多くの特撮ドラマを生み出してきたピープロダクション。その社長、うしおそうじこと鷺巣富雄氏のファンサービスぶりは有名で、このお話もかなり眉唾ものなんですよ(笑)。

Photo_1062私はロシア語はわかりませんが写真をご覧頂けばお察しの通り、「ボントトルエカ」という兵器はいわゆる「ヘリコプター」なんですよ。(こんな事を説明しなければならないピープロ作品のマイナーぶりがたまりません(笑)。
ですからこのネーミングも「空を飛ぶもの」から取られていると。
逆から読めば『カエルとトンボ』という訳です(笑)。

もうこの「ロシア語で「勇者」というお話、鷺巣氏の嬉しそうな顔が浮かんできて楽しい楽しい。

この手の取材者を煙に巻くお話、鷺巣氏は大好きだったようです。
Photo_1063後年の名作「電人ザボーガー」のタイトルネーミングについても、「この頃はプロデュース業にも疲れ、別の人をプロデューサーを立てる事も出来たので、自分はそろそろ「さぼるか」なんて思っていたから。「サボるか」「サボるがぁ~」「ザボーガー」なんてね。」なんて本当か嘘か分からない返事だったようですし(笑)。
ファンの方は「大事な番組タイトルをこんないい加減な決め方で!」とお怒りになるでしょう。ところが番組製作の現場に居ると、こういうトークセンスが大変大事である事がよく分かります。

番組というのはプロダクションが局にかける「プレゼンテーション」が命。ここでのセールストークが大きくモノを言うのです。
とにかく「局を乗せる事が命題」なんですよ。

真面目な顔で企画意図を語るだけがプレゼンではありません。口八丁手八丁で「なんとなく面白い番組だな」と局担当者に思わせるだけの技量が、プロダクション担当者には必要なのです。そういう意味で鷺巣氏は素晴らしい「売り屋」、スタッフを乗せる名プロデューサーだったのではないでしょうか。

今日お話してきた「噂」の数々。今ではもうその真偽もほぼ判明していますが、なんとなく「罪がない」でしょ。
ファンのロマンを掻き立てると言うか。夢があると言うか。
これらはきっと、私たちファンに対して「夢のある作品には夢のある裏話を」と常に配慮してくれた、名クリエイターたちの「優しい嘘」だったと思いたいです。


作品の再評価により、過去の名作に関する真実は次々と白日の下に晒されてきました。ただこの手の噂が尽きる事はありません。まだまだ研究課題は残っているようです。
しかしながら、怪しげな噂のほとんどが「優しい嘘」「空想の産物」だったとしても、それはそれでいいんじゃないかと。たとえ真実がどのようなものであっても、それは作品の素晴らしさにはまったく影響しないでしょうから。

思い出して下さい。「ウルトラマン」のタイトル画面、番組名の下にある一文。そこには大きく書いてありますよね。
「空想特撮シリーズ」と(笑)。

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2007年7月20日 (金)

森の兄弟

Photo_1053今日は終業式。
午後3時、いつもの公園では
小学生が元気に遊んでいました。
明日から夏休みだもんね。


Photo_1054いつものウォーキングルート。
覗いた道の片隅に居たのは・・・





Photo_1056 二匹の子猫。森の住人です。
最近よく見かけていました。ようやく今日、撮影成功。

本当はこの子たちの他にも何匹か居るんですが、今日も逃げられちゃいました。
人間も動物も、本格的な夏が楽しみなんですね。

Photo_1058 動物の種類にもよりますが。
(二度寝の直前、巣箱に帰る後姿です(笑)。

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「才能あるアマチュア」対「プロ」

先日、私が今アルフレッド・ヒッチコック作品を再見している旨をお話しましたね。その後も手持ち作品はもちろん、新たにDVDを買い込んでその世界に没頭しています。
何しろヒッチの旧作は結構500円DVD化され、色々なメーカーから発売されていますからものすごく入手しやすい。何より貧乏な私にとって、この値段は非常に嬉しいのでした。何度も見たいヒッチ作品は、レンタルでは物足りないですから(笑)。

さて。そんな諸作の中から今日お話したいのは、ヒッチ話術の魅力が詰まった傑作にして、彼唯一の非常に稀な研究材料となった二作品についてです。
ヒッチはその生涯、全部で53本の作品を世に残しました。彼の作品には同じモチーフやテーマが繰り返し登場し、後の作品になる程そのストーリーテリングは確立されていったと思います。ただ当時の多くの監督と同じく、たとえテーマやモチーフが同じでも「全く同じ作品」を創る事は非常に稀な例。1920年代から70年代、ヒッチの活躍していた時代は、原作物など「誰もが知る有名なお話」を除き、オリジナル作品にはまだ「物語のパターンなど無限に生み出せる」という神話が生きていたのです。
リメイク作品が当たり前になり「またあれか」と観客が眉をひそめるような時代など、誰も想像していなかったのではないでしょうか。

ヒッチもその例に漏れず、その生涯で自作をリメイクしたのは一度だけ。それが今回お話する「THE MAN WHO KNEW TOO MUCH」です。
この作品、初映画化は1934年。ヒッチ・イギリス時代の作品です。日本では「暗殺者の家」という邦題で公開されました。
続いて1955年、ヒッチ自らの企画でセルフ・リメイクとしてアメリカで製作。こちらの邦題は「知りすぎていた男」。
この邦題を聞いて「ああ、あれか」と思われた読者の方もいらっしゃるでしょう。

この二作品も既にクラシック作品の仲間入り。時の流れは早いものです。(って、「知りすぎていた男」って「ゴジラの逆襲」と同年なんですね。クラシック扱いも当然です(笑)。

いい機会ですからここで白状しましょう。
実は私、この二作品の内、先に見たのはリメイク作「知りすぎていた男」の方でした。1984年、ヒッチの死後全国で大々的にリバイバル公開された際、劇場で鑑賞したのが初見でした。
そしてっ。オリジナルとも言える「暗殺者の家」を発鑑賞したのがなんと今月15日。この前の日曜日だったのでした(笑)。

いやーヒッチ好きを自称する私としてはまるで「装甲騎兵ボトムズを知らなかった岡田斗司夫」並みの失態。穴があったら入りたいくらいの情けなさです。ここでお詫びしますからお許し下さい(涙)。

ですからこの二作品に関して、私はオリジナル・リメイクの順番で鑑賞していないのです。しかも見比べたのはつい最近(笑)。こんな体たらくで正確な解析なんてできるのでしょうか(汗)。でも私、ここでハタと気づきました。
「こういう順番で見た人も多いだろうし、リメイク発オリジナル行きの立場から語るのもいいかなー。私程度じゃ大したお話も出来ないし。」
という訳で、今回はこのメンタルバランスを楽しむ事に。「それじゃオタクイーン、リメイクに肩入れしちゃうんじゃないの?いつものオリジナル偏重主義に反するんじゃ?」なんて思われる皆さん、今回ばかりは私もお話の行く末が分かりません。

思いつくままつらつらと語ってみようと思います。いつもの事ですが。

Photo_1045さて。まずオリジナルに敬意を表し、このストーリーのプロットは初作「暗殺者の家」から語る事にしましょう。と言ってもネタバレは極力避けますが。
ヒッチお得意の巻き込まれ型ストーリー。どこにでも居る市井の家族が主人公です。開巻から息をつく暇も無く一気に見せるサスペンスのフルコース。ラスト近く、アルバート・ホールの一幕のカットワークは「サイコ」と並び映画史に残る見事なもの。
全篇75分。いつもながらのヒッチ芸術が堪能できる傑作、と言った所でしょうか。
これだけです。これ以上でもこれ以下でもありません。


いつも思うんですが、ヒッチ作品ってストーリーをお話しても意味が無いんですよね。実はこの「意味が無い」というのはヒッチに対しての最大の賛美なんです。要はそれだけ「映像的」という事で。ある意味通俗的なストーリーを映像の力でここまで面白くできるという点でヒッチの右に出る者は居ないでしょう。そこまで彼はストーリーのみを重視していない。
と言って決して技巧のみに走ってもいません。要は「自分を活かせるストーリー」を熟知しているんですね。

ヒッチならあるいは私の妹、ハムスターのコタクイーンの所作を切り取るだけでもとんでもない傑作を生み出す事でしょう。
(コタはグレイス・ケリーほど魅力は無いですが(笑)。

Photo_1046 さて。プロットについては「暗殺者の家」からお話、という触れ込みでしたが、実はこのプロットはそのままリメイク作「知りすぎていた男」にも当てはまります。違うのは上映時間ぐらい。「暗殺者の家」と比べ「知りすぎていた男」は若干長く119分の尺を持っています。
内容が同じなのはリメイクですからしごく当然なんですが、これは実は大変な事なんですよ。

映画・テレビを問わず乱作されている最近のリメイク作を思い出して下さい。そのほとんどは「筋立ては同じでも、ラストシークエンスを変更しましたからそれを楽しみにして下さい」的なプロデュース・スタイルですよね。
作品によっては主人公の運命が全く変わる作品さえある。

その是非を言っているわけではありませんが、ヒッチはあえてそれをやらなかった。「過去の自作との真っ向勝負」なんですね。非常に潔い、真摯な態度だと思います。

実際にはこの二作、尺の長さ以外にも多くの相違点があります。
例えば主人公夫婦の子供の性別、物語の舞台となる国、登場人物の役割分担などなど。しかしながらこれはストーリーとは特に結びつかない。
唯一、主人公婦人の職業・得意分野の変更がストーリーの色合いに大きく関係してきますが、これについては後ほどお話しましょう。
ただ、この変更もストーリーの骨子に変化をもたらしていない。どちらのお話も着地点は同じなのです。

Photo_1052 二作品を再見してみて私が強く感じたのは「やっぱりヒッチは「何を語るか」じゃなく「どう語るか」の人なんだな。」という事でした。
テレビ屋の端くれたる私もよく思うんですが、同じ傾向の作品を作り続けているとどうしても自分に飽きが来るものなんです。
「ひょっとしてこの路線を続けていく事で、自分は自分を甘やかしているんじゃないか」「楽な道を選んでいるんじゃないか」なんて疑念にも捉われてしまう。リメイクなんてお話が来れば「思い切って変えてやろう。観客が思いもよらないエンディングの変更を」なんて思っちゃうものなんです。それはオリジナル作への愛情にも繋がる。「真似はオリジナルへの冒涜になる」なんて。
それはセルフリメイクの場合特に強いと思います。オリジナルは自分の分身ですから。リメイクで同じプロットをなぞる方が、精神的な負担が大きいんですね。

ですがヒッチはプロットを変えなかった。ストーリーではなく「語り口」の違いに全力を傾けた訳です。

ヒッチファンの皆さんはご存知と思いますが、リメイク作「知りすぎていた男」製作の裏には、前年に製作されたヒッチ監督作「ハリーの災難」が不入りで、その穴を埋める為急遽企画されたという経緯があります。確かにそういう事情がなければヒッチもこのリメイク作には取り組まなかったでしょう。
実際、自分の作風を活かす原作を探すヒッチの努力は特筆すべき所で、毎回、最適な原作が見つけるまでにヒッチはかなりの時間を費やしたと思われます。「ハリーの災難」からわずか一年。ヒッチには次回作に最適なオリジナルストーリーを探す時間さえ与えられていなかったのではないでしょうか。ヒッチ自身もトリュフォーとの対談で「他に映画化したい原作が見つからなかった」と語っています。
映画はビジネスという側面がある以上、「やりたい事ばっかりやっていては食べていけない」訳です。
ヒッチほどの巨匠でも例外ではなかったと。

個人的に私はリメイク作には反対です。「絶対にオリジナルを超えられない」という思いは依然として強くあります。
しかし映画界の台所事情もよく分かる。
この場合に関してはオリジナルのネームバリューに頼った安直な企画とは経緯が違うのです。
「負債を埋める為の苦肉の策」という事情は、どんな業界でも切実なものなのでは?


ところがその苦境とも言える状態にも関わらずヒッチはオリジナルと真っ向勝負した。ここにこの二作の大きな存在意義があります。
年を経て製作されたこの二作品の間にヒッチが身につけた「キャリアに裏打ちされた実力の差」を見て取る事ができるからです。ファンとすればここは垂涎の楽しみという訳で。

両作品を見比べ私が感じた印象をお話しましょう。
この先は作品をご覧になった方しかお分かりにならないかもしれません。お許し下さい。
まずオリジナル「暗殺者の家」に関しては、さすがにヒッチの才気ほとばしる傑作と思いました。とても70年以上前の作品とは思えない。
このサスペンスの持続はどうやって生み出されるのだろうと、いつもの「ヒッチ・マジック」に酔いっぱなしでした(笑)。
予算の都合や当時の撮影所事情、カメラの性能など、時代的に致し方ない部分も多いですが、この75分間の緊張感は尋常ではない。「穴がほとんど見つからない」とでも言いましょうか。

Photo_1047キャスティングでは何と言っても独特の魅力を放つピーター・ローレの存在感が圧倒的。主人公はじめ他のキャストの通俗的キャラクター造型に対し、彼だけは今見ても古くないんですよ。これは凄い。さすが稀代の逸材と言われただけの事はあります。
唯一二点ほど気になる点があったとすれば中盤、教会のイスの投げあいとラスト近くの銃撃戦がほんの少し長い。あそこは若干テンポが落ちたような気がしました。

それにしたってあのクライマックス、アルバート・ホールのシーンは、たとえリメイク作を先に観ていても素晴らしい出来ですねー。これなら確かに「カット割りの教科書」と言われても納得がいきます。

Photo_1048さて、それに対してリメイク作「知りすぎていた男」については。
これ、確信犯じゃないですか?わざと同じような流れにしている事が。
あえてオリジナルに固執する事でヒッチ話術の進歩を見せつけようとしたと。ヒッチの「面白い所は変える必要など無い」という、自作に対する自信の表れとも言えます。

所々に見える「これはオリジナルを作ったときには思いつかなかったんだよ。この方が面白いだろ?」というヒッチの目配せは、オリジナルを基にさらに完成度を高めた彼の進歩を浮き彫りにしているのです。

二作品をご覧の方、思い出してみて下さい。
主人公ジェームズ・スチュアートが剥製屋「アンブローズ・チャペル」を訪ねる道すがら、あの息づまるカットワーク。

アンブローズ・チャペルで主人公夫妻に近づいてくるドレイトン夫人の主観カットの怖さ。(同じ事はアルバート・ホールで主人公夫人に近づく暗殺者の主観カットにも言えます。)
クライマックス、アルバート・ホールでの主人公夫人の「悲鳴カット」。「暗殺者の家」では悲鳴は客席のロングショット。叫ぶ夫人は小さく捉えられているのでややインパクトが弱い。さらにその直後1カットのみ、陰謀団のアジトにシーンが切り替わってしまう為ちょっと何が起こったのかわかりづらい。
(私は先にリメイクを観ていたので流れが理解できましたが)

Photo_1049「知りすぎていた男」では、主人公夫人はあの「世界一有名な悲鳴」の顔アップでエモーションを最大限に高めた後、動揺する暗殺者・シンバルの音・撃たれる首相とカットが続いています。
つまりああいう場合、エモーションを高める為にはシーンを切り替えず、観客の注意を一箇所に集中させる必要がある事をヒッチは証明してみせた訳です。

主人公夫妻は二人とも不穏な動きを察知していながらも誘拐された子供の居場所が分からない。この「暗殺者の家」とのシチュエーションの変更も成功していると思います。

そしてこのクライマックス後の「ケ・セラ・セラ」のくだり。ここはおそらく意見が分かれる所でしょうね。実はこの部分が「暗殺者の家」との一番の違い。「暗殺者の家」では射撃の腕を持つ主人公夫人でしたが、「知りすぎていた男」では歌手という設定である為に、その見せ場として用意された節もあります。私はこの両作品の違いは甲乙つけがたいと思います。その理由とは。
Photo_1050ここからは完全な私見ですが、「暗殺者の家」に於けるピーター・ローレに匹敵するキャストは「知りすぎていた男」では主人公夫人を演じたドリス・デイしか見当たらないからです。(バーナード・マイルズはもちろん、ジェームズ・スチュアートにしたってちょっと弱くありませんか?)しかも両作品ともそこまでの流れはほぼ同じ。
ドリス最大の魅力、歌を存分に聞かせるシチュエーションとしてあれ以上の場面があるでしょうか。
あのシーンがあった事で「知りすぎていた男」は作品のイメージ・リーダー的な意味合いのキャスティングに於いてどうにか「暗殺者の家」に対抗できたのでは。

まー穿った見方をすれば「暗殺者の家」ラストで狙撃の腕を見せた主人公夫人と同じく、ドリスはあの晩餐会シーンで「声で狙撃した」とも言えますが(笑)。

演出に於いては完璧にオリジナルを凌駕したと思えるヒッチもキャスティングではもう一つ決め手に欠けたのかもしれませんね。別の見せ場を作る事でキャストの弱さを補ったと考えるのも不思議ではありません。
百歩譲って、ドリスの起用がたとえプロデュースサイドの意向だったとしても、それをプラスに転化したヒッチの実力は特筆すべきものがあります。個人的にこの場面、特に浮いた感じは受けませんでしたから。
(「めまい」に於けるキム・ノヴァクの使い方など、やはりヒッチは「適材適所」の嗅覚も優れていますね。)

まあいつもながらおバカな私見をお聞き頂きました。両作品をご覧の皆さん、どんなご意見をお持ちになられましたでしょうか。何も知らないシンバル奏者並みに無知ゆえの私見です。どうぞお笑い下さい。オリジナルとリメイク、どちらを先に見るかで評価が割れるかもしれませんね。
この二作品、個人的には「ヒッチ研究に於ける格好の題材」ではあっても、どちらが優れているとは一言では語れない印象を持っています。
結局「台本通りでも充分面白いやすしきよしの漫才」と「筋立ては同じでも演じる度に内容を膨らませ観客の笑いを自在に操る、油の乗り切った頃のやすきよ漫才」のどちらが好みか、と聞かれているようなものですから。

この両作品についてヒッチはこう語っています。
「暗殺者の家」は才能あるアマチュアの作品。「知りすぎていた男」はプロの作品。

「プロ」とはどういう物なのか。この命題に答えを出せない私は、まだまだプロには程遠いようです(笑)。

2007年7月18日 (水)

お昼にビックリ

昨日の予告をちょっと変更、トピックスを。
Photo_1043 いやービックリ。お昼にのぞいたスーパーで。
いつ出たんだろー。こんな新商品。

Photo_1035 
普通のチキンラーメンと比べてみました。意味はないけど。
目新しさがちょっとうれしい。




Photo_1044中身はこんな感じ。
調理法は、簡単に言えば
日清焼そばと同じです。



Photo_1039
さっそく作ってみました。
夏らしくレタス・トマトを加えたサラダ仕立て。
真ん中には温泉玉子。おいしそー(笑)。

Photo_1040 で、例によってまずお嬢様に。

お嬢様、お味はいかがですか?
・・・これは新しい味ね。香ばしくて。
でもみゆき、レタスとトマトは正解よ。よく合うわ。

(実際おいしかったです。ハマりそう(笑)。

都合により、昨日の予告記事は明日アップの予定です。
   もう少しお待ち下さい。(待ってないって?(笑)

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2007年7月17日 (火)

アンブローズ・チャペルで待ってます

・・・今日はもうダメ。
貧乏人にあるまじきCDレンタルなんてしちゃって、
さっそくパソコンで再生しようとしたら、いつも自動的に立ち上がるWindows Media Playerが完全にフリーズ。

なんと他のソフトも一切立ち上がらなくなっちゃって。
ネットも繋げないありさま。電源さえも切れなくなってしまい。

機械音痴の私はあわててお客様相談センターへ電話。
担当のお兄さんと二時間以上あーでもない、こーでもない。
結局不調の原因はつかめず、最後の手段「復旧システム」でちょっと前の設定に戻しました。

それが良かったのか動く動く(喜)。ほっと一安心。
パソコンにはお仕事のデータも入っているので、一度はどうなる事かと。

大変な一日でした。いやーやっぱりレンタルCDなんて贅沢したのがいけなかったんですねー。きっとパソコンがおなかを壊しちゃったんですよ(笑)。

そんなわけで今日は精根尽き果てて、とても記事を書く余力がありません。お許し下さい。
今日書く予定だった記事は明日に延期します。

ちなみに今日のサブタイトルは、明日の記事の予告編となっています。このサブタイだけで記事のテーマがお分かりの方はかなりの洋画通ですね。
皆さん、ちょっと考えてみて下さい。
答えは明日までのお楽しみ(笑)。

2007年7月16日 (月)

平成19年 新潟県中越沖地震

読者の皆さんもご存知の通り、夜も更けた今も被害の様子が続々と報道されていますね。
被災された方々、心よりお見舞い申し上げます。
今日のサブタイにあるように、この地震の正式名称に「平成19年」が冠されている理由は、3年前に同地域で起こった地震と区別する為である通り、ここ数年、この地域にお住まいの方々は本当にお気の毒です。

震度6強、阪神淡路大震災に匹敵する規模の災害。
先日の台風直後で緩くなった地盤の上、ライフラインも絶たれた被災地は暑さも手伝って大変な状況でしょう。
現在も非常に大きな余震が続いているとの事。避難所の皆さんも不安な夜を過ごされていると思います。

実際自分の身にそんな災害が起こってしまったら。
考えるだけで慄然としてしまいます。
それだけに被災地の皆さんの御心痛は他人事とは思えないのです。

何も出来ない私などが申し上げられる事などありませんが、被災地の皆さんには少しでもお怪我などに気をつけ、希望を持って頂きたいと思います。

ブロガーデビュー

Photo_1030コタちゃん、昨日の写真かわいかったから、今日はあんたが記事を書いてもいいよ。

えっ?わたしかくの?

Photo_1032
その執筆風景。(撮影用にパソコン画面は変更済)
さすがハムスター界の宮部みゆき。迷いもまったくありません。

その記念すべき第一作は。

りくうるのめる

リラセリモヒリキ祖は派祖も市はすれ目のけり無二ラマ費も楽熊るりこしし
さ     
(本当に彼女がキーボードの上を歩いて書きました。)

だそうです!なるほど含蓄あるお言葉。
日本広しと言えど、ブロガーデビューしたハムスターはコタが初めてじゃないでしょうかっ!
(いやー例によっておバカ。急に暑くなったせいかも(涙)。

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2007年7月15日 (日)

かしこまり~

Photo_1028 おねえちゃん、いつもバカにするけど、
わたしだってちゃんとすればかわいいでしょ。
う~んつぶらな瞳。深田恭子と呼んであげよう。たまには。

Photo_1029 でも後ろから見ると・・・

柳原可奈子?
ううん。ツチノコ(笑)。

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2007年7月14日 (土)

「タイトロープ・ハイ」に酔う

台風4号もいよいよ上陸し、各地に大きな被害を与えながら北上しています。被害に遭われた方は本当にお気の毒でした。
自然災害は人知が及ばないだけに万全の備えが必要ですね。

私の住む地方には明日、日曜の午前中が最も接近するとの予報なので、外出を避け部屋でじっとしていようと思います。
こんな時、一人暮らしは不安なものです(笑)。

「現場にあるものをそのまま映し撮る」という映像制作のお仕事では、その進行や出来が「天候」というものに非常に左右されます。
私も現場経験が長いですが、かつてお天気事情により作品の内容が大きく変わってしまった事も数限りなくありました。
映画と違い、テレビは企画が決まってからオンエア日までの間がギリギリの日程である事がほとんど。しかも映画のように「出来なかったから上映中止」などという事は考えられません。「番組が間に合わなかったからこの時間は何も放送しません」なんて事は有り得ないのです。ですからたとえ今回のように台風が来ようと大雪になろうと、ロケや収録は中止する訳にはいきません。

とはいえ物理的にどうしようもない事はあるもので。
実は、今私が住んでいるマンションの近くに、以前所属していた会社が持っていた番組用テレビ中継車の車庫を構えていた事があります。

7年前、2000年の9月11日・12日に起こった東海豪雨は名古屋市一帯に甚大な被害をもたらした事で皆さんの記憶にも新しいと思いますが、あの豪雨で、マンションから数キロ南の地域が水没した事があるのです。
その豪雨の真夜中、不意にスタッフから私の家に電話がかかって来ました。
「お前の家の辺り、雨は今どうなってる?」
聞けば翌日朝のワイド番組で生中継があり、件の中継車が出動予定だと言うのです。私の部屋はマンションの上の階でしたから特に被害は予想していなかったのですが、その中継車倉庫についてはちょっと危ない。豪雨による水害のニュースは夜を徹して報道されていたからです。
「何とも言えないけど、報道の様子では危ないかも。」

翌日・9月13日朝に出勤した私は、スタッフルームにたむろする現場スタッフの姿を見て中継の中止を知ったのでした。そりゃそうですよね。大雨で街が水没しているっていうのに呑気に朝の話題を伝えられるわけもなく。実際の所はそれ以外にも、中継車が出動不可能だったという大きな理由があったようですが。

確かに今回の台風や秋口、不意の大雨などは非常に困りますが、それにも増してテレビ屋泣かせなのが「雪」。
こればっかりはどうしようもありません。雪の為道路に規制がかかり、現場へ行けないという時のディレクターの焦りは想像を絶するものがあります。特に生中継の時など、時間の余裕を万全に取ってあっても「雪」だけはどうにもならない。物理的に中継車が現場に着かないんですから話になりません。
これほど胃が痛くなる事もありませんね。先輩ディレクターから聞いた話では泣く泣くキー局へ頼み込んでその日の中継を中止してもらったとか。

これは、その日の為にいろいろ準備をして来たディレクターにとって身を切られるほど辛い事なんですよ。かように、テレビと言うのはお天気一つに左右される、非常に原始的かつ「神頼み」的なメディアなのです。
台風などで翌日の中継が危ない、なんて時、ディレクターがADに「業務命令」でてるてる坊主を作らせる事だってあるんですよ(笑)。
正直、今日も各局が台風中継を屋外で行っていますが、私などは「その現場まで行けたんだからまだ大した事無いな」なんて思っちゃうんですね。本当に大変な状態だったらそもそも現場までたどり着けないんじゃ、なんて。

さて。ちょっとお話を変えましょう。
例えばそれが中継ではなくドラマ班だったとしましょう。豪雨の中何とか現場にも到着し、撮影もできそうな気配です。
ただそんな風にお天気の不調などで当初の予定がガタガタになってしまった時、ディレクターというのは非常にシビアな選択を迫られます。

前日まで撮影してあった画面とのつながり、シナリオの変更、シチュエーションや演技指導の微調整などなど。特にストーリーの進行に合わせて映像を撮影(順撮りと言いますが)することなど、ドキュメンタリーでもない限りまず有り得ませんから、ディレクターは「いかにしてこのお天気の不調をストーリーに響かせないか。どうすれば辻褄が合うか」という事に全力を注ぐ訳です。

ロケ時間は限られている。オンエア日は迫っている。別の日に再撮影している時間も予算も無い。キャスト・スタッフを待たせている時間は無い。それどころか待たせるに従ってキャストもスタッフもモチベーションが下がってきている。一秒でも早く再開しなければ。
(この「モチベーション」という部分はほとんどのノウハウ本には登場しませんが、ここが実は番組制作の要だったりします。ここがしっかりキープされていれば、思いもかけない「火事場の何とか」が生まれる事もあるのです。)

実は、この「追い詰められた状況」というのは、予想以上に人間の能力を引き出すような気がします。
私は最近、同じような経験をしました。

それはお天気によるスケジュールの狂いなどではなかったのですが、非常に短時間に沢山のカットを撮らなければならないロケを強いられた時の事です。
前日、ロケスケジュールとにらめっこしながら「このカットはここで」「このカットを撮ればこのシーンは成立するな」などとカット割りをしていたのですが、実際にカット数を算出してみるとこんな少ないロケ時間では撮れっこない。頭を抱えた私はあわてて予定カット数を減らしましたが、それでも最低限のカット数は必要。勝算は低い。
ですが私としてもこれ以上カットを減らす事はできない。
クリエイターの意地です。

ロケ当日。朝から私に話しかけてきたのは不安な面持ちのカメラマン。「これ、撮りきれます?台本を見た限りではとてつもなくカット数が多そうですけど。」
来たなー。来ると思ったその質問。

「うーん。でもカット割りはもう終わってるから。エキストラカット(余分なカット)を撮らずに、一心不乱に頑張れば。ねっ。期待してるから。」なんて笑顔で返しましたが、不安は付きまといます。
照明マンも「俺、明かり決めだすと暴走しちゃうから、時間かかりそうだったら監督が止めて下さいね。」なんて笑う始末で。

でもロケが進むと共に、スタッフ全員の不安は見事に現実のものに(笑)。
もう撮っても撮っても追いつかない。当初狙ったスケジュールなどあって無い様なもので。時間はどんどん押してくる。予想以上に消化できないカット数。
スタッフからの「カット割りすぎだよ」「撮れるわけないじゃん」的な視線が、焦る私に突き刺さります。
このまま今日撮りきれなかったら編集が間に合わない。となるとオンエアに穴を空けることになる。フリーの私にとっては致命的な失態。こんな凝ったカット割りしなきゃ良かった。
もう気が気じゃありません。ところが。

皆さん、よく「ナチュラル・ハイ」とか「ランナーズ・ハイ」という言葉を聞かれたことがおありと思います。前者は睡眠不足から、後者はマラソンによる一種のトリップ状態で、身体的には疲弊しているはずなのにどちらもそれを実感せず、かえってやや躁状態が持続して本人の能力以上に結果が出せてしまう不思議な感覚です。
私、追い込まれるとそんな感覚になる事が多いんですよ。

これはクリエイターなら誰もが経験されていると思います。
「ウルトラマンティガ」で傑作とされる第3話「悪魔の預言」のシナリオが約一日で書かれた事はよく知られていますが、これは本来制作されるはずだったシナリオが先送りになり、急遽穴埋めとして書かれた為に時間がなかったという事情があります。
後年、このエピソードはライター小中千昭の深層心理にあったものがストレートに出た結果だという解析を読んだ事がありますが、あれ程の傑作を僅か一日で脱稿できてしまう裏には、そんな「タイトロープ・ハイ」とでも呼ぶような心理作用が働いていたような気もするのです。

深層心理にあったものがストレートに出てしまう。
時間に余裕がなくしかも作品は成立させなければならない。
そんな局面では考えに考えて作ったカット割りよりも、本来自分の中に眠っていたカットワークの資質が表出してくるのかもしれません。事実、ある瞬間から頭の中で何かが弾けて、カット割りが現場でどんどん変わっていきましたから。
これは自分の中では「時間がなかったゆえの妥協」ではなく「まるで始めからこう割ってあったかのような納得度」でした。
恐ろしくカンが働くんですよね。人が変わったように(笑)。

「こう来たら次はこう受ける」「ここはズームじゃなくパンじゃなきゃおかしい」「ここはカットじゃないとリズムが狂っちゃう」「画面サイズを変えないと前のカットと繋がらないよ」なんて。
最初は不安がっていたスタッフも、私の割り切った判断に迷わずついて来てくれました。これは嬉しかった。

実際、翌日になって編集してみたら、これがまた的確なんですよ。あんなにタイトな時間で撮ったとは思えないほど成立している。前日、頭を捻って作り上げたカット割りは何だったのなんて思うくらいで(笑)。
後々考えるに、やはりあの日のロケは時間的に追い詰められたゆえの「タイトロープ・ハイ」が生み出した奇跡だったんだなー。なんて。
まー私の事ですから同業の皆さんにはお見せするのもお恥ずかしい作品ですが。とにかくその日の私はささやかな喜びに満ち溢れていたという。おバカですね。

その日以来、私の「タイトロープ・ハイ」は起こっていません。
という事は、最近はそれだけ毎日を漫然と過ごしている証拠という訳で(笑)。
でも皆さん、どんなお仕事にだってそういう事はありませんか?
最前線でお仕事に励まれている「ネヴュラ」読者の皆さんなら「ここ一番」的なピンチも経験されている筈。でもそんな時不思議と湧いてくる力、困難を楽しんでしまえるような気力は、皆さんが本来持ち合わせている素晴らしい能力が「タイトロープ・ハイ」によって顔を出したものなのかもしれませんね。

「オタクイーン、そんな力に頼るようじゃまだまだだな。」
皆さんのお言葉が聞こえてきました。ごもっとも。
まだまだ甘えの多い私のたわごととお笑い下さい(笑)。

2007年7月13日 (金)

姿なき挑戦者

「お金ないからなー。」
お店でNTT担当者の説明を聞き、ため息をつきながら閉じた案内パンフ。

私は今、部屋にはケーブルテレビしか引いていないので、光回線でより豊富なチャンネル数のスカパーに変えようと思ったのですが。
予想以上に予算が必要で。貧乏な私には一考の必要が(涙)。
まー私の貧乏話はともかく。

Photo_1021 その「スカパー!光」今月の案内パンフはご覧の通り、「ウルトラセブン生誕40周年特集」と題して、CS各局で放送される特別編成の番組を特集しています。
「そーかー。セブンも今年で40年か。私も年をとるわけだよ。」
考えてみれば、「ネヴュラ」でさんざんお話している「Q」「マン」が41周年ですから、二作品の翌年制作されたセブンが40周年なのは当たり前で。
だったら今月7日の7時に特番組めばよかったのに。満田さんも画策してたんじゃないかとは思いますが。
放送枠が取れなかったんでしょうねー(笑)。

この手の情報に敏感な「ネヴュラ」読者の方々は既にご存知と思いますが。
今ネットではウルトラシリーズ最新作「ウルトラセブンX」なる番組の情報が飛び交っていますね。
私が見たのはその新キャラクター「セブンX」の頭部マスク(なんとボカシがかかっていてまったくフォルムがわかりませんが)と、いわゆる「撮影スケジュール表」。

キャスティングボードまでありましたからまあ信用できるんですが、ボカした頭部マスクとスタッフ間にしか流通しない撮影スケジュールをわざわざ流出させるあたり、円谷の戦略にしてはお粗末な気がしたりして。詳しい事は私にも分かりません。

まーそんな新作情報さえ流れるほど今年は「セブン」にとって特別な年ですね。「メビウス」で「マン」世界も一区切りつきましたから、円谷としてはもう一つの鉱脈と言えるセブン世界を広げる意味で絶好の機会なのかもしれません。

「ネヴュラ」読者の方々はうすうす感じていらっしゃると思います。「このブログでは「Q」「マン」についてはお腹いっぱい語るのに、「セブン」に関してはほとんど語られないねえ。」なんて。そうですよね。確かにバランスが悪いですね。
それもそのはず、私は「Q」「マン」と比べて、「セブン」への興味・愛情が極端に薄いからなのです。
別に嫌いじゃないんですが、例えば「Q」「マン」「セブン」の内二つを取れ、と言われたら、言い始めの「ふた」ぐらいで「Q」「マン」を取るくらいの興味バランスなんですね。これは好き嫌いのお話なので、番組の出来不出来とはまったく関係ありません。
セブンファンの皆さん、誤解なさらないよう。


私には二歳年下の従弟が居るのですが、不思議なものでウルトラ原体験をまったく同じ時期に(場合によっては一緒に番組を見ていたり)しているにも関わらず、私は「マン派」彼は「セブン派」なんですよ。
好きなウルトラメカも「ビートル派」「ホーク派」とはっきり分かれるんです。ですからこれは好みの問題としか思えない。「お互いの琴線の張り位置」が違うとしか考えられないんです。
ですから私も、数年前から無理にセブンを好きになる事をやめました。かつてLD-BOXを買い全話を再見、内容もほぼ把握しているにも関わらず「語る気にならない」という事が、人それぞれの嗜好の差を表していて面白いですね。

Photo_1026 とはいえ「ウルトラシリーズの最高傑作」とまで言われ、テレビスペシャルやオリジナルビデオ、さらに今回、新作まで制作されるほどの「セブン」ですから、その内容も時の重みに耐えうる素晴らしさだった事は間違いありません。
先日、メトロン星人やエレキングが「ウルトラセブン大賞」で選ばれた時も、最大公約数的な選ばれ方ながら納得したものです。でもそれぞれの出演作品の感触はと言うと・・・(笑)。
このあたりの「好み」についてのお話は、またいずれお話しする事としましょう。

さて。「セブン」と言えば、その番組立ち上げまでにさまざまな紆余曲折があった事は有名ですね。
「セブン」一番初期の企画書「ウルトラ警備隊」は、ウルトラヒーローが登場しないという意味で前番組「キャプテンウルトラ」を受け継いだ印象がありますが、これは「ネヴュラ」でお話した「マン」企画の萌芽「科学特捜隊」に極めて近い発想と言えます。しかしながらやはり「マン」で作り上げたヒーローの存在感は捨てがたかったのでしょう。
ただ、円谷スタッフは単純に「マン」の続編という方向にはシフトしませんでした。

次に作られた「ウルトラアイ」と言う企画では、主人公「諸星弾」(漢字表記なんですよね)は地球人の母とR星人の父の間に生まれたハーフという設定でM78星雲のMの字も出てきません。
「セブン」に登場したカプセル怪獣の設定はありましたが、このカプセル怪獣が「Q」「マン」に登場した怪獣というのが面白いところですね。企画書によると、その例としてレッドキング・アントラー・ペギラなどが予定されていたようですが、これはどちらかと言うと「怪獣のスピン・オフ」とでも言うような意味合いで、「マン」との世界観、いわゆる「ウルトラヒーロー」という設定の継承とは若干違うような気もします。

この企画では前述の「ウルトラ警備隊」も継承されていて、これは「セブン」で映像化されたイメージとほぼ同じ。おそらく「マン」に於ける科学特捜隊の拡大版という設定は、スタッフもイメージが掴みやすかったんでしょうね。
そして主人公・諸星弾は少年として設定され、このウルトラ警備隊メンバーが弟のように可愛がっていると表記されています。「マン」に於けるホシノ少年のようなポジションでしょうか。この弾少年がR星人レッドマンへの変身能力を有し、宇宙からの侵略者と戦うという図式は、「セブン」とほぼ同じと考えられます。

ただ「主人公が少年。しかも地球人とR星人とのハーフ」という、「マン」とはあきらかに異なる設定が、「セブン」の前身にあったという事は非常に興味深いです。やはり当時の円谷プロ文芸部は、「マン」との差別化を考えていたのでしょう。
この「ウルトラアイ」が叩き台になり「セブン」が生まれた事を考えるにつけ、スタッフの「常に前進しようとする意欲」がいかに強かったかが分かりますね。
局の意向など現実的な事情が無ければ、「キャプテンウルトラ」の後続作品は「ウルトラアイ」になっていたかもしれないのですから。


「マン」の傍系作品とはいえ、実際映像化された「セブン」はかなり「マン」との世界観の差を感じさせますが、その企画時、これだけの新機軸を盛り込もうとしたスタッフの意気込みがあったからこそ、「セブン」は単純なヒーロー交代劇とは一線を画するドラマ世界が生まれたのだと思います。
単純に「金城哲夫・市川森一のイデオロギーの差」だけで片付けられない差別化が、この二作品の間にはあるような気も。
(私なんかが偉そうに言える事でもないんですが(笑)。


Photo_1023 番組タイトル「ウルトラセブン」が、同時期に企画されていた原始人コメディー「ウルトラ・セブン」からのいただき、と言うのもファンの間で有名なお話ですが、この二作品にはまったく関連性が無い事も現在ではよく知られています。
まーこの企画、実写版「ドカチン」か「はじめ人間ギャートルズ」みたいなものですから、未来SFと言える「ウルトラセブン」とはまるで正反対の世界を描く作品だったんですね。(見てみたい気もしますが)。

さて。私が「セブン」について語れるのはこの程度です。勉強不足ですみません。こんなもんですよ私なんて(笑)。
さて。ここからは水を得た魚の気持ちですが(笑)、「セブン」放送開始の1967年、ひそかに進んでいた特撮テレビ企画があった事は皆さんご存知でしょうか。
まーご存知ですよね。もったいぶらずにお話しましょう。

私が「スペクトルマン」を始めとするピープロ作品に心酔している事は「ネヴュラ」でもお話しましたね。ピープロと言えば「ウルトラマン」と同時期に「マグマ大使」を制作、第一次怪獣ブームの口火を切った事でも知られています。
パイロット版のマグマの顔が井出らっきょに似ている事も(笑)。


Photo_1024 この「マグマ大使」の次のヒーロー作品としてピープロが意欲を見せていたのが、写真の作品「豹(ジャガー)マン」。パイロット版制作のみで「幻の作品」となった事でも有名です。
このパイロット版が私は大好きで。


特撮ファンの皆さんは「オタクイーンものすごく偏ってない?セブンがダメで白装束の黄金豹がいいなんて」と思われるでしょう。
ごめんなさい。もうこれは好みとしか言いようが無いんですよ。
設定などは割愛しますが、まあ後に「快傑ライオン丸」で登場する敵役「マントル帝国」と戦う伝説のヒーローってところでしょうか。もう私は大好き。
監督も「月光仮面」などを手掛けたベテラン・船床定男ですから、番組が実現すればきっと冒険活劇の香り高い、興奮度抜群の作品となった事でしょう。
怪獣マンドラー(後に「宇宙猿人ゴリ」に登場するゼロン)と戦う豹(ジャガー)マンの姿に、かつての「ウルトラマン」に近い興奮を感じてしまうのでした。


このパイロット版の制作が、「セブン」放送開始前後の1967年秋というのが大変興味深いところで。つまり、「ウルトラマン」「マグマ大使」で第一次怪獣ブームを起こした円谷プロ、ピープロは、ここへ来て別々の方向を目指したという事なんですよ。
そのターニングポイントとなった時期がこの67年秋。
今から40年前という訳です。


Photo_1025 結局「豹(ジャガー)マン」の企画は局には通らず、その直後ピープロは新たに「豹(ひょう)マン」という企画にブラッシュアップ。これもパイロット版が制作され、現在も私たちの目を楽しませてくれますが、この「豹(ひょう)マン」も良いですよねー。
あの「バンパイヤ」を彷彿とさせる変身シーンや、豹マンのどこか暗いヒーロー像がたまりません。

後に「鉄人タイガーセブン」あたりで具現化する数々の設定も「影を持つヒーロー」の魅力を増幅させていました。


「ウルトラマン」というヒーローを誕生させ、傍系の路線を押し進めた円谷プロ。「マグマ大使」から「豹マン」へと企画の転身を図ったピープロ。
オリジナルと原作物という出目の違いはあるにせよ、この二社の採った道には非常に興味深いものがあります。
こうして別々の道を歩いたこの二社が1971年「宇宙猿人ゴリ」「帰ってきたウルトラマン」で第二次怪獣ブームの口火を切ったというのも、何か因縁めいた偶然を感じて面白いのですが。


個人的には私は、円谷よりピープロの方法論、発想に心惹かれます。ピープロの作品にはほとんど「シリーズ物」がない。
常に新しい作品、前作を財産とせず「超えるもの」として捉える姿勢に共感するものがあるのです。

「メビウス」にて一応の区切りを見せた言わば「ウルトラ・サーガ」にも、今回の新作「セブンX」にもさほど興味が湧かないのは、私の中に「前作の設定をなぞっていては絶対にオリジナルを超えられない」という確固たる信念があるからです。
1967年、その企画がたとえ傍系路線に帰結したとはいえ、あれだけの高視聴率を獲得した「マン」の設定を一度リセットしようとした「セブン」当時の円谷スタッフの意欲を忘れて欲しくないと。

ただ、ここにはもう一つ大きな現実が横たわる事も忘れてはならないでしょう。
「傍系路線を採った円谷は生き残り、オリジナルで勝負したピープロは番組を実現出来なかった」という事も。
この事実を見れば、ピープロはビジネスとしてあきらかに失敗を演じています。でも私は思います。
「それでも挑戦し続けるべき」。


Photo_1027 ピープロ社長・うしおそうじこと鷺巣富雄氏無き現在、円谷とともに進む特撮プロダクションは数少ないですが、鷺巣氏のフロンティアスピリットを受け継ぐクリエイターがいつ現れないとも限りません。
「セブンX」に対抗し、特撮界に颯爽と登場する「挑戦者」の登場は、私のような者にとって今や待ちわびた期待の星。
決して「セブン」を否定するわけではありません。
強力なオリジナリティーを持ちシリーズ人気に頼らない新作が見たいだけなのです。


「セブンX」を脅かす「姿なき挑戦者」の登場。
これが今の特撮界には必要と思うのですが、皆さん、どう思われますか?

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2007年7月12日 (木)

君の瞳に乾杯

Photo_1020 そのスティックウエハース、タバコみたいだよ。
顔もボギーっぽいし。「カサブランカ」ごっこ?
じゃー私はバーグマンね。

おねーちゃん、うぬぼれもそこまでくるとツッこめないよ(呆)。

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2007年7月11日 (水)

雨の迷宮

そこは言葉も通じない、見知らぬ街。
通り過ぎる人々の顔はどれも無表情に凍り、私の存在など無視するよう。
迫り来る時間に焦りを隠せない私は、雑踏の中行くあてもなく歩き出しました・・・


・・・降りますねー。台風4号が梅雨前線に影響しているようで、西日本では各地で大きな災害も出ているようです。被害に遭われた方には心中お察しいたします。
私の住む地方も、ここ数日は雨が降ったり止んだりで。空はこの時期ならではの曇天。室内でお仕事をしていても、外を走る車の音で雨の降り出しが分かります。
今年の梅雨は例年にも増して雨が続きますね。
カラ梅雨も困りますが、はっきりしないお天気も予定が立たなくて困ります。
ここ数日、スリラーだのサスペンスだのウェットな話題が「ネヴュラ」に多いのも、このお天気が私の心に影を落としているからなのでしょう。

「ネヴュラ」でも何度かお話していますが、私は結構雨の雰囲気が好きなんです。物憂い感じと言うか、力を入れずに過ごせる心持ちと言うか。
突き抜けた晴天の時とはまた違った回路が頭の中で働くようで、創作されるストーリー(いつものおバカな妄想ですが)も、晴れの時とは明らかに違うテイストがあります。

担当番組の台本も、後で読み返して「これは雨の日に考えたな」と思い出すほどその差が大きい。
でもそれは作品の優劣ではなく「物事に対するアプローチの差」のような気もしますね。
例えば「金属質の輝き」という画面を言葉で表現するとしても、晴れの日なら「太陽の光を集めたような」と発想するところを、雨の日は「その艶は深く冷たい氷層のように」などと発想してしまう。
表現にどこかお天気の印象が出てしまうんですね。

と同時に、私の深層心理には、どこか雨に対する「不安感」があるような気がします。暗い空。人間の視界や行動をやや制限させ、その量によっては大きな災害を引き起こす雨。
不安感のある雨を好き、というのもおかしなお話なんですが、私の悪い癖で「この不安な感触を何とか映像に定着させれば、それなりの作品ができるんじゃないか」なんて「ディレクター脳」が働いてしまうんですよね。

皆さんお考え頂くと分かりやすいんですが、「雨の印象」って映像化しにくいものなんですよ。「雨の画面」じゃなくて「雨」という物が持つジメっとした印象。
例えば晴天の場面ばかりが続くのに、どこか「濡れた雰囲気」を持つ作品ってありますよね。フランス映画などはその典型だと思います。ルイ・マルの「死刑台のエレベーター」(1957年)なんて、雨のシーンは印象に残らないのに画面は「濡れている」。

雨の不安感は、どこか道に迷った時の不安感に似ているような気がします。普段見慣れている街並みが雨によってその色合いを変える。ビルの壁、車のボディー。傘に隠れた人々の面持ちも淀んだ空に沈むようです。
「知っているはずの風景が違って見える」深層心理に訴えかけるこの不安な感覚は、私の場合、ある昔の体験に繋がります。

「ネヴュラ」でもお話しましたが、私は以前、香港を訪れた事がありまして。
その時一度だけ、街の裏路地で道に迷った事があるのです。
冒頭の下手な一文は、その時の感触を思い出したもの。


お恥ずかしいお話ですが私はものすごく方向音痴で(笑)、どんなに行き慣れた場所でも間違えてしまうほど道を覚えられない大馬鹿者なのです。
ですから初めて訪れる土地など地図を持っていても危ないほど。
地方ロケの時など、宿泊したホテルから半径500メートルも離れたらもう戻れない(笑)。「それでよく車が運転できるねー」なんて言われる程、道覚えが悪いんですよ。
そういう大馬鹿者が、言葉も通じない香港の街で一人置き去りにされたら。
これはもう「二度と日本の土は踏めない」なんて絶望感に打ちひしがれてしまうのも無理はないと(笑)。

海外、特にアジア系諸国の雑踏を体験されたご経験のある方はご存知と思いますが、あの雰囲気って一種独特のものがありますよね。「ベクトルの分からないエネルギー」とでも言うか。
生命力には溢れているんだけど、きっと話が通じてもその信念は私たち日本人にはちょっと理解できない、みたいな。日本人同士なら話さなくても目を見れば通じ合える。でも彼らにはそれが通じない、そんな感じ。

私が迷ったのは香港の中心街、今にしてみればさほど入り組んだ所ではなかったんですが、その時はおタクの悲しい性か「海外でしか手に入らないオタクグッズ発掘」に夢中になっていまして(笑)。怪しい雑貨店や路地裏の小さな模型店を探すうちに、どんどん見知らぬ場所へ入り込んでいってしまった訳です。

気がつけば自分が来た道さえ分からない。そりゃそうですよね。店先のおもちゃばっかり目を皿のようにして見ていたんですから、そこに至る道なんて覚えている訳がない。
慌てましたねー。もともと国内でも道に迷っちゃうおバカですから。ましてや広東語が飛び交う香港の真ん中、それもアーケード街の路地裏ですよ。
その不安感、恐ろしさは筆舌に尽くしがたいものでした。この時は団体でのバス移動、バスの集合時刻も決まっていましたからそれこそ気が気じゃない。携帯電話などまだ普及していない頃ですから連絡手段もない。打つ手が無いんですよ。


脳裏に浮かぶのはお仕事の仲間から聞かされた脅し文句。
「香港は危ない街だよ。全島で香港ドルと英語が通じると思って路地裏へ歩いていったら、どんどんドルも英語も通じない場所になっていくんだ。いわゆる地元の人たちの生活圏に踏み込んだ訳さ。そこでは今でも「元」と広東語しか通じない。警察も踏み込めない一種の治外法権なんだよ。香港を歩く時は気をつけたほうがいいぜ。」
私が彼の地を訪れたのは1989年、丁度昭和と平成の境目でした。まだ中国返還前の香港はこんな脅し文句がリアリティーを持つまさに「魔都」。「九龍城砦」の悪名もまだ耳に新しい頃だったのです。
その前夜雑踏を歩いていた時、持っていたビニールバッグをカッターナイフで切り裂かれ、戦慄した記憶がフラッシュバックのように頭をよぎります。


「とにかくアーケードを出ないと。」歩き出した私の目の前に、心配して探しに出た現地のガイドさんの姿を認めなければ、私は今こうして「ネヴュラ」を開設など出来なかっただろうと。バスで待っていた仲間の顔は不安と怒りに震えていましたが(笑)。
そんな訳で、結果的にその顛末は大した事なかったんですが、それでもその時味わった「海外一人置き去り状態」の不安感は、今でも私の中で「恐怖の引き出し」として息づいています。しかしながらこの時感じた不安や恐怖感は、実はある映像作家の諸作に非常に近いものがありました。

アルフレッド・ヒッチコック。「ネヴュラ」にも何度も登場している名監督です。
私はこの香港行き以前にも彼の諸作の鑑賞経験があるのですが、この「置き去り」経験以後彼の作品を観る度に、その思いを強くします。
ヒッチ作品の大きな特徴である「主人公の主張を周囲の人間が理解しない」「もがいてももがいても真相にたどり着けない」感覚の基となる「悪夢感」。それが私の経験に大きく同調しているのかもしれません。

いざ思い出してみると、その香港経験は結構貴重だったような気も。国内では絶対出来ない経験ですもんね。何より情報量の少なさが違う。いかに漢字圏とは言え「何丁目何番地」なんて整備もされていない路地裏、真っ直ぐ歩けば看板に激突しそうな狭い道です。日本なら言葉も通じるし標識だってある。
不安の度合いが違うんですね。
これがきっとヒッチの諸作品に流れる「悪夢感」に繋がっているんだろうなー、なんて考えちゃったりします。
私は「北北西に進路を取れ」(1959年)を集大成とする、いわゆる「巻き込まれ型サスペンス」に特に魅了されますが、それはカット割りやカメラワークなどヒッチの目が切り取った「甘美な悪夢」に強く惹かれるからなのかもしれません。
彼のフィルムにはいつも「この世の出来事を超えた怖さ」が定着されている。それはストーリーや採り上げる題材を問わず、テクニックに裏打ちされた「怖い夢の再現力」とでも言うべき才能ゆえなのでしょう。


皆さんも思い出して頂けばお分かりと思います。「今まで一番怖かった夢」という物を覚えていらっしゃると思いますが、その夢は必ずしも理にかなっていませんよね。
私は高所恐怖症なので(今日は弱点ばかりお話しますが(笑)高いところで崖っぷちに立つ夢を見る事がありますが、それにしたって別に具体的な場所じゃない。「どこかの崖」だったりするんです。
そういう「場所やシチュエーションにはリアリティーが無いけど、怖さだけが突出している」という恐ろしさが、ヒッチ作品にはあるんですよ。

そういう意味でヒッチ作品には、現実に縛られているようで縛られていない「夢的なリアリティー」が定着されているのでしょう。


いくつかの文献に書かれていますが、ヒッチコック本人は大変小心者だったという事です。それは同じ小心者である私にはよく分かります。
気の強い人間にはああいう恐怖は描けない。「悪夢に怯えている側」だからこそ、ああいうまさに夢に出そうな恐怖が描けるのではと。


実は、昨日からつらつらとヒッチの諸作品を再見しています。
今回は巻き込まれ型を中心に鑑賞したい気分です。
数作品鑑賞してまた新しい発見がありましたら「ネヴュラ」でもつまらない感想などをしたためるつもりです。

こんな気分になったのも、ここ数日の雨のせいかもしれません。
ヒッチが誘う「雨の迷宮」にちょっと心を委ねたい、梅雨の夜ですね(笑)。

惨事のあなた

Photo_1015 ペットを見れば

Photo_1018 飼い主がわかると言いますが

Photo_1019 それは当たっています。

たすけてよーお姉ちゃん。
このおバカ加減、もー自分を見てるようで。
それ、中で走るものでしょ。
(午前3時。夜中のおやつでした(笑)。

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2007年7月10日 (火)

アクセス障害回復のお知らせ

「ネヴュラ」をご覧の皆様へ。
本日7月10日、サーバー「ココログ」のシステム障害・復旧作業の為、23時30分頃までコメント・トラックバック投稿が不可能な状態が続いていました。
(事前連絡も無くログインも不可能だったので、私自身も記事投稿が出来なかったんですよ(涙)。

復旧作業中コメント・トラックバック等を試みられ、怒り心頭になられていた方々がいらっしゃいましたら、大変申し訳ありませんでした。
現在は通常通り投稿可能ですので、今まで通りよろしくお願い致します。

(心配する程コメントは無いとわかっていても、つい気になっちゃう弱気な私(笑)。

2007年7月 9日 (月)

脳内スリラーへの誘い

先回「必殺」についてお話した影響で、昔自分が考えたオリジナルストーリーを思い出しました。
本当にバカみたいな筋書きですが、意外と気に入っています。

凄腕の仕事師として名を馳せる主人公の前に立ち塞がった敵組織の用心棒。その相手は主人公を凌駕する殺しの腕に加え、人間離れした非情さを持っていました。女子供さえ躊躇無く手にかけるその非情ぶりはまさに悪鬼のそれ。
人間らしい優しさ
を捨てきれない主人公は、その対決場面で相手に一歩遅れをとります。
一瞬の間を突いて襲い掛かる相手を見た主人公は驚愕しました。用心棒として敵組織に雇われていた男は、かつて主人公と仕事を共にした仲間だったのです。
相手の男にとって殺しとは仕事ではなく、既に「業」と化していました。言わば殺人ジャンキーとなってしまった彼に、主人公は大きな戦慄を覚えます。

「殺しを楽しむようになっちまったらもう人間じゃねえ。俺は人間になら勝てるかもしれねえが、奴には勝てないような気がする・・・」

物語のクライマックス、主人公は「有り得ないような手段で」(ここは秘密です)相手を倒す事に成功するのですが、このお話のテーマはここから。
主人公は思います。
やっと倒せたこの男と自分のどこに差があるのか。殺しは仕事と割り切っていても、自分もいつかこの男のように殺しを楽しむようになってしまうかもしれない。

いや。もうなってしまっているのかも。

この最後の一行、「もうなってしまっているのかも」という部分に全てが集約されています。
主人公がこの「危ない領域」にハッと気づいてしまう瞬間。
そして彼を包む、どうしようもない絶望感。

ここに私が感じる「必殺」のテーマ、そして人間の業に対する恐れがあるのです。

・・・とまあ、こんな辛気臭いお話なんて誰も見たくないでしょうね(笑)。
このオリジナルストーリーに限らず、私は人間の心の奥底に潜む「理性に裏打ちされた恐怖」みたいなものに大変関心があります。
以前、「自分が感じる恐怖はお化けなどではなく、もっと即物的なもの」とお話した事がありましたが、私はそんな即物的な恐怖の一方でそんな「脳内スリラー」とでも言いたくなるような恐怖を味わう事も好きなのです。
まだお盆までには随分ありますが、今日は普通の怪談とはちょっと趣を異にする「心の闇」についてお話しましょう。
とは言え所詮私のようなおバカのお話ですから、さほどご期待には沿えませんが(笑)。

「脳内スリラー」と聞いて私などがまず思い浮かべるのは、江戸川乱歩の世界ですね。
乱歩の小説はどれも人間の心の闇を描いていて私は非常に好きなんですが、中でも初期の短編に心を惹かれます。

「二銭銅貨」「心理試験」「お勢登場」など、皆さんも一度は目にしたであろう名作の中で、私の心に大きく残っている作品が「鏡地獄」(「大衆文芸」大正15年10月号発表)でしょうか。
未見の方の為にストーリーは伏せますが、これは簡単に言えば「鏡という、物を反射するもの」に興味を持った男のお話です。彼の鏡への興味は日を追うごとに深まり、ついには驚愕のラストを迎えることになるのですが、私はあのラスト、彼が覗いてしまった世界に非常に心惹かれます。
(あー言えないのがもどかしい(笑)

実際あんな世界の中に閉じ込められたら。
人間が見てはいけない物を見てしまうのではないかという恐れ、そしてそれを見ずにはいられない甘美な誘惑。

勿論これは小説ですから、その様子は文章でしか表現されていません。ですがその光景を想像してみること、そのビジュアルショックの恐ろしさ。これは人間が作り出した鏡という道具が映し出す「心の闇」に他ならないような気がするのです。
「鏡地獄」は今でも、乱歩全集のどこかに必ず収録される名作です。文庫本で手軽に手に入れられますから、未読の方はぜひご一読を。

乱歩とは別に、「心の闇」の想像力を掻き立てられる小説を昔読んだ事があります。それも短編のスリラーで、ある団地の高層階、ある部屋のベランダから外を見ると、往来を歩いている人の「心の姿」が見えるというお話だったように記憶しています。
その「心の姿」というのは見られる人間の本質を映し出すらしく、或る者は美しく、又或る者は醜く見えてしまう。しかも見られる本人が「自分は平凡、清廉潔白」と信じていても、その本人の意識外の本質が映し出されるため、実は醜い人間と見える事もある訳です。

ある日の朝、その部屋に住む夫婦のご主人が出勤しました。
ベランダからご主人を見送った奥さんは、彼の姿を見るなり悲鳴を上げてベランダから転落、命を落としてしまったのです。
ストーリーは彼の独白で終わっています。
「彼女は俺のどんな醜い姿を見たのだろうか。俺は彼女の目にどう映ったのだろうか。」

このお話も人間の意識外の本質を映し出すという意味で、私の心に強く残っています。
これも小説ですから、彼がどんな姿に見えたのかは読者の想像に委ねられます。
これがえもいわれぬ余韻となっているんですね。

こういう創作物が描き出す心の闇とは別に、日常生活に潜む恐怖を妄想してしまう事もあります。
これは何かの本で読んだので、皆さんもご存知かもしれませんね。
砂漠で道に迷った人のお話です。彼は一人行く当てもなく砂漠を歩きます。自分の位置を示すような目標はまったくなく、周りは見渡す限りの砂丘。
とにかく真っ直ぐ行けばどこかにたどり着く筈、と彼は歩を進めますが、そこで恐ろしい妄想に捉われます。

人間の足は左右同じ歩幅ではない。一歩ずつの歩幅が微妙に違えば、何キロも歩くうちにその差は大きなものになるだろう。自分では直線を進んでいると思っていても、こんな道しるべもない砂漠の中を歩いていたらいつか歩幅の差が大きくなって、曲線になっているのではないか。とすると、自分はこの砂漠の中を大きな円を描いて永遠に歩いているだけなのでは。
実際にはそんな事はないのかもしれません。しかしそんな妄想に捉えられた瞬間、彼を「心の闇」が支配するのです。絶望感に打ちひしがれた彼を救える者は居るのでしょうか。

「心の闇」は他にもあります。
これも何かで読んだお話ですが、例えば完全犯罪を実行した人物が居たとしましょう。彼は一部の隙も無く証拠も残さず、警察の手も及ばない犯罪を成功させました。その手口は独創的で、かつて無いほど素晴らしいものでした。
捜査の手も振り切り、絶対安全な立場となった彼の心に一つの隙が生まれます。
「かつてここまで完全な犯罪を成功させた人物は居まい。これは一種の芸術だ。」
さあ。自分を「犯罪の天才」「法の超越者」と思い込んだ彼は、次にどんな思いに捉えられるのか。彼はこう思ったのです。

「この、自分の独創的な完全犯罪の手口を白日の下に公表したい。その芸術には賛美の言葉がふさわしい筈だ。」

完全犯罪である事、すなわち自分が犯人とは名乗れない。しかしその天才的ひらめきは何としても公表したい。彼はそこで恐ろしいジレンマにさいなまれる事になるのです。
悶々とした日々が続きます。そしてある日。
彼はついに、都心の真ん中、最も往来の激しい場所に立ちすくみ、大声で自分の犯罪を発表してしまう。
黙っていれば一生安泰で暮らせた彼。しかし彼は、その安泰を自尊心が越えてしまった。その瞬間にこそ、計り知れない人間の「心の闇」が顔を覗かせるような気がするのです。

これらのお話は全て創作物なので、まずこんな事は起こらないでしょう。ですがこういうお話を聞いて「ありえないよ。こんな事」と一笑に伏す事が出来ないのは、どこかにこういう「心の闇」の恐れ、人間の奥底に潜む本質を捉えているからのような気がするのです。

ここ数年、私は映画やテレビのスリラー作品を少しも怖いと思わないのですが、その背景には「これは作り話」的な形で逃げてしまう作風、人間の本質に訴えかけてくる力の弱さがあるような気がします。
実際これらのお話は随分前に読んだものですが、今も私の中で「黒い輝き」を放っているものばかりですから。
こういう怖さを作品内に取り込めば、何もホラー的演出やキャラクターを出さなくたって凄いものが出来るような気がするのですが。

夜も更けてきました。
こんな事を考えながら床に就くと、またうなされそうですね。でも私はそういう夢もラッキーに思うタイプなんですよ。

「極上の脳内スリラーを見ちゃった。ヒッチコックやクルーゾーに勝てたかも」なんて、あらぬ自信に喜んじゃったりしますから。
例によっておバカな、夏の夜です(笑)。

2007年7月 8日 (日)

右手の刃が鈍る訳

「ダイ・ハード4.0?」
今朝からちょっとそんな気分の私。なんと、私の住む地域のNTTサーバーが今朝から午後2時頃まで不調で、ネットがまったく繋がらなかったのです。そうとは知らず自分のパソコンやモデムの故障と思い込んだ私は、メーカーはじめあらゆる所に電話しまくり。
最後にかけた修理依頼のサービスセンターで事の次第を知り、ほっと胸を撫で下ろした訳です。
「サーバーの問題だったんだ。いやー一時はサイバーテロかと。」

そんなこんなで午前中はやきもき、午後はバタバタでもうこんな時間です。本当に時間を浪費した一日でした。
まーそんなアクシデントもたまにはあります。とにかく今記事を書ける事がなにより有難いと(笑)。

さて今日のお話、サブタイトルの「右手」を「めて」と読まれた方には既に内容はお分かりと思います。まータイムリーなネタですし、「ネヴュラ」読者ならひょっとして昨日から予想されていたかもしれませんね。そうです。そのお話です。
昨夜放送されたスペシャルドラマ「必殺仕事人2007」。
ご覧になった方も多いかもしれません。

この番組、随分前に完成していたらしいのですが、何故か放送までに随分時間がかかりましたね。ファンの間ではいつ放送されるのかが話題の中心でした。07年7月7日という大変縁起の良い日に放送日を持ってきたのは制作側の意図か、はたまた単なる偶然だったのでしょうか。朝日放送の山内プロデューサーなら考えそうな事ですが今回は違う方ですし(笑)。

多くの皆さんは「昔の必殺が好きなオタクイーンの事だから、きっとこの番組をボコボコにするんじゃないの?」なんて思われている事でしょう。
でも、意外とそうでもなかったりして(笑)。

こういう番組に対して怒りを覚えなくなったのは私も年をとった証拠かもしれませんが、正直な所「あ、それなりに頑張ってるな」というのが鑑賞後の印象でした。
それはファンとしてだけでなく、いろいろな思惑をない交ぜにしつつ作品を作らねばならない制作陣の思いが透けて見えてしまう、悲しい性ゆえなのかもしれません。
ご覧なった皆さんはどんなご感想をお持ちになられましたか?

今日このお話をするに当たって、「仕事人」をキーワードに感想が書かれたブログをざっと検索してみました。(番組公式サイトの掲示板も見ましたが、やっぱり投稿する人ってご贔屓筋すぎてあまり参考にならず(笑)でも今回に関して言えばもう制作側の思惑は大成功。朝日放送のしたたかな戦略は見事に功を奏したと言えます。
ご興味ある方は検索してみて下さい。その9割はジャニーズ3人出演について、その内また9割が大倉忠義にキャ~、という女性ブロガーの感想だったのでした(爆笑)。
良くも悪くもこれが現実。そして視聴率アップの最短手段なのです。
掲示板ではごくまれに旧必殺ファンの方から「あれは必殺じゃない。昔のテイストの必殺を見たい」的なご意見がありましたが、この場をお借りして言わせて下さい。
「そうおっしゃるからには、貴方の頭の中にはさぞや素晴らしい「昔の必殺テイスト」のオリジナルストーリーがおありなんでしょうねー。」
旧必殺を支えた名匠たちが第一線から退いて久しい現在。今、旧作のハードなストーリーを作品化する事は、いかに現場スタッフの充実を図っても至難の業なのです。「スタッフは昔の必殺を見ていない」というご意見に至っては失笑もので。その発言が出た段階で、投稿者の素人ぶりが白日の下に晒されてしまうのです。投稿者は今作の監督をご存知無かったようですね(笑)。

ここで難しいのは、前述のような筋金入りの旧必殺ファンの(憤懣やるかたない)立ち位置なんですが(笑)、実はこれはまるで筋違い、ゴジラファンがUSA製ゴジラに向かって「あれはゴジラじゃない」と言っているようなものじゃないかと思います。

たとえ藤田まことが中村主水を演じていようと、要所要所に「荒野の果てに」が鳴り響こうと。あれが「必殺」と思うから腹が立つのです。
あれは「必殺に似た何か」(笑)。

おそらく旧必殺ファンはその思いを、1982年あたりの「仕事人ブーム」の頃からずっと抱き続けてきたと思います。ですから今回の特番もまったく期待していなかった筈。
実は私もそうですから。
こんな時、旧ファンはこの言葉を呪文のように唱え、自分を納得させていました。

「あれは『仕事人』。『必殺』じゃない。」

面白かったのは前述の検索ブログの内容で、全体の傾向として「新仕事人」あたりを知っている事が既に通、マニアという共通認識があるんですよ。
「大倉君は三田村邦彦に比べたらまだまだねー」みたいな。
しかも、ストーリーについては「暗い」「もうちょっと笑いがあっても」というものが多い。
これは、現在テレビ番組を支持するメイン視聴者の層を把握する上で実に興味深い事だと思います。

今、必殺という言葉に反応する層の大部分はそういう年代なんですね。
制作陣はこのターゲットを実に正確に把握し、ど真ん中ストレートのおいしい料理を作って差し出した訳です。
これは視聴率を上げる為の措置としては実に正しい。

私はこの姿勢を実に潔いと思いました。
実際のところ、旧必殺ファンや私のようなコテコテのマニアに受ける番組を今作っても、昨日の作品ほど話題にはならなかったでしょう。これは今の視聴者が「必殺」という番組に持つイメージが、ジャニーズメンバーが出演する事(前述のファンには東山氏なんて既に眼中に無いんですが)を差し引いても、「明るく笑えるストーリー」「華麗でカッコよく、浮世離れした殺しのシーン」などである事を如実に表しています。
いいんじゃないでしょうか。これはこれで。

ところが昨夜の「2007」、これで終わるほど単純な構造ではないと、私のようなおバカは考えてしまいました。
今回、私が着目したのは二点。そして最近の必殺が抱える「パワーバランス」が一点。
一つ目の着目点は「脚本」です。

今回、この「2007」に関しては、おそらく殺しのシーンを完全に「別コーナー」と割り切って、それ以前のドラマに心血を注いだ形跡が見られます。
セリフの端々に、ソフトにくるんでいるものの旧必殺ファンへのさりげない目配せがあるのです。

例えば花御殿のお菊(和久井映見)に呼び出された中村主水(藤田まこと)が彼女に進退を尋ねられ、諦め気味に放つ、
「役所勤めが終わったらな。家、出てってくれって言われてんだ」というセリフ。
旧必殺ファンならこんな八丁堀は見たくない。でも彼にそんな無様なセリフの中に「もう昔の必殺ではないんですよ」という脚本家からのメッセージが見えます。

逆に、今回の犠牲者の一人となる小料理屋女将・薫(原沙知絵)が、夫の仇加賀谷玄衛門(佐野史郎)の前で自害直前に放つセリフ。
「お前達のこの屋敷、私の血で汚してやる。私の血はこの雨と共にこの庭に染みこみ、屋敷中に行き渡る。やがてこの加賀谷は崩れ落ちる!」
この一言に込めた、虐げられた女の凄まじいまでの怒りと怨念は、仕事人ブームの頃の作風とはやや趣を異にすると思います。どちらかと言えば旧必殺、「仕置人」あたりで出てきそうなセリフです。

今作の脚本を担当した寺田敏雄は「エスパー魔美」などのライターとして知られますが必殺は初登板。
彼は旧必殺ファンだったのではないでしょうか。
脚本は制作主である朝日放送、テレビ朝日の意向を組み入れて作るものだけに現在の視聴者ニーズに逆らう事は出来ませんが、その枷の中に彼が密かに入れ込んだ「旧作へのリスペクト」(オマージュではなく)を見逃さないのも、ファンに与えられた特権のような気がします。

二つ目の着目点は「美術・照明」です。
「2007」は必殺初となるハイビジョン撮影でした。フィルムとは大きく異なり、細部まで捉えられてしまうこの撮影方法により、美術や照明の立て込み、作りこみにも相当な手間がかけられたのではと推察します(冒頭の火事シーンの迫力、要所要所のクレーンカットの素晴らしさも含め)そういう意味で、画面作りに関する限りこの作品には破格の予算が投入されているのではと思います。
照明機材の豪華さも尋常ではない。私は特に、仕事人たちのアジトとなる「三番筋の裏通り、尼寺裏門近く」の美しさには息をのみました。稚拙な表現ですが、さながらAFVモデラー・バーリンデンが自作モデルに施すドライブラシにも似た「光の階調」をあの照明に感じたものです(ワケがわかりませんね(笑)。
照明・林利夫、美術・原田哲男の見事な仕事ぶりを見るだけでも、この作品の価値は充分にあると感じました。

さて。やや褒めちぎってきましたが、問題は最後。
「最近の必殺が抱えるパワーバランス」についてです。

関係者の方がご覧になられていたらお許し下さい。あくまで個人的な感触です。
「必殺商売人」で監督デビューし、「必殺始末人」あたりから顕著になってきた石原興監督の作風についてですが。
カメラマンとして必殺初期からシリーズを支えてきた石原氏は、今や必殺スタッフの中でも最古参の一人に数えられる存在。

テレビ屋の端くれとして申しますが、番組というのは古くから関わってきたスタッフの発言力が年々増していくものなのです。「この番組はこういうスタイルなんだから」という意見は、新スタッフには反論しにくいもの。
これを「番組の動脈硬化」と言います。
必殺にも、この動脈硬化が起こっているような気がするのです。

その元凶が石原氏一人とは言いません。しかしながら石原作品を見るにつけ、良くも悪くも彼の個性が作品の品格に影響していると感じるのは私だけでしょうか。

それは「簡潔すぎるタイトルバック」
「カット頭からアクション始めまでの「間」の短さ」
「無理矢理なインサートカットの挿入」
「余韻の無いエンディング」などなど・・・

これらを見るにつけ、私は以前お仕事を共にしたカメラマンのセリフを思い出します。
彼はこう言いました。「カメラマンは絵が可愛い」。
つまり、カメラマンは自分が撮った映像に惚れこむ。それが編集によって不要なカットになる事が耐えられない。ストーリーを犠牲にしても惚れた映像を使ってもらおうとするんです。

カメラマン出身の石原監督にも、そういう「ストーリーより絵を優先」という匂いが若干見られるような気がするのです。あくまでも私の印象とご理解下さい。
ですから今回の「2007」も、一つ一つのカットは本当に凄い。正直、ここまで凄い映像はテレビでも少ないでしょう。でも編集がちょっと辛い。人間の生理に合っていないような気がします。

例えば前述の「薫の自害」シーン。
(番組開始後1時間18分頃です。録画された方はご覧下さい。)

本来私の生理なら、この薫の「恨みの遺言」はワンカットで押していくか、センテンスごとに3カットに分けられると思います。
ところが完成作品では2カット、それも最後のセンテンス「やがてこの加賀谷はく」でカットを割って「ずれおちる」でややアップのカットとなっているのです。

これはおそらくカメラのピント合わせの問題、もしくはドリーの限界だったと推察されますが、私はあの繋ぎでせっかくのエモーションが断ち切られてしまった。
こういう場合、現場ではロング、アップ両カットともセリフ終わりまで収録し、後に編集で繋ぐのが定石です。そうしなければ微妙なセリフの「間」が再現できないからです。ですからおそらくあのサイズ違いの2カット、原沙知絵はセリフを最後まで言っているはずなんです。どこを編集ポイントにしても成立する筈。
しかし石原氏はああ繋いでしまった。これはやはりカメラや機材の事情など、「絵」を優先させる石原氏の思惑が絡んでいるのではと思えてしまうのです。

ちょっと専門的なお話になってしまいましたね(笑)。このカット割りの事情にお詳しい方、ご意見ぜひお寄せ下さい。私も勉強させていただきたいと思います(笑)。
カメラマンと監督の才能は似て非なるものと私は思います。まれに両方の才能を併せ持つ逸材も居ますが、その多くはどちらかの素養への傾向が強い。これは良い悪いの問題ではありません。どちらも映像作品には欠くべからざる才能であり、その両輪がうまく作用しなければ作品は成立しないのですから。

「必殺」のお話からちょっと外れてしまいました。いつもながらおバカな私。
でも今回の「2007」、決して出来は悪くないと思います。
ですが「良い悪い」と「好き嫌い」は別で・・・
「勢いは買うけどベクトルが違う」という感触でしょうか。
私の「旧必殺好き」は、もう治らないようです(笑)。

2007年7月 7日 (土)

短冊には一行「ダイエット」

木曜日の記事の件、無事解決しました。
やっぱりお仕事にはこだわりが必要ですね。
スタッフも分かってくれました。訂正も滞りなく。
皆さんにはご心配をおかけして申し訳ありませんでした。

Photo_1002 さて。悩み事も解決、
気分も晴やかな七夕の朝。
今朝のごはんはテーブルロール、
と思ったら。



Photo_1014コタちゃん。
寝姿がすでにモノマネに。





Photo_1004 おはよ。あんた太った?
だってごはんおいしいもん。

Photo_1005そんなんじゃあ彦星に嫌われるよ。
ちょっと体重を計ってみようよ。
えーっ、全国的に体重発表するの?
はずかしいよ。


Photo_1010
あっ、デジカメのストラップを。あとでパンあげるから(笑)。

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2007年7月 5日 (木)

汗も凍てつく不安の一夜

今、夜10時すぎ。外はさほど暑くはありません。
でもパソコンの前に座る私の額には、冷たい汗が。

今日のお話は本来「ネヴュラ」向きではないかもしれません。
ですから今夜の記事は純粋に「記録」として書きます。

いつもの私の癖です。
お仕事でおかしな点を発見してしまいました。
アナウンサーの、ナレーション原稿の読み間違いです。
大した部分ではないのですが、私はどうしても録り直したい。
私の担当番組だからです。

つまりナレーション収録時の、私のチェックミスでもあった訳です。私も悪い。それは認めます。
今、局にお詫びと共に録り直し進言中。

黙っていれば、オンエアされても誰も気づかない部分です。
でも、その言葉は私が書いた原稿とは違う。
たとえ一言でも自分の意に沿わない言葉は納得できない。
気持ち悪い。
現在、局の上層部で録り直しの是非を検討中との事。

先日の記事にも書いた通り、私のお仕事にはこういう局面がいつも付きまといます。
でもブログと同じく番組の台本は一言一句考えに考えて紡ぐもので。私にとっては命にも等しいものなのです。
ですから絶対に妥協できない。
たとえ録り直しができなくても、進言だけはしておきたかったのです。
テレビ屋の大人気ない意地とお笑い下さい。

結論は明日です。
数少ない読者の皆様。そんな訳で、明日この一件が片付くまでちょっとコメント返しが滞ってしまう事をお許し下さい。

梅雨明けも真近です。今年は猛暑との事。
皆さんも体調などにお気をつけて。
私は今夜、眠れそうにありませんが(笑)。

2007年7月 4日 (水)

ハニカミ玉子

Photo_992コタちゃん、聞いて聞いて。
どーしたの?寝てたんだけど。




Photo_993今日、ウォーキングでいつもの公園へ行ったのよ。
そしたらいつもより人が多いじゃない。どーしたのかと思ったら。




Photo_994 なんか案内が出てるのよ。
取材クルーも来てるし。そしたらさー。
Photo_995 これこれ。
公園の隣のカントリークラブがアマチュアゴルフ選手権の会場だったのよ。昨日から。
そういえばテレビで中継やってたし。
Photo_997 という事は。
あの石川遼くんが来てるって事なのよ。人も多い訳だよねー。




Photo_998
ふーん、そうなの。
あれ、意外にノーリアクションね。
ハニカミ王子だよ。今話題の。




Photo_999
わたしはこっちかな。
・・・あんたはやっぱり食欲か。
しかもせっかくの冷し中華より付け合わせの玉子焼きを(涙)。

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2007年7月 3日 (火)

「女が虎か」

いやーありがとうございました。
昨日のお話「人類最大の謎」へのコメント、大変面白く拝見させていただきました。
やはりコメント頂けるだけあって、どなたも大変しっかりしたご意見、お考えで感服しました。

皆さんのご意見があまりに素晴らしかったので、今日の「ネヴュラ」は昨日の続きをお話したいと思います。
「えーっ!あのお話に続きがあるの?オタクイーン嘘ついたな!」と思われた方、そうではありませんからご安心下さい。
また、昨日のお話をご存知無い方は、一日前の更新記事からご覧頂ければ今日のお話がよりご理解いただけます。

「女か虎か」というお話については、まさに昨日お話しただけの内容。あれ以上でも以下でもありません。ところが今回このストーリーを記事に上げ、皆さんのご意見を伺ってみて、予想もしなかった事がわかりました。
この「女か虎か」というお話は、読み手の恋愛観、人生観、さらに「ピンチに陥った時の脱出アイデア(それは物理的にも心情的にも)」を浮き彫りにするような効果を持っているんですね。

本当の事を言うと、私、皆さんのコメントにこれほどバリエーションがあるとは思わなかったんですよ。「たぶん「女性を選ぶ」というご意見が多いだろうな」くらいの感覚だったんです。ところがそのご意見の深いこと。お見それしました(笑)。
コメントってお人柄が出ますよね。常々頂いているコメントから「この人はこういう方なんだろうな」なんて想像してしまう事もあるんですが、今回頂いたコメントにも皆さんの個性がはっきり感じられて大変素晴らしい思いをしました。

コメントのアイデアそのものは意表を突かれていましたが、それとは関係なくいずれのご意見も私が想像していたコメンテーター像に近いものだったのです。
「なるほど。この人らしい考え方だなー。うんうん(喜)。」
なんて。
改めて「ネヴュラ」読者の皆さんの聡明さ、思慮深さに感服した次第です。

気まぐれでお話した「女か虎か」でしたが、予想外の展開に大満足でした(笑)。
ご意見はずーっと受け付けておりますので、「ちょっとオタクイーンをからかってやろう」なんて方、「女か虎か」に対してのお考え、どしどしお寄せ下さい(笑)。

さて。こういう展開になってくると皆さんのお考えをお聞きしただけでは申し訳ありませんね。「オタクイーン、人にだけ聞いといてお前の考えはどうなんだ?」とお怒りの方もいらっしゃるでしょう。私も読み手の立場ならそう思います。
実は、昨日の記事のラストで私の答えをボカしたのは、皆さんのコメントに影響する事を少し恐れたからだったのです。でも頂いたコメントを見て、改めて私の浅知恵を恥じていましたが(涙)。

ですから本当の事を言えば、昨日の段階で私の考えは決まっていました。で、頂いたコメントを拝見するにつれ、こういう局面でいかに千差万別の考えがあるかということを痛感しました。つまり、私の考えは皆さんと大きくかけ離れたものだったのです。
そして、改めて自分で出した結論を顧みるにつけ、「いやーこのお話って本当に人生観が出るなー」と思いましたね。
「なるほどー。生活の色々な局面でも、自分って確かにこういう発想するわー」って。


「もったいぶるな。早く言え」的な声も聞こえてきました(笑)。
ではもったいぶらずにお答えしましょう。でもその前に、頂いたコメントから感じた私の印象をお話します。

ただ、コメント下さった方、別にそんなに大げさなものじゃありませんから「たかがコメント一つで判断するな」なんて思われないよう。別に皆さんを試した訳ではありません。結果的にこうなったという事で。
皆さんのコメントに敬意を表し、つたない思いをお話させていただくだけです。
私ごときおバカの考え。コタのおならでも聞いた程度とお考え下さい(笑)。

この「女か虎か」というストーリーによってあぶりだされる「恋愛観」は、読み手の性別、性格、年齢などによって大きく左右されるような気がします。自分が王女の立場に立つか。青年の立場に立つか。あるいはその両方か。
さらにこの「処刑」のシーンが物語の結末なのか、それとも物語はこのシーンの後も続くのかによって発想も異なるような気がします。その後の王女様、青年の行く末に思いを馳せる事が「人生観」に繋がるのでしょう。
さらに、この「処刑方法」を「人生の一試練」「大きな選択の場」と考え、賢い選択に力を注ぐ事が「ピンチへの対処法」に繋がるのではないかと。
まー小説のオチですから必ずしもそうとは限りませんね。当たらずとも遠からずと言った所かも。

さて。お待たせしました。
私が考えた「女か虎か」のオチはこうです。


右の扉が開きました。
扉の奥からは、青年の身の丈をはるかに越える巨大な虎が姿を現しました。

どよめく群集。王女は顔色一つ変えません。
青年は勇敢にも、虎に向かって立ち向かって行きました。


その時です。闘技場の王座に佇んでいた王女が、闘技場へ向かって駆け下りました。
王女は青年と一緒になって、虎に立ち向かって行ったのです。

二人は闘技場に落ちていた石を使い扉の蝶番を壊し、外した扉を盾に虎の攻撃をかわしながら勝機を狙います。
やがて虎がその豪腕で扉を木っ端微塵に破壊した時、偶然扉の破片に鋭く尖った部分が生まれました。

虎の攻撃に二人は息も絶え絶え。二人は闘技場の隅に追いやられます。そして絶体絶命の二人が身をかわした瞬間、扉の鋭い切っ先が虎を深々と貫いたのです。

満身創痍になりながらも、二人は虎に対し勝利をおさめました。
体中に傷を負った青年は小さく微笑みます。王女もボロボロの体で頷きます。
闘技場の中心で手を取り合いながら倒れる二人。
その後の二人の生死は不明。消息も不明です。
遠いどこかの国で、二人に似た男女を見かけたという噂が、今は風のように人々の間を流れるだけでした・・・



・・・ビックリしたでしょ(笑)。
これが私の「人生観」「恋愛観」です。
「うわーオタクイーン、破滅型だ!」と思われる方も多いと思います。

「まず虎に勝てるわけがないじゃん」と思われる方もいらっしゃるでしょう。でも私が王女なら青年と一緒に戦いたい。そして偶然にも勝っちゃう(笑)。
「オタクイーンってやっぱり男だよな。女ならそんな発想しないもんな」なんてお考えも当然あるでしょう。そうかもしれません。

「心は女性」と言っていながらも、どこかにそういう男性的な考えが残っている。これが私の偽らざる姿です。私のプロフィールページにある「ひとり夫婦」とはこういう事なのかもしれませんね。

実はですね。私の男女関係の理想というのは「男性と対等に生きる」という事なんですよ。実際、フリーのお仕事では男女の差なんてありませんし、女性だからなんて甘えは許されません。そういう世界で自立しようとすると、これくらいの覚悟がなければやっていけない訳です。同じ立場であれば私に限らず、本物の女性だって覚悟は一緒と思います。でも実際には弱い部分もある。私だってそうです。ですから強い男性に憧れると。
いつも気を張っているからこそいざという時は守ってもらいたい。
でも守られてばかりもいられない。出来る事はやるわよ!って感じです。


「でも、こんな時王女が出てきたら、青年にとっては足手まといじゃないの?」
そう思うでしょ(笑)。でも私が読んだ「女か虎か」のストーリーには王女についての記述は無かったんですよ。ですから、王女が「ダイ・ハード4.0」のマギーQか、はたまた「キル・ビル」のユマ・サーマン並みのスーパーレディーであってもOKな訳です。
日本で言えば峰不二子って所でしょうか。
ああいう強い女性は普通の女性の憧れでもありますしね。
(全ての女性とは言いませんが(笑)。

「彼の安全、幸せは無視?」という部分では、ストーリー上の「彼は王女を愛していた」という一節を信じるだけです。
彼の中でも「王女の為には虎に立ち向かっても」という決断があったと思いたいと。
そういう意味でこのお話は、彼にとっても「女か虎か」だったんですね。


「これは・・・オタクイーン、アクション映画の見すぎじゃないの?」とおっしゃる向きもいらっしゃるでしょうね。それは当たっているかも(笑)。
この「女か虎か」の青年として私の頭にあったのは、(青年としてはおかしいですが)ブルース”マクレーン”ウィリスか「ボトムズ」のキリコ・キュービィー、または「カウボーイ・ビバップ」のスパイク・スピーゲルでした。あ、「マッド・マックス」当時のメル・ギブソンもあったかな(笑)。
もっとも、このメンバーであれば王女の助けなんて要らないか(笑)。


別に映画になぞらえて、皆さんの真剣なコメントを茶化した訳ではありません。
これが私の偽らざる「女か虎か」。ね。その人の姿が出るでしょ。

でも同時に「このストーリーを映像化する際、どうすれば盛り上がるか」という「ディレクター目線」という物も自分の中にかなり大きな割合を占めている事が分かりました。
人目線、ディレクター目線のどちらがこのストーリーに大きく影響しているかは自分では分かりません。でもどちらにしてもこれは私の考えですからまーいいのかなと(笑)。
こんなにハードな一面、私は子供や動物に対してメロメロになっちゃう所もあれば、皆さんの温かいコメントに涙する弱さも持っているんです。不思議ですよね。
我ながらそんな自分の性格をもてあます事があります。
でもまあそれが自分なんですからしょうがない。うまく自分と付き合っていかなきゃと思ったりして(笑)。


今日はまさに「つまらないお話」でしたねー。ここまでお付き合い頂いて本当にありがとうございました。
「うわー、オタクイーンって怖い」なんて引かないで下さいね(笑)。


ちなみにこの「女か虎か」、ちょっとコタにも聞いてみようと思い、ケージを覗いたんですが・・・
彼女、「女か虎か」よりも「レタスかパンか」でした。
最近、ちょっと食べすぎなんですよ。
飼い主に似たのかな(笑)。

2007年7月 2日 (月)

人類最大の謎

ディレクターなんてお仕事をやっていると、普段から「何かこれは番組にならないか」なんてアンテナが働いてしまうもので。
これはお仕事以前に私の性癖でもあるのですが。

今日も早々と打ち合わせが終わったので、久しぶりに大型書店をぶらぶらと歩き、好きなジャンルの本を物色していました。

まーなんだかんだ言っても「ネヴュラ」で私の性格、嗜好はよくお分かりと思います。結構分厚い「UMA大全」みたいな本を開いて「うーんまだまだ世界には怪獣の住む余地があるなー」なんてムフフな妄想に浸る私は、ただのおバカに見えた事でしょう(笑)。

元来怪獣やアクション、ミステリー系が好きな私ですが、やっぱり映像作品はストーリーが命と言う訳で、以前にも古今東西の謎系ストーリーを紐解いたり、また自分でも妄想するのが好きなんですよ。寝る前などは網膜の裏に架空のストーリーを映写して「タダで楽しむ超大作」を満喫していますから。もちろん、作品の最初には東宝から20世紀FOXまで大手映画会社のマークを出す事も忘れません(笑)。

今日、帰りのミニバイクの車上で「昔読んだストーリー」について思いを馳せる気持ちになったのも、立ち寄った書店での一時があったせいかもしれません。
随分昔に聞いた短編ですが今も心に残り、また「これは映像化不可能」と思えたストーリーを思い出したのです。


これは結構有名なお話なので、ご存知の方も多いと思います。
アメリカの小説で、フランク・R・ストックトンという作家が書いた『女か虎か』というお話です。はるか以前に雑誌「エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン日本語版」に翻訳が載ったそうで、その時結構話題になったそうです。

ざっと概略だけお話しましょう。結末まで一気に行きます。
ここからはネタばれになります。未読の方はご注意下さい。
(ネタばれと言っちゃっていいのかな?)




ある架空の国の物語です。
その国に住む貧しい青年が、こともあろうに王女様に恋をしました。

王女様も青年を愛し、二人は幸せになるかと思われましたが、そんな身分違いの恋愛はその国では許されません。
青年は罪に問われ、処刑される事となりました。

その国では罪人に対して、少し変わった処刑が行われます。
罪人はその裁きとして闘技場に引き出され、王様の前に並ぶ、左右二つの扉の内どちらかを選び、開けなければなりません。


一つの扉の中には大きな虎が入っています。
扉を開けたが最後、青年は虎の餌食となってしまうでしょう。

もう一つの扉の中には女性が入っています。
青年の地位などを見合わせて国中から選ばれた、青年とは何の関係も無い女性です。

こちらの扉を開けたら、青年はどんな理由があろうともこの女性と結婚しなければなりません。

ただ、王女様も青年を愛していました。ひそかに王様の家来から、どちらの扉の中に女性が入っているか、また女性の素性も聞き出していました。
扉の中に居る女性は、身分は低くも美しく誠実で、かねてから青年を愛していました。


処刑の日がやってきました。闘技場に引き出された青年は扉を開ける直前、王女の方を見ました。きっと王女が助けてくれる。
王女も彼を助けたくないはずはない。しかし彼を助ける事は、扉の中の女性に青年を与える事になります。
青年が虎の餌食になるのは見たくはない。
しかし、扉の中の女性に青年を取られたくもない。


王女は迷いに迷った挙句、かすかに右の手を上げました。
「右の扉を開きなさい」と合図したのです。
青年は右の扉を開けました。


扉から出てきたのは、女か?虎か?



さて。未読の皆さん。「どーなるの、その後?」と思われたかもしれません。
実は私も知らないんです。
「えーっ、でもオタクイーン、このお話知ってるんでしょ?」
その通りなんですが、このお話はここで終わっているんです。
こういうお話なんです。


これはアメリカでひと頃流行したらしい「リドル・ストーリー」というジャンルのお話。いわゆる「結末がない」お話なんだそうです。昔、ある本でこのお話のあらすじだけを読んだ私は大変感心しました。
「こんなにミステリアスで、しかも読者の興味を引くお話があるんだー」なんて。

ですから実際の小説は読んでいません。前述のあらすじに若干の間違いなどがあったらお許し下さい。まー一昔前に流行った「究極の選択」みたいなものですが、こちらの方が数段レベルが高いと思います。

このお話が語っている事はとりも直さず『女心の謎はとても文章化できない』という事なんでしょう。結末をあえて描かない事で、その複雑な女性心理を「描いている」と言えます。文章の表現にトリックがある訳でもなく、また解答編がある訳でもない。
こういうお話は変に深読みして「王女と扉の中の女性が結託していた」とか「虎が死んでいた」とか小手先の理屈に走らないほうが楽しめます。

むしろ「自分が王女様だったらどうするか」という所に思いをめぐらす方がこの小説を楽しんだ事になるのでしょう。

男性読者の皆さん、この時の王女様の心の内を想像できますか?
また女性読者の皆さん、貴女が王女様だったらどんな決断を下したと思いますか?


私、10代でこのお話を知り、痛く感動しまして周りの知り合いに触れ回った事があるんですよ。
「あなたならどっちだと思う?」って。
でも当時の交友範囲なんてたかがしれていますから、聞いたのはほとんど同級生の女の子ばかりで。
意見が割れるんですよね。これが。

普段男っぽい子が「青年が死ぬのはいやだから女性の扉を教える」と答えたり、大人しい子が「でも他の女性の所に行くくらいなら、虎」と答えたり。
しかもこの答えは「照れ」が入る。本当は「女性」と言いたいんだけど、本音を言うと「可愛い所があるんだー」なんてからかわれるから「虎!」なんて見栄を張ってみたり。
まあ10代の頃ですから。こういうのは年とともに思いも変わっていくのかもしれません。
女心と言うより、個人の性格が大きいんじゃないかと思ったりします(笑)。


最近はこのお話の事を忘れていたので、周りの人たちに聞いたことは無いですねー。
久しぶりに聞いてみてもいいのかも。女性読者の皆さん、是非ご意見下さい(笑)。


でも皆さん、どうですかこのお話。こういうのを「文章ならではの味」って言うんでしょうね。これを映像化したら、結末が描かれない事で観客は怒り出してしまうでしょう。
「監督、逃げたな!」なんて(笑)。

これが文章と映像の大きな違いですね。映像は文章に比べ、まだまだ「起承転結」へのこだわりが大きい。文章のように、あえて状況や結末を伏せておく事を「味」にしにくいんです。
映像は情報量が多すぎて観客に先読みされる危険性が非常に大きい。そこをうまく演出できた作品は数えるほどしかないような気がします。

その点、文章にはラジオドラマの方が近いのかもしれませんね。
主人公の置かれている状況がラストになって分かるものや、考えられないほど意外な結末から受ける衝撃は、やや情報量を規制されている「音だけの世界」の方が、観客の想像力に頼れる分だけ有利なのでしょう。


またまたお話が脱線してしまいましたね(笑)。
ヒッチコックも言っていますが、映画にもっとも適した題材は短編小説と思います。ピリリと効いたアイデアが光る短編を考えられる事は、それだけ映像向きの頭を持っていると言えるのです。考えてみれば、私も毎回「ネヴュラ」で皆さんにお話をお聞き頂くことで文章の練習をしているのかもしれませんね。
まったく上達できなくてご迷惑おかけしてますが(涙)。

さて。最後に。
ひょっとして奇特な方は「オタクイーン、お前は『女か?虎か?』どっちなの?」なんて疑問があるのでは?ありがとうございます。女扱いして下さって。
私の答えは・・・
答えの代わりに、以前人に言われた事をお話しましょう。


酒場でお酒を飲んでいた時の事です。私の顔を見てお店のママが言いました。
「みゆきちゃんって、モナリザみたいな表情するねー。」
謎を含んだ永遠の微笑み。
私の答えはそんな所です(意味ありげな微笑)。

2007年7月 1日 (日)

バーチャル会議

Photo_977 えっ?行っちゃうの?お姉ちゃん。
うん。お天気いいからねー。ウォーキング。いつもの公園。
Photo_978ふて寝しよ。
たまには行きたいよわたしも。




Photo_980 

人もいっぱいいるんだろーなー。

Photo_981 コタちゃん、そう言うけどねー。夏の公園は暑いのよ。
住んでる私なんか大変なんだから。
あんたはいいでしょ。涼しくて。飼い主は貧乏だけど。

Photo_982 そうよー。私だってごはんは自分で探すんだから。
あんたはいいのよ。ごはんもらえるんだから。
飼い主は貧乏だけど。

Photo_983
そーかー。お姉ちゃんが貧乏でよかったー。
そのオチはともかく、あんた巣箱をかぶってるみたいだね(笑)。
(写真は全て今日撮影の物。コタの衣替えもだいぶ進みました。)

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