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2007年2月の記事

2007年2月28日 (水)

それぞれのG×G

いやーもうおなか一杯で。
先日、「良い映画を褒める会。」の用心棒様から、またまた熱いトラックバックをいただきまして。

そのタイトル『ガメラ対ゴジラ 地球破壊計画』(200X)。
ね、もうタイトルを聞いただけでもワクワクしちゃうでしょ?
ご想像通り、これは用心棒さんが構築されたオリジナルの「G×G」作品なのでした。


Photo_546 原稿用紙にして50枚近くにもなる超大作で、内容もボリュームにたがわぬ素晴らしいものでした。四部構成になっていますので一部ずつゆっくり読むもよし、一気に作品世界に浸るもよし。(ちなみに私は後者でした。)

是非、第一部からご覧下さい。こちらからどうぞ。
http://yojimbonoyoieiga.at.webry.info/200702/article_15.html

これはおすすめ。「良いG×Gを褒める会。」の会長、私が太鼓判を押します(笑)。


先日の拙記事「恋する○○ラ」あたりから盛り上がってきた「G×G」の話題ですが、こうして実際にストーリーを目にすると改めてこの両雄対決の面白さを痛感しますねー。
怪獣王と大怪獣の対峙、という映像を思い浮かべるだけで既に興奮は最高潮。
それだけ二大怪獣が絵になるという事でしょうか。
やっぱり伊達にシリーズ化されているわけではないですねー。お互いの人気の高さが窺えます。


Photo_547 で、実は私、先日「○○ラ」を書いた頃から、暇に任せてネットで「G×G」の検索を行っていまして。
これがまた結構ヒットするんですよねー。

まあそのほとんどは強い者同士の戦いをこの対決になぞらえた表現で。夫婦喧嘩のすざまじさを描いたものとか(笑)、用心棒さんのように実際にオリジナルストーリー化された方は少なかったんですが(まあ色々しがらみもありますしね。でも個人のブログなら全く問題ないと思いますが)そんな中で目に止まったストーリーもありまして。

特撮映画好きで有名な落語家、林家しん平さんが、やはりネット上で『ガメラ対ゴジラ』というタイトルのオリジナルストーリーを発表されています。
これもかなりの長編で、怪獣好きらしい「痒くなりそうな所に手が届く」ファン感涙のストーリー。一度検索してみて下さい。
腕に覚えのあるディレクターさんなら、コンテを切りたくなる衝動を抑えきれない筈です(笑)。


Photo_548 この所、そんな「G×G」な毎日を過ごしている私は、例によっていつも遊んでいる怪獣好きの先輩とこの話題で盛り上がりました。で、ここで話題になったのは「100人ファンがいたら100通りのG×Gがあるんだろーなー」という事で。
以前拙記事に頂いたコメントを拝見した時もそう思いましたが、「G×G」というお題は、それを考えるファン一人一人の「ゴジラ・ガメラ観」、もっと言ってしまうと「怪獣映画に期待するもの」を映し出す鏡のような物なんですね。
だからファンそれぞれのお考えが窺えて非常に興味深かったのです。


実際、私がここ数日拝見したコメント、数々のオリジナルストーリーや先輩とのバカ話のどれを取っても、一つとして全く同じストーリーが無いのが楽しい所で。
あれだけ有名な怪獣同士の戦いに無数のストーリーが存在するという事実は怪獣映画の無限の可能性を感じさせてくれて、嬉しさに小躍りしてしまいます(爆笑)。
で、これも面白かったんですが、皆さんそれぞれ「どちらかのGをご贔屓」になっているんですね。「ゴシラ派」「ガメラ派」という二大勢力の存在を今回痛切に感じました。

Photo_549 これも良いですよねー。まあ統計など取ってしまうと夢が無くなりますが、この「ご贔屓ぶり」が自作に表れるのもすごく面白い所です。
これは「どちらに勝たせる」とかそういうレベルのお話じゃなく、両雄を見つめる視線の違いとでも言うんでしょうか。

やっぱり知らず知らずの内に、どちらかに肩入れしてしまうのかもしれませんね。でも、それも自然な事ですよね。どんなファンにだって「どちらかと言えば」という思いはあるでしょうし。
両雄に対するそんな熱い思いがなければ、この対決ストーリーも盛り上がらないという訳で。

さて。ここまでお話をお聞き頂いた貴方。もう私が何を言わんとするかお分かりと思いますが、実は私も「G×G」のストーリーをおぼろげながら考えておりまして。
これは、妄想好きの私にとってはライフワークのようなお題だったんですね。

なにしろあの両雄対決ですから考えない人の方が珍しいくらいで(笑)。
私も物心ついた頃からあーでもない、こーでもないとやっていたクチです。
「ネヴュラ」読者の皆さんなら同じ経験をされているんじゃ?

以前、東宝映画で「ゴジラ」のオリジナルストーリーが募集された時、意気揚々と応募した恥ずかしい経験を持つ私ですから(涙)、こんなおいしいネタを見逃すはずも無く。
ただ「G×G」は実現には程遠いドリーム・マッチですが・・・

Photo_550 で、それまで悶々と思いを募らせていたストーリーでしたが、昨年5月に「ネヴュラ」を開設、ネットで知り合った識者の方々のサイトにお邪魔している内に、拙作がいかにチャチであったかを思い知ったような次第で(笑)。
これは大きな収穫でした。やっぱり私などまだまだヒヨッ子。世の中には凄い事を考える人が居るもんだなーと感心しっぱなしで。今日のお話の発端となった用心棒さんのストーリーもそんな一本でした。
パソコン音痴(死語でしょうか?)の私にとって、こんな経験ができるとは思ってもいませんでした。これは本当にネットの恩恵。
良い時代になりましたねー。(やっぱりズレてますか?こんなもんですよ私なんて(笑)。

さてお話を戻しましょう。これも大きな収穫なんですが。
実は、今回ネットで拝見した様々な「G×G」オリジナルストーリーには、ある一点のみ共通点があったのです。

こんな事を書くと、前段の「それぞれ違う考え」というお話と矛盾するじゃない、なんて言われそうですね。その通り。
まあ「今回拝見した」という注釈つきなのでご勘弁下さい。

この件についてはネタバレになっちゃうのでここではお話しません。皆さんそれぞれ作品に触れていただいた後、お考え下さい。
これは作品の完成度とはまったく関係無い事なのですが。

私がそんな印象を持ったのには理由があります。と言うのは、オタクイーン版「G×G」には、そもそもその共通点を導入する発想が無かったからなのです。
例によっておバカゆえですが(笑)。

「なるほどー。こう来たか」という感動と共に、「自分が考えたら違う展開になるだろーなー」という、ある意味「怪獣映画に対する考え方の違い」のような物を覚えてしまいまして。
重ね重ね言いますが、これは作品の出来とは関係ないですからね(笑)。
やっぱり出ますね。100人居れば100通りの考えが。


まあ、思いを形にしていない私なんぞがそんな偉そうな事を言える訳もなく。
形にされた方々には尊敬の念を禁じえません。
「思いを映像化する事」を生業としている私には、そのご苦労が嫌と言う程分かるからです。大変ですよね。物語を破錠なく成立させるというのは。身に染みて感じます。
実感として「作品」という物は、全体を10割とすれば作り手8割、受け手2割だと思うんですよね。受け手が何を言っても、作った人間の苦労は想像できないと。


Ff_2 でも、こんなお話を出来る事自体、実に楽しいじゃありませんか。
ほんの数年前までは著名な商業誌や同人誌などでしか発表できなかったオリジナルストーリーが、今や一瞬にして万人の目を楽しませられる。素晴らしい事です。

私もそんなネット愛好者の末席を汚す者として、そのうちぼちぼちとつたないストーリーを発表して行こうと思っています。発表時期、作品のボリュームも全く未定という情けなさですが。
諸先輩方の作品を拝見して、眠っていた創作意欲も湧いてきました。

でも用心棒さん作品のような傑作を期待しないで下さいね。
ああいう偉大な前例を出されてしまうと、物凄くハードルが上がってしまうような気がして・・・(汗)


それぞれの心の中にある「怪獣魂」の具現化となる「G×G」。まとめておくにはいい機会かもしれません。
「ネヴュラ」誌上でいずれ公開。現在鋭意構想中です。
お得な前売り券も、レアな前売り特典もありませんが。

紙芝居風に飴ちゃんぐらいが分相応かも(笑)。

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2007年2月26日 (月)

「暗示力」の欠如

山間の田舎町にしつらえられたロープウェイ。
今日は入社試験当日。希望に燃えた若者がロープウェイに乗り込んだと思って下さい。
ゴンドラには彼一人。今まさに動き出そうとしたゴンドラへ静寂を破って飛び込んで来たのは痴話喧嘩の男女二人連れ。
若者と男女の三人を乗せたまま、ゴンドラは出発してしまいました・・・

以前、「シナリオ教室」なるものに通っていた事がありました。
お仕事の合間に通っていた為、ほんの僅かの間しか在籍できませんでしたが、業界内のお話なども色々聞けて少なからず勉強になりました。冒頭の一文は、その頃考えた5分程度のシナリオの筋書きです。

この後のストーリーを考えてみて下さい。貴方ならどう展開しますか?私はこう考えました。

二人連れの内、女は金切り声を上げ男ともみ合います。
男は懐に拳銃を忍ばせていました。その拳銃が暴発、弾はゴンドラの天井を貫通し、ゴンドラを支えているワイヤーを切断してしまいます。傾くゴンドラ。
残ったワイヤーではゴンドラは支えきれません。
咄嗟に若者は落ちた拳銃を拾いますが、恐ろしくて持て余してしまいます。意を決して男に組み付く若者。男は女を蹴飛ばし、女はゴンドラのガラスを割って地上に落下・・・


ドラマはこの後まだ続くのですが、部屋を片付けていて久しぶりに見つけたこのシナリオを読んで、私は苦笑してしまいました。
「こんなシナリオ、今だったら絶対書けないなー。」


シナリオという物は映像作品の設計図と言われます。シナリオなしにストーリーを構築する事は出来ません。「ネヴュラ」読者の皆さんならそれはよくご存知だと思います。
シナリオライターと監督は違う才能を必要とする、という事もよく言われますね。ストーリーという世界を構築するシナリオライターを創造者とするなら、それを形にする監督は表現者、という分け方が最も端的だと思います。
実際には監督と同様に、カメラマンや照明マンをはじめとするスタッフ、監督の意図を画面上で形にする俳優も大事なファクターである事は言うまでもありませんが。

ただ、その表現の全ての元は「シナリオ」にあるのです。
このシナリオの出来が悪いと、どんなに監督やスタッフ、俳優が頑張っても、いい作品は生まれないのです。


冒頭の作品(「ケンカ」というテーマを講師から与えられ、急場しのぎで書き上げた物ですが)に、私が苦笑してしまった理由、それは、「人物がまるで駒のように扱われている」という印象から来たものでした。これじゃあまりにも人物描写が薄っぺらすぎますよね。
コントにもなりません(笑)。

シナリオという物を実際書いてみると分かりますが、これは普通の文章表現の手法がまるで通じない代物なのです。小説やエッセイなどを書き慣れた人がシナリオには手も足も出ないという事はよくあります。実際私が初めてシナリオに接した頃痛烈に感じたのは、「シナリオには中途半端が無い」という事でした。
小説やエッセイなどに頻繁に登場する文、「・・・と思った」「・・・と感じた」などの表現は、シナリオでは禁句なのです。
「思った」などという抽象的な映像など無いからです。


シナリオには必ず、「思った」という表現の代わりに、その人物が思った事を具体的に暗示する行動が記されていなければならない。例えば「怒った」なら物に当たるとか、「安心した」なら床にへたり込むとか。シナリオは人物の感情の暗示なのです。
ここにシナリオライターの人生経験が大きく表れます。
この行動の「暗示」が高度であればある程、そのシナリオは良く出来ているのです。


冒頭の稚拙なシナリオに、私が「今は書けない」と思った理由はもう一つありました。
「人の生き死にがあまりにも軽く書かれている。」
それだけ若かったという事なのかもしれません。


「ネヴュラ」でもお話した通り、私は昨年11月、母を亡くしています。その4年前には父を見送っています。この年になって両親を失ってしまうと、そう簡単に「人が亡くなるストーリー」なんて書けなくなっちゃうんですね。弱くなったのかも知れませんが。
あの最期を看取った瞬間の、何とも言えない虚脱感、喪失感。
涙が出せればまだいい方で、元来気の小さい私などは亡くなった事実を認めたくなくて、ただお通夜や葬儀の準備に追われる事で、自分のアイデンティティーを保っていたような気がします。
まあ、こんな事がお話できるようになっただけ落ち着いたという事で(笑)。暗いお話でごめんなさいね。

ただ図らずも起こったそんな出来事の後で、私の中の何かが変わったような気がするのです。
「軽々しく人の生き死にを書く事はできないなー」なんて。

別に重いお話をしようという訳ではありません。でも私が失意の中で鑑賞し、不覚にも涙でぐしょぐしょになってしまった作品「東京物語」(1953年松竹 小津安二郎監督)に於けるシナリオの「暗示」の仕方は、それはそれは素晴らしいものでした。
こういうシナリオが書ける人、そしてそれを表現できる人って、人生を深く生きている人なんだなーと思ってしまう。
より作品を理解できるような気がします。
脚本の野田高梧、そして共同脚本の小津監督の人生観が、この作品には色濃く表れているのです。

実は最近、昨年公開の映画「日本沈没」DVDをコメンタリー音声で再見しまして。
キャスト篇、スタッフ篇の両方で、色々な裏話なども聞けて興味深かったのですが、樋口監督以下関係者が楽しそうに語るコメントを耳にしながら感じた事がありました。
「この人たち、映画制作のキャリアは長いかもしれないけど、進化する特撮技術と遊ぶのが楽しいだけなんじゃないかなー?」
ごめんなさいね。私にはそう聞こえてしまいました。できればこのコメンタリーにシナリオの加藤正人さんも加えて欲しかったのですが。

アルフレッド・ヒッチコック監督がかつて「映画は準備が終わったら後はスポーツだ」という名言を残しました。確かに言いえて妙。過酷な撮影現場では予定されたカットを消化するだけで精一杯で、シナリオの内容を吟味し直す余裕など無いからです。ですから撮影に入る前に、そのシナリオが本当に作品のテーマを訴えているか検討する必要があります。
昨年の「沈没」の場合、再見してみて思ったのは、まず加藤正人氏のシナリオの段階で「日本が沈むという未曾有の災害を画面毎に暗示できていなかったのでは」という事で。

各々のシーンが、祖国を失う日本人の心情を表現できていなかったような気がするのです。

まあそりゃそうですよね。現実にそんな災害に遭った事なんか無いんですから。でもこの作品ではそれを表現しなければならない。そこが難しい所なのです。
前作(1973年 森谷司郎版)との差は、単にストーリーやキャスティングの他に、そういう「暗示力」とでも呼べる部分の差もあったような気がします。

日本を沈没から救う為、名誉ある死を遂げた小野寺、結城の二人が印象的な2006年版「沈没」。ところが私にはこのストーリーから、彼らが失った命の重さが伝わって来ませんでした。
それに対して1973年版の旧作は、小野寺をはじめとするメインキャストは誰一人亡くなっていないにも関わらず、引き裂かれるような悲壮感、国が亡くなる喪失感、沈没に怯える人々の小さな命の叫びなどが感じられたのです。
この差は何処から来るものなんでしょうか?


いつもながらの陳腐な考えなのでお笑い頂ければいいんですが、やはりその差は「制作者の人生経験の差」ではないかと思います。中でもああいった作品の場合、戦争経験は災害時や難民の描写大きく活かされる事でしょう。
監督の森谷氏はじめ、脚本の橋本忍氏も第二次大戦の影を感じた世代。73年版の製作当時には、スタッフの間にも身近に戦争経験者が数多く居たのでは。そうした人々の知恵や感じた空気(これが大きいんですよ)が、シナリオにも演出にも大きな「暗示力」となって働いたのではないかと思います。そしてそれが全てのスタッフ、キャストに伝わり、あの独特の悲壮感を生んだのではないかと。
私などが言及するのもおこがましいですが、73年版の教科書は「第二次大戦」だったのかもしれません。


これは批判ではないので誤解されるといけませんが、2006年版にはどこか「かつてこのタイトルの名作があった。それを教科書にしてちょっと変えてみました」という空気が見えるんですね。
ここに73年版と06版の決定的な差があるような気がして。
実際の悲劇を教科書にした73年版と、その73年版を教科書にした06版。
この図式がある限り、最初から結果は見えていたのでは。


当然の事ながら私は戦後生まれなので、これは推測に過ぎません。しかしながら、これは私自身にも言える事なんですね。
冒頭の一文などはまさにそのいい例で。
結局「味わった事の無い経験は、作品にしても説得力に欠ける」という事です。

戦後生まれの樋口氏や加藤氏に、戦争の空気を暗示する表現を求める事自体が無理なお話なのです。ですから06版「沈没」は、戦後生まれの世代が精一杯作った習作、とでも位置づけるのが適切なのかもしれません。
73年版との最も大きな差異、「N2爆薬」の説得力の無さが全てを物語っているような気がします。爆薬そのものではなく、そこへ至るストーリーの運び、暗示力の問題です。


今、ハリウッドでも優れた作品の企画に飢えているそうで。
リメイク作品が増えるのはそういう事情なのですが、作品というものは創られた時代の空気を色濃く反映するもの。
軽々しくリメイクに手を出すと、先人の偉業のうわべだけをなぞった中途半端な作品に成り果ててしまいます。

江戸川乱歩は自作の小説を年少者向きに書き直し、「少年探偵団シリーズ」として刊行、反響を呼びましたが、私には今のリメイク作品はそんな「年少者向けに噛み砕いた」作品群に見えます。
前作のネームバリューに頼らず、オリジナル企画で勝負した「習作」ではない作品を期待するのは、私のわがままでしょうか?

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2007年2月25日 (日)

情熱の形

「いやーここまで来たかー。デッキ上の編集クオリティーって。」
出来上がったDVDを見ながら、一人悦に入る私。

今、お仕事を頂いている会社から、「新しい仕事を紹介できるかもしれないから、あなたの過去の作品を見せてもらえない?」と言われ、昔のVTRをひっくり返して作品集を作っていたのでした。

今回分かったんですが、私はどうも「きれいにまとめたい」という欲求が強いようで、いわゆるCMやイメージショットをつなぎ合わせたプロモビデオ的なものを多く手掛ける傾向があるようです。ですから「絵の美しさ」にこだわる。
私が必殺シリーズなど、映像美に定評のある作品に惹かれるのは、そんな嗜好を反映しているのかもしれません。

そんな「キレイキレイ」な作品をまとめた所で、私はちょっと物足りなさを感じました。
「これ、確かに作品集としては成立しているんだけど、ちょっとキレイにまとめすぎかな?」なんて思いが頭をもたげてきたのです。自分が好きな作品って、本当にこんなものばかりなんだろうか、なんて。

能の無い私も年だけは取っているので、それなりに作品はいろいろ経験してきました。作品それぞれに思い入れもあり、それを作った当時の状況や背景なども懐かしく思い出されたのですが、でも・・・

作品集にまとめたものは確かに評価の高かったものや、いわゆる「うまく行った作品」で、それなりに口当たりのいいものばかりなんですが、なにか「カッコつけてない?」と自問自答してしまったんですよね。

CMやイメージビデオという物は、企画段階から完璧な準備の下に組み立てていくもの。番組などに比べてかかる予算もケタ違いに高いので、何が起きても大丈夫なよう万全の体制で制作に臨みます。
言ってみれば「失敗できない」作品なんですよね。
その為、思い出すのはむしろ「企画段階でのアイデア捻出」や「プレゼンでのやりとり」と言った、作品制作の前段階での苦労が多いのです。作り始めたら後の苦労はさほどでもないと。(ご同業の方々、異論もおありでしょうが私はそう感じていまして。お許しを。)
出来上がりに関してさほど思い入れが湧かないのはそんなところに理由があるのかもしれません。
「カッコつけてる」と感じてしまうのもそのあたりが原因なんでしょう。
嫉妬するほど美しいモデルを使い、凝りに凝った照明とカメラワークでまとめた作品が本来の自分を表しているかと言えば、やはり?マークが付いてしまうのです。

「ネヴュラ」をいつも覗いて下さる方々には、毎回の記事を通じて私の人物像を少なからず感じて下さっているのではと思います。映像作品やオタクっぽい内容を主としながらも、データベース的な構成を採っていない「ネヴュラ」は、毎回のサブタイトルも採り上げる映像作品のタイトルにはしていないし、(検索いただくには大変ご不便をおかけしていますが)今日のようにとりとめもないお話もありますし。時には生活の中で感じた怒りをぶつける事もあります。
「ネヴュラ」にはそんな、不器用であちこちぶつかってばかりいる私の姿が浮き彫りになっている訳です。
でも、こういうむき出しの自分を日々綴って行くのもいいかな、なんて。

人間ある程度年をとって来ると、ポーズをとる事に疲れを感じてくるんですね。同時に「綺麗な事」に関して嘘臭さを感じるようになってくる。飾り立てた言葉や行動は人間の本質を表していないような気がするんです。
私が作品集に感じてしまったのはそんな「嘘臭さ」なのかもしれません。


今巷に流れている、美しいCMやイメージビデオを否定している訳ではないんです。それは受け手側から見れば凄く魅力的に映るし、実際完成度も高いものだと思いますしね。
でもそれを作り出す側から見ると、正直空しさを感じてしまうのも事実なのです。
かつて名番組や名CMを作り出したクリエイターが、その晩年田舎へ篭り、マスコミのしがらみに縛られずきままな暮らしを楽しみながら自分を見つめ直す、といった例は、私の身近にも多くあります。
「人間はいずれ、土に還る」なんて枯れた思いに囚われている訳でもないんですが、どうやら美しいものを作る人たちほど、実は人間の本質を見極めたい思いが強いようですね。まあ私は名作を連発している訳でもないので、そんなビッグネームと比べる事などできないんですが(笑)。

私のようなフリーのディレクターはいわゆる「何でも屋」なので、お仕事の選り好みなんて出来ません。確かに前述のCMやプロモなどの頻度は高いですが、他にも色んなジャンルのお仕事を手掛けてきました。まーそれこそ結構色々なジャンルをあれこれ(笑)。
実は今回、「作品集」と言われて真っ先に浮かんだのは、それらの「不完全な」作品群だったのです。

皆さん実感できないと思いますが、同じ映像作品でも「映画」と「テレビ番組」では、制作環境が天と地ほど違います。
誤解を恐れずに言えば、万全の体制の下満を持して制作に入る映画は、作品のテーマ、映像の美しさやコントロールについて、CM並みの労力を投入しているのです。映画はテレビと違い「興行」なので失敗できないという事情があるからです。

それに対してテレビ番組は、定められたオンエア期日に穴を空けるわけにはいかない。どんなにつまらない内容でも「とりあえずは放送しないといけない」訳です。ですから毎回の放送に完璧が望めない、という事情があります。(もちろん作り手は精一杯の努力をしていますが、結果として、ですね。)
ですから当たりはずれも大きいですが、当たると凄い名作が生まれる場合がある。
実は、そんな過酷な状況の中に、作り手側の顔が覗くのです。

一分一秒を争うテレビ番組の世界では、自分を偽っている余裕など無いんです。
ドラマなどにもその片鱗は現れていますが、そうした作り手側の素顔が最も現れるのは、いわゆる「取材番組」。同業の私から見ても「凄い事やってるなー」と思う番組にぶつかる事も多くあります。
別に体当たり取材を奨励する訳ではないんですが、正直予断を許さない現場を経験した身には、そういう番組の方が後々の思い入れは強くなるものなんです。


私も以前から、色々な現場を経験しました。
暴走族の取材で、テレビカメラを構えた取材車を発見されて周りを取り囲まれたり。
後で警察の人に聞いたお話では、その族のリーダーは頭突きの技を持ち、度重なる頭突きで頭が割れて、頭蓋骨にセラミックを入れているという凄い事実もあり(笑)。
外国人による覚せい剤密売の客引き現場に、私が客の囮として潜入したり。
(カメラが付いて来るとバレバレなんで、ワイヤレスマイクだけ着けた私が一人で売り手に近づくんですよ!)
海外取材で、船で現地に着いた途端に警官に自動小銃を突きつけられたりした事も。
マスコミって、海外では何かと取材規制が厳しいんですね。


他にも危ない目に多く遭いましたが、実はこういう経験をして作り上げた番組の方が思い入れも強くなる事は、皆さんにもなんとなくお分かりいただけると思います。
言ってみれば取材する側とされる側の戦いでもある訳で。
むき出しの人間性が垣間見える瞬間に生きがいを感じてしまうのかもしれません。

そして、こういう番組には得てして「番組上の結論が出ない」事が多いのです。
現実の世界は、たかが一定期間の取材で明確に結論など出せないからです。
問題提起に終わる事がほとんどで。
こういう番組の場合、作り手側にも「この番組がどういう展開となるのか」なんて見えていないわけですね。出来上がって初めて分かると。
準備態勢など殆ど出来ず、作り手側も必死になってテーマに取り組む。これが面白いんですよ。「先が見えない」という部分が。

出来上がって初めて作品の全貌が分かるという所が、前述の「当たりはずれの大きさ」に繋がると思います。てもこちらの方が自由度が大きい。
そのテーマに情熱を傾けただけ、いい物ができるような気もします。

これは実は、取材番組のみならず、テレビ番組全てに言える事なのかもしれません。
話数を重ね、テーマを追求する連続テレビドラマにしたって、第一話の段階で最終回のストーリーが決まっている事は稀なのです。「ウルトラマンティガ」や、「新世紀エヴァンゲリオン」などを思い出していただければ、言わんとする事はなんとなくお分かり頂けると思います。

映画と違い、作り手側にも先が見えない。そのライブ感と共に「作り手側の情熱」を感じやすいのかもしれません。テレビというメディアである以上、本質的な部分は同じなんでしょうね。
私がテレビ屋稼業に身を投じた理由はそんな所にもあるのですが(笑)。

不完全ながら作り手側の顔が覗く作品。これらはCMやプロモなどと比べ、ある意味みっともない作品かもしれません。
でも作り手側の思いは必ず受け手側に伝わると思います。
そう考えないととてもやってられませんから。こんな過酷なお仕事(笑)。


今日もとりとめのないお話になってしまいましたね。毎度の事ながらごめんなさい。
まあ「ネヴュラ」も毎回オープニングからエンディングまで、書いてる私にも「先が読めない」ですから。
ただ、一つ大きな違いは・・・
「ネヴュラ」の場合、毎回駄作ばっかりという事で(号泣)。

2007年2月22日 (木)

毛皮の財布

男性読者の皆さん。
例えば貴方がカジノのオーナーだったとしましょう。
場も盛況、美酒とギャンブルでにぎわう自分のテーブルに、絶世の美女が現れて「女が入ってもよろしいかしら?」なんて言われたら?貴方ならどうしますか?


今日の「ネヴュラ」は前回の続き。私が「007カジノ・ロワイヤル」を観た時思い出した、「もう一つの」傑作をお話しましょう。
ただし、今日のお話は質問形式。
作品を未見の方の為に、ストーリーの要所要所を質問にしてお話します。
その謎を考える事が、このドラマの面白さに繋がるのです。


Photo_536 さて、前回の「必殺必中仕事屋稼業」と並んで、ギャンブルを扱った作品として高い完成度を誇るのが、ご存知、テレビシリーズ「スパイ大作戦」(1966年)第1シーズンの第6話「武器弾薬を渡すな」(チャールズ・ロンドー監督)。

Photo_537 「スパイ大作戦」と言えば、皆さんがよくご存知なのは劇場作品「ミッション・インポッシブル」。トム・クルーズ主演で三作作られた人気シリーズです。傑作テレビシリーズ「スバイ大作戦」の原題を冠するこのシリーズ、私も初作(1996年)は劇場で鑑賞しました。
でもこれは「スパ大マニア」の私からすれば噴飯物の作品で。当時「テレビシリーズを未見の人が、もしこれを観てスパ大を誤解したらどーすんのよ!」と言わんばかりの激怒に震えたものです。

劇場版シリーズも、もうテレビシリーズとは別の道を歩いているようなので、私の腹の虫も少しは納まりましたが、正直言ってあの劇場版は、ストーリー、テイスト共にオリジナルとは程遠い「別物」なのでした。それを理解するのに10年以上をいやした私もそこそこおバカですね(涙)。

Photo_538 テレビ版「スパイ大作戦」の良さは、
「ほぼ50分の番組尺を、作戦のみに使っている所」だと思います。
しかも中身が非常に濃い。

劇場版はこのテレビ版のストーリー密度を10倍以上薄めているように感じます。
あの、「こう来たか」の連続が緊張感を持続させる精密機械のような展開は、テレビ版ならではの味なのです。


さて、そんなお話はともかく。
今回、主人公「IMF」チームが挑むターゲットはある公国の殿下でカジノのオーナー・コスタス。
この公国はカジノが唯一の財源で、このカジノで稼いだ150万ドルを元に、武器を大量に輸入して隣国に攻め入ろうと企んでいます。
「当局」がIMFチームに与えた指令は、武器商人・ボーグマンが到着してから殿下が武器の代価、150万ドルを支払うまでの一晩の間に、殿下から150万ドルを奪いその信用を失墜させる事。


これって、「カジノ・ロワイヤル」のストーリーと似ていますね。
ですからこの指令が下りた段階で、ジェームズ・ボンドとIMFチームは同じスタートラインに立ったと言えます。
違うのはここから。

Photo_545 ダニエル・ブリッグス(スティーブン・ヒル)を隊長に多くのエキスパートを擁するIMFチーム。
でもいつも選ばれるレギュラーメンバーは、カード賭博のイカサマにも長けたローラン(マーティン・ランドー)、男を手玉に取るモデル出身の女優シナモン(バーバラ・ベイン)、機械技術と発明の天才バーニー(グレッグ・モリス)、怪力と寡黙さが魅力のウイリー(ピーター・ルーバス)そしてゲストに、軽薄な男を演じさせたら右に出る者がいないニコ・ミナルドスを加えた5人。
この5人が実に見事な作戦で殿下からお金を奪い取ります。


Photo_540 プレイボーイで有名な殿下にまず攻撃をかけるのは魅惑の美女、シナモン。
冒頭のセリフは彼女のものでした。

シナモンは旦那の遺産目当てに結婚した退屈な妻を演じ、殿下にアバンチュールを迫ります。
その場はまさにカジノ。恋のかけ引きにも絶好の場所です。

シナモンにカードゲーム・バカラを手ほどきし、一度勝たせて「危ないな。女性は」と口説くコスタス殿下。この時の彼女のセリフがいいんです。
「女は皆、危ないものよ。」

酒びたりの旦那を演じるニコは、シナモンに一瞥を投げながらもルーレットに興じます。
さて、ここが第一の作戦なんですが、シナモンは何故殿下に色仕掛けをするんでしょうか?
高級な毛皮のコート。セクシーなワンピース。贅を尽くしたアクセサリーを身にまとって。


Photo_541 ルーレットに興じるニコ。ここへ、旦那をバカにした風情で近づくシナモン。その後ろには怪力のウイリー。この三人が揃った時、驚愕の奇跡が起こります。
ギャンブルの女神が舞い降りたかのように突如勝ち始めるニコ。まるで玉の行き先が読めるかのようにその予想は完全的中。あっと言う間に大金を手にしてしまいます。

カジノのオーナー、コスタス殿下は気が気じゃありません。
第二の作戦。この三人、いったいどうやってルーレットで圧勝したのでしょうか?
実はものすごい仕掛けがあるんですが・・・


Photo_542 その頃もう一つのチーム、ローランとバーニーは、バカラのテーブルからゲームで使うカードを盗み取ります。
客に大勝させない為、カジノ側が仕組んだイカサマを調べているのです。
カードの表を拡大鏡で見るローラン。

第三の作戦。ルーレットで圧勝できるほどの策を講じたチームならそれだけで150万ドルを手中に出来る筈。しかし勝ちはそこそこで押さえます。何故?
また、ここでローランがカードを調べる理由は?


大金を手にし、意気揚々とバカラのテーブルに現れたニコ。さてここには、カードの謎を探り当て対抗策を練り上げたローランが待ち受けていました。大金の行方が気になるコスタスも同席、二人の勝負を見守ります。
それまで負け続きを演じてきたローランでしたが、ニコの登場後俄然強さを見せます。
見る見るうちにニコが儲けた大金を吸い上げるローラン。

第四の作戦。ニコとローランは仲間の筈ですよね。仲間同士でお金のやりとりをする理由は?

一文無しとなり、コスタスから妻シナモンを連れ去るニコ。不満そうなシナモン。
一人勝ちとなったローランは涼しい顔で立ち去ろうとします。しかし、それを許すコスタスではありません。
ここでもう彼は、自分のカジノの負けを取り戻したい意識に支配されているのです。
プリンスのゲーム、バカラ。2枚のカードを引いて、合計した数字の1の位が8か9に近い方が勝ちという単純なゲームです。
このゲームを巡り何百万ドルという大金が飛び交うカジノは、まさに運と意地、そして知略が渦巻く伏魔殿。
今、ローランとコスタスは、このバカラで雌雄を決しようとしているのです。


ここまでお話すればお分かりでしょう。この複雑な回りくどい作戦は、コスタスという男を逆上させ、この心理状態にまで追い込む為の、実に巧妙な心理作戦なのです。
コスタスのイカサマを見破ったローランはそのイカサマを逆用しカードに細工、絶対の勝ちを確信しています。ここでコスタスをさらに熱くさせ、150万ドルを吐き出させれば「ゲーム・オーバー」。作戦は80パーセント成功です。
ローランのポーカーフェイスと絶妙なやり取りで遂にコスタスは150万ドルを掛け金に。
勝利はほぼ目前に迫りました。
しかし!


「スパイ大作戦」をよくご存知の方はお分かりと思います。
このドラマの本当の面白さは、こんな風に水も漏らさぬ作戦が、予期せぬアクシデントに見舞われる所なのです。

最後の一戦。親であるローランが一枚目のカードを引いた瞬間、コスタスの声が飛びました。
「カードを変えよう。気分を新たに。」

ローランは顔色一つ変えません。ここで取り乱しては作戦が水の泡になってしまうからです。

Photo_543 詳しくはお話できませんが、このカードのイカサマは、ローランとコスタスの双方だけに分かる仕組みとなっています。ローランが勝ち続けられたのは勝負用のカードにさらに手を加えたからなのです。
ですからカードを新しくすれば、まともに戦えば運任せ、本当の勝負になってしまうのです。
さらに恐るべき事に、その運はコスタスに味方しました。
次の一枚でコスタスの勝ち。150万ドル奪取は目前なのに。

ここで、このエピソード最大にして最高の作戦が登場します。
クールフェイス、ローランが手にする「一服」。
コスタスをして「死刑台に上る前には大抵一服やりたがるとか」と言わせた、起死回生のスモーク・タイム。
勝利の女神はローランに振り向きました。
思いもかけない展開に「こんな事が絶対ある訳がない」とうそぶくコスタス。
「そこがバカラの面白い所。やめられませんな」の一言を残して立ち去るローラン!


さて皆さん。ここでコスタス殿下の立場に立ってみて下さい。
彼にしてみれば大金を持ち去ったローランを生かしてカジノから出せない筈。当然彼をマークします。
しかしチームはそこまで読んでいるのです。
最も難しい150万ドルの輸送方法。マークされるローラン。

しかしここで、捨石と思われたシナモン、ニコの夫婦が再び登場するのです。
見事な幕切れ。スタンディング・オベーションを贈りたいエンディングは、今でも私の心を捉えて離しません。


Photo_544 この説明では、内容など全然分からないですよね。実はそうなんです。今日のお話で意識的に隠した部分をもし皆さんが容易に想像できたら、「スパイ大作戦」の面白さは半減してしまうのです。
だから「わかんないよー」で正解。でも、今日のそれぞれの質問には明確な、しかも「なるほど」と納得する答えがあります。

答えは作品をご覧になってお確かめ下さい。奇抜なアイデアを詰め込んだドラマの設計図、「シナリオ」の重要性を再認識できますよ。
「カジノ・ロワイヤル」の上を行き「仕事屋・負けて勝負」と並ぶ、素晴らしいギャンブルエピソードをご堪能頂けると思います。


最後に一つだけヒントを。
ラストの作戦は、今日のサブタイトルが雄弁に語っています。
想像してみて下さい。「君の、成功を祈る!(笑)」

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2007年2月20日 (火)

大江戸カジノ・ロワイヤル

劇場鑑賞から早や二ヵ月半。
自宅で過去の作品を見返しながら劇場で初見したイメージを反芻してみましたが、なかなかそれは変わらないものですね。

「007カジノ・ロワイヤル」。
自他ともに認める007ファンの私は、劇場で新作を鑑賞する度に旧作と比べ、時期外れのこんな時にも思いを馳せたりするのです。

Photo_535 昨年末この作品が公開された時、いろいろな方のブログで感想が書かれていました。
賛否両論あって面白かったのですが、その中で共通したご意見が一つ。
「カジノシーンが少し長く感じた」というものでした。
実は、これは私も共感した事で。

いきなり私見ですが、映画という大スクリーンで見せるメディアは本来、大仕掛けなアクションやSFなど、見世物的な素材が適しているような気がします。
ジョルジュ・メリエスの昔から、映画という物は「見た事も無いものを見せる」という出目があるのです。

ギャンブルやディスカッションなど大きな動きを作りづらい場面は、実は演出家にとって最も頭の痛い、エモーションを持続しにくい部分なのではないでしょうか?
(私も自分で演出していてそう思います。つい単調なカットの切り返しが多くなってしまって)
逆に言えば、そういう場面をエキサイティングに演出できる監督は恐るべき才能の持ち主という事も出来ますが。

かねがね感じていましたが、そういう「動きを出しづらい場面」は、大スクリーンよりむしろブラウン管(今は液晶画面でしょうか)の方が向いているような気がします。
つまりテレビ画面ですね。

映画の「動」に対してテレビの「静」。これも業界でよく囁かれる事です。
暗い場所でスクリーンだけを見せる映画と、生活感が回りに溢れた部屋の中で小さい画面を見せるテレビとは、もともと選ぶ素材も演出方法も異なって当たり前なのです。

お台所で食事の後片付けをしながら、画面を見なくてもストーリーが把握できる。実はこれがテレビというメディアに向いている素材なのです。「映画は絵、テレビはおしゃべり」と言われる所以がここにあります。
シドニー・ルメット監督の名作「12人の怒れる男」(1957年アメリカ)がテレビ向き、と言われる理由もそんなところにあるのでしょう。

いつもの癖で、お話が「カジノ・ロワイヤル」から随分逸れてしまいました。
ここらで軌道修正をしますと(笑)、あの作品中、敵役のル・シッフルをカードゲームで追い詰めるボンド、という場面は、私にとって「名作番組を思い出させる」絶好の機会でした。
あの場面を反芻すればする程、ギャンブルという素材がいかにテレビのスケールに合っているかがよく分かるのです。

(いい悪いではなく、向き不向きの問題なので誤解の無いよう)

私はギャンブルなど全く才能が無く、実生活でそういう場面に出くわしても全然興味を示さないのですが、その実ドラマ作りにとって非常に魅力的な素材と感じます。
欲、かけ引き、意地、そしてカタルシス。ドラマに必要な要素の全てが「静」の場面に集約されている気がするからです。
その為テレビ番組には、ギャンブルに絡めた名作ドラマが複数存在します。
その多くはシリーズドラマの一本として放送される為、映画ほど話題に上らない事も多いのですが、それでも語り継がれる名作はあるもので。


賢明な「ネヴュラ」読者の皆さんからすれば本当に無知な私ですが、それでも「その緊張感はカジノ・ロワイヤル中のカジノシーンより上」と思った作品は二本ありました。
今日のタイトルはその内の一本を暗示したもの。(一部の方にはバレバレですが)
そうです。その作品です。「命ぎりぎり勝負を賭ける」あれです。

Lp 「必殺必中仕事屋稼業」(1975年)。
ご存知必殺シリーズ初期の作品として放送されたいわゆる「非主水作品」です。

シリーズの顔として後期必殺を代表するキャラクター、中村主水はこの頃まだレギュラー化していなかった為、この作品は傑作でありながら知名度の低い、埋もれた傑作と言えるかもしれません。
しかしながらそのクオリティーの高さは特筆もので、私の中で必殺全シリーズ中三本の指に入るほど好きな作品なのです。

くどくど説明するのも野暮なので簡単にお話しますが、
この作品は「殺し技が見所の必殺」として見ると幾分面白みに欠けます。

殺し技というより「殺しの緊張感」に重きを置いているからです。演出側から見て、「緊張感」へドラマの力点を振るのは自分で自分の首を絞めるようなものなんですが、スタッフはあえてその領域に挑戦したんですね。
しかも今日採り上げるのは、全シリーズ通しても極めて珍しい「悪役が殺されない」エピソードで。
お好きな方、この流れを読んでたでしょ(笑)。

第20話「負けて勝負」(1975年5月16日放送)。
必殺ファンの間でも今だに語り草になっているこの作品です。

私は「カジノ・ロワイヤル」を観た時、即座にこのエピソードを思い出しました。「負けて」の「勝ち」なんて(笑)。
この「仕事屋」に登場するメインキャラクター、半兵衛(緒方拳)と政吉(林隆三)は、いわゆる「殺し屋」としてのスタンスを取っていません。
と言うのは「仕事屋」=「殺し屋」ではないからです。

一言で言えば「裏の便利屋」という所なんですね。だから殺し「も」手掛ける仕事、と考えるのが妥当で。
実は二人とも、殺し屋としてはプロではないんですね。
そこに生まれる「敵に負けるかもしれない殺しの緊張感」が、ファンの心を捉えて離さないのです。


3s ところが良くした物でこの二人、恐るべき特技があります。
ギャンブルの才能です。

一か八かに強いその天性のカンで殺しの非力さをカバーしてしまう。これもファンにはたまらない設定でした。数々の修羅場をそのカンで凌いできた二人だったのですが・・・
「負けて」に登場した敵、伊三郎は、そのままギャンブラーだったのです。つまり同じ土俵での勝負という訳。
これは恐るべき敵でした。
ギャンブルの腕と才能が唯一の武器であった二人は、そのプライドを賭けて伊三郎に臨みます。
勝負はポーカー(江戸時代に!)


伊三郎は博打の腕も立つ上美形を生かしたプレイボーイ。
半兵衛は一度ポーカー勝負で伊三郎に大敗し、ギャンブラーとして伊三郎に対抗意識を持ちます。
さらに半兵衛の内縁の妻お春に言い寄る伊三郎。伊三郎はお春が半兵衛の女と知りません。(一時間番組ゆえのご都合主義と捉える事もできますが、ここはストーリーにうねりを加える為の、脚本家・田上雄の手腕と見たいですね)

天才と見られた伊三郎ですが、実は場を貸す大和屋の女主人と密通、しかもカードにイカサマを仕掛けていました。
このイカサマにより身代を潰された大店・田島屋が一家心中するに至ってシリーズの定石通り「許しちゃおけない」展開となる訳ですが・・・


ここから先は「博打で殺す」半兵衛、政吉の見事な手際の良さを味わえる、至福の時間が展開します。
実は今回、半兵衛は3重の意味で伊三郎を意識しているわけですね。
「ギャンブラー」として。「仕事のターゲット」として。さらに無意識にしろ「男」として。

この重層的な思惑が、「負けて勝負」というエピソードを名作足りえているのかもしれません。
しかし、クライマックス場面で見る者の喝采をさらうのは、実は半兵衛ではないのです。
相棒、政吉のあの「ポーカーフェイス」。そして受けて立つ伊三郎の、あのワンカット37秒にも及ぶ顔のアップ。(ここは伊三郎の表情だけでドラマを引っ張る、松本明監督と役者の戦いですね)


4s 練りに練られた脚本。張り巡らされた伏線。濃密な空気感。緩急自在のカット割の妙。
ここに至ってはもう「必殺」であるとかないとか言うお話じゃないんですね。
「ドラマ」としての完成度。テレビというメディアの特性を活かした演出の到達点じゃないかとさえ思います。

未見の方に配慮してラストはお話しません。でも半兵衛・政吉コンビは見事な仕事ぶりを見せます。
このエピソードも立派に「仕事屋」の一篇なのです。
おそらくこれも、必殺シリーズという番組が本来持つ世界観の幅なのでしょう。


ドラマの面白さや殺しのダイナミズム、照明の美しさなど数々の魅力を持つ必殺シリーズですが、実はこうした「テレビ的な緊張感」を表現した演出も特筆すべき作品群と思います。
さて、意識的に伊三郎の俳優名を伏せてみました。ここでお話しましょう。
名優、津川雅彦。津川さんの37秒アップは効きますよー(笑)。


テレビ作品のエピソード紹介も多い「ネヴュラ」。この辺のテレビシリーズってDVD化はされていても、なかなかレンタルまでされていないのが現状で。
でも偏屈な私は、「貴重な時間を返して!」と叫びたくなる作品の紹介より、たとえ見るのが困難でも名作の名にふさわしい作品をお話したいですね。
ただ、たまたま「仕事屋」は今、CSでオンエアされているそうですから(記事は偶然ですが)もし機会があればご覧頂ければと思います。

「どうせつまらないだろう」って?
賭けましょうか?う~ん。五千両!
きっと「負けて勝負」のクオリティーは、キングのフォーカードの上を行っています!(笑)

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2007年2月18日 (日)

石に宿る怒り

「いやーやっぱり大迫力だなー。」
今日も「ネヴュラ座」46インチテレビの前で歓声を上げる私。

今まで小さいテレビばっかり見ていたので、この大画面テレビには今だに一種の「畏敬の念」さえ覚えてしまうのでした。
観る前にちょっと心の準備をしたりして(笑)。

昨日の「ネヴュラ」をご覧頂けばお分かりの通り、GEOでDVDを格安レンタルしてきた私。昨夜から今日にかけ、昔見た作品を再見する「夢のリバイバル上映」にどっぷり浸かっていました。昨日お話した「めまい」もその一本だったのですが、何と言っても特撮好きな私、実はお店で最初に手にしたソフトは別の作品だったのです。

Photo_529 「大魔神」(1966年大映 安田公義監督)。和製特撮映画の中でとしてゴジラ、ガメラと並ぶ知名度を誇る人気キャラクターの、これは第一作です。
大魔神シリーズはこの第一作に続き、この1966年中に「大魔神怒る」(三隅研次監督)「大魔神逆襲」(森一生監督)の全三作が公開され、その後幾度か新作の情報が流れながら、今も実現されていません。
ここへ来てやっと、来年新作公開の予定(角川ヘラルド 三池崇史監督)が耳に入ってきましたが。それほど新作が熱望される人気シリーズですから、改めて第一作の再見を思い立った気持ちもお分かり頂けると思います。

この「大魔神」。そのキャラクターばかりが一人歩きしてしまい、ストーリーをしっかり覚えている方は意外に少ないのではないでしょうか。
かく言う私もその一人。お話するにはお恥ずかしい限りで(笑)。
実際、この第一作は劇場鑑賞した事がありませんでした。
私が生まれて初めて劇場で観た作品は「ガメラ対大魔獣ジャイガー」(1970年)でしたから、その4年前に封切されたこの作品を劇場で観られるはずもなく。
でもこれ、公開当時劇場で体験していたら、まず間違いなくトラウマになっていたでしょうね(笑)。


Photo_530 実は、今回の再見はそれほどまでに衝撃的でした。
毎度申し上げますが、映画というメディアは監督が「大スクリーンで上映する事」を前提に作ります。あの暗い劇場内に浮かび上がる、巨大な画面の為に作り上げるのです。
ですからその全ての効果は本来、テレビ画面では最大限に発揮されません。

:劇場のスクリーンには叶わなくとも、それに迫るサイズの46インチ(2メートル手前まで近づいて鑑賞)すると、監督の意図が少なからず分かります。本当はこれでも足りないんですが。
考えてみて下さい。「あの大魔神の目が1メートル!」って!

こういう効果は、監督が「ここで大アップを入れて、観客のドギモを抜いてやろう」と企んだ末の演出。これはビックリしますよー。病み上がりの体にはショックが大きい(笑)。
つくづくこういう映画を観るには体力が必要と思いました。

画面の迫力もさることながら、そのストーリーもなかなか魅せるものがありました。
実は私、この第一作をちょっと敬遠していたのです。
というのは、この作品を昔テレビで見た時、魔神出現までのあまりの冗長さに辟易した経験がありまして(笑)。

怪獣映画で怪獣が暴れる場面以外に興味が持てない子供だったんですね。ですから今回の再見で、初めてまともに作品と向かい合ったという訳で。遅すぎますね(笑)。
今回は私の覚書の意味も含め、ざっとお話をご紹介しましょう。

Photo_533 戦国時代。豪族の一人、花房家が統治するある村では、「魔神の伝説」がありました。
ある夜、地を揺るがす謎の足音におののく村人は魔神の怒りを鎮める村祭りを開きます。

当主花房は村人の不安を取り除くよう家老、左馬之助に命じますが、左馬之助はこの祭りの喧騒に乗じて花房に反旗を翻したのです。
花房夫妻は左馬之助の手にかかり、残された幼い遺児、忠文と娘の小笹は近臣の子源太と一緒に「魔神の住む山」に逃れました。
ここまでが第一部的展開ですが、これはある一点を除いてまさに時代劇、大映京都の風格を存分に見せる堂々たる作風です。ここでも、セットのあらゆる場所に視点を据える大映ならではのダイナミズムは健在。
子供の頃には退屈に見えたこの序盤でしたが、今見ると大変力の入った演出ですね。
ここまで本篇をしっかり見せられる自信を持つ大映京都でなければ、この「大魔神」という企画は考えられず、また後半の迫力も生まれなかったと思います。


左馬之助による謀反から十年。
領民は、城主となった左馬之助の傍若無人な悪政・重税に苦しんでいました。そのシンポルとなるのが城の城壁。

都に攻め入ろうとする左馬之助は領民を酷使して城壁工事に駆り立てていたのです。
その仕打ちに耐え切れず体を壊す人々も。

その頃、若く立派な若者に成長した花房の子息、忠文は、左馬之助の悪政を打ち砕かんと近臣、子源太と山を下り都へ。
しかし多勢に無勢、駆けつけた花房の残党と一緒に捕まり、領民の見せしめとして磔の刑に処せられる運びに。


山に残った娘、小笹は、「魔神の住む山」で、魔神の寄代とされる武神像の下に暮らしていました。この武神像が後々ストーリーの中心と化す大きな意味を(皆さんお分かりでしょうが)持つのですが、この設定がこの映画オリジナルというのはちょっと信じられません。
出来すぎている。ひょっとして昔の民話か何かにこういうお話があったのでは、と思えるくらい違和感が無い。
「これ以上でもこれ以下でも成立しない」お話の典型です。


武神像を神とあがめ、封じる巫女、信夫は、満を持して左馬之助の元へ。しかし神の存在を信じない左馬之助により返り討ちにあってしまいます。あまつさえ左馬之助は、領民の信仰の元となる武神像を破壊せんものと家来を山に差し向けました。
家来、軍十郎率いる武隊に襲われる小笹。さらに武隊は武神像破壊の為、像の額にタガネを打ち込むという暴挙に出ます。しかしその時恐ろしい事が。
武神像の額から真っ赤な鮮血が流れ出てきたのです。


ドラマはここまででほぼ一時間が経過しています。「大魔神」は全篇で84分ですから、魔神出現の兆しまで全篇の3分の2を費やしているという訳です。
おそらくこの一時間が子供には耐え切れない長さだったのでしょうね。でもここからはどんな怪獣映画も到達しきれないリアルな破壊絵巻となるのです。

Photo_531 Photo_532 さて。私の説明はここまでとしましょう。以降の迫力は私の筆力ではとても表現できません(笑)。

まあここから先は皆さんご存知の「変身」「破壊」「終局」です。

高山良策による大魔神の見事な造形、武神像から大魔神への表情のコントラスト、実物の2.5分の1サイズの瓦一枚一枚を本当に焼いたと言われる通称「魔神工房」製の城壁ミニチュアなどなど、見所満載のスペクタクルシーン。
まさに「魔神の怒り」を表現したすばらしい展開です。

ここを語るだけでも大変な時間がかかってしまいますから今回は作品をご覧頂くとして。
実は私、今回の再見で二箇所程再発見があったのです。


今日のお話の前に、いろんな方々が書かれた「大魔神」のレビューを拝見したのですが、私が気になった部分に言及された記事にはお目にかかれず。結論めいた事も正確な解説もないので、毎度の私見になってしまう事をお許し頂きたいのですが・・・
「大魔神は神」という、これまでの定説についての私見ですが。

その一。オープニング直後の「大魔神の足音と地響き」。
これについて明確な説明は劇中のどこにもありません。
この地響きが領民の思い過ごしや超自然的な現象で無い事は、実際に揺れる部屋の映像が証明しています。
あれ、何だったんでしょうか?

この直後、魔神の怒りを鎮める為の村祭りのシーンに移っていますから、この地響きは作品の導入部として非常に大きな意味を持ちます。
つまり、大魔神は作品開始時点で「他の場所で暴れ、山へ戻ってきた」という事でしょうか?人々が噂する「神社境内の大きな足跡」は、大魔神が以前も出現した事を暗示しているのでは?

さらにその二。
「武神像にタガネを打ち込んだ時の、額から流れる血」。

これは作品後半、大魔神の怒りを呼び覚ます上で大変重要な場面ですよね。
しかしよく考えてみると、神様ともあろう存在が「赤い血」を流すでしょうか?仏様ならまだしも。


Photo_534 この二つから考えられるのは(あくまで想像上のお遊びですが)
『大魔神は神ではないのでは?』という発想で(笑)。
確かに大魔神はその形相を変化させたり光になって移動するなどの能力を持つ事から、人工物で無い事は明らかでしょう。昔、雑誌「宇宙船」にあった「圧政に苦しむ村人が密かに建造した攻撃型巨大ロボット」などではないと思います(笑)。
でも、神と言うよりは「人」に近いような気もするのです。

こう考えてみたいんですね。
「大魔神は、この時代の理不尽な圧政に苦しめられた、名も無い人々の怒りの集合体では」なんて。


この存在は思念の集合体ですから形を持ちません。光となって国内各所に移動も可能であれば、像のような物体を寄代として物理的な破壊も可能という訳で。さらに各地の怒りを吸収して力もますます強大になるという。
作品オープニングの地響きは、別の場所で圧政を退け、怒りを吸収した魔神が山へ帰ってきた事を表しているのではないかと。
「血」もそうですね。神が赤い血というのはちょっと考えにくいですが、「虐げられた人々が流す血」という事なら鮮血も納得が行く、なんて。
この作品で武神が魔神に変身したのは左馬之助の圧政が頂点に達した時。領民の怒りの大きさに反応して、この存在も動き出すのでは。


私をそんな考えに導いたのは、怒りの魔神の形相、そのスーツアクターを務めた橋本力氏の「目」を見たからかもしれません。
あの血走った、怒りに満ちた赤い目。
あれは神の目でしょうか?


私にはあの目は、権力闘争の犠牲となり、またいわれの無い冤罪、不当な労働などで亡くなった、何万人と言う市井の人々の怒りの頂点に見えました。
破壊の限りを尽くさなければ収まりがつかない程の凄まじい怒りを、あの目に感じたのです。

まあこんなお遊びをしたくなる程、魅力的な作品世界と言う訳ですね。他のご意見も聞いてみたいような気がします。

そのラスト、高田美和扮する小笹の涙にその場を立ち去る魔神の心は、一時にしろ安らぎを迎えた事でしょう。
赤い血を流し、涙に反応する存在。
「血も涙も無い」訳ではないと(笑)。


実は今回、続篇「大魔神怒る」「大魔神逆襲」もレンタルしてきました。やはり敬遠し続けたこの2作。
再会を果たした時、今日の考えが変わっているか、思いを強くしているか。また楽しみが増えました(笑)。

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2007年2月17日 (土)

神もまた一人の男性

ここ二日ばかり、体調を崩しておりまして。
今朝ぐらいからかなり回復してきたので、「ネヴュラ」更新の気力も出てまいりました。
覗いて下さった皆様、ご迷惑をおかけしました。


この二日間、何をしていたかと申しますと。
微熱にうなされながらも、「ネヴュラ座」でDVDを鑑賞していたという(笑)。

これ、面白い経験でしたね。なにしろ映画館の中で布団に入っているようなものでしたから。究極の贅沢と言うかおバカと言うか(笑)。
ても不思議なもので、自分の中でこの46インチはあくまで「劇場」扱いなんですよ。基本的に映画しか再生しない。テレビ作品でもよほどお気に入りのものしか再生しないというこだわりがあるのです。
映画のオーディオコメンタリーなども「テレビ扱い」という訳で。
この変なこだわりの為に、始めて聞く「日本沈没」(2006年樋口版)のオーディオ・コメンタリー音声もわざわざ小さいテレビで鑑賞、という状態だったのでした。
変ですよね。私以外誰も見ていないのに。

2バージョン用意されていたコメンタリーの内、私が聞いたのは勿論「スタッフ篇」の方で。シーン毎の苦労話や、舞台裏などを聞き込んで、今後の鑑賞の参考にしようという魂胆だったのですが、その中で一つ、気になるやりとりがありました。
ラスト近く、もんじゃ焼き屋「ひょっとこ」のメンバーが退避中の山中で地割れに巻き込まれるくだり。コメンタリーメンバーの中から「ネットなどで「神の目を嫌う樋口監督にしては、今回俯瞰目の「神の目目線」が多い」と書かれているが」というセリフが出たのです。

ここで言う「神の目」とは、人間が見る位置から見られない、言わば空中にカメラを据え付けない限り撮る事が不可能な視点の事を指します。
怪獣同士の戦いなどで「これ、誰の視点?」と首をひねった経験がおありと思いますが、それが「人間を超越した「神にしか見えない視点」という訳なのです。


私はこのコメンタリーを聞いた時、「神の目」という言葉に不思議な懐かしさを憶えました。確かに平成ガメラ以降、人間の視点にこだわったカメラアングルは言わば怪獣映画の定番となりつつあります。
でも私には、この「神の目」というキーワードが別の記憶を引き出す一言となったのです。

そんな記憶を反芻しながら今日覗いた近所の「GEO」。
今日明日の二日間、旧作レンタルが一本70円と聞いたからには、意地でも借りなきゃ気がすまないという訳で(笑)。
ありました。「神の目」を持つ男の作品。それも私が一番好きな作品が、デジタルニュープリントのリニューアルバージョンで店頭に。70円なら迷わず即レンタルしかありません。

Photo_520 「ネヴュラ」でもたびたび話題に上る巨匠、アルフレッド・ヒッチコック監督。読者の皆さんにはもはや説明の必要も無い超有名な映像作家ですね。私、このヒッチコックの作品を一時期追っかけた事があります。
病こうこうとなったのは彼が亡くなった1980年から数えて4年、84年の事でした。この年、ヒッチの遺族らから過去の作品の上映許可が下り、日本でも初公開から数十年を経て、過去の名作を大々的に上映するリバイバルフェアが開催されたのです。そのタイトル「ヒッチコック・フェスティバル」。

私はこのフェスティバルで、今まで観られなかったヒッチの諸作品に触れ、改めて巨匠の偉大な足跡を再確認した訳ですが、中でも私を一番興奮させたのが「めまい」(1958年)でした。

過去の作品って、今ならお仕事の帰りにでも軽く一本なんてノリでレンタルできる時代になりましたが、84年現在、ソフト化されていた作品などまだまだ少なく、レンタル料金も一大決心が必要なほど高額だったのです。そもそもこの「めまい」そのものがレンタルされていない。公開当時まだこの世に居なかった私にとってこれら一連の「リバイバル不可」作品は、まさに喉から手が出るほど観たい(変な表現ですね)作品群だったのです。

Photo_521 「ヒッチコック・フェスティバル」第3弾の一本として上映された「めまい」は、やはり噂にたがわぬ名作でした。
よく話題に上るヒッチの諸作品は「鳥」(1963年)「サイコ」(1960年)「北北西に進路を取れ」(1959年)「裏窓」(1954年)などですね。私はそれらの大作も大好きですが、この「めまい」や「マーニー」(1954年)の方が、むしろヒッチの資質をよく表しているような気がするのです。

「めまい」制作に至る経緯は今更申し上げるまでもありませんが、この前年「間違えられた男」(1957年)を完成させたヒッチは、そのドキュメンタリー・タッチとは真逆の、思い切ったフィクションストーリーを物色していた時期だったのでしょう。ピエール・ボアロ&トマ・ナルスジャックの原作「悪魔のような女」を狙ったのもそういう事情があった事は明らか。
この作品は1955年、フランスのアンリ・ジョルジュ・クルーゾーによって映画化されていますから、ヒッチは企画契約上、先を越された形になります。

そのボアロ&ナルスジャックに再び白羽の矢を立てたのも無理はありません。
そして実現の運びとなったのが「めまい」の原作「死者の中から」。当時ヒッチはクルーゾー作品にどんな印象を持っていたのでしょうか。対抗意識もあったとしたら、この「めまい」の制作にはかなりの熱が入った事でしょう。
いつも原作を大幅に改変するヒッチコック。今回のストーリーも見事にヒッチ・ワールドが展開します。

Photo_522 さて。今回「ネヴュラ」では、「めまい」のストーリーを伏せます(笑)。
ヒッチコック作品は、ストーリーを説明する事が作品の本質的な魅力を伝える事にならないんですよ。

これは、ヒッチの諸作品をご覧の皆さんならよくお分かりと思います。ヒッチ作品の面白さって、「作品のテーマから窺える監督の性格」とか「華麗なカメラワーク」とか「カットの絶妙な長さ」とか「画面構成が醸し出す独特の空気感」ですよね。
例えば「鳥」のストーリーなんてあって無いような物ですし。

まあご覧になった方も多いでしょうし、未見の方は「まず観て下さい」としか言えません。
この気分、ご理解下さい(笑)。
ただ、この作品も「映画的」としか言いようのない面白さに満ちています。要は「言語化出来ない程映像的」という事で。

Photo_523 よく言われる事に、この「めまい」というタイトルには二つの意味がある、という説があります。今回再見してみて、この説は実に正しいと思いました。84年に劇場で鑑賞した時にはヒッチの華麗な演出テクニックにばかり目が入って、タイトルに隠された重層的な意味など少しも理解できず(笑)「ジェームス・スチュワートが階段から下を覗いたカットの素晴らしさ」とか、キム・ノヴァク扮するジュディがホテルの明かりの中シルエットで語る「なぜ、彼女を思い出すから?」の後のセリフの絶妙さなどを語りまくっていたものです。あー恥ずかしい(涙)。

Photo_525  「めまい」に限らず、ヒッチ作品には息を飲むような美しく華麗なカメラワーク、また観客の感情を心憎いまでにコントロールした演出テクニックが続出します。それらが渾然一体となって独特の「ヒッチ・ワールド」を形成している訳です。
しかしながら今回私が感じたのは、「作品全体から放たれる視線の特異性」でした。


通常、映像作品のストーリーやカメラワークは観客の生理的な感情の動きを誘導するように作られます。そうしなければ観客はストーリーに入り込めないからです。
映像とは「勝手に捲られて行く本」のようなものですから、観客の生理に合わせなければ、観るものに著しいストレスを与える事になります。
(それを計算し、意識的にストレスを起こさせる監督も居ますが。)

ヒッチコックの絶頂期の諸作品を鑑賞していると、その登場人物を見据える眼差し、ストーリーを運ぶ手際、カメラワークによる意識の誘導などには「人間の一段上を行く、神のような存在」の視線を感じるのです。うまく言えませんが(笑)。

Photo_526 私のような、映像を作る人間から見ても「なんで今その絵を観たいかが分かるの?」「ここではこれ以上賢いカメラワークが選択できない」といった、人知を超えた知略が動いているような、天才的なヒラメキを感じるのです。
強烈な印象を残す「神だけが知っている犯人へのアップ」的なカットも、その印象に拍車をかけているのでしょう。
観客の意識の半歩先を行くのが普通の演出なら、ヒッチは一歩先を行っている。
運命をコントロールしているかのようなその先取りぶりが、「視線の違い」を生み出しているのでしょう。

実際「めまい」でも、凡庸な監督なら陳腐なカット割で見せてしまうような所を、ヒッチは見事な「神目線」で演出しています。「キム・ノヴァク初登場のカット」や、「美術館での、絵と人物のカットバック」などなど。何の変哲も無いシーンなのに、ヒッチが撮るとこうなるという。あれ、誰の目線と思いましたか?ジェームス・スチュワート?確かにそういう流れなのですが、それだけじゃあんな不思議な感覚は生まれないと思いませんか?
まさにこれが「神の目」なんだなーと、改めて感心しました。


Photo_527 そんな「神の目」を持つ男ヒッチにも、主演女優を巡るスキャンダルがあった事は皆さんご存知と思います。
「裏窓」などで絶世の美女ぶりを見せ、後にモナコ王妃となったグレース・ケリー。ヒッチは後年「マーニー」でグレースの出演を熱望しましたが叶わず、グレースの面影を持ち、前作「鳥」に出演させたティッピ・ヘドレンを主演に抜擢したのでした。
ヒッチにとってティッピはまさにグレースの再来。ティッピをグレースに見立てようと努力を惜しまず、ついには関係を求めようとした事さえあったとか。

こういう話題はハリウッド・スキャンダルとして何かと話に尾ひれが付くものですが、男性というものはこれ程までに理想の女性を追い求め、一つの理想形に当てはめようとするものなのか、なんて思ったりもします。
巨匠も魅力的な女性の前では一人の男性だったんですね。
「めまい」は、後年ヒッチが辿った道をそのまま映し出していた、と考えるのは少し意地悪でしょうか(笑)。


でもそんな女性に対するパワーを作品として見事に昇華させてしまう所も、ヒッチの天才たる所以でしょう。
後年文献で「職人」という評価を受けがちなヒッチですが、私には天才と映ります。
その性癖、発言、実験的な作品群も含めて。


女性の立場としては、「めまい」劇中のマデリンのように、一途に愛されたいですね。
たとえ歪んだ愛だとしても。でも現実にはちょっと・・・
天才の仕事に素直に感動するのが無難でしょうか(笑)。

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2007年2月14日 (水)

恋する○○ラ

先日、『良い映画を褒める会。』の用心棒様から頂いたコメントに、「ゴジラ対ガメラ」のお話がありました。
Photo_513 ゴジラ対ガメラ!
怪獣映画ファンなら誰もが一度は夢見る、特撮映画最大にして最後のビッグカードですね(笑)。

「あーでもない、こーでもない」と自由な妄想を話し合う時間は大変楽しいもので。
それぞれのファンの思いも最大限に高まっていますから、これがいざ実現の運びになっても、すべてのファンが納得する作品作りは不可能じゃないか、なんて思います。
昨夜も私、この話題でしばし先輩と盛り上がりました。

でも話を進めるうちに私の中では、「こんなお話、成立するんだろうか?」なんて考えが頭をもたげてきたのです。
「どのゴジラとどのガメラが戦ったら一番面白いんだろー?」
「でもゴジラもガメラも作品毎に世界観が違うから、本当に難しいだろーなー。」


昔、「モスラ対ゴジラ」(1964年東宝 本多猪四郎監督)の企画を聞いた時思いました。
ゴジラとモスラって、もともと世界観が全然違いますよね。核の恐怖を背負った人類の負の遺産ゴジラに対し、小美人を従え、南洋の島に生息する生命力の象徴モスラ。
リアルとメルヘンという世界観の差に、「ウルトラマンと仮面ライダーが戦う」みたいなちぐはぐ感を感じてしまったのです。(これはオリジナルビデオで実現してしまいましたが(笑)。

ところが出来上がった作品「モスゴジ」は意外にもその世界観の際どい部分スレスレを行く見事な傑作に。
もし「ゴジラ対ガメラ」なんていう掟破りの企画が実現したとすれば、これはもう「モスゴジ」レベルを遥かに超えた世界観の統一が必要になるのでは、なんて思ってしまったのです。


Photo_514 先輩とは他愛の無い会話でした。別に結論めいたものは何も出なかったですから、前述のお話も半ば冗談交じりの物だったのですが、こんなお話をしながら苦笑混じりに出たのが、「なんでこの話題だけは何十年も飽きがこないんだろーねー」というセリフで。
結局、これはそれぞれの怪獣への思い入れがなせる事なんでしょうね。
でも私達怪獣ファンは、何故これ程までに怪獣に思い入れができるのでしょうか。


その時、私がふと漏らしたセリフにこんなのがありました。
「いやーゴジラ対ガメラなんて、『エイリアンVSプレデター』(2004年アメリカ ポール・W.S.アンダーソン監督)みたいな企画だから、どんな作り方をしてもああいう結果になっちゃうと思いますよ。」
賢明な読者の方々なら私の間違いにお気づきでしょう。
私もこの言葉を漏らした直後、強烈な違和感に襲われたのです。


「あれ?こりゃ全然違うぞ。私、何言ってんだろ?」

この「エイリアンVSプレデター」という作品。私は以前、DVDで一度見ただけなので詳しい解説はできません。でもまあ一言で言えば、アメリカの2大SFキャラクター、エイリアンとプレデターが正面切って戦う、という「イベント映画」。お互いのキャラクターの世界観をかなり水割りして、歩み寄った末に出来上がった作品、という印象を受けました。
まあ世界観がどうの、と言ってしまうとキリがないので今日はお話しませんが、私がこの作品のタイトルを口にした時感じた違和感は、そういう部分ではなかったのです。
そう、皆さんもお気づきですよね。
海外の「モンスターやクリーチャー」と、日本の「怪獣」の決定的なあり方の違い。


「種」と「個体」の違いです。

よく言われる事に、「海外のモンスターは種族名であり、個体名ではない」というのがありますよね。「エイリアン」も「プレデター」も、あれはそれぞれの「種族名」なんですよ。「人間」という呼び名と一緒です。これは日本で言う「怪獣」という種族(笑)と同じ意味になります。
そして日本ならではの「ゴジラ」や「ガメラ」という呼び名は、人間で言えば「本多さん」とか「湯浅さん」とかの個人名に当たる訳です。住民登録されている訳ですね(笑)。
だから位置づけが違う。


例えば「エイリアンVSブレデター」で言えば、例えプレデターの内の一人が一体のエイリアンを倒したとしても、それは「プレデターの完全勝利」にはならないと。「プレデター田中がエイリアン佐藤に勝った」だけにすぎない訳です。エイリアン族とプレデター族が全面戦争でも行って、どちらかの種族がもう一方を完全に殲滅でもしない限り「勝ち」にはならない理屈です。
これは怪獣同士の戦闘と意味合いが違います。

怪獣の場合は一頭一頭に名前が付いていますから、それらが戦うとなればもう「後がない」。戦争というより果し合いに近いんですね。そんな存在である怪獣を海外のキャラクターに当てはめてみると、むしろそれは「スーパーマン」や「バットマン」など、スーパーヒーローに近いんじゃないかと。
「スーパーマン対バットマン!」海外コミックスで盛況のこれらのストーリーが、日本の怪獣対決に大変近い空気を持っているのです。

まあこんな事は、今更私などが声を大にしてお話するまでもなく皆さんよくご存知ですよね。海外のスーパーヒーローと同じく、一体一体が代理の効かないワンオフの存在である怪獣。
エイリアンなど団体戦が元々不可能な存在である為に、その対決ストーリーの盛り上がりも最高潮に達するのではと思います。

Photo_515 私達が「ゴジラ」「ガメラ」と、各々の怪獣に感情移入できる理由は、この「個体である」という事実が非常に大きいと思います。
海外の怪獣ファンが日本の怪獣の特異性を語る時も、よくこういう言葉が出ますよね。
「日本の「カイジュウ」には、アメリカのモンスターには無いキャラクター性がある。」

これは実に頷ける言葉です。私も納得できます。
日本の怪獣がアメリカンヒーローと同じようなキャラクター性を持つ理由については、これからも研究の余地を残す非常に興味深いテーマですね。

思い当たる節も山ほどあって(笑)。
例えば「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(1967年大映 湯浅憲明監督)で、ギャオスの超音波メスでガメラの腕が切り裂かれた時、「痛そー」とか「ガメラ頑張れー」などと思ったものです。
同じく巨大生物が闊歩する「ジュラシック・パーク」(1993年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)で、群れで行動するヴェロキ・ラプトルがいかに痛めつけられても、別に「ラプトル頑張れー」とはならないですもんね(笑)。

Photo_516 受け取り方の個人差もありますから一概には言えませんが、かように日本の怪獣には「個体」であるという事がキャラクター性の向上に大きく貢献しているんですね。
前述の「大きな違い」というのはこの部分なんですよ。
だから「ゴジラ対ガメラ」なんて対戦カードでは、片方が負ける事の「重み」が違う。

ファンにとってはそこが、たまらなく楽しみな所でもありますが。

無い頭でちょっと思った事ですが、これは日本の怪獣映画の始祖「ゴジラ」(1954年東宝 本多猪四郎監督)の誕生理由に関係があるような気がして。当時、円谷英二特技監督はこのゴジラの参考資料として「キング・コング」(1933年アメリカ )のフィルムをアメリカから取り寄せ、勉強したと言います。
Dvd_1 この「キング・コング」という呼び名が「ゴジラ」命名のヒントになったと推測するんですね。
要は「大猿」とか「巨大猿」とかじゃなくて、何かオリジナルの個体名を付けようという発想が。
ひょっとして「キング・コング」という先例がなければ「ゴジラ」だって、「巨大恐竜」とか「大怪獣」なんて呼び名で終わっていたかもしれないなー、なんて。


考えてみれば、これまで何度かリメイクされた「キング・コング」のストーリーは、いずれも観客がコングに感情移入できる作りになっていました。やはり「個体」という設定は観客の思い入れを強くするんですね。

日本のオリジナルと思われた「怪獣の個体名」のルーツが、「ゴジラ」以前のアメリカにあったのかもなんて楽しい妄想も、ファンに許されたお遊びの一つですが。
毎度のオバカな私見です。
識者のご意見もお聞きしたいものですね。


ともあれ、私が怪獣に心を奪われて数十年。
これからも「ネロンガの角は」「キンゴジの体躯は」なんて、個体名で怪獣を語る事も多いでしょう。

「恋する○○ラ」は治りそうもありません(笑)。
「ゴジ」「ガメ」「ギド」・・・
「○○」に入る個体名は、きっとファンの数だけあるんでしょうね。

さて、今日はバレンタインデー。
こんなおバカなお話をいつも聞いて下さる方々、コメントなど頂ける方々に心ばかりのプレゼントです。(写真だけですが)


Photo_519

オタクイーンより皆さんへ、愛を込めて。
これからもよろしくお願いいたします。(礼)

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2007年2月11日 (日)

業を映す異形

Photo_506 待ってました!
封を開けるのももどかしく、梱包をほどいたのは「ガメラTHE BOX1965-1968」。

「大怪獣ガメラ」「対バルゴン」「対ギャオス」「対バイラス」のDVD4作品がパックされたもの。6年ほど前に発売され、今では店頭でもほとんど見かけないレアBOXです。
最近もっと凄いBOXが出ちゃいましたからねー。貧乏な私はそんな高いセット買えやしない(涙)。このBOX、数日前近所の電気屋さんで見かけたのですが、シュリンクパックが破れ、パッケージが日焼けしているにも関わらず定価、という状態だったので泣く泣く諦めていたのです。
それがオークションで新品、日焼けなし(笑)で出品されていて、狂喜した私は即断即落札。かなり安く買えました。
探した甲斐があったというものです(笑)。


でもこういうのって届くまで不安なものですよね。なにしろ写真だけで判断しなければならないので現物を見るまでは。
でも届いてビックリ。こんなに程度のいい新品がまだ世の中にあったとは(大げさですが)パックのビニールさえスレが全く無い、昨日発売されたかのような極美品で。
よかったよかった。


で、「ネヴュラ座」は昨夜から大映直営館と化し(笑)。これまでに何度も鑑賞した昭和ガメラですが、46インチの大画面で観ると全然違う作品に感じます。先日「キングコング対ゴジラ」を観た時も同じ印象を受けました。
やっぱり怪獣映画は大画面が映えます。もうなんて贅沢な。


既に穴の開く程観たガメラ映画。今回の高画質、大画面での再会ではいろいろ再発見もあったのですが、特に印象に残ったのは「多彩なカメラワーク」でした。
監督に限らず、映画会社にもそれぞれ「撮り方の違い」というものがあります。怪獣映画も例外ではありません。贅沢なミニチュアセットをこれでもかとロングショットで攻める東宝作品に対し、パンやズームによる視点の移動で躍動感を生み出す大映作品には、東宝怪獣にはない独特のダイナミズムが生まれるのです。

画面的な印象では、ゴジラ映画よりガメラ映画の方が、「寄り」が多い。怪獣のアップのサイズが違うんですね。ゴジラよりガメラの方が「画面に迫ってくる」感が強いような気がします。
また主役怪獣ガメラが空を飛ぶ為、視点がバラエティーに富んでいて飽きさせないという特徴もあるのです。

事実画面に向かって「おおー」と声を上げた回数は、ガメラ映画の方が多かったような気も。(46インチだと本当に声が上がっちゃうんですよ。無意識に。)

Photo_507 そんな楽しい体験の中で、今回改めて名作と感じたのが「大怪獣決闘ガメラ対バルゴン」(1966年 田中重雄監督)。
「対ギャオス」が昭和ガメラのベストという意見に異論は無いんですが、この「対バルゴン」もギャオスとは違うアダルトな作風で、今もファンの心を捉えて離さない作品なのです。
1965年、「大怪獣ガメラ」で産声を上げたガメラ。この「対バルゴン」は、ガメラ映画の好評に気を良くした当時の大映が翌66年のゴールデンウィーク時に公開した超大作でした。
(併映が「大魔神」という物凄い二本立てですよね)

この「対バルゴン」、賢明な読者の皆さんには今更ストーリー説明など必要ないと思いますが、私の覚書とでも思ってちょっとお付き合い下さい(笑)。

お話は前作「大怪獣ガメラ」の半年後から始まります。
前作で人類によってロケットにおびき寄せられ、宇宙に葬られたガメラは突如飛来した隕石と衝突、ロケット破損により自由を取り戻します。元々北極に住んでいた生粋の地球怪獣ガメラは帰巣本能により地球に帰還。電力発電による熱エネルギーを求めて東洋一のスケールを持つ黒部ダムを襲った後、赤道直下の火山帯へと飛び去ります。

実は、このフットワークの良さがガメラ映画の多彩な視点、ストーリーの加速に貢献しているんですね。
後年、平成ガメラを演出した金子修介監督が「GMK」公開時に語っています。「ゴジラは一度上陸したら後は進むしかない。ドラマを断ち切る事はできない。
その点ガメラは、人間側や別怪獣のドラマに切り替えたい時はどこかへ飛ばしちゃえばいいから楽。」

この「対バルゴン」でも、ガメラが赤道へ飛んだ後、新怪獣「バルゴン」へとストーリーの力点が移動していきます。

戦時中、南米ニューギニアのある村で巨大な宝石を発見した男。20年の時を経て、その宝石を回収しようとした彼は仲間二人、そして足の不自由な自分の代わりに弟を加えた三人をニューギニアの奥地へ向かわせます。
村へたどり着いた彼らは村人の制止も聞かず、宝石を隠したとされる洞窟へ。そこで捨て値で2億円は下らないほどの「オパール」を発見。彼らの大博打は見事な勝利を収めたと思われたのですが、三人の内一人は現地の毒サソリにより絶命、残った二人の内、欲に駆られた一人がオパールを持ち逃げしてしまいます。


この「対バルゴン」はこうした男達の野望がストーリーを引っ張る、怪獣映画にしてはまれな展開です。
この手の作品は例えば「キングコング対ゴジラ」「モスラ対ゴジラ」などがありますが、怪獣という荒唐無稽な存在が大前提としてある「キンゴジ」や「モスゴジ」に比べ、「対バルゴン」に登場する男達が目指すのはあくまで「宝石」。その目的や画面を彩る暗めの照明効果(これは特筆すべき雰囲気)が実にリアルかつアダルトな雰囲気を作り出しているのです。
昭和ガメラ映画の中で唯一、子供がストーリーに一切関わらない事も、このアダルトな作風を後押ししていると言えるでしょう。

まあ実際にはこの雰囲気は災いしたそうです。「人間ドラマの間は劇場で観ている子供がお菓子を買いに行ってしまう」(湯浅憲明監督談)との酷評を受けた大映側の解答が次回作「対ギャオス」という訳で。
いったい何が幸いするかわからないという(笑)。


Photo_508 彼らが発見したものはオパールではありませんでした。その村に古くから伝わる伝説の怪獣「バルゴン」の卵だったのです。船が到着した神戸港は、船から出現したバルゴンにより一瞬で大惨事に。
村で1000年に一度誕生する巨大生物バルゴン。
成獣になるまで10年近くを要すると伝えられるバルゴンが何故船の中で一瞬にして成長を遂げたのか。それは作品をご覧頂く事としましょう。(もうご存知ですよね。)

南米ニューギニアで生まれながら、バルゴンの武器は万物を一瞬の内に凍らせる冷凍光線。この光線で神戸港を凍結させたバルゴンは悠然と大阪へ移動、自衛隊と戦闘を展開します。
この「凍結する街」というのは、それまでの「怪獣破壊による炎の海」とは全く違った「沈黙の都市」の恐ろしさを表現していましたね。


Photo_509 この凍れる異形バルゴンと炎の巨獣ガメラがどう絡むのか。
この二つを繋ぐ「架け橋」があるのです。
大阪で破壊の限りを尽くしたバルゴンは大阪城脇で一時沈黙。対策本部は冷凍光線の射程を計測し、その射程外から攻撃を加える作戦です。離れた山中からミサイルを射ち込もうとしたまさにその時、発光したバルゴンの背びれから七色の光線が発射されました。遠隔地を攻撃できるバルゴンの必殺武器「虹色光線」です。

この光線は夜間シーンに映えましたね。見事な色彩設計と思います。作品内では冷凍光線によって空気が澄んでいる印象があるので、この虹が一層美しく見える。この光線に包まれた場所は一瞬にして消滅してしまいます。
破壊ではなく「消滅」なんです。なんて恐ろしい。


Photo_510 この虹色光線、色に反して熱を出すようで、この熱エネルギーに引かれてガメラが大阪に飛来、バルゴンとの第一回戦を繰り広げます。虹にぶつかり火花を散らすガメラの回転ジェットの勇壮さ。こういうのが怪獣映画の醍醐味ですよね。
この時避難が終わった大阪市内の道路に捨てられたラジオから「世界の各地を荒らしまわったガメラが現れ・・・」という実況が聞こえてくるあたり、いわゆる「ガメラのアリバイ作り」も忘れられていません。(その後ラジオが自衛隊の車に撥ね飛ばされるリアリティ!)

Photo_511 この冷凍怪獣にガメラはどう挑むのか?
未見の方はご覧いただき、ご存知の方は記憶を辿ってください。
私はこの「対バルゴン」、意外にガメラの出番が少ないにも関わらず、やはりこれはガメラ映画なんだなーという思いを強くしました。
これはバルゴンの圧倒的な敵役ぶりに加え、「痛めつけられるガメラ」というフォーマットが観る者に著しくガメラへの感情移入を起こさせるからでしょう。

「ガメラは力道山型ヒーロー」という評論を以前目にした事がありますが、一敗地にまみれる主人公がリベンジするというストーリー仕立ては確かに言いえて妙。
その方が盛り上がる事を当時の大映スタッフは分かっていたのでしょう。
これがゴジラには出来ないガメラ最大の武器なのです。

「一度負け、蘇える格好良さ」が。


そしてこの「対バルゴン」、再見してみて改めて感じた事があります。
これもよく言われる事ですが、人間ドラマの底流に横たわる「欲」の存在。

この作品のキーワードの一つに「富に絡む人間の欲」という業へのメッセージがあります。そもそも主人公達はオパールという高額な宝石に目がくらみ、南米へ向かった訳ですよね。そしてバルゴンを「持ち帰って」しまったと。
バルゴン事件は人間によって起こった事なのです。

そしてバルゴン対策に使われるのは世界にもまれに見る大粒のダイヤモンド。(5000カラット!)
このダイヤはバルゴンが生息するニューギニアの村で、バルゴンが生まれる度に使われるという曰く付きの一品です。
このダイヤにも歪んだ人間の欲が絡みます。
以前観た時は登場人物のあさはかぶりを笑ったものですが、年を重ねるにしたがって主人公達の行動を笑えなくなってくるのも事実なんですよね(笑)。


Photo_512 オパールそっくりの卵から生まれダイヤモンドを好むバルゴン。
まさに欲にまみれた人間の業を映したような怪獣です。バルゴンに捕食される強欲な登場人物の末路は、「業」に滅ぼされる人間の姿そのものでした。
凍りつくような光線は人間の冷たさを表し、虹色の光線は華やかさに秘められたグロテスクな心情を映し出しているような。

まあ怪獣映画にこんな教訓めいた比喩を感じなくてもいいんですが、ある意味それはスタッフがこの作品に込めたささやかなメッセージなのかもしれません。
「そんな事言ったらどんな怪獣だってこじつけられちゃうよ。」
ごもっともです。毎度のおバカな私見とお許し下さい。

作品のラスト、主人公が語るセリフに、この作品のテーマが凝縮されています。
「人間、欲の皮はあんまり突っ張るものじゃない。」

とはいえこんな聖人みたいな考えは、毎日の生活ではなかなか守れないもので。
相変わらず安いオタクグッズを探し回る私。
「バルゴウ」の餌食になるのも間近かもしれませんね(笑)。

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2007年2月10日 (土)

哀しき電獣

「ほらーやっぱりー。」
「ネヴュラ」画面の右下、「ココログからのお知らせ」を見た私は、大声で独り言を発してしまいました。

ここ数日、ココログ管理画面へのアクセスが恐ろしく重くなっていたのです。
クリック後普段なら1~2秒で現れる管理画面が、なんと2分も3分も現れない。ひどい時にはエラーが出てしまう。
パソコン壊れちゃったの?これじゃ記事が書けないよー。

「買う時値切ったんでしょ」なんて、野村浩三さんにからかわれても仕方ないと諦めていたんです。なにしろこんな時はお手上げ状態。
どう手をつけていいかまったくわからなくて。
メールでココログに問い合わせても、「特に問題ありません」という返事だったんです。

結局ココログ側の問題だったようで、コメントスパム、トラックバックスパムによる高負荷が原因との事でした。
あーよかった。とりあえずパソコンの故障じゃなかったと胸を撫で下ろした次第で。


今回の一件に限らず、機械の故障や予期せぬ不調が引き起こす不安感、恐怖感は計り知れない物がありますねー。
機械。その冷酷な響きと金属の硬質感。
そんな今日は、「鋼鉄の体躯=ロボット怪獣」についてちょっと、お話してみようかと。

再度パソコンが不調にならない内に(笑)。

Photo_500 私などが「ロボット怪獣」などと聞いて思い出すのは、まず何と言っても「地球防衛軍」(1957年東宝 本多猪四郎監督)に登場した「モゲラ」でしょうか。
地球侵略を画策する遊星人ミステリアンの尖兵として突如現れ、人々を恐怖に陥れる巨大な影。生物と一線を画す不気味さを演出するあの作動音。
生命の温かさを廃したブルーの瞳が輝く時、町は炎に包まれるのでした。

あれはゴジラなどとはまた違った怖さがありましたねー。
あの恐怖感は「宇宙戦争」(2005年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)に登場したトライポッドに通じるものがありました。

何故、モゲラが怖いのか。
やっぱりそれは感情を持たず、命令遂行の為には手段を選ばない非情さを感じるからではないかと思うのです。

無敵と称するゴジラなど怪獣だって、やはりそこは生命を持つ生き物。感情もあれば肉体的ダメージを受ける事もあるでしょう。
初作「ゴジラ」でオキシジェン・デストロイヤーに屈した訳ですし。
生きている以上、どこかで終焉を迎えなければならないという儚さを宿しているわけですよね。

ところがロボットにはそれが感じられない。
「生命が導き出す感情の起伏や、肉体の躍動」がない訳です。
これがとてつもなく不気味なんですね。


例えば怪獣などでも、「瞳」を見ればなんとなく「こいつはこんな事を考えてるな。だったらこうしよう」なんてこちらだって対処の心構え(笑)が出来そうな訳ですよ。同じ生命体同士、意思の疎通ができそうな気がする。
でもロボット怪獣にはほぼ、「黒目が無い」。
意識的に感情移入をさせないよう、デザインされているんです。

(ここで「GMK」の「白目のゴジラ」を思い出した貴方、お分かりでしょう。あの白目がどれほど怖かったか。あのゴジラはこの理屈で作られているんですよ。)

受けたダメージを「部品交換」で済ませてしまえる所も恐ろしいですよね。一体倒しても代わりがいくらでも居るという。ただ任務遂行の為だけにプログラミングされた、意思を持たない存在。
生物としての怪獣を「荒ぶる神」と表現するなら、ロボット怪獣は「氷の刺客」とでも言えそうな気がします。


東宝特撮映画で言えば、モゲラに続いて印象的なのは「電子怪獣・メカニコング」でしょうね。
「キングコングの逆襲」(1967年 本多猪四郎監督)に登場した、「ロボット版キングコング」でした。

このメカニコングもロボット怪獣として充分な不気味さを誇っていましたよね。これも特徴的な作動音が印象に残ります。
ところがこのメカニコング、ちょっと出目が違う。
純然たる「汎用猿型決戦兵器」ではないんですね。

悪の科学者、ドクター・フーにより作られたメカニコングは、南極で貴重な鉱物「エレメントX」を掘削する為に製作された「重機」でもある訳です。これが主目的だから若干戦闘能力に欠ける。
キングコングとの東京タワー戦(まさに頂上決戦ですね)に敗れ、地上に激突してバラバラ、という最期はちょっといただけませんでした。

Photo_501 メカニコングと来ればもうお分かりと思います。日本の特撮映画史上、おそらく最高の知名度と強さを持つであろうキャラクターがこれ。「ゴジラ対メカゴジラ」(1974年 福田純監督)で華々しくそのデビューを飾った機械製ゴジラ「メカゴジラ」です。
この登場は非常にインパクトがありました。
初代メカゴジラについては「この時代、正義の味方になってしまったゴジラに対するアンチテーゼ」なんてよく言われますね。
ゴジラの皮を破って登場する銀色の表皮。輝くばかりの存在感。この作品でメカゴジラは、主役のゴジラを完全に食ってしまう魅力を放っていました。


公開当時劇場で「ゴジラ対メカゴジラ」を観た私。後年言われる程の感動は持たなかったものの、仲間の熱狂ぶりを見るうちに「これはゴジラ映画の新鉱脈か?」なんて妙な感触を持ったものです。
思えばヒネた子供だったんですね(笑)。

初代メカゴジラは、ロボット怪獣の魅力を全て備えていました。
移動要塞のごとき動く武器庫。生命体同士の意思の疎通をあざ笑うかのごとき攻撃。
敵が絶命するまで一切容赦しないその非情さ。
まさに「非生命体の長所を最大限に体現した」キャラクターでしょう。

以前「ネヴュラ」でもお話しましたが、メカゴジラがゴジラとキングシーサーを左右に捉え、首を反転させてビームとミサイルで同時に2体を倒す場面。シネスコ画面の利点を最大限に利用したあの名場面が、メカゴジラの魅力を最も表していたのではないでしょうか。
いかにゴジラが無敵でも、「首を反転させて放射能を吐く」事は絶対に出来ない。
生物の常識を軽々と覆す非生命体の強さ、恐ろしさが、あのワンカットに凝縮されているのでは。


このメカゴジラというキャラクターはよほど高い人気を獲得したようで、後年色々とリニューアルされてゴジラ映画に登場しましたね。

Photo_502 まあ機械なので、他のレギュラー怪獣よりも新しい設定を作りやすかった事もあるでしょう。でも私は「機械の恐ろしさ」という点で、この初代メカゴジラを超えるキャラクターは登場していないと思います。
例えば「ゴジラVSキングギドラ」(1991年 大森一樹監督)に登場したメカキングギドラ。また「ゴジラVSメカゴジラ」(1993年 大河原孝夫監督)のメカゴジラ。そして「ゴジラVSスペースゴジラ」(1994年 山下賢章監督)のMOGERAなどが、初代メカゴジラを凌駕する存在感を持っていたでしょうか。


Photo_503 これもいつもの私見なのでお許し頂きたいんですが、これらが魅力的に映らなかった理由はとりも直さず「人間が搭乗し、操縦する」という所だと思っちゃうんですよね。
確かに見た目は「ロボット」「メカ」なんですが、その実動かしているのは人間という。
これでゴジラと対峙する図式はやっぱり「生物対生物」なんですよ。普通の怪獣映画(これも変な言い方ですが(笑)と何ら変わらない訳です。
人間側が巨大化してるたけ、みたいな物ですから。


生物同士ですからいわゆる「戦いの呼吸」も感じられるし、特に人間側には非情になりきれない弱さが露呈してしまったり。
まあ平成ゴジラはファミリープログラムですから、「命のやりとり感」を意識的に希薄にしているせいもあるでしょうが、どんなに搭乗者が気勢を上げても「機械ゆえの、冷たい恐ろしさ」は表現できなかったような気がします。
言わば平成ゴジラのロボット怪獣は、モビルスーツやアーマード・トルーパーに近い存在なんでしょうね。


Photo_504 「あの、昭和メカゴジラの非情さを再び」と思っていた私が期待したのが「ゴシラ×メカゴジラ」(2002年 手塚昌明監督)。
この作品に登場した「機龍」は、人類側の兵器でありながら初代ゴジラの骨を用い、そのDNAを活かしたハイブリッド・ゴジラ。

「ゴジラ版エヴァンゲリオン」という訳です。言わば生体兵器に近いんじゃ、と解釈しまして。
「暴走」というストーリーも耳に挟みましたから、その妄想は膨らむばかり。
でもその結果は皆さん周知の通りでした(笑)。

惜しかったとは思います。当時、雑誌「宇宙船」にも似た感想が載っていましたが、やっぱり暴走状態があれだけ、というのはもったいないと。
釈由美子操る「決戦兵器・機龍」が、非情な「ロボット怪獣」になる瞬間を観られると思ったのに。人間が持つ手綱から解き放たれた非生物の恐ろしさが描かれれば、この作品はまさに「新世紀メカゴジラ」になるのでは、なんてあらぬ期待を持ってしまったゆえの落胆でした。けっして機龍も嫌いではないんですが、続編「東京SOS」も含め、「彼」はちょっと大人しすぎますよね。
やっぱり初代ゴジラの影をひきずっているせいでしょうか?


機械なんだから、人間が想像もつかない恐ろしさを持って欲しかったと。
「エイリアン」(1979年アメリカ リドリー・スコット監督)で、私達に機械人間の恐ろしさを存分に見せつけたあの「アッシュ」のように。


Photo_505 でも考えてみると、ロボット怪獣って哀しい存在ですよね。人間の感情移入を拒むほど魅力は増しますが、その分人間から見た「同情心」は薄れていく。
ゴジラに対するような感情はメカゴジラには湧かないですもんね。でも、そんな相反する感情を抱かせる「一機」の登場を期待するのも事実。
魅惑の「氷の刺客」に出会いたいものです。


おっと。パソコンもどうやら持ちこたえたようですね。
うちの「一機」は大人しくしていてね(笑)。

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2007年2月 6日 (火)

その一撃に射抜かれて

「ただいまー。」
公園の滑り台を家に見立て、遊ぶ子供達。
今日のような日にふさわしい光景でした。


昨日に続き、今日も暖かかったですねー。お仕事の合間に久しぶりに出たウォーキングも気持ちよくて。
子供達の姿はその時見たものでした。
考えてみれば、私もあれくらいの年頃はああやって遊んでいましたねー。
ただ私達が子供の頃には、同じ滑り台を使った遊びももう少し過激でしたが。


1960年代から70年代にかけて吹き荒れた怪獣ブームは、私達、当時の子供達にも大きな影響を与えました。毎日の遊びにも怪獣が現れない日は無かったように記憶しています。
学校帰りに公園を覗けば、どこかで「ギャオー」「デヤッ」と怪獣やヒーローの雄叫びが聞こえたものでした。
(決して「シュワッチ」とは言わないんですよ。これが(笑)。


ヒーローや怪獣に扮して友達と遊ぶ時、取っ組み合いの後必ず起きる展開が「光線技」の応酬でしたね。思えば当時のヒーロー番組は、ほぼ必ずと言っていい程怪獣がヒーローの光線技で退治されるパターンでした。
まあこれは、テレビヒーローの始祖「月光仮面」の拳銃から発展した物と言えるでしょうが、やっぱりそれを飛躍的にハイブリッドに進化させたのは「ウルトラマン」(1966年)でしょうね。

Photo_492 そもそも「ウルトラシリーズ」登場までのヒーロー番組では、悪役も一部の番組を除いてほとんどが人間や知的宇宙人。
光線技で四散するなんて過激な結末を迎えるドラマ展開が要求されていなかったですから、まあ当然と言えば当然。
敵が強くなればヒーローの技も進化するという訳で、我らのウルトラマンが「スペシウム光線」という無敵の技を引っさげて登場するには、怪獣という魅力的な敵役が要求した自然ななりゆきがあったと言えましょう。


これまた私見ですが、この「光線」というビジュアルが登場した理由は2つあるような気がします。
まず一つ目は「オプチカルプリンターのデモンストレーション」。
国産初の怪獣テレビ番組「ウルトラQ」制作当時、円谷英二がオックスベリー社の編集機材、オプチカルプリンターを勝手に発注した事はよく知られる事実です。
高額なこの機材は数本のフィルムに加え、作画などの後処理も高画質で行えた為、特撮にその生涯をかけた円谷監督としては喉から手が出るほど欲しかった物だったのでは。ただ資金回収の当てもなく発注したであろうこの機材。円谷としても、後に「ウルトラQ」制作を決定したTBSとしても、この機材のすばらしい効果を外部に知らしめ、そこを番組のアピールポイントとする必要があったと思うのです。


事実「ウルトラQ」でも、35ミリフィルムによる美しい合成カットに加え、そこかしこにアニメーション作画による焼き込み合成カットが散見されました。
これはやはり「円谷超兵器オプチカルプリンター」の威力を国内、海外に知らしめたいが為の、制作側の思いによる所が多かった為と言える様な気がします。


二つ目は「東宝怪獣との差別化」。
考えてみますと、ゴジラを始祖とする東宝怪獣映画は、「ウルトラQ」放送開始当時の1966年一月現在、「怪獣大戦争」(1965年東宝 本多猪四郎監督)までが公開されていました。この時点で作画合成による光線を武器とする怪獣はご存知「キングギドラ」のみ。あの反重力光線は宇宙超怪獣の存在感を強烈にアピールしていました。
たしかにゴジラも「キングコング対ゴジラ」(1962年東宝 本多猪四郎監督)以降、トレードマークとなる放射能火炎を合成作画としていますし、「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年東宝)のバラゴンもその「呼気」めいた光線はゴジラと同様。
(キングコングの電撃は・・・あれは不可抗力だし・・・)

「ビーム」という分類をすればこのギドラだけが、現場スタッフとともに作画スタッフをもっとも手こずらせた「残業超過怪獣」であったわけですね。
おそらく円谷プロのスタッフは、この東宝怪獣との差別化を図るために、ヒーローやウルトラ怪獣に対して「光線」という言わば「超能力」を与える方向性に進んだのでは。


よく言われる事ですが、既存の動物やかつて存在した恐竜などをアレンジした東宝怪獣に対し、成田亨デザインによるウルトラ怪獣は言わばアート作品のような自由な発想を持っています。
「光線」という能力は、彼ら創造力の産物であったウルトラ怪獣に際立った特徴を与えたのです。

例によってお話が脱線するのが私の悪い癖で(涙)。ことヒーローの光線技に関して言えば、やはり子供時代の私達から見て大きな憧れであった事は間違いありません。
スーパーマンは空を飛べる。それだけで人々の憧れを独占したように、腕を十字に組んだだけで銀色の光線を発射できるウルトラマンに、子供が夢中にならない訳が無いのです。
「光線銃を使わずに、体から光線を出せる!」
このすばらしい能力は、怪獣を一撃で粉砕する強力な破壊力もあいまって私達に大きなインパクトを与えたのでした。


さて突然ですが、(子供の気持ちに戻ってお聞き下さいね)
古今東西のヒーロー、怪獣の中で、心に残った「光線」って何でしょうか?
ちょっと考えてみて下さい。


これは私にとって実に至福の一時でしたねー。
なにしろ「光線」という響きだけで血湧き肉踊る世代ですから(笑)。
自分のブログという特権を頂いて、ざっと思い出した「マイ・フェイバリット・ビーム」(この響きもカッコイイ!)を挙げてみましょう。

Photo_493 「ネヴュラ」読者には先日お話しましたが、なにしろ大のスペクトルマンファンの私。とにかく私の中では、ベスト1は絶対これ「スペクトルフラッシュ」が君臨しているのでした(笑)。
「スペクトルマン」(1971年~1972年 ピープロダクション。便宜上このタイトルで)に登場する、惑星ネヴュラ71のサイボーグ・スペクトルマンが怪獣退治の決め技として使用する7色の光線。
その威力は圧倒的ですがエネルギーの消耗も大きく、一度の変身で一回しか使用できない「ジョーカー・ショット」でもあります。

まあ言ってしまえばスペシウム光線の亜流なんですが、こればっかりは譲れなくて。ピープロお得意の、静止画に作画処理した映像も味というもので。
子供の頃は、スペシウムポーズよりこの「フラッシュ」発射ポーズの方を遥かに多く真似した経験もあり・・・
(個人的には「フラッシュポーズ初段」と思っています(爆笑)。

Photo_494 怪獣の中で光線が印象的だったのは「ウルトラマン」第3話「科捜隊出動せよ」に登場したネロンガ。
以前もお話しましたが個人的にウルトラ怪獣の中で最も好きな怪獣なので、光線に関してもこれが最も印象的という(勝手ですよね)
透明状態の時に起こす空中放電、電気を吸い込んで実体化したところで、触覚を角に接触させ放つ放電光線のカッコ良さ!角の電飾もあいまって、「つぶらや!」とでも合いの手を叫びたい衝動に駆られます。
バルタン星人にも並ぶ存在感を誇るこの怪獣がこの一回のみの登場というのは、実に理解に苦しむ次第で(笑)。

Photo_495 多くの光線技がビームタイプだった中、「光の刃物」という斬新な発想で子供達を狂喜させたのが「ミラーマン」(1971年~1972年円谷プロ)。
主人公ミラーマンが使う「ミラーナイフ」は、ネーミング通り「ナイフ」。「光が刃物になる」「光が刺さる」という新しいイメージがそのクールな世界観に実にマッチしていました。
惜しむらくはちょっと、その設定を使い切れていなかったような気も。まあそれは「スペクトルマン」も同じなのであまり言えませんが(笑)。

Photo_496 ナイフと来ればメス、という訳で。ミラーナイフより切れ味が鋭そうだったのが「大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス」(1967年大映 湯浅憲明監督)のギャオスが放つ「超音波メス」。
音叉状の喉骨を震わせて300万サイクルまで増幅させた鳴き声という設定が斬新でしたねー。
「超音波の刃物」としてあらゆる物を切り裂く作品内の描写はすざまじく、Photo_497 ガメラの腕を切り裂いた時には本当に痛そうに思えたものです。
個人的には「ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995年大映 金子修介監督)に登場するギャオスの超音波メスよりも、前述の初代ギャオスのそれの方が殺傷力が強かったような気がするのですが・・・
後年、医療現場で「レーザーメス」という言葉を耳にして、この超音波メスを思い出したのは私だけでしょうか(笑)。

と、ここまでお話しましたが、実は「光線技」に関して言えば、今活躍しているヒーローが繰り出す光線は、この頃のヒーロー、怪獣のそれと大差ないような気がしませんか?
あってもパワーアップされているだけのような。
「光線」のバリエーションは、実際には1970年代までで既に出尽くしているような思いさえあるのです。

Photo_498 Photo_499 私の中で「これはビックリ」と思ったのは、「ガメラ2 レギオン襲来」(1996年大映 金子修介監督)に登場したガメラの最終兵器「ウルティメイト・プラズマ」。
体全体から「マナ砲」を発射するという荒業は凄かったですねー。なにより「命と引き換え」感が伝わってくるのが良かった。
一撃必殺とはあの事を言うんですね。

でもあの技は一回限り、映画という枠組みだからできた物だと思います。
ヒーローが毎回あれを使っていたら、体が持ちませんから(笑)。

「ウルティメイト・プラズマ」は光線じゃありませんから、本当は今日のお話からはちょっと外れるんですよね。
まあ光線に代わる一つの可能性という事で。
考えてみれば、光線技についても人それぞれ、色々な思い入れがありますよね。
心を射抜かれた「一撃」を思い出してみるのも楽しいものです。

最後に「光線演出」で実に惜しい、と思った場面を一つ。
「ウルトラマンティガ」(1996年~1997年円谷プロ)最終回「輝けるものたちへ」のラスト、邪神ガタノゾーアに対してグリッターティガが放った光線技。あれは二発の光線がティガを勝利に導きますが、あの二発めの光線は必要なかったんじゃないか、と今でも思います。
全世界の子供達が光となってティガに力を貸し、全員がゼペリオンポーズをとったのですから、一発目のゼペリオンだけでとどめを刺さないと。
二発目の光線は要らない代わりに、ゼペリオンの力押し、という意味で光線発射の時間をあと3秒長くして欲しかったなー、
なんて。


相変わらずおバカで勝手な意見です。
皆さんお気になさらないよう。
「スペシウム光線の餌食になっちゃえ」なんて言わないで。
スペルゲン反射鏡はお化粧の時しか使わないですから(笑)。

2007年2月 5日 (月)

小春日和に落ち穂拾い

「・・・これじゃーもう、手が届かないよー」
今朝早く覗いた、気になるヤフオクのページ。
目をつけていた「豹の眼」テレビシリーズ(1959年~1960年)DVD、全38話セット。

発売当時買い逃して、今はもうどこにも売っていないそれが、凄く状態の良い中古品としてオークションにかけられていたのでした。
入札開始価格は10,000円。でも!
わずか2日のうちに、落札価格が入札開始価格の6倍になっているなんて。これじゃ定価より高くなっちゃうじゃないの。
まーこんな事はよくありますが、この時の落胆度で、その作品への思い入れが分かりますねー。「また遠い所へ」なんて(笑)
<誤解無きよう。私はこの本放送当時生まれていませんからね。>

気を取り直して部屋でお仕事をこなし軽く取った仮眠は、そんな落胆を回復させてくれました。
ある事が、私に心地よい寝覚めを与えてくれたからです。

窓の外から聞こえる、スズメのさえずり。

目覚めると時刻は11時。私の住むマンションにはこの時間、スズメはあまりやって来ません。嬉しくなった私はスズメをびっくりさせないように、そっとカーテンを開けました。
私の部屋、マンション4階のベランダ前に張られた電線の上に、一羽のスズメ。

目が合いました。「ちょっと待っててね。」私は慌ててデジカメを取りに走りましたが、戻った時には(予想通り)彼の姿はどこにもなく(笑)。

ノーギャラなので、なかなかブログのネタには協力してくれませんね(笑)。

それにしても今日は暖かかったですね。私の住む街では今日の最高気温が4月並みの15度だったそうで
スズメがやって来た理由もわかるような気がします。

お昼過ぎ。待っていた電話確認が取れた私は早速、街中心部の局へ向かいました。今日は局で打ち合わせの日。ミニバイクで通勤する私にはいつも季節の空気が肌で感じられるのですが、本当に今日は暖かい。こういうのを小春日和と言うのでしょう。なにしろ空気の「香り」が違う。

「草いきれ」ってありますよね。気温の上昇によって自然に生息する植物などが持つ香りが強調されるというあれです。
今日なんかまさにそんな雰囲気。
「街の空気がセピアからカラーに変わった」みたいな感触を持ったのでした。
ミニバイクで風を切るのが気持ちいい。
本当に2月なんでしょうか。

「あー、今回の取材はですね。バレンタインデーに向けてリポーターがあちこち取材ずる、というストーリーで・・・」
「バレンタインか・・・」局で電話打ち合わせをするスタッフを横目で見ながら、私は今が2月である事を再認識。うーむ。暖冬。
打ち合わせも終わり、この空気をもうしばらく感じていたかった私はいつもの「オタクショップ」へ足を向けました。

でも不思議ですよね。ショップへ足を踏み入れた瞬間、私の頭は「春を感じるモード」から一気に「オタクモード」へ切り替わる訳で。
でも現実は残酷。懐は依然として冬のままで。
実は以前このお店を覗いた時、目をつけていたものがあるのです。

Photo_487 イワクラの「ゴジラオーナメント特撮大百科Ver.3ゴジラの息子篇」。コレクターの方々には今更なアイテムですよね。高い造形技術とマニアックなアイテム選定で、発売毎に怪獣ファンの心をかき乱した人気の食玩シリーズでした。
私もいくつか持っていますが、なにしろこのシリーズは1シリーズにつきアイテム数が10種類前後、さらにそれぞれ彩色版、モノクロ版があるため実にコンプリートが難しい。ご他聞に漏れず「シークレット」なんて物まであるので、普通に買って全種揃えるのは至難の業なのです。
私の場合、「レア=欲しい」とならないので、実際にはコンプリートする必要は無いんですが、それでも欲しいアイテムはある物で。

Photo_488 そんな気分を残しながら先日もそのお店を覗いた訳です。すると、お店の片隅に山積みされた食玩の箱が。そうです。この「Ver.3」が投げ売りされていたのです。
まさに売れ残り大量放出。
未開封一箱6個入り、定価2,394円が980円。

「こりゃ買い」とばかりに、その日は一箱ゲット。
そして今日、まだ残っていたらもう少し、と覗いたという訳。
玉子の安売りに群がる主婦の感覚がここで最大限に発揮されていると。
主婦はバラゴンやマンダは買いませんが(笑)。

いやーでも、大人買いもここまで来ると爽快を通り越して申し訳なくなってきますねー。確かにこのシリーズ、明らかにターゲットは大人なんですが、箱買いというのはどうにも後味が悪くて。
こういう場合は仕方ないんでしょうけど。

今日追加で買った2箱が入ったビニール袋をぶら下げて街を散策していると、やはり小春日和。柔らかな空気に道行く人たちも顔が優しくなっている事に気がつきました。

古本屋さんの店先に座り込み、広げた絵本に夢中の小学生。
道を尋ねられて、行き先を丁寧に教えるおばあさん。
「どこまで行かれるの?」という言葉の響きが心地いい。
こんな緩やかな時間の中にいると、自分まで優しい気持ちになってくるから不思議です。
春の空気って伝染するんですね。

スタンドでガソリンを入れてくれた女性スタッフ。おそらく高校生くらいの彼女は私のミニバイクのキャップの締め方が分からす、四苦八苦していましたが、それでもやっと締められて「すみません」と謝ってくれました。
その時の笑顔がまた、さわやかで。

さてこんな気持ちいい午後を過ごした私は、帰宅後さっそく箱を開け、お楽しみの中身をお披露目。
でもここまで気持ちのいい買い物が出来ると、箱の中身が何であろうとあまり関係なくなっちゃうんですよね。つくづく「買い物はその時の思い出とセット」なんだなーと再確認。

Photo_489 で、中身はこれです。なにしろ未開封でしたから中身もダブリまくり、シークレットなし、モノクロも沢山ありの「よくある結果」です。
でも安かったからいいか。

これだけ揃えば文句はありません。相変わらず造形クオリティーは高く、しかも今や中古ショップでもあまり見かけない物もあって。
(私の近所だけかもしれませんが)

Photo_490 ほらほら、「夢の対決、バラゴン対マンダ」なんてどうですか?実際は単品なんですけど、こうやって並べて写真を撮ってみると、心なしか激闘のディオラマっぽく見えてくるから不思議です。映画が2作品ともハード路線なので、こうして見ても違和感がありませんね。

Photo_491 こちらはぐっとソフトに「ミニラ、ガバラ、クモンガ」のファミリー路線。まあこれはこれで、思い入れが強い方もきっといらっしゃるでしょうし。こういう作品のキャラクターまできちんとフォローするところが、イワクラのイワクラたる所以でしょう。
東宝第11スタジオ、クモンガを操る現場スタッフに飛ぶ有川監督の指示の様子が目に浮かぶ、と言ったら、それは大人の目線でしょうが(笑)。

「豹の眼」オークションから始まった私の一日。
こんな小春日和には不似合いな落ち穂拾いでしたが、この怪獣たちを見る度に今日の優しい気持ちが思い出される事でしょう。

こんな風に私のコレクションは、様々な記憶を封じ込めた日記でもあるのです。
楽しい思い出ばかりでもありませんが、そのほろ苦さがまた、人生という奴で(笑)。

2007年2月 3日 (土)

虹色の希望

ついにやっと。
この「恋するネヴュラ」、今回で200回目の記事を書くことができました。

いやーまさか、ここまで続ける事ができるなんて。
なにしろ始めた頃なんて右も左もわからない手探り状態でしたから、ブログという物の感触さえ分からず。ただ闇雲に書き飛ばして来た感じがします。
これは本当に、普段覗いて下さる皆さんのおがけです。
感謝いたします。


さて、200回の節目となる今回は、ひょっとして皆さんが疑問に思われている(かもしれない)このブログタイトル「恋するネヴュラ」の由来についてお話したいと思います。
一部の方々にはご質問などもありましたので、今回の記事でご納得いただければありがたいのですが・・・
実はこの200回というもの、お話したくてしょうがなかったんですよ(笑)。

Photo_473 「ネヴュラ」。「星雲」という意味を持つこの妙なタイトルの由来は、読者の皆さんのお察しの通り、1971年放送の特撮ヒーロードラマ「宇宙猿人ゴリ」に登場するあの「ネヴュラ」です。
未見の方の為に番組内容を少しご説明しましょう。

この番組は円谷プロ、東映と並び当時のヒーロー番組を数多く排出してきた独立プロダクション「ピープロダクション」制作のヒーロー番組。当初のタイトルロール、「宇宙猿人ゴリ」と宇宙サイポーグ「スペクトルマン」の戦いを描いた全63話のドラマです。回を追うに従って番組タイトルが「宇宙猿人ゴリ」「宇宙猿人ゴリ対スペクトルマン」「スペクトルマン」と変わって行った為、一般の方々の認識が少し散漫になってしまったきらいもあると思います。
要は「ヒーロー名が番組タイトルじゃない時があったから、憶えていない」という物ですね。

Photo_474 確かにこの番組、開始当初は「ゴリ」という猿人が主役でした。
このゴリという男、地球からいて座の方向へ4万光年の彼方に位置するガイシテス太陽系の第5惑星「E惑星」なる猿人の星出身の科学者。宇宙で最高度の文明を持つこのE惑星で、彼は超電子科学の研究を手掛けていました。しかし彼は突然変異的な独裁者でもあったのです。
軍と結託して超兵器を開発、惑星独占を画策するも、自動防犯組織に指摘され法廷によって精神改造刑を言い渡されてしまいます。
しかし彼は屈しませんでした。腹心の軍人ラーと一緒にE惑星を脱走。宇宙の放浪者となったのでした・・・

1971年当時、これだけ詳細な設定を持つ敵役キャラクターが居たでしょうか。
このしっかりした設定あればこそ、彼は悪役キャラクターながら番組のタイトルロールを冠する事ができたのです


Photo_475 円盤一機で宇宙に飛び出した彼らは磁気嵐に見舞われます。気がついたとき円盤は太陽系第三惑星、そう私達の「地球」上空を飛んでいました。
ゴリは言います。「まるで宇宙の宝石ではないか。」

ところがその星に生きる人間達の行いを見た途端、ゴリの怒りは頂点に。
当然です。1971年当時の日本は公害問題の真っ最中。高度成長の名の下に、あらゆる自然が工業廃棄物などで大きく荒らされていた頃だったのです。
「人間はこの美しい星地球を、自らの欲望の為にドロのように汚している。許せん!
たとえどんなに高い文明を作り出したとしても、この美しい星を汚し、腐らせてしまう人間どもを許す事はできない。」


ピープロの社長、鷺巣富雄さんの考えが投影されたこのゴリの主張。実は誰も否定できなかったのでは?この視点が凡百のヒーロー番組と「宇宙猿人ゴリ」との大きな違いなのです。
「悪の主張の方が正しい。」
こんな番組、他にあったでしょうか?


Photo_476 Photo_477 しかし、彼の主張は彼自身の独裁者的性格によって捻じ曲がった方向に。
「自分が独裁者として君臨しなければ、地球は滅ぶ」とばかりに、当時人々にとって大きな問題であった「公害」をモチーフにした怪獣を大挙して、人間を襲ったのです。

考えの根本は正しいのに手段を間違える。
思えばゴリも悲しい存在だったのかもしれませんね。


Photo_478 宇宙の秩序は、こんなゴリの暴挙を見逃しませんでした。
ネヴュラ71。宇宙連合所属の人工二重惑星。未開発遊星を保護、かつ警備する任務を持つこの存在はゴリに対し、一人のエージェントを地球に派遣したのです。

超電子頭脳により強化されサイボーグマンとなったネヴュラ遊星人、スペクトルマン!
彼はゴリの侵略、破壊行動をいち早く察知し、地球人に与える被害を最小限に防ぐべく、怪獣たちと戦闘を繰り広げるのでした。

Photo_479 ・・・とまあ、ご存知の方も多いと思いますが、これがこの番組の大まかな骨子です。
当初はゴリを主役に据えた感のあるエピソードも多かったのですが、やがてヒーロー、スペクトルマンへのスポット比率が高くなり、番組タイトルも「対スペクトルマン」そして「スペクトルマン」と変わっていきました。

Photo_480 本放送当時物心ついたばかりの年頃だった私は、ゴリの独裁者的思想や、人間が生み出した公害が形を変えた「公害怪獣」という皮肉などには気がつかず、スペクトルマンと怪獣たちが織り成す大迫力の戦闘に心を奪われていました。
後年いろいろな文献で、「ゴリと部下ラーの掛け合いが漫才」とか「スペクトルマンとネヴュラ71の関係は上司と部下。スペクトルマンに単身赴任の公務員の悲哀」などの言葉をよく見かけますが、それは大人の視点ですよね。
子供の視点で考えればこのスペクトルマン、やっぱり派手なアクションと大破壊に彩られた「怪獣映画」なんですよ。

「ネヴュラ」という言葉への思い入れにたどり着くまでには、もう少しお話しなければなりません。
この手のエピソードは、有名人の思い出などにしばしば登場するのであまり珍しくもないんですが、実は「宇宙猿人ゴリ」が放送されていた頃、私の身辺ではちょっと辛い出来事がありまして。
母が持病の糖尿病で入院していたんです。

Photo_481 1971年頃と言えば週休二日制など影も形も無かった頃。「ゴリ」が放送されていた毎週土曜日午後7時と言えばまだ父親は仕事中で、預けられるように母の病院に居た私はいつも病院の待合室(ロビーなんてとても言えない質素な場所でした)で「ゴリ」を見ていた記憶があります。
スペクトルマンは寂しかった私を勇気づけてくれたヒーローだったんです。

Photo_482 当時の私にとって、怪獣を必殺技「スペクトルフラッシュ」一撃で粉砕するスペクトルマンはまさに無敵のヒーロー。後年言われる「弱さ」などは微塵も感じさせませんでした。
今でも私の中では初代ウルトラマン以上の存在感があるのです。「スペクトルフラッシュはスペシウム光線よりも威力が上」という(笑)。
そして彼は、なにより優しさがありました。
数年前に発売されたDVDBOXを予約買いし、再見を果たした私は、当時のその考えが間違っていない事に気づかされたものです。

Photo_486 スペクトルマンは地球では「蒲生譲二」という名前(後年、ビッグバンを提唱した物理学者、ジョージ・ガモフをもじったなんて初めて知って、そのハードな出目にビックリしましたが)の日本人に姿を変え、公害調査局第八分室「公害Gメン」の一員となっています。
日本中の公害を調査し、対処方法を検討する公害Gメンである彼は、当然の事ながら公害の被害にあった人々の叫びを聞く立場でもあります。

Photo_483 第2話「公害怪獣ヘドロンを倒せ!」に、こんな一場面がありました。
ゴリが送り出した公害怪獣ヘドロンに父親を殺害された少年みのる君は、Gメン室長、倉田にこう詰め寄ります。ヘドロさえなければ怪獣は生まれなかったのに!
「おじさん!どうして大人は、あんなに臭くて汚いものを放ったらかしにしといたんだよ!」
ヘドロによって生まれた怪獣ヘドロン。その元凶は人間である事を小さな心で訴えかけているのです。詰め寄られた倉田室長は言葉に詰まってしまいます。

傍らでそのやりとりを聞く譲二の、苦渋に満ちた顔!

後のシーンで同じような質問をみのる君にされた時、譲二はこう答えます。
「悲しい事に大人達は、綺麗なものと汚いものの区別が付かなくなって来てるのさ。」
譲二は、大人でもなくネヴュラ遊星人でもない、まぎれもなくみのる君と同じ、子供の視点に立っていたのではないでしょうか。
この譲二=スペクトルマンは、こういう「弱い人間の立場に立った言動」が実に多い。彼は初代ウルトラマンのように超然としたヒーローではなく、むしろ「弱者の代表」のような考えを持っているのです。
地球をゴリの魔手から守るヒーローとしては、視点がミクロすぎるのかもしれません。

幼かった私には、この譲二の存在がとても身近に見えました。
土曜7時。私はいつもブラウン管から「お母さんを励ましてがんばれよ」というスペクトルマンからのエールを受け取っていたのです。


Photo_484 蒲生譲二は、母星であるネヴュラ71に変身許可を求め、許可が下りなければスペクトルマンに変身できません。それもネヴュラを肉眼で確認できなければ変身不可なのです。
これは作劇上、サスペンスを作る為の措置と思いますが、放送当時の私は違った印象を持ちました。
「ネヴュラは譲二が人間の姿で努力した結果見える、ヒーローへのパスポート。」

自分が頑張らないと「ネヴュラ」は見えないんだ。なんて。
子供にしてはちょっとおませな考えですが(笑)。


Photo_485 ここに、ブログタイトル「恋するネヴュラ」のいわれがあります。お恥ずかしいお話ですが。
「ネヴュラ」という存在は、私にとって今でも「自分を映す鏡」なんですよ(笑)。

いつも見上げる空に輝く「ネヴュラ」も、お仕事や私事でつらい時などは霞んで見えない事があります。
そんな時は「努力が足りないんだな」なんて反省したりして。
自分が納得できたお仕事ができた時、ふと見上げる空に「ネヴュラ」は輝いているんです。


いつもネヴュラを見られるように。ネヴュラに恋していたい。
おバカな私がブログタイトルに込めたささやかな思い。
言わばスペクトルマンにちなんだ「虹色の希望」なんです。


たとえ世間の評価がどんなものでも、「宇宙猿人ゴリ」という作品、スペクトルマンという存在は、私にとってそれくらい大きな物です。
大のウルトラファンは「M78星雲・ウルトラの星が見える」と言いますが、私の「ネヴュラ」もそれに近い感覚なんでしょうね。

「ゴリ」を始め、ピープロダクション制作の作品はその多くがB級扱いされる事が多いです。ある種マイナーな作品群ですよね。そりゃどうしたってウルトラやライダーには叶わない。でも私はそのマイナー加減が、実に作風に合っていて好きなのです。
あの優しい「隣のお兄ちゃん、蒲生譲二」が有名になったら、どこか遠い存在になっちゃいますからね。


今日はいつも以上にお話が長くなってしまいました。ごめんなさい。
大したいわれでもないんですが、人それぞれ思い出に残る作品ってあるもので。
ついに「ネヴュラ」でピープロ作品が解禁。
さあこうなると止まりません。これから「スペクトルマン」についてのお話も増えると思います。未見の方はお分かりにならないかも知れませんがお許し下さい(笑)。

「ネヴュラ」はこれからもまだまだ続きます。
つたないお話ばかりですが、呆れずによろしくお願い致します。

【追記】
いつも仲良くしていただいているポン太さんから、またしてもとても嬉しいお祝いTBを頂きました。
この場を借りてお礼申し上げます。
思えば私は、ブログを通じて沢山のスペクトルマンに見守られているんですね。
本当にありがとうございました。

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