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2006年10月の記事

2006年10月30日 (月)

映画オタクのランドセル

昨日の新聞の片隅に載っていた、ある書評。
「売れてる理由」と題して、晶文社の「定本 映画術」(ヒッチコック&トリュフォー著)が紹介されていました。

1990年刊、現在12刷を重ねるこの本は、サスペンス映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコック監督をヒッチファンでもある監督、フランソワ・トリュフォーがインタビューした「映画制作の対話集」。
映画史に輝く一冊として今でも人気を得ているとの事でした。

「なつかしーなー。」この、独特の表紙を見た私は、一人目尻を下げていました。
この本、私の中では映画に関する教科書にも等しい一冊だったのです。

Photo_321 本棚にはほらこの通り。私を一生治らない病に追い込んだ一冊がハードカバーで結構重いんですよ。記事には1990年刊とありましたが、私が持っている物は1981年刊。
改訂したのでしょうか。少なくとも初版は81年に刊行されたんでしょうね。
今日の「ネヴュラ」は、「私を映像オタクにしてしまった教科書」とでも題して、過去のランドセルから数冊を紐解いてみましょう。ちょっと硬いかな(笑)。

映画に於ける「芸談」の教科書とも言えるこの本、読まれた方も多いのではないでしょうか。
私もこの本を読むまで、映像作品とはこういう風に創られていくんだという事を全く知りませんでした。

一見すると映像の羅列にすぎないように見える物も、それは作り手が明確な意図を持って作り上げていく「作品」である事を知ったのです。

「サスペンスの巨匠」アルフレッド・ヒッチコック監督。
作品をご覧頂けばお分かりの通り、彼が作り出す独特の世界は「悪夢のよう」「手に汗握る展開」「観客の心理を自在に操る名手」など、様々な賛美で彩られていますね。

ところが、一般の観客は、「ハラハラ」「ドキドキ」「なんであんなに怖いの?」という感想は口にしても、「なぜドキドキしたか、その理由」について追求しないのが普通。昔の私もそうでした。
(賢明な「ネヴュラ」読者の方々、皆さんはその秀でた分析能力で既に特異なポジションにいらっしゃるのです。)
何事にも「なぜ?」がつきまとうおバカな私は、一連のヒッチ作品にノックアウトされた後、作品の分析衝動を抑える事ができなかったのでした。
そうは言っても所詮一介のOL。出来る事など知れています。当時数々の書評を見ながら手に入れたのがこの一冊。
2,900円は痛かった。まだ消費税も無かった頃でした。

でもこの一冊、まー中身が濃くて。面白くて。
この本が無ければ、「ネヴュラ」の映画紹介(自分ではそのつもりなんです)など存在しないぐらい、影響を受けた一冊なのです。
何と言ってもその「潔さ」に参りました。

なにしろ語っているのがヒッチコック本人と、ヌーベルバーグの旗手フランソワ・トリュフォーでしょ。
これ、「プロ対プロ」なんですよ。
つまり、映画評論家に対してお茶を濁すように語る「見所」や「苦労話」が出てこないんです。完全に「演出論」。

あのカットはこういう演出意図で撮った。あそこのカットつなぎはこう考えて繋いだ。等々、これは「芸談」なんですよね。
これは映像業界を目指していた私にとって、まさに「教科書」だったのです。

「めまい」(1958年アメリカ)のメイキングは面白かったですね。今では広く知られていますが、劇中で高所恐怖症の主人公、ジェームズ・スチュアートが見る主観の「めまい」映像。あれを考案するのにヒッチは15年間を費やしたとは。
でもあのカットには、観客に「悪夢」を見せようと腐心する、ヒッチの「水面下の努力」がよく表れていました。

他にもこんな話題が。こんな簡単なシーン想定があるとします。自分の部屋で、外から誰かに見張られているようだと怯える主人公。そっと窓のカーテンを開けると、外には怪しげな男がこちらを窺っている様子。
ここでサスペンスを盛り上げる為には、絶対やってはいけないカット割りがあるのです。皆さんはお分かりでしょうか?

こんな類のお話が400ページ近く、矢継ぎ早に展開するのです。「ヒッチ病」にさいなまれた私にとってこれ程面白いお話もない訳で。

いつもの私見ですが、どうやら映像作品というものは、作品を作る段階で意図された部分と、出来上がってから図らずも予想外の効果が上がってしまった部分があるようで、これらを一つずつ解析していく事によって作品の本質が見えてくると思うのです。
非常にクールな見方のようですが、私の仕事、映像制作にはこれが絶対必要。
文字を知らなければ文章が書けない様なもので、ハプニング的なミラクル演出も、しっかりした演出意図のベースがあればこそだと感じるんですね。

この「映画術」は、その演出意図と表現の関係を実にわかりやすく教えてくれた本なのです。

この「映画術」に感銘を受けて、その後この手の芸談本をあちこち探した私は、ある本に巡り会いました。
Photo_322 佐藤忠男著「映画の読みかた」(じゃこめてぃ出版)。これも映画の構造を知る上で実に参考になった一冊でした。
おバカな私は、この本でエイゼンシュタインのモンタージュ理論と、対抗するフォトジェニー理論を知ったのです。(あー顔から火が出そう。なにしろ私は映像関係の学校などまったく縁がなかったもので。石投げないで下さいね(泣)。

この本にも、世界各国の名作を題材にした面白いお話が満載で。「あの作品のあの場面にこめられた意味は」「この作家の斬新な演出手法はこんなところにも」的な、どちらかと言うとファンに向けた「作品解析ガイド」風の作りです。
映画を知り尽くした著名評論家、佐藤忠男氏の語りは口当たりがいいですが、あえて一言言わせて頂ければ、これはやはり「評論家の側に立った見方」の域を出ていません。
芸談は芸談でも、制作者の血の通ったお話には一歩譲ってしまう。実際に作品を作る私にはなんとなく感じられる、外野席からの言葉に感じてしまいます。
ただそれは、解説文の良し悪しとはまた別の次元で。
離れた立場だから本質がよく見える事もありますからね(笑)。

2冊似た本が続きました。こうした芸談本を何冊か読み、仕事の経験も手伝って幼稚ながらもなんとなく作品の見方が分かりかけてくると、今度は映像作品そのもののルーツが気になってくるんですよね。
「そもそも映像作品とはいったい何なのか」という。

という訳で、こんな一冊も読んでみました。
Photo_323 柳下毅一郎著「興行師たちの映画史」(青土社)。この本、わりと最近出版されたので読まれた方も多いのでは?題名通り、映画を「興行」として捉え、興行作品の系譜を辿った独自の視点で読ませる評論です。

昨日の記事にも書きましたが、劇場用映画と言うものは入場収入で制作費の元をとらねばならない「興行」という面が強い娯楽メディアです。最近はサントラCD、DVDなど付随するソフトの売り上げまで視野に入れた戦略が採られていますが、言わばギャンブル的なビジネスである事は否めない事実。
この本では、いかに観客を劇場に呼ぶか、という一点に焦点を絞り込んだ制作者側の努力が延々と綴られているのです。


幼稚な私などは、悪名高いウイリアム・キャッスル制作の「ティングラー」を劇場で一度でいいから観たいと思っているクチですから、この手の話題は大歓迎。
映画黎明期。ジョルジュ・メリエスが作った映画はまぎれもなく「見世物」でした。
乱暴に言えば映画と言うものは、そもそも、遊園地のお化け屋敷的な発想から生まれてきたものなのでしょう。「怖いもの、不思議なもの見たさ」という人間の欲求に答えたと言う意味で。


そういう意味でも、秘境探検のドキュメンタリーや怪獣映画などは、この映画黎明期のテイストを最も色濃く残すジャンルなんですよね。
この本では名匠、ヒッチコックや新東宝映画の風雲児(笑)大蔵貢までが「興行感覚に優れた人物」として紹介されています。
確かに二人とも芸術家ではありません。でも観客の望むものを提供し続けたと言う意味では、実に優れた「興行師」だったと思うのです。

Photo_324 こうした映画の出目を紐解くにつれ、「人々の共感を得る」作品のなんたるかを思い巡らせる私。頭デッカチにならずに、いろいろな角度から作品を見る柔軟さを身につけなきゃといつも思っているんですが・・・

でも、「許容」と「迎合」は違うとも思いたい訳で。
唸らせる作品に最近出会えませんね、が挨拶代わり・・・
いやーまだまだ勉強です。
興味を引く「教科書」を探しに本屋さんへ「登校」しないと(笑)。

2006年10月29日 (日)

放送VS興行

Photo_316 このテープをご存知ですか?
放送業界に携わる方なら、「もう見飽きた」とおっしゃるのでは。そうです。これは私が生業としているテレビ業界で、今も現役で使われている取材用テーブ「ベーターカム」という代物なのです。

今日、私はこのテープを大量に整理していました(500本近くあったかな)で、その内何百本かを自宅に運び込むという力仕事でもう、クタクタ。その時ばかりは「女の子」してられなかったので、思いっきり頑張っていましたが(笑)。

古いテープが見つかる度に取材当時の思い出が思い出され、ちょっと懐かしい時を過ごしましたが、そんな中でも「ネヴュラ」の事を忘れていない私。つくづくブログが生活に根付いた事を感じます。
「ネヴュラ」でもテレビドラマの魅力について何度かお話していますが、番組制作の現場を見る度に昔のような名作が生まれる素地のない事を思い知らされます。
オリジナリティーの欠如でしょうか。一つの企画が当たると、全ての番組が同じテイストで番組を制作してしまう。
昔はバラエティー番組でさえ、番組ごとに特徴があったのに。

名作と呼ばれる一話完結のテレビドラマも絶えて久しい今。まあそんな事を愚痴っていても仕方ありませんが、そうした名作テレビドラマにあった物って、いったい何でしょうか?
私などは「魅力的なワンパターン」じゃないかと思うのです。
今でも語り継がれる名作テレビドラマというのは、放送時間帯や想定される視聴者層、時代の要求などに合わせた番組テーマ、世界観、ストーリー、カタルシスの置き所、名ゼリフなどが渾然一体の魅力となって、人々の心に訴えるものではと感じます。
皆さんも「マイ・フェイバリット・テレビドラマ」を思い出して下さい。「こんな番組で」「毎回こんなシーンが必ずあって」「このセリフ聞きたさにチャンネルを合わせ」なんて絶対ありますよね。特に「セリフ」などは真似をしやすい分、放送で毎回反復されると「これを聞かなきゃ番組を見た気がしない」なんて、非常に魅力的なファクターとなる訳です。
要は「水戸黄門の法則」といった所でしょうか(笑)。

一話完結ではありませんが世界観という点では、今も作り続けられている恋愛ドラマだって確固たるものがありますよね。あのユルい世界観の縛りがあるからこそドラマが成立する訳で。出演者、演出スタイルの統一感もそうですが「主人公が最終回で宇宙人と判明、巨大化して街を破壊」なんて「月9」、見たことありませんから(ちょっと見たいかな(笑)。

こんな風にテレビドラマには、制作陣が考えに考えた「スタイル」がある訳です。名作と呼ばれるドラマは、そのスタイルに視聴者が共感した事に市民権を得、語り継がれていく訳ですね。

名作テレビドラマと聞いて私などがまず挙げたいのが(散々お話してますからお分かりでしょうが)「必殺シリーズ」。私が「一生で一度でいいから作ってみたい番組」の最有力候補です。
意外でしょ。ウルトラシリーズではないんですよ(笑)。

名プロデューサー、山内久司さんが生み出したこの名作ドラマは、前述のテレビドラマのスタイルをほぼ完璧に満たしています。
ちょっと思い出してみてください。悪人登場、弱者の被害、巻き込まれる主人公、報復の手段となる「お金」、カタルシス溢れるクライマックス。箸休めに挟み込まれるコメディーシーンに至るまで、実に計算されつくした番組設計には唸らざるを得ません。
でもこのスタイル、考えてみればヒーロードラマの定番スタイルなんですよね。
そんなパターンの中にあって、「必殺」しか持ち得ない魅力とはいったい何でしょうか?

私見ですがそれは「お金で人を始末する」という部分と、「主人公が魅力的なアウトロー」という部分に感じます。
(中村主水はアウトローじゃないって?あんないびつな人間も居ないと思いますが(笑)。

こんな風にあっさり語ってしまうと「愛が無い」なんて言われそうですが、あまりに自分との距離が近すぎて語れない作品ってありますよね。「全てが魅力」と言ってもいいシリーズですから。
そのあたりはまあ、おいおい。

「ハードボイルド時代劇」として1970年代を駆け抜けた必殺シリーズは、1980年代「新仕事人」の頃から超人気時代劇としてブレイクします。若い視聴者層をターゲットにしたアイドル的な出演者、「仕事」シーンのショーアップ化が当たったんですね。(前期必殺ファンである私はこの流れには・・・)
この人気を見逃さなかった松竹映画は、当然のように映画化に踏み切ります。80年代に量産された「必殺」劇場版がそれ。95年の「主水死す」まで都合6作品が制作されましたね。(70年代の「仕掛人梅安」、90年代以降の「始末人」「三味線屋勇次」などは傍系作品として考えますが)
この劇場版必殺、ご覧なった方はどう思われましたか?

私などは、全ての必殺映画はもう「必殺」じゃないと思っちゃうんですよね。
「必殺シリーズ」っていうのは、悪人を人知れず闇に裁くアウトローの「悲哀」のドラマだと思っている訳です。
人を殺める罪の深さ。一度手を染めてしまったら二度と幸せを掴めない仕事師の業。正義感というより「悪人の倫理観」。理想と現実の板ばさみに苦しむ人間の葛藤が魅力なんですよ。口ではどんなに悪態をついていても、心の中では確固としたルールを持つ主人公が「外道」を見た時の怒りに共感する訳です。
テレビ版の基本フォーマットは、そのドラマを描くのに実に最適でした。実際あのパターンが無かったら「必殺」じゃないといってもいいんじゃないかと。
確かに異色作もありましたが、それは毎回のパターンがあったからこそ成立する訳で。その異色作であっても、やはり最後は悪人が始末される。仕事師の葛藤の末に。ここは変わらないんです。

色々な評論でも言われていますが、劇場版必殺シリーズは一作毎にテイストが全く異なっています。ですから元々、「どこが違って」などとは語れないんです。
Photo_319 例えば、私が前期必殺テレビ版のテイストに最も近いと思う「必殺!Ⅲ 裏か表か」(1986年松竹 工藤栄一監督)にしても、これはもう「お金で人を殺める仕事師のお話」ではないですよね。
「お金を巡る巨大な裏組織の抗争に巻き込まれた、表の顔の仕事師達の末路」じゃないですか?これ。

第一、基本的に「暗殺」が暗黙の了解だった必殺のフォーマットを破っちゃってるからカタルシスが生まれない。美学がないんですよ。「小さな武器で一人一殺」の基本も破られてるから刀を持った数人を相手にできる訳が無い。要は「爆弾に竹槍で向かう事に説得力が無い」んですね。あれでは仕事師達がただの無鉄砲に見えてしまう。
もともと「必殺」は、ああいう風に大スケールのお話にすると破錠をきたす作りなんですよ。
なんかもう全ての劇場版必殺は、必殺シリーズが本来持っていた構造的問題をクローズアップしているように見えてしまって。

「必殺4 恨みはらします」(1987年松竹 深作欣二監督)では、最後に拳銃まで登場します。仕事師はああいう武器を使えない立場の者だから面白かったのに。
「ミノフスキー粒子が無くなったガンタム世界」みたいで(笑)。

時代劇としては派手で面白いとは思いますが。
演出も力が入ってましたしね。
でもテレビ版の、文字通り「剃刀のような」演出の冴えは、まさにテレビ版だから成しえたものでは、と思っちゃうんですね。

テレビ番組の劇場版に潜む落とし穴は、この「必殺」が実に雄弁に語っています。
でも私はこの劇場版必殺、別に嫌いじゃないんですよ。
むしろ同情に値する作品に見えちゃって。

もともとお茶の間に「無料で」放送するテレビ作品と、劇場で「有料で」公開する「興行」としての映画は、同じ映像作品としてもまったく違う目的で創られています。
「映画は興行収入を上げなければならない」。
映画もテレビも、見る側にとっては大した違いは無いかもしれませんが、これは天と地ほど違う商業原理なのです。

テレビと同じ事をやっていては劇場版の意味が無い。劇場版を制作する意味は「テレビでできない事を映画で制作して、テレビ版ファンの興味を引き、観客を動員する」という事なのです。
企画の段階で既に違う作品。違和感を感じるのは当然の事で。
ただ難しいのは、「テレビだから成立するお話」である見極めが企画側に無いとひどい結果になってしまうという事。

「テレビ版の延長線上のお話」ならいいんですよ。出演者はテレビ版と同じなんだから、同じテイストを求めてしまうのは当然の事で。
でも期待していたテイストが味わえない。
あえて言ってしまえば劇場版必殺は「テレビでは出来ないお話」じゃなくて、「作っても必殺の魅力が出ないから、慎重に避けてきたお話」に見えてしまうんですね。
きっと脚本陣、監督陣も苦労されたと思います。「必殺のタブーに挑戦」と言えば聞こえはいいですが、それはファンにそっぽを向かれる両刃の刃ですから。
いくら「刃」好きの必殺ファンでも、いただけないものはいただけないと(笑)。

劇場版必殺について山内プロデューサーは「松竹から持ち込まれた企画で、チャンバラを見せる事が目的」と語っていますから、テレビ版とは一線を引いていたのでしょう。
そんな意味からも、私の中では「必殺作品の鬼っ子」として愛着のある作品群です。
でも作品の出来としては圧倒的にテレビ版の方が上。お金をかければいい作品ができる訳じゃないんですね。

放送と興行。テレビドラマがある限り、この二つの相反するメディアはこれからも作られ続けていくでしょう。
ただ、テレビ版に魅了されて劇場版を観た時、その魅力を再確認させてくれる作品はほとんどありません。
私的にはやはり「住み分け」が必要と思うのですが。


Photo_318 今日の最後はこのお話で。
「ゴジラ」が毎週一話完結のテレビシリーズだとしたら、どんなストーリーになると思います?劇場版と絶対違うテイストになると思いませんか?
「流星人間ゾーン」は別にして。
あれは準レギュラーでしたから。
ね。住み分けってやっぱり必要でしょ(笑)。

2006年10月28日 (土)

宇宙大怪獣パイラ

Photo_311 この写真をご覧下さい。
凄いですよねー。大きな目を持つ巨大な怪獣に襲われる人々の、阿鼻叫喚の図。

一大スペクタクルですよこれは。
過去にこんな大迫力の映画があったんですねー。いやーまだまだ勉強不足。
私も昔、一度だけ観た事があるような無いような。でもこのシーンは覚えてますよはっきりと。今日はこの作品のストーリーを、記憶をたよりにお話しましょう。
あくまで「記憶」ですからね。
少しぐらいの憶え違いはご勘弁を。

そう、この作品、確かタイトルは・・・
そうだ思い出した。「宇宙大怪獣パイラ」(1956年犬映)。
間違いありません。

地球から3.14光年離れた惑星、パイラ。地球よりはるかに進んだ科学力を持つこの星の住民『パイラ人』は決まった姿かたちを持たず、「禁断の惑星」(1956年アメリカ)に出てくるイドの怪物のような存在。(「WOO」でもいいかな?)で、3.14光年の距離にある地球に興味を持ったんでしたね。
「わりかし近いじゃん」なんて。

Photo_312 平和を愛し、他の星の生物に大変フレンドリーなパイラ人は、「ちょっと行ってみようか」なんて軽いノリで、地球に向かったのでした。
ところがこの星の生物は今だに姿かたちを持っていました。
「えーっ、まだこんなレベルなの?これじゃ意志通じないじゃん」

あわてて自分の本体を入れる「器」を探すパイラ人。ま、できれば地球の人たちに驚かれない姿を見つけたいよねえ、と原節子風に柔らかな態度で、日本のあちこちでサンプルデザインを探します。

でも訪れた場所が偏りすぎで。
朝日ソノラマのソノシートを制作中の水木しげる先生宅で「妖怪バックベアード」を。
OVA版「ジャイアントロボ」制作中の横山光輝宅で「大怪球フランケン・フォン・フォーグラー」を参考に「地球人が好きなデザイン」を作っちゃったパイラ人。
(おまけに今川泰宏監督の怪気炎にも当てられて(笑)。
とどめは「太陽の塔」を考えた「目をむく芸術家」に学んで、「一つ目の黒ヒトデ」を決定稿に。
気のいい宇宙人なんだけど、ちょっとオタク。

さてこの姿で街に現れたから人々はビックリ。一般宅に現れれば、奥から出てきた若い娘さんは火鉢をひっくり返して大騒ぎ。(笑ろてんのか永井ミエ子!)気を取り直してドンチャン騒ぎの温泉座敷に現れれば島田の芸者さんに悲鳴を上げられる始末。
(「ヒトデのリードで島田も揺れる」筈だったのに)

いまいち行動がスベりぎみのパイラ人は円盤に帰って作戦会議。
「地球に入れば地球に随えという諺もある。」
(そんな諺無いと思いますが)

秋葉原のジャンクショップの裏から拾ってきた中古のDVDを見ながら、「この地球人に変身だ」と、モー娘。の吉澤ひとみ風に変身するパイラさん。(もう「さん」と呼びたくなって)

なんとか日本の科学者宅に取り入って生活を始めるパイラさんですが、どうも地元の癖が抜け切らない。
ドアを開けずに部屋を出入りしたり、テニスの試合で凄い跳躍力を見せ、川崎敬三さんのプライドをズタズタに引き裂いたり。ここでももう一つ空気の読めない行動で追い出されちゃいます。

選んだ業種がまずいのかとハロプロに泣きついてみても、「ウチは今ス○バン刑事で東映さんと組んでるから、他の会社の方とはちょっと・・・」と断られる始末。
五社協定も無い今、なんて冷たい仕打ち。
「やっぱり同じ会社の作品を」と、円盤で再びプレビューに精を出す涙ぐましいパイラさん。
ここでパイラさんの感性を刺激した作品がかの名作「ガメラ 大怪獣空中決戦」でした。
「これこれ。かっこいいじゃんガメラ。ヒーローっぽいし」という訳で、早々ヒトデ姿のまま巨大化して再度街に繰り出したのです。

このへんでそろそろ気がつきゃいいのに(笑)。

冒頭の写真はその場面のものでしたねー。もう、巨大パイラ人を一目見た時の人々のパニックぶりは大変なもので。モブシーンのお手本のような名場面でした。
おまけに間の悪い事に盛大な天変地異まで起っちゃって。このあたりのシーンはまるで「台風の記録映像か」と思うほどリアルな映像のつるべ打ち。日本特撮の底力を見せ付けた一幕でしたねー(ちょっとイヤミかな?)

Photo_313 ほらこの写真でも、パイラ人の足元には洪水で水浸しの街が。これが合成写真じゃないんだからスゴイ!(記憶ですからね。記憶。)
一連の災害をパイラ人の攻撃と勘違いした人類は、秘密前線基地「宇宙軒」から、「番傘型パラボラ兵器」でパイラさんを牽制します。メーサー番傘光線砲がビル街をなぎ倒しながらパイラさんを追う場面はこの作品最大の見せ場でしたねー。
特撮を手がけたのは的場通るさん。彼は東宝とも親交があったんでしょうね。
あの光線砲どっかで・・・「サンダ対パイラ」だったかな?

さていよいよパイラさんを追い詰めた人類は、最終手段「Zプラン」を実行します。パイラ人をロケットの先端に隔離、宇宙に飛ばすというどこかで聞いた作戦です。
同じ会社ですから使用権の問題はクリアしたのでしょう(笑)。
ところがそこで恐るべき事態が。
宇宙の彼方から恐怖の新天体Rが突如飛来、地球に衝突するというのです。宇宙軒に集まる細かい情報は電波が途切れがちでいまいち意味不明。
ラジオの月賦を払っていなかったのです(笑)。

Zプランでロケットの先に閉じ込められたパイラさんは、自分をデザインした芸術家岡本太郎先生の言葉を思い出していました。
「爆発だ!」この言葉にリスペクトしたパイラさんは自力でロケットを発進、新天体R目掛けて特攻を敢行したのです!

地球への手土産として携えていた新元素、「ウリウム101」。これをRに投げつけた後、行方知れずとなったパイラさん・・・

地球ではそんなパイラさんの身を挺した行為に、賛美の声が上がっていました。
川原で空へ向かって「パイラー」と叫ぶ若者達。いい場面です。
ラストシーン、町の片隅で空を見上げる姉弟の会話が泣けましたね。
「お姉ちゃん、パイラさんはどこに行ったの?」
「パイラさんはね、お星様になったのよ」


星の図形がパイラ人の形になったのは、この作品後だと言われています・・・


こんなお話だったような記憶が・・・

Photo_314 ところで最近、部屋の隅からこんなレーザーディスクが出てきまして。
「宇宙人東京に現わる」(1956年大映 島耕二監督)。

一応目を通したんですが、どうも記憶と違うようなんですよ。第一、あの大迫力のスチール写真にあったシーンが無い。
このLDはきっとシリーズ第二弾か何かで、第一弾「宇宙大怪獣パイラ」は何らかの事情で歴史から抹消されたに違いありません。

Photo_315 私の妄想映画館、いかがでしたか?
ちなみにスチール写真は当時の物。当時はこういった、本編に無い合成写真を派手に発表し、観客動員に結び付けていました。拙文は「このスチールのイメージでストーリーを組み立てたら」という遊びです。
「宇宙大怪獣パイラ」なんて映画はありませんので(笑)。誤解のないよう。(わかってるよって?)
「宇宙人東京に現わる」(こっちはあります)を未見の方、今日の「ネヴュラ」を踏まえてこの作品を見ると、また違った感動が(笑)。
「いやオタクイーン、お前の記事のおかげでせっかくの名作が台無しだ!」
そうですよね。ごもっとも(泣)。
分かっていました。今日は最初から「大黒星」だって(大泣)。

2006年10月27日 (金)

時のゆりかご

朝7時。何気なく覗いた幼馴染のブログ。
彼は「ネヴュラ」でも何度かお話した、劇団で活動している社会人。3人のお子さんを持ついいお父さんです。
つい最近、家族と一緒に遊びに行ったレジャー先で、不慮の事故から片膝のお皿を割ってしまい、今療養しながら仕事を続けています。
彼が所属する社会人劇団は近々公演を控えており、当初彼にも役がついていました。
でも人生は予測できない。その不慮の事故のせいで今回彼は出演を断念せざるを得なくなってしまい、スタッフ側に回ったのです。

彼の落胆の気持ちはよく分かります。
膝の回復は順調なので舞台復帰は問題ないんですが、今回の役は彼の新境地を予感させるものだっただけに、私もすごく残念だったのですが。

今日見た彼のブログには、小道具係として公演に臨む彼の奮闘ぶりが書かれていました。
今回の演目は昭和36年が舞台。小道具として使いたい、その当時の生活用品が見つからないと言うのです。

なにしろ半世紀近く前の時代。電化製品など、今も現役で使っている方は少ないでしょう。そんな小道具集めの苦労が書かれていました。

職業柄、私もこういう苦労はしょっちゅうです。番組で使う小道具も、なかなか「コレ!」というものが見つからない。苦労した記憶を辿った私はある思い出にたどり着きました。
「そういえば、実家に古い扇風機があったんじゃ?」

数分後、私は車のハンドルを握っていました。(今日はお休みだったんですよ(笑)。

私は今一人暮らしですが、実家までは車で25分ほどの距離なんです。ある事情で(いずれお話する事もあるでしょうが)今、実家には誰も住んでいません。
鍵を開け、朝日が差し込む部屋に入ると、さっそく私は記憶の糸を辿りながら扇風機を探し始めました。
ところがこれが記憶違いなのか、どこにも無い。
押入れまで全部ひっくり返しても出てきません。

私達の年代にとって、エアコンが普及していなかった夏は扇風機だけが避暑の手段でした。それだけに扇風機への思い入れはひとしお。
特にその一台は私が生まれる前の年に買った、と親に聞かされていたので、特に敬意を払って使っていたのです。扇風機に人生の先輩を感じるのもおかしなお話ですが(笑)。

家での捜索を諦めた私は、近くにある物置に向かいました。さほど広くない物置には数年分の埃がたまり、ひどい状態でした。でも、こういう時ってなにかワクワクしますね。忘れていたものを探し出すような「宝探し感」が、私の中にもありました。

結局ここにも扇風機はなし。でもこの物置で久しぶりに再会した「お宝」がいくつかありました。
「ネヴュラ」向きの一品はこちら。まあご覧下さい。

Photo_305 Photo_306 この「アニメーションマシン」、子供の頃に学研の雑誌「学習」に付いていた付録です。
要は連続した、少しずつ違う絵を映画のフィルム状に印刷し、それを見る教材。「手動カセットムービー」ですね。「フィルム」も写真のもの以外にいっぱいあって、パラパラマンガのように動く絵を楽しめるという代物です。

Photo_307 小さな窓から覗いた光景がこれ。台座を回転させる事でこの絵が送られ、動いて見えるという(笑)。映像ソフトが画質の良さを競っている現在では考えられない、のどかなおもちゃですよね。

Photo_308 小学生の頃は、毎月学研の「科学と学習」(今は逆の言われ方をしますけど)を楽しみにしていた私。普通の学習雑誌にはあり得なかった、学研ならではの「ブラスチック製教材」が、子供心にとんでもなくハイブリットに見えたものです。
いろいろな付録がありましたよね。紙製のおもちゃでは味わえない、どこかプラモデルに通じる「ミニ実験室」は、私の心を捉えて離さないのでした。
何年間か購読していましたが、なぜか残しておいたのはこれだけ。どういう訳でしょうか。
こんな手動映画館を残す気になった当時の私は、既に後の人生を予見していたのかもしれませんね。

幼くして映画の魅力に取り付かれてしまった私は、今もその頃から全く変わっていないのでしょう。
(成長もしていないんですよ(泣)。

結局扇風機は見つかりませんでしたが、ひょっとしてこんな物が使えるんじゃないかと持ち出した品物があります。
Photo_309 ご覧の掛け時計は私が物心ついた時からずっと家にあった物。
ネジ巻き式で今でも動きます。
「当時の物だし、昭和36年の部屋には合うんじゃ」なんて思ったりして。

迷惑をかえりみず、朝っぱらから彼に電話をかけた私。顛末を話して、舞台の演出手法とのマッチングを確認してもらう事にしました。

久しぶりにネジを巻いてみると、今でも順調な動きを見せるこの時計。いやーやっぱり昔の物は作りがしっかりしてますよねー。これ、50年近く前の物なのに。
今記事を書いている私の傍らでも、時計は懐かしい振り子の音を響かせながら時を刻んでいます。

不思議なんですよね。この振り子の音を聞いていると、子供の頃を思い出すんですよ。
テレビを消して家族全員が寝静まった夜。その静寂の中で唯一聞こえたこの振り子の音が、「家のBGM」だったのでしょう。

無音の時計やビデオのディスプレイで時刻を知る今。「時計が奏でるBGM」なんて忘れていました。
昔に戻ったような、なぜか懐かしい振り子の響き。
期せずしてそれは、私を過去へいざなってくれる「時のゆりかご」だったのです。

幼馴染のブログから、彼と無邪気に遊んでいた昔を思い出すというのも何か不思議な偶然を感じますよね。
日差しの翳りがちょっと寂しさを感じさせる、秋の悪戯でしょうか。なんてね(笑)。

2006年10月26日 (木)

勝利の戦闘服

夕方5時。某テレビ局VTR室。
「今後ともよろしくお願いします。」挨拶の言葉とともに深々と頭を下げられた私は、心の中でほっと胸を撫で下ろしていました。

ここ数日、職場環境の激変で「ネヴュラ」も休みがち。皆さんにもご心配をおかけしました。
実は拠所ない事情で、私がお仕事を頂いている番組制作プロダクションが業界を撤退する運びとなってしまったのです。
浮草稼業のフリーの身には、この事態は食いぶちを絶たれたも同じ。私の担当番組は依然継続放送されるので、他のディレクターが私の後任となるのか、と気が気じゃない状況でした。

が、幸いにも業界にドップリ浸かった経験の長さだけが幸いし、私ごと番組制作を引き受けて下さるプロダクションが現れたのでした。
何のことは無い、撤退する会社の親会社なんですが。
考えてみれば親会社にとっても番組制作のストップは緊急事態で。番組について一番キャリアの長い私を外すわけにはいかない、という事情のようでした。

ともあれ一応、首の皮一枚で繋がったお仕事。
今日はめでたい。
「こちらこそよろしくお願いします。」私も担当者に深々と頭を下げたのでした。

「プレゼンが決まった時に飲むお茶は最高の味」なんて言いますよね。
仕事で成功した時や、不測の事態が収拾した時などに飲むお茶はどんな美酒にも勝る味がする事の例えなんですが、私のような者にとって、その例えは「いでたち」にも当てはまるのです。

私が女性のいでたちでお仕事をしている事は「ネヴュラ」でも度々お話しているので皆さんご存知と思います。社会生活を送っていれば、毎日が平穏無事で過ぎていくわけではないですよね。仕事上相手とやりあう事や自分の意見が通らない事、ここ数日の落ち着かない日々だって何も着ずに過ごす訳にはいきません。
そんな毎日の中で私の心に残るのは「服」。

「あの仕事がうまく行ったときはこのジャケット着てたっけ。」
「あの大失敗した時はこのスカートだったよね。」
皆さんにも心当たりがおありと思います。毎日のこまごまとした営みの中で、ふとした時に「服」に染みこむ思い出の一場面。

例えば私は、お気に入りの「黒ジャケット」を持っています。
体のラインを綺麗に見せることが出来るのも好きな理由ですが、このジャケットを着ている時に嫌な思いをした事がない、というのがお気に入りの最も大きな要因。言ってみれば「ラッキー・ジャケット」とでも言うべきアイテムなのです。

服に限らず、皆さんにもこういう縁起担ぎのアイテムが一つや二つはあるのでは?私の場合はそれがたまたまジャケットだった訳ですが。
仕事を含む生活の中で起こる様々な事柄をその日のいでたちと一緒に憶えていて、それがいつのまにかその服のイメージになってしまう事って、誰でもあると思います。
実際、どんなにデザインが良い服でも、それを着たときに何か思い出したくない出来事が起こると、その服にはなんとなく手を出しづらくなってしまうもので。

だから、今日のようにいい事があったりすると、逆にこの気分上々の内に、なにか記念の一着を手に入れたい、なんて気負ってしまったりするのです。このあたりがなんとなく、私の女性的な感性なのかな、なんて自惚れたりしています(笑)。
緊張の局面をなんとか乗り切った安堵感が、そういう物欲に走らせるのかもしれませんが。でもいいですよね。悪い気分の時に、ストレス発散の為に「やけ買い」をするより健康的な気がして。

でも今日は場所がよくなかった。お仕事を終えた局の近くには高級ブティックばっかり。今年流行の、リボン使いの可愛いアウターや、セクシーさをアピールできそうなインナーが並ぶウィンドーの前は素通りせざるをえません。
何故って?それらのアイテムは、私が番組で紹介したものばかりだからです。当然お値段も調査済み。予算とは一ケタ違います(泣)。

昔、ただ女性の服を着ていれば満足だったあの頃。
それは週末の気分転換と自分に納得させ、本来の自分を押し隠して一夜の夢に遊んでいました。

周りに集う仲間たちも、みんなそんな儚い夢をみる為にブラウスやスカートを身にまとい、自分で自分を笑う事で日常のガス抜きをしていたように思えます。
「変身する自分」がまとう衣装は「夢にいざなう魔法の一着」。たとえ地味なOLスーツでも、私にとっては甘美な時間を与えてくれる不思議な輝きを放っていたのです。
そりゃそうですよね。変身している間は嫌な事なんか起きっこないんですから。

でも、本来の自分を押し隠す事が出来なくなった時。それは甘い魔法から自分を解放することを意味します。ネイティブの女性にはお分かりにならないかもしれません。
私達のような者には、女性服が「夢にいざなうアイテム」から「戦闘服」に変わる瞬間があるのです。社会に一歩出たときから、服はリアルな社会生活の立会人になる。
「この姿でこんな思いをしたのは今まで初めて」という局面を何度も迎えました。その度にいい思い出、悪い思い出がいやおうなしに刻み込まれる服。


でも私は、こんな経験を嬉しく思います。
夢の世界から、一歩ずつ「リアルな女性」への道を向かっていると思うからです。
私にとって女性服とは、他の女性達と同じように「社会生活を生き抜く為の戦闘服」。
いい事ばかりじゃなくても、着続けなければならない物なのです。

だからよけい、いい事があった日に買いたい一着は「重み」が違う。ゆっくり吟味して選びたいと思います。この喜びが持続する内に。

Photo_304 ・・・なんて格好良い事を言っていながら、とりあえず向かうのは「オタクショップ」。
ここはもう欲しいものは決まっていますから迷う必要がなくて。
こんな物をまたまた買っちゃいました。相変わらすおバカですよねー。
でも、「戦闘服選び」はまだまだこれからゆっくりと。


ご存知ですよね。女性が洋服選びに費やす時間の長さ。
楽しいんですよこれが(笑)。

幻影島の甘美な悪夢

「お待たせいたしました。」
行き着けのコスメショップで頼んであったファンデーションを受け取ると、私はいつものようにミニバイクを発進させました。

考えてみれば、お化粧を始めた頃は今よりもうんと時間がかかって、その出来もこれでもかと言わんばかりに派手派手の色使いまくりで。思い出しても恥ずかしい仕上がりだったなーなんて。
そう、それは「マタンゴ」の水野久美さんのようでした・・・

Photo_299 「マタンゴ」(1963年東宝 本多猪四郎監督)。「ネヴュラ」でも何度か紹介していますね。「美女と液体人間」「電送人間」「ガス人間第一号」など、当時東宝が特撮映画の新たな可能性を追求した「変身人間シリーズ」の一篇とされています。

その作風とテーマが後年制作された「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年松竹 佐藤肇監督)に通じる事から「人間ども映画シリーズ」なんて呼ばれもしましたね。(私の周りだけかな?)
そんな呼ばれ方をするくらい、この作品は極限状態の人間のエゴ、本音、暗黒面が炸裂する陰湿なアンチ・ヒューマニズム映画として、今なお異彩を放っています。

Photo_300 実は私の中では、この「マタンゴ」を「変身人間シリーズ」の一篇として扱う事にちょっと抵抗がありまして。というのは、他の「液体人間」「電送人間」「ガス人間」と比べ、人間が変身する意味合いがちょっと違うからなんですね。これは先ほどお話した「ゴケミドロ」とも違う。
描かれる人間模様のテイストが似ているだけで。
「マタンゴ」はもっと、人間の倫理観に訴えかけてくる映画なんですよね。

1963年当時の、流行の最先端を行く7人の若者達を乗せたヨット。若手実業家や新進小説家、女性流行歌手に心理学教授。女子大生まで含めた彼らは不意の嵐に会い、ある島へ漂着します。そこは赤道近くの霧に覆われた無人島で、潮流の関係か船の残骸が流れ着く「呪われた島」。
本能的に鳥さえ寄り付きません。

破壊されたヨットを修復する間、当座の生活場所を探す彼らの前に、海岸に打ち上げられた難破船が現れます。
意識的に船籍、国籍を隠したこの船、乗組員は全員行方不明。
しかし船内には死体が無い。
奇妙な事に船内の鏡はすべて取り外されていました。

カビだらけの船内を散策する彼らは、船長の航海日誌とある大きな「キノコ」を発見します。キノコの名は「マタンゴ」。この島に生息する特殊な種類で、船内での実験記録には「麻薬みたいに神経がいかれてしまう」との一文が。
難破船を宿舎として整備した7人は救助を求めて島中を奔走する事に。次第に明らかになる島の恐るべき秘密とは・・・

全篇ほとんどこんなトーンで進む「マタンゴ」。未見の方はここまで読んで「怪獣マタンゴはいつ出てくるの?マタンゴと7人の壮絶な戦いは?武器を持たない7人の、機知に富んだ活躍が観られるんだよね」と、期待に胸を膨らませるのでは?

でも「マタンゴ」には、そんな爽快感は微塵もありません(笑)。

私より年長の方に「特撮映画で怖かった作品は?」なんて聞くと、大抵は「最初のゴジラと「マタンゴ」は怖かったなー」なんて答えが返ってきます。「ゴジラ」はまだしも、その知名度では格段に差がある「マタンゴ」が、何故今でも人々の心をそれ程捉えるのか。
これは、やはりそのストーリーに理由があるのでしょう。

Photo_301 他の「変身人間」と違い「マタンゴ」に登場する怪人は、別に人間世界に挑戦もしなければ、人間を襲って血を吸ったり犯罪を起こす訳でもありません。(誘拐めいた行動はありましたが、あれはご覧になった方ならお分かりの理由ですよね)なにしろドラマはオープニングとエンディング、回想シーンを除いてほとんどが島の中だけで展開するんですから。
怪人や怪獣がほとんど登場しないのに「怖い」。何故でしょう?
「マタンゴ」が描くのは「人間の怖さ」なんですよ。

霧と雨に閉ざされ脱出不可能な無人島。救援も期待できない状況。食料は次第に底をつき、体力と希望は次第に奪われていきます。
こんな状況下で人間はどんな行動を取るのでしょうか。
劇中で心理学教授がこんなセリフを語っています。
「人間は環境によって極端に利己主義になる。動物的になる。」
セリフはこの後、「そういう時こそ理性的な行動を・・・」と、ややお説教めいて続くのですが、「マタンゴ」のテーマは、このセリフに集約されていると言えましょう。

当初社会人、文化人の鎧を着込んでいた7人も、次第に内に秘めたエゴをむき出しにしていきます。具体的にお話しするのは避けますが、その陰惨さはちょっと見ていて辛いほど。それでも本多猪四郎監督の節度ある演出と1963年という時代性から、唖然とするような表現は避けられていると思いますが。
しかし、時代を越えて迫る人間の本質は、ピンポイントで心の襞にするどく食い込んでくるのです。

全篇中、そのほとんどを人間描写に費やす「マタンゴ」。本多監督はこの作品について「麻薬に手を出しちゃいけないというテーマを込めて描いた」という趣旨で語っていたそうです。
なるほど。この作品に於ける無人島は「現実」。マタンゴは「麻薬」。それによって体験する世界は・・・というメッセージを込めたんですね。そう考えると、やはり人間、現実逃避は身を滅ぼすんだなー、なんて考えちゃいますが。

ただ、私はこの作品について別な見方をしているんです。いくつかの研究書にも書かれている事なので私だけの意見でもないんですが。

ご覧になった方はお分かりでしょうが、「マタンゴ」は主人公、久保明の回想で物語が進みますよね。つまりあの島で起こったことは、すべて主人公達が見た幻影じゃないかと。
「マタンゴ」なんてキノコ、最初からなかったんじゃないか。
なんてね。

たしかに船が嵐になって、無人島に漂流した所までは事実だったかもしれません。食料が底をついた事も事実でしょう。
Photo_302 ひょっとして7人はその極限状態から、一種の集団幻覚を見たのではないかと。「マタンゴ」というキノコの存在も、あの雨の夜の怪人の出現も、彼らが頭の中で作り出した幻影だと。
(あのシーン、ドアの向こうで怪人が佇む所で終わってますが、あの後怪人撃退の顛末が描かれないのは不自然では?)

物語後半、あの映像、音声の効果は、見ている私達にも一種のトリップ感覚を起こさせます。おそらく本多監督の狙いだったのでしょうが、あれはメンバーが感じる精神崩壊の症状を観客にも体験させたかったのでは、なんて思ってしまうんですね。

Photo_303 人間は精神が崩壊すると現実が別の見え方をするそうで。ひょっとすると、土屋嘉男が見た水野久美の姿も幻影では。
(だって、あの状況であの美しさって・・・)

久保明が島で最後に見たあの光景はおそらく精神崩壊の一歩手前。ラストシーンの彼の姿も、「マタンゴの為」というよりは、島の風土病と考えた方がリアリティーがあると思いませんか?
難破船の鏡がすべて無くなっていたのは、乗組員が精神崩壊により、鏡の中に変わり果てた自分の幻影を見てしまったからなのかもしれません。本当は何も変わっていないのに、そこに見えてしまう恐ろしい姿。

こうも考えられます。あの状況で、極限状態でさらけ出された自分の本当の姿を見てしまったのでは、という事。神経が研ぎ澄まされると見えないものも見える、なんて言われますし。
(私は生まれてこのかた見えた事ありませんが(爆笑)

おそらく本多監督が意図的に残したであろう万華鏡のようなこのストーリーこそが、「マタンゴ」の底知れぬ魅力なのかもしれませんね。
まだ未見の方、この重苦しい作品を鑑賞する時はちょっと体力が必要です。空腹時にはおすすめしません。
(よくある、「キノコを食べてから」的なオチは避けますが(笑)

もう夜が明けます。顔を洗おうと洗面所に向かった私。鏡の中には相変わらずの現実が。
「あーあ、ここにスゴイ美人が映ってればなー」
極限状態にはほど遠い私。
でもここまで現実じゃなくても(爆笑)。

2006年10月24日 (火)

愛しのドミノ倒し

「これは・・・違う!」
1996年夏。ブライアン・デ・パルマ監督がトム・クルーズに「作らされた」作品「ミッション・インポッシブル」を観た私は、唸るような悔恨のセリフと共に、劇場を後にしました。

「ミッション・インポッシブル」。トム・クルーズ主演のこの映画は、96年を皮切りに今年夏の「M:I:Ⅲ」まで、都合三作品が制作された人気作品。以前にも何度か「ネヴュラ」で採り上げたことがあります。私の中では「恨み重なる作品」なのですが(笑)。
別にトム・クルーズに個人的な恨みがある訳ではないんですが、あのシリーズを見て「これが『スパイ大作戦』のテイストなのね」と思われてしまう事に、たまらない辛さを覚えるのです。

Photo_293 皆さんもご存知の通り、この「ミッション・インポッシブル」という映画は、1966年から放送されたアメリカの同名テレビ番組の劇場版リメイク。邦題「スパイ大作戦」と名付けられたこの一時間番組は圧倒的な人気を博し、1973年までに全171話が制作されました。
日本でも大ヒットしましたよね。大平透さんの「このテープは自動的に消滅する・・・成功を祈る」というセリフも流行りました。後年新シリーズも制作され、その人気の高さを証明しています。

「スパイ大作戦」は、今でもCSなどで何度もリピート放送されているので、未見の方は少ないと思います。
スタートレックシリーズと並び、海外ドラマの名作として今も語り継がれるこの作品の魅力はいったいどこにあるのでしょうか?

後年、「スパイ大作戦」のフォーマットを使った作品をいくつか見た事がありますが、どこか物足りなさを感じてしまう私。
無い知恵を絞って考えてみると、この作品だけが持つムードは、どうも「緻密さ」と「緊密さ」に支えられているような気がするのです。

Photo_294 「緻密さ」というのは、この作品のストーリーラインの事。以前にもお話しましたが、「スバイ大作戦」というのは「非合法組織」が「絶対不可能」な任務に挑むという設定。これは言ってみれば「犯罪ドラマ」のストーリーテリングなんですよね。
視聴者が任務を遂行するメンバーの一人になってハラハラ、ドキドキする構造は他のドラマと同じですが、「スパイ大作戦」だけに存在する魅力的なファクターがあります。
「任務は極秘裏に。見つかってはならない」。
これがあるだけで、一つ一つの行動がおそろしく緊張感あふれるものとなるのです。

この「極秘裏に」という部分を守る為に、任務は実に緻密な展開を見せます。ほとんどのエピソードでは開幕直後「当局」からの指示の段階で、任務の内容や時期が設定される為、隊長スティーブン・ヒル(後にピーター・グレイブス)の作戦はその時期に集中する事に。数ある登録メンバーの中から、今回の任務に適した人選を行う所でもう、作戦の概要が掴めてしまう。
これは非常に分かりやすいドラマ設計です。
ここを明確にしておく事で、番組すべてが作戦の為に費やされる。「全篇見所状態」となる訳です。
しかも「あくまで極秘裏に」。

Photo_295 作戦は、周りの人間に絶対不自然さを与えず進められます。一エピソードに何箇所も唸る演出はありますが、
たとえば扉の位置から部屋の特定の場所までの距離を測るのに、女性メンバー、バーバラ・ベインが「一歩の歩幅が決まったタイトスカート」を穿き、敵役を魅了しながら歩くなど、「行われている事と真実のギャップ」を感じさせる演出に、私などは唸らされてしまうのです。
(バーバラのセクシーな歩きぶりを真似してりしてね(笑)。

こうしたアイデア満載の演出がてんこ盛りの「スパイ大作戦」なんですが、このストーリーが与える興奮は「ドミノ倒し」のそれに似ているんじゃないか、と思ったのは最近の事です。

「スパイ大作戦」のシナリオはよく「精密機械の様」と表現されます。たしかにその通り。作戦中、メンバーのどの行動が失敗しても、以降の計画は水泡に帰してしまう。これはそのまま、ドミノ倒しにも当てはまるのです。
一個ずつのドミノの距離。曲がり角の角度。ドミノによる仕掛けにかかる時間や力の配分などなど。テレビの特番などでご覧になった事もおありでしょうが、あの緊張感は「スパイ大作戦」の空気と極めて近い。そんな気がしませんか?

水も漏らさぬほど練り上げられた作戦が、ほんのちょっとした要因で頓挫してしまう。あのドミノ倒し本番の様子に興奮した方ならお分かり頂けると思います。
「スパイ大作戦」は、その練り上げられた計画が気持ちよく進んでいく爽快感と、不測の事態に対するメンバーの機知に富んだ対応の二本立てがあの「緻密さ」に繋がっているのです。

こんなお話がありました。
第1シーズン第17話「シンジケートをばらせ」。

政治家を極秘裏に殺害するなど、手荒な方法を使い裏社会でのし上がったシンジケートの壊滅を依頼されたチーム。しかしシンジケート内部でも、そのボスのあまりに過激なふるまいに疑問の声が上がっていました。ボスが他の幹部を押さえ込む方法は、多額のボーナスを渡し文句を言わせない事。チームはシンジケート幹部三人がボスの家に集まるこのボーナス支給の日を作戦のXデーに選びます。
メンバーはボーナス支給の前に会食が行われる事を利用し、料理店の出張サービスメンバーとしてボス宅に潜入。

Photo_296 ここで出色なのが、給仕に扮するマーティン・ランドーの演技。
役柄では健常者の彼は今回、作戦上「耳の不自由な給仕」の役を演じるのです。それは何故か。
ボスをはじめ幹部達は、会食の席で当然「聞かれたくない会話」をします。メンバーはこの給仕の事情を話し、ボスを安心させるのです。ところがその事を疑問に思った幹部は試しに、マーティン・ランドーの真後ろで拳銃を発射するのです。

ここでマーティンの主観になり、耳鳴りが大きく響いてくる演出!マーティンがもしここで驚きでもしたら、作戦は全て失敗となってしまう。
この時の、銃の発射の風圧を感じ振り向いたという演技を見せる、マーティンの表情!

さらにドミノ倒しは続きます。「ある理由」で、ボス宅の地下室に爆薬を仕掛け、壁に穴を開ける作戦のメンバー。地下室で爆弾を使えば、その音と振動でボス達は作戦に気づいてしまいます。
そこをどうするか。

Photo_297 コックに扮した隊長スティーブン・ヒルはボス達の目の前で、「子羊の蒸し焼き」というパフォーマンス料理を見せます。この料理は肉にワインをかけ、火をつけるという派手な演出が見所。このワゴンの下に、ラジコンの遠隔スイッチが取り付けられているのです。
料理に点火する瞬間にそのスイッチを入れると・・・後はお分かりですよね。点火と爆破を同時に行い、爆破の振動を点火の為と思わせる作戦。
料理に火をつけた瞬間の、スティーブンの「してやったり」顔に、私などは「これぞスパイ大作戦の真骨頂」なんて嬉しさを感じるのです。
こういう、緻密な作戦と不測の事態がジェットコースターのように襲ってくるのが「スパイ大作戦」最大の魅力。私が「ドミノ倒し作品」と言いたいのはそんな部分です。

「緊密さ」というのは、正味50分前後の一話の中に、こんな手に汗握る場面がとにかく多い事を言いたいのです。
ドミノ倒しで言えば「仕掛けの数が多い」という事でしょうか。
全篇中まったく気が休まりません。
初見のときなど、見終わった後両手にビッショリ汗をかいていた事もありました。夜中に見て、興奮のあまり眠れなかった事も(笑)。

こういう作品を連打された後に、「ミッション・インポッシブル」を観てしまうと、これがドミノ倒しじゃない事に気がついてしまいます。
結局映画版の初作は、「リーダーによって途中のドミノが外されてしまっていた」って事ですよね。これでは「スパイ大作戦」の緊張感は生まれようがありません。別の作品と見られても仕方ない事です。
直感にはやっぱり理由があるんですね。

今日この記事を書こうと思い立った時、邦画ブログランキングに登録している私はなんとか結論を「邦画にも・・・」という形に持っていこうとしました。
ところが悲しいことに、「スパイ大作戦」のクオリティーに迫る邦画や和製ドラマはどうしても浮かばず。無知なせいでしょうね。
ただ、今だにこの作品がリピートされているのは、これを超える作品が生み出せないドラマ制作の現状を表していて、ちょっと残念な気も。

Photo_298 わが愛しのドミノ倒し。洋画でわずかに思い浮かぶのは「ダイ・ハード」シリーズぐらいのものでしょうか。
ただこのシリーズの主人公は、寸分の狂いも無くドミノを倒す敵役の、「次に倒れるドミノ」をいち早く予測して、それを防ぐ側に回る刑事でした。
この視点はそれで充分面白い。色々な見方もありますが、やはりこのシリーズでも「ドミノを倒す」のは犯罪者。犯罪ドラマ系の「スパイ大作戦」のフレーバーが漂うのは、そういう部分にもあるのかもしれませんね。

以前私が、取引のあるテレビ局の創立25周年記念番組として考えた企画。
「この局がテロリストに乗っ取られる。局員は局内のシステムを巧みに活用してテロリストに対抗する」。

プロデューサーに提出した途端「いくらかかると思ってんだ!」と雷が。
私は心の中で言いました。「当局は一切関知しない」(笑)。

2006年10月23日 (月)

仮面ライダーカイジ

2003年1月。毎年お正月になると私の部屋に集まるオタク仲間は、前年末に公開された「ゴジラ×メカゴジラ」の話題で盛り上がっていました。
今回のゴジラ、メカゴジラの造形、ストーリー、過去のメカゴジラ作品との比較解析・・・
白熱する議論の末に意見を求められた私は、一言こう答えました。

「機龍」より「龍騎」。

そう、私は当時、公開初日に観た新作のゴジラ映画のことなどほとんど眼中に無く、毎週日曜日に繰り広げられる「バトルジャンキーの狂宴」に魅了されていたのでした。

Photo_287 「仮面ライダー龍騎」。「クウガ」に始まり、現在の「カブト」まで連綿と制作され続ける通称「平成ライダーシリーズ」の中で、今なお異彩を放つ作品です。
平成ライダーシリーズは一作毎にまったく違う世界観を持ち、それぞれ強烈な個性と過激な主張で、私達視聴者に挑戦し続けてきました。かく言う私も「クウガ」以来、いくつかの作品を見ています。
(ゴメンナサイ。あまりに出演者の演技力に問題のあった「ブレイド」、第一話のミュージカル風演出に拒否反応を示してしまった「響鬼」は見ていません。)
「ライダー」のセオリーどころか、一般ドラマの枠さえはみ出さんとする制作陣の暴走ぶりは、「日曜朝8時の衝撃」として、私の中に今も息づいているのです。

Photo_288 「龍騎」は、平成ライダー第三弾として、2002年2月から翌年1月まで放送されました。
「13人のライダー登場」「毎回がライダーバトル」「イケメン俳優多数出演」など、巷の話題にもなりましたね。
「ネヴュラ」読者の皆さんなら、「龍騎」をご覧になられた方も多いと思います。皆さんはあの作品をご覧になってどう思われました?

あれ、本当に子供番組だったんでしょうか?
平成ライダーは昭和のライダーと違い連続ドラマのスタイルを採っています。その為、予備知識なしで途中の話を見てしまうとよく分からず、「なんだかよくわからないけどライダーと怪人が戦ってるなー」っていう印象を持ってしまいますよね。それが物語の本質と番組のメッセージを受け取りにくくしてしまう原因でもあります。
その為登場人物が多く、内容もおそろしく入り組んだ「龍騎」の全貌を、いま一つ摑みにくくしているような気もするのです。

Photo_291 未見の方の為に、簡単に設定を説明しますと・・・
人間の世界と並行するように存在する世界「ミラーワールド」。この世界の存在を突きとめたある科学者がいました。彼はミラーワールドに出入りするシステムを開発し、「ある理由」の為に、ミラーワールドで人々を戦わせようと目論むのです。
「戦って生き残った人間には、思うとおりの望みを叶えてやる」という、甘い誘いをかけて。
そして、そのシステムを使ってミラーワールドに出入りし、果てしない戦いを繰り広げる者達。彼らの総称が「仮面ライダー」。

そうです。これは、「正義」や「人間の自由」を守る為に「悪」と戦った、あの「仮面ライダー」のタイトルだけを借りた、まったく別のお話なのです。

なにしろこのお話、劇中ではっきりと「この戦いに正義は無い」と明言してしまう程の恐ろしさ。じゃあヒーローが悪を倒す爽快感や、勧善懲悪のメッセージは?と聞かれても、そんなものどこにもありゃしません(笑)。
ライダー達は、純粋に自分の望みを叶える為だけに戦います。「永遠の命を得る為」「恋人の命を救う為」「巨万の富を得る為」・・・中には「ライダーの戦いそのものが望み」などというキレちゃった者も。こんな人間達がただ、己の欲望の為だけに相手を倒そうとするのです。

Photo_289 仮面ライダーであり続ける過酷さが描かれたのも、この番組の大きな特徴でしたね。
ライダー達は自分の能力を強化する為に、ミラーワールドに生息する「モンスター」と呼ばれる存在と契約します。数々の超能力を持つ「モンスター」は、契約したライダーと共闘して敵ライダーを倒すわけですが、ライダーは契約したモンスターに常に餌を与え続けなければならない。その餌とは、ミラーワールドに生息する他のモンスター達なのです。
ライダー達は敵ライダーとの戦いに加え、ミラーワールドのモンスターと戦って契約モンスターに餌を与えなければ、あろうことか「契約モンスターに食い殺される」のです(驚)。
ライダー達は自分が生きながらえる為敵ライダーと戦い、さらに契約モンスターを「飼いならす」必要がある。
このハードな設定。

こんな過酷な設定のライダーがかつてあったでしょうか?
常に戦い続けなければ、命を落とすなんて!

Photo_290 凶悪犯までライダーに数えられるメンバー達。視聴者は彼らの誰にも感情移入できません。しかしここに、「ライダー同士の戦いを止める事が望み」というライダーが現れます。
これが主人公、「龍騎」です。
視聴者はここでホッと胸をなで下ろします。
「あー、「龍騎」って、この主人公が戦いをやめさせる物語なんだ」と。ところが。
なんとこの「龍騎」、最終回を前にして命を絶たれるのです。しかも「あんな」最期なんて。
「仮面ライダー龍騎」は、平和を望む心が報われない物語だったのです!
こんな番組、子供に見せていいの?

このハードな世界観、どこかで見たことが。
そうです。「龍騎」を見た時の言いようの無い「追い詰められ感」は、どこか他でも体験した事があるのです。

Photo_292 「賭博黙示録カイジ」(福本伸行)。
有名な作品ですね。これはテレビ番組ではなく、講談社「ヤングマガジン」に1996年から連載された、ギャンブル漫画の傑作です。作品中に張り詰める緊張感とある種地獄の淵を覗き見るような恐怖感は、他のギャンブル漫画とは一線を画す作品として評価も高いですね。

この作品と「龍騎」。ご存知の方はすぐピンと来ると思います。そう、私が指すのは「カイジ」第一部「希望の船」篇の事なのです。

日々を漫然と生きる若者、伊藤カイジ。保証人詐欺に合い返済の当てに困った彼は、金融業者の誘いに乗り、ある船で開催されるギャンブルに参加する事になります。
深夜密かに日本を離れた豪華客船「エスポワール」。「希望」という意味を持つこの船の中で始まったのは、人知も及ばない恐怖のギャンブル「限定ジャンケン」。

もし「カイジ」を未見で、「ジャンケン」と聞いて吹き出した貴方。きっとビックリしますよ。
この「希望の船」篇は、ヤンマガKC「カイジ」第一巻から第五巻。私は一度読んで、頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けました。(女の子が言うセリフじゃないですね(笑)。
ジャンケンにたった一つのルールが加わっただけで、あんなにスリリングなギャンブルになるとは。
知略、出し抜き、読み合い、裏切り、信頼などなど・・・。およそ考えられる、ありとあらゆる人間関係の要素がこのギャンブルに込められているのです。
「ジャンケン」が、人の生き死にを左右するなんて。未見の方、信じられます?

「仮面ライダー龍騎」の空気は、この「賭博黙示録カイジ・希望の船篇」に実によく似ています。限られた時間・空間の中で、相手を倒さなければ自分が生き残れないという状況。そこで繰り広げられる極限の人間模様。「そこに正義はない」という所までそっくりです。
「カードバトルを仮面ライダーの世界に持ち込んでみたら」と考えた「龍騎」制作スタッフは、期せずしてギャンブル漫画の最高峰「カイジ」に迫るテイストを作り上げてしまったのです。

ただし、この二つの作品、迎える結末はまったく違います。
その違いを生み出したもの。それは、一言で言えば「伊藤カイジは龍騎のように戦いを止めようとはせず、戦いの真相に迫ろうとした」という事では?
この二つは似ているようで別の物。
真相を知った時、カイジは勝利者を目指したのですから。

「仮面ライダー龍騎」と「賭博黙示録カイジ」。
キャラクターデザインや癖のある作画に好き嫌いが分かれる事は充分承知の上です。私も最初はかなり抵抗がありました。でも、一度ハマってしまうとそれは甘い毒の味。

今となっては「昔の作品」とも呼べるこの二作品が私の中に今も息づいている事が、毒の強さを物語っています。
あの興奮を味わいたくて、日曜日は早起きでブラウン管に向かう私。でもその中に立っているのは・・・

これ以上は書くのはやめましょう。結論はおそらく来年1月頃。
興奮の中「カブト」が凄い!と書きたいものですが(笑)。

2006年10月21日 (土)

謎の名獣ジャイガンティス

大変お待たせ致しました。
ここ数日、まともな記事をアップしていないにも関わらず、
連日100件にも迫るアクセス数でもう、心苦しい限り。
覗いてくださった方、コメント下さった方、本当にご心配おかけしました。

「恋するネヴュラ」無事、連載再開です。
(毎日とはいきませんが、まあ、ゆるゆると)

さて、再開第一弾に何を持ってこようかと、色々無い頭を絞って考えた私。やっぱり初心に戻ってあの「怪獣王」を採り上げようか、なんて思います。
でも、へそまがりの「ネヴュラ」、ちょっとヒネリを加えます(笑)。

Photo_285 この写真をごらん下さい。
普通の方なら「ゴジラ」でしょ?と答えるであろうこのフォルム。
でも怪獣映画ファン、ましてやゴジラファンなら、当然ながら違う答えが返ってくるはず。
そう。この怪獣、「ジャイガンティス」という名前なんです。

Sany0049 和製怪獣の代表、ゴジラ。1954年の第一作から2004年の最終作まで、新作が公開される度に日本中の特撮ファンの話題を独占し続けた、名実共に「怪獣王」です。写真はその初代ゴジラ。
ゴジラの縫いぐるみがほぼ一作ごとに新調されている事は、ファンならずともなんとなくお分かりと思います。顔も違いますし。
でもゴジラが、50年ほど前に「ゴジラと違う怪獣」として海外でリリースされ、海外ロケまで予定されていた事は、一部の怪獣ファンを除いて意外に知られていない事実です。

これはどういう事なのか。(特命リサーチなんとかみたいになってきましたね(笑)もともと1954年公開の「ゴジラ」(本多猪四郎監督)は、ストーリーのラストで芹沢博士の発明「オキシジェン・デストロイヤー」で骨になっちゃいましたよね。海外で公開された「怪獣王ゴジラ」も、基本的にはお話の流れは同じ。
つまり海外公開版でもゴジラは退治されちゃってる訳です。

ところが、この映画のヒットに気を良くした東宝が、第二作「ゴジラの逆襲」(1955年 小田基義監督)を制作しようと目論んだ時、一つの大きな壁が。
「そーだ!ゴジラは前作のラストで死んじゃってるじゃん!」(実際はこんなに軽くなかったでしょうが)というわけで、急遽「ゴジラは生きていた!」なんて謳い文句を作り、なんとなく前作との関連をうやむやにしてしまった、というのが真相らしいのです。(まあ、ありがちなお話ですね)

さて、この玉虫色の設定を海外セールスに持ち込もうとした時、やはりバイヤーの間から「前作で死んだゴジラと同じ生物がまた居たなんて都合が良すぎる」みたいなお話が出たんでしょうか。やはりアメリカ人は合理的。
そこでアメリカ側では、「ゴジラの逆襲」に出てきたのは『ゴジラに似た違う怪獣、《ジャイガンティス》なのよ』って設定を作り、その線でプロモーションをかけたといういきさつがあるのです。
タイトルも「ゴジラ」という名前ではなく、「ジャイガンティス,ザ ファイアー モンスター」と改題。1957年頃のお話です。

「でもオタクイーン、そのお話が冒頭の写真とどう繋がるの?数日のブランクでボケちゃったんじゃないの?」と思われるのもごもっとも。元々ボケでるのはしょうがないですが(笑)。
実はですね。この「ジャイガンティス,ザ ファイアー モンスター」。日本公開版とストーリーを変えて、その変更分を海外で撮影する予定があったんですよ。冒頭の写真はその撮影の為に、東宝が作った縫いぐるみという訳です。

確かに第一作「ゴジラ」も、海外公開の際は追加撮影やストーリーの変更はありました。でもそれは本篇部分で、特撮部分は日本公開版と同じだったんです。ところが「ゴジ逆」は違いました。追加撮影は特撮部分まで及んでいたのです。契約では日本で縫いぐるみだけ作り、撮影は海外のスタジオで行う事に。しかしながら、予算等の問題で結局海外での追加撮影は無くなり、作った縫いぐるみだけが宙に浮いた格好になったと。これが真相です。
公開された海外版「ゴジラの逆襲」には、この縫いぐるみを使ったシーンは全く登場していません。

「ジャイガンティス」の縫いぐるみはこの後処分され、残っているのはこれを含めた2枚の写真のみ。なんてもったいない!
特撮ファンには有名な逸話ですね。私も文献で知りました。

Sany0054 でも「ジャイガンティス」って、「ゴジラの逆襲」に登場したゴジラとは似ても似つかない姿ですよね(笑)。写真の「逆襲ゴジラ」と見比べて下さい。
あれを使って撮影したら新撮部分との差がありすぎて、「さらに新怪獣出現!」なんて事になりはしないかと。
ウルトラマンと、ザラブ星人のにせウルトラマン以上の差があるような気も(笑)。

Sany0061 確かに、いろんなマニア誌にも書かれている通り、このフォルムは「初代ゴジラの顔」「逆襲ゴジラの背びれ」に加え、「キングコング対ゴジラ」(1962年 本多猪四郎監督)の「キンゴジ」のマッシブな体型を持っていますよね。写真は「キンゴジ」。ね?同じ体格でしょ?
「キングコング対ゴジラ」が公開されるのは、この縫いぐるみが制作されてからさらに5年ほど後。ファンの間で、「あの痩せた逆襲ゴジラとボリュームたっぷりのキンゴジが同一人物とは思えない!」なんて盛り上がっていた頃にこの写真が出たものですから、もうそのパニックたるや大変なものでした。
私もアイドルの流失写真以上にこのスクープを食い入るように見つめたものです。「逆襲ゴジラとキンゴジを繋ぐ線はここに!」なんてね(笑)。

で、ここからはいつもの私見なんですが、この「ジャイガンティス」制作頓挫は、単に縫いぐるみの損失以上にゴジラ映画の歴史上大きな意味を持つのじゃないかと。

この縫いぐるみを使って、もし「ジャイガンティス」が撮影されていたら、日本にも大きな影響を与えた筈なんですよ。
例えば、あのマッシブなジャイガンティスのアクションにより怪獣同士のスポーツ的な対決は「キングコング対ゴジラ」より5年も前に観られる事に。この怪獣対決路線に可能性を見出した東宝はキングコングとの対戦を急がせたでしょうね。
となれば「キンゴジ」公開はもっと早まったかもしれません。ひょっとすると「ジャイガンティス」の縫いぐるみを逆輸入して、あのフォルムのまま登場させたかも。
さあそうなると、あの造形美を誇る「キンゴジ」の縫いぐるみは実現しなかったかもしれないのです。
当然、その後のゴジラ映画もまったく変わった流れとなり・・・

「キンゴジ」と並んで名獣とされる、「モスラ対ゴジラ」(1964年 本多猪四郎監督)に登場した「モスゴジ」だって、全く変わっていたかもしれないのです。

直接公開された海外(アメリカ中心でしょう)でも歴史は大きく湾曲。「ジャイガンティス」の名が広く一般に入れ渡り、以降の和製ゴジラ作品はすべて「ジャイガンティス」名義に。
当然「GODZILLA」(1998年 ローランド・エメリッヒ監督)も、「ああいう事」にはならなかったんじゃないかと(笑)。

こうやって考えると、長く人気を誇ったシリーズの中では、縫いぐるみ一つがいかに歴史を左右するかがよく分かりますねー。
(まあ、もしもの世界ですから「ダメだコリャ」って笑ってもらっていいんですが(笑)

Photo_286 いずれにしても、50年に及ぶゴジラの歴史の中で、縫いぐるみまで作られてお蔵入りになったものは後にも先にもジャイガンティスだけ。いろんな風説、珍説が乱れ飛ぶのも当然のお話で。
こんな風に歴史を見据えながら、「もう一つのゴジラの可能性」を夢想するのも、ファンに与えられた素晴らしい特権ではあります。

Sany0064 さて、ここまで書いて一つ気がつきました。もう一つの謎。
「キングコング対ゴジラ」の「キンゴジ」と、「モスラ対ゴジラ」の「モスゴジ」。この二対も「同一人物とは思えない」と感じませんか?
「モスゴジ」の写真を見てみて下さい。


ひょっとしてこの2作の間にも、知られざる歴史が封印されているのでは・・・
ああ、オタクの道はまだまだ果てしなく(笑)。

2006年10月19日 (木)

ココロメンテナンスのお知らせ

オタクイーンの「恋するネヴュラ」をご利用の皆様へ

ただ今、当「恋するネヴュラ」は、支配人オタクイーンの心理システム障害の為、
「ココロメンテナンス」を実施しております。


ここ数日中突如として勃発した、オタクイーン本業の業務環境の激変。
さらに今月18日に発生した本家ブログサーバー「ココログ」のシステム障害の影響で、昨日投稿した入魂の長文記事がすべて(一行残らず!)消失したショックにより、支配人オタクイーンのやわなココロは著しくブルーに。(全て事実です)

上記理由につき、ここ数日の記事更新は不可能という状態になっております。
心理システム障害への対策は、おいしい食事、楽しい映画、かわいいオタクグッズ、友人との談笑などの癒しに加え、ご利用いただいている読者皆様の暖かい眼差しという「ココロメンテナンス」がなにより効果的と考えられます。

一日も早い復旧を目指し、現在鋭意努力を致しておりますので、皆様には依然ご迷惑をおかけしますが、なにとぞご理解とご協力をお願い致します。

2006年10月16日 (月)

記憶を揺さぶる通り魔

記憶の片隅にこびりついて、離れない映像ってありませんか?
私には事あるごとに思い出す、悪夢のような場面があります。

現代劇。暗闇の中、穴を掘る藤田まこと。
掘り起こした穴の中から突然姿を現す、血まみれの原田芳雄。
原田のロートーンの声で「早よ持ってけ・・・」

この一連のシーンは、遠い記憶の彼方、どこかで間違いなく見ているのです。テレビで。ところがこの作品、頭から見ていない。つまり、途中から見たようなのです。
この恐ろしくも美しいシーンは長年私の中で謎の場面となり、事あるごとに記憶が疼くような、くすぐったいような居心地の悪さを感じていたのでした。

「作品名が分からない。」
これが、このシーン探索の最大のネックでした。
再放送でもされない限り、そして運よく私がその番組を見ない限り、再会は不可能。

でもこれが不思議なもので、なんとなく「カン」が働く作品ってあるんですよね。
偏った作品ながらも、ある程度邦画やドラマを観込んでいると、歴史や作風などから目星がついてくるようで。

この悪夢から解放されたのは、今年2月CSで放送された「穴の牙」(1979年フジテレビ 鈴木清順監督)を見た時でした。
この作品、当時フジテレビで放送されていた「日曜恐怖シリーズ」という一時間枠の怪奇オムニバスドラマで、鬼才鈴木清順がメガホンを取った数少ない単発テレビ作品。
本放送以来再放送にも恵まれず、ソフト化も一切されなかったいわば「幻の作品」だったのです。

今年、清順作品を集中的に放送したCSチャンネル「チャンネルNECO」の特別プログラムとして、本放送以来実に27年ぶりにブラウン管に再登場したのでした。

長年記憶の隅で疼くこのシーンを、何故「穴の牙」という作品の一場面と限定したのか。
正直、これは私にも分かりません。「カン」としか言いようが無い。めぐり合わせなどあまり信用していない私でしたが、このケースだけは確信めいたものがありました。

ネットで検索してみても、この作品に関して書かれた文章はごく僅かで、やはり今年2月のCSオンエアを初見された方々の感想がほとんど。私のように本放送以来ずっと「思い出せない」状態の方は居ませんでした。まあきっと、途中から見たのでちょっと心に引っかかっていただけ、などとたかをくくって、2月、再会を果たしたのです。
ところが。

この作品、ご覧になった方はお分かりでしょうが、「全篇見ると余計に悪夢」じゃないですか?私は2月に初めて全篇通して見たんですが、記憶の疼きは取れるどころか、ますます増しているのです。

その名前を聞くだけで個性溢れる作品が思い出される監督は何人も居ます。鈴木清順もその一人。その独特の美意識と、映像の文法を無視したような演出手法は最近ますます評価され、国内、海外問わず多くのファンを獲得しています。
しかしながら恥ずかしい事に、私は清順作品は「殺しの烙印」など数本を散見しただけで、作品論を語れる程咀嚼していません。「ネヴュラ」をご覧の方々の方がよほど詳しいはず。今まで見た数少ない清順作品のテイストを思い出しながら語ることしかできませんが。お許しを(笑)。

「穴の牙」は、推理作家土屋隆夫の小説を原作とした一種の犯罪スリラー。脚本は清順組の一人で、ルパン三世第一シリーズにも大きく貢献した大和屋竺。私は原作を読んでいないので勝手な想像ですが、このストーリー、かなり大和屋の脚色が入っているのでは。大和屋お得意の「繋がらないシーン繋ぎ」「思い切った感情操作の飛躍」がそこかしこに見られるからです。
で、これが微妙なテイストなんですが、音楽が。

音楽担当は杉田一夫という方。不勉強でこの方は存じ上げないんですが、この「穴の牙」の音楽は、いい意味で普通すぎるんですよ。1970年代後期によくあった、ちょっと暗めのメロドラマ風BGMで。これが作品をえもいわれぬ雰囲気にしています。
普通、清順作品の音楽はこんなに「ベタ」ではありません。これはいい意味で杉田さんが清順作品のテイストを理解していなかったがゆえの結果なのか、それともテレビ作品の台所事情なのか、今となっては。でも私はこのミスマッチが、「穴の牙」を清順作品中独自の位置に置いているような気がして、非常に気に入っているのです(笑)。

さて演出ですが、これはもう清順テイスト爆発の「一大清順祭り」(爆笑)。
私は清順作品を見る度に思うんですけど、この人スタッフ、キャストに作品のイメージをどう説明してるんだろうと。というのは、私も作品を作る立場ですから分かるんですが、こんなイメージ、言葉じゃ説明できないんですよ。

映像には「文法」という物があります。例えばレストランで男女が食事をする場合、出演者は当然演技するわけですから、カメラを無視してお芝居しますね。当然二人は向かい合って座る。ここに会話が生まれ、ドラマが進んでいく訳ですが、「穴の牙」では二人はカメラに向かって並んで座るんですよ。
カウンターではなくテーブルで。カメラの手前には一輪挿しの花もあって。これは完全にリアルさを排除した表現としか思えない。こういう演出は全篇にあふれています。
緑を基調とした照明。
何も無い、象徴的な物だけが置かれた部屋。
お芝居の間には襖を開け閉めする「黒子」まで登場します。撮影現場でこんなテイストを説明してもスタッフは全く理解不能、気の短いカメラマンなら怒り出すのでは(笑)。
まあ、清順作品ではよく見られる実験的な手法ですが、これをテレビに持ち込むとは。


ヒッチコックと同じく、清順作品もスタッフ、キャストに謎を与えたまま進んでいったのかもという想像が頭をかすめるのです。
このあたり、「ネヴュラ」読者なら実相寺作品あたりを想像されるのでは?そう、ある意味近いテイストがあります。「穴の牙」は「舞台作品風」に仕上げられているのです。

そして「イマジナリー・ラインの無視」。カメラによって切り取られる映像は、ある程度人間の心理の動きに即した編集がなされています。一定の角度から人物を捉えたら、次のカットでは同じ角度のアップ、などの流れです。ところが「穴の牙」では、このセオリーを意識的に無視している。
同じシーンなのにカットが繋がっていないんですね。
それが作品に妙な緊張感を与えています。
しかしながら清順監督一流の編集によって、静かなシーンにまで映像的な躍動感が満ち満ちている。

この感覚は好みが分かれるでしょうが、私は好きですね。

心理描写の大胆さも大したものです。藤田まこと演じる主人公の刑事が、射殺した犯人、原田芳雄の幻影に怯えるシーン。今でもあんな表現にお目にかかったことはありません。また、物語に重要なかかわりを持つバーの女性、稲川順子の性格付けも、ストーリーが進めば進むほどわからなくなってくる。「あいまい」ではなく「深さ」があるんですよ。
それは稲川本人の演技に加え、おそらく作品のテイストを見通した清順監督の指導があったればこそでしょう。事実、藤田まことは当時盛況だった「必殺シリーズ」風演技を崩していません。その普通の演技との対比が、稲川の存在を際立たせているのでしょう。

この作品、考えてみるとテレビ作品としてはエキセントリックすぎるようで。
お話は難解じゃないんですが、表現があまりにも斬新な為、ある意味カルト作品と化しているようなのです。
「殺しの烙印」が日活に理解されなかったように、フジテレビにしてみればこの作品もかなりの「問題作」だったのでは。試写室での会話が想像できるようです。

冒頭でお話した「早よ持ってけ」のシーン。
完全に記憶のままでした。
何故このシーンだけが鮮烈に脳裏にこびりついていたのか。それは今でもわかりません。

「穴の牙」はストーリーの恐ろしさと斬新な演出が微妙なバランスを取っている。
この作品ををそんなふうに表現するのは簡単ですが、私にはむしろ「心の闇」に訴えかけてくるような「甘美な悪夢」に見えるのです。そう、美しいんですよ。この作品。
この作品、今月21日からシネマヴェーラ渋谷で開催される特集「鈴木清順48本勝負!」でも上映予定。16ミリながら健在の清順世界を堪能できます。

殺人や怨念など、暗いテーマを描いているのに美しい。
「魔力を持った作品」とは、こういうのを指すんですね。

2006年10月15日 (日)

導かれる「導く者」

「この秋晴れに、部屋に居るのはもったいない!」
お仕事も早々に切り上げ、出かけたウォーキング。

たどり着いたいつもの公園ではまるで仕込んだかのように、運動会で盛り上がっていました。

Photo_284 公園を使うという事は子供会か何かでしょうか。親子揃ってかなりの人数で。
ソリを使ったパン食い競争の真っ最中。真剣な子供達と、応援するお父さん、お母さんの声援が秋空にこだまします。

ここで驚いた事が一つ。この時、会場に流れたBGMが「ウルトラマンメビウス」の主題歌だったんですよ。これがまた、会場の雰囲気を盛り上げちゃって。
絵に描いたような秋の風景が広がっていました。自然と頬もほころびます。

「ウルトラマンメビウス」に反応してしまう自分には呆れちゃいますね。ただ、以前にも「ネヴュラ」に書いた通り、私は今「メビウス」を見ていません。
この秋劇場公開された映画版もノーチェック。このトーンダウンはどうした事なのでしょう?

「ティガ」映画版の時は特番の企画まで立てた私なのに。

これは別に「メビウス」が悪い訳じゃないんです。言ってみれば「第二次ウルトラ」に乗れなかった私の過去の記憶がそうさせているんです。

Photo_278 皆さんご存知の通り、1966年から始まった「ウルトラマン」は、その後「ウルトラセブン」(1967年)と続きました。「マン」の前に放送された「ウルトラQ」(1966年)を含め、この時期に放送された三作品は、ファンの間では「第一次ウルトラ」と呼ばれています。
この2年間の「怪獣ブーム」をまともに体験してしまった私は、幸か不幸かこの三作品がその後の作品を計る「物差し」になってしまいました。

「ウルトラセブン」終了から4年。再びブラウン管に登場した新シリーズ「帰ってきたウルトラマン」(1971年)。
「第二次ウルトラ」の口火を切ったこの作品。第一次ウルトラと意識的に作風を変えた「帰りマン」は、その後「A」「タロウ」「レオ」と続く作品群のプロトタイプとしての役割を果たしたのです。

当時、子供の私は「帰りマン」の放送開始を小学館の学習雑誌で知ったとき、小躍りしました。「あのウルトラマンが新作で見られる!」(なにしろその頃テレビで見られたウルトラは「ウルトラファイト」だけでしたからねー(笑)。
待ち焦がれた「帰ってきたウルトラマン」。しかしその時の私の中には、すでに「初代ウルトラマン」が物差しとして厳然と存在していたのです。

「乗れない」。
正直私は、リアルテイムでは第25話「ふるさと地球を去る」(1971年9月24日放送)を最後に、毎週のチェックをやめてしまいました。

その後、何週かに一度見る程度の体勢が続き・・・
その後のシリーズは、リアルタイムではまともに見ていないのでした。(後年、ビデオでチェックはしましたが)
何故なんでしょうか。私は「ウルトラマン」という存在に何を求めていたのでしょうか。

Photo_279 ファンには有名なお話ですが、「ウルトラマン」の企画時のタイトルに「レッドマン」というものがあります。これは円谷プロ側で番組の登録時、タイトルが外部に漏れないようある種のダミーとして考えられたらしいのですが、この「レッドマン」というタイトルには二つの意味があったようです。
このタイトル、英語表記は「LEDMAN」。人類をリードする「導くもの」という意味がありました。またボディーの色から「赤い男」という意味合いも。
制作者側はやはり、人類を平和な未来に導く指導者としてウルトラマンを創造していたのです。

Photo_280 初代ウルトラマンはその思いを見事に具現化した存在でした。怪獣や宇宙からの侵略者に対し、人類が絶体絶命の危機に陥った時、突如閃光と共に現れる身長40メートルの巨人。圧倒的な強さを見せ付けて、わずか3分間で姿を消す「人類の希望」。
この謎に包まれながらもカリスマ的な存在は、幼い私に強烈な印象を残しました。
続く「ウルトラセブン」は、等身大の宇宙人の存在を描いたドラマ。これはもう「マン」とは別のお話でした。当時、私の中ではウルトラマンの圧倒的なイメージに比べ、幾分スケールダウンした印象を受けたものです。

これは不思議な感覚なんですが、ある意味存在そのものが神秘的な「マン」に比べ、おそらく戦闘能力では上であろう「セブン」の方が弱そうに感じてしまうのは私だけでしょうか。
これはセブンの感情や考え方が我々人間と極めて近い故の「人間的な弱さ」に起因するように思えるのです。

Photo_281 「マン」のメインライター、金城哲夫は、おそらく「マン」を無敵のファイターとして描くため、感情的な部分を意識的に廃したのでしょう。それに比べ「セブン」を主に描いた市川森一は、宇宙人にも豊かな感情がある事を描きました。これが結果的にセブンの存在を矮小化させたような気がするのです。
番組内でのセブンは、人類を導く「LEDMAN」としては描かれませんでした。強大な科学力、軍事力を持ち、自覚を持たず宇宙侵略まがいの動きを見せる地球人。宇宙生命の視点に立てば「侵略者」となる地球人と宇宙生命との間に立ち尽くし、呆然とするヒーロー「セブン」。ここにはもう、カリスマ性は存在しませんでした。

「帰ってきたウルトラマン」以降の作品には、幾分この「セブン」の視点が影を落としています。完全なヒーロー、圧倒的な存在になりきれないウルトラの戦士達。「兄弟」という設定も擬人化に拍車をかけてしまいましたね。
初代ウルトラマンのカリスマ性に惹かれた私には、「セブン」以降の作品はなにか物足りなさを感じてしまいます。しかしながら、前述したように「セブン」は「マン」とは別の作品。実際は「帰りマン」以降とは別の位置にあるような気がするのです。

Photo_282 円谷プロの方々には申し訳ないのですが、「マン」と「セブン」で違う作品を目指した当時のスタッフの思いは、「帰りマン」で活かされなかったような気がしてなりません。
確かに制作会社は営利企業ですから話題性のある、当たる企画を作るのが正しいあり方なのですが、ファンのわがままで言わせて頂けば、「セブン」の後はまったく違う設定の「ウルトラ」を創造すべきだったと思うのです。

「ネヴュラ」でもたびたび書いていますが、この「セブン」の次に作られるべきであった作品が「ウルトラマンティガ」(1996年)という思いは、今だ私の中には強くあります。
「ティガ」について語りだすと止まりませんが、一つだけ言えば「ティガ」は「ウルトラマンという存在が地球を去った後、その能力を受け継ごうと努力する地球人の物語」なんですよ。従来のウルトラと視点が全く違う。カリスマ性はなくても、この物語の中では視聴者も含めて「人類一丸となって侵略に立ち向かう。ウルトラの力はその象徴にすぎない」という視点が素晴らしかったのです。
これは「帰りマン」以降の「擬人化」「矮小化」とは異なる見方で。なにしろ主人公は地球人なんですから。初代マンに見られる「導く者」という視点も、ここにはもう存在しません。「ティガ」では人類は導かれなくても、自分達で未来を切り開いていくのです。
セブン放送29年後にして、新たに創造されたウルトラ世界。

実は、「ティガ」には功罪があります。いろいろな評論にも書かれていますが、「ティガ」は本来、ウルトラシリーズ全体が最終的に到達するべき物語のようなのです。
私もそれを強く感じます。「ティガ」の後に何を作っても、それはウルトラの遺産を使った「同窓会」に見えてしまう。
実際、「ウルトラマンマックス」(2005年)は第一次ウルトラの、「ウルトラマンメビウス」(2006年)は第二次ウルトラの、それぞれのテイストをなぞるような作風が顕著ですね。
当時の怪獣がリファインされて登場する事も含め。

「帰りマン」に始まる第二次ウルトラの「矮小化」「擬人化」、「ティガ」の存在。
私が近作に乗れないのは、そんな理由なのでしょう。
まあ、同じ思いを持たれるファンの方々もいらっしゃるでしょう。「今更何を」なんてね(笑)。

ただ、今「メビウス」のテイストを実現させているのは、おそらく第二次ウルトラを幼児期に体験し、それが物差しになった方々の思いでしょう。それはいい悪いではなく、子供を除く視聴者の年齢層が変わった事を示しています。ウルトラのテイストも、視聴者の物差しによって変わって行くんですね。
ヤプールやヒッポリト星人に涙するお父さんが、「ウルトラを導く」視聴者になった、という事なんでしょう。

Photo_283 視聴者に導かれる「導く者」。
「ティガ」を子供時代に見た人たちが大人になった時のウルトラを見てみたいような気もします。

いや、やっぱり同窓会になるから、見たくないかな(笑)。

2006年10月14日 (土)

わらしべゴジラな一日

Photo_268 今日の「ネヴュラ」は、このモンキースパナから幕を開けます。
実は昨日の朝、家の駐輪場で大ショック。
昨日はお天気が良かったので「少年ジェット」な出勤をしようと、ミニバイクに座ったまではよかったのですが、直後に違和感が。
「右のバックミラーが無い!」綺麗に盗まれていたのでした。

今朝改めてあたりを探してみましたが、当然のように見つからず。
あきらめて今日は、近くのホームセンターへ買いに。

左のバックミラーに似た物を意外に簡単に発見。「なんで私がこんなものを・・・」なんて言いながらも購入し、写真のモンキースパナで取り付けたまではよかったのですが・・・
角度を調整しているうちに、何故か突然ミラー部分が取れちゃって(笑)
私が怪力という訳じゃありませんよ。不可抗力。
どうやら立て付けが悪かったみたいで。

取替えにお店に行ったのですが、なんとそれが最後の一個。払い戻しをしてもらって、バックミラー探しのあて無き旅に出たお昼過ぎ。

Photo_269 街へ出れば、今日は秋祭りパレードの賑わいで。しまった。もうすぐ交通規制。あわてて目当てのお店に飛び込みました。
でも、バイク用品を扱ってるお店って意外と少ないんですねー。
仕方なく諦めて、近くの100円ショップでカチューシャとコームを手に入れた午後1時。

せっかく街まで出たのに。収穫はこんな物だけか、なんてガッカリ。今日はツイてない。
待てよ。メーカー純正パーツなら。とプラス思考で再度出発した午後2時。
その道中で今日の運命は急展開を見せたのでした。

Photo_270 私の家の近くに、今日こんなお店がオープンしたのをすっかり忘れていたのです。
ここは、お宝グッズからヴィンテージウェアまで、マニアックなグッズを数多く扱うお店。
もともとは本屋さんがあった場所なのですが、中を覗くともう、以前の雰囲気はまったくありませんでした。いやーオタクな私には居心地のいい空気で(笑)。

フィギュアから絶版キット、プライズ商品まで、比較的リーズナブルな価格設定が貧乏な私をなごませてくれます。
怪獣一本で探しても、あれこれ食指が動きそうなものばっかりです。
そんな店内を散策する内、私は運命の再会を果たしたのです。

Photo_271 これ。アメリカ、ポーラライツ社製「ゴジラ」のプラモデル。
ご存知の方も多いでしょうが、これはアメリカ・キャラクターキットの雄オーロラ社が1964年に発売した、世界初のゴジラプラモデルの復刻キットなのです。
隣に並んでいるのは、あんまり嬉しいんでついでに買っちゃったバンプレストのメカゴジラ胸像。はっきり言ってオマケ的な感覚ですが(笑)。

Photo_272 この「ゴジラ」は、オーロラ社倒産の折に金型をモノグラム社が買い取り、再版を続けていたので、箱にこだわらなければ今でも同じ物は比較的入手しやすいんですよ。左側の箱がそうです。今日入手した右側はオーロラ社版に近い、ほぼオリジナルの復刻です。
ところがこの箱がなかなかない。
(何を力説してるんでしょうか(笑)。

以前にも「ネヴュラ」で書きましたが、1999年にポーラライツ社が、オーロラ社の名作キットを矢継ぎ早に再版した時期がありまして。
このゴジラもそのラインナップの一つなのでした。
東宝怪獣はゴジラ、ラドン、キングギドラが復刻されたのですが、当時私はこのラインナップの内、ラドンとキングギドラしか買えなかったんです。
地方都市ゆえ入荷数が少なかった事に加え、今にも増して貧乏をこじらせていたその頃。実物を目の前に「ゴジラはモノグラムのを持ってるからいいか」なんて、コレクターにあるまじき甘えを持ってしまったんですね。
以降このキットは私の周りから姿を消してしまったのでした。
まさに7年ぶりの再会なのです。

Photo_273 こうして東宝の三大怪獣を並べてみると、やっぱり収まりがいいですね。モノグラム版では様にならないでしょう。卓越したデフォルメーションで定評のあったオーロラ社のキットだけに、今見てもまったく古さを感じさせません。
むしろ新しささえ感じます。


Photo_274 このゴジラ、「グロータイプ」という物もありまして(私のモノグラム社版もそうなんですが)蛍光パーツによって夜光ったりするんですよ。
こういう遊びも楽しいですね。
リアル派のファンが見たら卒倒しそうだけど(笑)。

このお店ではもう一ついい事がありました。支払いを済ませた後、ブログの為にお店の写真を撮りたいと店員さんにお願いした所、ご丁寧にも社長さん自らご挨拶下さって。ご本人が管理されているブログまで教えていただけたのです。
大変ご丁寧な対応に大感激。

「ネヴュラ」の事もお伝えしたので、ひょっとしてこの記事をご覧になっているかも。
ブログを通じて交流が生まれるのも嬉しいことで。
またお気に入りのお店が一つ増えました。

いやー、バックミラーの事件からこういう展開になるとは。ホームセンターの一件がなかったらこのお店の事も忘れていましたからねー。何をきっかけにいい事があるかわからない。
朝からちょっとブルーでしたが、このキット一つで気分上々なんですから。
この単純さには我ながら呆れるやら笑えるやら(爆笑)。

バックミラーの取り寄せを純正ショップで発注し部屋に帰れば、もう「新着アイテム」と「先輩」の顔合わせが楽しくて(笑)。

Photo_275Photo_276  オーロラ社のゴジラを語る時どうしても引き合いに出されるのが、日本初のゴジラプラモデル、マルサン商店製のこれ。「ネヴュラ」にも何度か登場していますよね。
このキット、惜しい事に発売時期はオーロラ社版よりちょっと後。(組立前の写真は復刻版です)
キットのフォルムもオーロラ社版を参考にしたとの事で。

「和製怪獣の代表」ゴジラですから、やっぱり世界初のプラモデル発売の栄冠は日本に与えて欲しかったなー。まあ、こんな歴史的なキットを並べて思いを馳せる贅沢を喜ぶべきなんでしょうが。

そんなこんなで、今日はモンキースパナからゴジラとの再会に至る、「精神的にわらしべ長者」の一日でした。こういうサプライズって狙ってできる訳じゃないから、余計嬉しいですねー。

Photo_277 思わず部屋のゴジラキットをかき集めて
「ザ・ゴジラ7」なんて遊んでみたりして。
こういうのがいつもの私なんですよ(笑)。

ヤング・ソルジャーの仕事

それは5年前。ロケ中の出来事でした。
番組リポーターと私達スタッフが乗った、ロケ移動車の中。

リポーターの女性が突然言い出しました。
「私、大きな水槽を買ったんですよ。」「魚でも飼うの?」と私。
「いえ、ブラックライトとか仕込んで、クラゲを飼おうと思ってるんですけど、人気があってなかなか手に入らなくって。順番待ちなんです。」
当時、こんな風に部屋のインテリアとしてクラゲがブームになっていましたよね。
あの幻想的なムードが女性を中心にウケていたようで。

私は聞きました。「クラゲの名前は考えてるの?」
「いえ、まだ」と彼女。
「じゃあ、『ドゴラ』にしなよ。」
怪訝な顔で彼女は言いました。「ドゴラ?何ですそれ?」
「いいからいいから(笑)」。

Photo_262 「宇宙大怪獣ドゴラ」(1964年東宝 本多猪四郎監督)。
東宝初の「宇宙怪獣」映画です。

この年、東宝は4月に「モスラ対ゴジラ」、8月に「ドゴラ」、12月に「三大怪獣地球最大の決戦」を矢継ぎ早に公開しました。怪獣ブーム前夜。まさにこの時の活況があの「ガメラ」「ウルトラマン」に繋がっていった事は歴史が証明しています。
宇宙怪獣の決定版とも言えるキングギドラ登場に先駆けること4ヶ月。この「ドゴラ」は、怪獣出現の場を宇宙に求めた野心作でありながら、いま一つ話題に上らない「歴史に埋もれた」作品となった感がありますね。

別にへそまがりでもないんですが、私、この作品を、今でも時々見る事がありまして。

私ぐらいの年の怪獣映画ファンは、作品鑑賞で辿る道が大体決まっていまして(笑)、まず定番のゴジラ映画を押さえ、大映のガメラなど同じテイストの作品を追います。1980年代にソフト化された作品のリリース順も、大体このファン心理を反映した順番になっていました。展開が派手な「地球防衛軍」などの超科学戦争作品を経て、作品鑑賞を一巡したファンが次に狙ったジャンルが、「変身人間シリーズ」やこの「ドゴラ」のような、ちょっと変化球作品なのです。

考えてみるとこのファン心理、当然と言えば当然の流れ。これは、期せずして東宝特撮映画が辿った道をファンの方でも心理的に追体験しているような部分があって面白いですね。
Photo_263 未見の方の為にちょっとお話しておきましょう。この「ドゴラ」という怪獣は、ご覧のイラスト(小松崎茂画伯作!)の通り、従来のゴジラ型二足歩行怪獣とは異なる「宇宙クラゲ」型。
冒頭のお話はそこから来たものなんですよ。
ドゴラは地球にやってきた宇宙細胞の総称を指す物で、これ、作品に登場するのは一頭(って言うのかな)じゃないんですね。そういう部分でもこの作品がゴジラ映画からの脱却を目指していたのは間違いないと思うのですが。

Photo_264 東宝側でも「ゴジラ」で二足歩行、「アンギラス」で四足歩行、「ラドン」で飛行怪獣、「モスラ」で操演怪獣と、作品を追う毎に怪獣演出の可能性を追求していった結果が「ドゴラ」である事は、いろいろな文献にも載っている通り。
事実「モスラ対ゴジラ」に続いてこの作品が制作された訳ですから、東宝としてもかなりの自信作だった事は想像にかたくありません。
ところが、ゴジラによって築き上げられた和製怪獣のセオリーからあまりにも脱却しすぎた為、観客の方でついて行けなかったと。日本の怪獣映画が「ゴジラ」から始まっていなかったら、この作品の評価ももう少し違っていたかもしれません。

Photo_265 登場怪獣の大胆なイメージチェンジにより、作品のテイストも従来とはかなり違ったものになっています。
怪獣が出現すれば後は破壊と対決のみ、という従来のストーリー構造からの脱却です。
詳しくは書きませんが、この作品には「ドゴラが地球のある物質を狙う理由」「それに関わる人間側のドラマ」「そのドラマからヒントを得た人類側の反撃」が描かれているのです。
この作品についてよく言われる「怪獣映画とアクション映画の融合」「人間ドラマ部分の強化」などの批評は、私にも頷ける部分が多いですね。前述したどの部分が欠けても物語が成立しない。これは大きく評価したい事で。
そういう意味でこれは、文字通り「大人の怪獣映画」という事が言えましょう。

Photo_266 私など、怪獣映画に「災害スペクタクル」を求める者には、この作品はたまらない魅力を持ちます。この「ドゴラ」、宇宙空間から飛来して空中を漂いながら、地球上のある物質を吸い上げるのですが、この時の映像がまた、それまでの怪獣映画で見られなかった物で。
言ってみれば「ツイスター」のテイストかな。

ここでも円谷監督は新しい表現方法に果敢に挑戦しています。よく言われる「ドゴラの水中撮影」(実際作品をご覧下さい)も凄いですが、私はむしろ「吸い上げられる物質の表現」などに感激します。

ドゴラは宇宙細胞なので一体ではなく、地球各地に同時に被害を与えるという設定。これが『地球規模の災害』という視点の広がりを与えてくれるんですね。怪獣映画以上に「ディザスター・ムービー」のテイストがあるんですよ。
通常兵器によって一度は消滅したかに見えたドゴラが、細胞分裂を起こし数を増やしてしまう「手のほどこしようのなさ」もなかなか好きな展開で。
前半のドゴラ被害に加え、ある理由によるドゴラ結晶化の表現もお見事。空中を舞うドゴラが個体に変化し、巨大な岩となって街に降り注ぐ映像は、今だにこの作品だけでしか見られない「衝撃映像」です。
こういうのを「センス・オブ・ワンター」(古い表現ですが)って言うんでしょうねー。

こんな斬新な作品が、なぜそれ程話題に上らなかったのか。
脚本はゴジラ映画のベテラン関沢新一。「キングコング対ゴジラ」などで見せた軽妙洒脱なドラマ展開はこの作品でも健在です。本多・円谷に加え音楽の伊福部昭も、新登場の宇宙怪獣に刺激されたナンバーで作品に彩りを添えています。
ここまでの布陣なら、怪獣の斬新さに観客が拒否反応を示したとしても、ドラマの面白さでグイグイ引っ張っていける筈。でも。

いつもの私見ですが、「怪獣の被害」「人間側のストーリー」「人類の対策」という各々の要素がちょっと消化不良だったのかもしれません。今、作品を見ながら記事を書いているんですが、一つ一つの場面はアイデアに満ち、テンポ良く進んで飽きさせない。なのに全体を見ると、う~ん・・・となってしまうのです。
ドラマ部分の難をフォローすべき怪獣のキャラクターも、ゴジラ程「立った」魅力を持たず、(私にはその、人知を超えたコミュニケーション不能の個性が好きでもありますが)
「とっつきどころを見つけづらい」作品となってしまったきらいはありますね。

Photo_267 そんな中魅力爆発なのが、人類側の主人公(と信じますが)を演じた、中村伸郎さん。
1908年生まれのこの名優は、「世界大戦争」(1961年)「フランケンシュタイン対地底怪獣」(1965年)「サンダ対ガイラ」(1966年)など東宝作品は言うに及ばず、「東京物語」(1953年)「秋日和」(1960年)などの小津安二郎作品にも数多く出演、独自の個性をアピールしていました
「ドゴラ」でも、その習性と対策を研究し、人類を勝利に導く科学者をユーモアたっぷりに演じています。中村さんの好演なくしては「ドゴラ」は語れないといっていいでしょう。

夏木陽介、ダン・ユマ、田崎潤など濃いメンバーの中で一際輝く個性。ある意味ドゴラを食ってしまうこの存在感も、この作品の見所ですね。
「ドゴラ」制作当時56歳の中村さんですが、画面ではもっとお歳に見えます。構えて老け役に挑戦されたのでしょう。

中村さん演じる宗方博士が、お歳による無茶をたしなめられた時に言い返す言葉があります。

「わしはヤング・ソルジャーじゃ。」

ヤング・ソルジャー。老いてなお若き兵士。博士の快達ぶりを一言で表現した名ゼリフです。「ドゴラ」と聞くとこの言葉を思い出すほど、私はこのフレーズが好きで。
考えてみればこの作品制作当時、円谷監督63歳、本多監督53歳。このお歳で、なお特撮映画の新しい可能性に挑戦していた訳ですね。この若さとあくなき挑戦が、次回作でキングギドラという稀代の名獣を生み出す事を考えると、私などはまだまだヒヨッ子だなーなんて思わざるをえません。
まさにお二人はヤング・ソルジャー。やはり歴史に名を残す人たちは、お歳を召しても若き感性と情熱を失わないんですねー。

いやー怪獣映画を見てこんな深読みをするようになるとは。何なんでしょうか。そんな視点でこの「宇宙大怪獣ドゴラ」を見ると、またいっそうの感慨が。
この映画、若林映子さんも出てるんですが、彼女がまた魅力的で。彼女みたいに、黒いワンピース着て見ちゃおうかな(笑)。

2006年10月12日 (木)

思いつきで行こう!

「ブログに載せたいので、お店の写真撮っていいですか?」
私の問いかけに、店長さんは快くOKをくれました。
先週の土曜日、私の街にできたばかりの「トミカショップ」。
そう、あのミニカーの専門店です。

Photo_252 私、このお店をオープン2日目に覗いたんですが、なんと行列が出来ていて「入店まで一時間半待ち」の立て札が。その日はさすがにあきらめちゃいました。
今日はたまたまお仕事に待ち時間があったので、ふらりと寄ったのですが、今日も親子連れで賑わっていましたねー。

Photo_253 このお店で私が狙っていたのは、トミカショップ限定販売の「ダイハツミゼット」。
このかわいい三輪カー、実車は1958年発売だそうで、配達の足として商店などで大活躍したとか。私も子供の頃見たような記憶があります。
この車、なんと中国でも使われていて、以前お仕事で中国の地方都市に行った時、元気に走っているのを発見。そのキュートなフォルムに改めて心を奪われてしまったのでした

Photo_254 それ以来、ミゼット関係のおもちゃが出るとウキウキしちゃう私。以前買った陶器のミゼット貯金箱とトミカを並べてみました。このユルさがなごみますねー。

Photo_255 それからもう一台。「トヨペットクラウン消防指令車」。なんでもこの地域店限定だそうで。
実車は1955年デビュー。この丸みを帯びたフォルムも懐かしいですね。こういう形も大好きな私は迷わずゲット。
持つと結構重いんですよ。この重さが高級感をアピールしますねー。箱には「対象年齢15才以上」と書いてあるけど、大人のホビーって事?

Photo_256 この「トミカ」、小さいながら日本の精密技術が作り上げた逸品だそうで、ミニカーの世界でも評価が高いとか。私が子供の頃からありますから、絶版モデルも含めてかなりの数があるんでしょう。
私はそれほど濃いコレクターじゃないので分かりませんが、この世界もきっと奥が深いんだろーなー(笑)。

Photo_257 今日は他にも、いつものオタクショップでこんなものを買っちゃいました。
「ベアモデル」のソフビ「ゴメス」です。
このメーカー、ミニサイズのソフビをリーズナブルな価格で発売していて、そのフォルムもユル好きな私好み。おまけにこれはかなり安く売られていたので即ゲット。こんなのしか買えませんよ。貧乏OLは(笑)。

お仕事も早めに終わり、帰宅したのが午後2時。
「さて、なにしよう?」
今日は最高気温28度。この季節には珍しい陽気です。
「よし。ウォーキングだ!」
昨日「ネヴュラ」で思いのたけを聞いていただいたおかげで気分もスッキリ。今日は体を動かしたい気分になりました。

「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」サントラの「桐子の決意」をBGMに、(分かる方にはお分かりですよね)
歩き出した午後3時。

気温は高くても、さすがに真夏のような暑さはありません。サウナスーツを着ていても気分は爽快。万が一の「アクティブダイエット」も出番はなさそうです。
いつものルートを「デジカメスケッチ」する余裕さえ出てきました。今日は気ままにウォーキングルートの散策と行きましょうか。

歩き出してすぐ見つけたのは、芝生の上で気持ちよさそうに「社交ダンス」の練習をするカップル。外でダンスですか。いいですねー。仲も良さそうで。なぜかこういう時、私はちょっとその様子を眺めてしまうのです。さすがに失礼と思い、撮影は控えましたが。
近くのベンチには二つの紙コップが。お二人の物でしょう。これがまた仲良さそうに並んでるんですよ。まるで映画のシーンブレイクに使えそうなほどのシチュエーションで。
こんな点描ってなかなか思いつかないんですけどね。

Photo_258 午後3時半。気持ちいい汗をかきながらたどり着いたいつもの公園は、平日という事もあって人影もまばら。
でもさすがに秋ですね。この時刻なのに既に日は翳り始めて。
ベンチから撮った公園の片隅。10月も中旬ですもんね。

Photo_259 公園の近くには大きな池があります。この池には、カモかアヒルかわかりませんが違う柄の水鳥がいつも3羽つるんでいるんですが、今日は居ませんでした。
そのかわり、池の真ん中に数羽の団体さんが。こんなに多いのは初めて見ました。夏に増えたの?
写真でわかるでしょうか?(クリックすると拡大します)ね、結構居るでしょ?
この中の一羽の下にきっと、ショーン・コネリーが居るんですよ。彼は夜まで待っていて、日が沈むとおもむろに上陸。頭に鳥を乗せたウェットスーツを脱ぐと、下には純白のスーツが(笑)。

帰りの道で、森から現れた野性のネコに遭遇。
実は2匹居たんですが、2匹ともけっこうすばしこくて、なかなか2匹同時にフレームに収まってくれない。仕方なく一匹ずつ撮る事にしました。

Photo_260 一匹はこの子。なぜか余裕の表情で。笑ってるように見えますが。やっぱりこの公園は人が多く通るので、人間に慣れちゃってるんでしょうね。まあなんて平和な表情。

Photo_261 で、もう一匹はこの子。こうなると完全に「なめてる」としか思えない。私を前に道で堂々と横になるふてぶてしさ。まさに「バットマン・リターンズ」のキャットウーマンもかくや。
私、キャットウーマンはハル・ベリーよりもミシェル・ファイファーの方がお気に入りなので。
「女っぷりなら負けないわよ」って感じでガンつけちゃったりして。うーん。手強い。
ちなみに性別は確認してません。勝手に想像してるだけで(笑)。

同じルートを歩いていても、夏の間は暑くてとてもこんな余裕など持てませんでした。
こんな風にいろんな事を考えながら歩けるのも、季節が確実に移り変わっている証拠ですね。

普段は忙しくて、なかなか季節や自然を感じられないだけに、たまにはこんな風に思いつきで動いてみるのもいいなーと。

帰って浴びたシャワーの温度も心持ち高めで。
今夜はミゼットとクラウンを眺めながら寝ることにしましょうか。
おっと、ゴメスが寂しがるかな(笑)。

2006年10月11日 (水)

現実は匕首の切っ先にも似て

今日はちょっと辛いお話で。
こんなお話をするのも、心の内を吐露するようで恥ずかしいのですが。

先程からネットでいろいろ検索してみて、大体の感触も掴めました。
ですからあえて書きます。
まあ、カンの鋭い「ネヴュラ」読者の方々にはよーくお分かりの、このネタ。

「私が私であるために」
昨夜、日本テレビ系列で放送された2時間ドラマです。

性同一性障害の男性が様々な経験や出会いを通して「自分を取り戻す為の闘い」に挑むこのドラマ。主人公の彼女ほど切実ではないにしろ、私も当事者のはしくれの身。興味を持たない訳がありません。
昨日の記事の更新時刻がやや早めだったのは、この番組をリアルタイムで見る為だったのです。

この番組についての予備知識はほとんどなく、主人公、ひかる役の相沢咲姫楽をはじめ、出演者の数名が本当の性同一性障害者、言わば「お仲間」などという事は番組開始直後に「直感とイマジネーション」で知った事。
キャスティングやストーリーなどよりも、世間がこういうテーマを真正面から採り上げるという事に、ちょっとした衝撃を受けました。

実は私、このストーリーについて語るだけのスタンスを持ち合わせていません。
なにしろテーマが「身近」すぎて、とてもじゃないですがフィクションとして見られない(笑)。

ちょっと今日の発言は過激に走るきらいもありますが、いつもよりおバカ全開なのでお許し下さいね。
ドラマのそこかしこに表れる性同一性障害者への偏見と揶揄。ああいった蔑称「お○ま」とか「気持ち悪い」「変態」「寄るな」なんて言葉に、どれだけ傷ついたことか。
「私なんて生まれてこなきゃ良かった」「私を殺して」という主人公の言葉には痛いほど共感できます。

いつもは「ネヴュラ」でバカばっかり言ってる私でも、肌を切れば赤い血が流れる生き物。そりゃ感情もある訳なので。(ドン引き?すいません。今日だけお許しを。)

こういうドラマにありがちないわゆる「夜の街の方々」が出演しないのも良かった。以前記事でも書きましたが、私のような立場の者が職を求めても、かつてはそういうお仕事しかなかったのです。
決して彼女達への偏見ではないんですが、(事実私もその世界を体験した事がある訳だし)その世界の方々がドラマに関わってくる事により、当事者の社会進出の可能性を狭めてしまう。(主人公が望めばまた別の話になりますが)

私などがつたないアンテナで追いかけた数々のこの手の作品も、そのほとんどが「ニューハーフの悲哀」的な観点でしか物語が語られず、どこか共感しづらい空気を持っていました。
そういう意味で今回のストーリーでは、あくまで昼間の職業に絞って物語を進めた制作陣の志を買いたいのです。

「このテーマを真面目に採り上げよう」と考えた制作陣は、おそらく当事者を理解する為の「気持ちの落とし所」を「病気」というキーワードに求めたのでしょう。
胎児へのホルモンバランスの異常などにより起こる、心と体の性の不一致。これを「病気」として捉える事で、当事者達の悩みや苦しみをなんとか理解し、「性転換手術」をその治療に位置づける。これも例の「金八先生」以降ポピュラーになったものですね。

ところが。
私などが識者のふりをして語るのも良くありませんが、当事者の心理というのは大変微妙なもので。私にはこのドラマ、どうにも腑に落ちない部分がありまして。

笑い話と思って頂いても構いませんが、このドラマには決定的に欠けている部分があるような気がします。

当事者の外見についてです。

主人公をはじめ、このドラマに出演する当事者たちは、とても男性とは思えない美しく、女性らしい外見を誇っています。これは容姿に恵まれない私にとっておそろしく高いハードルなのです。
劇中主人公が、ストリートミュージシャンやファッションモデルに接し、「彼女も仲間!?」なんて驚くシーンがあります。驚く彼女自身の外見もどう見ても女性。当事者以外の登場人物も「あれが男!?」なんて驚愕と戸惑いに震えていましたね。
これは現実にはありえない。

「パス」と「リード」という隠語があります。
私達の世界で使われる言葉で、街を歩いて男性という事を見破られない事を「パス」。
逆に見破られる事を、読まれるという意味で「リード」。

実際、主人公を演じた相沢咲姫楽さんは、女性ホルモン投与など医学的な処置をしていないとの事ですが、それで「パスする」という事は、既に一種の「特化した才能」なのです。
「素質」と言い換えてもいいでしょう。

私を含め、ほとんどの者は男性ホルモンの影響が体中に行き渡った、「どこから見ても男性」の場合が多い。これが現状です。
訳も無く警戒されたり、つらい言葉をかけられたりするのも、「リード」されるからなのです。
自分のアイデンティティーを保つのに使うエネルギーはもう大変なもの。これは容姿に恵まれない当事者達にとって深刻な問題なのです。

「私が私であるために」には、この部分の描写が決定的に欠けています。
「美人」「不美人」という事ではないのです。「女顔」と「男顔」の差です。「整った顔」と一口に言っても、女性と男性では顔つきがまるで違いますよね。
その差に悩む人々が、私を含め水面下には大勢居るのです。
言わば相沢さんのような人の方が、希少な部類に入るのでは。
彼女達が目指す仕事も、パスを前提としたものではなかったでしょうか?(カミングアウトが話題になるのも、パスあっての事でしょうから)

たとえ端役でもいいから、「リード」される存在を一人登場させて欲しかったのです。(よくあるコメディーリリーフ的な立場じゃなく。もういいでしょうそういうのは。)
まあ、こう書くと「ブスのひがみ」なんて言われる事は百も承知なんですが、「美男美女の夢の共演」はこのドラマの趣旨じゃないだろうと。夢の恋愛を描く事が目的じゃないですよね。キレイキレイなお話にしたかったの?
制作陣がもしそう考えたなら、ちょっと底が浅いように思えます。
これは出演者の問題ではありませんよ。あくまでプロデュースサイドの目論見に対しての考えで。

このドラマ、都合三度見たんですが、出演者の美しさを見る度に「これは、このレベルの外見を持つ人だから成立するドラマなのよ」と、ちょっと上から見られている感じが拭えません。
私などは「あのレベルであれだけ苦労するんなら、私なんかどーすりゃいーのよ!」と(笑)言いようのない絶望感に打ちひしがれてしまうのです。
そういう意味でこのドラマは、当事者にとって辛い部分も多分にあります。決して斜に構えて見ている訳ではないんです。でも、日々の生活にあっては、まずその部分がネックになってしまう事が多いので。
「学生証を見せなきゃ男と分からない!」私もそんな辛さ、味わってみたいものです(泣)。

ドラマに比べ、私達当事者を取り巻く現実の目は、むしろ匕首にも似た鋭さを持っています。
常に喉元に突きつけられるのは、その冷たい切っ先。
これは私が毎日体験している事。間違いありません。


番組最後の全面スーパー「この物語はフィクションです」の一文が、心に深く突き刺さります。いつも何気なく読んでいるこの一文が、こんなに辛かった事もなく(笑)。
演出はともかく、志の高さは従来のドラマを超えていただけに、この一点だけが目立ってしまったのかもしれませんね。

このドラマの遺伝子を受け継ぐ、良質の番組(ドラマに限らず)が作られ続けていくことで、当事者達への理解が少しでも進む事を期待したいです。
(ちょっと笑えなかったですか?次回からは通常営業に戻ります(笑)

2006年10月10日 (火)

ガメラ4 蛇獣復活

・・・いやー面白かった。
久しぶりに怪獣映画の醍醐味を堪能しました。

皆さん観ました?一日限りの公開、
犬映映画「ガメラ4 蛇獣復活」(銀子修介監督)。

えっ?観てない?地域、期間限定なのかな?
あの傑作をご覧になっていないとは!もったいない!
じゃあ、「ネヴュラ」読者の方々だけに、ブログ限定レビューと行きましょう(笑)。
(あの林家さんの自主映画とは別物ですから。念の為。)

この物語は「ガメラ3 邪神覚醒」(1999年大映 金子修介監督)のエンディング直後から始まります。
あのエンディングで、イリスとの壮絶な死闘の末満身創痍となったガメラの前に現れるハイパーギャオスの群れ。果敢にも戦いを挑むガメラに向かい、ギャオス達は総攻撃をかけます。数十羽のギャオス達についばまれるガメラ。手負いのガメラはなす術もありません。
ハイパーギャオスの群れを牛耳る「ボスギャオス」がガメラにとどめを刺そうとしたまさにその時、突如地面から伸びる巨大なドリル状の尾!ドリルはボスギャオスを串刺しにするが早いか、その生体エネルギーを吸い取っていきます。見る見る干からびてゆくギャオス。
尾は大地を割り、地上にその全身を現しました。


Photo_246 全長200メートルはあろうかという大蛇、
ガラシャープ!
ギャオスのエネルギーを吸い取った尾のドリルに加え、コブラ状の頭の左右にも金属質のドリルを備えた異様なその姿。

新たな敵の出現に、ギャオスの大群は超音波メスの集中攻撃。
ところがガラシャープは頭部と尾のドリルを回転させます。この回転は特殊な周波数の超音波を放ち、ギャオスの超音波メスに干渉しその軌道を捻じ曲げてしまう!
言わば「超音波シールド」なのです。


Photo_247 色めきたつギャオス達に、ガラシャープは驚異の跳躍力と尾のドリルでギャオスを一度に10羽以上串刺しに。瞬時にエネルギーを吸い取られるギャオス達。ガラシャープはその闘いの最中にも吸収したエネルギーで巨大化していくのです。戦いながら成長する生物!
ギャオスを凌ぐ圧倒的な強さです。
本能的に危機を感じ取り、空に散るギャオス達。ガラシャープも満腹になったのか地中に姿を消します。奇跡的に危機を回避し、飛び去るガメラ。右腕の部分が火を吹かない回転ジェットがガメラの傷を物語ります。

古代アトランティスの超遺伝子獣、ギャオス。古代人が危険な文明へのセキュリティーとして作ったこの生物が滅ぼした古代文明は、アトランティスだけではありませんでした。
その後、歴史の影に埋もれたいくつもの文明がギャオスによって滅ぼされてきたのです。
ガラシャープはその滅ぼされた文明の一つにより作られた、言わばガメラと同じカウンターウェポン。

「あの「蛇」という形状からして、古代エジプト文明がなんらかの関係があるのでは。」科学陣はそう推測します。それはスフィンクスやピラミッドの頃よりさらに昔。
古代エジプトで王を守る存在として神聖視された「蛇」。ギャオスによって滅亡の道を辿る古代人が「最後の希望」としての思いを託す存在としてあの姿を象ったと。

では何故、その超古代エジプト文明がギャオスにより滅亡を迎えた時、そもそものカウンターウェポンであるガメラは甦らなかったのか?
そこに、「ガメラ3」で語られた「マナ」の概念が絡んできます。地球自身が持つ超自然力「マナ」。超古代エジプト文明が栄えた頃には、まだ「マナ」が地球に満ち足りていなかったと。
そしてガメラには魂が宿らなかった訳です。ガメラという存在の成立がいかに奇跡的であったかがここで語られます。

そしてもう一つの疑問。何故ガラシャープは超古代エジプト文明をギャオスから守れなかったのか?ここにガラシャープの恐るべき設定がありました。
ガラシャープはギャオスを捕食、その生体エネルギーを取り込んで成長する怪獣。ところが成長過程で、人間のエネルギーをも取り込む事を覚えてしまったのです。
あろうことか、超古代エジプト文明はギャオスに加え、自らが作り出した驚異に滅ぼされたのでした。(このあたり怖いですね。現代にも通じませんか?北○鮮とか)

ガラシャープは超古代エジプト文明を滅ぼした後、自らの新陳代謝を抑制し、エネルギーの消費を抑える「冬眠」を覚え、現代まで生きながらえてきたのです。
そして今現代文明の行き詰まりと共に、地上で展開する天敵、ギャオスの復活に呼応して永い眠りから醒めたのでした。

超古代エジプト文明が作り出した脅威ガラシャープは、尾と頭部のドリルを使い、地中を自在に移動してあらゆる場所に姿を現します。
当初ギャオス駆除の新たな救世主として安心していた人類も、ガラシャープの「食人本能」に恐怖。そしてガラシャープの地中行動により地震や火山活動が誘発されてしまいます。突然の都市陥没や火山の噴火は地球滅亡に繋がる恐るべき事態に。必死にガラシャープの生態を研究する科学陣。

捕獲したギャオスを餌にガラシャープをおびき出す自衛隊。ついに現れたガラシャープですが、その体長は思いの他小さくなっていました。しかしギャオス捕食とともに再び巨大に。
Photo_248 ガラシャープは捕食をしない時、消費エネルギーを最小限に抑えるため体を小さくする性質があるのです。しかしその性質と「冬眠」がある限り、永久に倒す事が出来ない相手。
どんな攻撃もあの「ドリル」に跳ね返されてしまいます。
そこへ、ギャオスを本能で感知したガメラが出現。
対ガラシャープ戦第1ラウンドのゴングです。

ガラシャープも本能で、ガメラのエネルギーを奪わんとしていました!

Photo_249 超高層ビルに巻きつくガラシャープにはガメラのプラズマ火球もまったく歯が立ちません。飛びかかるガラシャープ。回転ジェットで振りほどくガメラ。ガラシャープはジェットの噴出孔を塞ぎ、さらにガメラに巻きついて生体エネルギーを吸い取ります。
見る見る白くなっていくガメラ。ガメラの倍以上に巨大化するガラシャープ!
ガメラ絶体絶命の危機です。ガラシャープの締め付けでガメラの甲羅に大きな亀裂が!
逃げられないガメラに迫る、鋭いガラシャープの回転ドリル!


・・・いやー大興奮。
「対イリス戦」を超える、ガメラ最大のピンチでしたねー。
この後がもう。第2ラウンドの驚天動地の展開、そして驚愕のラスト!

なーんて。いいかげん付き合いきれないでしょ(笑)。
これは「ガメラ対深海怪獣ジグラ」(1971年大映 湯浅憲明監督)の次回作として考えられた「ガラシャープ」という敵怪獣を基に、私が考えたデッチ上げのお話です。

大映の倒産により残念ながらこのガラシャープ、映画としての作品化は叶いませんでしたね。
そのデザインはいろんな文献で発表され、立体化もされているので皆さんご存知ですよね。私結構好きなんですよ。これ。ガメラの「丸」と好対照の「長い曲線」というフォルムが。
このデザインを見ていると、ついこんなストーリーが浮かんできちゃうのでした。

(LD「ガメラ永久保存化計画」の特典映像「ガメラ伝説」中のストーリーも好きですが、これは私のオリジナル)

久しぶりのウォーキング中に思いついたおバカストーリーなので、皆さん存分にツッこんで下さい(笑)。
こういうのもブログならではのお遊び。
どんな映画も考えるのはタダですからねー(笑)。私の心の映画館では、いつもこんな「超大作」が上映されているんですよ。いい年してオタクでしょー(爆笑)。
こんなおバカの怪獣オタクが一人くらい居てもいいかと。
金子監督も樋口監督もみんなこういう「夢見る少年」だったはずなんですから。

Photo_250 この「ガラシャープ」に限らず、ガメラ映画にはNGデザインの怪獣がたくさんありますよね。写真の「マルコブカラッパ」もその一つなんですが、これ・・・どう思います?

このデザインでストーリーを作り上げられたら偉い!私は尊敬します。

Photo_251 で、「対ガラシャープ」の結末は(もういいって?)私の中にはあります。
キーポイントは「生体エネルギー」とは具体的には何?という事。この後のストーリーはここをポイントに展開します。

でも私の中には、最近の怪獣映画によくある「変化」や「憑依」「合体」などはさせたくない、という意地があります。
それをやっちゃうと「何でもアリ」になっちゃいますから。


「成長」はあっても「変異」はない。
それが私の考える「怪獣映画」です。
どなたかに、この続きを考えていただくのも楽しいですよね。
「タダで作れる超大作」。創造の翼を広げる、いいトレーニングになりますよ(笑)。

2006年10月 9日 (月)

怪獣は存在理由が命

「ネヴュラ」でもよく書いていますが、妄想派の私は時間があると「私だけの怪獣映画」を考えるのが大好きで。
いつも魅力的なストーリーや大スペクタクルシーンを考えては、一人悦に入っているんですが(私ごとき、大した事は考えられませんが)その時大命題としていつもあるのが「怪獣の存在・行動理由」。
確かに映画は「絵」が優先なので、細かい理屈はある程度までにしておかないと面白くないんですが、それでも「その怪獣が何故存在するのか・何故そう動くのか」という部分は、作品の根幹にかかわってくる命題だけに、おろそかにできないような気がするのです。

もう今は休刊している雑誌「宇宙船」に、以前こんな投稿が載っていました。「ゴジラ×メカゴジラ」(2002年東宝 手塚昌明監督)についての読者からの感想だったと思います。
「ゴジラの存在理由についていろんな理屈づけがされているが、別にすべての生物の中で一番強い奴でいいではないか」というようなご意見が語られていました。

私、このご意見が大ショックで。

まあ作品は、100人が観れば100通りの考えがあるから面白いんですが、私は怪獣はおのおのに存在理由があるからドラマが生まれると思っていたので、もう今までの思いが音を立ててガラガラと(笑)。「いい悪い」ではなく、同じ作品でもこれだけの意見の違いがあるんだなー、と、しばし呆然としてしまったのです。

Photo_240 確かに「ゴジラ×メカゴジラ」には、そう思わなければ観てられない所もありますよね。
メカゴジラ「機龍」誕生・お披露目の途中、突如レーダーに感知されるゴジラ。
「なんで日本に来るの?」
例によって都市を破壊しながら暴れるゴジラ。
「なんで暴れるの?」
機龍との第一ラウンド、突然雄たけびを上げると海へ帰っちゃうゴジラ。機龍が目の前に居るのに。「なんで帰っちゃうの?」
おバカな私は、こんな展開が一つでもあるとそこで頭が先に進まなくなってしまうのです。

劇場で観た私は案の定まったくこの作品に乗れず、失意のまま帰路についたのでした。

後にいろいろな評論を読むにつれ、この作品では主役は「機龍」で、ゴジラは客演扱いと思えるように(これでも随分譲歩したのですが)なりましたが、それにしてもこの支離滅裂さはちょっと。
これは主演、客演とかいう位置づけとは別に、この作品に於けるゴジラの存在理由がはっきりしていないからとしか思えなくて。「すべての生物の中で一番強い」だけの存在なら本能も無いでしょうから、別に日本に上陸したり、暴れたり、機龍との対決中突然帰ったりしてもいいですもんね。

それでも私には、怪獣が存在したり行動するにはどうしても理由づけが欲しいのです。
Photo_241 初作の「ゴジラ」(1954年東宝 本多猪四郎監督)で登場したゴジラには「核実験で被爆した恐竜の生き残り」という存在理由がありました。ゴジラは日本領土内の島「大戸島」の海底に生息していた為、被爆のショックで目を覚まし、島を襲って東京へ上陸。それもはっきりとした理由があります。
核による被爆の記憶から、光や炎に激しい怒りを示すという理由。ゴジラは東京の町の明かりに反応したのです。
ゴジラの存在が「大戸島」に伝わる伝説と奇妙な符合を見せる脚本の妙も、ドラマの奥行きを深めていますね。

初作のゴジラが成功したのは、こんな風に怪獣の存在理由を明確にし、それに即した行動を描いた事も大きな理由のような気もするんですよね。
事実、続編の「ゴジラの逆襲」(1955年東宝 小田基義監督)では、大阪に上陸せんとするゴジラに対し、町の明かりを全て消すという作戦が採られています。(それも「あるアクシデント」で失敗しますが。それは実際ご覧下さい)
怪獣の行動は、やっぱりその存在理由が基になっていると思うのです。
私のようにストーリーを妄想する者にとっては、そこが一番面白い所です。だってそれがなきゃドラマが組み立てられないですから。

Photo_242 「ゴジラ×メカゴジラ」を賞賛する方々が逆にあまり楽しめなかったという作品が、その前年に公開された「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」(2001年東宝 金子修介監督)。
ひょっとして「ネヴュラ」で採り上げたゴジラ映画はこの作品が一番多いのではないかと思います。
それくらい私の中ではこの作品は評価が高い。
実は「キングコング対ゴジラ」(1962年東宝 本多猪四郎監督)の次ぐらいに好きなんです。
というのはこの作品、ゴジラという存在について一応の理屈付けをするよう「努力している」からなんですよ。

Photo_243 マニアが「GMK」と呼ぶこの作品のゴジラは、それまでのゴジラ映画とは違った存在として描かれていました。圧倒的な強さ。生物のセオリーを無視した白目。通常兵器が効かない無敵ぶり。こんな「あり得ない」存在を、何とかして「あり得るかも」と思わせるよう、周到な演出がなされているのです。
「戦争で亡くなった人々の残留思念の集合体。」
この設定がある限り、どんなに無敵でもある程度までは頷ける。
「超生物」とでも言える存在なんですから。
(納得できない方も多いでしょうが、私はその「理屈付け」の姿勢にリスペクトしました。)


皆さん考えてみてください。それまでのゴジラ映画で「メーサー光線も効かない」その体の構造について解説をした場面があったでしょうか?もともと無茶な設定を、この作品では「なんとか答えを出そう」としたスタッフの努力が見えるのです。

といって、金子修介はゴジラを「なんでもあり」の破壊神にはしませんでした。
私はあのクライマックスは、物理的な力ではなく人類の「生存本能」と「親子の絆」が残留思念に打ち勝ったと解釈しています。「怨念」と「情念」の闘いに、人類が勝利したのです。

深読みに過ぎない事は私にもよく分かっていますが、これもGMKゴジラの存在理由がはっきりしていたからこその解釈。「何故攻めてくるかわからない相手」に対しては、解釈のしようもありませんから。

金子作品には、この「存在理由」へのこだわりが随所に見られます。要は作品を観ている間だけでも観客に「なんで?」と思わせない工夫がされているのです。

「ガメラ 大怪獣空中決戦」(1995年大映 金子修介監督)もそうでしたね。
Photo_244 ガメラやギャオスの存在理由は「古代文明が生み出した生物兵器」で、ギャオスは地球に危ない変調が起きると文明を滅ぼす為に現れる一種の「セキュリティーシステム」。
ところがそのギャオスによって当の古代人が滅亡の危機に。その為古代人が作った「カウンターウェポン」がガメラ。
怪獣対決の理由付けはもうはっきりしている訳です。

だからあのストーリーが成立する訳で。
当然の話ですが、映画ってストーリー作りの段階では「映像」がまだ出来ていませんよね。
だからストーリーを作る者は画面に現れなくても、裏で相当な理屈付けをしておかないとストーリーが組み立てられないんですよ。「ストーリー」とは設定から抽出された一部なんですから。

最近頻発する「熊騒動」だって、存在理由を明確にして「熊」を「怪獣」に置き換えればすぐストーリーが出来ちゃいます。
この怪獣は(よくある)産業廃棄物の不法投棄により、それを摂取した熊が巨大化したもの。
熊の属性を持つこの怪獣は夜な夜な町に下りて食料を奪取するのですが、特に好むのが「蜜」。科学陣はこの習性を使い怪獣を捕獲する作戦を立てます。研究により蜜を大量に生産し餌として罠を張り、一応の捕獲に成功。
しかし怪獣は、以前摂取した蜂の毒の影響でさらに凶暴・強大になってしまいます。熊と蜂の属性を兼ね備えた怪獣は、鋭い爪に猛毒を持った危険な存在に。
「大きな熊」程度とたかをくくり、研究を始めようとした科学者を殺害し、檻を破って町に躍り出た怪獣。しかし怪獣の体はさらに恐ろしい進化を続けていました!対抗する科学陣は生物が2度同じ蜂の毒を打たれたときに生じる「アナフィラキシー・ショック」を利用する事を思いつきますが・・・
なーんて(笑)。

まあ、一瞬の思いつきですから吹けは飛ぶようなストーリーですが、怪獣の行動が「存在理由」によって決められるのは、こんな駄文でもお分かりと思います。
映画は何度も反芻して研究するもの。同じストーリーを再見しながら、幾重にも考えられた制作者のアイデア、こだわりを発見していくのは、映画好きに与えられた素晴らしい楽しみですね。

Photo_245 ところで皆さん、「GMK」で日本古来の怪獣と設定されたはずの「ギドラ」に、なんで英語の「キング」が無理なくネーミングできたか分かりますか?

私もある評論で読んでビックリしました。全然気がつかなかった。
その答えは、作品を丹念に見れば分かります。

実に周到に計算された「GMK」のシナリオに、私はもうひれ伏すばかり(笑)。

2006年10月 8日 (日)

それもやっぱりオタク道で

「どうも手足をすげ替えたみたいで」
レジの前から聞こえてきた、穏やかじゃない一言。


久しぶりに覗いたオタクショップで耳にしたその会話は、この世界を良く知る「おもちゃコレクター」の方々によって交わされていました。
一人はお客さん。もう一人は店主さん。


そのお店はおもちゃマニアの店主さんが一人で切り盛りする個人商店。扱っているのは基本的に中古のおもちゃで、お客さんから買い取ったおもちゃにプレミアを付けて店頭に、というパターンです。
まあ、私は地方都市に住んでいますから、プレミア価格といっても大した事はありません。私がこのお店を愛用するのも、「定価より安いおもちゃ」を手に入れられるチャンスを狙っての事なのです。

個人商店の事、お店の中は狭いですから、自然とその会話は耳に入ってきます。
怪獣のソフビを物色しながら聞くともなしに聞いていると、どうやらそのお客さんは東京の方のようで、かなり怪獣ソフビに入れ込んでいるご様子でした。

「欲しいウルトラマンのソフビが安く売ってたんですけど、どうも手足だけ別のソフビから持ってきてすげ替えたみたいなんですよね。色が違ってましたから。」
笑い話に花を咲かせる二人は、そうした「高額ソフビのカラクリ」の話に興じていました。

お宝ブームも一段落し、驚異的なプレミア価格も影を潜めたようですが、こと怪獣ソフビに関しては、まだまだビックリするような金額で取引されているアイテムも数知れずあります。
基本的に怪獣ソフビは昔発売され、子供が買った物を後年業者に売った中古品がほとんどですから、「遊んだあと」や「汚れ」、「名前が書いてある」のは当然あるわけで。
そこで高額で商品を売りたいマニア業者は、ソフビの使える場所だけをすげ替えて数体を一体にして売る「ニコイチ」「サンコイチ」なんていうインチキを行う事もあるのです。

そんなカラクリを見抜き、昔のソフビを集めているというお客さんは、自分のコレクションで足りないアイテムを話し出しました。
彼が集めているのは「ウルトラマン」本放送当時、1966年から67年頃に発売されたものがほとんどで、50体以上発売されたそれらのラインナップの内、足りないのは残り2体との事。凄い執念です。

多少はそんな世界を趣味にしている私。うすうす予想はしていましたが、次に聞いた彼の話はやっぱり私を驚かせました。
どうも彼は、先月だけで38体ものアイテムを手に入れたそうなのです。おかげでローン地獄に陥っているとの事。しかし彼にもいろいろな「技」があるとの事で。

どうやら彼は東京在住で、仕事でこちらに来たときにこのお店に寄り、大量に買い付けをするようなのです。こういう買い方は他のコレクターに聞いたことがあります。

「シモキタ価格」というものがあります。
数年前まで、中古の怪獣のソフビは東京の下北沢が日本で一番高値だったそうで、この価格に準じて東京の中古ソフビ市場が動いていたのだそうです。
自然と価格は東京が高く、同じ中古ソフビでも地方へ行くほど価格は安価に。
彼も地方で「掘り出し物」を見つけ、東京より安く手に入れるというのが賢い方法なんだそうで。

ですからこのお店は東京のコレクターにも名が売れた「優良店」。なるほどねー。いろんな技があるわけですねー。それにしたって彼、明日またおもちゃ関係のイベントに顔を出すようで、同じコレクターに自分の不要なコレクションを売ってなんとか資金を調達しているそうなんです。まさに自転車操業。いや「血を吐きながら続けるマラソン」か。

聞こえてしまうので仕方がないんですが、交わされる金額のケタが違うのがビックリで。「8」とか「9」とか言ってるから当然ケタは「万円」だと思ったら「10万円」だったと(驚)。
そりゃ、60万円のギララのソフビをローンで買った知り合いも居ますからカルチャーショックはなかったものの、それを月に何体か手に入れるというのはちょっと違う世界。いやー世の中広い。彼はそれほどの大金をどうやって作っているんでしょうか。羨ましい。

でそのお客さん、「50万円で買ったものが80万円で売れれは大儲けですからねー。奴はうまくやったなー」なんて知り合いの話で盛り上がってる訳ですよ。さらにビックリ。
お宝ブームと共にもはや絶滅したと思われた「おもちゃ転がし」の世界がまだあったとは。

「定価より高い物は買わない」主義の私としては、おもちゃを投機の道具に使うのはあまり好みではありませんが、一度うまみを味わっちゃうとそういう発想にもなっちゃうんだろーなー、なんて思ったりして。

バブルな空気を撒き散らしながら彼は最後に「東京より安い」ウルトラマンのソフビを一体お買い上げ。また明日イベントでたくさん買い込むんだろうなー。その資金繰りの話もしていました。
でも中古ソフビ一つでも、それくらいの価格になっちゃうと取引も真剣になっちゃうんでしょうね。その世界でもアイテムの程度(汚れなどのコンディション)を偽って値を吊り上げようとする「悪徳コレクター」がいるそうで、彼もボヤいてました。「XXさんは信用できないから」なんて。

趣味は個人の自由ですから本人がよければいいんですが、私にとってはなんとも驚きの世界で。同じおもちゃ好きでもこれだけの差があるんですねえ。
お店の片隅で見つけた、定価の半額の「ゴモラ」のソフビ、レジに出しにくくなっちゃったりして(笑)。

店を出る彼と入れ替わりに、二人のお客さんが飛び込んできました。
「モロボシダンに会ってきたぞー!」彼らは今日、何かのイベントでダン役の森次さんに会ったのでしょう。その興奮が伝わってきます。
で、笑っちゃったのは彼らのいでたち。二人の内一人はなんと、「快傑ズバット」の主人公、早川健そっくりの(わかる人には分かるでしょう)扮装だったのです。
なんかもう・・・すばらしい!この世界は。

皆さん、それぞれの「オタク道」を突き進んでいるんだなー。
都会の片隅の、狭いお店で繰り広げられる「濃い方々」の共演に、ちょっと得した夕方でした。

Photo_238 Photo_239 写真は以前このお店で買った「ゴモラ」のソフビ。
これは昔発売されていたものの復刻なので、価格もぐっとお安く3,000円。
隣のCDはサイズ比較用。ずいぶん大きいでしょ?これで3,000円ってなぜ?と店主さんに聞いたら、「付属の東京タワーがないんですよ」との返事。
いいです!そんなの全然構いません!

大喜びで手に入れたゴモラでしたが、性懲りもなく違うゴモラに手が伸びる私も、お店で会った彼らと同じ「オタク道」を歩いているんだなー、と感慨がひとしお。

嬉しいような悲しいような、ちょっと複雑な気分です(笑)。

2006年10月 7日 (土)

ブラックデビルは高笑いと共に

頬を撫でる風が気持ちいい季節になりましたね。
世間では今日から三連休。私の地方では今日は秋晴れで、ミニバイクで外を走ればつい鼻歌も出てしまいます。
そんな時、私はつい口ずさんでしまう歌があるのです。

「勇気だちかーらだー 誰にも負けないこの意気だ ヤー!」

Photo_234 という訳で(どういう訳なんだか)今日のお話は「少年ジェット」。
「赤胴鈴之助」で有名な漫画家、武内つなよし先生が原作の少年活劇テレビドラマです。

テレビ放映は1959年。この年、私はまだこの世に居ませんでした。昔の番組が大好きな私は、後年ビデオ、DVDで「初見」した訳です。その感想は。

この番組、面白いです。私の好みにピッタリ。

Photo_236 こういうテレビシリーズは映画と違ってソフト化になかなか恵まれず、ようやくリリースされたDVDも個数が少なかった為、視聴できたのは一部の好事家のみ。その内容をレビューできる機会もさほど多くないと思います。
事あるごとにこの作品を思い出してニコニコしている私は、少しでも皆さんに「少年ジェット」の楽しさを分かっていただきたくて。
未見の方も多いでしょうから、今日はストーリーの一部を簡単に紹介しながら作品のテイストを語ってみたいと思います。
今時「少年ジェット」なのが「ネヴュラ」ですねー(笑)。

「ジェット」と言えば、私の一押しエピソードは何と言っても第四部の三「怪人対魔人」篇。
この番組は一話30分で、一つのお話は四話で完結する方式を採っていました。「マグマ大使方式」でしょうか。なのでストーリーもかなり入りくんでいます。これがまた二転三転ですごくスリリング。おまけに展開が速いので内容てんこ盛りです。

その第一話を簡単に。
少年探偵・北村健くん(中島裕史)は「少年ジェット探偵事務所」を構える少年探偵。(表札にも大きく書いてあります。「少年」を売りにしているんでしょうか)ちょっと原田知世似(笑)。数々の難事件をその超人的な活躍で解決してきました。
そのジェットの事務所に、懇意にしている警視庁の荒川課長から電話が。「殺人事件発生!」この知らせに、愛犬シェーン(シェーン・D・グランプリ号)とともに飛び出すジェット。

Photo_235 ジェットが乗るスクーターは、富士重工業製の「ラビット」をデコレートしたもので、これがまたカッコイイ。私はこのスクーターに憧れて、今乗っているミニバイクを探したのです。
でも考えてみると、この番組のタイトル「少年ジェット」って事務所の名前なんですね。別に通称とかヒーローの名前じゃない。会社名なんですよ(笑)。

道路が舗装されていないこの時代の澄んだ空気もすばらしい。ジェットの事務所の隣の家では、ゴミでも焼いているのか煙が出てるし(笑)。のどかな風景が昭和の郷愁を誘います。

道端で「この近くで人殺しがあったそうですが?」と聞き込みを始めるジェットですが、あまりにストレートなセリフに通行人もドン引き。まったく手がかりが得られません。
現場には荒川課長は居ません。連絡をとっても不在の返事。
「誰か荒川課長の名を語って、僕をここにおびき出したのでは・・・」
そこに現れたのは見るからに怪しい浮浪者。すばらしい第六感で尾行を開始するジェットですが、相手との間隔が「近すぎる」(笑)。

その頃荒川課長は、部下を誘ってのどかにランチタイム。おいしそうな「ライスカレー」です。この番組、提供がカレーのS&B食品だったのでした。あからさまなタイアップが今見ると楽しい。

浮浪者を追うジェットはある廃墟の一室へ。
あっ!ドアが開かない!
閉じ込められたジェット。部屋の天井裏から高笑いとともに顔を覗かせたのは、ジェットの宿敵ブラックデビル!

怪盗ブラックデビル(高田宗彦)。世界的に有名な宝石、美術品などの盗みをジェットに何度も邪魔され、ジェットに深い対抗意識を燃やす男。怪盗ルパンを思わせるいでたちも怪しさ爆発。片目に色を入れた眼鏡とおヒゲが独特の雰囲気をかもし出します。
デビルは天井裏から眠りガスをまき、ジェットを眠らせながら自分の悪巧みを語るのです。高笑いとともに。

荒川課長からの電話はデビルの罠。ジェットをおびき寄せたその訳は・・・
「今日2月18日は、ガトラン王国から大使が来日する。その時、王から日本の皇太子に献上する大勲章を持ってくる。大勲章には世界に二つと無い宝石、オパーロンがはめ込まれているのだ。」盗みの品までを事細かに説明してくれるデビル。

しかし眠りガスは上に昇っていくため、ガスはジェットよりもデビルに当たりまくりで(笑)。もっと作戦を考えればいいのに。よく眠らなかったものです。デビル。
とはいえ(無事)ジェットは眠りこけます。視聴者はなぜかホッと胸を撫で下ろしたりして。

その頃部下から連絡を聞き、不穏な空気を察知した荒川課長はまたしても恐るべき推理力で(笑)、ジェットがブラックデビルの罠にはまった事、デビルが狙うオパーロンの事までも看破し、大使がやってくる羽田空港に向かいます。さすが大人。ジェット以上の切れ(笑)。

午後2時。空港に到着したガトラン大使。ご丁寧に奥さん、息子まで連れての訪日です。ここで(やっぱり)デビルの部下が警備員を引き付ける為、派手に銃撃戦を展開。対応に追われる警備員の目の前を通り(!)別の部下が、ノーガードの大使の息子にビストルを突きつけます。この部下がまたチャイナ服に覆面、という物凄く目立つ格好で(笑)。
「息子の命が惜しかったら、さっさと俺の車に乗るんでい!」
チャイナ服なのに江戸っ子か!

車に乗った大使一行を待っていたデビル。しかし彼は実に紳士的。大使には敬語です。
「大勲章をよこしなさい。さもないと貴方の命は勿論、奥さんも子供も皆殺しの目に合いますよ。」
こっちの方が怖いですね(笑)。「皆殺し」って・・・

空港からの連絡を受けた荒川課長はパトカーでデビルを追跡。デビルの車を見つけ、いきなり発砲する荒川課長。うーん、熱い!
その様子を見たデビルのセリフがまたカッコいいんですよ。
「このステッキの味が、まだ忘れられないと見える。」
ステッキ!凄い武器なの?渦巻く期待の中、デビルが放った「デビルファイヤー」!(勝手に付けた名前です)
ステッキからの煙と光で相手をかく乱する、デビルの必殺武器です。

「ジェットさえ居なければ、日本の警察など赤ん坊の手をひねるようなもんだ。」

突然、車の異常に気づいたデビルの部下。なんと車のタイヤには、何者かによって投げられたナイフが。車を止め、周りを見回すデビルの耳に響くのは、またしても異常な高笑い!
そこに現れた男は、西洋甲冑に身を包んだどう見ても日本人(笑)レッドベア(大川修)その人!

このレッドベア、以前にもフランスでデビルと一戦交えた過去を持つライバル。彼もガトラン大使の勲章を狙って日本にやってきたのです。

「ここで会ったが百年目。(古いね)今こそフランスでのかたきを討ってやる!」
「お前のその剣が勝つか。それともこのわたくしのステッキが勝つか。さあ来い!」

路上で切り結ぶ二人。それにしてもこの二人のテンションは普通じゃありません。
「気合い・高笑い合戦」みたいになっちゃって。豪快に笑った方が勝ち、という暗黙の了解が二人の間にはあるようで(爆笑)。

いよいよ劣勢のデビル。隙を見て(大使の勲章を奪えばいいのに)「大使をおしのけ」息子エルモンドを人質に姿を消すのでした。
追いついた荒川課長たちの前で、さも大使を守ったかのようにふるまうレッドベア。
この時のレッドベアの名乗りは、あまりのカッコよさに腰が抜けそうになっちゃいました(笑)。無理矢理にも見えるレッドベアの笑いで第一話は幕を下ろします。

この「キャラ炸裂」の敵役たちを相手に、囚われのジェットはどんな活躍を見せるのか?当時全盛だった連続活劇の「引き」が、いやがうえにも期待を高めます(笑)。

お気づきと思いますが、この第一話では主人公、少年ジェットはまったく活躍しません。
愛犬シェーンの活躍もなく、有名な武器「スーパーコルト」も火を吹かず、必殺技「ミラクルボイス」も見られないのです。ジェットの活躍は第二話以降のお楽しみ。

当時の活劇は、本当の必殺技は毎回見せる訳ではなかったんでしょうね。その分、いざ技が決まった時の爽快感は大変な物だったのでしょう。
そして、「主役なしでここまで面白い」という作品の力。
実際、第二話以降にジェットが絡んできても、これら敵役は輝きを失いません。
なんかもう「全員主役」状態。これはすばらしいドラマですよ。

他にもコメディーリリーフとして、チャップリン風のいでたちの名探偵・頓田紋太(中田勉。小林桂樹そっくり)や、日本一の金庫作り・横島鍵三(隅田一夫)など、個性いっぱいのメンバーが出演、先の読めない展開を見せます。
今見るとこの作品、思いっきり笑えますが、それだけではない作り手の真剣さを感じるのです。だからこそこんな風に語りたくなるんでしょうね。

余裕を見せる敵役に、健気に立ち向かう少年ヒーロー。
そんな健全な世界への憧れがあるのかも。

Photo_237 あと特筆したいのはブラックデビルやレッドベアなど、敵役が見せる「高笑い」。彼らシリーズ中ずーっと笑ってますから。
彼らが笑うと、こっちもつられて笑っちゃうんですよ。
いやー平和ですねー。

これがこの番組の最大の効能なのかもしれません。
「敵の高笑い」見たさにビデオに手を伸ばす。こういう作品もそんなに無いですから。

でもね。彼らちょっと笑いすぎ。
笑ってる間にもうちょっといい作戦を考えた方が。
そんな敵役をちょっと可愛く思うのも、「少年ジェット」の魅力なんでしょうね(笑)。

2006年10月 5日 (木)

超合金の悪魔人間

Photo_220 「本物のマジンガーZが、日産から発売されるらしい。」
こんな噂が私の周りでまことしやかに囁かれ出したのは、1974年・夏の暮れ。

テレビアニメ「マジンガーZ」が終了し、後番組「グレートマジンガー」の放送が始まった頃だったような気がします。

当時生粋のおバカだった私と仲間は、毎日のようにその話で盛り上がっていました。
「色は何種類か出るのかな」「シートはやっぱりバケットシートだろー」「最上級機種以外はエアコンがオプションだから暑いぞ。パイルダーは」
話は留まるところを知らず、武器にまで至ります。
「ブレストファイヤーと光子力ビームは標準装備」
「ルストハリケーンは?」
「あれはエアコンの室外機だからオプション(笑)」

Photo_221 あの頃、全国各地でこんな冗談が飛び交っていたのでは?(私の周りだけ?)
それ程盛り上がっていた番組が、今も連綿と続くテレビアニメーションの一ジャンル「ロボットアニメ」の雄、「マジンガーZ」(1972年12月~1974年9月)なのでした。

今日、この作品を懐かしく思い出したのには訳がありました。
新聞で定期連載している日本のアニメ関係者の記事に今日、「マジンガーZ」のメイン脚本家、藤川桂介さんが採り上げられたのです。

藤川さんは「マジンガーZ」と続編「グレートマジンガー」を通した全約140本中、90本以上の脚本を手がけたとの事。あのワクワクする毎週日曜日のお楽しみは、藤川さんの手によるストーリーが大半を占めていたんですね。

Photo_231  記事にはなかなか面白い事が書いてありました。「Z」放送当時は、「日本列島改造論」を掲げた田中内閣。高度成長の絶頂期で、作中でも破壊する楽しみを描いたそうです。
ところが三木内閣になってからは、その反省から破壊はダメという風潮になり、続編の「グレート」からは戦っても壊すものがないよう、基地は富士山麓から伊豆沖に移したんだとか。あの、やたら攻撃を受けた光子力研究所に比べ、科学要塞研究所は確かにあまり攻撃を受けた印象が無いですもんね。(皆さん、ついて来てるかな?)

Photo_233  興味深かったのが次の記述。「Z」の主人公、兜甲児は普通の高校生でしたが、「グレート」の剣鉄也は闘いのプロ、という設定に。
記事中ではこの変更理由は明らかにされていませんが、藤川さんは「(この変更の為に)その分、物語は面白くなくなったと思う」と書かれています。
最近、原作者の永井豪さんとも、「あそこからつまらなくなったね」などと話されたそうで。

政権の交代でアニメーションの作風まで変わるとは思いませんでした。小泉政権中のアニメを後年研究すれば、面白いかも知れませんが(笑)。
それにしても、前述の「主人公の設定変更」については、私も同じ印象を受けました。これは当時、番組のメイン視聴者だった人間の印象ですが、主人公が「プロ」になっちゃった事で、戦いの意義が「熱い思い」から「仕事」になってしまったような気がして、ちょっと醒めちゃったんですよね。

Photo_224 皆さんご存知でしょうが、ここで「マジンガーシリーズ」の設定をちょっと振り返りましょう。
初作「マジンガーZ」は、悪の科学者ドクター・ヘルに対抗する為、天才科学者兜十蔵博士が建造したスーパーロボット、マジンガーZの活躍の物語。兜博士は第一話で亡くなってしまい、孫で高校生の兜甲児が博士の意志を継いで、ドクター・ヘルの繰り出す機械獣と戦う、というお話でしたね。
第二弾「グレートマジンガー」は、「Z」の主人公兜甲児の父親、兜剣造が作った「Z」の上を行くロボット、グレートマジンガーと、ドクター・ヘルをも上回る悪の帝国、ミケーネとの闘いを描いたストーリーで、内容的には「Z」のスケールアップ版とでも言う物でした。
「グレート」を駆る主人公剣鉄也は、剣造博士が育てた孤児で、「グレート」を操り、ミケーネの戦闘獣(怪獣に対する超獣みたいな存在?)と戦う為だけに生きてきた戦闘マシーン。

Photo_225 私の考えでは、この「主人公が戦闘のプロ」という設定は、永井豪の作品世界とちょっと違うような気がするんですよ。
ただ、こういう感想でよくある「主人公が身近でなくなった事が思い入れを邪魔して」とか、「視聴者と年齢の近い主人公が望ましくて」などの思いでは無いようなんです。

「マジンガーZ」放送中、私は同時期に週刊少年ジャンプに連載していた、永井豪の原作コミックを並行して読んでいました。
同時期に、同じく永井豪が少年マガジンに描いていた大傑作「デビルマン」も楽しんでいたのです。

この「デビルマン」、私の中で今もトラウマを残す程で、終末テーマの名作として今でも語り草になっている事は、皆さんもご存知でしょう。
もちろんあの「デービィール」の緑色の巨人とは全くの別人を描いたストーリーですのでご了承を(笑)。

「マジンガーZ」と「デビルマン」。この二大名作は、永井作品を貫くテーマをものの見事に浮き彫りにした作品だと思うのです。

参考までに「デビルマン」のお話も少々。
この作品は、氷河期以前に地球を支配していた先住民族「デーモン」と人間との戦いを描いた・・・ように見えて、物語後半には作品の構造そのものが裏返っていくかのごとき驚異の展開を示す一大抒情詩。
そのあたりは実際作品をご覧頂くとしましょう。
きっとビックリしますから(笑)。

さて、今日のテーマ、主人公についてお話しましょう。
この作品の主人公、不動明は、開巻そうそう大変ひ弱な高校生として登場します。ところが親友、飛鳥了の手により、地球が先住民族「デーモン」に狙われている事を教えられるんですね。
闘争本能の塊、デーモン。相手を殺す事だけに喜びを見出す本能の為、彼らは進化の過程で「合体」という能力を身につけます。体を相手と合体させ、相手の能力を採りこんでさらに強くなる。デーモン同士の過酷な生存競争を勝ち抜く為の知恵です。
人間世界に昔から伝わる「悪魔」を思わせる、その醜悪な姿。

合体を重ね超能力を駆使するデーモンに、人間が対抗するにはどうすればいいのか?
考えがまとまらない明に、了は恐るべき策を提示します。

「テーモンと合体する事。」
デーモンと合体し、人間の意志をもったままデーモンの能力だけを採り込む。その能力でデーモンに立ち向かう。

その話の途中からデーモンの襲撃を受け、いやおうなしに合体の儀式に参加させられる明は、狂乱のデーモンとの合体現場で、ついに自らの意志を失うことなく最強のデーモンとの合体を果たします。
人間の心とデーモンの能力を持った悪魔人間「デビルマン」の誕生!

合体したデーモンの闘争本能が影響し、明の性格は激変します。闘い、暴力を好み、人間の意志は持っていても残忍なデーモンの本能も併せ持つ、非常に危険な存在となったのです。
デビルマンになった明を見て、了は一人恐怖に慄きます。
「私は、人間の心ではなく、人間の知識を持った怪物・デビルマンを作ってしまったのでは・・・」

この、「弱いもの、普通の人間が強大な力を持ったときの危うさ」こそが、永井作品の底流に潜む危険な魅力ではないでしょうか。
「マジンガーZ」も「デビルマン」も、主人公が普通の高校生だからこそ、力を手に入れた時の心の持ち方にたまらない興味が湧くのです。


永井豪はある本で「Z」について、こういう巨大な存在、力を操る事について「人間がやってはいけないことの領域」と発言しています。
「自分の力一つで、人類を滅亡させる事さえできる。」
幸福にして、甲児も明もその力を「負」の方向には使いませんでしたが、永井作品には常に、この恐ろしく甘美な妄想への危うい誘惑が溢れているような気がするのです。

ストーリーのあちこちに見られる、過剰な暴力描写や血も凍るようなアンモラルな表現が、その思いを助長しているのかもしれませんね。

Photo_228 そんな意味で、「マジンガーZ」と「デビルマン」は、私の中では同じ世界。
力を与えられた人間が、その内なる滅亡衝動を試されている、そんな印象を受けます。

「Z」と「デビルマン」は兄弟。「Z」は兜甲児が変身する、超合金で作られた悪魔人間なのです。

Photo_226 アニメ版「マジンガーZ」には、こうした永井作品のダークなテイストはありません。確かにこんなハードなお話、日曜7時に流されても(笑)
あ、「怪奇大作戦」があるか・・・(汗)
しかしながら、東映という毒の強い制作会社の手を経て、原作の持つエッセンスは確実に活かされているような気もするのです。
それは「Z」の顔つき。あの顔が、原作版デビルマンに似ているという指摘は、今までも数多くされてきました。
今日は「デビルマン」の写真はアップしません。
未見の方、自由にご想像下さい(笑)。

Photo_227 そういえば「Z」のデザインって、原作とアニメ版ではかなり違いますよね。
貴方はどちらがお好みですか?私はもちろん・・・(笑)。

蝿の羽音は殺しのサイン

不可能殺人!
空飛ぶ密室と化した旅客機の機内で起こった惨劇。

死因は背中を刃物で一突き。被害者の顔は恐怖に歪み、無抵抗で事切れていた。
被害者のそばで聞こえた、蝿の飛ぶようなかすかな羽音が意味するものは?
謎が謎を呼ぶ、恐怖のストーリー・・・

「透明人間と蝿男」(1957年大映 村山三男監督)。特撮映画好きの方には有名な作品ですよね。私も以前、この手の作品を追いかけていた時期に入手したものです。
再見してみて久しぶりに堪能したので、今日はこの作品の事をちょっと書いてみましょう。
キンチョール片手にご覧下さい。

海外の透明人間映画の評判と、「ゴジラ」で開花した特撮技術を駆使する企画として、日本でも透明人間作品が数多く公開されたこの時期。大映でも「透明人間現わる」(1949年 安達伸生監督)に続く第二弾として制作された「透明人間と蝿男」。
「蝿男」というネーミングはかのアメリカ映画「蠅男の恐怖」(1958年日本公開 カート・ニューマン監督)を思い起こさせますが、なんとこの作品の方が一年早い!凄い事ですよね。(ちなみに「蠅男の恐怖」は、本国での制作は1956年ですが日本未公開でした)
オリジナルに先駆ける事一年。本家アメリカより早く、SFキャラクター夢の共演という訳です。
言わば「エイリアンVSプレデター」みたいなものでしょうか(笑)。

ところがこの「蝿男」、本家アメリカのネーミングと被っちゃっただけで、実はまったくの別物。しかしながら、日本のクリエイターが頭をひねって作り出した、なかなかのものなんですよ。

あまりネタバレしすぎると怒られそうなので、今日はこの作品の設定、見所、そしていつもの「私見」を聞いていただきましょう。

まずこの「蝿男」という存在は、第二次大戦末期、日本軍の化学研究部隊がある孤島で開発した一種の兵器を使った人間達の総称。
兵器はアンプルに入った液体で、空気に触れると煙状に変化します。その煙を吸い込んだ人間は蝿ほどの大きさに変化、さらに飛行能力まで有します。
冒頭の殺人はこの兵器を使った物。黒幕の男はある目的の為にこの兵器を持ち出し、手下を使って、兵器開発に関係のある人間を次々と手にかけていた、という訳です。

冒頭の殺人に続き、次々と起こる密室殺人。絶対不可能な状況の中で起きる不可解な惨劇は、通気口などから進入し、一瞬の元にターゲットを仕留める蝿男の仕業なのです。
殺人現場を目撃した刑事が耳にする、蝿男が飛ぶときの羽音が一層恐怖を感じさせます。
「蝿の羽音は惨劇の前奏曲」と言えますね。


ここで一つの疑問が浮かびます。黒幕の男は何故自分自身で手を下さないのか。
ここに、この兵器の恐るべき秘密があるのです。

実はこの兵器には常習性があり、使用を止めると麻薬患者のごとき禁断症状が起るという代物。しかも副作用として性格は残忍性を増し、不意に起こる殺人衝動により、本来のターゲット以外の人間にまで手を下してしまうのです。
この手先の男は、クラブのダンサーである自分の情婦に近づく男を次々に惨殺、さらには情婦本人にまで「裏切った」という妄想を抱き、殺してしまいます。
事実、アンプルを求めて黒幕に脅しをかける男の姿は麻薬患者のそれに近く、狂気を孕んでいました。

黒幕が自らこの兵器を使わなかったのは、この常習性と副作用を知っていたからなのです。

事件の解決がつかないまま捜査を続ける主人公の刑事。そんなある日、彼は親友の科学者から研究所に招待されます。そこで彼は不思議な実験を見る事に。
宇宙線の研究途中に偶然発見した特殊な光線の実験。

「光には一定の波長があり、人間の目にはその波長に合った光だけが見える。ある物体に、人間の目に見えない波長の光を当てれば、その物体は見えなくなる。」

そうです。「透明光線」の原理です。

色めき立つ主人公。ところが学者達にとって、この光線は研究途中の偶然の発見に過ぎず、どう扱っていいか考えあぐねている訳です。
「尾行や張り込みにもってこい」なんて冗談めかして言うメンバー達。
この光線がその後のストーリーにどう関わってくるかは、皆さんのご想像通りです。
「ゴジラ」(1954年東宝 本多猪四郎監督)に登場した「オキシジェン・デストロイヤー」と同じく、こうした「研究途上の副産物」というアイデアは、ストーリーにリアリティーを持たせる設定ですね。私は大好き。
またこの研究室のセットも存分に作りこまれていて、東宝作品とはまた違ったリアリティーを観客に感じさせて素敵。

世間を騒がせる密室殺人は続きます。業を煮やす主人公。再度研究室を訪れた彼ですが、透明光線の研究は暗礁に乗り上げていました。
この光線は生物に当てても透明化出来ますが、肝心の「復元」が出来ないのです。

生体実験として透明光線を浴びたウサギは、研究中の復元光線を浴びると数分の内に事切れてしまいます。体中にガンが発生してしまうのです。
ここに、「透明人間と蝿男」という作品が持つダークな主張があります。

人間を縮小する兵器が持つ麻薬のような「常習性」「副作用」。
透明光線が持つ病的な「ガン」そして「復元不可」。
科学という言葉に秘められた「人間の欲望を可能にする『陽』の部分」と、人類の驚異として立ち塞がるガンや麻薬といった副作用『陰』の部分を、この作品は均等に描いているのです。

これは「明るく楽しい」を謳い文句にした東宝の特撮映画が意識的に配した部分でしょう。興味深いところですね。

また海外でも、過去の作品から近作の「インビジブル」「ザ・フライ」に至るまで、透明人間や蝿男の作品には、そうした科学の暗黒面を描写したストーリーが多いようです。「透明人間と蝿男」に流れるどこか乾いた空気は、そんな海外作品のテイストを感じさせてちょっと面白いですね。

さて皆さん。この設定で、「透明人間と蝿男」のストーリーを想像できるでしょうか?
私は今日数年ぶりの再見で、細かいところを忘れていた為、大変楽しめました。というのはこの作品、先が読めない(笑)。
確かにタイトルは「透明人間と蝿男」なんですが、この手の作品の定石を破る意外な展開の連続なので、おそらく皆さんの想像を裏切るストーリーになるのではと思います。
また演出のスタイルは非常にモダン。監督の村山三男さんについてここには資料がないので分かりませんが、かなりアクション、サスペンス演出に長けた職人さんとお見受けしました。
観客のエモーションを喚起させる、視点を駆使した飽きさせないカット割、テンポの早い展開は、現在の映画より楽しめるかも。

こういう作品に付き物の特撮。なにしろ今から50年近く前の作品ですから推して知るべしですが、「ウルトラQ」でもその手腕を存分に揮った的場徹の仕事はなかなかお見事。特に国電の爆破カットなど、私は目を疑いました(笑)。

この演出スタイルは、大映という会社が持つ社風ではないかとも思います。
狭い空間で、視点を縦横無尽に変化させて細かく刻むカットの流れは、セットの広さを存分に感じさせながらロングショットで押す東宝作品とは明らかに違う潮流。

ある意味新東宝作品に通じるいい意味での目まぐるしさも、こういった題材の作品には向いているような気がして好感が持てます。

そしてもう一つ、見事な照明効果も見逃せません。
この作品、撮影はおそらく夏だったと思いますが、その強い光と影のコントラストは、あの黒澤明監督の「野良犬」(1949年新東宝)を思い起こさせるもの。また後半のナイトシーンも光と闇のバランスが美しく、一種独特の世界を形作っています。

照明の米山勇・佐藤寛のお二人もまた職人だったんでしょうね。モノクロ作品ならではのすばらしいお仕事です。

今日も長々とお付き合い頂いてありがとうございました。
冒頭にも書きましたが特撮好きの方には有名なこの作品、それ以外の方には知られていないんですよね(笑)。
お笑いっぽいタイトルに惑わされると素通りしてしまうこういう作品(笑)。機会があれば一度是非ご覧下さい。

最近、私の周りではあまり蝿を見かけなくなりました。
こういう作品を見ると、蝿の羽音が懐かしく思えてくるから不思議です。
まあ、刺されちゃうのは嫌だけど(笑)。

2006年10月 4日 (水)

いいとこ取りのKちゃん

「私、53kgあるんですよ。」耳元で彼女が囁きます。
秋空にちょっと汗ばむ陽気。ふらりと訪れた、美容院。
気になっていた髪の色を変えたくて、思い立ったのでした。

なにしろこの美容院は今日初挑戦。馴染みのお店は今日お休みなので、以前からちょっと気になっていたこのお店を選びました。
眞鍋かをりさんがCM出演しているあのお店です。
ココログユーザーたるもの、やっぱり気になっちゃって(笑)。


さすが客商売。受付に立った私は完全に女性扱いで、気持ちいいったらありゃしない。こういう所はさすがに教育が行き届いてますね。
今までもいろいろなお店に挑戦して来ました。正体をバラしたお店、バラさずに通したお店と色々でしたが、今日はこの待遇に応じて「レディー」ぶりましょうか。

私に付いてくれたスタイリストは、冒頭のセリフを発した彼女「K」ちゃん。
最初、受付に現れた彼女を見た途端、私は目を疑いました。

あくまで女性の感覚と信じたいんですが、ものすごく可愛い子で。ちょっとビックリ。
エビちゃんと押切もえを足して2で割った感じ、と言えばお分かりでしょうか。
(言いすぎと思うでしょ?ホントなんですよこれが)

秋らしいウエスタン風のミニ・ワンピースで決めた彼女は、「CanCam」から抜け出したよう。「イヤミか!」と思うくらいの美人を担当につける、このお店の意図はいかに?

「どんな感じにしましょうか?」
ニコニコと笑いながら接客する彼女の髪は胸よりちょっと長いロング。「起きぬけであまりセットしてなくて」と笑っていましたが、充分すぎるくらいウェーブがかかったアレンジは、卵形の顔に良く合ってすごくキュート。手際よくシャンプーを始める彼女とのコミュニケーションが始まります。

美容院って、お客さんとスタイリストが一緒に共に過ごす時間が長いだけに、二人の相性がお店の印象を大きく左右しますよね。そのスタイリストをお客さんが気に入るかどうかでリピーターとなるかどうかが決まる、みたいな感覚があって。
ここからがスタイリストの腕の見せ所。私のような特殊なお客をどう転がしていくかがヘアメイクと並んで重要な技術である訳で。

「やっぱり話しやすいお客さんって居ますよね。」髪をとかしながらKちゃんは言います。私を完全に女性客として扱ってくれるのが素晴らしい(笑)。
このKちゃん、外見に似合わずものすごくサバサバした性格。豪快な手さばきに話もつい弾みます。

お休みの日の話になると、俄然饒舌になる彼女。
「昔から美容師が夢だったので、今でも街を歩くと人のヘアスタイルに目が行っちゃって。『この人はもっと似合う髪形があるのに』『ああっ私だったらこうするのに』とかもう、すぐ思っちゃって」
「ふーん。でも良かったよねー。憧れの職業に就けて。」

20代半ばのKちゃんは、変わった趣味も話してくれました。
なんでもお休みの日の夜は、彼氏と繁華街を歩くんだそうです。その時はいわゆる「夜のおねえさん」の格好を真似して、ボディラインを強調したハデハデの衣装に、ロングヘアーを活かした巻き髪で決めて、「まるでお店から出てきたような」女性を演出するのだとか。

「美容師っていろんな人がいますけど、私は自分を着飾る事で、ああいう夜の職業の女性たちを観察するんですよ。」
「やっぱり勉強になる?」
「うーん。彼女たちは職業柄、特別派手にしてるから普段の生活には使えないけど、やっぱり流行の服とかヘアスタイルの勉強にはなりますね。」
そこからお話は今年流行のブーツの話題へ。やっぱり女同士の話はどうしてもそっちへ行っちゃいます(笑)。

「私、健康オタクなんですよ。」
ヘアカラーを塗りながら、彼女が急に言い出しました。
ストレッチが趣味だそうで、最近は食事もヘルシーに、夜は絶対お米を食べず、5種類のオリジナルサラダを自分で作って、「太らない」鶏肉を物凄い量食べてるんだそうです。
「お料理も好きなんですよ。やっぱり髪も体も、健康にしているのが一番のケアですから。」
「でもそんなにたくさん食べて、太らない?」その私の質問に、Kちゃんが答えた言葉。

それが冒頭のセリフ。「私、53kgあるんですよ。」
もちろん体重のお話。

「えーっ!見えない!」これはお世辞じゃなくて本当なんです。
モデルでも出来そうな彼女のスレンターな体のどこに、そんな体重が!

「筋肉をつけてるんです。筋肉質な女が憧れなんで」
なんと彼女、可愛い顔して握力が50キロもあるんだそうです。
男の人でもそこまである人は少ないのに。

「そんなに握力つけてどうするの?」
私はもう興味津々。そこにまたしても意外な答えが。

「私、もう一つ趣味があって、車でサーキットを走るのが好きなんですよ。ピット作業もやらないといけないから、体力付けてるんです。」
タイヤ交換くらいは平気でできますよ。と笑うKちゃん。
「ほら」と曲げる腕には、こんもりと盛り上がる力コブが(笑)。
「男っぽいんです。私。」
その後、ヘアカラー済みの私の髪をブラシで巻き込む力も凄い凄い!(笑)。

「ずるい!」私は言いました。
「その美貌でお料理好きで、車が趣味で体力もあって。パーフェクトじゃない!」
「あはは。何言ってるんですか。」
「いいとこ取りだよ。いいなー。羨ましい。」

でもここで、単なる自慢にならないのがこの子の凄い所。
「でも私、昔から皮膚が弱くて。今でもアトピーが治らなくて。」

昔は夜寝ているときに顔がかゆくて、無意識にかきむしっていたそうです。
朝起きた時にはかきむしりすぎて、顔が血だらけだった事も。
「今でも首の後ろとかはちょっと出てるんですよ。髪で隠れてますけど。」
「じゃあ、ヘアカラーとかの刺激物を扱うと、体に影響するんじゃないの?」
「でも、手袋はめてやるから。」
「なるほど。大変だよねー。そういうのも。」

私はそういう、皮膚で苦労した事がないので、悩んでいる方々のお気持ちは分からないんですが、やっぱりお客さんを相手にするこういうお仕事は苦労が多いんでしょうね。
そのKちゃんの心情は、ちょっと分かるような気がしました。
「好きな仕事ですから。」そう言って笑ったKちゃんの笑顔は、やっぱり可愛い。
お願いだから一緒に並ばないで。私が男って事が強調されすぎちゃって辛いわ(笑)。

ヘアカラーも綺麗に決まり、彼女との時間も終わりです。
いろんな美容院を訪ね、個性的な美容師さんにも会いましたが、Kちゃんほどルックスと中身にギャップのある子は初めてでした。これだから人と会うのは楽しいですね。

「スタイリストにとって、自分で施術したお客さんの髪は「作品」ですから、それを維持できているかどうか確認する義務があるんです。またおいで下さいね。」

彼女の言葉はお店のマニュアルではないと信じたい。プロ意識ってそうですよね。きっと。
お店の前まで送ってくれたKちゃんに貰ったイチゴ模様の名刺は、今も目の前にあります。

うーん。このキュートなデザイン。こういうあざとさは好き嫌いが分かれるけど、私にとっては、決して超えられない女性の魅力に見えてしまいます。
「いいとこ取り」のKちゃん。がんばってね(笑)。

2006年10月 3日 (火)

空気感というエフェクト

子供を人質に、村の納屋へ逃げ込んだ盗人。
助けを請う村人の願いを聞き頭の髷を切ると、僧侶から袈裟を借り、二つばかりの握り飯を携えて納屋の前に立つ男、勘兵衛(志村喬)。

「子供と一緒に食え」納屋へ握り飯を投げ込むが早いか、勘兵衛は納屋の中に飛び込んだ!その後のカット、貴方はご存知ですよね。

映画やテレビなどの「作品」を思い出す時、皆さんは作品のどの要素を思い出しますか?
私はストーリーや出演者よりも、「セリフ」や「場面」を思い出してしまいます。

「あのセリフ一つで作品が忘れられなくなったなー」とか「今でもあの場面が目に焼きついて」などなど。何年も再見していなくて、ストーリーもはっきり覚えていない作品なのに、不思議と何気ないシーン、セリフだけが記憶の片隅にひっそりと残っている。そんな感じなのです。

今日お話する作品は、記事を書くために再見する、という時間がなかったので、ほとんど記憶だけで紹介します。その方が正直に自分の感性をさらけ出せると思うからです。
(まあ、きっといつもの作品ばっかりなんですが)

冒頭お話したシーンは日本映画の金字塔「七人の侍」(1954年東宝 黒澤明監督)の名場面。侍たちを指揮する勘兵衛登場の一場面です。勘兵衛の知略士ぶり、剣の腕前までを一瞬で表現したまさに黒澤映画の真骨頂。
お話するのも野暮ですが続きを申し上げますと、「うっ」といううめき声の後、盗人は納屋から走り出て、一瞬足を止めるのです。ここで画面はスローに。
苦痛に歪む盗人のバストショットを捉えます。この時点でもう「勝負あった」!なんですね。勘兵衛が盗人を切った場面は捉えられていません。

私は「七人の侍」というと、まずこのシーンを思い出します。「うますぎる!」
スローで引き伸ばされた時間、その場の空気までフィルムに定着されていると感じるからです。

前後のカットが通常のスピードであるだけに、そのカットが際立った迫力を見せています。前後に挟みこまれる菊千代(三船敏郎)他遠巻きのカットとの編集もすばらしいのですが、このカットが凄いのは、やはり「空気感」の使い方。
私の記憶に残るのは、そんな「空気まで映しこんだ」場面なのです。

「ネヴュラ」で最も登場回数が多い作品「日本沈没」(1973年東宝 森谷司郎監督)にも、素晴らしいシーンがあります。
作品後半、山本首相(丹波哲郎)と渡老人(島田正吾)が「日本民族の将来」について二人だけで語る場面。

DVDのコメンタリー、特殊技術の中野昭慶監督のお話によるとこのシーン、森谷監督の意向によりカメラを2方向から構え、カット毎に撮らずに長回し(ハリウッド方式ですね)したそうです。途中一切二人の芝居を止めなかった為、えもいわれぬ濃密な空気感がただようシーンとなっていました。

まあ森谷監督ご自身が「ミニ黒澤」などと呼ばれていた事もあり、空気感の使い方はさすがです。
名ゼリフ「何もせんほうが、ええ」(この「、」もセリフの一部なんですよね)が登場したのもこのシーン。
もう、丹波、島田の演技勝負、といったところですね。

このシーンに封じ込まれた二人の俳優の覇気には、今見ても壮絶な物を感じます。つくづく惜しい方を亡くしたものです。

「ネヴュラ」のメインテリトリー、特撮映画に移りましょう(笑)。
私が「空気感」映画でまず挙げたいのが「海底軍艦」(1963年東宝 本多猪四郎監督)。
多くのファンの涙腺を緩ませた名シーン、海底軍艦轟天号の試運転場面です。

第二次大戦終戦の夜、密かに日本を離れた神宮寺大佐以下数名が、日本海軍の復活を賭けて孤島で極秘に建造した「海底軍艦」轟天号。なんともロマンあふれる設定が子供心をくすぐります。
島の湖の地下深くから湖底を割って姿を現した「轟天号」が、轟々たるジェット噴射音とともに飛沫を撒き散らせ、垂直上昇する姿をワンカットで捉えたこのシーンは、円谷特撮の底力を見せ付けた名場面。
ここは一言、言っておきましょう。このシーン「リアルじゃない」とか、「ありえない」と言う方には申し訳ありません。私はこう言いたくて。
「本物より凄い」「リアルを超えた世界」。

どうしてこんなに凄い迫力なんでしょうか。このカットを見る度に思うんですが、やはりこれは「現物を撮影している」からじゃないかと。

例えば、「スターウォーズ特別篇」(1997年アメリカ ジョージ・ルーカス監督)で、ラストのデススター攻撃の直前、Xウィングの編隊がデススター空域に集まるカットなんですが、これって1977年アメリカ公開のオリジナル版を、CGで作り直していますよね。
確かに凄くリアルにはなっているんですが、私はこのカット、あまり好きじゃないんです。
絵が整いすぎているんですよ。

やっぱりオリジナル版の、合成のマスクが若干ズレてるあのカットの方が、味がある。
CGは「綺麗に出来すぎる」のが利点であり、欠点なんですよね。
おそらく、監督やCGクリエイターの考えていた以上の物はできないと思う訳で。

で、「海底軍艦」にお話を戻すと、あの試運転シーンは、おそらく現場のスタッフだってあれだけのものが出来るとは考えていなかったのでは。
それは人間の手による「出来不出来の不確実な仕事」が生み出した奇跡じゃないか、なんて思えたりして。(偉そうですね)
そしてスタッフ達のモチベーションを上げた物、それこそ目の前にある「セット」であり「ミニチュア」であると考える訳です。

怪獣映画の監督が「本篇部分(人間のお芝居の部分ですね)の撮影のとき、実物大の怪獣の手とかと絡むシーンがあったりすると、役者さんの演技も熱が入る」なんて言いますよね。あれと同じ事じゃないかと。
で、そんなスタッフ達の緊張感までが、フィルムに定着されたのがあの試運転カットではないかと思います。
やっぱり現場の雰囲気って作品に出るんですよ。きっと。

「海底軍艦」のお話が出たらやっぱりこれも、という訳で、テレビ作品ですが「マイティジャック」(1968年)。
私はこの作品、レーザーディスクしか持っていませんが(貧乏で・・・)海底軍艦がヒントになったと言われる、「空飛ぶ万能戦艦」の発進シーンはもう、お見事!

以前上映会で大スクリーンで観ましたが、そのハイスピード・カメラを使った海からの飛翔カットは凄いです。あの、マイティ号の翼に打ち寄せる「波」の大迫力。

当時の戦艦デザインとしては突出したフォルムを持つマイティ号の素晴らしさもさることながら、これだけは絶対CGでは再現できない「制御不能」の波の演技が、心底まで私を酔わせるのです。

「空気感」がすばらしいと思った最近の作品は、「ゴジラ モスラ キングギドラ大怪獣総攻撃」(2001年東宝 金子修介監督)。
私、公開初日にこれを観て、あまりの凄さにひっくり返っちゃいました。

その後に予定していた番組の女性リポーターとの打ち合わせが、ほとんどこの作品の賛美に終わってしまったという「前科」があります(笑)。

見所の塊みたいなこの作品ですが、「空気感」という切り口で言えば、作品の序盤、大湧谷での「ゴジラ対バラゴン」が一押しでしょうね。中でも戦闘直前、登場したゴジラと崖を前に対峙したバラゴンを捉えたロングショットが素晴らしい。
手前に飛ぶヘリコプターが怪獣の大きさと、空間の広がりを見事に表現していました。控えめに焚かれたスモークもいい仕事してましたね。こんなパノラミックな場面を新作の怪獣映画で観る事ができるなんて。(結局、後日別の劇場でまた観ちゃいましたが(笑)。

今日は本当に記憶だけで綴ってきましたが、つくづく映画は「絵」だなと思います。
こうして書いているだけでも、場面の迫力やBGM、見た時の心臓の鼓動までが思い出されて来るから不思議。
あれはやっぱり出演者・スタッフ一丸となった制作現場の熱い思いが、「空気感」という最高のエフェクトとなって作品に定着されたからなんでしょうね。

最近の作品は、CGによる出来すぎた絵で損をしてますよね。
ほら、美人だって「完璧じゃなく、一箇所個性的な部分がある方が魅力的」って言うじゃないですか。
私ですか?いやー私は「オタクでおバカ」というエフェクトがかかりすぎて。ある種ピカソの世界です。
(いや、最近発見されたムンクかな(泣)。

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