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2006年12月の記事

2006年12月28日 (木)

ネヴュラ大掃除のお知らせ

いつもオタクイーンの「恋するネヴュラ」を可愛がって頂き、ありがとうございます。
ただ今「ネヴュラ」は年末恒例・大掃除の真っ只中。

たまりにたまったユルユルソフビをはじめ、プラモデル、本、その他あらゆるオタクグッズを収納しなおす為、現在私の部屋は大戸島、姫神島、果ては多々良島観測所並みに物がひっくり返っております。

この掃除は毎年この時期行われる行事のようなもので、睡眠時間も一日3~4時間程度の過酷さ。食事をとる暇も無く「右手に雑巾、左手にパン」という、サバイバルな状況が続いております。


行く手を物に阻まれ、パソコンのキーに手を伸ばすのさえ困難を要する状態。
この状態が緩和されるまで、おそらく今日より年末一杯「ネヴュラ」は更新できない状況が予想されます。
読者の皆さんにはご迷惑をおかけしますが、更新はもうしばらくお待ち下さい。

Photo_408 写真のように、怪獣たちが手伝ってくれれば助かるんですが(笑)。

2006年12月26日 (火)

タブーの境界

「ちょっとお話がありまして。」
番組プレビューの後、担当のタイムキーパーさんに呼び止められたVTR室。

「こういう文書が回ってきたんですが。」
見せられたコピーには、放送に於けるスーパー字幕の規定について記述がしてありました。
なんでも今後、値段など字幕で1,000円単位の表記をする時は「,」(カンマですね)を付けないように、という指示でした。
つまりカンマを付けないと「1000円」という表記になる訳です。

同席のプロデューサー達と首をひねった私。だって、どう考えてもカンマ付きの方が分かりやすい。テレビの字幕はずっと映っているわけではないので、短い時間で分かりやすい表記を心がけるのが普通なんですが。
文書を見せたタイムキーパーさんもきまりが悪いらしく「私もおかしいとは思うんですが」と歯切れが悪そうな気配。案の定他の番組スタッフも承服できないらしく、私の担当する番組も他の番組と足並みを揃えて様子を見よう、という結論となりました。

今日の一件は大した事ありませんが、番組制作という物は常に規定やモラルとの戦いがあります。
例えば街頭インタビューなどで述べられる意見に対しては、制作者は作為を加えてはならないとか。物事の是非を問う質問には、一方の意見だけを多く採り上げてはならないとか。
いつも事実に対して中立の立場をとる必要がある訳です。
私も常にその事には注意しているつもりなんですが、難しい判断に迫られる事も多くありまして。というのは人間、置かれる立場やモラルの認識というのは一人として同じではないからで。
この私にしてからが、「女性として生活する男性」なんて、極めて特殊な立場ですから(笑)。
人々に与える影響が大きいマスコミ界に身を置く者として、常に自分を戒めなければならないとは思っても、「相手の立場に立って考える」という事にも限界があるような気もします。
視聴者の皆さんの賛同を得られるかどうか、というのは手探りの状態なんですよね。

自分では「偏っていない」と思っていても、人の思いは千差万別。
常に反対意見は存在する訳で。

ただ、得てしてそういう作品は主張が突出していたり表現が過激な為、局側も「触れたくない」。
光の当たらない存在になりがちなんです。

「ネヴュラ」読者の方々には、私がよくお話するジャンルにもそういう作品群がある事をよくご存知ですよね。
核による被爆者団体の抗議を受けた「ウルトラセブン」12話や、犯罪者の精神鑑定をテーマに据えた「怪奇大作戦」24話あたりが有名なところで。

実はこれらの作品、今でも簡単に見ることができます。読者の皆さんならよくおわかりですよね。これらは「放送できない」というだけで、一時期ソフトもよく出回っていましたから。ですからその内容について今回お話する事は避けましょう。
これらの作品については最近、その「封印の経緯」を追いかけた書籍も発売され、おおよその流れは世間に認知されました。

で、私思うんですが、これらの作品をご覧になって「うわー!これは放送できない」とか、「いいの?こんな事言っちゃって」なんて感じられたでしょうか?
ほとんどの方は「なんでこの作品が放送禁止なの?」と、首を傾げられたのでは?

確かに今の目で見れば「問題作」なんでしょうが、いずれも本放送当時、「放送翌日に抗議の嵐」とか、「モニター調査で抗議の署名多数」とか、そういう事実は無かったように思います。

放送作品を作る立場の私は身に染みて感じる事なんですが、「表現の仕方」って本当に難しい。前述の番組に限らず「主張する側と受け取る側の間合いのとり方」はどんなクリエイターでも悩みのタネなんですよね。
自分の主張は曲げたくない。でも当たり障りのない表現にしてしまえば主張が弱くなってしまう。

社会問題などを採り上げる番組を作る際には、その主張部分が一番の重要点であるだけに、特にその問題の当事者には充分な配慮が必要と思います。

ところがここに、「タブーの境界」という問題が頭をもたげて来ます。
問題の当事者でない人間には、「当事者がどの部分に触れられたくないか」を完全に理解する事はできないような気がするんですよ。
つまり番組制作者と問題当事者に「タブーの境界」のずれが生じた結果が、前述の「放送禁止作品」なんじゃないかと。


それらの番組を見るとき私達が感じる「これくらいなら別に大した事ないじゃん」という感覚は、乱暴な言い方をすれば「当事者じゃないから言える感覚」じゃないかと思ったりするんです。
私達テレビ屋は、ここを肝に命じておかないと同じ過ち(と言い切ってしまいましょう)を犯す可能性がある訳で。

これは他の業界にも当てはまることですよね。
例えば商品の生産コストの問題とか。

「これは便利な商品だけど、これだけコストがかさむと単価が上がり、その単価では消費者は手を出さないだろう」という。
「単価」というのは商品の大きなアピールポイントであり、「消費者との間合い」である訳です。この「生産者と消費者の金銭感覚の間合い」が、「制作者と視聴者とのモラルの間合い」に近いと言えば分かりやすいでしょうか。

ただ大きく違うのは、「モラル」は「お金」程、価値観が万人平等ではないという事ですね。
だから難しい。


実は私も、テレビの道を志した頃は「これほど自分の主張がダイレクトに発表できる業界は無い」なんて希望に燃えていました(笑)。
しかしながら、番組を作っていて思うのは「私が感銘を受けた番組は、すべからく制作者の主張がモラルギリギリのラインで視聴者に受け入れられた、過激な作品だったんだな」という事でした。
正直、自分がテレビマンとして失敗するかもしれないというリスクを覚悟で過激な番組を作れるか、と言われると、さすがに躊躇してしまいますから。
(その反動が「ネヴュラ」の私見に表れているのかもしれませんね。言いたい事言いまくりで皆さんにご迷惑をかけっぱなしですし(笑)

前述の「セブン」「怪奇」の封印作品は、好意に取れば当時のテレビマンの情熱が乱反射した「フライング」とも思えます。
「セブン」「怪奇」とも、現状に甘んじない、常に新しい表現を模索する制作者の思いが感じられますから。
しかしながら、これら封印作品が問題当事者の「タブーの境界」を超えてしまったのも確か。それは素直に反省すべきだと思います。

私だってそういう番組を作ったとき、いつ当事者のタブーに触れて謝罪をすべき立場になるとも限りませんから。

ここまでのお話は、番組の特定エピソードがまるまる一本放送できなくなった例ですが、特定の方々に対して不快感を与える表現には「放送禁止用語」などもありますよね。
昔の番組にはよくこれがあって、現在では放送の際そういったセリフ部分をカットして放送する場合も多くあります。ただこれは私、どうかと思います。

周りの仲間も同じ意見ですが、映倫と同じでそこを隠す事によって余計セリフの意味が強調されちゃうような気がするんです。
言葉の意味も千差万別で、場面やセリフ回しによってはその言葉の反対の意味を表現するために、あえてそのセリフを言わせている、なんて演出もある事ですし。言葉だけをカットすれば事足りる、というものでもないような。
この問題は今後、まだまだ処置の課題が残っていますよね。


私の地方のローカル局で最近ウルトラシリーズが再放送されていますが、この放送は番組のオリジナル性を尊重し、あえてセリフをカットしない方針だそうです。最後に趣旨を説明する字幕さえ出ます。この処置によって制作者の主張がはっきりし、視聴者はそれを理解して番組に臨むので、ある意味モラルの認識が共通になる訳ですね。
CS放送などでは一般化しつつあるこの処置。地上波に導引するのはいろいろ大変だったでしょうが、こうした動きにも、担当者の番組への愛を感じますね。
この処置によって局へのクレームは発生しないのではないでしょうか。


一人ひとりに存在する「タブーの境界」。メディアに対する人の嗜好が広がりを見せる現代は、この問題はさらに重要になってきていると思います。といって「タブーを恐れて、虚勢された作品を作る」のも、テレビマンのあり方じゃないだろうと。
新たな年を目前に、ちょっとそんな事を考えさせられる雨の夜でした。

2006年12月25日 (月)

超人の条件

年も押し迫ると、あちこちの番組で「今年の顔」なんて特集が組まれたりして。
今年活躍したヒーローなんてランキングもお決まりのパターンです。

「ヒーロー」と聞くと、どうしても現実世界で活躍した人たちの話題が多くなりますが、昔から私は「ヒーロー」という言葉の響きに、人間を超えた超人のイメージを見てしまうのでした。
スポーツ選手や芸能人の活躍は確かに真似のできないすばらしい功績ですが、どんなに活躍しようと、それは人間の能力の範囲内に過ぎないように感じてしまって。

やっぱり私にとってヒーローと呼ばれる存在は、人間を完全に超越した異質のものなんです。

そんな思いを胸に残して、今朝久しぶりにリアルタイムで見た「仮面ライダーカブト」。ここ数回は録画して見ていたので、朝の雰囲気を感じながらの鑑賞は新鮮な感覚がありましたが。
ここ数回「カブト」は、ストーリー終盤の盛り上がりで登場人物の整理エピソードが多いようですね。サブキャラクターのライダーとしていろんな意味で番組を盛り上げた人物の死(?)が描かれていましたが。
ところで最近特に、こうした仮面ライダーなどのヒーロー番組(テレビ朝日ではこの時間枠を「スーパーヒーロータイム」と銘打っているので、「カブト」もヒーロー番組ですよね。)に、私が考えるヒーローと呼べる存在は居なくなっちゃったなーと感じる事が多いのです。

確かに主人公は仮面ライダーに変身する。敵と戦う。その末にライダーキックで敵を粉砕、勝利をおさめる。その通りなんですが、そこには昔ながらの「人知を超えた超人感覚」が極めて薄いのです。皆さんはいかがですか?
「カブト」を見終わり他の予定を片付けている間にも、その疑問は私の中で軽い疼きを放っていたのです。

今日一日、無い頭をひねってみてたどり着いた結論は二つ。まあ一日程度の考えなので底は浅いですが、お時間あればお聞き下さい。

一つ目は「知覚しにくいカタルシス」という現象じゃないかと。
要は番組に出演するキャラクターのほとんどが、特殊能力の持ち主か特別な武器を携帯している為に、どんな現象が起こっても視聴者には大事件に見えなくなっているのでは、なんて思ってしまうんですね。

例えば「カブト」で劇中に現れる敵キャラクター「ワーム」。この存在は、番組が始まった今年一月頃は一般の人間に危害を加える、人間にとってとてつもない脅威として描かれていました。言ってみればこれは初作「仮面ライダー」にとっての「ショッカー怪人」ですから恐ろしいのは当たり前で。その特殊能力を使って人類抹殺を企てる恐るべき存在なのです。
ところが今日の回を含めた最近の「カブト」では、もはやワームは単なる「対戦相手」でしかないんじゃないかと。
ワームが本来持つ「人間にとっての脅威」という側面が抜け落ちている。そこへ人間の数十倍の力を持つライダーが現れるから、この二者の戦いは人間不在になっているんですよ。


お互い強い者同士が戦うから、それは人間にとってどれくらい次元の違う戦いかが知覚できない。ビルなどの比較対象物が無い怪獣は、どれくらい巨大かわかりにくい、という現象と似ています。ライダーとワームの戦いは、人間が比較対象物になる必要がある訳です
「カブト」初期話数で、「クロックアップ」(人間の数十倍の速度で動ける特殊能力)を表現するのに、カブトやワームの通常の動きに対して周辺の物体の動きが超スローになる、あの映像の細心さは特筆すべきものだったのに。


そうなってくると「強い」「速い」なんていう表現がどんどんわかりにくくなってくる。
力の強さ、動きの速さを表現するなら、例えば一般の人間の周りで一瞬にして車がひしゃげるとか地面が割れるとか、映像的に凄い表現をする必要があると思うんですが。

このあたりは平成ライダー第一弾「仮面ライダークウガ」あたりの方が丁寧な描写を心がけていたような気もします。「人間と怪人の圧倒的な力の差」を感じさせる演出が随所に見られました。

で、もう一つ。これは「カブト」のみではなく、最近のヒーロー番組全般に感じる事なんですが。
「能力は超人的だけど、心は人間」というもので。

これは難しいところなんですが、初作「ウルトラマン」(1966年)あたりのヒーロー番組は、「超人的な能力に見合った、超人的な精神」があったような気がするんですよ。
例えばウルトラマンにしてもウルトラセブンにしても、その精神は常に人間を超えた、ある意味博愛主義的なものでしたよね。第一次、第二次怪獣ブームを通じて、超人的な能力を持つ存在は敵と戦う理由を個人的な事情に求めてはいなかったような気がするのです。(「快傑ズバット」は例外ですが)

私のような時代遅れのオタクなどは、超人性を能力、精神に求めてしまうので、今のヒーロー番組を見ているとなんとも座り心地が悪くて(笑)。

「カブト」の天道総司の例を挙げるまでもなく、最近のヒーローは「自分のルールがたまたま正義を守る考えに近かった」とか、「姉や弟の仇」、そういう理由が割と多いような感じがしてしまって。「ウルトラマンメビウス」にしたって、メビウス本人の心はきわめて地球人っぽいですよね。何か非常に矮小な印象を受けるんですよ。

逆にウルトラマン第33話「禁じられた言葉」におけるウルトラマンとメフィラス星人の会話など、その超人性が発揮されていますよね。
メフィラス星人の「ウルトラマン、貴様は宇宙人なのか、人間なのか?」という問いに答えるウルトラマンの「両方さ。貴様のような宇宙の掟を破る奴と戦うために生まれてきたのだ」というセリフ。地球人のうかがい知れない「宇宙の掟」が、既に宇宙人同士の間で作られているというこのグローバルな感覚が、ウルトラマンの「人間とは違う」感覚を強調しているような気がするのです。
「仮面ライダー」も同じですよね。ショッカーに改造されてしまった自分のような犠牲者を出さない為の戦いという、ある意味崇高な思いは、ライダー本郷猛にその特殊能力以上の「心の超人性」を与えていたのだと思うのです。


制作者達が作品に込めたメッセージは、時を経てさらに鮮明に心を捉えます。
放送当時子供だった私には、ウルトラマンや仮面ライダーの超人性の香りを、そんな所にも感じていたのかもしれません。

「カブト」を見ていると、どんなに超人的な能力を獲得していても所詮人間は人間。私事で動くご近所話に見えてしまうのです。ただ現代では、こういうドラマ作りは仕方のない事なのかもしれませんね。いわゆる「悪が特定しにくい世の中」では、正義や自由を守る戦いにリアリティーが無いのかもしれません。だから戦いの理由の落とし所をそういう個人的な理由に求めざるを得ない。それはそれで正論なのかもしれませんが。

ただ私は思います。こういうドラマを今見ているファン達は、私達が子供の頃「ウルトラ」「ライダー」から受け取ったような「恥ずかしいけど正しい心」を感じる事ができるんでしょうか。
私には「カブト」のメッセージは「正しい心」とは思えない。「言葉は無くても通じ合える心」とか「同じ目標を目指す同士の絆」とかはあっても、常に真実が揺らぐ作品世界の中で「正義」のあり方が極めて見通しにくいからです。エンディングを迎えても釈然としない、平成ライダーの恒例とさえ言える流れになっているのでは?

これが今のヒーローのあり方なんでしょうか。だとしたらもうそこには「超人性」はありません。昔のライダーと似た姿形をしていても、それはもう「パワードスーツを着込んだ人間」に過ぎないからです。
でも私は、この方向性を否定したくないんです。
彼らは超人とは呼べないけれど、「力を持った人間の生き様」は表現している。
そういう視点は無視できません。その方向性を極限まで高めたのがかの「龍騎」と思いますから。いびつな作品ではありましたが、私には傑作と映りました。


でも、そういう作品を「ヒーロー番組」として提供される今の子供達って、つくづくハードな世界に生きているんだなと思います。
子供達のヒーローがウルトラやライダーから、イチローや松井に代わって行くのは無理も無いかもしれませんね。

2006年12月22日 (金)

愛は障害あればこそ

Photo_400 「これはヒットかもしれないわー。」
昨日、また性懲りも無く手に入れてしまったこれ。「GMKゴジラ」。

読者の皆さんには説明の必要もない、特別なゴジラと言っていいでしょう。
このゴジラが登場する作品について、「ネヴュラ」ではもう何度書いたでしょうか。
「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」(2001年東宝 金子修介監督)。

この作品、ゴジラ映画史上最も怖いゴジラが描かれた、なんて言われましたね。
確かに稀代の造形師、品田冬樹の手によるこのゴジラは、原点回帰を目指した恐竜型のフォルム、感情移入を拒否する黒目の無い瞳など、この頃のゴジラ造形の流れの中でも異彩を放つデザインで大きな話題を呼びました。
そんな事もあってファンの間では造形師の名前を冠して「しなゴジ」なんて呼ばれています。

造形師の名前が冠されたゴジラなんて、ゴジラ史上初めてですよね。それだけこのゴジラは他のゴジラ造形とは一線を画す存在なのでしょう。
以前、私の街で平成ゴジラの着ぐるみを展示した「ゴジラ展」が開催されたとき、他のゴジラとは明らかに違う存在感を放つこの「しなゴジ」を前にして、私は「この実物を見ただけで来た甲斐があったわー」なんてほくそえんでいました。

Photo_402 その凶暴な雰囲気は、こうした「ユルユルソフビ」になっても健在です。なにしろプロポーションからして独特。どこから見てもゴジラなのに、どこから見ても他のゴジラと違うという不思議な個性が、このソフビにも再現されていて実にヒットなのでした。
タグを見ると、どうやらゴジラビデオファンクラブ会員用の限定品だとか。どうりでお店で見たことが無い訳だよねー。
オタクショップに流れてこなければ目にする事もなかったでしょう。
いやーでもいいわこれ。私の「ゴジコレ」の中でもかなり上位を占めるんじゃないか、なんて。

ところで、私がこのしなゴジを手に入れる時、ちょっとしたエピソードがありまして。
このソフビはいつものオタクショップで、ショーケースの中に未開封で鎮座していたんですが、その場所は随分奥の方だったんです。
手前にはゲゾラとか立ってたりして(笑)。
で、手前のソフビを眺めていて目に止まったのがこれという訳です。
ゲゾラなんか目じゃないくらい「白目でガンをつけられた」という(笑)。

部屋に帰って開封し、「やっぱりしなゴジは最高だなー」と眺めながら、私の頭は「GMK」に思いを馳せていました。
「なんでこのしなゴジは、あんなに魅力的に映ったんだろう。」
確かにあの作品で、ゴジラは大きく、怖く、強く映っていました。全ゴジラが戦うバトルロイヤルなんかがあったら(ガンダムファイトみたいなものですかね)おそらく優勝候補じゃないかと思うくらいの実力でしょう。心臓だけでも生きてるし。
その迫力を生んだもの。それは単に、強さを誇示するキャラクター作りだけではないんじゃないかと思うのです。


実は、体長や強さだけで言えばおそらく平成ゴジラの方が上なんですよ。
身長100メートル、放射能火炎は大盤振る舞いの「VSキングギドラ」「VSメカゴジラ」あたりのゴジラは、「こりゃもうどんな対戦怪獣をぶつけたってムリだな」なんて感じてしまって。
ある意味無敵になってしまったゲームキャラに通じるつまらなさに通じるものがありました。

ところが、怪獣的な怖さが無い。

強さはあっても、巨大生物としての驚異が感じられないんですね。
ゴジラという存在に慣れてしまったから、という理由とも違うような。当時「なんでなのかなー」と考えてはいました。
その疑問に回答らしきものが出たのが「ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995年)でした。
この作品も「ネヴュラ」常連ですが(笑)。

平成ガメラは「怪獣を見る視点」という物に徹底的にこだわった作品としても有名ですよね。それにはこの作品の特撮を手掛けた樋口特技監督の意地が表れていると。
樋口監督が、1984年制作の「ゴジラ」(橋本幸治監督)に特撮スタッフとして参加した事はよく知られています。その時、特撮のカメラポジションを高めに構えるカメラマンに対し、当時の樋口監督は疑問を持ったそうで、スタッフに「このカメラは誰の目線を想定しているんですか?」と尋ねたそうです。
そのスタッフは言いました。「神の目じゃ。」


「神の目」。それは私達人間には決して知覚できない視点なのでは。
樋口監督もきっとそう思ったのでしょう。平成ガメラシリーズに見られる臨場感は、精緻を極める作りこみのセットの中に、地面ギリギリに構える「人間の視点」としてのカメラポジションが生み出しているのです。


考えてみますと、平成ゴジラシリーズの特撮場面は、カメラがほとんどハイポジションなんですね。怪獣の視点になっている。その為、たとえ身長100メートルのゴジラでも巨大さが表現されていない。
見上げるような視点が無いからです。あったとしてもそれは遠景ばかりで、すぐ近くに怪獣が迫っている迫力が感じられない気がします。
逆に平成ゴジラは俯瞰(上から見下ろす)ようなカットが多い。これは実は映像表現のセオリーでは「キャラクターを小さく見せる」効果があるんです。
一般の映画などでヒロインが泣き崩れる場面などを思い出して頂くと、彼女の置かれた状況、運命に押しつぶされるかのような儚いヒロインの感情が、やや上からのカメラワークで表現されている場面があるかとも思います。そういう事なんです。
だから怪獣などに対してのカメラワークは、むしろ仰角(見上げる角度)の方が、より巨大感、迫力を強調できるわけです。


平成ゴジラに感じる物足りなさは、おそらくこのカメラワークにもその一端が表れているのでしょう。そしてもう一つ、巨大感、驚異を演出するカメラワークがあります。
これは「GMK」で特に強調されたことですが。


目線を遮る「障害物」の存在です。

都心部で私達が身長50メートルもの生物を目撃する時は当然見上げる角度になります。その時視界に入ってくるのは、まず巨大にそびえ立つビル。近くの家並みでさえ見える筈です。そしてその向こうに怪獣。
私達にはこう見えなければおかしいんです。

よほど見晴らしが利く広い平原でもなければ、怪獣の一部はビルに遮られて見えない。足元なんかは家並みに隠れて見えないわけです。この「障害物」の存在が、私達に怪獣の存在感を知覚させてくれる。「日常の中に入り込んできた非日常」を感じさせてくれるんですね。

「GMK」では、この「障害物」の演出が、怪獣の巨大感を実に感じさせてくれました。ゴジラ上陸直後の、タクシーの車内から見上げるゴジラの姿(フロントピラーが怖い!)大湧谷で放射能火炎を放つ直前、ロープウェイ発着場の中から見えるゴジラの姿(これも窓枠が!)等々・・・。私達の世界と地続きで怪獣世界が繋がっている事を感じさせる上で、これは非常に重要な演出と思いました。

平成ゴジラではこういう視点が欠けていたような気がするのです。
Photo_403 例えば写真のような「ペギラ、科特隊基地を襲う」といった場面(笑)でも、平成ゴジラ風に撮ればこういう、やや俯瞰の「神の目」視点になると思うんです。
位置関係はわかりますが、ちょっと平板な絵に映っちゃいませんか?


Photo_404 これが、「仰角、障害物あり」の視点だと、ほらこの通り。「おおー、怪獣!」って感じに見えちゃって。大迫力を感じちゃうんです。
私だけかな?
結局人間が普段見ている、馴染みの視点に進入してくる巨大な存在が、迫力を呼ぶんですよね。



Photo_405 今日の記事の為に手持ちの怪獣でこの撮影をやってみると、これがまた面白くて。
大好きな「ネロンガ」も、家並みと並べてみればこの迫力!思わずメーサー車まで出動させちゃったりして。怪獣のフィギュアなんて大体いつも上から見てますから、下から見上げる視点は新鮮ですよねー。
家まで置くとこれはもう(興奮)。


Photo_406 ほらほら。買ったばかりの「しなゴジ」だってこの通り。やっぱり怪獣は仰角ですね。障害物もいいお芝居してます。きっと樋口監督も、こういう絵に興奮したはずなんですよ。
平成ガメラで樋口監督の助監督を努めた「GMK」の特技監督、神谷誠さんにも、この感覚は健在だったんでしょうね。しなゴジの迫力を生んだもの。これはこうしたカメラワークの助けもあったのです。つくづく「見せ方」って重要ですよね。

最初から絵空事と思われてしまう怪獣映画にとって、観客を作品世界に誘う演出は実に重要。そういう部分の絵心を持った監督の登場を期待したいものです。
Photo_407 やっぱり怪獣への愛も、『障害』がある方が燃え上がるんですよ。
ウルトラQ「1/8計画」での由利ちゃんへの愛も、二人を分かつ障害ゆえに盛り上がったんでしょ。
ね、淳ちゃん(笑)。

2006年12月20日 (水)

「キリがない」

タイトルをご覧になってニヤリとされた方、ハズレです。
ウルトラQの没シナリオではありません(笑)。


毎年この時期になると、私は寝不足で。
部屋を片付ける大掃除の時期なんです。
季節ごとに少しずつやっておけば、こんなに苦労する事もないんですが、なにしろものぐさで。
女子としては恥ずかしい限りなんですが。

まあ「片付けられない女」ではないのでまだましかと思っています。
特に今年は、母の他界を機に実家を引き払う事にした為、実家の整理と合わせ、自分の部屋も一気に片付けよう、なんて無謀な計画を立ててしまったのでした。

主の居なくなった実家は、業者さんに頼んで家財道具一式を処分してもらう手配を立てています。その為、空いた部屋に私が要らなくなった品物を運び込み、それも一緒に処分してもらおうという作戦です。
この作戦の事前には、親族一堂に来てもらい形見分けの品を持っていってもらいました。
家具など持ち出せないものはそのままにしてありますが、故人を偲ぶ上で結構な量の品物が親族に行き渡ったので、残りは仕方なく処分、という訳で。
まあ、人生の半分近くを過ごした実家ですから、未練が無いと言えば嘘ですが、こういう事は思い切りも大事。
私には「母にそっくりのこの顔」という形見もある事ですし(笑)。


ですから今年の年末は、いつもに増して一大プロジェクトを組み、まさに引越しなみの覚悟で事に臨んでいるのです。
一週間近く前から、私の住むマンションの一室は大変な状態となっています。これは言ってみれば「新規オープン前のレンタルビデオ店」に近いでしょうか。なにしろ物持ちだけはいい私。たまったビデオテープだけで大変な量で。
「こんなに持ってたっけ?私」みたいな有様です。


私が家庭にハードディスクやDVD録画を導入したのは随分遅く、なんと去年の秋でした。
それまでは依然、ひたすらVHS録画にいそしんでしたのです。20数年前、オタクにとって夢の機械だったVHSデッキも、今は画質、使い勝手など時代遅れの代物になってしまい寂しい限りですね。時の流れを感じます。
当然、溜め込んだVHSテープも半端ではなく、実はお恥ずかしい話、6畳の部屋を半分ほど占領する量で。先日運び込んだ仕事上の取材テープと合わせると、おそらく2,000本は下らないという(涙)。

うず高く積まれたテープの山を眺めながら「これ、どうしよーか」とうそぶく日々が続く事数日。
こういうのって、結局デッドスペース以外の何物でもないですねー。
職業病でしょうか。どんな作品も「とりあえず撮っておけば何かの役に立つんじゃ」という甘い考えの結果がこれです。一応すべてのテープには背ラベルを貼っているのでテープの中身は分かるんですが、これだけの量になってくるとさすがに萎えちゃって(笑)。

これだけ映像ソフトが出回り、名作映画も高画質で手軽に見られるようになった今でも、ソフト化されなかったり、一度だけ放送されたきりの番組など、貴重な映像は依然としてあります。
この膨大なテープの山を探索し、必要なテープとそうでないテープをより分ける作業は熾烈を極めるものでした。

考えてみますと、「ネヴュラ」で私がお話している映像作品は、比較的ソフトが手に入りやすい、言ってみれば鑑賞しやすい物じゃないかと思ったりして。(異論もおありでしょうが(笑)。一度放送されたきりの番組のお話なんて、それ程多くはないと思います。
今回「VHSの秘境」に挑んだ私は、面白い事実に気がつきました。

「名作」と呼ばれる作品は、さほど必要ないんですね。
まあこんな事は、テープ整理をされた方ならお分かりですね。結局私達をとりまく映像環境の変化がそうさせているのでしょう。名作ソフトは、レンタル店に行けばいつでも借りられる。要は「近くのコンビニは私の冷蔵庫」感覚に通じるものがあります。
ですから、そういう類のVHSテープは、もはやまったく必要ないような気もしまして。
昔は非常にコンパクトに感じたVHSテープも、スリムなDVDと比べれば場所をとるだけで。これは本当にスペースの無駄と感じてしまいます。
まあ今は、名作DVDが安く手に入りますし。これらを細々と集めるのも楽しいかも。


となると、かえって昔「テレビ放送」された映画などが貴重に感じられたりするんですよ。
それらは今見れば左右はトリミングされ(タイトル部だけ画面が縦に圧縮されていたのも懐かしいですが)、内容は放送時間に合わせてカットされた「テレビ番組」でしたよね。こういうものを録画したテープは、メイキングや予告篇まで網羅した高画質のDVDには及ぶべくもありません。でも、これが味がある。挟み込まれるCMも貴重だったりして(笑)。
ですから、私は今回のテープ選定で、残すテープの方針をこういったジャンルにシフトしました。となると、残すテープは拍子抜けするほど少なくなっちゃって。

そしてもう一つ、映画以外に録画した純然たるテレビ番組も、今や貴重なコレクションとなってくるんですよね。
お笑い好きの私は、10数年前に放送された「ダウンタウンのごっつええ感じ」が大好きだったんです。(「だった」というのは、今見ると若干のコントを除いて、ウイークリー番組ならではアラもかなり目立って面白さを感じないためで)今では傑作選のDVDもリリースされている「ごっつ」ですが、私はこの番組、ウイークリー版の本放送を約2年分録画し続けた過去がありまして(笑)。「DVDでは出ないライブ感を感じるぞ」と一人悦に入っているのです。こういう作品は私の中では「殿堂入り」となります(どういう基準なんだか(笑)。
「特命リサーチ200X」も好きでしたねー。これも5年分ぐらいあると思います。
当時「それはいったいどういう事なのか!」というセリフとともに、かなり番組作りの参考にさせていただきました(笑)。

特撮映像関係のスペシャル番組は言うまでもありません。
ここ数年、ゴジラやウルトラなどのスタッフに関するドキュメントも数多く放送されましたよね。これらは本当に貴重な資料です。「ネヴュラ」執筆にも欠かせないものですね。でもなぜかVHSに(涙)。

他にもありますよね。「セルDVDは存在するけど、マニア向きすぎてごく少数しかリリースされず、また未見ゆえに購入に踏み切れない作品」というもの。
これがたまたまCSなどで放送されると、いち早く嗅ぎ付けて録画しちゃったVHSもけっこうあるんですよ。本当はこういう作品こそDVDに録画して、完全保存版にしておきたいものなんですが、このあたりが私のツメの甘い所で。
「宇宙Gメン」「忍者部隊月光」「トリプルファイター」「ミラーファイト」なんかですかね。

「ソフト化されていない作品」なんかは特に貴重。
VHSで録画したのが悔やまれる作品ばかりですが、それでも無いよりははるかにましです。CSで放送される新東宝の旧作や埋もれた邦画の傑作、名作テレビドラマなどもかなり好きなもので。
「土曜日の虎」「秘密指令883」なんて、今見ると、映画とテレビはそれぞれに独自のテイストがあり、名作は別個に存在するんだなー、なんて思いに囚われます。

・・・とまあ、極めて偏った選定の結果、私が残したビデオ・ライブラリーは、賢明な読者のコレクションとは程遠いラインナップを誇る、「極端から極端に走る、映像オタクの煮凝り」と化してしまったのでした(笑)。それでもおそらく500本は下らないでしょう。
結局、前述の作品に加え、「必殺シリーズ」「スパイ大作戦」「スタートレック」などの、「3倍速で録っているのに膨大な話数」という、マニアにとって嬉しさと悲しさが入り混じったラインナップが本数に表れているのです。

これら大変な作品選定の末、廃棄処分になった1500本近くのテープはダンポール箱に詰め、車で実家に運んだ訳ですが、これがまた大変で。愛車ミラ・ジーノで運んだんですが、なにしろそれだけの量になると一度では乗り切らない上に重い。
カープを曲がる度に車体がきしむほど横Gがかかるという(汗)「頭文字D」をもっと見ておけば良かった。(これもVHSコレクションにあります。)

結局4往復しました。それに加え、昨日は昔の仕事の先輩に手伝ってもらい、要らなくなったVHSデッキ4台、ベータデッキ1台、ステレオやパソコン、29インチテレビ、テーブルなど、聞いただけでも気が重くなり実際重い(笑)電化製品や家具を輸送するという、本当に引越し並みの重労働を行ったのでした。いやーまいりました。こういう物はこまめに処分するべきですねー。

さて、ここまで運べば後は楽にお掃除が、という訳にも行かず。
「掃除」というのは無駄なものが整理されたところから始まるんですよね。ここからが本番。

とりあえず床が姿を現した部屋を見つめながら「ここにはこの家具を」「これはこっちに移動して」と、いつもの年末掃除の計画を立てる私。これが楽しかったりして。
こんな時こそ、部屋の棚に並ぶ怪獣たちが手伝ってくれればいいんですが。
私の戦いはまだ始まったばかりなのでした(炎)。

2006年12月17日 (日)

枯渇する感力

事件は今朝、6時30分に起こりました。
このところ、亡くなった母が一人で暮らしていた実家の、家財道具の整理に追われていまして。実家は私の家から車で25分程度の所にあるので結構頻繁に通っているんです。
今日も朝6時過ぎから家具の整理に向かったのですが。

実家は県営住宅、いわゆる団地ですね。近くにタバコ屋さんなどもある比較的静かな所です。家の前に車を停め、ドアを閉めた私の視界の隅に、ある者が入り込んできました。
まだ締まっているタバコ屋さんのシャッターの脇にはタバコの自販機があるんですが、その前に音もなく停まった一台の車が。

中から降りてきたのは一人の男性。その人は自販機に向かい、タバコを買いました。
それだけなら別に何の変哲も無い、普通の光景なんですが、その時だけは一箇所、ちょっと違うところがありました。


彼は全裸だったのです。

一糸纏わぬ姿で、何食わぬ顔でタバコを選ぶ彼。
30代ぐらいでしょうか。金色に染めた髪は肩までのストレートで、均整のとれた男らしい体つき。
彼は意中の一箱を手にすると、また何食わぬ顔で車を発進させました。当然服を着る様子もなし。

私はちょっとショックでした。
全裸の男性が現れた事ではありません。
その事にまったく感情が動かなかった事がショックだったのです。もっと言うと「驚かなかった」という事ですね。


師走も後半。年末の喧騒は日に日に活況を増し、日曜日と言えど結構忙しい毎日です。
といって服を着る暇も無いほど忙しいのか。浮気した主婦の相手をしていた間男が、不意の旦那の帰宅で追い出されたか。土曜の夜の忘年会の罰ゲームか。原作版デビルマンの変身後か(これが一番それっぽかったけど)
想像はいろいろ広がるものの(陳腐ですいません(笑)、「危ない人だ」「警察に連絡した方が」「目でも合ったらどうしよう」なんて事は微塵も感じないあたり、自分でもどうしちゃったんだろうとちょっとショックを感じまして。

なにか、平和な日常の一場面のように見えてしまったのでした。いやーなんでまた(笑)。

実家の整理を済ませ、自宅に帰った後も、ちょっとその考えは頭をよぎりまして。
いやー普通なら、「今日の「ネヴュラ」には格好のネタじゃない。「インパクト」なんていうテーマで書いてみようかなー」なんて、テンションが上がってもいいはずなんですが、それがまた全然乗れず。
どうしちゃったんでしょう。

母の一件とは関係なく、ここ数年、刺激に対して心の感覚が鈍くなっている事は、自分でも感じていました。そのくせ、ピンポイントで責められるある一点に対しては、まったく無防備なほどに涙腺が全開で。
こうなってきた理由をつらつらと考えてみました。


いろいろな要因があるかと思いますが、その一つには私が女性として生活する男性である事が挙げられるのかもしれませんね。
『世間の目に対して抵抗力が付いた』という事でしょうか。
単に鈍くなっただけとも言いますが(笑)。


数年前、女性の姿で出勤する事に喜びと抵抗を感じていた頃。「自分は他人からどう見えているのだろう」と非常に気になっていました。そりゃ当然ですよね。どう見たって男なのに、髪をセットしてスカート穿いてるんですから。
「電車で警備員さんに捕まったらどうしよう」「道で石でも投げられたらどうしよう」と、ビクビクしながら歩いていた事を思い出します。

ところが慣れというのは恐ろしいもので、通勤も毎日となるともう「当たり前」になってくるんですよね。
他人の目を気にするよりも遅刻が気になったり、今日のお仕事の段取りを考えている自分がいるんですよ。なにより「この格好でお仕事してるんだから。」という変な自信が脳内アドレナリンの分泌を活発にしているのかもしれません。神経太くないと電車も乗れませんから。

そんな「強くならざるを得ない環境」が、ちょっとした事には動じない感覚を作ってしまったと。

涙もろくなった理由は、『女性スタッフの中で仕事をする機会が増えた』という事が大きいでしょうか。
彼女達と同じスタンスで仕事をする内に、女性ならではの「感情の置き所」がなんとなく身についてきたような気がするのです。動物を見れば「可愛い」。男性を見れば「ちょっと仕草や言葉に気をつける」。女性同士の会話は「柔らかな空気で(たまに、ここでは書けない過激さも見せますが)」なんていう、女性の立場に立った感情の動きが分かってきたような気が。きっと思い上がりなんでしょうが。

実際、女性は感情の生き物と言われるだけに、自分の感情をうまくコントロールしないと正確な判断ができない事があります。
「いい悪い」ではなく「好き嫌い」で判断してしまうんですね。
「ネヴュラ」をご覧になっている皆さんならよくお分かりでしょう。私の「私見」がいかに感情に左右された、独りよがりなものであるかって(笑)。
まあ、これは仕事については良し悪しがありますが、こと作品鑑賞については実に歓迎すべき事で。なにしろ好み全開で感想が言えると(爆笑)。仕事中はもてあましている感情の動きをここで発散させる訳ですね。読者の皆さんにはご迷惑をおかけしていますが(汗)。

しかしながら、冒頭でお話した一件に対しては、この私の特殊な生き方だけでは解決できない部分もあるようで。

『感力の低下』。これは、ここ数年特に感じていることです。
「先が読めちゃう感覚」とでも言いましょうか。例えば仕事でこういう展開になってくると、次に起きる事が読めてしまうという感覚。皆さんにだってありますよね。

これは仕事を進める上で「経験によるカン」なんて珍重される物でもあります。ある意味自分という存在を形作っているものですから重要でないはずがない。ミスを事前に回避できたり。ところがこの『先読み感覚』というのは両刃の剣で、これに頼りすぎるとハマる事もある。「冒険できない」とか。
これだって皆さん、ご経験がおありでは?


テレビの仕事には、番組づくりのイロハ的なものが基礎としてあります。「人にテーマを語る上での基本」のようなものです。
映画やドラマでもその基礎は同じなので、多少なりとも番組制作を経験した人間ならば、ある程度ストーリーが進行した段階で「先が読めて」しまうんですね。

ですから、皆さんが励まれているお仕事の中での「職場のカン」は、私の場合、家でブラウン管に向かっている時にも発揮されてしまう、と言えば分かっていただけるでしょうか。
「こう来ればこう」「この先はこう」という先読みのカンは、私にとって作品鑑賞の一種の弊害となってしまう事があるのです。
「素直に作品世界に入って行けない」と言うか。


「ネヴュラ」に於ける私の感想が、他の方々とちょっと違っているとすれば、それはおそらく作品制作にちょっと足を突っ込んでしまっているが故の、やや制作側寄りの意見だからなのでしょう。
まあ、好きで始めたテレビ屋稼業ですが、これもキャリアを重ねてくると「最初の方をちょっと見ただけで作品レベルが分かる」とか、「主人公の言動を見れば脚本家、演出家の年齢が推察できる」とか、イヤーなマニア方面に傾いてしまいがちになるんですよ。
「その程度で感動するほど私は素人じゃないわよ」なんて。

感力が枯渇してしまっているんですね。
冒頭の一件にもその意識が働いて、「まあ大した理由じゃないだろう。別に自販機壊した訳じゃないし」なんて、その事件を見た感動を自分で押し殺してしまうんですよね。

これは私にとってすごく警戒すべき事なんですよ。
この「カン」が驕り高ぶりとなって作品制作に影響してしまうと、玄人好みの独りよがりな作品しか創れない、イヤーな奴になってしまう訳です。

年を重ねる度に、いつも瑞々しい感性で物事を捉える事の難しさを感じます。
「経験が邪魔をして、作品を素直に楽しめない」なんて、何故テレビの道を志したか分からないですからね。

自分の中で「女性ゆえの感性」と「キャリアゆえのカン」のバランスをうまくとって、いつも潤いのある感覚を保っていきたいと思わせる、朝6時半の「事件」でした。

あの「彼」に話しかけてみればよかったかな?
先読みもできなかった驚愕のドラマが展開したかも。
「えっ?服、見えてないんですか?」あたりのボケはちょっと勘弁ですが(笑)。

2006年12月15日 (金)

自転車は飛ばなかったけど

「なーるほどねー。これは意見が分かれる筈だなー。」
夕方、チロルチョコ(きなこもち)をつまみながら見ました。本当に世間ずれした私。
これが初見だったんです。

「小さき勇者たち~ガメラ~」(2006年角川ヘラルド 田崎竜太監督)。

怪獣オタクを名乗りながらこの作品を避けていた理由は、やっぱりあの「トト」の造形と、少年を軸に据えたストーリー、さらに東映テレビ作品を多く手掛ける田崎竜太監督の登板といった、平成ガメラ三部作とのあまりの方向性の違いからだったのです。
怪獣映画の醍醐味は感じたいけど、平成ゴジラを見た時のような居心地の悪さをまた覚えてしまうんじゃないか、なんて敬遠する気持ち、ファンの方ならどなたもお持ちでは?
でもそんな事言ってちゃ前には進めないと(笑)意を決してレンタルしてみました。
そして眼前に展開する世界を堪能した私は・・・

まあ、冒頭のセリフは鑑賞直後に出たもの。
その後少し気を静めて考えをまとめてみました。
ネットなどで書かれている様々なご意見を参考にしましたが、作品を見終わって私には二つの思いが浮かびました。
まず一番強く感じた事。「これって『E.T.』じゃん。」

E.T.(1982年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)。「ネヴュラ」読者の方々には説明の必要も無い作品です。
地球の少年の前に現れた心優しき宇宙生命体。決して強くない彼は、少年たちの守りの元、故郷の星に帰ろうとしますが・・・

82年度のアカデミー賞を総ナメにし、「世界中で最も愛された映画」として皆さんの記憶に残る、SF映画の名作。
「小さき勇者たち~ガメラ~」に流れる空気、ストーリーの展開は、この「E.T.」に極めて近いように感じたのです。

共通点も多いような気がします。少年と生命体の出会い、大人の手から生命体を守ろうと奔走する子供達の努力、その努力の末に起きる「奇跡」など。「小さき勇者たち」のストーリーを追う私の頭の中には、「E.T.」で科学者や警官の手からE.T.を連れて逃げるエリオット少年の姿が、富岡涼君の姿と二重写しに見えました。
実際、あの「トト」との出会いからトトの急成長、空を飛ぶトトなどの「ガメラ化」の描写は、決してイリス(ガメラ3邪神覚醒)のような邪心に満ちたものではなく、少年の澄んだ心を素直に投影したようなさわやかさに満ちていたような気がするのです。エリオット少年の部屋で星々の動きを空中に描いてみせるE.T.を見た時の、あの驚きや感動と同じ種類のものではないかと。

E.T.を研究するため、保護しようとする大人たち。これらに対してエリオット少年達が見せるけなげな行動は、まさにあの「赤い石リレー」に通じるところがあったような気もします。
E.T.を乗せ、自転車で逃げる少年達がまさに大人たちに捕まりそうになった時、E.T.が見せるあの「奇跡」(実は私、封切り当時劇場で観て、このシーンで泣いてしまったんですが)は、そのまま「赤い石」を受け取ったトトが見せる「奇跡」(あれは成長なのかもしれませんが)に繋がっているような気さえするのです。

「小さき勇者たち」をご覧になった方、どう思われましたか?

実は「E.T.」封切り当時、スピルバーグに恐ろしく心酔していまして、「今、娯楽映画でこの人の右に出る者は居ない」なんて思っていたのです。なにしろその前年には「レイダース」が公開され、ジェットコースター・ムービーの面白さが骨身に染みていた頃でしたから。
そんなスピルバーグが作る新作だから、これはもう息もつかせぬアクション、ハードSFの世界だろうと思って「E.T.」に臨んだ訳ですが、これは本当に涙腺を刺激されるハートウォームな作品で。防御していない部分を見事に突かれた「ズルい傑作」だったのでした。


「小さき勇者たち」って、平成ガメラを見慣れて「ガメラってこうじゃないとダメ」的な見方をしていると、外されますよね。
私にとってそれは「E.T.」を観た時の気持ちと非常に近くて。
ネットで皆さんが書かれているように、この作品は平成ガメラとは完全に違う世界観の作品なのだと思います。だから「ハードSFじゃない」「世界観がユルい」などの感覚はごもっとも。
もともとそういう風に作られていませんから。


少年と怪獣の心の交流、そしてお互いの成長。制作陣はこういうテーマを扱う上で最も適した世界観を模索したのだろうと思います。あの作品世界はテーマから逆算されたものなんですね。だからジーダスの出現理由が無いのも、自衛隊の活躍が無いのもよくわかる。
そういう部分を一つでもリアルに表現してしまうと、「じゃー子供達が怪獣に石を届ける気になるのもおかしい」となって、「リアルさの足並みが揃わない」んじゃないかと。


そういえばこの作品が平成ガメラと大きく違う点がもう一つ。「小さき勇者たち」はなんと「亀が存在する世界」なんですね。平成ガメラでは作品中でガメラを「巨大な亀」と表現させない為、「亀という生き物が存在しない世界」が周到に構築されていました。
「小さき勇者たち」では、この「戒律」を最初から破っています。富岡君はトトを見て「亀」と認識していたはずですもんね。
こんな風に、怪獣映画は世界観とテーマが密接に関わっているものだと思います。

「E.T.」を見て「宇宙人が地球侵略をしないのはおかしい!」と怒る人は居ないでしょう?
あの作品にはあの世界観があって、それがうまく機能しているから名作足りえているのです。


二つ目に思った事なんですが。
それは「この作品、昭和ガメラの第一作「大怪獣ガメラ(1965年大映 湯浅憲明監督)」の前作なんじゃ?」という事で。

そう考えるにはたしかに時間軸に無理があるんですが、「007 カジノ・ロワイヤル」も同じ考え方ですし(笑)、ここはちょっと頭を緩めて考えてみたいと。
というのは、ガメラ最大の謎にして最高の魅力「ガメラはなぜ子供の味方なのか」の答えが、「小さき勇者たち」で語られているんじゃないかと思うからです。
この作品をガメラシリーズの最初に持ってくると、「ガメラの誕生」「その成長」「子供の味方の理由」がすべて納得できる。
「そうかー。「大怪獣ガメラ」で子供を灯台の落下から救った理由は、以前に自分がビルの落下から救ってもらったからなんだ」
なんて(笑)。


「小さき勇者たち」でもう一つ、特筆したい世界観の特徴があります。
「昭和テイスト」です。

舞台を三重県の港町にした事で、都会から離れたやや昭和らしい景観が生まれる。
そしてなんと、主人公達は「テレビゲームの存在しない世界」で暮らしているのです(笑)。
これが昭和ガメラと地続きの世界観を思わせるんですね。確かに後半、舞台は都心部に移りますが、それにしたってことさらハイテクを駆使した怪獣掃討の作戦が展開されるわけでもありません。これは意図的に世界観を構築しているとしか思えない。
「昭和のガメラを思い出してね」という、制作陣のメッセージが聞こえてくるようで。


確かに冒頭の「1973年」という表記など、設定に無理が生じるのは仕方がありませんが、あそこをちょっといじるだけで、見事に世界観が繋がると思いませんか?
「ガメラは1965年の出現前に、既にギャオスと戦ってたんだ」なんて、楽しい想像もできたりして。まあいつもの、勝手な思い込みですので笑ってやって下さい。


さて、ここまで手放しで評価してきましたが、不満な点が無い訳でもなく。
やっぱり田崎演出は、ちょっとカットに「コク」が無いような。
あの「赤い石リレー」の部分、まず子供の数があまりにも少なすぎると思います。あそこが「小さき勇者たち」のタイトルに込められた意味、最大の見せ場じゃないですか?
あそこの演出が平板すぎる。


途中、一人の子供が走る場面で同じアングルのカット(業界用語で「同ポジ」と言います)を繋いでいますが、あれは観客の思い入れを拒絶してしまっています。
リレーする子供の数をもっと増やして、大勢の子供の手を渡ってたどり着いた石(意志?)という演出にしたほうがもっと盛り上がったのでは?途中、転んだり止められたりする場面をもっと増やして。
ただ、その場面は間延びしないよう、カットバックに細心の注意を払う必要がありますが。(子供一人につきワンカットでも良いんです)


それから、なんといっても「トト」の造形。
ゴジラVSモスラ(1992年)の成虫モスラを見た時「可愛い縫いぐるみ感」を強烈に感じましたが、あれと同じ感覚を味わいました。あれでジーダスと対比すると「ガレージキットとマルサンのソフビ」ぐらいの違和感ですよ。精密に再現された都市のセットとの違和感も拭えないような気がして。
可愛い造形にも限度という物が。あれでジーダスに圧倒されている悲壮感を出すのはかなり無理があったんじゃないかと。


苦言を呈してきたものの、予想より数段上の作品でした。
そのラスト、富岡君がもらす「さよなら、ガメラ」というセリフが良かった。
あのセリフで、彼はトトからの決別を決意したんでしょうね。
自分も「トト」から「ガメラ」になろうと。

こうじゃなくちゃ。
ジュブナイルは、最後に主人公が現実を見つめ成長する姿が美しいと思いますから。

2006年12月13日 (水)

ゴジラの顔が1メートル!

「・・・この2万件ってのが曲者なんだ。
だって5万10万とふっかけられたらいくらなんでも警戒しますよ。ところが2万件・・・」


「ネヴュラ」も今朝早く、開設209日目にして20000アクセスを突破しました。
始めた時は、まさかこんなに見ていただけるとは思いもよらず。あまたあるスーパーブロガーさんのアクセスカウンターを、「違う世界の人だ」と羨望の眼差しで見ていたものです。
これも覗いて下さる皆さんのおかげです。本当にありがとうございます。母の他界の折など、皆さんの励ましにどれ程力づけられたことか。
大したお話もできませんが、これからもなんとか頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。

(冒頭のセリフ、元ネタがわかった方、貴方も濃い方ですね(笑)。

Photo_396 さて、今日のお話は、このDVDから始まります。
まあ説明の必要もない、国産テレビヒーロー第一号「月光仮面」。
「仮面」じゃなく「覆面」じゃないの?という野暮なツッこみもものともしない、テレビドラマ黎明期の傑作シリーズです。

なんていう薄い説明しか出来ない理由は、私がこのドラマを全篇見たことがないからで。
このあたりの解説は、私など及びもつかない大先輩にお任せするして。今日はこの作品がDVD商品になった驚きについてのお話です。

この商品、私は街の大きな本屋さんで見かけ、すかさずコーナー前にしゃがみこんで内容を確認、「とりあえず一枚」というノリで買って来たわけですが、そんな風に衝動買いできるのには訳がありました。
店頭でご覧になった方ならお分かりでしょうが、このDVD、なんと一枚500円なんです。
いやー破格の安さ。こういうヒーロー番組まで500円DVDになっちゃうとは。いい時代になりましたねー。

これは、シリーズ中最高の知名度を誇る第二部「バラダイ王国の秘宝篇」をDVD化したもので、一巻に3話入り、7巻で完結するシリーズ。全巻揃えても3,500円ですからねー。個人的には第四部「マンモス・コング編」を見たかったのですが、このDVDの売れ行き次第でそれも夢ではないと。

以前「ネヴュラ」でも、500円DVDの恩恵についてお話した事がありましたが、まさかこんな作品まで500円になるとは。
実は他にも「快傑ハリマオ」がDVD化されていまして。
この調子で行くと、いずれ「少年ジェット」「豹の眼」「アラーの使者」「海底人8823」「遊星王子」などの、私達の世代には幻の作品が続々とソフト化されて、夢のような「リアルALWAYS」を楽しめる毎日が過ごせるかも、なんて一人ほくそ笑んでおります。


今のところ、この1950年代のヒーローを研究した文献はあまり発表されていません。
実は、現在放送されているヒーロー番組は、この頃の等身大ヒーローにテイストが近いところがあるんじゃ、なんて勝手に思っているところなので、実際ソフト化が実現したら研究してみたい「無限の荒野」でもあったりするのです。
「月光仮面」劇中で、サタンの爪一味の前に颯爽と登場する月光仮面に、谷幹一さんが叫ぶ「月光の先生!」という名調子も大好きな私。(完全に用心棒扱いですね)
まだまだお楽しみはこれからだなー。なんて。


さて、この「月光仮面」をはじめ、往年の名画やテレビシリーズがDVD化される事はもはや珍しい事ではなくなりましたね。まあ、以前のレーザーディスクからDVDへのフォーマット移行期には、資本主義の原理によってDVD化が見送られたLD作品も数多く出ましたが。(大映映画「鉄の爪」なんて名作と思うんだけどなー)読者の皆さんは、そんな作品をどんなテレビでご覧になっていますか?
見るテレビの画面サイズやクオリティーによっては、高画質、高音質を再現したDVDであっても、昔録画したVHSとさほど変わらなく映ってしまうんじゃないか、なんて思ってしまうんですよ。

実際今使っている「愛機」も、時代遅れの私がやっと去年の秋買い換えたHDD・DVD・VHS一体型デッキ(これも型遅れ品を恐ろしく値切って買ったものですが)に加え、テレビなんか6年前に買った25型のブラウン管方式で。
これ、近所の電気屋さんのオープン特価品で、なんと19,800円の品物。
極貧の私にはこれでも大変な出費だったんです。

シアタールームさえお持ちの、「セレブロガー」さんに鼻で笑われるような、極めて質素なAVライフを送っている私は、「怪獣映画なんか、大画面で見ると迫力も違うんだけどなー」なんて思いながら、25インチの画面に映るゴジラを可愛く鑑賞しているんですが。

以前記事で、投射型プロジェクターのお話をした事がありました。
私の部屋に備え付けられているそれは、いわゆる「旅行先で楽しむ、簡易型プロジェクター」というたぐいの物で、画面が暗く解像度もすごく悪い代物でした。

10年以上前に買ったものですが、それでも買った直後は部屋の壁にスチレンボードのスクリーンをしつらえ、「おー、ゴジラの顔が1メートル!」なんて感動に打ち震えていたものです。
自宅で楽しめる映画館だった訳ですね。

そのプロジェクターも今はレンズの故障で映らなくなり、壁のスクリーンもプラモデルに占領され・・・今は記憶の片隅に(涙)。

そういう体験をしてしまうと、折りに触れて「あのゴジラの顔は大迫力だったなー」「宇宙大戦争のクライマックスシーンは目で追いきれないくらいのスピードで」なんて思い出してしまうのでした。
「年末は怪獣映画の公開シーズン」という気分も手伝っていたんでしょうね(笑)。

そんな時、何気なく見ていた大型電気屋さんのチラシに、期間限定の激安テレビを見つけたのでした。(すいませんね所帯じみたお話で。こんなもんですよ私の毎日は。)
サイズこそ32インチでしたが、なにしろ液晶ワイド画面、地上デジタルOKという「夢の一台」。

とても平成の部屋とは思えない私のこの部屋に、こういうワイドテレビがもし導入されたらそりゃもう「毎日が映画館」ぐらいのハイテンションなんだけどなー、なんて思いながら昨日ちょっと覗いてみました。その電気屋さん。

まーとにかく、そのお店は敷地が広い。特に最近は大型テレビばやりですからテレビのコーナーなんて巨大なスクリーンが所狭しと並んでいて、正直な所私が狙っていた32インチなんて食玩の箱ぐらいに見えちゃって(涙)。
「こういう目玉商品って、客寄せの為だもんなー」
分かっていながらも、隣に鎮座する50インチ前後の大型テレビに目が行ってしまうんですよねー。こういうスペースに居ると、画面の大きさに対する感覚が麻痺してきます。
売り場に並んでいるテレビのサイズと、「これが部屋に入ったら」という体感サイズが違ってきちゃうんですよ。だからどうしても大きい画面のテレビに注意が行ってしまう。

Photo_397 うろうろしている私の前に、ひときわ大きなワイドテレビが。
前では店員さんと、サラリーマン風のお客さんが商談中。その隙間からちょっと覗いたそのテレビはなんと46インチという大きさで。

しかし、私の目を釘付けにしたのはその値段。
「あれ、他のテレビより10万円近く安いじゃん。」
そうなのです。このテレビだけ、他の46インチに比べて10万近く安い。こりゃすごい。


商談を終わらせたお客さんが立ち去った後で、食い入るように値段を見つめていた私に、店員さんが声を掛けてきました。
思わず尋ねる私。
「なんでこんなに安いんですか?」
「このシリーズは後継機が発売されて、これは型が古いため、在庫処分と言う事で安くさせて頂いています。」
「新製品とはどこが違うんですか?」
「画素数が。」

なんでも、フルハイビジョンの信号を再現するには1920×1080の画素数が必要なんだそうです。ところがこの安いテレビは画素数が1366×768。ちょっと荒いということなんですね。
なるほど。たしかに隣に置いてある新型よりもちょっと画素が荒いような。
そーかー。安いのにはそれなりの訳があるのねー。でも安い。


「私、ほとんど地上波を見ないんです。DVDなどの観賞用にはどうなんでしょう?」
と聞いた私に、店員さんは答えました。
「あー、それなら変わりませんね。今のDVDの画素数はフルハイビジョンまで行ってませんから。そういう目的なら、このテレビはまさに最適だと思いますよ。」
今後発売される、ブルーレイやデジタルDVDなどでは多少の差は出るでしょうが、現行DVDなら問題ない、との事。

「もうほとんど在庫は無くて。これが最後のチャンス」なんて言われて「こういう物言いも常套句だしなー」なんて思いながらも、貧乏な私にとってあの10万円引きは確かに魅力。
さっきのお客さんも成約したみたいだしなー。

後ろ髪を引かれるように、カタログを手にしてお店を後にした私。
Photo_398 部屋でサイズを確認してみると、えーっ!46インチって横のサイズが1メートル12センチもあるんですねー。
という事は、「ゴジラの顔が1メートル」が再現できちゃう事に。

いやーどうしよー。貧乏なOLを襲う、物欲の恐怖。
この冬、最大の悩みです。

こういう方面にお詳しい方、哀れなOLにアドバイス願います。
46インチのデジタルハイビジョン液晶テレビで、275,000円って「買い」なんでしょうか?
(もちろん36回ローンですが)

2006年12月11日 (月)

三丁目の007

ここ数日、「ALWAYS 三丁目の夕日」を見ることが多くて。
この映画、私にとっては「見るタイムマシン」の機能を持っているようで。

私の子供時代はさすがに昭和30年代まで遡るわけではないんですが、作品内に流れる空気はまさにあの通り。当時、高度成長期のあおりを受けた景気の良さも手伝って、毎日が実にエネルギッシュだったのでした。

Photo_390 私の子供時代を彩ったのが「怪獣」と「スパイ」。第一次怪獣ブームのメインターゲットだった私達子供は、まさに毎日が怪獣漬けで。それに加え、映画「007シリーズ」のヒットを受けて巻き起こったスパイブームは、子供たちにとってまことにおいしい遊びネタだったのでした。
このところ「三丁目の夕日」と「カジノ・ロワイヤル」という「二大レトロアイテム」を立て続けに体験してしまった私。懐かしい子供時代の思い出に浸る材料は既に揃っていたのです。年末の忙しい時期ですが、今日はちょっと、そんな思い出にお付き合い下さい。

私は子供時代、団地に住んでいた為、まわりに同級生の友達も数多くいました。毎日朝から晩まで一緒に遊びまわっていたものです。
その頃の思い出は「ネヴュラ」でも色々お話していますが、今思い出すと恥ずかしいことばかりで。
なにしろ子供の創造力は果てしなく、何でも遊びに取り込んでしまう為、その毎日は濃くて濃くて(笑)。一日が何時間あっても足りませんでした。

1960年代から70年代にかけ、全国各地には「空き地」や「工事現場」、「造成地」など、子供が遊び場として使える場所がまだ数多く残っていました。ウルトラQ「カネゴンの繭」や仮面ライダーの決戦場所として頻繁に使われたロケーションが、いつも目の前にあったのです。子供たちがそれらの場所を色々な目的で使ったのは言うまでもありません。
中でも私達をしばらくの間虜にした遊びが「秘密基地」(笑)。

ウルトラシリーズやマイティジャックなど、特撮番組に登場した「秘密基地」は数知れず。私達も子供同士で結託し、日夜「秘密組織」を作って、「町内レベルの地球防衛」にいそしんでいたものです(笑)。ところが、別に町に怪獣が現れるわけでもなく(造成地に現れるブルドーザーは怪獣っぽかったですが)自然と基地の目的は「スパイ活動」に傾いていったと言う流れがありました。
なにしろ「基地」と「スパイ」の相性は抜群で、基地入室の合言葉に始まり、スパイ団のネーミングからメンバーの命名、団員独自の暗号などワクワクする要素はてんこ盛りで。
それらを話し合いで決めていく過程も、なにか秘密めいた楽しさに溢れていました。


ウルトラQなどに見られる「ギャング」や「国際スパイ」の黒ずくめのファッション、テレビで流れる「スパイ大作戦」の作戦行動、そして江戸川乱歩の「少年探偵団」あたりの雰囲気が、当時の私達の参考書、と言ったところでしょうか。
何故か007そのものの影響は受けていないんです。
私が007を劇場で見たのはこの頃よりずっと後ですから、007がブームを作った頃の余波をブラウン管から受け取った、と言うのが本当のところだったのでしょう。

「秘密基地」という言葉の響きには、皆さんにもきっと甘酸っぱい思い出があるのではないでしょうか。
私達も実に沢山の秘密基地を作りました。ざっと思い出しただけでも4基地。

(いい年してなにを真剣に数えてるんだか(涙)

近所のたばこ屋さんと隣にあった工場の「隙間」に作った
「レンゲ基地」。

二つの建物の間には人一人が入れるだけの隙間がありました。ある日いたずらでこの隙間を進んでいくと、丁度子供が二人入れるだけのスペースがぽっかり姿を現していたのです。なんと天井、床までありました。
きっと物入れか何かだったのでしょう。

一緒に遊んでいた友達と小躍りした私。その瞬間からそのスペースは私達の基地へ。
近所の花畑に咲いていたレンゲを大量に運び込み、床に敷き詰めればそこはもう「レンゲ基地」。むせかえるようなレンゲの香りに包まれて、至福の「スパイ活動」を楽しみました。


草むらに作った「ドクロ基地」。
当時どこにでもあった草むらに分け入り、大量に生えた雑草を積み上げてその中を基地にするという無謀な(笑)遊び。友達と二人で、お茶とお弁当持参で臨んだ「作戦」でしたから、出来上がったときの喜びはそりゃー大きくて。
ところがその基地、当然の事ながら天井がない。要は草を壁にした砦のようなもので。ちょっと風が吹くと壊滅の憂えき目にあってしまったという(爆笑)。


学んだ私達が次に臨んだのが「夏はいいのう基地」。
これは本格的な基地で、そこらに落ちていたベニヤ板(家の近所には木材加工工場などもあって、道端にはそれらの切れ端がよく捨ててあったのです)を大量に持ち寄って組み上げた見事な「建築物」。なにしろ子供三人が中に入れて、しかもドア付き、さらに基地の上に上れましたからこれは凄い。
合言葉「夏はいいのう」(どういう意味なんだか)を交わして中に入れば、秘密のスパイ団は行動開始。といっても特に何をする訳でもなく(笑)。

ところがこの基地、建設場所が悪かった。
何もない空き地の真ん中に建てちゃったものだから目立つ目立つ(爆笑)。子供ってどうしてああおバカなんでしょうか。他の子供達の遊びの邪魔になっちゃって。
そりゃそうですよね。野球をしようにもピッチャーマウンドの位置に基地があっては(笑)。


流浪のスパイ団、私達が最後にたどりついたのが、当時よくあった「土管基地」。
「ドラえもん」に出てくる、あの空き地にある土管です。前述の「カネゴンの繭」のイメージがまさにピッタリでしょうか。
ここは良かったですね。なにしろ最初から出来ているわけですから。雨露をしのげる点でも群を抜いた快適さでした。
「雨の日でも集まれる。」これは強い!

しかし好事魔多し!この基地には致命的な欠陥が。こんな快適な場所に目に付ける子供が私達だけの訳がなく、曜日や時間帯を分けて複数の「スパイ団」が共同で使う「レンタル基地」と化していたのでした(号泣)。
でもまあ、ケンカもなく仲良くやっていたわけですから、それなりに秩序は守られていたんでしょう。
「スパイの掟は絶対」ですから(笑)。


Photo_391 さて基地が決まって、いよいよ諜報活動を開始した私達ですが、子供の頃の諜報活動なんてもう、ご近所レベルの大事件しかありません。
そんな中で私達の心を最も虜にした「秘密情報」と言うのが「駄菓子屋さんのくじの当たり状況」。(あーだんだん書いてて情けなくなってきました。でも憶えてるからしょうがない)

Photo_392 近所の駄菓子屋さんで引く当たりくじの一等賞って、子供にとって「夢の一品」じゃなかったですか?毎日10円のお小遣いしかもらえなかった私にとって、この「一等賞」を手にする事は、年末ジャンボに当たるより凄い快挙なのでした。(当たる確立もそれくらい低いという事で。)
生活レベルもドングリの背比べだった仲間内では、「あのお店のくじPhoto_393 の状況を偵察せよ」という指令が暗黙の指令と化していたのです。
毎日のようにお店を覗く私達。お店のおばさんの「買わないのなら帰って」攻撃にもめげず、「スパイ活動」は続いていました。というのは、このお店のその当たりくじの一等賞は今でも本当にマニア垂涎の品だったからなのです。
それは「ウルトラマン」の8ミリフィルム。
今で言う「本篇焼きぬき名場面」でした。後の文献で、第13話「オイルSOS」の焼きぬきと分かりましたが。


ビデオなど一般家庭に影も形も無かった当時、怪獣やヒーローを家庭で楽しむ手段はテレビか、お金持ちの家しか持って持っていなかった「8ミリ」しかありませんでした。友達に一人だけ、この「8ミリ映写機」を持っていた家があり、「このフィルムを手に入れれば、毎日家でウルトラマンが見られる」という夢が叶うのでした。
これが子供たちにとって魅力的でないわけがありません。

この「一等賞」の争奪戦が、当時近所の子供の間でもっとも熱かった「スパイ戦」。
友達の誰かが手に入れれば、その夢が叶うのです。
いいですねー。「重要情報を映した8ミリフィルムを手に入れよ」なんて。スパイの任務にピッタリじゃないですか。大平透の声が聞こえてきそうです。


そんなある日、お店を「監視」した私は、驚愕の事実を目にしました。
(ご想像通りですが)くじの一等賞のスペースから、きれいに「秘密フィルム」がなくなっていたのです。
「あー情報は敵スパイに奪取された!」この時の落胆ぶり。
私の目が電飾だったら、もう間違いなく白目の輝きは消えていたでしょう(笑)。


すっかり肩を落として翌日学校へ行った私。そこへさらなる驚愕の事実が。
なんと私の友達の一人が、件の8ミリフィルムをついに手に入れた、と自慢しているのです。

「なんという偶然!」(これはいつもの妄想でも、記憶を捻じ曲げているわけでもありませんよ。)
私はほっと胸を撫で下ろしました。「これで情報は敵に渡らずに済んだ。」


でも皆さん、ここからのお話も事実なんですが、私、この8ミリフィルムの上映会に行った記憶が無いんですよ。ここまで憶えていた事件ですから、エンディングを記憶していない訳がないはずなんです。ところが憶えていない。
上映会当日、風邪か何かで行けなかったか、映写機の調子が悪くて上映会が開けなかったか、そんな顛末だったような気がします。子供時代のエピソードなんて、必ずしもハッピーエンドにはならないんですよね。
これは今も同じですが(笑)。


Photo_394 また大平透の声が聞こえてきました。
「このテープは自動的に消滅する。」
私の場合、記憶が消滅してしまったのでしょうか。
うーん、スパイの世界は非情ですねー(笑)。

2006年12月 9日 (土)

もう一頭の名獣

12月も中ごろを迎えると、昼間でもけっこう寒くなってきて。
北の地域の皆さんなどは、雪への準備も大変でしょうね。

Photo_384 私も最近は、ご覧の「ハロゲンヒーター」なんてものを出動させ、暖をとっております。
これ、近くのホームセンターで去年買ったものなんですが、特売の限定商品で1,980円だったにも関わらずものすごく重宝していて「これはヒット」なんて一人で喜んでいるのですが。
このハロゲンヒーター、他にもお気に入りのところがありまして。
本体の紺色が私の好みにピッタリなのと、もう一つ。
この形を見ていると、「パラボラ兵器」に見えてくるという(笑)
オタクならではの理由です。
電源を入れたときの、パラボラ部の「赤くなり方」がカッコイイんですよ。これ。


東宝特撮映画、特に怪獣映画を彩った「パラボラ兵器」。
古くは1957年「地球防衛軍」のマーカライト・ファープに始まり、1959年「宇宙大戦争」の熱線放射機、1961年「モスラ」の原子熱線砲など、作品の名場面を盛り上げた超兵器です。
東宝特撮映画には他にも魅力的な兵器が多数登場しますが、一つのジャンルを形成していると言ってもいい「パラボラシリーズ」のラインナップは特に多くのファンを生みました。
昔、勤めていた放送局の屋上に設置してあったパラボラアンテナを見て妙に気持ちが高揚した恥ずかしい記憶も。
(本当に恥ずかしいですが)

本来、電波などを収束する「サーバー」の役割を担う(そうですよね?)パラボラから、力強い光線が放たれるだけで、何故あんなに興奮するんでしょうか。
それはもう「見た目の説得力」としか言いようがありません。
「とにかくパラボラから光線が出ると絵になるんだ」というビジュアル・パワーでしょうか。


Photo_385 東宝が誇るパラボラ兵器の中でも、特に人気の高い「一機」と言えば(もうおわかりでしょうが)これ!ご存知「メーサー殺獣光線車」。「フランケンシュタインの怪獣サンダ対ガイラ」(1966年 本多猪四郎監督)に登場した、パラボラ兵器の決定打(笑)です。
これは当初、ゴジラシリーズとは別の文脈を持つ「フランケンシリーズ」に登場したのですが、後にゴジラシリーズでもフィルム流用などで「出演」し、「ゴジラ×メカゴジラ」(2002年 手塚昌明監督)ては、完全リニューアルで登場とあいなりました。そんな事実も、この兵器の人気の高さを物語っていますね。

正式名称「68式メーサー殺獣砲車」と呼ばれるこの兵器、陸上自衛隊が所有していて、劇中小田原付近より現れ、富士五湖方面に向かった怪獣ガイラに対し、2機で攻撃を加えた「L作戦」が特に有名。
おバカな私にはよく分かりませんが、マイクロウェーブ・レーザーを発射するメーサー車と高圧電流の二段構えでガイラを倒す、自衛隊の切り札的作戦でしたよね。
その「いかにもありそうな」準備風景、カマ首をもたげてガイラを狙うメーサー車の電飾、作画による力強い光線と、連動して切り倒される森の木々が実に大迫力で、まさに「怪獣対自衛隊」の互角の戦いを演出していました。
追い詰められた、満身創痍のガイラの元に、あそこでサンダが現れなかったら、人類は自力で怪獣を倒していたのです。愚直なまでのディテールの積み重ねが、怪獣掃討にリアリティーを与えていた名場面でした。

もう私、このメーサー車には本当に心酔してまして、最近発売された食玩サイズのミニチュアまで入れると結構な数のアイテムを集めましたねー。ただほとんどは組立が難しくて、今もパーツのまま新品の威厳を保っていますが(涙)

東宝特撮映画の中で、パラボラ兵器と並び人気があるのが「戦艦」でしょうか。
轟音を轟かせ、空中、海中、果ては宇宙までと八面六臂の活躍を見せる万能戦艦は、まさに子供の夢を具現化したスーパー・マシン。これはどちらかと言えば、パラボラ兵器よりさらに昔の、戦時中の「空想絵物語」などがルーツと言えますね。

東宝特撮にも登場したあまたある巨大戦艦の中で、前述の「メーサー車」と並ぶ人気を獲得しているのが・・・
もう皆さん、この文脈読んでるでしょ(笑)。

Photo_386 「海底軍艦」(1963年 本多猪四郎監督)。明治33年、科学冒険作家、押川春浪が作り出した冒険小説を、63年風にアレンジした映画です。
この作品に登場した「轟天号」は、原作版をかなりリニューアル。SF画家、小松崎茂がデザインしたその勇壮な姿はまさに「海底軍艦」の名に恥じない堂々たるものでした。
全長150メートル、重量10000トン、マッハ2で空を飛び、海上80ノット、海中50ノット、ドリルを回転させ地中を時速20キロで掘り進むという、今考えても驚愕の性能で。
そういう設定も魅力的でしたが、私にとってこの轟天号は、もう「見た目のインパクト」にとどめを刺します。
これはどの評論にも、どんなレビューにも書かれていませんので、本邦発感想(笑)。


轟天号って「男前」じゃありませんか?

あの、海底ドックを発進して湖から飛び出す、試運転のシーン。私はあのシーンだけでもう「轟天様!」となってしまいます。「キングコング対ゴジラ」で復活したゴジラがNATO基地を襲った時の、ゴジラが尻尾を振った後の「見得」ポーズと同じカッコ良さを、あの試運転シーンに感じてしまうのです。
主役メカ、というより、「主演俳優」ですね、あれは。もっと言うと「漢の色気」がある。
戦争という、「錆び付いた鎧を身に纏った」亡霊という悲劇的な背景が、「彼」をさらに引き立てます。
「悲劇のヒーロー」に弱いんですよ、私。
念仏の鉄とかバットマンとかスパイク・スピーゲルとか(笑)。


だから、その裏にある悲劇を思うにつれ、その後の轟天の活躍に悲しい影を感じてしまう。ムー帝国という、こちらもまさに「古い倫理観」と、轟天建武隊の「古い愛国心」の、どちらも現在には相容れない二つの美意識の戦いという構図が。
おそらく、建武隊のリーダー神宮寺大佐(田崎潤)も、楠見(上原謙)の説得にあの場では応じても、帰国後変わってしまった日本を見るに付け、自己のアイデンティティーが崩壊するような末路を感じてしまうからです。

「勝った方が人類最大の敵になる」という、どこかで聞いたキャッチフレーズがよく似合う(笑)、悲劇のストーリーにふさわしい「呪われたスーパーメカ」として群を抜いていると思います。

Photo_387 他にも東宝特撮には「怪獣総進撃」(1968年 本多猪四郎監督)に登場した「ムーンライトSY-3」など、魅力的な「宇宙戦闘機」が登場します。このSY-3も流線型のシルエットが実にカッコイイ。東宝宇宙戦闘機では群を抜く、洗練されたデザインと思います。
前述の「地球防衛軍」の兵器や、「宇宙大戦争」、「妖星ゴラス」などに登場した宇宙ロケットもシンプルな形状で好きなのですが、私はこの「ムーンライトSY-3」にある思い出がありまして。
1991年秋、東宝撮影所に「ゴジラVSキングギドラ」の特番ロケでお邪魔した時、川北紘一特技監督に質問しようと思っていたのがこのSY-3に関することで、要は「羽根が多くないですか、これ?」という疑問(笑)。
事前に同行のディレクターに「それだけは口が裂けても聞くな」と厳重に口止めされましたが(爆笑)。


Photo_388 この「怪獣総進撃」には、他にも「ファイヤー・ドラゴン」という特殊メカが出演しましたよね。
これはもともと敵宇宙人、キラアクの円盤で、それが炎を纏って高速で飛行するという「科学忍法火の鳥」のようなもので(笑)。
これが「怪獣」として登場した時の衝撃は、「ギドラを超える新怪獣?」と胸を躍らせたものでした。

さて、この「ファイヤー・ドラゴン」のお話から今日の私見に入りましょうか。
サブタイトルの「もう一頭の名獣」というのは、今日お話してきた「超兵器」の事で。

メーサー車、轟天号、SY-3、その他東宝特撮映画に登場する数々のスーパー・メカニックは、その際立つキャラクターと実力で、もう怪獣並みの存在感を放っているんじゃないかと思うんですよ。
「サンダ対ガイラ対メーサー」ですよね。あの映画。「海底軍艦」はそのまま、「ゴジラ」と同じ意味合い、主演怪獣の名前がタイトルになっていると。「怪獣総進撃」だって、ラストは「SY-3対ファイヤー・ドラゴン」ですしね。ファイヤー・ドラゴンに至っては、怪獣のふりをした円盤、という、「まさに怪獣並みの存在感」を体現したキャラクターでした。

まあ、「メーサー」「轟天」共々、操る俳優さんは田崎潤。怪獣と互角に張り合えるだけの迫力を持った人ではありますが(笑)。

最近の作品で、怪獣と互角に渡り合える「名獣」を考えてみますと、やはり「ゴジラVSビオランテ」(1989年 大森一樹監督)の「TCシステム」でしょうか。
ゴジラに射ち込まれた抗核エネルギーバクテリアを活性化する為、ゴジラの体温を上げる目的で展開される自衛隊の特殊作戦。人工的に稲妻を起こし、それを利用して高周波を発生させ、分子を振動、過熱するという。
劇中で「超大型の電子レンジ」と言われたあの作戦は、ゴジラにある程度までダメージを与える事に成功したのですが・・・
あれも息づまる攻防でしたね。

あれほどまでに「怪獣対自衛隊」の盛り上がりを感じた場面は、私にとって「サンダ対ガイラ」以来で。欲を言えば「ビオランテ」の存在が余計だったような気が(笑)。
「ウルトラセブン」はセブンさえ出なければ良質のSF作品に仕上がったのに、というファンの嘆きに近いものがあったりして。
あのテイストで「ゴジラ」(1984年版)を作ってもらえば良かったなー、なんてね。

おそらくこのあたりで「平成版メカゴジラは?」とツッこみが入りそうな空気もチラホラ。
ごめんなさい。どうしてもあの一連だけは認められなくて(涙)。
「メカゴジラ」がどうしてゴジラの形をしているか納得できたら、また考え直します。

Photo_389 最後に。「ゴジラ」(1954年版)の芹沢博士以来、一人でゴジラを倒した男と言えばこの方、「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」の防衛軍准将・立花泰三(宇崎竜童)。深海作業艇「さつま」でゴジラに特攻する姿はまさに「ゴジラ対立花」でした。
ギドラさえ葬ったゴジラに対し、命一つで立ち向かった立花准将の心意気は、ゴジラの怨念に負けないものがあったと思います。
でも「さつま」一隻でゴジラに勝っちゃうんだから、「GMK」最強の怪獣って立花さんじゃ?
「残留放射能を確認していな」くても生きてるし(笑)。

2006年12月 7日 (木)

特捜班MI☆6

「・・・ライフルマークもCGになるとアニメっぽいなー。」
そんな印象をを持ちながら劇場を後にした
「007カジノ・ロワイヤル」。

筋金入りの007オタクを自負する私から見ると・・・これは・・・

Photo_378 今回で第21作目となる007シリーズ。昔は皆さん「ゼロゼロセブン」なんて言っていたシリーズタイトルも、今や「ダブルオーセブン」と正式?な呼称が定着しましたね。
昔仲間と「ダブルオー」の呼び名で呼ぶことに、軽い優越感を覚えていたものですが(笑)。

今回の「カジノ・ロワイヤル」は、連綿と続いた007ストーリーの中でも、まず間違いなく大きなターニングポイントとなる作品でしょう。
それは何故か?
私のような古いファンには、思い入れがまったく湧かない作品だったからです。

以前「とくダネ!」で、この作品について映画評論家のおすぎさんが「ここ10年のボンド・ムービーの中で最高傑作」という評価を下していました。なるほど。いざ作品を観ると、その評価は見事に当たっている事がわかります。
これ、まったく違う映画ですもん。
無理矢理こじつければ「この作品を初作として、制作側に新しい007シリーズを作るという姿勢があれば、まだ頷けるけど」という印象を受けてしまったのです。
ですから、従来の007作品と同列では語れません。それはそれで面白い映画とは思いましたが・・・

おすぎさんの「ここ10年で最高」という評価は私も同じ。
というのは私、ピアース・ブロスナンがボンドに合っているとはとても思えなかったからで、彼が主役のここ4作品はストーリーがごっちゃになっちゃいまして、どれも同じ作品に見えちゃったからなんです。

「まー、007ってこういうお話だから」なんて、まるで平成ゴジラシリーズを観た時のように自分を納得させ、帰路についた覚えがあります。
そういう意味では、今回の「カジノ・ロワイヤル」は、「完全新作」です。これは間違いありません。
ご覧になった方はどなたもそう思われた事でしょう。

ネットで皆さんが書かれている感想を拝見させていただきました。
おおむね好評のようで。
「長い」というご意見もありましたが、私はこの作品、144分という長さはさほど気にはなりませんでした。それは「面白い」って事なんでしょうが・・・
なぜか割り切れない。
やっぱり、今までの007じゃないせいでしょうか。

Photo_379 Photo_380 主演、ダニエル・クレイグは、今までのジェームズ・ボンドのイメージを一新する「ニュー・ボンド」テイスト一杯。
ストーリーも「ボンドが007としてのキャラクターを形成していく過程」を描いた「ビフォー・ストーリー」として成立しています。
欠かせない敵役「ル・シッフル」(マッツ・ミケルセン)も、余裕の演技で物語に深みを与え、「魅力的な足手まとい」であったボンド・ガールのイメージも、エヴァ・グリーン演じる「ヴェスパー」によって新世紀らしくリニューアル・・・と、魅力を挙げればきりがない「新007」なんですが、こうして書いていても何か空しさが漂ってくるのはどうしてなのでしょうか。

どうも、私が感じた「007じゃない感」は、こういうキャストやストーリーとは違うところにあるような気がするのです。

「ハードなボンド」「スマートになる以前の、荒々しいボンド」なんて絶賛されている今回の「カジノ・ロワイヤル」。確かにアクションはリアルになり、ボンドのダメージも、常人と同じ流血の嵐です。作戦の失敗もあり、「人間ボンド」の魅力を描く事は成功したと言えるのですが、私はこの作品を観た後、こんな考えに囚われてしまったのでした。

「007から「007らしさ」を抜いてしまったら、ただのアクション映画になっちゃうのでは?」

Photo_381 以前、「ネヴュラ」で、「バットマン・ビギンズ」のお話をした事がありました。
この映画、私が大好きな劇場版バットマンシリーズの最新作として昨年公開されたので、ご覧になった方々も多いとは思います。

この作品も主人公ブルース・ウェインがバットマンになった経緯を描く「ビフォー・ムービー」で、今回の「カジノ・ロワイヤル」と同じ位置づけと言っていいでしょう。
ところが、私はこの2作をいずれも劇場で鑑賞し、まったく逆の印象を持ったのでした。

「バットマン・ビギンズ」は、私にとってバットマン・ムービーの最高傑作。まさに観たかった要素が全て詰まった理想のバットマンでした。
犯罪都市ゴッサム・シティーの闇を掛ける「ダーク・ナイト」バットマン。
その「正義という言葉に寄りかからなければ自分を正当化できない、トラウマを持った一人の男」という側面が浮き彫りにされ、ヒーローを名乗るゆがんだ存在の魅力が私を魅了しました。

あの作品は、バットマンを無敵のヒーローとして描いていません。「犯罪者」「怪人」として描いているのです。それでいながらこの作品で「バットマン」は「バットマン」足りえているのです。
それは何故なんでしょうか。

おそらくその理由は、「バットマンらしさ」を理解した、スタッフ・キャストの仕事にあったのではと思います。
劇中頻繁に登場するコウモリのイメージ。
バットマンの一種恐怖感さえ与える表情。
いつ目の前に降りてくるか分からない「神出鬼没」感。
雨が降りしきる「ブレードランナー」風ゴッサムシティーの闇そのものが、巨大なバットマンの巣のように感じさせる見事な世界観が、「バットマンらしさ」を演出しているのです。


いつもの私見で申し訳ありませんが、今回観た「カジノ・ロワイヤル」は、確かに「アクション映画」としてはまあ、及第点と思うのですが、「007」としてはどうなのか、と言うと・・・
残念ながら私には「NO(Dr.は付きませんが(笑)」と思えました。

これはキャストやストーリーの問題ではないと思います。もっと根本の「企画」の問題です。
企画に問題があれば、それに付随する「脚本」「演出」への影響も免れません。
いけない訳じゃないんです。映画としては悪くないんですから。


私が考える「007らしさ」っていったい、何なのでしょうか。
先日お話した「大仕掛けなアクション」や「新兵器」「浮世離れした敵」とかではなく、もっと別のもの。
アクションのハードさとも違います。
ひょっとするとそれは「微妙な荒唐無稽さ」なんじゃないかと。

007映画って、「リアル」と「フィクション」の間を微妙に漂うバランス感覚が魅力のような気がするんですよ。
「ロシアより愛をこめて」で新兵器アタッシュケースの装備を全て残らず活用する、見事な演出には唸りました。あのオリエント急行のくだりが普通の銃撃戦だったら、あそこまで面白くなったかどうか。
「ゴールドフィンガー」でも、アストンマーチンDB5を自在に操るボンドのスーパーマンぶりがカッコいい。あれが普通の車だったら、ただのカーチェイスですもんね。
新兵器のあるなし、ではなく、「荒唐無稽さを活かす演出」のお話です。
その後、エスカレートする秘密兵器やアクションがストーリーに弊害をもたらし、その度に原点回帰を繰り返している事は皆さんご存知の事でしょうが。
初代ボンド、ショーン・コネリーだって存在感は決して「リアル」ではない。
でもアニメチックなまでに飛躍しているわけでも無いんです。

「大人の御伽噺」なんて揶揄されるこのシリーズにも、他の映画のテイストと差別化を計る上で、それなりの戦略がある訳で。
東映やくざ映画の高倉健さんのような人が実際居るかどうかと言うと(笑)それと同じような気がするんですよ。「実際は居ないけど、居て欲しい」という。これがロジャー・ムーアになっちゃうと、「居ないでしょう。こんな人」に・・・

このバランス感覚が、「007らしさ」のような気がするんです。そういう意味で今回の「カジノ・ロワイヤル」は、「007らしさ」が無い。この作品が007初体験の方々の方が、むしろ正当な評価が出来るような気がします。
なにしろ「アクションはハード」(開巻直後の工事現場戦はともかく)「流血は多い」(絶体絶命の危機も)「恋愛は本気」(命のやりとりを仕事にしている人が?)なんていうリアルづくしで。
でも私は思うんです。
こういう企画ならいくらでもあるんじゃないかと。
毎年公開されている沢山のアクション映画が。
なまじ出来がいいだけに、「007らしさ」について考えさせられる一作なのでありました。

Photo_382 パンフレットを見ていたら、この作品の監督マーティン・キャンベルは、私が今でも愛してやまない海外アクションTVドラマの大傑作「特捜班CI☆5」がデビュー作とか。
なるほど。「カジノ・ロワイヤル」の底流にあるハードアクションの遺伝子は、「CI☆5」から受け継がれたものだったんですね。
Photo_383 この「特捜班CI☆5」については、また別の機会にじっくりお話しましょう。
こんなハードなアクションドラマ、今でもないと思います。
ここまで読む前に今日のサブタイトルの意味がお分かりの方、かなりお好きですね(笑)。
そう、ジェームズ・ボンドが所属する英国情報部は通称MI-6。もうお分かりかと。

蛇足ですが、「カジノ・ロワイヤル」をご覧になった方、ラストのセリフに「軽さ」を感じませんでしたか?
私は感じましたが、あれ、画面のバックがお天気すぎたんじゃないのかなー?
あの決まりゼリフに、ピーカンは似合いませんよね(笑)。

2006年12月 5日 (火)

一万八千個の光

昨日、またまた熱いコメントをいただきまして。
「ネヴュラ」を始めて約6ヶ月半。こんなにいろんな方にご覧いただいているとは思いもよらず。毎日いいかげんな事ばかり書いているので恐縮で。

ここ数日頂ける、皆さんのコメントやアクセス数の伸びには本当に恐縮しています。昨日のアクセス数など「ネヴュラ」始まって以来最高、331アクセスという快挙で。あー嬉しい。
いくら感謝しても足りません。

昨日頂いたコメントにもありましたが、正直、母の他界により心の中に吹く風はまだ寒く。
喪中ハガキに切手を貼り、家族の思い出が詰まった実家を引き払う業者を手配し・・・
やがて来る事とは思っていましたが、団地とはいえ、自分が幼い頃から過ごした部屋を自分の手で引き払う事となるとは。

やっぱり弱いんでしょうかね。でも一生に何度も訪れないこんな寂しい時は、皆さんのちょっとしたコメントがものすごく励みになるんですよ。

別に暗いお話をするつもりはないんですが、今日はいつものオタク話の箸休めとでも思っていただいて、ちょっと独り言なんぞ聞いていただければ。

実は「ネヴュラ」を始めた時、私は、このブログは映画や怪獣の「紹介」じゃなく、私というおバカを形成するそれらのものが息づく、生活そのものを綴っていこうと思ったんです。
毎日の生活の中に映画や怪獣が入り込んでいる感覚と言うんでしょうか。
だから同じ映画が何度出てきても、同じ怪獣のお話を何度採り上げてもいいじゃないかと思いまして。

毎日変わる心持ちや気分によって、作品やアイテムを見る視点や角度も違ってくるだろうと。同じテーマでも、以前書いた記事と今日書く記事は違ったものになるんじゃないかと考えたのです。まあ、今や私の血となり肉となっている(笑)怪獣や映画は、おそらく一生つきあっていくものでしょうから、いろんな面を見てあげたいと思っているんですよ。
人だってつきあっていく内に、違う一面が見えたりするじゃないですか。あれと同じ事で。

もし他の皆さんの映画紹介ブログと「ネヴュラ」が違っているとすれば、それはそういう、私の変なこだわりのせいでしょう。おバカな私には、作品をそういう捉え方しかできなくて。
不器用なんでしょうね。文面にも表れていると思います。

これはきっと生来の性格に加え、私が選んだディレクターという職業が影響している事なのでしょう。

私がまだ駆け出しだった頃、親分だったプロデューサーに聞かれた事があります。
「お前、ディレクターにとって一番大事なものって何だと思う?」
その頃の私にはまったく分かりませんでした。答えに詰まる私に、親分は諭すように教えてくれたものです。
「それはなー、感動だ。」

「人や物、風景、何だっていい。自分がそれに触れた時に受けた感動を人に伝えたいという欲求が、作品を作る為のエネルギーになる。その感動こそが、作品の根幹を成す「メッセージ」「テーマ」となるんだ。」

こうして文章にすると恥ずかしいものですが、この言葉は今も私の中に息づいています。
自分の感動を人に伝える、その考え方が仕事にも活かされ、ブログを書く上でもその姿勢が保たれているんでしょう。

だから、感動すればする度に書く。同じ事でも何度でも書く。「恋する」限り書く訳です。
毎日のサブタイトルが、作品のタイトルそのままではないのもその考えの表れで。
「どこに感動したか」「何を伝えたいか」がサブタイトルになるんですよ。
でもこれはきっとご覧の方には不評でしょうね(笑)。検索しにくくて大変と思います。ごめんなさい。
わかっているんですが、これが私のこだわりなので。

正直「ネヴュラ」ってかなり偏ってますよね(笑)。
皆さんからのコメントには「視点が斬新」「深い」など、大変ありがたいお言葉があって恐縮しっぱなしですが、実際は偏屈な主人が開いている個人商店のようなもので。
あまりの偏りぶりに、「こりゃ作品鑑賞の参考には全然ならないだろーなー」なんて一人愚痴ったりしてますが。常に最新の映画や得意分野の作品を、分かりやすくレビューできる方々が羨ましい。
私は本当にその方面が苦手で。
でもこれが私のスタイルなんだな、なんて思います。

昔読んだ、小林信彦さんの本に、「クレイジーキャッツの谷啓のギャグはわかりにくい」という一文がありました。クレイジー全盛期、谷啓が繰り出した数々の音楽ギャグは極めてマニアックなだけに、ほとんどの人は気づかないんですが、それに気づいた人は無上の喜びを味わう、というお話で。
谷啓さんは「分かってくれるただ一人の為に」ギャグをやるんだそうです。

期せずして「ネヴュラ」も、それを目指したきらいがありまして。
志だけですが(笑)。

そんなつもりで始めたブログですから、ここ最近の皆さんからのアクセスやコメントにはただ驚くばかりで。だって毎日のようにゴジラやガメラの事ばっかりつらつらとお話しているのに、常に日本映画ランキングベスト10圏内の末席を汚す事ができるんですから。
このランキングを見る度にいつも思っているんです。
「こんな偏ったブログがなぜ?なんて幸運」って。
ひょっとして、その偏屈さが受け入れられているのならこんなに有難い事はありません。
ましてや今のようにちょっと落ち込んでいる時などは、その思いもひとしおなのです。
「応援しているぞ」なんてストレートなコメントが、どれだけ胸に響く事か。
今日の記事はその感動が書かせたようなものです。

今のわたしにとって、皆さんのアクセスやコメントはまさに光。
ウルトラマンティガ第25話「悪魔の審判」と同じ感動を与えてくれます。
ここ数日で累計アクセスも18000を越えました。その一つ一つが、私を元気付けてくれる光なのです。

(また分かりにくい例えでごめんなさい。「ティガ」のこのエピソード、必見です。感動を約束します。)

ブログを続けていて良かったと思うのは、「書きっぱなし」じゃない所ですね。
皆さんから頂くコメントが本当に楽しい。
こんな偏ったブログを気にかけて下さっているんだなーと、感動もひとしおです。

私が偏っているので、頂くご意見に私と違うものがあってもそれは当然で。
むしろ「こういう見方もあるのか」と嬉しくなってしまう程で。

最近気づいたんですが、この「ココログ」は他のサーバーと違って、コメントの文字数にあまり制限が無いみたいで、けっこう長文のコメントでも書けちゃったりするんですよ。これは頂いたコメントの返事を書く時、すごく重宝します。(文字制限はあるのかもしれませんが、今の所どんなに書いてもエラーが出ないので(笑)
もちろん、頂くコメントは一行でも心が躍ります。長文でもOK。「思い」を伝えるスタイルは皆さんそれぞれですもんね。私も同じです。
こんな特異なキャラクターの私に気をかけて下さる皆さんからのコメントなら、たとえ一行でも嬉しいんですよ。
皆さん、一度書いてみて下さい。
「女子で男子なオタク」と話せる機会なんて、そんなに無いですから(爆笑)

「ネヴュラ」は今日の記事で172本目。
皆さんに頂く感動を糧として、これからも続けるつもりです。
「分かってくれる貴方」が居る限り(笑)。

2006年12月 3日 (日)

「しょうがないなあ」が許された時代

以前、私の子供時代を祖父が8ミリカメラで捉えた映像のお話をした事がありました。
「あの時の空気は、今より澄んでいたなー」
なんて思ったものです。
その時と同じ空気を感じました。

おととい放送の金曜ロードショー「ALWAYS 三丁目の夕日」。

去年公開され、同年の日本アカデミー賞を総ナメにした事で、皆さんの記憶にも新しい作品でしょうね。
私、この作品は今回の地上波放送が初鑑賞でした。

いつもの私の悪い癖で、「どうせ昔を綺麗に再現したCGが売り物の、「作られた過去」映画じゃないの?きっとリアルタイムでその時代を経験した者にとっては、洋画に出てくる日本みたいに違和感の塊に見えるんじゃ?」なんて先入観を持っていたのです。ところが。
おとといのオンエアをハードディスクに録画し、昨日の昼間に腰を落ち着けて見た私は、なんと昼間から泣いてしまったのでした。あー恥ずかしい。

愚直なまでに当時の空気を再現する事にこだわれば、ここまでできるんだなー、という事に感動。公開当時はCGの出来ばっかりがクローズアップされて、「空気の再現度」については触れられていなかった為、私は誤った先入観を持っていたのでした。本当にいつまでたってもおバカな私。

舞台は昭和33年なので私はまだ生まれていませんが、私が子供時代を過ごした頃の「昭和」の空気は、この作品とそれほどかけ離れてはいませんでした。ですから、場面場面の雰囲気がもう、自分の体験と二重写しになって泣けちゃって泣けちゃって。
これは、その時代を経験した方々誰もが持った感覚ではなかったでしょうか。

正直に言ってしまいますと、この作品、ストーリーは「ありがち」なものですよね。ご覧になった方は多いでしょうからここでは特に触れませんが、いわゆる「人情話」で。本当によくあるお話です。それがなぜあんなに心を捉えるのでしょう。
こういうお話は、「昭和」によく似合うとしか言いようがありません。


かつて、「怪獣は昭和の街並みに立つから映える」と書いた評論を読んだ事がありますが、なにかこの作品で語られるストーリーは、「この時代だから余計感動する」のだと思います。実はこの手のお話は、現在でも脈々と作り続けられているのですが、今よりもこの「昭和30年代」によく似合う。現実味があるんですよ。「人々の生活が生々しかった時代」だからこそ、人と人との関わり合いがリアルに感じられたのでしょう。
ストーリーの感動はもちろんでしたが、私に迫ってきたのはむしろ、作品を彩る生活のディテールや、エピソード毎に見られる「人々のバイタリティー」でした。

「生活は不自由だけど、心は自由」ってところでしょうか。

挙げていけばきりがありません。吉岡秀隆演じる茶川さんが経営する駄菓子屋さんの、「店先と、奥の生活空間が繋がっている感」。当時の個人商店は、店に人が立っていなくても万引の心配がなかったんです。往来の人々の目が光っていたんですね。
掘北真希演じる六子が、「古いシュークリームを食べてお腹をこわす生活感」。当時はこんな事、山ほどありました。
どんな町にも「アクマ先生」は居ましたよね。
「テレビが来た日」だって、どこの家でも大イベントでした。ブラウン管の前に掛けてある大仰なカーテンも懐かしいですね。プロレスは父親の食事時の楽しみで。
当然パソコンなんか無いから、文章の伝達手段は紙。この作品では布のこすれる音やくしゃくしゃの紙を開く音など、「生活音」の再現にも細心の注意が払われているように感じました。
実際、当時の町は、今以上に生活音が溢れていた記憶があるのです。人々の会話ももっと多くて。

各々のエピソードに重なる自分の記憶が、この作品を楽しむ上でもっとも大きなスパイスでしょう。「鈴木オート」の社長、堤真一扮する則文が六子の言葉に激怒して、向かいの「吉岡」駄菓子屋に乗り込むシーン、私も似たシチュエーションを経験した事があります。
子供の頃、厳格な父親のいう事を聞かなかった私は、怒られて家を飛び出し、近くのスーパーマーケットに逃げ込んだ事があるのです。夕方、主婦達が賑わうそのスーパーは、メインの通りの両側にお店が並ぶ構造で。通りの一番奥へ駆け込んだ私が見たものは、まるでモーゼの「十戒」のようにお客さん達が通りの左右に避難した光景。その通りの向こうには、竹刀を構えた父親が仁王立ちしていたのでした(爆笑)。
正直この時、子供の頃の私は死の恐怖を感じましたが、結局お客さん達も近所のおなじみさんばっかりで。なぜか「しょうがないなあ」って感じのやさしい空気を感じた事も憶えています。「また怒られちゃったの?」なんて笑っていた顔なじみのおばさんも居たりして。

「注射が苦手」っていうのも楽しい記憶があります。
私が盲腸を患ったのは小学校5年生の時で、小さな町医者で手術をしました。その病院は病室が少なかったので、私は二十歳前くらいのお姉さんと同室になりました。まあ大部屋ですね。これがまた面白いお姉さんで、当時点滴などの注射を怖がる私をからかって、私の同級生が見舞いに来たりすると、「この子、先生に注射される時に怖がって『先生助けて!ヘンシーン!』なんて言うんだよ」なんて余計な事を(笑)。
おかげで私が退院した後も、しばらくクラスではこのセリフが流行ったりしましたが(涙)。
これが昭和の空気。自分のまわりの空気がどこか温かく、たとえ失敗しても「しょうがないなあ」と笑ってくれる雰囲気があったんですね。


淳之介(須賀健太)と一平(小清水一揮)が乗り込む市電にも懐かしい思い出があります。何を隠そう、私の怪獣好きを決定付けた「キングコング対ゴジラ」は、この市電に乗って観にいったのですから。私が見たのは昭和45年の「東宝チャンピオンまつり」版でしたから、併映は「巨人の星」と「アタックNO.1」。パンフレットを買ってもらえなくて、泣く泣くこれら大きなイラストが描かれた看板を見ながら帰りの市電に乗った事も良く憶えています。私にとって市電と「キンゴジ」は切り離せないんです。
テレビで放送される怪獣映画も子供にとって最高のイベントでしたね。ビデオが普及していなかった時代、友達の家に集まって大興奮の内に見た「キングコングの逆襲」。友達のお母さんが出してくれたオレンジジュースの鮮やかな色。
こんな記憶の断片を思い出させる効果が、この「ALWAYS 三丁目の夕日」には溢れているのでした。

きっと、テクノロジーが到達できなかった部分を「人のきずな」が補っていた時代だったんでしょうね。当時の機械だって完璧じゃなかったから、壊れたって仕方がない。ましてや人間のやることなんだから・・・なんて、やさしい空気が流れていたと思います。
「しょうがないなあ」が許された時代だったんでしょうね。
「大らか」とはちょっと違うニュアンス、「頑張ってるんだから許してやろうよ」的な感覚でしょうか。


こういう映画が歓迎される現在は、どこか人々の中に「しょうがないなあ」で済まされない、追い詰められた感覚があるのかもしれませんね。
人と人とのコミュニケーションは結局、「人間ゆえの失敗によってさらけ出される素の部分をどこまで許せるか」って所にかかっているような気もするんですが。

なんて偉そうに言ってる私も、作品作りは「そつなくできる事」に固執しちゃって、「舌足らずだけど強いメッセージ」という原点を忘れていますねー。そのへんのバランスが難しいところで。
この年になってもまだまだ勉強です。
きっとこの作品が伝えたかった事は、ストーリーに加えて「人間らしさの復権」だったのでしょう。山崎貴監督は偉いです。このメッセージを伝える為に、あえて最新テクノロジーを駆使する発想の凄さが秀逸。

ラスト、六子の乗った列車をダイハツミゼットで追いかける則文一家の姿は、荒削りだけど生きる喜びに溢れていました。
今、私に、あのバイタリティーはあるのかなー。
ちょっと「便利ボケ」しているのかもしれませんね。
よし!たまには「ネヴュラ」を手書きでやってみよう!
やっぱりそれはちょっと無理か(笑)

2006年12月 2日 (土)

「本番後」の怪獣たち

12月に入りましたねー。
師走の風がお肌に良くない時期がやってきました。
この季節は忙しさも手伝って、とても趣味に没頭する時間が取れないんですが、昨日はたまたまお仕事が早く終わりまして。

年末の番組編成の都合で、レギュラー番組担当の私はちょっと作業量が減ったような訳です。

お仕事の緊張感から解き放たれると、つい覗いてしまいたくなるのがいつもの「オタクショップ」。本当にここは心落ち着く場所で。でもこの日はちょっと面白い光景が見られました。
ボーナス時期だったんですねー。金曜日という平日なのに、店内は私と同年配の怪獣マニアの方々で一杯。こんな光景、休日でもめったに見られません。怪獣ソフビが並ぶショーウィンドーを食い入るように見つめるおじさま達というのはかなり微笑ましい光景ですね。
私も人の事は言えませんが。
そして!見つけてしまいました。先日記事に採り上げたおかげでしょうか。

Photo_370 ご覧下さい。最近発売された、老舗ソフビメーカー「マルサン」のバルゴンとバイラスでございます。
これ、以前覗いた時にはなかったなー。

ショーウィンドーに入っていたからお値段もそれなりか、と覚悟していたら、なんと一つ840円じゃありませんか。ま、中古ですからね。
貧乏人救済の奇跡の安値。
思わず大声で店員さんを呼んでしまいました。

めでたく「オタク部屋」の一員となったこのお二人。相変わらずユルユルなこのデフォルメテイストが好きなんですよねー。
もう可愛い可愛い。
なぜこんなに好きなんでしょうか。

以前にも「ネヴュラ」に書いた事がありますが、私、以前はハードディテールモデル信奉者で、とにかくガレージキットに収入の大半をつぎ込んでいたんです。こういう可愛いものは邪道のように思えちゃって。でもある頃から、その考えは突然崩れてきちゃいまして。
きっかけは特に無いんですが。

その後、堰を切ったように集めだした「ユルユルソフビ」は、今や「ネヴュラ」を書いている私のパソコンまわりをほぼ占領しています。プリンターの上にまで鎮座している怪獣の皆さんは、お仕事でプリンターを使う時など、「もう邪魔なんだから」なんて言いながらどいてもらう始末で。
でもそんな時でもなぜか、頬がゆるんでしまうんですよね。

今でもハードディテールのモデルは決して嫌いじゃないんですよ。
でも心が和む。これは何故なんでしょうか。

Photo_371 新顔のバルゴンをじっと眺めながら考えていると、なんとなく思い当たる事が。
今日はもう「超私見」なので、いつも以上に引かれるかもしれませんが。
私にとって、この「ユルユル怪獣」は、どうも「本番後の、素に戻った俳優」に見えるんですよ。
怪獣は基本的に縫いぐるみですから、(最近はCGもありますが)撮影本番もオフもありませんよね。撮影が終われば倉庫にしまわれるなり、展示会に貸し出されるなりします。
でも怪獣を「映画に出演する俳優」と考えると、毎日の撮影にはメイクもし、衣装も着替えて本番に臨むだろうと。私達が劇場やブラウン管で鑑賞する怪獣たちの勇姿は、本番中の演技であろうと考える訳です。いわば「仕事中」ですよね。

山崎努がオフタイムを念仏の鉄の姿で過ごさないように(分かりにくいかな?)怪獣だって「お疲れ様」を言い、メイクを落とした後は、こんなユルーい姿に戻るんじゃないかってね。

これは、いわゆるタレントさんと多くお仕事をした私ならではの考えかもしれません。ブラウン管で見せるキャラクターのまま、毎日を過ごすタレントさんなんか居ませんから。
ロケでの移動中、実に真剣にやりとりの打ち合わせをする芸人さんを、私は尊敬して見ていたものです。
オフではみなさん、本当に気のいい常識人なんですよ。

都市を破壊し、相手怪獣と死闘を繰り広げる怪獣は、ある意味真剣な演技をしている訳です。その姿から放たれる絶大なオーラは、彼らの演技力の賜物なのでは。
そんな彼らが「はい、オッケー」の声とともに「どーだった?今の」と口走る時の表情は、きっとこんなユルユルな顔に違いない、なんて思っちゃうんですよね。
こんな考えは、きっと悪い意味で「業界ズレ」をしてしまった私の、ナナメな見方なのかもしれませんが。
でも私にとってこのユルいソフビは、子供の頃に遊んだ記憶を甦らせるためのアイテムではないんです。
なぜなら、私は子供の頃、ソフビで遊んだ覚えが無いからで。
バリバリのプラモデル派だったものですから。

「オフタイムの皆さん」なんて考えるからこそ、親近感が湧くのかもしれませんね。
悪役の俳優さんこそ実はいい人、なんてお話もある通り、怪獣たちもきっと、プライベートは気のいい奴らなんでしょう。
こんなソフビに囲まれていると、怪獣たちの本音が聞こえてくるようです。

ガメラとバルゴンならこんな風かな?

Photo_372 「いやーガメラさん、その節はお世話になりました。」
「あーバルちゃん。お子さんも大きくなって。
もう小学生?」

「ええ。一回ガメラのおじちゃんに会わせてもらいたいってうるさいもんですから」
「おじちゃん、空飛べるの?すごいなー」
Photo_373 「坊や、おじちゃんが空を飛ぶにはね。手足の穴に係の人たちがいっせいに火をつけないといけないんだよ。火が続くのは2分くらいだから、その間に急いで撮影しなきゃならないんだ。」
「ガメラさんはね。本当に苦労して飛んでるんだよ。お父さんの映画だって、ガメラさんが衝突してダムが決壊するカットでは、水を被ってるのに画面右手のダム事務所がまだ燃えてるように照明が当たってるだろ。火や水は本当に難しいんだよ。」

おっと。今度はガメラさん、ギャオス姉妹とお話です。
Photo_374 「ギャオちゃんとは平成になってからも共演するとは思わなかったよ」
「そうですねえ。昔は、ガメラさんを子供の味方にする為、あえて私も人を食べちゃったり手足を切ったりと、体当たり演技で頑張ったものですが。最近はすっかり後輩に任せっきりで。
でもまあちょっと最近の子は、線が細いようですが。」

「相変わらずコメントも、超音波メスなみの切れ味だねー。そうそう、あの真っ二つにした車、後が大変だったでしょう?」
「あー、あれは、脚本の高橋二三さんが、車の展示場で見つけてきたカットモデルなんですよ。最初から切れてたんで。
別にあれはどうって事ないですけど。
それよりも妹の就職先が大変でした。」

Photo_375 「そういえば、ギャオちゃんには妹さんが7、8羽いたんだよねえ。彼女達もデビューしたって聞いたけど?」
「そうか、ガメラさんはお会いしてないですよね。板前のギロンさんと共演させていただいたんですよ。全身に銀粉塗られて。」
「ああ、彼女がそうか。「怪獣界のシャーリー・イートン」なんて言われてねえ。当時話題になったもんだけど」

そして、最近ご無沙汰のバイラスさんも。
Photo_376 「いやーガメラさん、その節はひどいことしちゃって。」
「なに言ってるんですかバイラスさん。貴方の串刺しがなかったらあそこまで盛り上がらなかったですよ。
いつも相手役の皆さんには本当に感謝しています。」

「手加減しないようにと湯浅さんに言われたもので思いっきりやりましたが、痛くなかったですか?所で私、確か刺したのは一回だけだと思ったんですが・・・」
「いやいやあれは画面で見ると何度も刺されていますが、実際は一回刺されたカットを編集で増やしているんですよ。湯浅監督も気を使ってくれているんですね。」
「そうですか。よかった。38年間ずっと気になってましてね。
古傷もうずく季節ですから、お体には充分お気をつけて」

Photo_377 なんてね。怪獣たちも本番後は、きっとこんな風にお互いをいたわっているんですよ。
怪獣界も狭いですから、皆さん仲良くやっていると思います。
リアルなモデルからは聞こえてこない、こんな会話が聞こえてきそうな「ユルユルソフビ」。
これもオタクでおバカな私の、ひそかな楽しみなんですよ。

ところで、「人形には魂が宿っているから、ぞんざいな扱いはしてはいけない」なんて、よく聞きますよね。
これは怪獣にも当てはまるんでしょうか?

結構手足なんかいじくりまわして、笑いながら飾ったりもするんですが(笑)

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