導かれる「導く者」
「この秋晴れに、部屋に居るのはもったいない!」
お仕事も早々に切り上げ、出かけたウォーキング。
たどり着いたいつもの公園ではまるで仕込んだかのように、運動会で盛り上がっていました。
公園を使うという事は子供会か何かでしょうか。親子揃ってかなりの人数で。
ソリを使ったパン食い競争の真っ最中。真剣な子供達と、応援するお父さん、お母さんの声援が秋空にこだまします。
ここで驚いた事が一つ。この時、会場に流れたBGMが「ウルトラマンメビウス」の主題歌だったんですよ。これがまた、会場の雰囲気を盛り上げちゃって。
絵に描いたような秋の風景が広がっていました。自然と頬もほころびます。
「ウルトラマンメビウス」に反応してしまう自分には呆れちゃいますね。ただ、以前にも「ネヴュラ」に書いた通り、私は今「メビウス」を見ていません。
この秋劇場公開された映画版もノーチェック。このトーンダウンはどうした事なのでしょう?
「ティガ」映画版の時は特番の企画まで立てた私なのに。
これは別に「メビウス」が悪い訳じゃないんです。言ってみれば「第二次ウルトラ」に乗れなかった私の過去の記憶がそうさせているんです。
皆さんご存知の通り、1966年から始まった「ウルトラマン」は、その後「ウルトラセブン」(1967年)と続きました。「マン」の前に放送された「ウルトラQ」(1966年)を含め、この時期に放送された三作品は、ファンの間では「第一次ウルトラ」と呼ばれています。
この2年間の「怪獣ブーム」をまともに体験してしまった私は、幸か不幸かこの三作品がその後の作品を計る「物差し」になってしまいました。
「ウルトラセブン」終了から4年。再びブラウン管に登場した新シリーズ「帰ってきたウルトラマン」(1971年)。
「第二次ウルトラ」の口火を切ったこの作品。第一次ウルトラと意識的に作風を変えた「帰りマン」は、その後「A」「タロウ」「レオ」と続く作品群のプロトタイプとしての役割を果たしたのです。
当時、子供の私は「帰りマン」の放送開始を小学館の学習雑誌で知ったとき、小躍りしました。「あのウルトラマンが新作で見られる!」(なにしろその頃テレビで見られたウルトラは「ウルトラファイト」だけでしたからねー(笑)。
待ち焦がれた「帰ってきたウルトラマン」。しかしその時の私の中には、すでに「初代ウルトラマン」が物差しとして厳然と存在していたのです。
「乗れない」。
正直私は、リアルテイムでは第25話「ふるさと地球を去る」(1971年9月24日放送)を最後に、毎週のチェックをやめてしまいました。
その後、何週かに一度見る程度の体勢が続き・・・
その後のシリーズは、リアルタイムではまともに見ていないのでした。(後年、ビデオでチェックはしましたが)
何故なんでしょうか。私は「ウルトラマン」という存在に何を求めていたのでしょうか。
ファンには有名なお話ですが、「ウルトラマン」の企画時のタイトルに「レッドマン」というものがあります。これは円谷プロ側で番組の登録時、タイトルが外部に漏れないようある種のダミーとして考えられたらしいのですが、この「レッドマン」というタイトルには二つの意味があったようです。
このタイトル、英語表記は「LEDMAN」。人類をリードする「導くもの」という意味がありました。またボディーの色から「赤い男」という意味合いも。
制作者側はやはり、人類を平和な未来に導く指導者としてウルトラマンを創造していたのです。
初代ウルトラマンはその思いを見事に具現化した存在でした。怪獣や宇宙からの侵略者に対し、人類が絶体絶命の危機に陥った時、突如閃光と共に現れる身長40メートルの巨人。圧倒的な強さを見せ付けて、わずか3分間で姿を消す「人類の希望」。
この謎に包まれながらもカリスマ的な存在は、幼い私に強烈な印象を残しました。
続く「ウルトラセブン」は、等身大の宇宙人の存在を描いたドラマ。これはもう「マン」とは別のお話でした。当時、私の中ではウルトラマンの圧倒的なイメージに比べ、幾分スケールダウンした印象を受けたものです。
これは不思議な感覚なんですが、ある意味存在そのものが神秘的な「マン」に比べ、おそらく戦闘能力では上であろう「セブン」の方が弱そうに感じてしまうのは私だけでしょうか。
これはセブンの感情や考え方が我々人間と極めて近い故の「人間的な弱さ」に起因するように思えるのです。
「マン」のメインライター、金城哲夫は、おそらく「マン」を無敵のファイターとして描くため、感情的な部分を意識的に廃したのでしょう。それに比べ「セブン」を主に描いた市川森一は、宇宙人にも豊かな感情がある事を描きました。これが結果的にセブンの存在を矮小化させたような気がするのです。
番組内でのセブンは、人類を導く「LEDMAN」としては描かれませんでした。強大な科学力、軍事力を持ち、自覚を持たず宇宙侵略まがいの動きを見せる地球人。宇宙生命の視点に立てば「侵略者」となる地球人と宇宙生命との間に立ち尽くし、呆然とするヒーロー「セブン」。ここにはもう、カリスマ性は存在しませんでした。
「帰ってきたウルトラマン」以降の作品には、幾分この「セブン」の視点が影を落としています。完全なヒーロー、圧倒的な存在になりきれないウルトラの戦士達。「兄弟」という設定も擬人化に拍車をかけてしまいましたね。
初代ウルトラマンのカリスマ性に惹かれた私には、「セブン」以降の作品はなにか物足りなさを感じてしまいます。しかしながら、前述したように「セブン」は「マン」とは別の作品。実際は「帰りマン」以降とは別の位置にあるような気がするのです。
円谷プロの方々には申し訳ないのですが、「マン」と「セブン」で違う作品を目指した当時のスタッフの思いは、「帰りマン」で活かされなかったような気がしてなりません。
確かに制作会社は営利企業ですから話題性のある、当たる企画を作るのが正しいあり方なのですが、ファンのわがままで言わせて頂けば、「セブン」の後はまったく違う設定の「ウルトラ」を創造すべきだったと思うのです。
「ネヴュラ」でもたびたび書いていますが、この「セブン」の次に作られるべきであった作品が「ウルトラマンティガ」(1996年)という思いは、今だ私の中には強くあります。
「ティガ」について語りだすと止まりませんが、一つだけ言えば「ティガ」は「ウルトラマンという存在が地球を去った後、その能力を受け継ごうと努力する地球人の物語」なんですよ。従来のウルトラと視点が全く違う。カリスマ性はなくても、この物語の中では視聴者も含めて「人類一丸となって侵略に立ち向かう。ウルトラの力はその象徴にすぎない」という視点が素晴らしかったのです。
これは「帰りマン」以降の「擬人化」「矮小化」とは異なる見方で。なにしろ主人公は地球人なんですから。初代マンに見られる「導く者」という視点も、ここにはもう存在しません。「ティガ」では人類は導かれなくても、自分達で未来を切り開いていくのです。
セブン放送29年後にして、新たに創造されたウルトラ世界。
実は、「ティガ」には功罪があります。いろいろな評論にも書かれていますが、「ティガ」は本来、ウルトラシリーズ全体が最終的に到達するべき物語のようなのです。
私もそれを強く感じます。「ティガ」の後に何を作っても、それはウルトラの遺産を使った「同窓会」に見えてしまう。
実際、「ウルトラマンマックス」(2005年)は第一次ウルトラの、「ウルトラマンメビウス」(2006年)は第二次ウルトラの、それぞれのテイストをなぞるような作風が顕著ですね。
当時の怪獣がリファインされて登場する事も含め。
「帰りマン」に始まる第二次ウルトラの「矮小化」「擬人化」、「ティガ」の存在。
私が近作に乗れないのは、そんな理由なのでしょう。
まあ、同じ思いを持たれるファンの方々もいらっしゃるでしょう。「今更何を」なんてね(笑)。
ただ、今「メビウス」のテイストを実現させているのは、おそらく第二次ウルトラを幼児期に体験し、それが物差しになった方々の思いでしょう。それはいい悪いではなく、子供を除く視聴者の年齢層が変わった事を示しています。ウルトラのテイストも、視聴者の物差しによって変わって行くんですね。
ヤプールやヒッポリト星人に涙するお父さんが、「ウルトラを導く」視聴者になった、という事なんでしょう。
視聴者に導かれる「導く者」。
「ティガ」を子供時代に見た人たちが大人になった時のウルトラを見てみたいような気もします。
いや、やっぱり同窓会になるから、見たくないかな(笑)。
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オタクイーンさんこんばんは。
仕掛人ではTBしていただきありがとうございました。
実はウルトラマンも大好きなので、こちらにコメントさせて下さい。
私も普通にウルトラシリーズで育った世代なので、うんうんなるほどなぁ、と思いながら読ませて頂きました。
セブンは確かに弱そうでしたよね・・・ウルトラマンは見ていて安心なんだけど、セブンは「うああっ、セブンがやられちゃう~」と本気で心配しながら見ていた記憶がありますもの(笑)
基本的にはやっぱりマンとセブンですが、なんだかんだ文句言いながらもAまでは結構真面目に見てました。そしてヤプールには泣かされました(笑)でも同窓会な新作は見たくないです~。
(ウルトラファイトならOKですが♪)
投稿: とかこん | 2006年11月 6日 (月) 23時31分
こんばんは。
こちらにお邪魔させて頂くようになってから 気になっていた作品、見ましたよ!「ウルトラマンティガ」VOL.1(第1話~4話)
これだけしか見てませんが、「セブンの次に作られるべきであった作品・・・ウルトラシリーズの到達点」というオタクイーンさんの思い、“よく”と言ったらおこがましいですが、感じとることができました。
これを観てしまうと「マックス」「メビウス」など(オタクイーンさんの言う第二次ウルトラテイスト)に乗れないとおっしゃるのも分かります。
それにしてもこの「ティガ」、話の内容 かなり高度で、チビっ子達には難解なんじゃないですか?
玄人うけする作品の感が・・・
それから、V6の長野君が出てたのにはビックリ(笑)。
投稿: ポン太 | 2006年11月 6日 (月) 23時38分
とかこん様 ようこそいらっしゃいました。
まさかこの記事にコメント頂けるとは(笑)。
第一次怪獣ブームの洗礼をまともに受けてしまった私は、それ以降の作品にどうしても乗り切れず・・・
本当に頭の固い、しょうがないオタクです。
あの初作の「ウルトラマン」並みに、完全無欠のヒーローはもはや生まれないんでしょうね。
奇跡のようなバランス感覚の番組でしたもんね。
第二次ブーム以降が原体験の方々にも、是非ご意見を聞いてみたいです。
こんなブログですが、これに懲りず(笑)どうぞまたお越し下さい。
投稿: オタクイーン | 2006年11月 7日 (火) 00時56分
ポン太様 コメントありがとうございました。
ついに「ティガ」をご覧になられたんですね。
1話から4話だと、私が好きなのは(ご想像通り)3話ですね。
脚本の小中千昭は当初、この3話用に別のストーリーを用意していたのですが、プロデューサーサイドの意向によりそのストーリーが先送りになってしまい、穴埋めの為極めて短期間に(一説には一晩と言う噂も)あの脚本を書き上げたんだそうです。
「初期のターニングポイント」と言われるキリエル人の登場は、そんな偶然が生み出したものだったんですね。
確かに「ティガ」は子供にはちょっと難解なドラマが多いですよね。
でも大丈夫。私達が子供だった頃にも、あの難解な「セブン」が放送されていたじゃありませんか。
子供は番組の中に自分の興味ある部分を見つけ、成長と共に番組に込められたメッセージを理解していけると信じたいです。
これから「ティガ」をご覧になるポン太さんが羨ましい。
中盤からラストに至る盛り上がりは凄いですよ(笑)。
投稿: オタクイーン | 2006年11月 7日 (火) 01時11分
>自分の興味ある部分を見つけ、成長と共に番組に込められたメッセージを理解していける・・・
確かにそうですね。子供ってそんな細かいこと気にしないし、だいたい分かりませんよね。 ホントそうだ(*^^*)
中盤からラスト・・・楽しみにしてます。
投稿: ポン太 | 2006年11月 7日 (火) 10時37分
ポン太様 再度コメントありがとうございました。
生意気な事を言ってしまい、ごめんなさい。
ウルトラシリーズに込められたメッセージは、年を重ねるにつれて
ボディーブローのように(女子が言うセリフじゃないですが)効いてくるのです。
時代を越えて愛される作品には、必ず優れたメッセージがあるような気がしたりして。
またまたごめんなさい。夜中のコメントの悪い癖ですね(笑)。
投稿: オタクイーン | 2006年11月 7日 (火) 23時05分