出口のない海
気持ちもやや落ち着いて、いつものペースをとり戻しつつあるこの数日。昔の事など思い出してしまう時もあって。
と言っても、別に暗くなるわけじゃないんですが。
火曜日にお話した「怪獣の存在感」について、いろいろ参考になるコメントを頂いたおかげで、怪獣という存在の多様性を考えてみると、これがまた楽しくて。そんな方向へ走る頭と昔の記憶が妙なところで結合されてしまいまして。
「ジョーズ」って怪獣映画だったよなー。なんて思っちゃって。
「ジョーズ」(1975年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)。
この作品を知らない映画ファンは、ほぼ皆無と言ってもいいのでは?
若い映画ファンの方々も、「スピルバーグ若き頃の傑作」として、作品名はご存知と思います。
この「ジョーズ」、公開された1975年(「新幹線大爆破」公開と同年の「爆弾時代」(笑)に、私は前評判に興奮した友人達と連れ立って話題の源を見物に行ったのでした。
まさに映画鑑賞の王道、ロードショー公開に挑んだのです。
そう、あれはまさに「映画を鑑賞する」というよりも「映画公開というイベントを見物する」感覚で。当時「ジョーズ」の人気は物凄く、私の街の封切館では、2階の劇場からズラリとお客さんの列が続き、劇場に入る為だけに上映を2回分待たされたのでした。(約5時間!)
やっと入れた劇場も客席は一杯で立ち見を強いられる始末。でも私は嬉しかったですね。その混み具合が「イベント参加感」のテンションアップに繋がるんですよ。
そんな興奮状態で「体験した」ジョーズは、噂にたがわぬ超傑作で。この作品は当時のいたいけな私を「スピルバーグ教信者」にしてしまうのに充分な面白さを持っていました。
翌日から周りの友人に熱心な布教活動をした事は言うまでもありません(笑)。
そんな記憶を辿りながら、久しぶりに部屋で見た「ジョーズ」。(とても日本映画ランキング参加者とは思えない作品選びですね。
しかも今時(泣)
これね。記憶でかなり美化しているのかなと思って心の片目をつぶって見たんですけど、いやー引き込まれる。面白い。やっぱり怖い。エンディングを知っているのに怖い。
なんでこんなに面白いんでしょう。
ここで冒頭のセリフが登場します。
「ジョーズって怪獣映画。」
この作品について「怪獣映画」という評価を下す評論は、もう星の数ほどあります。
これはもう、誰が見たってそう思いますよね。 「ゴジラ」大好きなジージャンズ(映画秘宝的に言うなら)、スティーブン・スピルバーグ。
「ジョーズ」の前に「激突!」を撮り「大怪獣トレーラー」を発表した後も、近作「ジュラシック・パーク」で恐竜を怪獣に仕立てた「オタクリエイター」です。「宇宙戦争」のトライポッドを見て「メカ火星人だ!」と思ったのは私だけじゃないでしょう。
この人の血には「ゴジラ細胞」が息づいているのです。
でなきゃエメリッヒの「GODZILLA」制作にあれほど難色を示すわけが(笑)。
そんな彼が27歳で作った「ジョーズ」。そこにはまだ映画監督としては若く、技巧に走らない彼の、全ての引き出しを駆使した「むき出しのスピルバーグ」が表れているのです。
再見してみて思った事があります。
「ジョーズ」って、前半「ゴジラ」(1954年版)ですよね。 誰もいない、夜の海で起こる惨劇。原因の分からない犠牲者の様子。学者の登場。原因究明の為のリサーチ。
主役の巨大鮫「ブルース」が背びれだけ見せて全体を小出しにする演出も「ゴジラ」のそれ。
まあ、怪獣映画のオリジナルにしてスタンダードを作ったのは「ゴジラ」ですから、それをなぞれば自然と怪獣映画っぽくなる訳で。スピルバーグはあえて巨大鮫を海の脅威として描かず、「怪獣」として描いているのでは、と思っちゃいますね。
で、この鮫を退治する為に人間側の主役3人が海へ出るあたりから、様相は一変します。
ここからは東宝特撮映画が成しえなかった「人間と怪獣のガチンコバトル」が展開する訳です。
後半、「オルカ号」で鮫の待つ海域に進む一行ですが、わりとのんびりしていますよね。
というのは、彼らにとってどんなに強敵でも、それは「鮫一匹」という認識があるからなんですよ。私達観客もそう思っている。
そりゃそうですよね。ゴジラだってギドラだって、怖いのはその怪獣だけなんですから。
ところがですね。この「ジョーズ」は、怪獣は鮫だけじゃないんですね。オルカ号に乗った3人は、とんでもない怪獣を相手にしてしまったんです。
それは「海」。
ここに、スピルバーグの見事な視点があります。
「ジョーズ」を見た当時、「この映画を見るとお風呂でさえ怖い。鮫が口を開けて待っていそうだから」という感想が多かった事を記憶されている方も多いでしょう。
「鮫がいつ出てくるか分からない水面が怖い」んですよ。この「ジョーズ」では、そんな鮫が潜む「海」が怪獣なんです。 主役3人が乗った「オルカ号」は、怪獣の中に身を投じてしまった形になるんですね。
船以外全部が「怪獣」。どこからあの「巨大鮫」が飛び出してくるか分からない。かつて、これ程スケールの大きい怪獣映画があったでしょうか。
どこまで行っても「怪獣の上」という恐怖。 これは実に巧みな発想ですね。実際、鮫自体はそれ程怖くない。どんなに強くても鮫は鮫ですから、相手が確認できれば打つ手はあるんです。
スピルバーグは観客の注意をそこへ持っていかない為に、鮫と海を一体化させているんですね。
「海が牙をむいて襲ってくる」という類の無い怖さを、皆さん感じませんでしたか?
その後星の数ほど作られた「動物襲撃パニック映画」と「ジョーズ」には、ここに明確な違いがあるのです。
考えてみてください。例えば「空の大怪獣ラドン」。ラドンの影響で全ての航空機・戦闘機が飛び立てないという描写がもしあったら。どこにラドンが潜んでいるか分からないという描写があったら。あの映画のテイストには合わないかもしれませんが、「空が怪獣」という新しい感覚が生まれるような気もするのです。
この作品の4年後に公開された「エイリアン」(リドリー・スコット監督)も、「ジョーズ」と同じようなテイストを持っていましたね。
外部から遮断され、逃げ道のない宇宙船ノストロモの中、どこから襲ってくるか分からない「究極の生命体」エイリアンの恐怖は、まさに「ジョーズ」の後継者と言っていいでしょう。
「エイリアン」では、「怪物は宇宙船そのもの」なのです。
こういうテイストの作品は日本より海外が多く、やはり手馴れていますね。これはやはり、「キャラクター」としての怪獣を生み出せない、海外クリエイターの発想が成せる技でしょう。どんなに怖く異形の存在もそれは「種」であり、感情移入できる「キャラクター」足りえないという厳然たる一線が、海外クリエイターにはあるのです。(「ゴルゴ」のような例外があるのも、また楽しいところで)
そういうキャラクターとしての弱さをプロットでフォローしているんでしょうね。
ちょっと脱線しました(笑)。「出口のない海」という怪獣に追い詰められる人間。追う立場から追われる立場になった彼らはまさにガチンコ、考えうるあらゆる手段を講じます。この「なりふり構わず感」がいいんですよね。日本の怪獣映画でもあそこまで追い詰められる描写はありません。
日本製はどこかで怪獣側に感情移入させられるように作られているので、そこまで非情にはなりきれないのでしょう。
でも、あそこまで追い詰められ、犠牲者まで出るハードな展開だからこそ、あのラストシーンが活きて来ると思うんですよ。ユルいストーリーにはユルいラストしか訪れません。ここはスピルバーグ、見事にアメリカ映画してますよね。やっぱり日本の怪獣映画のラストには不満だったのでしょうか(笑)。
とにもかくにも「ジョーズ」のドキドキ感は、公開後31年を経た今も少しも色褪せていませんでした。
日本でもああいう怪獣映画って出来ないものでしょうか。
「閉鎖空間での怪獣との攻防」って、うまく状況を作ればさほど多額の予算をかけなくても出来そうな気もするんですが・・・
日本が作ると「ネズラ」(2003年)になっちゃうんですよねー。
やっぱりあの手の作品は、海外にお任せしましょうか(号泣)。
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コメント
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いいなぁ~。オタクイーンさんは『JAWS』を劇場で「体感」されたのですネ。羨ましいです。
やっぱり『エイリアン』と比較してしまいますよネ。で、こちらのサメは身近な(?)存在であるが故に、その怖さが実感できるというか。
ブロディ署長の眺めていた図鑑の写真が効果的ですネ。映画本編ではなかなか姿を現さないサメに、「いったいどれほど巨大なサメなのか」という想像を膨らませる恐怖。そして図鑑の写真から、サメによる被害の大きさ、被害者の写真の痛々しさ・生々しさ、その顎の恐怖が客観的に伝えられ‥‥。映画本編では姿が見えないうちから、その被害の大きさが予告・刷り込みされている手法に感心します。
ブロディ署長が撒き餌を撒いている時に姿を見せたサメに、署長が「この船では小さ過ぎる‥‥。」と言うセリフは、特典映像によるとアドリブだったそうで。しかし、このセリフが出るまでは「大きくて恐ろしいが、たかがサメ一匹」という気分だったことが強烈に感じられます。この一言は歴史に残るアドリブですネ。
そんな気分だったから、たった3人で大海原に出て行ったのでしょう。奥さんとの別れの時に「子どもには何て言ったらいいの?」「『釣りに行った』とでも言っておいてくれ。」なんて軽口(内心は恐怖があったのかもしれませんが)との見事なコントラストになっていると思います。
オタクイーンさんの「海が怪獣」という視点も素晴らしいですネ。どこを向いても水平線まで視界が開けているのに、海中の様子がわからない‥‥。この「開放感の中の居心地の悪さ」とでも呼ぶべき圧迫感は、船外にはどこまでも続く宇宙空間があるのに、ノストロモ号の外へは逃げ出すことができない『エイリアン』での密室での閉塞感とは、ちょうど表裏一体の感覚だと思います。
ん~、『エイリアン』も語りたくなってきました‥‥。
投稿: 自由人大佐 | 2008年2月25日 (月) 02時01分
自由人大佐様 「JAWS」は子供時代、友人の誕生日祝いに仲間数人と観に行った作品です。
お祝い映画としてはまさに最適、劇場はビルの2階だったんですが当時の人気はものすごく、入場待ちのお客さんの列が劇場入口から階段、ビルのロビーを抜けて沿道まで延々と続いていました。
私たちにはそのお客さん全員が、友人を祝福しているように感じたものです
観客の一人として多くのお客さんと一緒に「JAWS」を体感しましたが、観る者の感情を心憎いまでにコントロールするスピルバーグの才能に驚きを隠せませんでした。
劇場そのものが、ブロディ署長たちの乗るオルカ号になってしまうのです。
暗い観客席の椅子の横から鮫が顔を出すような恐怖感。
実際、足元がムズムズした事をよく覚えています。
まー子供でしたから、思い入れが強かったのも事実ですが
おっしゃる通り、前半姿を現さない鮫は、その恐怖感も曖昧にならざるを得ないですよね。オルカ号出発までは、観客もあれほど壮絶なバトルを予想していない訳です。
あの時点までに他の漁船が被害に遭っていれば、まだ観客も鮫の脅威を実感できるのですが、あえてそうしていないスピルバーグの手腕は天才的ですね。
「一点集中」のセオリーを踏襲した見事な構成です。
鮫を仕留める目的の三人が、徐々に仕留められる側になっていく作劇も見事ですね。鮫がオルカ号を海に引きずり込もうとする時、私たちが与えられる恐怖は大変なものです。観客はあの時点で「喫水線が鮫の口」と感じてしまう。「海という鮫」に船ごと食べられる感覚になっちゃうんです。少なくとも、初見の私はそう感じました。
一緒に行った友人は全員「その日のお風呂は怖かった」と語っていましたが
「JAWS」は前半、緻密なディテールで観客をミスリードさせる事によって、後半の恐怖を倍増させているのです。その緻密さが、大佐さんのおっしゃる描写に集約されているのは間違いないでしょう。
確かに「エイリアン」も、この作品のフォーマットを上手くアレンジした傑作ですね。「表裏一体」という解析もよく分かります。
大佐さんの「エイリアン」鑑賞記事を楽しみにしております
投稿: オタクイーン | 2008年2月25日 (月) 21時58分