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2006年12月25日 (月)

超人の条件

年も押し迫ると、あちこちの番組で「今年の顔」なんて特集が組まれたりして。
今年活躍したヒーローなんてランキングもお決まりのパターンです。

「ヒーロー」と聞くと、どうしても現実世界で活躍した人たちの話題が多くなりますが、昔から私は「ヒーロー」という言葉の響きに、人間を超えた超人のイメージを見てしまうのでした。
スポーツ選手や芸能人の活躍は確かに真似のできないすばらしい功績ですが、どんなに活躍しようと、それは人間の能力の範囲内に過ぎないように感じてしまって。

やっぱり私にとってヒーローと呼ばれる存在は、人間を完全に超越した異質のものなんです。

そんな思いを胸に残して、今朝久しぶりにリアルタイムで見た「仮面ライダーカブト」。ここ数回は録画して見ていたので、朝の雰囲気を感じながらの鑑賞は新鮮な感覚がありましたが。
ここ数回「カブト」は、ストーリー終盤の盛り上がりで登場人物の整理エピソードが多いようですね。サブキャラクターのライダーとしていろんな意味で番組を盛り上げた人物の死(?)が描かれていましたが。
ところで最近特に、こうした仮面ライダーなどのヒーロー番組(テレビ朝日ではこの時間枠を「スーパーヒーロータイム」と銘打っているので、「カブト」もヒーロー番組ですよね。)に、私が考えるヒーローと呼べる存在は居なくなっちゃったなーと感じる事が多いのです。

確かに主人公は仮面ライダーに変身する。敵と戦う。その末にライダーキックで敵を粉砕、勝利をおさめる。その通りなんですが、そこには昔ながらの「人知を超えた超人感覚」が極めて薄いのです。皆さんはいかがですか?
「カブト」を見終わり他の予定を片付けている間にも、その疑問は私の中で軽い疼きを放っていたのです。

今日一日、無い頭をひねってみてたどり着いた結論は二つ。まあ一日程度の考えなので底は浅いですが、お時間あればお聞き下さい。

一つ目は「知覚しにくいカタルシス」という現象じゃないかと。
要は番組に出演するキャラクターのほとんどが、特殊能力の持ち主か特別な武器を携帯している為に、どんな現象が起こっても視聴者には大事件に見えなくなっているのでは、なんて思ってしまうんですね。

例えば「カブト」で劇中に現れる敵キャラクター「ワーム」。この存在は、番組が始まった今年一月頃は一般の人間に危害を加える、人間にとってとてつもない脅威として描かれていました。言ってみればこれは初作「仮面ライダー」にとっての「ショッカー怪人」ですから恐ろしいのは当たり前で。その特殊能力を使って人類抹殺を企てる恐るべき存在なのです。
ところが今日の回を含めた最近の「カブト」では、もはやワームは単なる「対戦相手」でしかないんじゃないかと。
ワームが本来持つ「人間にとっての脅威」という側面が抜け落ちている。そこへ人間の数十倍の力を持つライダーが現れるから、この二者の戦いは人間不在になっているんですよ。


お互い強い者同士が戦うから、それは人間にとってどれくらい次元の違う戦いかが知覚できない。ビルなどの比較対象物が無い怪獣は、どれくらい巨大かわかりにくい、という現象と似ています。ライダーとワームの戦いは、人間が比較対象物になる必要がある訳です
「カブト」初期話数で、「クロックアップ」(人間の数十倍の速度で動ける特殊能力)を表現するのに、カブトやワームの通常の動きに対して周辺の物体の動きが超スローになる、あの映像の細心さは特筆すべきものだったのに。


そうなってくると「強い」「速い」なんていう表現がどんどんわかりにくくなってくる。
力の強さ、動きの速さを表現するなら、例えば一般の人間の周りで一瞬にして車がひしゃげるとか地面が割れるとか、映像的に凄い表現をする必要があると思うんですが。

このあたりは平成ライダー第一弾「仮面ライダークウガ」あたりの方が丁寧な描写を心がけていたような気もします。「人間と怪人の圧倒的な力の差」を感じさせる演出が随所に見られました。

で、もう一つ。これは「カブト」のみではなく、最近のヒーロー番組全般に感じる事なんですが。
「能力は超人的だけど、心は人間」というもので。

これは難しいところなんですが、初作「ウルトラマン」(1966年)あたりのヒーロー番組は、「超人的な能力に見合った、超人的な精神」があったような気がするんですよ。
例えばウルトラマンにしてもウルトラセブンにしても、その精神は常に人間を超えた、ある意味博愛主義的なものでしたよね。第一次、第二次怪獣ブームを通じて、超人的な能力を持つ存在は敵と戦う理由を個人的な事情に求めてはいなかったような気がするのです。(「快傑ズバット」は例外ですが)

私のような時代遅れのオタクなどは、超人性を能力、精神に求めてしまうので、今のヒーロー番組を見ているとなんとも座り心地が悪くて(笑)。

「カブト」の天道総司の例を挙げるまでもなく、最近のヒーローは「自分のルールがたまたま正義を守る考えに近かった」とか、「姉や弟の仇」、そういう理由が割と多いような感じがしてしまって。「ウルトラマンメビウス」にしたって、メビウス本人の心はきわめて地球人っぽいですよね。何か非常に矮小な印象を受けるんですよ。

逆にウルトラマン第33話「禁じられた言葉」におけるウルトラマンとメフィラス星人の会話など、その超人性が発揮されていますよね。
メフィラス星人の「ウルトラマン、貴様は宇宙人なのか、人間なのか?」という問いに答えるウルトラマンの「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破る奴と戦うために生まれてきたのだ」というセリフ。地球人のうかがい知れない「宇宙の掟」が、既に宇宙人同士の間で作られているというこのグローバルな感覚が、ウルトラマンの「人間とは違う」感覚を強調しているような気がするのです。
「仮面ライダー」も同じですよね。ショッカーに改造されてしまった自分のような犠牲者を出さない為の戦いという、ある意味崇高な思いは、ライダー本郷猛にその特殊能力以上の「心の超人性」を与えていたのだと思うのです。


制作者達が作品に込めたメッセージは、時を経てさらに鮮明に心を捉えます。
放送当時子供だった私には、ウルトラマンや仮面ライダーの超人性の香りを、そんな所にも感じていたのかもしれません。

「カブト」を見ていると、どんなに超人的な能力を獲得していても所詮人間は人間。私事で動くご近所話に見えてしまうのです。ただ現代では、こういうドラマ作りは仕方のない事なのかもしれませんね。いわゆる「悪が特定しにくい世の中」では、正義や自由を守る戦いにリアリティーが無いのかもしれません。だから戦いの理由の落とし所をそういう個人的な理由に求めざるを得ない。それはそれで正論なのかもしれませんが。

ただ私は思います。こういうドラマを今見ているファン達は、私達が子供の頃「ウルトラ」「ライダー」から受け取ったような「恥ずかしいけど正しい心」を感じる事ができるんでしょうか。
私には「カブト」のメッセージは「正しい心」とは思えない。「言葉は無くても通じ合える心」とか「同じ目標を目指す同士の絆」とかはあっても、常に真実が揺らぐ作品世界の中で「正義」のあり方が極めて見通しにくいからです。エンディングを迎えても釈然としない、平成ライダーの恒例とさえ言える流れになっているのでは?

これが今のヒーローのあり方なんでしょうか。だとしたらもうそこには「超人性」はありません。昔のライダーと似た姿形をしていても、それはもう「パワードスーツを着込んだ人間」に過ぎないからです。
でも私は、この方向性を否定したくないんです。
彼らは超人とは呼べないけれど、「力を持った人間の生き様」は表現している。
そういう視点は無視できません。その方向性を極限まで高めたのがかの「龍騎」と思いますから。いびつな作品ではありましたが、私には傑作と映りました。


でも、そういう作品を「ヒーロー番組」として提供される今の子供達って、つくづくハードな世界に生きているんだなと思います。
子供達のヒーローがウルトラやライダーから、イチローや松井に代わって行くのは無理も無いかもしれませんね。

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コメント

確かに昔のような単純なお話ではないですよね!
対象が子供より大人って感じですもん。
もはや「ヒーローもの」なんて幻なのかな~?
ガキも ませてきてるしね・・・(笑)。

先日は当ブログにまでコメントを寄せて頂き恐縮です。
「ジャリゴン」をクリックすると
メルアドが開きますので詳しいお話はそちらにて。

さて今回のお題について。
ヒーロー番組に限らず、一昔前のTVドラマと比べて
最近の作品はイロイロな面でソフトになっている理由には、
それだけ様々なシガラミが制作側にもあると聞いた事があります。
あるインタビューで必殺シリーズのプロデュサーさんが
「今の人達は怒らなくなった、だから必殺が作れない」
と言う様な事をおっしゃっていたのですが、
これはヒーロー番組にも当てはまる部分があるような気がします。

地球(や宇宙)全体の未来をしょってた昭和のヒーロー達が
町内の安全を守る平成のヒーロー達になってしまうのは
仕方ない事なのかな。
ただメイン・ターゲットのチビッ子達は、
当時の僕等と同じで、内容やメッセージを読み取るよりも
目先の格好良さが優先だろうから、
そう云う意味では昔も今も同じ・・・
いやある意味、今のヒーローの方が上かも。
ヒーロー番組を観て育った大人が見ても
格好良いデザインが多いし、
設定も異常に細かい(ほとんど作品には生かされませんが)。
あやふやじゃないんですね、全体的に。
そして何より「戦隊ショー」で危機に陥るヒーロー達に声援を贈る
チビッ子がいる限り、超人の条件はクリアしているのでしょう。

ポン太様 コメントありがとうございました。
今、ヒーロー番組のあり方は非常に難しいところに来ていると思います。
子供にはカタルシスを。大人には隙の無いドラマを。
こういったある種相反する要求に応えなければならない制作陣の苦悩は、作品にも表れていますね。
後年、語り継がれる作品を作りたいという制作陣の熱い思いは、きっと今の閉塞状況に何らかの変化を与えるのではと、ひそかに期待しているのですが。

貴ブログにて丁寧なご挨拶を頂き、ありがとうございました。
私もポン太さんとお知り合いになれて、大変感謝しています。
「ネヴュラ」を始めたのが今年の5月。随分色々な方のご意見を頂きました。私のような者の下らない独り言をご参考いただけるだけで、まさにオタクイーン冥利に尽きます。
気落ちしている時の励ましのコメントも、私にとっては大変励ましになりました。
「ネヴュラ」は来年も、こんな調子で細々と続けていきますので、どうぞ本年同様可愛がってやってください。よろしくお願いいたします。

ジャリゴン様 コメントありがとうございました。
メールの件、一応こちらもメルアドを送らせていただきましたが届きましたでしょうか?ご相談はどうぞそちらまで。

必殺シリーズのプロデューサー、山内久司さんの「今の人達は怒らなくなった」発言は私も聞いた事があります。たしかにそうなんですよね。「怒らなくなった」というより「怒りたいんだけど、怒る対象がはっきりしない」という事なのかもしれません。
「悪」の定義が曖昧になっているんです。
「アイアンキング」などで独自の世界を築いた脚本家、佐々木守さんも、ある対談番組で近い意味の発言をしています。
「ヒーロー番組がいま一つ盛り上がらないのはそれだけ世の中が平和という事。ただ、そういう世の中は極めてつまらない。」
はっきりした敵が存在しない世界では、怒りの矛先をどこに向けていいか分からないんですね。強大な敵が居るからこそ際立つヒーローの魅力は、敵の不在に比例して矮小化してしまっているようです。
活躍がご近所レベルになるのも仕方がない事なのかも。
ヒーローのあり方は時代背景を抜きにしては語れないんですね。

でも、ジャリゴンさんがおっしゃる通り、メインターゲットである子供は、単純にヒーローのアクションに胸を躍らせ、その強さに憧れるんですよね。そういう部分を強調する番組作りも正しいとは思います。
「超人の条件」も、また時代によって変革していくんでしょうね。
今のヒーロー番組が「物差し」になった子供たちが成長して作り手になった時、どんな作品が生まれてくるのか。
それもまた見てみたい、興味深い部分ではあります。

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