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2006年9月の記事

2006年9月30日 (土)

私だけの勲章

Photo_215 「いろいろ考えるねー。今度はこれか。」
久しぶりにお休みの土曜日。ふらっと買い物に出た駅前でこんな袋を配っていました。

大きさ30センチ四方のLPサイズ。布製だとちょっと「もらっていいの?」って感じになります。

Photo_216 Photo_217 中身はこんなものが入っていました。新発売の資生堂シャンブー案内です。
よくありますよね。


シーズン毎に出ますねシャンプーって。当然、小さな袋の中には試供品が。

こういう試供品は、今は街のあちこちで配られていますから不思議ではないんですが、私は今日のようなシチュエーションで試供品をもらうと、なぜか嬉しくなってしまうのです。

この新発売のシャンプーは当然女性用。今日の試供品も、資生堂のスタッフ(バイトの女性ですが)がお揃いのコスチュームで「女性だけ」に配っていたのでした。

皆さんはもうご存知でしょうが、私は「女性として生きる男性」です。女性の身なりはしていても、顔や骨格は男なのです。
そんな私がこんな試供品をもらえる、という事だけでも既に嬉しいのに、今日の場合、駅前の3ヶ所ぐらいにスタッフが立っていて、私はその全てのスタッフから袋を差し出されたのです。こりゃホントに嬉しい(笑)。

荷物になるからと最初の二人を断って、三人目でやっと受け取るこの喜び。
私達のような者にしか分からない至福の一時なんですよ。

まあ確かにこれを配ったスタッフには、「たとえ男が女装していても、購買が期待される相手なら渡すように」というマニュアルがあるのかもしれませんが(笑)。

私のような者が女性の生活を思い立った時、まず最初に超えなければならないハードルが「外見」です。で、ここでほとんどの人が一苦労。
女性服の購入から始まって(試着なんかする度胸はないですから、まるで宇宙空間のように呼吸が苦しい婦人服売り場で、目の前にある一着をひっつかんで帰って着てみれば肩が入らず、なんて事はしょっちゅうで)化粧も最初はオバケのようになってあたふた(元が男ですからどうやっても雑誌のモデルには近づけず)するのがまあ、普通です。
それでも自宅の部屋で血のにじむようなシュミレーションの上、服も化粧もなんとか自分の納得が行くレベルに達したところでいよいよ外出。
意を決して部屋のドアを開け、颯爽と外へ出ようとするその一歩が踏み出せない。玄関からドアを境にたった30センチ。
その30センチがこんなに遠いとは(泣)。
たいていの人はここで激しい葛藤に見舞われます。「こんなことしている自分は異常では」「いや、これが本来の自分の姿」なんてね。

この葛藤の平均時間30分。(昔の記事にも書きましたね。)

これだけの苦労の末の外出ですから、そりゃもう自分がどう見えているかが心配で、不安で。必要以上に挙動不審に見える行動になっちゃうんですよ。男の時に掛けるサングラスなんかしちゃったりして。そうすると顔がよけい男を強調しちゃって逆効果なんですが。

私も初めてそういう格好で外出した時は悲惨なものでした。問題は髪の毛。今は地毛ですが、当時はカツラでしたから暑いのなんの。今年のように暑かった夏なんかは、外出した途端髪の生え際から滝のような汗が流れ出て、「レイダース 失われたアーク」のラストシーンみたいにお化粧が溶けちゃって。昼間からオバケでした(爆笑)。

こんな調子ですから最初は、街の中心、特に駅前なんてとても歩けなかったんですが、それでも少しずつ場数を踏んでくると、冒険気分でちょっと人ごみにも挑戦したくなるものなんですよ。
(本当は人ごみの方が目立たずに歩けるんですが、人の目が多い事で敬遠しちゃうんですね)
そこで私などがよくやったのが、「駅前ティッシュチェック」。

駅前ではいろんな業種が広告を配っていますが、少し前までは化粧品、マッサージなど女性限定の業種ではその広告がティッシュに印刷されていました。
つまり、駅前で渡されるティッシュのほとんどは女性相手という訳。ティッシュは女性の方が使いますから。

それで、駅前のメインストリートを歩いてみて、いくつ位ティッシュをもらえるかチェックしていた時期があったのです。

これは実に勉強になりました。私のような人たちにしか分からない感覚ですが、外見を作る技術の上達に応じて、もらえるティッシュの数がどんどん増えていくのです。いやー数字は正直。
あのティッシュも、「どこから見ても男」には渡さないんだな、という事が見に染みて分かりました。
辛かったですよ最初は。
差し出されてすぐ引っ込められた事もありましたし。

ですから、もらえるティッシュや冒頭でお話したシャンプーなど、「女性にしか渡さない」街頭宣伝品は、私には「戦利品」。
女性として見てもらえた証に思えてしまうのです。
幸いな事に今は「差し出されて引っ込められる」屈辱を味わう事もなく、なんとかモチベーションを保っていられます。まあ外見はまだまだですが(笑)。

女性読者の皆さん。皆さんが苦労なく受け取っている街頭ティッシュも、私達にとっては「努力の結晶」なんですよ。

でも、結局は男。そりゃ見れば絶対分かります。それでも「渡す」行為に走らせるもの。
それはやっぱり最近の「性同一性障害」関係の認知によるものでしょうねー。

世間が「そういう人も世の中には居るんだ」という事を認めるのは大きい。要は女性専用の商品でも売れればいいわけですから、需要には性別は関係ない訳で。

異論もおありでしょうが、私などはそういう世の中の流れは大変喜ばしいと思います。
好きでそんな風に生きてるわけじゃないですから、それはそれなりに認めてもらえれば、やっぱり嬉しい(笑)。

お話はちょっと戻りますが、私が女性として生きる上で心の支えになっている「勲章」があります。
もう全然大した物じゃないんですが。タダだし(笑)。

Photo_218 この「スリムビューティーハウス」の案内。
もらったのは随分前ですが、ハガキ大の大きさで、左端のケースの中に割引チケットや小さな案内などが入っていました。
ご存知でしょうがここ、「女性限定サロン」なんですよ。つまり、これを渡してくれたという事は「女性として見てくれた」と考えてもいいのでは、なんて喜んじゃったんですね。
で、ずっと取ってあると。

これをもらった時のシチュエーションも忘れられません。これ、実は本屋さんでもらいまして。本を買ったときに若い女性の店員さんが袋に入れてくれたようなんです。家に帰って袋を開けてビックリ。買った本は忘れても、この案内の事だけはずっと憶えています。
これだけは、女性だけに配っていると思いたい。この本屋さんの袋全部にこれが入っていたとは思いたくなくて(笑)。
私にとっての「勲章」であり、「一切れのパン」なんです。

くじけそうになった時にこれを見て「釈由美子が応援してる。このプロポーションを目指すぞ!」なんてね。(ちょっと違うか)
意外に「お前ちょっと痩せろよ」という店員さんの無言の圧力だったりして(泣)。

こんなつまんない物を堂々と「勲章です!」なんて言えるのもブログの良さですね。こんな風に自分に正直になれる「ネヴュラ」を、これからも大切にしていきたいと思います。

Photo_219 結局今日の外出で買ったのは、「アジエンス」のコンディショナーとトリートメント。いろんなメーカーを試しましたが、結局これに落ち着きました。
そしてもう一つ、女性の声を維持する為の必須アイテム「ヴィックスドロップ」。
私はこのレモン味がお気に入りです。


これからの季節は空気が乾燥しますから、喉のケアは万全にしておかないと。
ちょっと発声練習。「ああ~青春は~ 燃える陽炎か~」(笑)。

2006年9月29日 (金)

時速250キロの恐怖

JR京葉線、東京駅の変電所火災で、21万6千人の足に影響が出たそうで。
私は地方に住んでいるのでこの事故は全く関係なかったんですが、過密な交通機関がちょっとした事で日常の足に大きく影響する事は、私の町でも同じです。
通勤などに響いた方、お気持ちお察しします。

さて、この一件でここ数日、駅や鉄道の映像がひっきりなしに報道されましたね。
そして、私の中ではちょっと引っかかっていた事がありまして。
先日大霊界に召された、丹波哲郎氏。
そして今ひとつ、おととい記事に書いた「タイムリミット作品」について。
「なーんか一つ、大きく忘れている作品があるような・・・」

鉄道、丹波、タイムリミット。この三つが重なった時、やっと思い出しました。
おバカですねー。「日本沈没」で樋口監督も真似していた、あの作品を忘れるとは。
今日はその作品について、またまた私見など。

<爆弾時代>1975年。折からのパニック映画ブームに乗って東映映画が世に放った超大作、
「新幹線大爆破」(佐藤純彌監督)。
この時期、洋画、邦画の各社がこぞって公開した、オールスター出演・パニック映画の一本です。

私、この作品大好きなんですよ。以前ご紹介した「電送人間」並に手が伸びてしまう作品なんです。「日本沈没」(しつこいようですが1973年版)ほど力を入れなくてもいいし、「電送人間」ほどお気軽に見る気分でもない。そんな時、必ず片手にありますね(笑)。
考えてみれば、これ程「タイムリミット・サスペンス」の称号がふさわしい作品もないですよ。ハラハラドキドキ、何度見ても飽きない、良質な作品と思います。

この作品、ご覧になった方はお分かりと思いますが、キアヌ・リーブス主演の映画「スピード」(1994年アメリカ ヤン・デ・ポン監督)の元プロットになった、なんて言われましたよね。
つい最近も地上波で放送されたので、「スピード」の方をご覧になった方も多いでしょう。
私は「スピード」も好きですが、ことサスペンス度については「新幹線大爆破」の方が数段上と思っています。

タイトル通りこの「新幹線大爆破」は、東京-博多間1100kmを結ぶ新幹線を「人質」に取った犯罪者と国鉄、警察との攻防を描いた娯楽作です。
「スピード」では狂信的な犯人によってバスに爆弾が仕掛けられますが、こちらはなんと、乗客1500人を乗せ、時速250キロで疾走する新幹線に爆弾が。
これだけでもう卓越したアイデアなんですが、さらに恐ろしいのはこの爆弾、新幹線発車と同時にスイッチが入り、時速80キロ以下に減速すると爆発する仕掛けなんですよ。(この「80キロ」の設定はそのまま「スピード」がパクってますよね(笑)。

さて、この秀逸な設定をどう活かすか。「スピード」は皆さんご存知でしょうから、ここからは「新幹線」のみに絞ってお話を進めましょう。

おととい書いた拙文、「タイムリミット作品」では、タイムオーバーの時間や空間って、割と決まっていたような気がします。(そうでないにしても、作品内では「決まっているかのような」演出がなされていました)
ところがこの「新幹線大爆破」は、そのリミットが次から次へと襲ってくるのです。

この作品には「三つのリミット」があります。

一つ目は「新幹線なんだから終点がある」という、当たり前のリミットです。
発車数分後に犯人からの電話を受けた国鉄は緊急体制を敷きます。博多までの運行時間を計算し、時速を250キロから120キロまで減速させ、時間を稼ごうとする訳です。(80キロ割ったら爆発ですから)
その間に警察と協力、犯人を突き止めようとするんですよ。

これは新幹線ならではのアイデアですね。多少の引き伸ばしは出来ても、いずれ絶対停まらざるを得ないですから。
犯人は実に頭がいい。バスみたいに同じ所をグルグル回っていれば、なんてお気楽な発想を観客に与えない、見事な設定。

二つ目は「新幹線は人間が走らせている、人為的な行為」から来る「不測のリミット」。
作品内では、国鉄側はこの新幹線を減速させないため、同時刻に運行している国内全ての新幹線をストップ。万全を期すのですが、ここに不慮の大事件が勃発。これは読めない。
しかも新幹線にはATC(自動列車制御装置)という代物が装備されています。
列車を安全に運行させる為のATCが、この不意の事件に絡んで1500人の乗客を危険に晒すことに。ここは見所です。
安全の為のシステムが命のリミットを作ってしまうという。

こういうドラマって、描かれる世界の設定をうまく使った演出(この作品で言えば「鉄道」の世界ですね)があると、がぜん盛り上がる。「ありそう」と思わせちゃうんですよ。観客をそう思わせてしまえばしめたものです。

三つ目は犯罪ドラマの定石「犯人逮捕」のリミットですね。
この作品の犯人は、爆弾を仕掛けた新幹線の乗客を人質に取り、外部から国鉄へ電話を掛けて「博多へ着く前に金を用意しろ」と脅迫します。
金の受け渡しが終わったら爆弾の撤去方法を教える、と言うんですよ。

最初はいつものイタズラ、と相手にしなかった国鉄ですが、テストケースとして夕張の貨物列車に同様の爆弾を仕掛け、実際爆破させる犯人。このあたりの演出は「恐怖の報酬」(1953年フランス アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督)の、「ニトロ一滴」シーンに匹敵するおどかしが効いていて、実にワクワクさせます。
本腰を入れる警察ですが、犯人逮捕の唯一のチャンス、身代金受け渡しの瞬間に賭ける攻防も、新幹線の博多到着のリミットと重なって実にサスペンスフル。
ご覧頂けば分かります。最後の一瞬まで目が離せません。

さて、この作品、私見では「スピード」よりも「ダイ・ハード2」(1990年アメリカ レニー・ハーリン監督)に近いような気がします。「ダイ・ハード2」では、人質は新幹線に代わって飛行機になる訳ですね。なんとなくテイストは分かってもらえると思います。
ただ、この作品が同種の作品と違うのは、「マクレーン刑事」や「SWATのジャック隊員」が主人公ではない事。
「新幹線大爆破」は、犯人側の視点でストーリーが進んでいくのです。
確かに国鉄側の司令室と新幹線の運転士(これがまた濃い役者揃いで)息詰まるやりとりや、パニック状態の車内も見せ場ですが、私達観客が感情移入するのはあくまで主犯の「彼」。(男性読者はもちろん、女性読者も憧れる「あの方」です)。

そう考えたとき、この作品はまた違った一面を観客に与えます。
ストーリーとしては、身代金を渡して爆弾を外すか、犯人を捕まえて自白させるか、という筋立てなんですが、犯人側に感情移入している私達は、ここで不思議な感覚に捕らわれるのです。

「乗客も助けたいが、犯人も逃げて欲しい」。

この、作品に対する観客の心理に対し佐藤監督が用意した、手に汗握る結末は?
特撮を駆使したサスペンスシーンもスパイスとして楽しめる「新幹線大爆破」。
ヌルいサスペンスに飽きた貴方には、秋の夜長が2倍楽しめる作品です。

「日沈」と並んで、樋口監督が愛する作品というのもよく分かりますよ。

あれ、「丹波さん」の話題が無いって?
そうか。今日の記事は意図的に出演俳優の名前を伏せましたからねー。俳優名を出さなくても、ストーリーと演出だけで充分楽しめる作品ですから。
勿論丹波さんも出てますよ。重要な、と言うか「押さえ」の役どころかな。この作品でもあの「丹波節」は健在。この人じゃなければできないですね。あの役も(笑)。

2006年9月28日 (木)

ネイティブの業

「『ブリィッシュテイスト』って読むんですね?」
今日のお仕事。私が書いた原稿のナレーション収録の時、女性アナウンサーに言われた言葉。

「ブリッシュって、テは濁らないんじゃないでしょうか?」
「えーっ?そうなの?」
今まで「ブリィッシュ」と信じて疑わなかった私は大パニック。

アナウンス部のベテランアナにも問い合わせましたが、「英語だから読みはどっちでもいいんじゃ」なんて言われる始末で。結局両方の読みを収録しましたが。
後でネットで調べたら、どうも「ブリティッシュ」が正しかったみたいで。いやー人間死ぬまで勉強ですねえ。(皆さんの冷ややかな笑いが心地いい・・・)

こんな調子で毎日おバカ続きの私ですが、今日のお話はそんな相変わらずの日常ではなくて(恥ずかしいですし)その後の女性アナウンサーの一言に端を発するのです。
実は今日のお仕事はあるブティックの取材でした。最近のトレンド情報をVTRにするものだったんです。そこで私が作った番組の原稿に「ブリティッシュテイスト」の一文があった訳ですね。

原稿には、お店の人に取材した数々のトレンドアイテムが解説してあったんですが、その原稿を見てアナウンサーの彼女が発した言葉は
「やっぱりこの秋は、『スキニー』と『ブリティッシュ』ですねー」でした。

皆さん、もうお分かりですよね。今年の秋から冬にかけての流行は、『スキニー』と呼ばれる細身のシルエットのパンツ。主にデニムなどが多いのですが。
そしてもう一つ、イギリスの伝統的なデザインを踏襲した、ツイード素材やチェック柄などのテイストなのです。

「上半身はふんわりとしたボリュームで、下半身は細身」というシルエットが世界的な主流。
その為周りの女性からは、「今年の流行アイテムは特に着る人を選ぶ」なんて嘆きの声が聞かれるんですが。

地方局とはいえテレビアナウンサーの彼女は、やはり容姿も人並み以上。プロポーションも抜群です。それでいてクールにニュース原稿を読む姿は、「知性美」とも呼べる清潔感いっぱいの美しさが漂っていて、私などはいつも、自分よりはるかに年下の彼女に羨望の眼差しを向けているのです。

「うーんスキニーって細いですよね。よーし。採り入れてみよっと」と、ガッツポーズをとる彼女を見ながら、私は「ネイティブの女性」の業を見たような気がしました。
考えてみれば、こういったファッション系の取材VTRをスタッフ間で見せるときも、女性スタッフの目の輝きが違う事にいつも私は驚いていました。

「ここのお店の服、いつも可愛いから楽しみなんです」
「あーっ。このお店もうすぐバーゲンなんですか?行かなきゃ」

VTRの出来はそっちのけで、ひたすら画面に映し出されるレディースウェアに釘付けになる彼女達。
正直、私は彼女達ほどファッションに執着を持っていないような気がします。

「女性として生きる事を決めた」私ですが、このネイティブの女性ならではの「着飾りたい願望」には、尊敬の念を禁じえません。
確かに、毎月のお給料の内いくらかは洋服代、化粧品代などに消えていきますが、いつも雑誌やテレビで流行を追いかけている訳ではない私。(そりゃ毎日怪獣映画を見ながらソフビで遊んでるOLも居ないでしょうが)
お気に入りの服を見つけた時の彼女達の「目の輝き」には、何か女性の本能を感じるのです。

「ネヴュラ」の女性読者の方々、いかがでしょうか?
よくありますよね。少女の頃、お母さんの服を勝手に着て怒られた経験とか、口紅を無断でつけた経験とか。もう、これは男の子にはない女性特有の原体験なんですよ。
もともと男性だった私には、もうこの根源的な「女性の業」にはかなわない。

昔の記事にも書きましたが、私達のような者は、本物の女性が到達する精神レベルまで駆け足で追いつかなければならないんです。
ですからもう、その道のりは大変(笑)。ウルトラマンのマスクの素材は知っていても、女性の服の素材なんてつい最近まで全く無頓着でしたからねー。

この「ネイティブ女性の業」を感じる事は、最近特に多くなってきました。それは私が職場で同僚の女子社員と過ごす機会が増えたからでもありますね。
これは当たり前の事ですが、例えば好きな映画の雑談などをしている時、女優の話よりまず男優の話。私がよくする演出などの「芸談」よりも、まずストーリーの話。そしてやはり女性は、ヒロインに自分を投影することが多いようで、「物語の中に自分が没入する」感覚が強いような気がします。
ですから映画を「作品」として見る私とは話が見事にかみ合わない(爆笑)。

確かに女性だって十人十色。色々な考えがあって当たり前なので、私のスタンスもそれなりに受け入れられています。(「若干クールすぎる」とはよく言われますか)
ですが、私から見れば彼女達のような、感受性豊かな受け取り方がかえって羨ましかったりするんですよ。「夢見る力」というか。
それは男性が将来なりたい職業に対して持つ「野望」的な夢・支配欲とはちょっと趣が違うような。
うまく言えませんが、「どんなに出世しても、男性の前では可愛くありたい」的な、「受身」的な夢のような気がします。

(それは仕事上のスタンスとはちょっと違います。精神的なバランスという意味で)

この境地に到達すべきかどうか。私の中ではいつも葛藤があります。
「たぶん永久に到達できないのでは」という思いと、
「到達する、しないという問題より、今の自分でいる事が大事」という思い。

たぶん私は、映画や怪獣に対する思いだって、同じ趣味を持つ女性とは見方、切り口が違う筈なんですよ。その部分も大事かなって。
ただ自分を肯定しすぎると、今度は女性としてありえない存在になってしまう。そのバランス感覚が難しいんですよね。

以前にも少し書きましたが、
男女の狭間に立つ私は原作版「デビルマン」的存在なのかもしれませんね。
(通な方ならなんとなくお分かりと思います)

まあ、日々の記事の支離滅裂さが、私の内面をよく表していると思います。とても同じ人間が書いているとは思えませんからねー(笑)。
でも、そんな危ういバランスを取りながら日々を生きる私が、ちょっと好きだったりします。
そりゃ、ネイティブ女性の感性、女性としてのキャリアにはとてもかなわないけど、それを補える何かがあるような気もするんですよ。それが何かはまだ分かりませんが。

「ネヴュラ」を続けているのも、ひょっとするとそんな自分の内面を見つめてみたいからなのかもしれませんね。ほぼ毎日の更新の中で、その日のテンションや考えなどが嫌でもあらわになりますからね。

いやー今日も変なお話でごめんなさい。「ブリティッシュテイスト」から物凄く脱線してしまいました。
どこが日本映画ブログなんだか(笑)。
Photo_214 「テイスト」と言えば、今日覗いた「大型駄菓子ショップ」で、ついに入荷の「ラーメン屋さん太郎」をゲット!
最近お気に入りのプリン味マシュマロ「ましゅろ~」と一緒に記念写真です。
このチープなテイストがもう、私好みで。

やっぱりこの秋も、色気より食い気か?私は(爆笑)。

追記
いつもコメントを頂いているポン太様から、10000アクセス達成のお祝いに盛大な打ち上げ花火を頂きました。
(こんな素敵な手があったとは!)
この場をお借りしてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

2006年9月27日 (水)

胸躍る背水の陣

今年5月19日に開設した「ネヴュラ」。
いつもご覧頂いてありがとうございます。

おかげさまで、今朝早く(だと思いますが)開設132日目にしてようやく10000アクセスを達成することができました。
ここまでマイナーで、偏ったネタ連発なので、さぞや「知る人ぞ知る」もしくは「見向きもされない」ブログと思って始めたのですが、予想以上に毎日ご覧頂き、嬉しい限りです。
おバカな私の考える事ですから、路線など変えようがありません。
これからも呆れずに、お付き合い下さいませ。

さて、実は私、この10000アクセスを楽しみにしていました。
予想としては「今月末ぐらいに達成できるといいけどなー」ぐらいの感覚だったんですよ。
どうも職業柄、自分でタイムリミットを設定して楽しむ(ある意味自分の首を絞めるんですが)のがいつもの癖で。おかげで毎日がスリリングだったりして(笑)。

考えてみると、この時間的、空間的な「リミット」って、ドラマを盛り上げるストーリーとして効果的に使われる事が多いですよね。この設定をうまく使うと、実にドラマのクライマックスを引き締める事ができます。
今日はそんな、魅力的な「背水の陣」についてお話しましょう。
別にストップウォッチなど必要ありませんが(笑)。

読者の皆さんが「タイムリミット」と聞いてまず思い出すのはこれでしょう。
昨日のつながりではありませんが「ウルトラマン」(1966年)。


Photo_210 太陽エネルギーによって無敵の力を誇るM78星人、ウルトラマン。ただ変身後、ウルトラマンがその姿を維持できるのは、地球上ではわずか3分間。残り時間が少なくなると、胸のカラータイマーがタイムリミットを知らせる。残された時間はもう僅かなのだ!

制作上の予算の都合で「特撮の時間は3分程度」しか許されなかった(実作品では2分程度)とか、本放送当時家庭用テレビは白黒テレビが多く、ウルトラマンのピンチを視聴者に分かりやすく知らせる為に考えられたとか、諸説溢れる「タイムリミット3分」の設定。
ただこれは、当時のメインターゲットの子供達を興奮させる設定でしたねー。

「戦え!ウルトラマン」のBGMに乗せてウルトラマンがその勇姿を現すとき、私達は胸を躍らせるとともに、「持ち時間3分。がんばれウルトラマン!」的な緊張感に包まれたものでした。ウルトラマンがピンチを迎え、カラータイマーがあの独特の「金属音」を奏で始めると、リングサイドの私達の興奮は最高潮。
あれは多分、ボクシングの試合1ラウンド分の「興奮配分」だったんでしょうね。
ヒーローにはやっぱり、「魅力的な弱点」が必要ですよね。スーパーマンの「クリプトナイト」と同じく、「その弱点を克服すべく戦うヒーロー」に、私達は声援を送りたくなる訳で。それが「タイムリミット」というすばらしさ。あの3分で格闘の緊張感がぐっと引き締まったと思いませんか?
また、ウルトラマンの神がかり的なカリスマ性は、あの設定があったからこそ保てたのでは、なんて思います。
「人々の前に3分しか現れない存在」って、神秘的ですもんね。

劇場用映画に目を移すと、意外にも怪獣映画で「リミット」を扱った作品はゴジラシリーズよりガメラシリーズの方が多かったような気がします。
Photo_211 心に強く残るのは「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」(1967年大映 湯浅憲明監督)。
昭和のガメラシリーズでも人気の高い作品で、平成ガメラシリーズでもリメイクされましたね。この作品に登場したガメラの敵怪獣「ギャオス」は夜行性で、紫外線を浴びると体の細胞が破壊されるという設定。また首の骨が音叉状の二股になっていている為、首が後ろに回らない体の構造になっているのです。(ギャオスの必殺武器「超音波メス」は、この首の音叉を振動させて発射するという、見事な設定も唸らせますね)

要するにギャオスは体組織破壊の本能から、夜しか活動できない訳です。
対するガメラはギャオスの足に噛み付いて、日の出を迎えさせるという荒業を見せます。これが第一のタイムリミット。

朝日が昇る頃、なんとギャオスはガメラが咥えて離さない自らの足を、超音波メスで切り落として逃げるという行動に出ます。

凄い展開ですねー。
この弱点を知った人類側は対抗手段として、ギャオスを朝まで足止めさせるため、その血を好む性質と、首が回らない体の構造を利用する作戦を考えます。これが第二のタイムリミット。
回転する巨大な台座から人工血液を噴出させ、ギャオスが血液に釘付けになった所で台座を高速で回転させる作戦。首の回らないギャオスが目を回し、そのまま日の出を迎えさせる訳です。朝日と回転電力の闘いですね。

この作戦も、台座を回すモーターのオーバーロードにより失敗してしまいますが。こういう分かりやすいタイムリミットも、ドラマを盛り上げますよねー。

Photo_212 「タイムリミット」と言えばどうしても外せない作品が「日本沈没」(1973年東宝 森谷司郎監督)。出ると思ったでしょ。
これは日本全土を舞台にした壮大な「タイムリミット」作品ですよね。
地球物理学者・田所博士(小林桂樹)が発見した「マントル対流の変化」により、日本列島の大部分が1年以内に水没するという驚愕の事実。秘密機関「D計画」の調査により、列島の崩壊、沈没は確実視、しかも刻一刻と迫っている事が判明。
故・丹波哲郎さん演じる、時の首相・山本総理がマスコミを通じて全国民に発表する「日本国土が壊滅的な被害を被る事が・・・確実になりました」のセリフの重厚な響き。

この作品は私の中に強烈なトラウマを残しました。なにしろ作品中、D計画が日本海溝に設置したロボットモニターからの情報で、日本が沈没していく様子がシュミレーションされていくのですが、はじき出された沈没までの残り時間はわずか10ヶ月!
怪獣ならまだ逃げられそうですが、その逃げるはずの地面が、僅か10ヶ月後に消えてしまうという恐怖感は、ちょっと言葉では言い表せません。こんなタイムリミットは他の作品では味わえないですよね。

この「森谷司郎版」がなぜ怖いかと言うと、沈没の進行状況と、登場人物のドラマが実に密接に絡み合っている所。
海外に避難すべく約束している主人公、藤岡弘と婚約者いしだあゆみが、突然の火山の噴火で離れ離れになってしまうとか。(お互いに相手を探し出さなければ日本を離れられない!)
迫る沈没の事実を国民に匂わせる為の「捨て石」として、田所博士がテレビに出演、自説としてセンセーショナルに発表し、国民に風説として受け取らせる事で、事実のショックを和らげるとか。(このあたり、実際ありそうで怖いですよね)

こういうストーリーが丹念に描かれる事で、日本沈没という絵空事にリアリティーを持たせることに成功しているのです。
この森谷版では日本は完全に沈んでしまいますから、タイムリミットは回避されないわけですが、「回避しようのないタイムリミット」の怖さと、ある種の無常観を描ききった名作と思います。

Photo_213 この「日本沈没」よりさらにスケールの大きい作品が(もうお分かりですね)「妖星ゴラス」(1962年東宝 本多猪四郎監督)。
地球の6600倍の質量を持つ黒色矮星ゴラス(今で言うブラックホールですね)が、地球に衝突するという超大型ディザスター・ムービーでした。
この作品は皆さんご存知と思いますので簡単に紹介しますが、これもゴラス発見から衝突までの軌道計算、衝突回避の国際会議など、地味ながら丁寧な描写で見る者を作品世界にいざなう名作ですね。

当時の東宝特撮作品はこういう地球規模の大災害に向かって、人類一丸となって立ち向かう図式が確立されていた為、この作品でも南極に国連の対策本部が設けられました。
田沢博士(池部良)を中心として、世界各国のブレーンが集結した本部の動きは実に地味。具体的な対策は伏せますが(荒業中の荒業ですね)これを推進する為の描写はまさに、霞ヶ関ビルの建造を描いた「超高層のあけぼの」(1969年日本技術映画社 関川秀雄・高桑信監督)のテイストですね。


「超高層のあけぼの」はもう「プロジェクトX」の世界ですから、あのテイストを思い浮かべていただければ。(「超高層」も「ゴラス」も、池部良が同じような役で出演しています。偶然にしてもこれはもう(笑)。「タイムリミット戦」にはこういう描き方もあるのか、と感心させられました。
監督の本多猪四郎はこの作品のインタビューで、「こういう地球規模の災害に対しては、人類は一部の隙も無い対策スケジュールを立て、それを確実に遂行していかなければならない」という趣旨のお話をされています。
なるほどねー。「妖星ゴラス」に関してはまた別の機会にじっくりお話させていただきますので、今日はこれくらいに。

今日も、なんかとりとめのないお話になってしまいましたね。「背水の陣」作品に関してはまだまだ名作がありますよね。後は皆さんの豊富な知識にお任せしましょうか。

今日の「ネヴュラ」もそろそろカラータイマーが鳴り出しました。
「ネヴュラ」は次のタイムリミット目指してまた頑張りますので、皆様よろしくお願いします。
「20000アクセスまであとX日」
(最後はこのネタ。デスラーもCMやってるしね(笑)。

2006年9月26日 (火)

超人へのパスポート

「ネヴュラ」をご覧の同世代の方々。
子供の頃「ボールペンを片手に高く掲げた」事がおありでは?

「あります!」なんて方は、そのボールペンが銀色でなければならない理由もお分かりですよね(笑)。そうです。今日はそんなお話です。ボールペン片手にお読み下さい(笑)。

色々な意味でヒーロー番組のエポックだった「ウルトラマン」(1966年)。
数々の新機軸の中でも、本放送当時のメインターゲットたる私達子どもが最も憧れた事。それは「ハヤタ隊員から一瞬にして変身するウルトラマン」でした。
確かに科学特捜隊の隊員はかっこ良かったし、怪獣もバラエティーあふれる存在感を見せてくれましたが、主人公たる「ウルトラマン」こそ、何と言っても憧れの要。
怪獣ゴッコの時は、そこらへんに落ちていた木の枝や、家から持ち出したボールペンなどを「ベーターカプセル」に見立て、みんなで「変身」していたものです。
子供の頃の想像力は大変豊かで、木の枝を片手に高く掲げるだけでもう気分は「身長40メートル」。公園はミニチュアセットの町並みに見え、砂場の山を崩しながら友達と格闘していました。

Photo_203 そのウルトラマンになれる唯一のアイテム「ベーターカプセル」。これはもう、子供にとって夢にまで見る一品じゃなかったですか?
なにしろ今ほどウルトラに関しての情報が無かった時代ですから、「あれさえあれば自分もウルトラマンに」なんて思ってましたよね。

これは不思議な感覚ですね。変身アイテムを使ってヒーローになるっていう設定は、ウルトラマンが初めてだったんではないでしょうか。
私はそんなに詳しい方じゃないので、その辺の情報は識者にお任せしますが、少なくとも本邦初の巨大ヒーローは、変身アイテムの使用においてもエポックだったと思います。

この「ベーターカプセル」。当時はそのシステムなんてまるっきり知らなかったんですが、ウルトラマンのエネルギー源である太陽からのベーター線をあそこに貯めておいて、変身する時に解放、ハヤタ隊員はそのベーター線を浴びる事でウルトラマンに。という事だったんですねー。
なるほど。よく出来てる。確かにそういう設定なら、あれが無ければハヤタ隊員はウルトラマンになれない訳ですねー。
そういうシステムは番組中では説明されませんでしたが、あのベーターカプセルがらみのピンチは多かったような記憶があります。

よくやりませんでした?わざとちょっと遠くや、障害物の向こうにベーターカプセル(の代わり)を置いて、手を伸ばしても届かない、っていうピンチ遊び。(私だけ?)
そんな遊びを子供にさせるほど、本篇上でもあのベーターカプセルは、単に変身アイテムに留まらない「名演技」をしてくれたと思うんですが。

1980年頃の第三次ウルトラブーム、ようやく発売されたベーターカプセルは、私にとっての宝物。もう木の枝やボールペンで代用する必要もなくなりました(爆笑)。

Photo_204 「ウルトラセブン」(1967年)になると、変身アイテムもスティック型からおしゃれなアイウェア型に(笑)。この「ウルトラアイ」も子供に人気がありましたねー。
これの場合、変身に掛け声が必要なんですよね。「デュワ!」という(笑)。でも、このウルトラアイ、欠点が一つある。
子供が「ゴッコ」で変身すると、その後一回ポケットに仕舞わなきゃならないという(笑)。

この仕舞うとき、ちょっと素に戻っちゃうんですよね。ここが辛かった事を今更思い出したりして(何を思い出してるんでしょ私。いい年して(笑)。
この「ウルトラアイ」も「マン」同様、「セブン」本篇では宇宙人に盗まれたりしてドラマを盛り上げる「名脇役」でしたね。

その後、「帰ってきたウルトラマン」(1971年)で、変身アイテムは一度影を潜めます。私はこの時ちょっとがっかりしたのを憶えています。なんか「変身の象徴」がなくなっちゃったような気がして。「ここから自分は超人になるんだ」という「けじめ」がなくなっちゃったんですね。
だから「ゴッコ」遊びもちょっとテンション下がっちゃって。

ところが(もうお分かりでしょうが)この頃「ウルトラ」に替わって子供の人気を集めたのがご存知「仮面ライダー」(1971年)。
これは変身アイテムの無い「帰りマン」に比べて分かりやすく真似しやすい「変身ポーズ」が絶大な効果を上げていました。

当時、これを真似しなかった子供は居なかったのでは?今だに1号、2号、V3までは、腕の振りから「溜め」、掛け声「変身!」のタイミング、腰の入れ方(笑)まで忠実に再現できます。また何を力説してるんだか(笑)。

で、これも不思議なんですが、「ライダー」の場合、変身アイテムが無い代わりに子供の人気をさらったのは「光る!回る!」の変身ベルト。ライダーを象徴するアイテムでしたよね。

これは劇中で納谷五郎さんから(笑)説明があったので分かりましたが、あのベルトは仮面ライダーのエネルギー取り込み口で、中心は「風車ダイナモ」と言うんですね。
ベルトの風車に受ける風圧が仮面ライダーのエネルギーという訳で、言わばライダーは「風力発電」なんですよ。

その風圧を受ける為、ライダーはオートバイで移動する。うーん。実に理にかなった設定。その設定も2号ライダーで「自力変身」に変わっちゃいましたが。
でもあの変身ポーズは説得力がありましたよね。あれはもう時代劇の「見得を切る」部分ですよ。水戸黄門で言う「この葵の御紋が目に入らぬか!」の場面ですよね。やっぱりヒーローにはああいう「決めポーズ」が必要ですよ。

Photo_205 当時、私も一日100回以上腕を振り回して「変身」していたものでしたが、私は変身ベルトを買ってもらえず、(ついでに「超人バロム1」のボップも買ってもらえず)辛い思いをしていたものです。最近発売された高価なベルトも貧乏な私には手が届かず。つくづくめぐり合わせの悪いアイテムです。こんな安いおみやげグッズが精一杯で。

その後「ウルトラ」「ライダー」共に、現在まで脈々と受け継がれる歴史がある訳ですが、その中で私のお気に入りはこれ。
Photo_206 まずは、「ウルトラマンティガ」(1996年)のスパークレンスですね。このアイテムも「ティガ」のストーリーに準じた設定がありまして、「ティガ」の世界では、ウルトラマンは「人間を光に変えるシステム」で変身するんですよ。ただ、「光によってウルトラマンになれる人間」は限られていて、それが主人公、ダイゴ隊員という訳。
で、このスパークレンスは超小型の「光変換システム」なんですね。この設定に私は唸りました

「エネルギー源」ではなくて「システムそのもの」という設定。いやーウルトラも進化するなー。
ストーリーも名作が続出、このスパークレンスを使って悪事を働く敵役が登場するエピソードは盛り上がりましたねー。このスパークレンスは、「ティガ」のストーリーの根幹をなすアイテムなんですよ。
ちなみに黒い方は劇場版に登場するもの。設定は作品をご覧になって頂ければ(笑)。

「ライダー」では、近作は「武器の一種」的な感覚が特に強い「ベルト」。昔のライダーと違い、主人公が改造人間じゃない為に、「ベルト」そのものが変身アイテム化してますね。
Photo_207 特にお気に入りなのが「仮面ライダー555」(2003年)に登場した「ファイズドライバー」。これはまずベルトの基部を体に装着します。昔で言う「ダイナモ」の部分がなんと「携帯電話」型になっていて、これを「555」とプッシュ、ベルトに装着することにより変身するという(笑)。

Photo_208 考えてみれば、電話番号がヒーロー名になっているのも珍しいですね。今気づいた(笑)。
他にも体の各所にこれらの武器を装着して敵を倒す、メカニックな魅力に溢れたライダーでした。まあ武器もこんなにおしゃれなケースに入って。これがおもちゃですからねー。(このケースの色でバージョンが分かる方は、「555」フリークですね)

でも「555」については、ストーリーはあまり好きにはなれません。あくまで「変身アイテム」の魅力、いや、おもちゃの魅力でしょうか。
私の中では平成ライダーのベストはあの「仮面ライダー竜騎」(2002年)ですから。

Photo_209 手持ちの変身アイテムおもちゃを見ながらつたないお話を聞いていただきました。こんなアイテムを今も集めているのも、やっぱり子供の頃の変身願望を引きずっているんでしょうね。本当に成長しない私(笑)。
ところで、こういうアイテムを使って変身するヒーローって日本だけじゃないでしょうか?

海外ヒーローにあまり詳しくない私。スーパーマンは「メガネをはずす」だけだし、「バットマン」は変身ではなく「変装」ですしね。他にもいろいろいますが、「ウルトラ」「ライダー」タイプの変身は見かけません。これは日本特有の物なんでしょうか。
「見得を切る」変身ポーズやアイテムへの依存は、やっぱりそういうイメージを想起させる「歌舞伎の文化」を持つ日本人の感覚なのかもしれませんね。

歌舞伎なんて高尚なもの、観た事もないのに。
「仮面ライダー」歌舞伎でやったら見にいくかも。あのマスク、隈取で表現するんでしょうか?いやーこれは観たい!
(いつもながら不謹慎)

2006年9月25日 (月)

ノストラダムスを大予言

「・・・家にあるお宝も、たかが知れてるしなー」
たまにはレアな作品も、と、古いレーザーディスクの棚を覗いていると、「あー、これがあったよ」なんて取り出した一枚が。
まあこれも、検索したらそれほど珍しくはなかったんですが。

「LAST DAYS OF PLANET EARTH」。

1_10 この作品、「ネヴュラ」読者ならおわかりと思います。
そうです。劇場公開後、過去一度だけのテレビ放送を除いて一度もリバイバル上映の機会がなく、その存在自体が永久に封印されてしまった映画です。


邦題「ノストラダムスの大予言」
(1974年東宝 舛田利雄監督)。
こう書けばお分かりでしょうか。


1974年。時はまさにオイルショック後の終末ブーム。前年に公開された「日本沈没」(森谷司郎版)のヒットを受け、東宝が新たに放ったパニック超大作でした。
実は私、この作品を劇場で観ていないんです。
当時、友人と一緒に観にいく約束までしておきながら、その前日になって別の予定が出来てしまい、泣く泣く約束を断ったという、苦い経験がありまして。
その後、この作品が辿る運命が分かっていたら、何をおいても観にいったのに。
「日本沈没」にはあれだけ入れあげていたんですが。
こういう所にオタクとしてのツメの甘さが出ちゃうんですよねー。

時は過ぎ、過去の作品がビデオやLDで手軽に楽しめるようになった1995年頃。もうその頃には私も立派なオタクになり、レアな作品を嗅ぎ分けながら細々と暮らしていました。
この「ノストラ」に関しては当時、いろいろなメディアで「封印」の事実を告知していましたから、私も子供の頃の失態を恨みながらも、鑑賞を半ば諦めていたのです。
「まあ、ご縁が無かったって事で」。

ところが当時の私がバイブルとしていた雑誌「宇宙船」に、突然アメリカで「ノストラ」LD化の広告が!その瞬間、私のオタク魂が炎のごとく燃え上がったのは言うまでもありません。
「未見の恨みはおっかない!」(笑)。

速攻で発注し、程なく届いた現物を見て感動に打ち震えながら、プレーヤーの電源を入れたものです。

あれから11年。この夏公開された「日本沈没」(樋口版)に複雑な後味を残していた私は、いにしえの特撮作品、パニック超大作に再び目を向ける気持ちが向いていたのかもしれません。(もともとオタクですしね)

さて、この「LAST DAYS OF PLANET EARTH」。いろいろな文献にも書かれている通り、オリジナル作品「ノストラダムスの大予言」をかなりカット、改変したもの。
オリジナル(114分)よりもかなり短く(88分)、シネスコサイズをトリミングした「テレビサイズ」でした。もちろんアメリカ版ですからすべて英語吹き替えの字幕なし。

それでも、見れないよりはいいか。と、当時の私は喜んでいました。
(今ならまあ、ネットで流通するいろいろな・・・ね。でも「ネヴュラ」はそういう部分にはあんまり触れたくないので、合法的に(笑)。

英語がまるっきり分からないおバカな私は、大丈夫かなとちょっと心配していました。
なにしろこの映画、主演、丹波哲郎大先生の演説を軸に引っ張っていくタイプの理屈っぽいお話と聞いていたからです。

「特撮映画なのに?」と思って見ましたが、その心配は杞憂に終わりました。
カット場面のほとんどはその演説部分だったのです(爆笑)。

おかげでお話のスピードが速い速い。分かる分かる。よかったー。

この作品が封印された経緯は、関係書物を読み漁ったおかげで大体掴めました。そのあたりのお話はまた後程ってことで。
私がこのシリアスなお話に対して何故こんなにお気楽かって言うと、この海外版、はっきり言ってオリジナルとは「別物」だからです。
つまり、この英語版を語ったことがオリジナルへの感想にはならないんじゃないかと。

ワンカットでも切られた段階でオリジナルとは違いますから。なので今回は、この「海外版」を見ながらオリジナルの想像をしてみようという趣向です。あくまで「テイスト」のお話ですが。

全体的なストーリーとしては、かの大ベストセラー・ノンフィクション「ノストラダムスの大予言」(五島勉)を基にした東宝のオリジナル。
なにしろ「日本沈没」ヒットの夢再びとデッチ上げた企画なものだから、ストーリーもなにもあったものじゃないですね。


16世紀のフランスの預言者、ミシェル・ノストラダムスの残した予言書「諸世紀」の一節にある「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」という一行のみが、この作品の根幹にあります。
「恐怖の大王」とは何か?人類は終末を迎えるのか?そこへ至る破滅の様子が、環境研究所の所長、丹波哲郎先生の実体験や言葉で語られるのです。丹波さんには病弱の奥さん(司葉子)と年頃の娘さん(由美かおる)が居て、年頃ですから彼氏(黒沢年男)が居ます。当時から問題となっていた環境破壊などにより少しずつ狂い始めた地球各地の様子を、カメラマンを職業とする黒沢さんは取材する、という図式があるんですね。

ストーリーを構成する人間関係はほぼこれで語り終わってしまい(笑)、後は世界のあちこちで起きる異変の様子が延々と描かれるというお話です。
このLDを、私は特撮好きの友人数人と見ましたが、その内の一人が、まことに的を得た感想を言ってくれました。

「なんか、「特命リサーチ200X」を何本も見せられてるような映画だねー」。

なる程。言いえて妙とはこの事ですねえ。要するにドラマじゃなく、科学ドキュメンタリーの手法を使った演出なんですよね。
ビジュアル的な見せ場は数多くあります。
30センチの巨大ナメクジ。海を覆う血のような赤潮。ジャンプ力や計算能力がものすごく発達した子供。すべて環境の異常変化によるものだという解説が。
これらがすべて中野昭慶特技監督の特撮によって描かれるのです。


そんな異常の中で描かれるドラマの白眉は、ニューギニアの異常を調査に向かった丹波さんたち一行に降りかかる悲劇です。
成層圏に溜まった原子力の灰がジェット気流により局地的に降り注いだのが原因らしく(どの解説を読んでもそう書いてあるので)現地のジャングルは巨大食肉樹、巨大コウモリ、巨大ヒル(サツマイモ程の大きさ)がうようよしている「悪性の多々良島」といった感じ。
先発隊を探しに向かった一行は凶暴化した原住民に襲われます。銃で撃退し、たどりついた一行が見たものは生きる屍と化した先発隊でした。
ここで一行の取った行動。これは辛い。
お話がリアルなだけに辛い。

その後、ニューギニアの悲劇は世界中に蔓延します。空中爆発したSSTがオゾン層を破壊し、紫外線が降り注ぐ地上では人までが焼け爛れます。
北極の氷も溶け、街は大洪水に。そしてこの後、都市部を襲う「静かなる破滅」が描かれます。

度重なる異常気象にたまりかねた人々は暴動を起こし、食べ物を求めてスーパーへ。若者はコインで「順番」を決め、バイクで崖からジャンプして自らこの世に別れを告げるのです。
街の高速道路では、渋滞に耐えられなかった一台の車が暴走、すし詰めで逃げ場の無い車は玉突き衝突を起こし、道路は連鎖的に火の海に・・・

この作品で、私が最も恐ろしいと思ったのはここです。
前年の「日本沈没」では、人々は日本が沈むという災害に対してもまだ「生き延びよう」としていました。動物が持つ生存本能は健在だったんです。
ところがこの作品では、異常気象を前にして人間は生きる意欲を無くしてしまっている。生存本能を失っているのです。むしろ精神が病んでいく。
「日本沈没」では、国土は無くなりましたが人は生きていた。
「ノストラ」で沈むのは国土ではなく「人間」なのです。

そんな人々を世界に閉じ込めるがごとく、光化学スモッグによる蜃気楼が都市の様子を空中に浮かび出します。「ノストラ」と言えばこの場面、というくらい、作品のイメージを見事に表現しています。ほんの一瞬のカットなんですが。

そして物語は終焉へ。丹波さんは国会で、「こんな事を続けていればいずれ世界は発狂し・・・」といった論法で、考えうる限りの終末場面を説きます(英語なので解説によりますが)
地震、原発事故、核戦争・・・

そう、ノストラダムス「諸世紀」の詩「恐怖の大王」とは、これら天災、人災の集合体というのがこの作品の主張なのです。
環境を考え、人々が協調することでこの破滅は救える、と訴えているわけですね。

この作品が封印された原因の一つ、核戦争後の地球を描いたシーンは、このLDにも「残されて」いました。このシーンを始め、人物描写にいくつかの問題シーンがあった事で、上映開始後ある団体から抗議を受け、この作品は「封印」されてしまった訳です。
このラスト近くのシーンも賛否両論でしょうね。私の意見は・・・やっぱりNGです。抗議を起こした人々のお気持ちもなんとなく分かるような。

2_10 オリジナルではなく、「別物」の海外版を見た私が言えるのは、この程度でしょうか。
「デイ・アフター・トゥモロー」を「ゴジラ対ヘドラ」風味で料理してみました。って感じかな。
噂にたがわず、思想やビジュアルなど恐ろしく過激なこの作品。ただ、過激とは言え、語り口さえもっと練り上げれば、このテーマは現代でも充分通用すると思います。

テーマが語れる脚本、それを映像化できる監督のセンス。
そしてなにより、
「お涙頂戴のストーリーを卒業できる観客のレベル」ですかね。

奇しくも、主演の丹波哲郎さんが84歳で亡くなられたそうで。
「霊界」で丹波さんは、この作品をどう考えていらっしゃるんでしょうか。

2006年9月24日 (日)

食べるタイムマシン

「おやつカンパニーを取材したことがあるんですよ。」
ある番組で出演を頼んだリポーターの女の子が、移動中のロケ車でつぶやいた言葉。
「歴代のベビースターラーメンのパッケージがズラーッと並んでいて。おもしろかったです。」聞いた私は、思わずこう言ってしまいました。

「ベビースターじゃなくて、「ベビーラーメン」と言いなさい!」

ベビースターラーメン。「日清チキンラーメンの子供版」とも言えるこのお菓子。これ、皆さんも食べた事ありますよね?
(全国展開してますよね?ちょっと心配になってきた)

私このお菓子、今でも大好きなんです。
昔これを食べ過ぎて、胃を壊した事があるくらい(笑)大好きで。

でも皆さん。この「ベビースターラーメン」って、もともと商品名は「ベビーラーメン」って言ってましたよね?

「ベビーラーメン」に「スター」の文字が加えられた日を、私ははっきり憶えています。あれは私がまだ子供の頃。いつも行っていた近所の図書館の前に、小さなお店がありました。子供や学生相手に文房具やお菓子、お好み焼きなどを売ってくれる、今で言うコンビニ風のお店でしたが、ある日図書館の帰りにその店先を見てみると「ベビースターラーメン」というお菓子が並んでいたのです。

「あれっ?これ「ベビーラーメン」じゃなかったっけ?」思わず買ってしまいましたが、家の近くのスーパーにはまだ「ベビーラーメン」が。この頃がパッケージの転換期だったんですね。
商品名に「スター」がついた経緯は知りませんが、その後この商品は文字通り「スター街道まっしぐら」。今では味、サイズともバリエーションが増え、限定版も続出。その全貌を掴むのは不可能なくらいのヒット商品となりました。去年の「愛・地球博」にも、会場限定の商品が売られていましたしねー。
物心ついた頃から口にしていた私などは「まあこんなに立派になって・・・」なんて母心にも似たものを感じてしまうのですが。

この「ベビースターラーメン」に限らず、私は今でも駄菓子が大好き。今日はお昼すぎまでお仕事だったんですが、その帰りについ寄ってしまうのが、家の近くの「大型駄菓子ショップ」なんですよね。
日曜日の昼下がり、倉庫を改造した大きなこのお店は、親子連れやデート中のカップルでいっぱい。「こりゃ子供の天国だなー」なんて言ってるお父さんも、かごにお菓子を嬉しそうに放り込んでいます。
私がこのお店に寄る時は、どうも仕事でストレスを感じている時らしく、今日もここでちょっと買って、部屋で昔のビデオでも、なんて「子供」したくなったようで。

Photo_196 さて、まず買ってしまったのが定番の「ベビースター」と「やまとの味カレー」。
この二つは子供の頃、いつもペアで買っていた癖が抜けないんですよね(笑)。
この「味カレー」、味は今も変わらないようなんですが、袋が違います。これ、昔はこんなにいいビニールじゃなかった。もっと破りにくいビニールで、どんなに引っ張っても伸びちゃうだけで。
下のイラストの侍さん?の部分をビローンと引っ張って、顔が伸びるのを楽しんでいたものです(笑)。

そしてベビースター!これは声を大きくして言いますが、
「味、変わった!」。

昔は形や色が不ぞろいで、もっとボロボロでした。あの不揃い感が好きだったんだけどなー。製造工程に問題があったんでしょうか。私が胃を壊したのもそのせいなのかな(笑)。でも今だに買っているところを見ると、その経験は全然役に立っていないと(爆笑)。

Photo_197 他にも有名どころでは、オリオンのココアシガレット、カクダイのクッピーラムネやコリスのフエラムネなど。
「有名どころ」って言うのもなんですが、私の世代は子供の頃、お小遣いで最初に買ったお菓子って、駄菓子屋さんに売っていたこういうメーカーのお菓子だったんですよ。コンビニなんてまだ無かったですからねえ。
「フルーツマンボ」なんて呼ばれたチューブ状のお菓子や、爪楊枝で指して食べるゼリー状のお菓子も懐かしいところ。なんでこんなの買ってんだろ(笑)。

Photo_198 さらに懐かしいのはこの辺ですかね。フィリックス君ガムに黒棒、この小さいヨーグルトも体に悪そうだけど買っちゃう(笑)。
そして凄いのは棒あめ!なんと今だに「赤胴鈴之助」ですよ。
これ、版権取ってるんでしょうか・・・なんて考えるのが老化の証拠ですね。黙って買う(笑)。

Photo_199 このあたりになるともう、生まれた頃からあるようなレベルで・・・。「串カステラ」って、私が子供の時はもっと小さいものでしたが、近所の駄菓子屋さんでなんと「一円」でした!
当時、一円のお菓子を一本買いに、わざわざ足を運んでいたと。うーんストイックな幼年期。
当時の私に言ってあげたい。「コストパフォーマンス悪すぎ」。

Photo_200 いやーそれにしても、これだけ買って500円いかないのも凄いですねー。
ちなみに両脇の怪獣ちゃんは特別出演。以前買ったものですからご了承を。
でもこういうお菓子に似合いますねー。
そして、やっぱり飲み物はこれ「チェリオ」でしょう!瓶じゃないのが残念ですが、「ファンタ」ではメジャーすぎるんです。
確かにこのお店には「粉末ジュース」(笑)も売っていましたが、今日はチェリオに手が出てしまいました。うーん、まだ修行が足りない。

Photo_201 そして、今日最大の不覚がこれ!「菓道」の太郎シリーズとしてロングセラーを続けている「やきそば屋さん太郎」「ど~ん太郎」なんですが、ここには残念ながら大事な物がない。
「ベビースターラーメン」の味再び、という願いをこめて私が密かに愛用している「ラーメン屋さん太郎」です。このパッケージを一緒に写真に収め、これからはこれがおすすめ、とやりたかったんですが、残念ながら今日、売り切れ!

考えてみれば今の時期は運動会や遠足、子ども会の行事など、こうしたお菓子の需要が増える時期ですね。やっぱり人気のお菓子は売れちゃうんですよー(泣)。
ただ、売り切れでちょっと嬉しかったりするんですよね。
「やっぱり人気あるのね。ラーメン屋さん太郎」みたいな母心(またか)

いずれ入手の折には、大々的に発表しましょう。
(要らないって?いや、意地でも)

こんなお菓子を抱えて部屋に戻った私。ちょっとお昼寝したあと、どれから手をつけようかな・・・なんて迷っています。ただ、このお菓子を楽しむにはBGVが不可欠。これがまた悩む所で。
で結局、いろんなビデオをとっかえひっかえ見ながら食べる事に決めました。今映っているのは「光速エスパー」第4話「グローブモンスターの襲撃」。いいですねー。
次は「河童の三平 妖怪大作戦」見ようかな。
第5話「恐怖城」が面白いんですよ。
「電人ザボーガー」も悪くないな。
やっぱり第1話「たたかえ!電人ザボーガー」かな。
「ウルトラファイト」も久しぶりに見てみたいし・・・

Photo_202 いやー合いますねー。昭和のヒーロー番組と駄菓子。気分は昭和40年代。
時の呪縛を逃れる映画と違って、テレビ番組はお茶の間で見るだけに、その当時の部屋の風景や、つまんだお菓子とセットになっているんですね。
ここが、後年DVDで作品だけ見るマニアと違うところ。この記憶だけは再現できません。

その記憶を甦らせる駄菓子って、
やっぱり「食べるタイムマシン」ですよ。きっと。

2006年9月22日 (金)

獣人の目は憂いを秘めて

シネマヴェーラ渋谷で「獣人雪男」が上映されたそうで。
地方在住の私などはただ、指をくわえて見ているばかり。本当に羨ましいです。

貧乏な私にできる事などたかが知れていますが、今日は空いた時間に、映画について語る助けになればと、パソコンの近くに小さなテレビデオを据え付けました。(今時「テレビデオ」っていうのが私なんですが)これで作品を見ながら記事を書ける、と、一人で興奮したりして。

Photo_192 そんな新システム初の栄冠に輝いたのが「鉄の爪」(1951年大映 安達伸生監督)。
シネマヴェーラの「獣人雪男」にちなんで、という訳でもないんですが、この作品、どうも私の中に残る物があるんですよ。


このところ、変身人間づいている「ネヴュラ」。まあ、私もある意味「変身人間」なので(笑)、こういう作品は掘り起こしてでも見たくなる傾向にあります。
ところがこの手の作品は、怪獣映画や円谷がらみの物は非常に露出も高く、盛んに研究も行われているんですが、その他の作品についてはほとんど顧みられていないのが現状です。
今日、記事の参考にネットを検索しても、東宝の変身人間シリーズに比べて呆れるほど露出の少ない有様で。逆に優越感に浸れたりして(笑)。

Photo_193 1951年。戦後の空気を色濃く残す時期に生まれたこの「鉄の爪」という作品。正直私もまったく知らない作品でした。
それを見るきっかけとなったのが、1990年代に吹き荒れたレーザーディスクのブーム。これにより高画質で今まで埋もれていた作品がたくさん日の目を見る事になりました。

当時、そうした作品を好んで集めていた私は、パイエニアLDCの「特撮映画<秘蔵>シリーズ」の一枚としてリリースされたこの作品に、一も二もなく飛びついたのでした。

正直、未見のこういう作品って、買うとき「博打」ですよね。
新色の口紅を買う時みたいな。
でも、これは「当たり」でした。毎日見たい作品ではありませんが、「一度見てライブラリーの肥やし」にはならない作品なんですよ。

おそらく当時隆盛を極めた「大映怪奇スリラー」の典型的なテイスト溢れる作品。タイトルだけでは想像しにくいですが、これは大映が手がけた「変身する人間の恐怖と悲しみ」を描いた作品なんです。
ある夜、新興住宅地で起こった猟奇殺人。目撃者の供述では、犯人は獣人のごとき恐るべき姿をしていたとの事。捜査線上に浮かぶ男、田代(岡譲二)。
しかし彼は、獣人とは似ても似つかない人格者でした。現在は教会への礼拝を欠かさない敬虔な男性。ところがそんな彼には、ある暗い過去があったのです。

主人公・田代を演じた岡譲二は、戦後まもなく大映のトップスターとして鳴らした二枚目俳優。シャープでややアメリカナイズされた顔立ちは、敗戦のショックに打ちひしがれた日本人に、新しい時代の到来を感じさせたのではないでしょうか。しかし、彼が演じたこのキャラクター、ちょっと凄い事に。

彼は戦時中南方の戦線で、突如密林の中から飛び出したゴリラと格闘したのですが、その時肩口をゴリラに噛み付かれ、意識を失ってしまったのです。
陸軍病院で介抱された彼は恐ろしい妄想にうなされていました。
噛み付かれた傷口から入ったゴリラの血液が自分の血と混じってしまい、自分がゴリラになってしまうのでは、という恐れ。

「獣化妄想」。作品のオープニングでも説明されている、このストーリーのメインテーマです。「自分がけだものになってしまうのではないか」という被害妄想の一種ですね。
こんな症例が本当にあるのかどうかはわかりませんが、彼はその妄想に憑りつかれ、日々怯えた暮らしをしているのです。

考えてみると、この設定は秀逸ですね。戦前、戦時中を通じ、こういう設定が他にあったかどうかは知りませんが、とりあえず「ちょっとありそう」。いわゆる「狐憑き」とかそういう類の物なんでしょうか。まだ病理学に未知の部分があった1950年代ならではの設定で。

この妄想は彼の深層心理に影響を及ぼします。彼が女性への恋愛感情や、彼を人間獣として見世物にしていた男・灰田(齋藤達雄)への感情を抑えれば押さえるほど、抑圧された感情が「獣化」という形をとって噴出する訳です。
彼の獣化を誘うのは、お酒と大きな音。お酒で気が大きくなるのは飲酒運転と同じですね。もっともこっちは虎じゃなく、ゴリラになっちゃいますが(笑)。

彼を陸軍病院で介抱して以来、彼の事を知る医師により、お酒を禁じられている田代でしたが、前述の灰田(ドクトル・オブ・ホモロジーとか名乗る、また怪しげな奇術師で)などにお酒を飲まされ、「ゴリラ男」へと変身していく描写がまた、なかなか。
毎度下手な文章なので分かりにくいですが、なにしろ1951年。特殊メイクなんて知れたものです。ですからなんと変身シーンは、岡譲二さんご本人の「表情」が大きくものを言っているんですよ。

Photo_194 お酒で面持ちが変わる田代。唇を嘗め回し、大きく目を見開いたその表情。普段、聖人のような表情を崩さないだけに、この変化だけで既に恐ろしい。ここからは・・・
機会があればご覧下さい。特殊メイクやCGを使わなくても、人間の表情だけで「獣人」を表現する事は可能なのです。

彼に好意を持つ教会の娘・正代の献身的なサポートのもと、感情を抑えるべく努力を続ける田代ですが、結局お酒の誘惑に負け、灰田の下へ出かけてしまいます。(ここで灰田が見せる出し物「透明美人」も楽しいですね)この灰田、終戦後陸軍病院を脱走し、孤児となった田代を引き取っていた関係で、「また組んで一儲けしよう」と持ちかけるのです。
灰田とお酒の誘惑に負け、元妻・雪江に近づく男を惨殺する田代。このあたり、人間の二面性を活写した「ジキル博士とハイド氏」を思わせて、なかなか見せます。
この「ゴリラ男」に扮する田代の動きですが、まず間違いなく代役でしょう。というのは、ほとんど後姿の上に、まるで軽業師のように体が軽いんですよ。
で、それがまた普段の田代との差を際立たせて、良い効果を出しているという。

ストーリーはここから急展開。ついに見世物として舞台に立った田代は・・・

この後は秘密にしましょう。ある程度までは予想がつくと思います。私もそうでした。
ところが!この作品、ラストがちょっと想像できない。
メッセージは比較的おざなりですが、その表現の仕方が秀逸!
「怪奇スリラー」として始まり、こう来るか、というエンディングなんですよ。ご覧になった方は皆さん、そう思われるんじゃ?

Photo_195 この作品の原案、中溝勝三は、主演の岡譲二の本名。彼はこの作品以前、以後に、明智小五郎、金田一耕介という、日本の二大探偵を演じています。
探偵ミステリーなどに精通した彼が原案を作った背景はまあ、頷けるものもありますが、二枚目で売っていた彼があえて「獣人」というテーマを選び、自ら演じる所まで行く理由はちょっと分かりませんでした。
(昨日の池内淳子とはケースが違いますからね)

ただそれは、このラストシーンを見るまでの事。
この幕切れを見て、彼が何を演じたかったかが分かったような気がしました。


結局「獣化」なんて妄想をすること自体、普段は優しい人だという事ですよね。普段から粗野な人は、そもそも「けだものになるかも」なんて考えない筈ですから。人間誰もが抱える二面性をもてあましながらも、彼は結局「本来の自分」を取り戻したのでは。
あのラストシーンは私に、そう語ってくれたような気がします。

この作品、私はレンタル屋さんで見かけた事がありません。
たまたま私の通うお店がそうなのでしょうか?
結局こういう作品は、またも時代に埋もれてしまうのかなー、なんて感じたりします。

LDが売れなかったのかなー。
まあ、買う酔狂は私ぐらいのものかも。
またもマニアのツボを外してしまう、マイナー好みの秋の空(笑)。

淳子のミステリーゾーン

「私、今新しいダイエットを試してるんですよ」
髪にアイロンをかけながら、耳元で彼女がささやきます。

今日は久しぶりに美容院で縮毛矯正。ひどいクセ毛の私は、数ヶ月ごとに矯正をかけないとストレートヘアが保てないのです。

縮毛矯正って、髪質と方法に相性がありますよね。私も何件かお店を渡り歩いていろんな方法を試しました。たどり着いたのが今のお店。ここの「コスメ・ストレート」の仕上がりがお気に入りで、最近はこのお店だけにしています。

女性同士にありがちな「ダイエット」の話題。話すスタッフの彼女も決して太ってはいないのに、毎日ヘルスメーターに乗っては一喜一憂する女心は一緒のようです。「知識だけは豊富なんですけどねー。何やっても続かなくて」なんて笑っていました。

「ネヴュラ」女性読者はお分かりと思いますが、女性同士ってこういう会話を交わしながら、密かに相手の動向を探り合っているような所がありませんか?
別に悪気があって話しているんではないんですが、プロポーションを保つ日々の努力とか、体重に関する考え方とかをお互い知りたい。でも立ち入りすぎも良くない、みたいな。
この距離感を楽しむのも女性ならではの感覚だったりするんですが。

今日は映画のお話も別に・・・と思って、部屋に帰ってサラサラの髪を触り、ちょっと仲間由紀恵の気分に浸っていると(顔の事はともかく)今日の美容院での「女性同士」の感覚を描いた、ある作品を思い出しました。

「花嫁吸血魔」(1960年新東宝 並木鏡太郎監督)。
まさかこの作品が頭をよぎるとは(笑)。
これ、新東宝マニアの方はよくご存知と思います。いろんな意味で。


お話は例によって、新東宝お得意の「特撮スレスレ、無ジャンルホラーアクション」とでも表現するしかない怪作。(まあ、以前紹介した「九十九本目の生娘」系の作品でしょうか)

モデル・タレントを目指す女性達が通う舞踊学校で、映画会社からの出演オファーをめぐり、いさかいが起きます。

当初オファーが確実視されていた喜代子に代わり、美貌の主人公・藤子が抜擢されしまった事がいさかいの発端でした。

藤子は病気の母を一人で養うけなげな娘。家屋敷も借金の抵当となり、今回のオファーはまさに大チャンス。
ところが美しさは罪(笑)。舞踊学校の同級生達が思いを寄せる男性たちまで藤子になびいてしまうのです。当然面白くないのは舞踊学校の同級生達。
特に藤子と仲の良かった三人は結託して、藤子殺害を計画するのでした。なんて過激な。
藤子をピクニックに誘い出した三人は、花を取りに急な崖まで藤子を誘い出し、お約束通り彼女を突き落とします。

私などは、こういう場面での女性同士の会話や距離感に、ひどく男性との差を感じます。
ほんの数分前までは親しそうに笑っていた仲間が豹変する姿に、ちょっと怖さを感じたりして。
男性としてのキャリアの方が長い私には、こういう女性ならではの距離感がちょっと不思議だったりするんですね。
確かにこの作品のようにカリカチュアライズされてはいても、多かれ少なかれあるこの独特の感覚は、私には実に新鮮。「本音と建前」感は、男性より女性の方が強いような気がしますね。
「女性の敵は女性」と言われるのも分かるような。

さて、ここまではいわば普通の作品。まあ船越英一郎あたりのテリトリーですが、ここからがさすが新東宝。
急に佐原健二のテリトリーに(笑)。

一命を取りとめながらも顔に大きな傷を負った藤子。映画出演も叶わなくなった彼女に降りかかってきたのは、借金の負債の為自殺に追い込まれた母親の無残な姿でした。
そこで明かされる彼女の素性。実は作品のオープニングで既にネタが振られているんですが、藤子は山奥に暮らす陰陽師・影山家の末裔。
たったひとりの身内を尋ねて藤子は祖母・お琴の元へ。

もう、ここからが「アレ」ですよ。詳しくは書きませんが、新東宝テイスト爆発の急展開。
いつもながら「なんでこういう展開になっちゃうの?」の嵐です。

でもある意味、先が読めないこういう作品は、見ていて楽しいですねー。
最近の作品は先が読める展開のものが多いだけに、どうしても演出や役者の演技に目が行き過ぎてしまう。よけい点が辛くなる傾向にあるんですよ。なにか悪循環のような気がするんですが。
考えてみるとこういった作品って、ストーリーの意外性やビジュアルのインパクト(笑)で観客の興味をひきつけてしまうので、ある意味アラが目立たないのかもしれませんね。観客は最初から「作り物」として見るわけですから。
「ありえない」とか言ってるレベルを超えちゃってるんですよ。

未見の方の為に、ほんの少し説明しましょう。
藤子は祖母の秘術により顔の傷を完治させ、なおも恐るべき「特殊能力」を身に着けます。この能力は影山家の呪われた血がもたらすもので、彼女はさらなる悲劇のヒロイン(ご覧になった方、そうですよね?)となっていくのです。

例えて言えば、うーん・・・
伊東美咲がショッカーの怪人を演じるようなものかな(笑)。

この主人公・藤子を演じたのが、日本のお母さん役として絶対のイメージを持つ美人女優、池内淳子。
彼女は当時、新東宝社長・大蔵貢の忠告を無視して結婚引退したのですが、残念ながら離婚。その復帰第一作がこの「花嫁吸血魔」という訳です。

大蔵貢が彼女に与えた役柄は、忠告を無視して結婚に走った彼女へのペナルティー、というお話が通説となっています。前述の通り、彼女が特殊能力によって変身を遂げた姿は、公開当時の宣伝文案が雄弁に語っています。

「初夜の寝室を襲う黒い怪獣!
女の執念が引き起こした謎の犯罪!」

この文案に嘘偽りは無いんですよ。「黒い怪獣」という表現はまさにど真ん中ストレート。
宣伝ポイントにも、「純情池内淳子が、今までの殻を打ち破って・・・」とありますし。
打ち破りすぎですよ(爆笑)。

ただ例によって私見ですが、この作品に流れる恐ろしさは二つあるような気がして。

一つは「女性ならではの復讐譚」。
このお話、主人公が男性だったらこうはならないんじゃないかと思うんですよ。もっとストレートなアクションストーリーになったような気がするんですよね。
主人公・藤子が変身したあの姿は、清純な彼女が持つもう一つの姿を具現化しているんじゃないかと。
うまく言えませんが、
「女性の持つ恐ろしさ、美への執着の裏返し」のような印象があって。

今一つは「大蔵貢の商売魂」でしょうか。
前述した通り、大蔵貢は忠告を無視した池内淳子へのペナルティーとして、この役を彼女に与えたと言われています。ところが、ある本にあった関係者が、「本当に彼女にペナルティーを科すなら、仕事を与えず飼い殺しにすればいい。この時期、他の新東宝女優だってひどい役柄を与えられていたんだから」というような内容のお話をされていまして。

私もそう思うんですが、大蔵貢という人物は、むしろこの「ペナルティー」「嫌がらせ」としてのスキャンダルさえ、映画宣伝の話題にしていたのではないかと思うのです。映画がらみのスキャンダルで、作品自体の宣伝効果を上げるパブリシティー効果の先鞭を振るったのが、この大蔵という人物だったんでしょうね。
「日本のウイリアム・キャッスル」と言われ、逸話に事欠かない大蔵貢。
今となっては推測の域を出ませんが、作品の周辺さえも楽しい話題に変わる新東宝映画の魅力は、まだまだ尽きる事が無いのです。

ちなみに、今日のサブタイトルで笑った貴方、かなりのマニアでいらっしゃいますね。(「淳子の」にご注意下さい」)
残念ながら今日は、あの番組のお話ではありませんでしたが。
まあ「あれ」も、その内じっくりと・・・(笑)。

2006年9月21日 (木)

節子・秀子・葉子

女優の山本陽子さんと仕事をした事があります。
彼女がある土地を訪れ、地元の人たちと触れ合いながら、その地の著名人と対談するという番組でした。

さすが女優さん、と思ったのは、エンディングのナレーションを収録した時。
私が考えたわずか2行のセリフを、実に感情豊かに「語って」くれたのです。
言葉に命を吹き込むとはこういう事なんだなーと、改めて女優という仕事の奥深さを感じさせてくれました。

映画を観る時、女性を目指す私などがどうしても注意を払ってしまう要素の一つに「出演女優さんのキャラクター」があります。
たぶん、普通の女性と感覚が異なる私のような者は、ちょっと変わった女優さんの見方をしていると思うんです。まあそれも私の個性の一つかな、なんて思ったりして。
不思議な事に、私は3人の、タイプの異なる女優さんが好きなんです。人は自分に無いものを求める、なんて言いますよね。
まあ、「女性」そのものが自分に無いものなので、あらゆるタイプの女優さんが好きになるのかも(笑)。

というわけで、今日は私の好きな女優さんのお話。思いが先行しちゃうので、今日の記事はほとんどデータがありません(笑)。お許し下さいね。

「銀幕」という言葉にまだリアリティーがあった頃。私が憧れた女優さんは、どうしてもその頃活躍した人ばかりになってしまいます。
1950年代から1960年代、モノクロからカラーに移行しつつあった頃の作品に、たくさん出演した方々です。

まずは何と言っても「原節子」さん。戦後日本の理想の女性像として多くの作品に出演し、42歳の若さでで惜しまれつつ引退した「伝説の女神」です。
原節子さんと言えば、やっぱり小津安二郎作品の印象が強烈ですね。あの、スタンダードサイズの画面の中に閉じ込められた、抑制された演技の中に覗くしぐさ、表情に、天性のオーラを感じます。

好きな作品を挙げていけばきりがありませんが、私の中では「晩春」と「秋日和」に特別な思いがあります。
なぜか「東京物語」じゃないあたりがへそまがりですね(笑)。


晩春」(1949年 松竹)の紀子。父親役の周吉(笠智衆)を思いながら、活発に暮らす娘ぶりは、「こんな風に暮らせたらなあ」と思わせる純粋な魅力に溢れていました。
戦後らしさを表す「紀ちゃん、太ったね」というセリフへの嬉しそうなリアクションなど今では考えられませんが、そんな姿が似合ってしまう所も、彼女の素晴らしさかもしれません。
周吉の友人、小野寺(三島雅夫)が若い後妻を貰った事に「不潔よ」とはにかみながら言うあたり、私は「ありえない!」と笑いながらも、どこかに「ちょっと言ってみたいかも」なんて思ったりして。

「秋日和」(1960年 松竹)では、娘を持つ母親・秋子を見事に演じました。
佐分利信他男性陣を向こうに回して、奥ゆかしさの中に芯を持つ「日本女性の強さ」がよく出ていましたね。

私の中で妙に残っているのは、娘のアヤ子(司葉子)と一緒に出かけた銀座のトンカツ屋「さつき」でのセリフ。残りのお酒がもったいないので全部飲んじゃおうか、と言いながら、注ぎかけたあとの「もう、無いか」という一言。
この自然な雰囲気。こんなさりげないセリフが、46年後の今まだ心に響いている、というのは凄いことですよ。(このセリフが残っているのは私だけかもしれませんが)
こうしてみると私の原節子さんへの思いは、なにげないちょっとしたセリフ、仕草に投影されているようですね。

二人目は、「みんなのデコちゃん」高峰秀子さん。この人はやっぱり、成瀬巳喜男作品が心に残ります。
この人って、年に似合わず声のトーンがすごく人生経験を感じさせますね。
そんな、ちょっと疲れた女性の魅力が全開した作品が、「ネヴュラ」でも何回か書いている「浮雲」(1955年 東宝)。

それまでにも天才子役、利発な20代作品と、明るいイメージで売ってきた彼女ですが、この「浮雲」のゆき子役は、それまでの女優人生の集大成と言って良い出来と思います。
あの、うらぶれた雰囲気をかもし出す独特のロートーン。どこか捨て鉢な女性を演じながらも、底に流れる不思議な可愛さは彼女でなければ出せません。
GIのオンリーになり、尋ねて来た森雅之になじられて「こんな暮らしのどこがうらやましいの」の「ましいの」の部分!必死に生きている女性の心の叫びが感じられた名ゼリフです。

彼女のセリフはその語尾に特徴があります。前述の、けだるい独特の低い声と、ここ一番のハイトーンの慟哭。その変化にあふれた声の演技に加わる「言葉がはっきりしない語尾」。これが私にはたまらない魅力なのです。
ああいう風に喋りを操れるのは、変な言い方ですが「女性を長くやっている」証のような気がして。

女性らしき声が出せるとはいえ、普通のおしゃべり程度の会話しかできない私。このけだるい「女、長くやってんのよ」的な語りは、とてもとても無理なんですよ。「お見それしました先生!」なんて感じです。

もちろん、そういうテクニックだけでは片付けられない演技の深みも、彼女の大きな魅力だと思います。
あの、ちょっと節目がちに男性を見上げる視線。
「一緒に連れてってえ」の泣きの演技。
「わざとらしいけど、ちょっとやってみたい」と思わせちゃうんですよね(笑)。

そう。私が高峰秀子さんに感じるのは、「女性としての業の深さ」でしょうか。

そして3人目。もうこれはルパン三世(第一シーズン)に於ける、「峰不二子」的存在、新東宝映画のホープ、三原葉子さん。
「ネヴュラ」の男性読者にはもう説明の必要もないですよね。これはひょっとして、私の中に残る「男性目線」のなせる技なのかもしれません(笑)。

大蔵貢時代、彼女が出演した作品はそれこそ数限りなくありますが、ほとんどは(もう全部かな(笑)かなり浮世離れした内容で、彼女の役柄も、特技を生かしたダンサーに始まり、スリやコールガールなど、ちょっと癖のあるものばかり。
東宝特撮映画のヒロイン、水野久美さんほどではないにしろ、「怪獣を育てたりキノコになっても全然違和感の無い」存在感が私には物凄く身近に感じられました(爆笑)。

彼女の出演作で特に私が好きなのは、またまた過去の記事で書いている「黒線地帯」(1960年新東宝 石井輝男監督)。
三原さんと石井輝男監督はやっぱり切り離せない存在ですよね。この作品で彼女は主人公のトップ屋、町田(天知茂)に協力する謎の女・麻耶を演じました。
この「謎の女」という響き!おそらくこの響きに魅力を感じない女性は居ないでしょう。男性を誘惑し、手玉に取るファム・ファタール。一生の内、一度ぐらいはそんな存在になってみたいものですね。
そういう意味で三原さんへのあこがれは、私の中では「ヒーロー願望」なんですよ。

その肢体を武器にのし上がっていくイメージのある三原さんですが、彼女の魅力はそれだけには留まりません。
彼女にはコメディエンヌとしての才能があるのです。

この「黒線地帯」でも、天知茂との逃亡の道中、車で逃げる天知に「キスしてほしい」とねだり、「うまく逃げられたらな」なんて言われて、逃げ道を見事にナビする姿。
追っ手を気にしながら横浜の街を二人で歩く場面で、天知と腕を組んで「ハマではこれが自然なの」とうそぶくあたりの可愛さは、ちょっと他の女優さんでは真似できないでしょう。

独特の「指を鳴らす占い」も実に堂に入ったもの。何が飛び出すかわからない、予想の出来ない深みが彼女には溢れています。

これは推測に過ぎませんが、彼女は「セクシー、コメディエンヌとしての自分」を、もう一人の自分が冷静に見守っていたのではないでしょうか。
独特のお色気が感じられる彼女の演技ですが、そこにどこか漂う清潔な空気は、彼女本来の真面目な気性がかもし出すような気がするのです。

私が惹かれるのは、ただいやらしいだけではないそんな彼女の存在感。マリリン・モンローあたりと共通する魅力を感じます。「女性から見ても可愛い存在」。きっと彼女の人気は、そんな魅力に支えられていたのでしょうね。

思いつくままにつらつらと書いてしまいました。
なんか今日も、とりとめもないお話でごめんなさい。
ただ一つ言えるのは、今日お話した女優さんは、今の女優さんが持ち得ない独特の魅力に溢れていた事。
私が惹かれるのは、案外そんな基本的な所なのかもしれませんね。

私はそんな女優さんの映画を見ながら、彼女達に自分を重ねるのが好き。
まあ、とりあえず自分のルックスは棚に上げて(笑)。

2006年9月19日 (火)

私がおバカさんになっても

「君は私のものだ!ウルトラまん!」
ザラブなセリフをのたまいながら口にするのは、私の地方で今日発売の「ウルトラまん」。
先日新聞記事で見てから、吉野家の牛丼以上に待ちわびた一品です。

私は基本的に、仕事中にお昼ご飯を買いに出かける事はめったにありません。買い置きか、食べないかのどちらかなのですが、今日ばかりはこの「ウルトラまん」発売日ゲットの為、わざわざ原付でローソンめぐり、というおバカを演じてしまったのでした。

一軒目では「明日入荷」と断られ、二軒目で見つかったのはまだ運が良かったのでしょう。でもこれ、思った以上に楽しいですね。既に買うときから楽しい。
お店で「ウルトラまん下さい」というセリフを放つ時、えもいわれぬ快感が体を駆け抜けます。そしてそれを受ける店員さん(今日の店員さんはまた、若くてかっこいいお兄さんでした)が、「はい。ウルトラまんですね」と返してくれる。
このやりとりがいいんですよ。

私も店員さんもにっこり。コンビニで物を買うとき、こんなに楽しい気分になるのも不思議なものです。

たぶん、「ウルトラまん」という語感が良いんでしょうね。なんか言いたくなるんですよ。で、言うとちょっと頬が緩む。嘘じゃないですから。一度ローソンで店員さんに頼んでみて下さい。店員さんもたぶんにっこりする筈ですから。

今日はお天気もいいし、少し汗ばむけどやっぱり秋の陽気。職場で食べるのももったいないと、会社近くの公園に行きました。丁度お昼時の公園は、近くの学童保育の子供達や私のようなOLさん、営業途中のサラリーマンなど結構な混み具合で。そんな中、片手に「ウルトラまん」を持ったOLが歩けばもう、それはそれは視線も集中、午後一の給湯室で格好のネタとなるのは必至なのでした。

公園中央の小高い丘にしつらえられた、カラフルなベンチに陣取った私。食べる前にと、肌身離さず持ち歩いているデジカメであらゆる角度から撮りまくります。
Photo_191 まず、ベンチに置いてみる。
うーん。シュール。向こうで遊んでいる子供達も不穏な空気を敏感に感じ取ります(笑)。


Sany0018_2 Sany0010_2 つづいて全体像。業界用語で言う「FF(フル・フィギュア)」を一枚。実物はやっぱりふかふかでおいしそう。
私が買ったのは、ウルトラマンの顔中央の突起がちょっと破れちゃってました。言わば「Aタイプマスク」って所でしょうか。いやー買うバージョンまでマニアック?

目のアップも一枚。いわゆる「型押し焼き」ですね。
覗き穴の部分まで再現されていますよ。さすが円谷プロのライセンス生産。手抜きはありません(笑)。

Sany0020_1 この「ウルトラまん」、台紙もマニアック。有名ウルトラキャラクターが印刷されたこの台紙も、後年コレクターズアイテム化するんでしょうねー。
私が手に入れた台紙にはゾフィー、マン、タロウ、首切れメビウス(笑)が登場。ひょっとして台紙のシークレットなんかがあって、超レアアイテム化したりして。(ニセウルトラキャラ総出演とかね。)

その味はと言うと、確かに新聞記事にあったとおりのあっさりしょうゆ味。普通の肉まんよりは食べやすい、というかしつこくない。これがM78星雲の味でしょうか?
私は普段、肉まん、あんまんの類はめったに食べないので、久しぶりにこの手の味を堪能しました。残念ながら中身の写真はありません。撮り忘れちゃいました(泣)。

それにしても、OLの格好した人物が黙々と肉まん一個を写真に撮っている姿は、周りの人には不思議な光景として映った事でしょう。
昔の私なら、こんな事恥ずかしくてとても出来なかったでしょうねー。これは「自分が女性として見えない」という事じゃなくて「女性がやるような事じゃないから」恥ずかしいという意味なんですよね。

女性として暮らし始めた頃、私はひどく「自分を女性として見せる」「女性に見られる」事を意識していました。「レストランでこんなメニューを頼んだらおかしいのでは」とか、「スーパーでこんな物を買ったら女性らしくないんじゃ」とか、かなり「作られた女性像」にこだわっていたように思います。
確かに、一般の男性が週末のストレス発散に行う「女装」であれば、そういう人工的な女性像を楽しむのもいいと思います。いつももじもじ、男性に話しかけられても返事もできない、しおらしい女性。事実私もそうでしたからねー(笑)。

ところが、実際毎日女性の立場で仕事を始めてみて、考えが180度変わりました。
仕事の内容や責任は男女とも同じ。話すジャンルの違いこそあれ、世間話など男女でさほど違いはないのです。若干の仕事上のスタンスの違いさえも、男性女性それぞれの特質を活かし、お互い努力しなければいい結果をつかめない厳しい世界。これはどんなお仕事でも同じですよね。

「ネヴュラ」の女性読者の皆さん、こんな過酷な世界の中で、もじもじなんてしてられませんよねー(笑)。

職場でいろいろな女性の生き様を見るうちに、私のそんな「作られた女性像」は粉々に砕かれました。逞しいですよ。女性の皆さんも。
そして、女性も男性と同じだけの「個性」がある事を痛感しました。
(ごめんなさい気づくのが遅くて)。一人として、男性が思い描く「平均的女性像」の人物が居ない。これも面白かったですねー。

そうなれば、かえって「男性の考える女性らしさ」を演じる事が不自然になるんですよ。
そう考えたとき、私の中で憑き物が落ちたように、生きるのが楽になりました。


「女性だってオタクも居れば怪獣好きも居る。いいじゃん今までの自分で。」
と思っちゃったんですねー。
今の私のキャラクターは、会社の社長にもウケが良いようです。やっぱり映像業界に生きる人たちは多かれ少なかれ映画好きなので、古い日本映画の話題になると止まらないんですよ(笑)。

そういう意味で私は今、「おバカ」ではありますが大変楽です(笑)。
今日も薄手のデニムジャケットに迷彩柄のキャミソール、膝上15センチのミニで街中を歩き回っていました(笑)。
帰りに寄ったスーパーで、たまたま運のいいことに「菓子パン5個315円!」というタイムサービスに出っくわしました。並居る奥様方を押しのけて10個カゴに放り込み、勝利の面持ちでレジに並んだ私。ところがレジのおにいさん、首をかしげて言うのです。
「この10個の内、4個は割引対象外ですね」
昔の私ならそこでパニック、「そ、そうですか・・・」となっていたでしょう。
しかし今や、私は「戦う職業婦人」。
「おんなじコーナーに置いてあったじゃないの!明記しないのが悪い!」と、猛然の抗議。

結局上司の人までご登場で、10個630円の割引価格で事なきを得たのでした。

Sany0040 でもそんな、迫力満点の抗議をする時、私はちょっと考えちゃうんですよね。
「これは私が強く生きてるのか、「おばさん化」してるのか?」なんて。


まあ、生きる上で必要な事とはいえ、
「おばさん」か、「おバカさん」か?日々悩むところではあります(笑)。

2006年9月18日 (月)

ドキュメンタリーな親分

今日は敬老の日でしたね。私は特に何もしなかったんですが、なぜか今日、服にアイロンをかけながら思い出した事がありました。
私が今のお仕事を始めて、しばらくしてから関わったあるディレクターの事です。
敬老の日に思い出した、なんて言ったら、彼に失礼かもしれませんが(笑)。
そう、彼は、今ならもう60代。普通の企業ならとっくに定年を迎えている年齢なのです。

彼はこの業界で言う、いわゆる「イメージ・リーダー」と呼ばれる存在でした。どんな業界でも居ますよね。いわゆる「カリスマ」という人です。
テレビの業界にもそういう伝説を残す人はたくさん居て、そんな人たちのテレビ創世記の逸話に、私達は胸を躍らせて聞き入っていたものです。

言うまでもなく、テレビ番組にはいろいろなジャンルがあります。彼はいわゆる「ドキュメンタリー番組」のディレクターとして鳴らした人でした。
ご存知でしょうか。海外ドキュメンタリーの旗手にして伝説の番組「日立ドキュメンタリー すばらしい世界旅行」(1966年~1985年)。
日本テレビ系で毎週日曜日の夜放送された、30分の海外ドキュメンタリー番組でした。

番組放送当時私もまだ子供で、当然の事ながら一般視聴者。海外旅行がまだ今ほど身近でなかった時代でした。ブラウン管の中で繰り広げられる海外の興味深い映像を、毎週親と一緒になって見入っていた事を思い出します。

彼も、その番組を通じて世界中を飛び回った人でした。番組終了後も日本国内各地の局で良質のドキュメンタリーを作り、業界の各賞に輝いた事もあるすばらしい経歴の持ち主です。
そんな彼も、娘さんの結婚出産を機に、娘さんの嫁ぎ先の近くの局に落ち着きたいという希望を出したそうです。私が勤める局の制作部に契約社員として招かれたのはそんな理由からでした。

テレビ業界をご存知の方はお分かりと思います。ディレクターという職業はある種肉体労働なんですよね。最前線で働くには結構な体力が要求されます。年齢による体力の低下は深刻な問題で、高齢のディレクターが少ないのはそういう理由もあったりするのです。
(体力に反比例して、年を重ねるごとに番組の深みは増していきますが)
彼も、海外ドキュメンタリーという過酷な経歴を財産にしながら、のんびりと余生を楽しむがごとくの制作を続けていました。

私がADとして彼と関わったのは、ある美術館に展示されている日本の歴史遺産の謎を探る、という特別番組の時でした。
ローカルとはいえ一時間のドキュメント番組はそれなりの制作期間もかかり、ディレクターという「親分」の世話から、番組に関するあらゆる事柄を熟知する必要があるので、自然と彼の人柄や制作手法を目の当たりにする事となるのです。

私も数多くのディレクターと仕事をしましたが、彼ほど独創的な仕事をするディレクターは後にも先にもこれが始めて。
いろんな意味で勉強になりました(笑)。

まず、朝、出勤しない。
私の最初の仕事は、局の近くに住む彼の部屋に彼を起こしに行くところから始まるのです。
再三のチャイム、ドアごしの「起きて下さーい」の攻撃(借金取りみたいですね)にようやく開いた扉の向こうには、寝癖で頭が倍の長さになっている50過ぎのおじさんの姿が(笑)。
さて、彼を引っ張って局へ向かった後も、彼の「おもり」は続きます。まず、彼の午前中の仕事は、コーヒーを飲みながらゆっくり新聞を読む事。
「午前中ぐらいゆっくりしようよ」なんて言いながら、新聞のネタ、過去の経験など、面白いお話をたくさん聞かせてくれました。
不思議なもので、そんな彼のお話の面白さに引かれて、周りに自然と人が集まってくるんですよね。テレビ創世記の逸話というのは、やはり同業者として興味を引かれるものがあるようで。

アラビアの取材で、お金を円からドル、さらに現地の通貨に換金するため、土地のマフィアの巣窟へ乗り込んだお話。
レートの関係で、両手の紙袋から溢れんばかりの札束に換金されたお金を持った彼は、その現場から生きて帰れないと思ったそうです。

「すばらしい世界旅行」は国から国へ渡る取材が続く為、常に東京の日本テレビに取材費を送ってもらいながら国を超えていたそうで、交通機関が発達していない国へ渡ったときなど、現地で「車を買って」取材を続けたというお話。
取材費で車を買うって!
買った車は、次の国に入国する時売るという荒業。すごいお話ですよ。

ゴビ砂漠を取材したとき、砂漠の真ん中で手持ちの水分が底をつき、本当に死の恐怖に直面したお話もすざまじいものでした。

その取材のドキュメントを作ったほうが面白いんじゃないの?と思うほどの、おそろしく過酷な毎日。嬉々として話す彼の姿はやはり、イメージ・リーダーとしての貫禄充分でした。

さて、お昼ご飯をはさんで午後。ここで彼はふらりと「資料を探しに行って来る」と出かけます。
そうなったらもう、その日は帰らないというサイン(笑)。

プロデューサーと顔を見合わせて苦笑いするしかありません。古書が好きな彼は、古本屋街をぶらぶらしながら番組の構想を練るのが常なのです。ADとしてはついて行きたいのですが、「君は手配とか、色々するべきことをやりなさい」とか言われて、いつも体よくあしらわれてしまうのでした。考えてみれば、それだけ役に立たないADだった訳ですが。

そんな事が何日も続いたある日、彼が突然動きを見せました。番組の構成案を作り出したのです。
私が驚いたのはその仕事の速さと、構成の緻密さでした。わずか2時間程度の間に、それまで彼の頭にあった構成が、実に分かりやすくまとめてあったのです。
午前中の新聞もコーヒーも古本店巡りも、このためにあったのか、と思わせる凄さ。いやーこれが本当のプロの仕事か!と、当時の私は感激したものです。

そこからはめくるめく初体験の嵐。テレビの取材というのは、ディレクターがあらかじめカメラマンなど技術サイドに取材日を打診して、スタッフを押さえてもらって行う物なんですが、この人の場合は違いました
「この日からこの日を押さえといて。どこで行くか分からないから」という(笑)。いわゆる「待機日」がある訳です。
これは、報道など突発的なニュースが飛び込んでくるセクションでしかあり得ない事で。「どういう事なんだこれは!」というスタッフ側からのクレームを受け止め、ディレクターを守るのがADたる私のお仕事だったわけですねー(笑)。

彼は私の「取材日を指定して欲しい」という願いに、涼しい顔でこう言うんですよ。
「いつ行くかわからないよ。ドキュメンタリーなんだから。」

このセリフ、あまりにカッコいいので、しばらく私の部署で流行りました。
「お昼何食べる?」
「行ってみなきゃわからないよ。ドキュメンタリーなんだから」(笑)

さて、この番組では江戸文化研究家の杉浦日向子さんに出演してもらったんですが、親分たる彼はもう、杉浦さんとの打ち合わせに実に時間を費やすんですね。
もう取材期間中、撮影していない時はほとんど杉浦さんとベッタリで。

これは彼が、少しでも杉浦さんの知識を引き出し、番組に反映させたいという意識の表れと思います。事実この番組は、杉浦さんにかなり助けられましたから。

取材も無事終わり(正確には周りに謝りっぱなしだったですが)、いよいよ編集。それにしても番組も、映画と同じで編集で決まりますね。どんなディレクターもそうですが、やはり彼にもあった「ここは絶対譲れない」というこだわりが随所に見られた作品でした。
編集中、あるエピソードがありました。
番組中で描かれた登場人物の心情を表す情景として、「海バックの夕日」という映像がどうしても欲しかったんですが、撮影は終わっているし、局のライブラリーにも無い。
「ここは絶対夕日が欲しいんだ!」という彼は、電話一本でいとも簡単にその映像を手に入れたのです。

それまで彼が国内各地で作り続けた番組のネットワークが役に立ったのです。彼はある地方局のお知り合いに電話をかけ、「夕日ない?」なんて打診、そのお知り合いから映像を送ってもらったという訳。
「ほら、夕日にかかる雲がいい芝居してるだろ」なんてうそぶく彼を、私は心底「カッコいい!」と思いました。

「会社から見れば俺なんて、余った「雑給」で養われてるんだから。君をはじめ、みんなの方が俺より格が上なんだよ」なんて、いつも笑っていた「親分」。私は彼の元を離れ、しばらく連絡もとっていませんが、私は、彼にはまだ現役でバリバリやっていてほしいと思います。
重ね重ね、「敬老の日」なんかに思い出しちゃって申し訳ないとは思いますが。

でも今会ったら、彼はやっぱりこう言うかな?
(ご想像通りですが)

「なにやってるかわかんないよ。
人生はドキュメンタリーなんだから」。

怪優総進撃

西日本では台風の上陸で大変のようですね。お住まいの方、被害に遭われていませんか?おかげさまで私の地方ではなんとか一日天気の崩れもなく、ほっと胸を撫で下ろしています。
こんな日にはどうも、鉛色の空に合わせてちょっと暗めの映画を見たくなっちゃいまして。
ここ数日、変身する人間達の作品を語っているせいもありますが。

基本的に私は、「映画は監督で見る」癖があるんですが、たまに、キャラクターが立ちすぎて、その人との再会を目的に見てしまう作品もあるんです。
特にこの人、という決まった人は居ないんですが、なぜか「あの俳優さん、あの役がはまり役だったなー」なんて思い出し方をするんですね。

Photo_185 今日思い出したのは、ご存知シャンソン界の「クレバス男」(笑)高英男(こう ひでお)大先生の個性が際立つ大傑作「吸血鬼ゴケミドロ」(1968年松竹 佐藤肇監督)。
これはいわゆる東宝制作の「変身人間シリーズ」ではないんですが、宇宙生物による侵略テーマのSF作品として高い評価を受けています。

これ、タイトルが凄いので、未見の方はちょっと内容が想像できないんじゃないでしょうか。「ホラーなの?コメディーなの?」って感じで。
マニアの方はとっくにご存知でしょうが、これは大真面目の正統派作品。「吸血鬼」と来るから分かりにくいんでしょうね(笑)。

Photo_186 真っ赤な空の中を飛ぶ一機の旅客機。謎の円盤の飛来を確認した直後、計器の狂いにより山中への不時着を余儀なくされます。
生き残ったのは機長(吉田輝雄)、スチュワーデス(佐藤友美)、乗客らの全10人。

これがまた殺し屋、悪徳政治家、軍事産業の重役、自殺志願の青年、宇宙生物学の権威など、「絶対ありえない組み合わせ」のメンバーで(笑)、不時着した場所さえ分からないまま、脱出を図るべく動き出すのですが・・・

ここで脚本の高久進、小林久三はとんでもなく飛躍した発想を見せます。
スチュワーデスを人質に逃亡を図る、国際的ヒットマン高英男先生の目の前に、突如現れた驚愕の物体。
吸い寄せられるように引き込まれた彼に憑依するアメーバ状の宇宙生物、ゴケミドロ!

Photo_190 この 憑依のシーンは今でも語り草になるほどショッキングで、あれを一度見てしまうとしばらく立ち直れないですねー(笑)。
写真の、高先生の額に走る縦長の亀裂が全てを物語っているんですが、ああいう発想はいったいどこから出てくるんでしょうか。
この種の憑依の仕方って、邦画ではこの作品でしかお目にかかれないような気がするんですが。

そしてここから、高先生の見せ場が続出するわけです。これは是非ごらん頂きたいですね。
生き残った人間たちの醜いエゴ、そしてゴケミドロに憑依された人物達との熾烈な戦い。佐藤監督のシャープな演出と、金子信雄、北村英三、高橋昌也、楠侑子など、ものすごくキャラの立ったキャストたちの演技によって、おそろしく緊張感溢れるドラマが展開されます。彼らはゴケミドロの恐怖から、不時着した飛行機に閉じ込められる形になる訳ですが、そこには色々なストーリー上の仕掛けがしてあって・・・
高英男先生は、これらの個性爆発のキャストの中で、さらに際立つキャラクターなのです。

宇宙生物に憑依された為でしょうか。あの端正なお顔が氷のように無表情になり、生き残った人々を一人ひとり襲って、その「生き血」を吸うという・・・
これはもう、キャスティングの勝利ですねー。後半、他の人物もゴケミドロに憑依されるんですが、高先生ほどの迫力は無いですから。

この作品、東宝映画「マタンゴ」(1963年 本多猪四郎監督)と並び、エゴむき出しの「人間ども映画」なんて呼ばれる事が多いのです。それはやはり、限定空間における人知を超えた存在との闘いが生み出す、人間の醜い姿を活写した部分が共通するからでしょう。
でも私、やっぱり二作品の内、「ゴケミドロ」を見ちゃうんですよ。作品の出来は甲乙点け難いと思います。それでも「ゴケミドロ」を選ばせるのは、やはり高英男という存在じゃないかと考えるんですよね。まあ、好みもありますが(笑)。

「ゴケミドロ」DVDのオーディオコメンタリーで、コメンテーターのみうらじゅんが、この作品をリメイクしようとしても、高英男さんみたいな人が居ないよね、なんて事を言っていました。これはその通りですね。
高さんを抜擢したのは他ならぬ佐藤監督だったそうです。その時点でもう、この作品は成功を約束されていたといって良いんじゃ(笑)。

Photo_188 こういった「キャラ勝負」の映画って、他にもありますよね。
私がざっと思い出した所では、例えば岸田森さんなんかでしょうか。

テレビ作品「怪奇大作戦」(1968年)の牧史郎役が有名な岸田さんですが、私が忘れられないのは東宝映画「呪いの館 血を吸う眼」(1971年)。
これはタイトル通りの吸血鬼映画ですが、岸田森さんが「和製ドラキュラ」の称号を得るまでに至った、記念すべき作品です。

この作品の後続いて、「血を吸う薔薇」が作られましたが、私は「眼」の方が好き。なにしろ劇場で初めて観た「岸田ドラキュラ」ですから。

そのショック演出もさることながら、岸田さんの吸血鬼は「怖さとバイオレンスのバランス」のとれた存在感が見事。
あの独特な神経質そうな風貌で、静かに語っていたかと思うと、突然牙をむいて襲い掛かる先の見えない恐ろしさ。
格闘場面では部屋の外へ出て廊下を逃げる相手の前に、突如壁を破って登場するその姿。まさに「ラゴン」並みの、人間を超えた体力を持つ吸血鬼の存在を感じさせてくれました。

ただこれは、あの細身の岸田さんだから怖さを感じるわけですね。まさにハマリ役。
これがもっとムキムキの体つきだったら、当たり前に感じてしまうわけて゜。

Photo_189 他に思い当たる人と言えば、新東宝映画「地獄」(1960年 中川信夫監督)の「田村」こと、沼田曜一さんでしょうか。
この「地獄」という作品は、倒産寸前の末期新東宝映画の中でも特筆に値する作品ですね。ちょっと極端すぎるチョイスでしょうか(笑)。
これは・・・。ストーリーを説明しないほうがいいでしょう。あまりにも凄い展開に、未見の方はおそらく「唖然」となること間違いありません。もう映画の範疇に収まりきらないかも(笑)。

すべての登場人物がちょっと常軌を逸したとしか思えないテンションで進むこの作品。中でも特にスゴイのが前述の「田村」。役柄も伏せておいたほうがいいでしょうね。
ご覧になった方にちょっとお聞きしたいんですが、あの沼田さんのテンション、どう思います?あれ、演技でしょうか?私には何かに憑りつかれたとしか思えません。
それまでも沼田さんは、新東宝という会社の中で際立った個性を持つ俳優さんでしたが、この「地獄」だけは、ちょっと違うような気がするのです。

中川監督はこの作品の制作発表時、「呪われた映画」の雰囲気を出したいといったコメントをしていますが、まさしくその通り。作品のカラーを背負って立つキャラクターこそあの「田村」であると、私は思います。
あれを観ちゃうと、田村の役って沼田さん以外考えられなくなっちゃいませんか?

あー、こんな事書いてるとまた夢に出そう。「四郎!来いー!」(怖)

今日も思いつくままに書いてみましたが、その作品にハマる際立つキャラクターって、やはり「オンリーワン」の個性派俳優さんが演じているんですね。
きっと思い出せばまだまだ出てくると思いますが、最近の俳優さんをどうしても思い出せないのはつらいですね。

演出と同じで、演者も没個性化が進んでいるんでしょうか。
役者で見せるキャラ勝負の作品も、是非期待したいところですが・・・

2006年9月16日 (土)

120秒一本勝負

以前、一緒に仕事をしたディレクターと雑談していた時のお話です。
当時、彼は情報番組の映画紹介コーナーを担当していて、新作映画のダイジェストを2分程度に編集し、番組で流していたそうです。映画会社から渡されるダイジェスト版や、映画全篇のビデオテープを見ながら編集するわけですね。

彼がそこで力説していたのは「面白い映画は、2分程度に編集しても面白い」という事でした。逆につまらない映画は、どんなにダイジェストを面白く作ろうとしてもできない。
作品の面白さというものは、たったワンカットの中にも詰まっているんだ、という事をしきりに話していました。
作品の編集について興味があった私は、彼の話に「なるほどなあ」と納得していたものです。

当然の事ながら、ノーカットの全長版に興味が向きがちな映画。そりゃそうですよね。テーマやストーリー、表現の妙に惹かれて見るのが映画の正しい見方です。
ところがテレビ屋の悲しい性。おまけにCM好きの私などは、映画本篇に加え、いろいろな映画の「特報」や「予告篇」など、作品の周辺映像にまで気が向く始末で。もうどうしようもありませんが(笑)。

そんな訳で、今日はあまり語られることのない「予告篇」について、つたないお話など。

以前の記事で、タイトル前の「アバンタイトル」を「監督からの招待状」と呼んだ事がありました。普通に考えれば、「招待状」という呼び名にふさわしいのは今日お話する「予告篇」じゃないの?なんてお考えの方もいらっしゃるでしょうね。
私が何故、予告篇を「招待状」と呼ばないのか。

ご存知の方も多いでしょうが、映画の予告篇って、実は「助監督」が作る事が多いんですよ。

かつて映画界は、監督志望の助監督の力量を「予告篇」で推し量っていた時期があったんです。
今の事情は分かりませんが、どんな映画でも、その監督は封切りまでは作品の制作にかかりっきりで、劇場に掛ける「予告」などを作っている時間がありません。その為、その制作は助監督に任せる場合が多かったようなのです。もちろん作品毎に事情は異なりますから、監督自らが予告篇を作っている場合もありますが。
私もAD時代、忙しいディレクターから「次回予告をでっちあげといて」なんて言われ、夜中の編集室で一人頑張っていた時期がありました。

これ、実は助監督にとって「チャンス」なんですよね。
なにしろ予告とはいえ、自分で編集した立派な「作品」なんですから。この出来によって観客動員も変わってくれば、会社に自分の力もアピールできる。
逆に予告篇を任されるという事は、監督にそれたけ信頼されているという事ですらね。そりゃ力も入るというもの。

あの円谷英二だって、一時期予告篇を専門に手がけていた時期があったと聞きました。予告篇を量産する事で編集技術とセンスを磨き、会社に「円谷あり」と認めさせたという逸話は、映画黄金期の伝説として、私も耳にした程です。

後にある仕事で、プロデューサーから「お前は映画に詳しいから」と、あるスキー場のオープン告知ビデオを「映画の予告篇風に」作ってくれないか?と依頼された事があります。
面白かったですよ。ハリウッド超大作風のハッタリを効かせて、「ダイ・ハード」「ターミネーター」もかくや、という大風呂敷風に仕上げましたから(笑)。

昔から予告篇に興味があった私は、その仕事の時、少し予告篇の構造を勉強した事がありました。まあそんな大げさなものでもないんですが。
予告というのは、人間の集中力と、作品への興味をそそる長さを考えてほぼ、2分程度。
当然、本篇の作品はまだ完成していない時に打つ予告ですから、映像素材も在るものだけ。
観客の期待をあおる為、予告の映像のつながりと、本篇のつながりが違っていてもOK。

その他、作品によっていろいろですが、大まかにはこんな感じです。

で、実際作ってみて分かったんですが、「予告篇」と「実際の作品」って、作る上で違う才能を要求されるようなんです。
考えてみれば、一から作品を作り上げる映画本篇と、できた映像しか素材が無い予告とでは、まるで条件が違う。ある意味「騙してでも見たい作品に見せる」という才能が必要なんです。

よくありますよね。「予告篇で期待していたのと違った」「予告篇で出てた怪物なんて出なかった」みたいなガッカリ感。あれは、助監督が苦肉の策として「嘘を承知で」でっち上げた「手口」だったりするんですよね。
でも私は、そんな予告篇を妙にいとおしく感じちゃうんです。「苦労したのね。あんた」みたいな感じで。

最近の作品で言えば、あの悪名高きアメリカ版「GODZILLA」(1998年 ローランド・エメリッヒ監督)。あの予告篇(笑)。
「GODZILLA」の姿を徹底的に隠し、物凄い破壊のドラマかと思わせるあの「手口」。「人類に、打つ手は無い」ってキャッチコピーも秀逸。あの戦略に騙されて公開初日の第一回目上映に出かけた私の胸の内はまさに「悲しみのプロパン爆破」(爆笑)。

でも、予告はよく出来ていたと思うんですよ。ああいう制作側と観客の駆け引きも、映画の楽しみだと思っているので。大げさな予告篇を見せられても「これは絶対つまらない」と思って踏みとどまった作品が、後日やっぱり駄作と分かった時、ひそかにガッツポーズをとったりしてね(笑)。

でもその逆もあるんですよね。
例えば「2001年宇宙の旅」(1968年アメリカ スタンリー・キューブリック監督)。
あの予告編を後年見たんですが、「これ、絶対キューブリックが作ってないと思う」と考えざるを得ない、凄く普通の作品に見えちゃうんですよ。


「予告篇」の一種に「特報」という物がありますが、私はどうも、短い時間で作品のイメージを端的に象徴する「特報」の方に感激しちゃうタイプなんですね。
というのは、「特報」はスピードポスターみたいなもので、映画本篇がほとんどまだ撮影されていない段階で見せざるをえない宿命。そのために、なんとか本篇の映像を使わずにイメージ戦略だけで見せようとする訳です。
ここは微妙な感覚なんですが、映像がない分「映像作品」としては成立していない。
でもグラフィカルな面白さではこちらの方が上のような気がして。

私が好きな「特報」は、まず「バットマン」(1989年アメリカ ティム・パートン監督)ですかね。
ゆっくり光学処理されるバットマークにカットバックされる、本篇のハイライトシーン。
「バットマン」というタイトルはどこにも出ない。「マークだけで分かるよね」というカッコよさがそそるんですよ。

もう一つ唸ったのは「ジョーズ」(1975年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)
の特報。しかも最後のワンカットのみ。
特報の途中部分はまあ、普通なんですが、最後に「JAWS」とタイトルが出る場面。このアイデアには参りました。わずかワンカットであの映画の恐ろしさを見事に表現しています。
未見の方、一度ご覧下さい。本篇映像を使わず、作品の特徴を端的に表すお手本のような画面です。

お話は予告篇に戻りますが、最近の予告篇では「スーパーマン・リターンズ」がお気に入り。
「弾丸を眼球で跳ね返す」というイメージは秀逸でしたね。でも、あのアイデアが作品全体に溢れていたかと言うと・・・
観ていないので何とも言えませんが、私の中の何かが「いかーん!行っちゃいかーん!」と叫ぶのです。

本当はこんな声を無視していくべきなんでしょうね。騙されるのを恐れて、映画の楽しさを自分で摘み取っているんですよ。

「120秒一本勝負」そんな予告篇に敬意を表して。いつか観るつもりですが(笑)。

2006年9月15日 (金)

蒸気の男 情鬼の女

「ネヴュラ」の男性読者で、スーツの内ポケットに手を入れる時、ちょっと口元を歪めて「ニヤリ」と笑う癖のある方。
今日はそんな貴方にお贈りします。

Photo_184 さて、今日のお話は「ガス人間第1号」。

1960年公開の東宝映画「変身人間シリーズ」の一篇です。「ゴジラ」以来の、本多猪四郎監督、円谷英二特技監督の名コンビ。
ファンの間ではこの作品が、変身人間シリーズの最高傑作と呼ばれていますね。

私も作品の出来としては、この「ガス人間」が一番と思います。(好みとはまた別ですが)
この作品、国内よりは海外で大変人気があるそうで、主演の土屋嘉男さんはさまざまな国で「ガス人間」の恩恵にあずかり、サイン攻めやVIP待遇などのいい目にあったとか。楽しいお話ですね。

何故か国内ではファン以外あまり知られていないこの作品。例によってさわりだけちょっとお話しましょう。
Photo_179 鉄壁の防御を誇る銀行の金庫から続々と奪われる多額の現金。捜査を続ける警察の岡本(三橋達也)は、日本舞踊の家元、春日藤千代(八千草薫)に行き当たります。
弟子に去られ、藤千代一人残った春日流は没落の一途を辿っていましたが、最近不自然なほど金回りが良くなり、去っていった弟子を買収して発表会を開くなど、怪しげな動きを見せていたのです。藤千代と強盗の関係は?岡本らは藤千代を逮捕、拘留という手段に出ます。

新たな予告強盗が勃発。ついに逮捕した犯人はつじつまの合わない証言を繰り返します。
連続強盗犯を別人と睨んだ岡本の前に「自分が真犯人」と現れた男、水野(土屋嘉男)。彼は強盗の手口を再現してみせると関係者を集めます。岡田らの眼前に展開する、水野の恐るべき手口とは!

Photo_180 こんな感じでしょうか。皆さんのご想像通り、金庫室の鉄格子の前で「スーツに手を入れ、ニヤリと笑った」水野の体は、見る見るガス状に変化、見張りの銀行員の「首を絞め」(ここは是非見て欲しいですね)現金を悠々と掴み取り、あまつさえその場に居た警官まで犠牲にするのでした。
「ガス人間水野」の登場です。

ここまてでドラマは43分経過しています。この作品は91分ですから、実に全篇の半分近くは前述の「犯罪ドラマ」が展開されるわけです。確かにそれまでの間、思わせぶりな描写はあるものの、最初から大げさな見せ場を持ってこないあたり、本多監督の地に足のついた演出が光る一篇です。

Photo_181 ここから先は、実際に作品をご覧下さい。私の下手な説明で、作品の高貴な香りを濁してしまってはいけないので。ただ、この作品の場合、「ガス人間・水野」の立場は非常に微妙。
ネタバレで申し訳ありませんが、ある人体実験による突然変異で、体をガス状に変化させる能力を手に入れた水野は、藤千代という女性の為に自らの能力を使い、強盗を繰り返して彼女にお金を与え続ける訳です。

Photo_183 いろいろな研究書などには、このストーリーを「科学の犠牲となった男の純愛」と書いています。
人里離れた地に住む、没落寸前の日本舞踊家元。凛とした美しさがどこか神話の世界の住人を思わせる藤千代。彼女を現実に縛り付ける、お金のかかる発表会。こんな女性に惚れてしまったら、男性なら誰でも援助したくなるのでは?それこそ水野のように、いくらでもお金を手にすることが可能な能力が身につけばなおさらの事。

確かに一面では、「ゆがんだ純愛」として捉える事もできます。作品中で水野は藤千代の事を「お金のかかる人」と言っていますし。ガス人間の自分でなければとても付き合っていけない、というニュアンスも漂わせています。
でも最近久しぶりに再見してみて、私はそれたけではない「深み」を、この作品に感じるのです。

未見の方の為に詳しくはお話しませんが(笑)、水野がガス人間になる経緯は、言わば「狂気の科学者による実験の失敗」なんですよ。
つまりガス化する能力は、狙ったものじゃなくてたまたま身についた物。不可抗力なんですよね。だから人間体で居続けられる保証なんてどこにもない。

これもある本に書かれていたことですが、
「水野は自分がいつガス化して空に散ってしまうか分からない恐怖と闘いながら」
ガス人間として生きている訳です。
この視点がずっと頭の中に残っていまして。

水野は無敵の超能力者でありながら、言わば死の恐怖と隣り合わせなんです。
こういう立場に置かれた人間は、おそらく生殺し状態。

普通の人間以上に「生」への執着が強いんではないかと思うんですよね。
これを考えたとき、この「ガス人間第1号」という作品の、もう一つのテーマが見えてきたような気がして。

おそらく水野は、藤千代へのゆがんだ愛を通して、自分が生きている実感を味わいたかったんではないか、なんて思うんですよ。
「ガス化して何でも手に入るようになったら、何も欲しくなくなった」なんてうそぶく彼も、岡本警部に「人間じゃないんだから、藤千代を愛する資格も無いな」なんて意味の事を言われた途端、狼狽の色を隠せませんでした。
愛する人が居る。その人の為になんでもする。これが彼にとっての「生きている証」だったような気がするんです。
「自分と生を繋ぐ、たった一本の糸」と言うんでしょうか。

今、文字通り「煙のように」消えうせてしまうかもしれない自分という存在を、水野は最後まで感じていたかったのでしょうね。この視点で「ガス人間」を見てみると、この作品は恐ろしいほどの悲劇に感じられちゃって。
「何でもできるけどいつ消えるかわからない。」こんな主人公の設定のSFが、46年も前に作られていたとは。いやービックリ。

Photo_182 そして、水野の「証」として選ばれた藤千代も、おそらく浮世と常世の淵を行き来する存在なんですよ。
あの幽玄の舞に込められた思いは、俗人には計り知れないものがある筈。

水野の思いを受け止めるだけの器が、彼女にはあったんじゃ?
(今日も私見が暴走気味で(笑)。

物語のラスト。これも伏せますが(イジワルですねー(笑)。ご覧になった方は思い出してください)藤千代が取った行動。その前に彼女は自分の心情を、「どうにもならないんです」と言っています。

死の淵に立ち、生を全うしようとする男と、
常世に舞い、男の思いを受け入れる女の「情」。

これは深い!恋愛を超えた「生と死」の問題に取り組む作品ですよこれは。
ただラストシーン、「あの時」の藤千代にはおそらく、情と表裏一体の感情があったのでしょう。
その感情とは。
おそらく発表会の演目、そして今日のサブタイトルが物語っています。

あーあ。今日も偏ってますねー。
「常軌を逸してる」なんて言わないでね(笑)。

2006年9月14日 (木)

創造と表現のバランス

「文書、確認させていただきました。」
今日お仕事で、局のプロデューサーから受け取った書類の返事。

あまり固いお話から始めるのも「ネヴュラ」向きではないんですが、今日はここから。

例の「ポケモン」事件。皆さんも覚えていらっしゃいますよね。
ある回の、速すぎる画面のチカチカの影響で、気分が悪くなった子供が全国で続出したあの事件です。

その後、全国の局では光に関する番組の表現方法の見直しを図り、現在ではかなりの配慮をしながら放送を行っています。
そんな中新たに、「放送できないレベルの光の点滅を感知する検知器」が導入されたそうなのです。今日返事をした書類は、そのお達しに対する事でした。

今までは、制作者側の自主的な判断で光の点滅の速さを変え、放送していた訳ですが、今回の「検知器」の導入で、それが数字的にはじき出されてしまう、という訳です。

この機械には一長一短ありまして、何と記者会見場などで焚かれるカメラのフラッシュにも反応してしまう、との事。
記者会見の時って沢山の新聞社、雑誌社などがやたらとフラッシュを焚くでしょ。検知器はあれを「速い点滅」と判断してしまう訳です。
「どーするんですか?そういう時?」私の問いかけに、プロデューサーも「それ、困ってるんだよね」と一言。まあ、生中継は仕方がないとしても、録画して編集する時などはちょっとその部分をスローにして・・・なんて手段しか無いんだそうです。

のっけから専門的なお話でごめんなさい。皆さん確実に読む気力をなくしましたよね(笑)。このお話は、最近私が感じている「作品の表現方法」と関連することだったので、つい・・・

以前、仲間のカメラマンから聞いた「ドラえもん」の演出法のお話。
「ドラえもん」というお話のパターンの一つに、「のび太とジャイアンの関係」というのがあります。いじめっ子ジャイアンにいじめられたのび太がドラえもんに泣きついて、ドラえもんは未来の道具でそれに対抗。ジャイアンを負かすというパターンです。ただジャイアンはそれを「ドラえもんの道具のおかげ」と思い、「おぼえてろー」と立ち去る。
のび太だけなら負けはしない、という含みを残して。

このパターン、最近変わった事をご存知ですか?
数年前からテレビアニメ版では、ジャイアンは最初こそのび太に高圧的ですが、お話の最後ではのび太に謝る、改心する、というバターンになっているのです。

これは制作者側の「いじめっ子に対抗する為にドラえもんがのび太に加担する」という構図が教育上望ましくない、という理由で原作から変更されているらしい、とカメラマンはある筋から聞いたそうです。又聞きなので正確ではありませんが、確かに最近のテレビアニメ版は、私が「てんとう虫コミックス」で読んだお話と若干違っているような。

自分の意思で鑑賞を選べる映画と違い、電源を入れれば否応なしにお茶の間に送り込まれるテレビというメディアは、おのずと表現方法が映画と違ってきます。
「子供も見る」という事実の為に、テーマや表現が過激な番組は「俗悪番組」などというレッテルを貼られ、教育機関などから目を付けられる構図は、昔から変わっていませんよね。
「番組モニター」などの意見を伝える番組にも関わりを持つ私。そういう意見についても普通の人以上に把握しているつもりです。

実際に現場で番組を作っていて感じる事ですが、ドラマというのは「テーマを語る脚本」と、「その表現となる演出」に大きく分かれます。
ここで思うのは、「最近の番組は脚本に力を入れずに、表現に力を入れすぎていないか」という事なのです。

もっと具体的に言えば、「あまり出来の良くない脚本を、画面的に過激な表現でむりやり盛り上げているのでは」と感じてしまうんですね。

冒頭の「ポケモン」の一件も、テレビの歴史の中でかつてなかった出来事です。これもいつもの私見ですが、「過激になりすぎた画面上の表現」が起こした事件ではなかったのかと。で、その脚本は別に、とりたてて問題になるような内容ではなかった訳です。となれば、やはり今、アニメーションを含めたドラマ全般で視聴者を引き付けるような要素は、「画面上の過激な表現」に頼っているのかなー、なんて思ってしまうわけですよ。

「世の中のオリジナルのストーリーは底をついた」なんて言われて久しいですね。
確かに、私は今、こと「ストーリーのオリジナリティー」に関しては、大変な閉塞感に襲われています。

かつての名画を「最新のCG技術で」リメイクした「新作」がまだまだ作られ続ける今、何を見ても「見た事のあるお話」「結末の見えたストーリー」ばかりで。
それはテレビドラマにも言える事なんですよね。「これは新しい」「これは全く先が予想できない」と感動した番組は、今やドキュメンタリーしか無いような次第で。
私のドラマ離れがひどいせいもあるかもしれませんね。勉強不足は否めませんが。

「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督が、あるロボットアニメの新作発表でこのような事を言っています。

またロボットアニメか、と言われるかもしれないが、じゃあ連綿と作り続けられている恋愛ドラマの新作発表で「また恋愛ドラマか」という人は居ない。
ロボットアニメでも一本一本違うドラマはできる筈。

私はおバカなので、富野監督の真意(というか信念)は理解できても、彼がそれを実践できたか、というとちょっと?が付いちゃうんですよ。ごめんなさいね。本当におバカなので(泣)。
このお話ほど差し迫った形ではないにせよ、制作側にも蔓延する閉塞感ゆえに、過激な表現のみに頼る現状があるのかもしれません。

そしていま一つあるのは、「テーマは宿題にして先送り」感覚。
前述の「ドラえもん」でもそうですが、「ドラえもん」の良さって、「未来の道具に頼らない子供の強さ」にあると思うんですが、どうでしょうか?
私は劇場版のドラえもんを見た事がないので、原作版・テレビ版との違いが分からないんですが、少なくともジャイアンという宿敵をドラえもんの道具で負かしてしまうのび太って、「成長しない」って事では?

この辺は、こんな舌足らずなお話ではなく、いろんな方々も語られているので興味深い所です。制作側もこのテーマはよく分かっている筈なんですよきっと。
過去一度だけ制作された「ドラえもんが未来に帰っちゃうお話」とか、名編もあったのに。

このあたりの「テーマ上の宿題」を先送りする感覚は、私にもよく分かります。
この宿題、思った以上に難しいんですよ。「ドラえもん」の根本的な構造を考え直す事ですから。
だから今の所、ストーリーを倫理にあった形にして、やり過ごすしかないと。


「未来の道具の楽しさ」を単純に味わえばいい筈の「ドラえもん」。
考えれば考えるほど奥が深いですねー。
前述の「ポケモン」も含め、日本のアニメーションはテレビ界が抱える問題の縮図だったりして。
結局不勉強な私の、偏った物の見方ゆえなんでしょうね(笑)。

2006年9月13日 (水)

ヒーローは「赤」から始まる

Photo_177 いつか出るとは思っていましたが。
ついに実現してしまいましたねー(笑)。
今日の新聞にこんな写真が載っていました。

このおいしそうな肉まん(?)の名前は「ウルトラまん」。
今年の、ウルトラマン生誕40周年を記念してローソンから発売されるとの事。

記事によると既に関東、中国、四国地方では発売が始まったそうで、私の住む地方では今月19日にデビューの予定です。

いやー誰もが考えながら誰も実現できなかったこの企画、生産は山崎製パンで、日本のヒーローだけにカツオしょうゆの和風味。1個150円で18万個の限定販売だそうですよ。
これはもう、顔がこんなに丸くなるまで太っても買って食べなきゃ。限定だし。

昔から、この手の「限定販売」には弱い私。もともと、番組の放送期間中に店頭に並ぶキャラクター商品は、お財布の許す限り細々と入手してきたものです。ただ、おもちゃの類はまだ保存が利くからいいものの、こういう「食べ物」「生もの」は、その時じゃないと楽しめない。「時代の証人」を目指す私などは目の色を変えてローソンに走るのです(笑)。

ウルトラマンも生誕40周年ですか。私も年をとるわけですね(笑)。でも、今だにこんなに人々に愛されるキャラクターの誕生時をリアルタイムで鑑賞できた、という幸せは、何物にも変えがたいなー、なんて一人悦に入っています。
おかげで立派なオタクになっちゃいましたが(笑)。

Photo_173 Photo_176 今も、コンビニやスーパーのお菓子売り場で、子供達から大きなお友達までを楽しませてくれる「キャラクターのお菓子」。これら、キャラクターのマーチャンダイジングが本格的になったのは、1966年の「ウルトラマン」放送時が最初だと言われています。
それまでも出版物や子供の持ち物などにキャラクターが印刷されたものは多くありましたが、キャラクターそのものの商品化や、お菓子などの食品に本格的にキャラクターが参入してきたのは「ウルトラマン」からなんだそうです。

Photo_174 考えてみれば(この辺は当時メインターゲットだった強みですが)「ウルトラQ」放送当時、確かに「Q」関係のお菓子って見たこと無かったですねー。あったかもしれませんが私の近くではお菓子は売っていなかった。
「ウルトラマン」からですよ。シスコのチョコレートやガムを買った記憶があるのは。

今はもう無くしてしまいましたが、ウルトラマンチョコの包み紙を大事に集めて持っていたものです。何種類かあったので集める楽しみがあったんですね。(当時から既にコレクター気質でした(笑)。

Photo_175 そんな風に、「お菓子」という子供の楽しみにキャラクターを結びつけた産業は、時代の流れとはいえ今や一つのビジネスとして巨大な市場を抱えるまでになっています。
よく言われる事ですが、「キャラクタービジネスが番組そのものの内容まで決めてしまう」なんて事は、やっぱり「ウルトラマン」にもあったんでしょうか?

「キャラクター番組は、そのキャラクターの商品を売るための30分のコマーシャル」なんて言われて久しいですね。
おもちゃメーカーやお菓子のメーカーがヒーローや武器に「おもちゃになりやすいデザインを」と口を出してきたり、おもちゃのバリエーションを増やす為に新キャラクターの登場を要望してきたり。こういう事情で「苦しい展開」を余儀なくされる番組は、今でもよく見かけます。(どの番組とは言いませんが(笑)。

実は、もう20年近く前に放送されたウルトラマン関係の対談番組で、その事に触れたお話をした人が居たのです。

上原正三さん。特撮ファンには「上正」の愛称で親しまれる名脚本家です。「帰ってきたウルトラマン」のメインライターであり、その後も数々の特撮番組で名作を残しています。
この上原さんが、初代ウルトラマンのヒーロー性について尋ねられた時、こんなような内容のお話をしています。

初代のウルトラマンが唯一無二の存在であるのは、その背景に商売という意識が無かったから。あの番組が作られたとき、スタッフの誰もが面白がって、良いもの、新しいものを作ろうと頑張っていた。
誰の頭の中にも「これが商売になる」なんて考えはなかった。だから初代ウルトラマンだけはまず「作品ありき」だと思う。そういう意味で、ああいった番組はもう二度と作れないのでは。

この対談が放送された時、私はこの上原氏の言葉に強い感銘を受けました。なるほど。「ウルトラマン」のマーチャンダイジングは、作品制作に影響していなかったのかと。
あの「怪獣ブーム」は、マーチャン先行型ではなく、純粋に作品の内容、良さが生み出したものだったんですね。

上原氏のお話はさらに続きます。
「帰ってきたウルトラマン」あたりから、とうやらこの番組は商売になるぞ、という考え方がみんなの頭の中に出てきた。そういう意味でも「ウルトラマン」と「帰ってきたウルトラマン」には純然たる違いがある。

「ウルトラセブン」についての言及が無かった為、上原氏の真意は推測するしかありませんが、やはりマーチャンに対しての考え方は「セブン」の頃にも少しずつ芽を伸ばしていたのでしょうね。
「ウルトラマン」が39話という中途半端な話数で終了したのも、現場の制作が放送に追いつかなくなった為だけでは無いような気もするのです。
「ウルトラマン」の制作が、番組の高品質を維持しようとするあまり、話数を重ねれば重ねるほど赤字だった事は、当時のスタッフの回想にも記されていますから。

上原氏はこうも語ります。
ヒーロー番組というのは、制作会社にとっては最初から赤字。放送局から提示される制作費よりもお金がかかる番組なので、放送期間一年かけて、おもちゃなどの売り上げを見込んで作らなければ採算の取れないビジネス。
番組の人気がなくて、おもちゃなどが売れなければ成り立たない。スポンサーが番組内容に口を出すのはある意味当たり前で、そうしなければ「共倒れ」になってしまう。


ヒーロー番組はその第一話から、カラータイマー赤の状態で始まるのです。

何とも夢の無いお話ですが(笑)、これも現実なんですよね。「ガンダム」「イデオン」「レイズナー」など、アニメーションの名作がことごとく打ち切りの目に会い、くやしい経験をされた読者の方もいらっしゃるでしょう。私もその一人です。
アニメーションはもとより、特撮番組などの子供番組は何かとリスクが高いんですね。「好きでなければやってられない」なんて言うスタッフも多いですからね。でもそういう現実に負けず、良質な作品を目指す制作側、スポンサー側の皆さんにも、素直に敬意を表したいと思います。

お話は最初に戻りますが、生誕40周年を迎え、映画公開も控えてまだまだ続きそうなウルトラマン。「ウルトラまん」をはじめ、関連商品を数えだしたらきりが無いほどビッグビジネスとなったシリーズですが、その基礎を築いた初代ウルトラマンを作ったスタッフには、この現状は想像できなかった事でしょう。
ウルトラシリーズ全体を通しても、圧倒的な人気を誇る初代ウルトラマン。
上原正三氏の言葉にもある通り、人気の礎を作り上げた初代ウルトラマンに通う、商売抜きの制作姿勢が無かったら、これ程息の長い人気を勝ち得たかどうか。
そう考えるとこの現状はなんとも皮肉に見えてしまうのです。
「商売抜きの作品が一番人気」という。

余計な事を考えず、作品の質を上げる為だけに全力を投入できた当時のスタッフの意欲は、今の私達にも確実に伝わっているんですね。

関東ではもう売っているという「ウルトラまん」。
上原氏は口にされたのでしょうか。
ちょっと感想を聞いてみたいですね(笑)。

2006年9月12日 (火)

「ホムラ」は恐怖に濡れて

ここ数日、私の住む地方でははっきりしないお天気が続いて。
気分もすっかりブルーです。

こんな日はつい、「雨」繋がりの映画なんぞを見たくなるもので・・・
今日もお休みなのに、朝6時から見ちゃいました。

「美女と液体人間」(1958年)。先日も「ネヴュラ」で触れた、東宝特撮映画の傑作です。
「美女液」(化粧水みたいですね(笑)とマニアの間で呼ばれるこの作品、一連の「変身人間シリーズ」の中でも最初期に制作されたもので、本多猪四郎監督、円谷英二特技監督の「ゴジラ」コンビが作ったものだけに、同時期の「トリック映画」とは一線を画す出来栄えがいっそうの楽しさを与えてくれます。

Photo_167 この作品は私が生まれる前に公開されたので、劇場で観た事はありません。古いレーザーディスクをひっぱり出して(このジャケットの大きさが、往年のレコードを思わせて大好きだったりします)再見しました。これは実は、先日書いた「電送人間」に次いで好きな作品で、レーザーディスクの発売と同時に飛びついたような(恥ずかしい)過去があります。

Photo_168 「ネヴュラ」読者の方には今更説明の必要もないこの作品ですが、今日のお話の為にちょっとさわりだけ。
ある雨の夜、麻薬が入った鞄を抱えビルから現れた男。待ち受けていた一味の車に乗り込もうとした瞬間、恐るべき出来事が起ります。彼は鞄と衣服を残して忽然と消えうせていました。
麻薬ルートを追う警察の捜査線上に現れたのは、消えた男・三崎と同棲する女性・荒井千加子。彼女の身辺には警察の他にも、三崎が麻薬を持って失踪したものと信じる仲間のギャングが現れ、千加子の命は風前の灯に。
しかしここに、第三の人物が現れます。生物化学を専攻する青年・政田。彼の推理と行動力により、三崎の失踪がある現象によるものである事が明らかになっていきます。
人知を超えたその現象とは・・・そして千加子を襲う「液体人間」の恐怖とは!

Photo_169 なーんて。まあ題名が「美女と液体人間」ですから、最初からネタは割れているんですが(笑)。
要は、この消滅する人間は、液体人間と呼ばれる怪生物(いい響きですねー)の犠牲者となったと。
「液体人間」とは、水爆実験の現場近くを航行していた漁船の乗組員が水爆の放射能で液体化した生物な訳です。その姿はアメーバ状で、人間のようなフォルムにも変形可能。
部屋の片隅にアメーバ状の液体人間が這い回る姿は、一種生理的な嫌悪感を与えます。このイメージが後に「ウルトラQ」のケムール人が操る転送装置や、「怪奇大作戦」の燐光人間に受け継がれたのは有名なお話ですよね。

「液体人間」には、人間の精神活動が少なからず残っているので、漁船の乗組員が故郷を求めて東京に上陸するという理屈も通っています。
また自分が生きるために必要な栄養素を求め、人間を襲うんですね。襲われた人間もまた、液体人間のお仲間になると。


言ってみれば「液体ゾンビ」って所でしょうか(笑)。

劇中では、失踪した(液体人間の犠牲者になった)三崎の意識を持った「液体三崎」(笑)が、千加子を求めて彼女の部屋や、彼女が働くキャバレー「ホムラ」へ現れます。
私はこの映画全編の中で、この「ホムラ」というキャバレーのシーンが最も印象に残っています。

ヒロイン千加子を演じたのは白川由美。「ホムラ」のトップ歌手です。当時のキャバレーは、ビッグバンドによる歌、ダンス、お酒など大人の社交場としての洒落た雰囲気に溢れていました。
その美貌を存分に発揮して、艶っぽく歌いながらお客のテープルを回る彼女の姿は、ある意味女性の魅力の極限のように見えたものです。「私もあんな風になれたらな」なんてね(笑)。

そして「その舞台裏」が描かれている点がまたステキ。要は彼女達の楽屋の様子。決してリアルではないんですが、化学者政田(佐原健二)が最初に楽屋に現れたとき、彼を三崎の仲間と勘違いした千加子は、彼を通じて三崎にお金を渡そうとするんですよ。「せめて半分は三崎に渡してね」なんて言って。ステージで洋楽を妖艶に歌っていた彼女のこの落差。「本多監督、こういう所もうまいなー」と感心しました。

1954年の「ゴジラ」で、ゴジラ本体の出現シーンが思いの他少なく、それでいて強烈な印象を残す事に言及して、本多・円谷両監督の演出手法を賞賛する評論を読んだ事があります。
考えてみるとこの作品も、液体人間そのものが出現するシーンはさほど多くないんですよね。それでいて、人間体になる液体人間の印象は強く残ります。襲撃シーンの白眉はやはり後半「ホムラ」の場面ですね。

麻薬の行方を追うギャング一味と、ギャングを追う捜査陣。その視線が交差するキャバレー「ホムラ」。一触即発の危機の中、ステージでけだるいスローナンバーを披露する千加子。歌が終わると同時に鳴り響くドラムのビート。一斉摘発のゴングです。次々と手錠の餌食となるギャング達。
その頃楽屋では、ギャングと内通したボーイがその一人を逃がそうと奔走しています。そこへ現れ、人間体となってボーイを捕食する液体人間。その直後、踊り子の女性を「仕留める」液体人間のカット!実際に見て下さい。「踊り子の目」を(怖)。

その後、液体人間は千加子をも狙います。ここはおぼろげに三崎の記憶が残っていた液体人間が、千加子に会いに来たんじゃないかと思わせるんですが、それは愛情ではなく記憶だけ、というのが怖い訳です。
ただ会いたい、でも相手を液体化してしまう事には何の罪悪感も持っていないというあたりが。
そして結局千加子は逃げ、液体人間は追ってきた刑事を犠牲者にする訳ですが。

Photo_170 この作品、なぜか私には「濡れた映画」というイメージが付きまといます。
設定として液体人間は、海や下水、川や雨など「水」を媒介にして移動するという設定なので、液体人間が都会で人を襲う時には必ず雨が降っている(秀逸な設定ですねー)という事もありますが。他にも湿度の高い要素は多分にあるような気がして。

ホムラで歌う千加子の「艶」「濡れた瞳」。当然の事ながら店の随所に現れる「お酒の入ったグラス」。楽屋で千加子が液体人間に襲われる時も、彼女は口紅を塗って「濡れた唇」を演出する途中でした。
夜、雨の「ホムラ」近くを徘徊する液状生物、というイメージにしてからが、まさに液体人間の作品カラーを決定付けているのでしょう。

本多・円谷両監督はこの作品にどう臨んだかは知る由もありませんが、「液体」というイメージ戦略は見事に功を奏しているのです。

Photo_171 この作品はどんな結末を迎えるのか。これもまた「液体」なイメージ満点。独特の余韻も強く印象に残る一篇です。ご覧になった方、この作品にどんな感触を持たれましたか?

今、カーテンを開けてみました。
昼間だというのに垂れ込めた雲が日差しを遮る、グレーの空。
しとしとと長い雨が降り出しそうな、いやなお天気です。
まさに「液体人間」日和。もう一回見ちゃおうかな(笑)。

2006年9月10日 (日)

アナログの底力

私、結構CM好きで。
見るのも作るのも。


15秒コマーシャルなんかのコンペなどがあると、俄然やる気が出るタイプなのです。元々今の仕事に就く前は広告代理店で働いていたので、コマーシャルとは古い付き合いなんですよ。
今の仕事に就いてからも、何本か制作の機会があり、それなりになんとかやってきました。ただ感触としては、テレビ業界と広告業界にはやはり違いがありますね。普段情報番組やバラエティーを作り慣れているスタッフには、15秒という短い時間で作り上げる世界の概念がなかなか理解してもらえなくて。

私が手がけたCMはローカルコマーシャルそのもので、全国展開したものなどゼロ(笑)。
その手の特番で採り上げられたらゲストのいい笑いものになりそうな代物ばっかりです。

それでも作り手としては自分の作品が可愛いもので。今でも制作当時の苦労が思い出せるものばかり。今日はそんなお話です。暇つぶしにでもお付き合い頂ければ。

一番印象に残っているのは、ある地方の温泉のコマーシャル。
その温泉の近くには地元の小さな資料館があって、その地でも有名な文化遺産が展示されていたのです。このコマーシャルにもコンペらしきものがあり、企画資料を求めて現地を訪れた私は、その資料館に目を付けました。
資料館には、現地に伝わる「空から羽衣で現れた天女」の伝説と共に、昔の作家が屏風に描いた天女の絵が展示されていました。私はこの絵をCMに使えないか、と思い立ったのです。

「この土地に伝わる天女が空から降り立って、温泉で体を癒す」なんてストーリーを、15秒で語ったら面白いんじゃないか、なんて。
案の定、地元の文化振興にも役立てば、という温泉側の強い後押しもあり、私の企画はめでたくコンペを通過、実現の運びとなったのでした。

さて、制作が決まったのはいいんですが、今度はその15秒をどう作るか。実際の技術レベルにまで落とし込んでの戦いがまた、大変。
実は私にとってこういうCM制作は、絵コンテから「作戦立案」までが一番楽しめる所なんです。
私の絵コンテではCMは、資料館の屏風から天女が抜け出る所からスタートします。
この「抜け出る」というのをどう表現するか。実際に屏風に手を加えることは一切できません。(文化財ですから(笑)。技術陣とも入念な打ち合わせを繰り返し、「天女だけの絵と、何も描かれていない屏風を撮影して、編集で合成する」という作戦を考えました。
続いて山間の景色の上から天女が舞い降りるカット。これも前述の「山と天女の合成」で解決。
そして月をバックに空に舞い上がる羽衣(天女が脱ぐイメージですね)、湯船に浸かる天女役の女性モデルと続き、最後は温泉施設の外観、という流れです。
(こうして書いてみるといかにもなローカルCMですねー。こんな物ですよ。私の発想なんて(笑)。

さて皆さん、この、私が説明したCMの流れの中で、一番難しいカットはどれだと思いますか?これは意外に思われるかもしれませんが、「月バックの羽衣」なんですよ。
このカットを作り上げるのには本当に苦労しました。
私が立てた作戦は、実際に羽衣に見立てた布を空に舞わせ、それを別に撮影した月のカットと合成する、というもの。CGなどは一切使わない「特撮」です。予算の関係も大きいですが、ここはどうしてもCGを使いたくなかった。CGによる布の表現は私の中ではまだ、完成されているとは思えなかったのです。

撮影当日、スタッフ二人に「投げ役」「受け役」を担当してもらい、モニター画面を食い入るように見つめる私の指示で、死闘は始まりました。
皆さんにもご想像頂けると思いますが、「羽衣」という着物は私達の世界に存在しません。
私が買い求めた布地も「羽衣ならこんな感じだろう」と想像した、半透明のシルクのような素材でした。当然、色は白。
「まあなんとかなるでしょう」と思って臨んだ本番だったんですが・・・これがまた、面白いぐらい「思った舞い方をしてくれない(号泣)」。
おそらく200回以上は撮影したと思います。わずか1秒のカットなのに。

投げてはNG。またNG。投げる高さやスピード、投げ手を交代してのチャレンジ。
考えてみれば、日常こんなふうに、「綺麗に舞うように布を投げる」なんてシチュエーションはないですからねー。「素振り」のしようもないというもの。
現場には淀んだ空気が漂い始めました。こういう時、スタッフの不満を一手に引き受けるのもディレクターの仕事。
「お前がOKを出さないから終われないんだ」「今のカットでもういいじゃん」的な目で私を見るスタッフ。年長の照明マンなんか「残業手当出るんだろうな」なんて本気とも冗談とも言えないセリフをのたまいます。
こういうのを「四面楚歌」って言うんですねー(笑)。

その時私は考えました。黒澤明や深作欣二、溝口健二など「リテイクの鬼」的な監督も、こういう周りの重圧に耐えて名作をものにしたんだろうなー、なんて。(そりゃ規模はまるで違いますからそのプレッシャーもこんな物ではないでしょうし、比べちゃいけないんですが)

「もう一回」「もう一回お願い」と頑張る私に呆れながらも、付き合ってくれるスタッフに感謝し始めた頃、「天女」はやっと舞い降りてくれたのでした。
会心の「舞い」。

「OK!」の掛け声に笑顔がこぼれるスタッフ達。
こういう時ですねー。私がこの仕事をやっていて良かったと思うのは。
確かにこの後、編集などやる事は山積みなんですが、とりあえずここまではうまく行ったと。そして、なんだかんだ言いながらも、この世界に居るスタッフは、心の底では作品作りが好きなんだな、なんて事も分かったりして。

CG嫌いな私はその後も、合成する「月」の撮影の為、満月の夜を指定して月のベストアングルを探し(意外にも会社のベランダがベストでしたが)1秒のカットの為実に30分近く月を撮影したのでした(雲がかかったりしてベストショットが狙いにくく、苦労しました)。
こんな苦労を経て作られたCM。えてして思い入れのみが先行するものですが、周りにもおおむね好評で、ほっと胸を撫で下ろしたのを憶えています。

重要だったのは、いまだに私が迷っているCGの導入です。
確かに今のCGの出来は凄いのですが、使い所を相当吟味しなければならないのです。言ってみれば「世界観の維持」ですよね。どんなに良く出来たCGも、そのワンカットのせいで作品全体の世界観が壊れてしまってはいけないと。だから私は、そのCMでのCGの使用を拒んだのです。
たぶん、羽衣のカットをCGで処理すれば、もっと華麗な画面が出来たかもしれません。しかし、その為にCM全体の世界観が変わってしまう。その事ははっきりと言えます。天女という神話の世界にCGはそぐわないという、私の古いこだわりかもしれませんが(笑)。

でも面白いものですよ。やはりどんな作品も「人」が関わる限り、そこにはデジタルでは出せない「アナログの力」が働く訳ですから。
今でも自信がありますが、あの「羽衣の舞い」は、「華麗ではないけど美しい」と思っています。
そのカットには温かい血が通った、「人間の美しさ」があると思いたいからです。

見た目の美しさについては何も言えませんが。もう私などが言えるわけが(泣)。
どーすんのよ。秋の新作コスメ、一つも買ってないじゃん・・・

2006年9月 9日 (土)

東京市街戦1978

高速道路を疾走する、ジグザグ走行のトレーラー!取り囲むように行く手を阻む、黒塗りの日産セドリックの群れ!
トレーラーを奪った犯人の視線の先には、道路に仁王立ちする、散弾銃を構えた一人の男の姿が!

・・・これは、昔放送された、あるアクションドラマのクライマックスイメージ。貴方ならこの場面を想像して、どんな番組を思い出しますか?

「太陽にほえろ!」の大ヒットにより、1970年代のテレビ界には「刑事ドラマブーム」が巻き起こりました。各局入り乱れていろいろな刑事ドラマを制作し、お茶の間には日替わりで、銃弾と手錠の嵐が吹き荒れていたのです。
考えてみれば過激な時代でしたね。夕食も終わって、そろそろテレビタイムなんて時に、今なら若者向けの恋愛ドラマに占領されている放送枠で、銀行強盗、麻薬取引、拳銃密売なんて物騒なテーマのお話が毎日のように流されていた訳ですから(笑)。

ブームの火付け役である「太陽にほえろ!」は、まさに子供の頃の私にはど真ん中ストレートのドラマ。「見逃すと翌日の話に参加できない」という例えは、私の場合、あの番組がもっとも当てはまりました。
確かにあの番組には、万人を虜にする魅力が詰まっていたとは思います。「ボス」こと石原裕次郎を始め、あらゆる年代層にアピールできるキャスト編成。東宝制作の底力を見せつけた脚本、監督陣。若手刑事の殉職システムなど、天才プロデューサー岡田晋吉さんの手腕が十二分に発揮された名作でした。

私もこの番組にはハマりましたが、そうですねー。テキサス編の途中あたり(なんとなくお分かりでしょうか)から、「ドラマの作り」が見えてきちゃったんですよ。スレた、いやな子供ですよね(笑)。先が読めちゃうと、後は「番組のテイスト」を味わうくらいしか楽しみが無くなる。番組を見続けられるかどうかはここではっきりと決まりますね。
結局私は、その頃からだんだん「太陽」から遠ざかっていきました。
あの「青春ドラマ的世界」が馴染まなくなってきたのでした。

人間ある程度の刺激に慣れると、どんどん強い刺激を求めるようになるもので。その頃の私は、さらにハードなドラマ、派手なアクションを追求していったのです。

さて、冒頭のシーン。ドラマのタイトルはお分かりでしょうか?
「西部警察」(そう思ったでしょ)?「大追跡」?「華麗なる刑事」?「大激闘」?違います。
この時代「太陽」と並んで、(いや、「太陽」に満足できなくなった視聴者に向けて、かな)人気を博した刑事ドラマ「大都会」シリーズ。中でもそのアクションの派手さでは「西部警察」の上を行っていた「大都会PARTⅢ」のイメージだったのです。

Photo_162 毎週火曜日夜9時に放送された「大都会」シリーズ第一弾「大都会 闘いの日々」(1976年)はもともと脚本家、倉本聡の企画で、暴力団専門課「捜査四課」を舞台に活躍する刑事(渡哲也)と、事件を追う新聞記者(石原裕次郎)を主軸に、人間としての刑事を描いた異色作。同時期に放送されていた「いろはの「い」のような、社会派ドラマでした。

第二弾「大都会PARTⅡ」(1977年)は、倉本氏の企画から著しく方向転換、ハードかつ重厚な刑事アクションドラマに変貌しました。テレビ界に乗り出したばかりの石原プロモーションが持てる力を全てつぎ込んだ大迫力に、私達視聴者は大きな衝撃を受けたものです。

おそらく、「大都会」シリーズの中で一番の人気を誇るのは、この「PARTⅡ」でしょう。前作から役を引き継いだ(キャラクターはまるで違いますが)「城西署・捜査一課黒岩刑事」渡哲也を始めとする「黒岩軍団」の魅力、そして今なお伝説的な人気を持つ「徳吉刑事」こと松田優作のコラボは、ハードな事件の緊張感に絶妙のユーモアをもたらし、シリーズ屈指の名編も続出、ある意味であの「探偵物語」をも上回る完成度を誇る作品なのです。


私もこの「PARTⅡ」大好きで、おそらく最も成功したシリーズだと思います。しかしながら「出来」と「好み」は違ってしまい・・・(泣)。
「大都会」というシリーズ全体を考えたとき、どうしてもベスト1にはならないのです。どうも変なこだわりがありまして。
例によって私見ですが)「松田優作の個性が強すぎて、ドラマとしては面白いんだけど「大都会」じゃないでしょうこれ」となっちゃうんですよ。私だけかもしれませんね。逆に言えばそれだけ、松田優作が際立った存在だった、とも言える訳ですよね。

Photo_163 「PARTⅡ」終了後、さらにスケールアップして帰ってきた「大都会PARTⅢ」(1978年)。
私の中ではこれこそが「ベスト・オブ・大都会」(変な表現ですが)。

これは、優作が抜けた以外は前作とほぼ同じキャスティングでしたが、際立つ存在が無くなったおかげで逆にすっきりした感じがありました(優作も大好きなので誤解のないよう)。
黒岩刑事を中心とする「軍団」としての存在感が最も強調されたように思えたのです。

ドラマの作りもハードというよりは「ドギツイ」感じが素敵。
やはり悪役が強いと、ドラマも面白くなりますよね。今この作品が地上波で放送されない理由が分かります。たぶん「引っかかる」んですよ(笑)。

Photo_164 ストーリーからセリフ、犯罪者の設定からアクションの「容赦無さ」まで、恐ろしい程のハイテンション。
覚えている方も多いでしょうが、第一話から都心の商店街にバズーカ砲が撃ち込まれるという驚愕の展開!(放送できない理由がわかるでしょ?)
確かに、後年放送された「西部警察」などにも、似たシーンはあると思います。しかし、「大都会PARTⅢ」が凄いのは、その前後の「劇画的リアリティー」。
爆破された現場を実況見分する黒岩と、軍団メンバーで銃器のエキスパート牧野(寺尾聡)の会話。「ここで何が起こったんだ?」「兵器が使われたのかもしれません」「兵器?この街のど真ん中で!?」この「日常生活に立ち入る驚異」のテイスト。
怪獣映画で、怪獣出現までを丹念に描くことによって、出現シーンが活きるのと同じ感覚なのです。

この「大都会Ⅲ」の世界観は、重火器や兵器といった、日常生活にあるべからざる驚異への免疫がまだあまりない頃の、特撮映画で言えば「地球防衛軍」(1957年東宝)あたりの、怪獣に対する感覚に実に近いような気がするのです。
街の中心で派手に行われるカーチェイスなどアメリカ映画並みの見所も多いですが、私としてはむしろ、人質を取った立てこもりの犯人を取り囲んだ黒岩軍団の、作戦指令の様子などに強い思い入れがあります。
「東京の市街地で、とんでもない事が起きている」という緊張感。それはきっと、他の刑事ドラマの比ではない犯人のパワフルさと、お話のスケール感ゆえかもしれません。
空気までが震えを止める、張り詰めた現場。

丁度「宇宙戦争」(2005年アメリカ スティーブン・スピルバーグ監督)の、トライポッド出現直前の空気と言うか。「大都会Ⅲ」の犯人は、もはや怪獣の域に達しているのです(笑)。

Photo_165 そして「大都会Ⅲ」では、「軍団」と呼ばれるだけの活躍を各刑事が見せます。それはテレビコード限界まで体を張ったアクションの連続。なんかもう毎週が「マッドマックス」(笑)。
うまく表現できませんが、火曜日の夜、9時54分にエンディング主題歌「日暮れ坂」が流れると、私などは「ほうーっ」とため息をついたものでした。
それくらい緊張感を強いられた番組も、そうはありません。緊密に練り上げられた「鋭い」タイプのドラマではありませんが、世界観と迫力で一気に見せる「力技」の作品として、私の中に強く残っています。

後年「西部警察」を見た私。「大都会Ⅲ」のハードテイストが、よりパワーアップされて・・・なんて期待していたのですが・・・(後の文章はご想像通りです(笑)。
爆発や派手なアクションはイベントじゃないんだから、ドラマの流れでやらなきゃ(泣)。
第一話の「装甲車」だって、タイヤをバンクさせれば・・・
もういいですね(笑)。

Photo_166 今、テレビではほとんど見かけなくなった「アクションドラマ」。邦画の新作もラブストーリー中心なので、「大都会」のようなドラマは作られる素地を失っているのでしょう。

甘ーい恋愛ドラマや小規模のラブコメディーは見飽きたから、ここらで物凄い「市街戦映画」を作ってもらいたいものです(笑)。

2006年9月 8日 (金)

「ネヴュラ」の基本

ここ数日、身の周りで残念な出来事が続き、ちょっと辛いです。

昔行っていた演劇活動を最近再開し、この11月にも公演を控えていた幼なじみが、先日不注意で膝のお皿を割ってしまい、公演出演が不可能らしい事。
ネットで知り合った同好の士で、いつもコメントを頂ける方が、突然の都合でご自身のブログを閉鎖。
同年輩の活躍に賭ける期待や、毎日の楽しいやりとりに(永久とは言いたくありませんが)突然の終了を告げられると、正直ヘコみます。

こんな事を「ネヴュラ」で書くのも、と思ったんですが、なによりブログは日記という側面も持っているので、毎日の気持ちが文面に出てしまうのは仕方のない事で。
ですから、今日の「ネヴュラ」は、私の「記事に対する考え方」を綴ってみようか、なんて思っています。たぶん、あまり面白くありません。ご了承下さい。

ブログランキングの「日本映画」カテゴリーに入っていながら、ほとんどまともな邦画紹介などしていない「恋するネヴュラ」。
おそろしく偏ったジャンルのブログながらなんとか続けられているのは、いつも覗いて下さる大変奇特な皆さんのおかげ、といつも思っています。
「ちょっと変わった映画オタクの独り言」的なこんな記事を、これ程毎日皆さんがご覧下さっているのは何故なのか、といつも考えてしまいます。ランキングに上る、他のブロガーの皆さんのすばらしい映画批評や、最新映画に関するアンテナの鋭さには私など叶うはずもありません。部屋にある怪獣や古いレーザーディスク、果てはヘルスメーターやアクティブダイエット(笑)などの「なんだこれ」グッズまで引っ張り出す始末で。

しかしながら、他のブロガーの皆さん同様、私にも記事作成の上で「こだわり」があるのです。こんな事を書くと「当たり前じゃん」なんて言われそうなごたわりですが、奇しくも今日で111本目の「ネヴュラ」。3回も初心に戻った気持ちで(笑)ちょっとその部分を再確認しておくのも悪くないかと。

このブログを始める時、まず私が決めたのは
「嘘を書かない事」。


好きな事を自由に書けるブログだからこそ、嘘を書き出すと際限がなくなってしまう、と考えたんですね。
ひょっとして記事をご覧になって「女性として生きる男」なんて、注目を引くためのネタじゃないの?なんて思っている方もいらっしゃるかもしれません。
ところがそれは、全て事実なんですよ(笑)。
実際今日も会社で、女性上司と「どうして男性は帰る前に家に電話をくれないのか」で一盛り上がりありましたから。
前述の通り「日記」としての側面があるだけに、嘘を書くならブログを続ける意味が無い、なんて思っています。記事の端々に覗く日常の点描も、すべてその日に起こった事。毎日のテーマ選びの支離滅裂さも、日々変わる気分の表れです。(ちょっとメチャクチャ過ぎるきらいもありますが(笑)。

次に決めた事は「データの羅列は最小限に」。

映画やテレビなど、時代と切り離せないメディアをテーマとする私のようなブログは、どうしても作品のあらすじや内容、世間の評価、キャストやスタッフなどのいわゆる「データ」にスペースをとってしまいがちになります。
ただ、これは私の考えですが、「ネヴュラ」を映画データベースにしたくないんですね。私がそういうデータにうとい事も大きな理由ですが(笑)。
皆さんが調べ上げた完璧なまでの映画資料が、私にとっての先生です。私は皆さんの掌で遊ばせて貰っている、ただの小僧になりたい訳です。
作品の年代や監督を文面に入れるぐらいが、最低限のデータ提示でしょうか。それにしたって読まれる方々に「あー、あの時代か」「あの監督か」ぐらいに思っていただければいいと。まあ、「思い出すきっかけ」として入れているんですが。それで充分な気もするんで。
ただ、感銘を受けた言葉などは出来る限り記事に引用しています。私の中ではこれは「データ」とは別。仕事など、他の局面にも当てはまりそうな言葉も多いので。

そして、これが一番重要な事。
「作品そのものより、それを観たり、体験した時の気持ち・思いが優先」。


おそらくこれが、私に許された唯一の「誇れる部分」と思います。おバカな私は映画に関する知識もなければ、得意なジャンルもほんの少し。語れる作品などほとんどありません。
それでも他の映画ファンが皆そうであるように、思い入れだけは人一倍あります。

つまらない作品を観た時は語りたくもありませんが、拾い物を見つけた時の思い入れは、その作品を見た時の劇場の香りまで、鮮明に思い出せるのです。以前記事でも書いた通り、「作品と、それを観た時の記憶はセット」なんですよね。だから作品だけ切り離して語ることなどできません。
その時の天気から観た時間帯、劇場、場内の空気。持ち合わせがなくて泣く泣く買うのを断念した、劇場販売グッズ。そんな数々の思い入れが、「作品」に真空パッケージされているのです。
それはテレビでも同じ事。家族で楽しんだ番組から、親の目を盗んで見た「大人の番組」まで。お風呂のシャンプーの匂いに、昔見た夜9時台の番組を思い出す貴方と、私も同じ気持ちなのです。

私がよくやる「おバカな私見」などは、その作品のすばらしさの秘密を掴もうとあがく浅知恵にすぎません。
ちょっと年季の入った研究家から見れば鼻で笑われる程度のお遊びです。それでも「なぜ人をあんなに感動させるのか」が知りたい。職業病かもしれませんが。

子供の頃の恥ずかしい思い出をつらつら書いてしまうのも、そのせいかもしれませんね。
やはりオタクの私が興味を持つものと言えば、おもちゃやプラモデルなど、時代を彩った花形グッズに落ち着いてしまいますから。

ここまでは「ネヴュラ」を始める前に考えた決め事。そして、実際始めてみると、また違った思いが頭をもたげることに気づきました。

プログを通じて知り合った、いろいろな方々の記事を拝見させていただくうちに、記事の内容にも増して、それぞれのブログに色濃く反映されているブロガー一人ひとりの「人物像」に興味を持つようになったのでした。
「これだけ頻繁に記事をアップして、濃い内容を書き続ける人って、本当にこのジャンルが好きなんだなー」
「記事の文章センスが抜群だから、この人の部屋もきっとスタイリッシュなんだろーなー」
「この人の言う事なら間違いないから、参考にしよっと」・・・
私の幼なじみのブログも、演劇に対する希望、悩み、不安など、その日その日の思いが実に手に取るように綴られています。彼の生真面目さが実によく表れているのです。

結局ブログは「その人を映し出す鏡」。それぞれのブロガーの思いが、毎日の何気ない記事に表れている事に、私はひどく感銘を受けました。
言ってみればそれは「当たり前の事」なんですが。

そして、自分を含む皆さんとの間でやりとりされる「コメント」。これも、毎日の刺激となるツールでした。なにしろ朝の出勤前にコメントの返事を書くものですから、いやでも「頭を使う」。これが実に目を覚まさせてくれるのです(笑)。一つの記事に対する考え方の違いなど、学ぶ事も多くありました。

「ネヴュラ」を始めて三ヶ月と20日。その短い経験で、私は考えました。
結局、映画もテレビも、怪獣もプラモデルも、すべては「語るためのネタ」なんですよね。
だから、それぞれを語る人たちの「語り口」に興味が向かない訳がないんですよ。
私が最初考えた「基本」は間違っていなかったと思います。この3つが無かったら、きっと収拾がつかなくなっていたでしょう。(今もついてないって?そうでした(笑)。

たぶん、「ネヴュラ」はまだ、続いていくでしょう。(いい加減に書いていますから保証はできませんが)。でも、100本以上の記事の中で浮き彫りにされる私の「人物像」は、これからも少しもゆらぎを見せません(笑)。

なんか、とりとめのない記事でしたね。ごめんなさい。こんな日もあっていいかと。

2006年9月 7日 (木)

60式どこでもドア

「テレビが面白くない時、見たくなる映画」ってありませんか?
例えばお仕事が終わって部屋に帰リ、テレビを点ける。チャンネルを探っても目ぼしい番組が無い。CSにまで進出(笑)してもいい番組が見つからない。でも何か見たい。
今日の私がそうでした。こういう時って、何故か見る作品が決まってしまうもので。

怪獣映画のような大スペクタクルを見るには、体力が残っていない。でもベタベタな恋愛ドラマもちょっと勘弁。そんな時私には、自然に手が伸びてしまうパッケージがあります。

私の東宝特撮好きは「ネヴュラ」でもしつこいくらいに書いているので、おおよその見当はつくと思います。そうです。私の夕食の友は、あるカテゴリーの作品に偏っているのです。

東宝特撮映画の歴史上、「変身人間シリーズ」と呼ばれる一連の作品です。

Photo_159 こうマニアの方々に愛着を持って呼ばれるシリーズは、「ゴジラ」で高い評価を受けた円谷英二特技監督のネームバリューを看板に、東宝が特撮映画の新たな可能性を模索した意欲作として制作した作品を指します。
「美女と液体人間」(1958年)「ガス人間第一号」(1960年)「マタンゴ」(1963年)(三作品とも本多猪四郎監督)など、皆さんには説明の必要も無い作品ばかりですよね。

1950年代から1960年代にかけて集中的に制作されたこれらの作品。丁度ゴジラ映画の合間を縫うように公開されたわけですが、どうも興行成績は芳しくなかったようで、その後東宝はこのシリーズの続投を断念、現在も新作は作られていません。
やはり観客は、怪獣による都市破壊や超科学兵器による戦争、という派手な見せ場を好んでいたのでしょうか。ちょっと残念でなりません。只、東宝も手をこまねいていた訳ではなく、このシリーズのテイストを怪獣映画に盛り込む事に意欲を見せ、「フランケンシュタイン対地底怪獣」など、怪奇色あふれる怪獣映画の一ジャンルを形成していった訳です。

さて、この「変身人間シリーズ」の中でも、私のお気に入りの一本は「電送人間」(1960年 福田純監督)。なぜか気がつくと手にはDVDパッケージが(笑)。

Photo_160 「電送人間」は、変身人間シリーズ中、本多猪四郎監督がメガホンを取らなかった唯一の作品。作品に流れるテイストの違いはそこから来るのかもしれません。新進気鋭の若手監督、福田純の、瑞々しい感性が疾走するハイテンポな一篇として、今でも評価の高い作品です。もちろん特技監督は御大、円谷英二。派手なシーンはありませんが、それでも円谷監督にしか描けない、独特のイメージの奔流に圧倒されます。

「変身人間シリーズ」は一篇一篇が独立した作品なので、作品毎のストーリー、テイストも大きく異なりますよね。

放射能の影響で液体化した人間が人々を襲う「美女と液体人間」。
麻薬を巡るギャング同士の抗争を縦軸に、液体人間の恐怖を横軸に据えた「変形ギャングドラマ」風の作りでした。

宇宙開発の実験台として人体強化実験を受けた主人公が、実験の失敗で体をガス状に変換する能力を手に入れ、愛する日本舞踊の女性師匠の為に犯罪を犯す「ガス人間第一号」。
全編に流れる哀愁が「結ばれない純愛」の切なさを謳いあげる、大人のドラマ。

7人の若者を乗せたヨットが嵐に会い、漂着した無人島でそれぞれのエゴをむき出しにしながら、禁断のキノコに蝕まれてゆく姿を描いた「マタンゴ」。
吸血鬼ゴケミドロ(1968年松竹 佐藤肇監督)と並び、極限状態の人間の醜さを活写した名作です。

「悪魔か!科学か!不完全証明の予告殺人!」という謳い文句も大時代な「電送人間」。この作品は上記の三作品ともまた違った、独自の世界が展開します。
第二次大戦の置き土産、陸軍兵士の認識票を「死の宣告状」として、次々と殺害される元兵士達。
事件の謎を追う新聞記者と刑事たちは、被害者たちの暗い過去を突き止めます。終戦を告げる8月15日、彼らが秘密裏に運び出した「軍用行李二号」の謎!
殺人の目撃者が語る、犯人の恐るべき姿とは?
決死の捜査により追い込んだ容疑者の、鉄壁のアリバイに隠された驚愕のトリック!
犯人逮捕の決め手がないまま刻一刻と迫る、最後の予告殺人のタイムリミット!

・・・ストーリー、全然分からないですよね(笑)。でも、この作品をご覧になった方なら、私の言わんとする事はよくお分かりの筈です。こんな感じでしょ?作品の空気って。
他の作品と違って、「電送人間」はほぼ全編、こうした「ワクワク感」に溢れています。これもいつもの私見ですが、あえて言えば「石井輝男の世界」にすごく近いような気がするのです。それはなぜか?

「変身人間シリーズ」というのは、基本的には「根拠の無い驚異」のドラマです。
「液体人間」も「ガス人間」も「マタンゴ」も、すべて人間が変身する一応の理屈が解説されていますが、それは映画の中でのみ通用する理屈なんですよね。
(それは作品の出来とは全く別次元の事ですが)
確かに「電送人間」も同じく、21世紀の今でも実現されていない「物体電送機」という超兵器(!)がストーリーの中心に来ていますから、他の作品とあまり変わらないんですが、この作品だけ、その物体電送機の謎を理詰めで解析しようとする、ストーリーの流れがあるんですよ。

トランジスターに代わるものと言われる「クライオトロン」。
それを正常に作動させる為に必要な「絶対温度4.2度」という超低温。
犯人が発注する冷却装置を糸口に捜査を続ける主人公達。殺人現場に現れた犯人は今まさに電送機を使っている状態。しかし、クライオトロンの不調により電送状態が不安定で、その全身は「映りの悪いテレビ」のように見える・・・

Photo_161 こうした「なんとなくリアル」な描写を重ねる事により、他の作品とちょっと違うテイストの「あったらいいな犯罪」を夢想できるところが、この「電送人間」の最大の魅力なのです。
この作品についての色々な評論で、「電送人間だけは他の作品と違い、変身するのは体ではなく心」などと言われていますね。なる程その通り。でもおバカな私などは、そういうテーマ的な事よりも、世界観の見事さに唸ってしまうのでした。

たぶん「液体人間」「ガス人間」が「ウルトラQテイスト」だとしたら、「電送人間」は「怪奇大作戦テイスト」なんですよ。(「マタンゴ」は分類しにくいので、ちょっと除外)

私は夕食を食べながら、この作品の設定を活かして自分ならどんなドラマを作るか、なんて事を考えるのが好き。
この作品の「物体電送機」というのは、簡単に言えば「ザ・フライ」の人体移動マシンと同じなので、「送り機」と「受け機」が必要な訳です。とすると、完全犯罪を成立させる為には、「受け機」の搬送が最大のネックになる訳ですよね。とすると、そこをどうするか・・・
なんて考える訳です。おバカでしょー(笑)。
こんな風に妄想しながら食べるご飯がおいしくて。つい最後まで見てしまうんですねー。

まあ、どの作品も大好きな「変身人間シリーズ」。それぞれの作品に良さがあります。「電送人間」に限らず、事ある毎に再見したくなる、夕食の友です。ただ「マタンゴ」だけは、おかずにキノコがない日に見ますが(笑)。

今でもよく映画論を楽しむ友人も、「電送人間」が大好き。病が高じて、続編「続・電送人間」のシナリオを書いちゃいました。コピーを貰って読んだんですが、これ、なかなか凄い作品に仕上がっていました。
なんと「送り機」「受け機」の問題がクリアされているんです。

いやースゴイ!これだから映画マニアはやめられません(笑)。

2006年9月 6日 (水)

新企画大爆破

「またムチャクチャ言って・・・」
ある日の番組企画会議。多くのプロダクションがそうであるように、局から提示された時間枠と予算の中で、おもしろい企画を提出する為にスタッフが意見を交わす場です。
私がよく参加したのはいわゆる「スペシャル番組」の企画。レギュラー番組と違い、ワンアイデアのひらめきが勝負のスペシャルは、思い切った冒険が可能なのです。

実は私は、こういう「単発もの」の企画が得意。今まで溜まっていたテレビ番組への鬱憤をここで一気に晴らせるチャンスとばかり、言いたい事を言うのでした(笑)。

皆さん、ちょっと考えてみて下さい。
「一時間のお正月番組。予算はとりあえず考えないで、お正月らしい楽しい企画」。
こんな依頼があったら、皆さんならどんな番組を考えますか?
「作る」というより、「見たい」というスタンスで充分なので。

数年前まったく同じ依頼で、スタッフ全員が企画を持ち寄った会議。その場で私は、こんな企画を出しました。

「トイザらスを舞台に「がっちり買いましょう」。

「がっちり買いましょう」(1963年~1975年。大阪毎日放送制作)。言わずと知れた往年の人気番組です。スタジオに商品を並べ、一般出演者が指定された金額により近い額の買い物をする、というゲーム・バラエティーでした。
司会の夢路いとし、喜味こいしが叫ぶ「十万円七万円五万円、運命の別れ道」という名ゼリフも流行しましたね。

この時の私の企画はお正月らしく、「お年玉でおもちゃを買おう」というコンセプトで、一般の子供とタレントがチームを組み、国内最大手のおもちゃチェーン店「トイザらス」をそのままスタジオにして、あの「がっちり買いましょう」をやっちゃおう、というバカバカしく、そして楽しい企画でした。
企画当時まだご存命だった夢路いとし師匠、そして喜味こいし師匠を迎えて、「いとし、こいし」の名司会再現というオールドファン感涙のイベントも付けて。

冒頭のセリフは、会議での部長の言葉。これ、半ば呆れながらも喜んでいるんですよ。部長、笑ってましたから。
番組内では、この会議当時流行の兆しを見せていた「お宝ブーム」を取り入れたコーナーも企画しました。
他の売り場のおもちゃは大体金額の予想がつくのですが、このコーナーだけは「いわゆるお宝グッズ」を置いて、その希少性からプレミア価格を予想させる、という。ここで、レジでの計算の「大ドンデン返し」が番組上の見所になるわけです。このあたり、「ネヴュラ」をご覧の皆さんがニヤリとする所ですね(笑)。

実はこの企画は周りも乗り気で、かなりいい所まで行ったんですよ。ところが「ボツ」。
それは何故か。
実に簡単な理由です。この「がっちり買いましょう」という番組は、全国的にはTBSテレビの系列。私が企画会議に参加した局は、違うキー局の系列だった、ただそれだけの事なんです。企画がいくら面白くても、そんな事でボツになってしまう。確かに編成的には重要な事かもしれませんが、本当に惜しかったと今でも思っています。まあ、今考えるならまた別の企画になったと思いますが。

テレビ屋というものは、多かれ少なかれ「影響を受けたテレビ番組」を持っています。考えてみれば、そうでなければこの業界には入ってこないですからね。ただ、実際には日々の番組制作が自分の理想としたものとは限らない。「いつかやりたい企画」は、心のハードディスクに山ほど溜まっている訳です(笑)。それが、こういう場で一気に噴出する。

ところが現実はそんなに甘くはない。前述したような「ネット局の違い」なんていう理由で、簡単にボツになっちゃう事もあるんです。ですから、自然とこういう会議では「当たり障りのない企画」が通りやすいんです。「とりたてて面白くもないけど、つまらなくもない」平均的な企画ですね。波風を立てたくないわけですよ。上の皆さんも。

実際にプレゼンテーションをお仕事とされている方はお分かりと思いますが、提出する企画というのは「当たり障りのない一本」と「飛び道具的な一本」の組み合わせが良いと言われますよね。
スポンサー(私の場合は局ですが)にプレゼンする時、「当たり障りのない」方を説明してから「飛び道具」でインパクトを与え、「本当に面白いのはこっちですよ」とアピールする。制作側が本当にやりたいのは「飛び道具」である事を強調する訳です。
ここで、スポンサーと制作側の駆け引きが繰り広げられる訳で。
その場の身を切るような緊張感も好きなんですが。「相手の視線一つも見逃せない」みたいな(笑)。

たぶん、今のテレビ番組の行き詰まりは、そういう「当たり障りのない」部分が強調されているのだと思います。確かに「飛び道具」企画は関係者にとってリスクもありますが、当たると大きい。
「ぐるナイ」の「ゴチになります」など、企画時はおそらくかなりの難産だったのではと思わせる雰囲気が、番組内から漂いますからね。
やはり爆発的な破壊力を持つ企画は、リスクを覚悟したスポンサーの度量の大きさが試されるんですね。

なんか今日の記事は仕事に偏りすぎて、お話がちょっと硬くなりすぎましたね。全然映画のお話でもなかったりして。ごめんなさい。でも、私のようなおバカなテレビオタクは、その趣味が仕事に活かされる事が多く、つくづく「趣味を仕事にしているなー」と感慨にふけります(笑)。
大体、依頼される企画に対して自分が考える事なんて、どこかしら趣味が入ってますからね。
例えば実際に企画したことですが、
「伊福部昭さんに、ある都道府県の曲を作曲してもらい、それを追うドキュメント」
「小松崎茂さんに「未来の東海道五十三次」を描いてもらう」
「必殺シリーズを支えたカメラマン・石原興さんと、照明・中島利男さんによる映像詩」・・・
以前作成した「ウルトラマンティガ」の特別番組も、そんな趣味の賜物。
どうです、そうそうたるメンバーでしょ(笑)。
鬼門に入られた方もいらっしゃいますので、実現不可能の企画も多いですが、見てみたいですよね。

本当はこういう企画を考える段階で「飛び道具」という事は自分でも分かっているんですよ。でも、「つまらない企画だったら考えたくない」のが本音で。
上の方々にも「あいつはとんでもない、面白い事を考える奴だ」なんてイメージを持ってもらいたい訳です。そういうスタンスで仕事をしていれば、自然と「その手の仕事」が舞い込んで来るものと信じていますから。実際、そうですし(笑)。

「マトリョミン」という楽器が、最近ブームになっている事をニュースで知りました。ロシアで開発された世界最古の電子楽器「テルミン」を、同じくロシアの民族玩具「マトリョーシカ」に仕込んだこの楽器。
愛らしいフォルムと不思議な音色が、多くのファンを獲得しつつあるというニュースでした。「マトリョミン」の開発者は日本人。このコラボレーションは完全に「飛び道具」的な企画ですが、見ていると面白く、かわいいんですよ。
番組に限らず、面白い発想ってどこにでもあるんですよね。これくらい破壊力、爆発力のある企画を実現させたいものです。

存在自体が「飛び道具」な私に、出来ないはずはないと(笑)。

2006年9月 5日 (火)

憧れの24コマ

1960年代。東宝撮影所特撮スタジオ。新作怪獣映画の制作も佳境を迎えた深夜。その日の撮影を終えた特技監督、円谷英二は、撮影所隅の編集室に篭り、ムビオラと呼ばれる簡易編集機と格闘していました・・・
隣に座るのは助監督、中野昭慶。フィルムをなめるように見つめながら、独り言のように呟く円谷監督。

「これが映画の味だよなあ」。

・・・たまに、こんな光景を想像しながら、一人悦に入るおバカな私。映画黄金時代の楽しい一場面です。

冒頭の円谷監督のセリフは事実だそうです。中野昭慶監督は後年、円谷監督の編集好きについてこのセリフを挙げ、回想しています。
いい時代でしたねー。毎日のロケ後に、編集室で徹夜の編集。まさに「モノ作りの現場」という感じで。

私も時々、番組の編集で徹夜をする事がありました。さすがに最近はなくなりましたが、こと映像作品の編集に関しては、徹夜が付き物のようですね(笑)。
それでも、円谷監督が活躍した時代に比べれば、今の私たちの撮影、編集現場の苦労なんて大した事はないでしょう。当時、現場を経験した方々のお話を聞くと、本当にそのご苦労に頭が下がります。

日本初の総天然色怪獣映画「空の大怪獣ラドン」(1956年東宝)DVDのオーディオコメンタリーで、当時の特技カメラマン有川貞昌さんは、現場の様子をこう語っています。
「当時はフィルムをまとめてロケ現場近くの旅館の冷蔵庫に入れておいて、撮影日には使う分だけ出して行ったもんです。」
いやー大変なご苦労。フィルムを冷凍保存しないといけないなんて。気温の変化が感光の具合に大きく影響したのでしょうか。導入間もないカラーフィルムの扱いにデリケートになっていたのでしょうね。「ラドン」の空の青さや、山の緑と土の茶色とのコントラストは、そんな現場の苦労によって生み出されたものなのです。

円谷英二も語った「映画の味」とは?
この中野監督の回想には続きがあるのです。

「映画というのはフィルムに直接触る事ができる。フィルムを自分の手でいじれる所に味、楽しさがあるんですよ。」

実はこれに近いお話を、仕事で知り合った学校の先生からも聞いた事があります。その先生はあるミニシアターの学芸顧問を兼任していて、お酒の席で映画論になった時、受けた質問が発端となりました。
「フィルムとビデオの違いは何だと思う?」質感や記録方法の違い、などとまたヘタな理屈をこね回す私に、その先生は諭すように教えてくれました。

「フィルムはね。撮った絵の1コマをてのひらに乗せる事ができるだろう。その重みがビデオとの違いだよ。」

私はそのお話にえらく感動しました。(単純ですが(笑)。
皆さんがお持ちのビデオテープを思い出して下さい。磁気的な信号に過ぎないビデオテープに比べ、フィルムは言わば連続写真のような物。ひとコマひとコマが「作品」なのだと先生は教えてくれたのでした。

フィルムの良さっていったい何でしょうか。
あの独特の質感は、ビデオでは再現できません。今テレビで放映されている「フィルム風」の映像も、本物とはどこか違う。「映像が荒れているだけ」に見えるのは私だけでしょうか。
あの陰影のある映像で視聴者を魅了した「必殺シリーズ」のプロデューサー、山内久司さんはこう語っています
「ビデオでは「闇」が描けない。ビデオで闇を撮ると、ブラウン管の色と同じ色になってしまう。ビデオはフィルムの、深みのある映像には勝てない。」

映像の深み。なんとなく理解できます。ビデオはその場にある物を正確に映しますが、その分見る者をドラマに引き込む魅力に欠けるような気がするのです。おバカな私などが思い出してしまうのが最近の「テレビ時代劇」。怒られるのを覚悟で言っちゃいますが、あのビデオで撮られた時代劇って、「コント」に見えませんか(笑)。
私が心酔している「必殺シリーズ」など、深いコントラストのフィルム映像を見せられると、今のビデオ時代劇は、うーん・・・(笑)。

業界に足を突っ込んでいながら言うのも何ですが、
「食事で言えばフィルム作品は豪華ディナー、ビデオ作品はファーストフード」という感覚がどうしても拭い去れない。まあ、そういう意味でビデオは非常にテレビ向きと言えるのですが。バラエティー番組など、フィルムで撮影したらライブ感がなくなって、全然おもしろくないですもんね。

前述の時代劇の所でもちょっと触れましたが、フィルムには「映像の深み」に加え、「ドラマの世界観を作り上げやすい」という感覚もあります。ドラマにはライブ感は必要ないですもんね。
視聴者、観客と作品との距離が、ビデオより少し離れている。「やや神聖な世界」と言うんでしょうか。「ちゃんと観なきゃ」と襟を正すような緊張感がありますよね。
これを今のテレビに望むのはもう、不可能かもしれません。フィルムでドラマを作る設備そのものが無いですし、あったとしても撮影の翌日に出演俳優がバラエティー番組で、撮影内容を笑いながら語っているようでは、「作品の神格化」なんてできませんからねー。

映画をはじめ、テレビ黄金時代のフィルム作品を浴びるように育った、私のような年代には、今のテレビ番組で心に残るような物は皆無に等しいのです。(自分が作る番組も含めて)。確かに映像はシャープになりましたが、その分「引き込む魅力」に欠ける。

ビデオとフィルムの違いは「写真」と「芸術品」の違いかもしれませんね。美しく撮影された写真は確かに素晴らしいですが、芸術品の写実を超えて訴えかけてくる力は、また別の強い魅力を持つ、と言うか。
そうですよねー。私は怪獣も変なのばっかり集める「やや芸術寄り」のオタクですから(笑)。

そんな私は、限りなくフィルムに憧れます。1秒24コマのフィルム1コマ1コマに、映像に命を賭けた映画関係者の、熱い思いが詰まっているわけですから。

今日の最後はこんなお話で。
以前番組で「流星人間ゾーン」(1973年)を放送する事になりまして東宝からフィルムを借りたんですが、届いたフィルムケースを担当ディレクターと見た当時ADの私は、ディレクターと顔を見合わせました。
そのフィルム、どうやら本放送当時のいわゆる「初号プリント」らしかったのです。
「あの、自分が子供の頃見た番組の、オリジナルがここに!」


ダビングされたビデオと違い、フィルムって、リールケースの段階で既に人を感動させるものなんですよ(笑)。

2006年9月 4日 (月)

白昼の死角からの刺客

足を向けた私のミスです。
仕事がうまくいって、気が大きくなって向かったオタクショップ。

いつもの商品棚を一巡し、目ぼしい物も見つからなかった私がそそくさと立ち去ろうとした、その時。視界の隅に、オーラが。
そのオーラは、普段私があまり目をかけない、言わば「死角」から放たれていたのでした。
慌てて駆け寄る私。手に取ったそれは!

Photo_153 この緑商会の「アストロボート」。皆さんもご存知のキットですよね。そうです。「宇宙大怪獣ギララ」(1967年松竹)に登場した主役メカですね。これをなぜ、前フリまでして採り上げるのか。
パッケージをご覧になってお分かりの貴方は事情通ですね。そうです。このキット、単品発売はしていないのです。
詳しくお話すれば、これは以前発売された「宇宙大怪獣ギララ」のDVD特典。まあ、確かに私の通う「オタクショップ」は中古品ばかりを扱うお店なので、こんな珍品が単品で売っていてもおかしくはないのですが、問題はそのお値段です。
そんな珍品がなんと、税込み315円!

Photo_154 これは、このお店の買取り担当者がとんでもなく物の価値をご存じないか、どこかで大量のデッドストックが流出でもしたか。とにかく私にとっては大変なショックだったのです。
ともあれ、「アストロボート」を持っていなかった私。他の棚も見てみると、あるわあるわ買い逃したキットからもう一つ欲しいキットまで。心をスキップさせてレジに向かった昼下がり。(写真のマイティ号もその一つです)

「アストロボート」には、ちょっとしたエピソードがありまして。
私のような仕事をしている者たちは、多かれ少なかれどこか「オタク体質」な部分があります。
もう7年程前でしょうか。たまたま一緒に仕事をしたカメラマンが、私と同じくとんでもないプラモデルコレクターだったのです。
コレクションキットの総数も私とほぼ同じ、700個程度。彼がすごいのは、自宅に屋根裏部屋を作り、その部屋をキット保管庫にしている事でした。「コレクションキットのデカールが劣化するのを防ぐには、もはやスキャナーで撮り込んでパソコン上で保存する以外無い!」なんて豪語してましたから。

その彼から、ある日言われました。
「ギララのDVD特典、アストロボートのキット、手に入れちゃった。」
おおー、凄いと感心した私。入手方法を尋ねる私に、彼はこう答えたのです。
「3,000円で並んでたんだよ。どうしても欲しくて買っちゃった。」

私など予算に余裕の無い貧乏オタクには到底出来ない「大名買い」。彼からの話に当時の私は「確かに単品で出回るチャンスなんて無いキットだから、3,000円でも安いのかも」なんて思っていましたが、それがまさか今日、315円で手に入るとは!
神様のお恵みにいくら感謝しても足りない私なのでした。

以前「ネヴュラ」でもお話しましたが、基本的に私は、プラモデルなどのオタクグッズは定価より高いものを買いません。
プレミアが付いているものは買わないのです(買えない、というのが正しいですかね)。まあ、貧乏というのが一番の理由ですが、定価より高くなった段階で「もう別の物」という意識が強くなるからなんですよね。どんなに欲しい物でも、中古品で「美品」とか「希少品」という理由から価値に差が出てしまうのがどうにも納得できなくて。よほど気に入った物であれば手を出す事もありますが、それでもプレミア価格込みで500円程度まで。その為、家には大したコレクションはありません(笑)。
念の為。プレミアアイテムを収集されている方は、ちゃんと計画を立てて趣味を楽しまれているんですから、むしろ羨ましいくらいなんですよ。

ですから余計、今日のような事があると嬉しくて仕方がないのです。そうかー。今日の占いの「太平」ってこの事だったのかー、なんて(太平とは意味が違うでしょ)。
もっとディープにキット収集に励んでおられる方々は、「何だこんな程度で」なんて思われるでしょう。こんなものですよ私なんて(笑)。

こういう幸運って、本当に不意打ちですよね。今までにもこういう「死角からの刺客」的なアイテムは少ないながらも私に喜びを与えてくれました。
今日「アストロボート」の他に手に入れたキットは確かに再版物ばっかりで、コアなコレクターさんからは鼻で笑われる物のオンパレードですが(笑)。そんなキット、私は何故集めるのでしょうか。

前述の彼とは別に、私にはプラモコレクターの友人がいます。彼も昔のキットを集中して集めるレトロ派ですが、彼と私にはある共通した思いがあるのです。
「そのキャラクターじゃなくて、プラモデルそのものが好き」。
Photo_155 これは、岡田斗司夫さんの著書「絶版プラモ大百科」に記述されていた文から解釈した事で、例えば「出来の良いゴジラのフィギュアはたくさんあるけど、私はこの「ブルマァクゴジラ」というアイテムが好きなので」なんて感覚なんですよ。だからもう実の所、キットの出来なんか関係ないんです(笑)。何故でしょうね。「動くという事」?「組み立てる楽しさ」?いや、おそらく「思い出という、今と過去を結ぶ接着剤」のせいでしょう。

その友人の部屋と私の部屋は、間取りが実に似ています。壁一面を占領するのは、カラーボックスに整理された往年のキャラクタープラモデル。おもちゃのたぐいも置かれています。ご丁寧にカラーボックスは天井より50センチ程下までで、その上には大型キットが「立てて」置いてあるのです。このレイアウト、どこかで見たことはありませんか?
そうです。私たちは、自分の部屋を「おもちゃ屋」に近づけたい一心で、キャラクターキットを集め続けているのかもしれません。

私もそんな部屋でいつも過ごしているので、朝起きてから寝るまでおもちゃ屋に居るようなもの。
確かにキットの希少性という意味では全然大した事ないんですが、再版キットでもインテリアとしてはレトロ風味抜群です。以前記事で書いた、「リアルな怪獣のガレージキットを部屋に置くと浮く」というのは、そういう理由からなのです。

いざやってみてわかった事ですが、こういうコンセプトの部屋を作ってしまうと、部屋の方で置くものを選ぶんですよ。
「これはこの部屋に似合うかも」なんて買ったものでも、いざ置いてみると「ちょっと違うかな」なんて感じたり。だから私、パソコンのプリンターの上に置くマットを選ぶのに、100円ショップで30分近く迷いましたから(笑)。

Photo_156 だから今日見つけたような部屋にピッタリのアイテムは、わたしにとって願ったり叶ったりの大歓迎。いいでしょーこの、アストロボートのボックス横のラインナップ「ステングレー」というネーミングが、私の部屋のテイストにピッタリ。「死角からの刺客」はある意味お財布を脅かしますが、気に入ればたちまち私の仲間になるのです。

Photo_157 最後に、今日ではありませんが最近見つけた「ユルユルソフビ」マーミット製ガメラをお見せしましょう。これ、部屋に置いてみるとその大きな頭と、「江頭」なポーズがもう、可愛くてたまりません。最近ではかなりのヒットでした。これも「死角からの刺客」だったんですよ。

Photo_158 皆さんのブログで「最新アイテムゲット」の華々しい記事を見ながらため息をつく私。もっと稼ぎがあればなー。しがないOLの身では食べていくのが精一杯で。

でも、こんな癒されグッズを見ていると、旬じゃなくてもいいか、なんて自然と頬も緩むおバカな私。明日もオタクグッズを求めて「欲望の街」へ向かいます(笑)。

2006年9月 3日 (日)

下町純情シネマ

「あの映画館、先週で閉まっちゃったの知ってた?」
不意に告げられた、同好の友人からの言葉。
やっぱりちょっとショックですよね。なにか、遠い知り合いに不幸があったような。
今日たまたまお仕事で、その映画館の前を通りました。ビルの中に入っていたその劇場は、表からでも分かるよう階段に仕切りがされ、閉館の告知がされていました。

その劇場は、私にとって特別な思いがありました。
36年前、生まれて初めてゴジラ映画「キングコング対ゴジラ」を観た劇場だったのです。最近でも特撮ファン好みの、通な作品を上映し続けてくれた、貴重な一館でした。


数年ぶりの邦画の活況により、映画人口も久々に伸びを見せているそうです。でもこんな風に、閉館していく劇場のニュースを聞くのは、今に始まった事ではありません。
子供の頃から映画館が遊び場だったような私は、町にある劇場が一つ一つ無くなっていくたびに、言いようの無い寂しさに襲われるのです。

ほとんどの方がそうであるように、幼い頃は親に連れられて通った映画館。物心つき、町を一人で歩けるようになる頃、自分の町にも映画館がある事を知りました。冒頭の劇場とはまた違いますが、こういう地元密着型の映画館って、どこの町にもありませんでした?
そんな「自転車で行ける映画館」に、私は当時仲の良かった友人とよく通いました。今考えてみれば、そこはさほど席数も多くない、「小屋」と呼ぶような小さな劇場でしたが、小学生だった私達には、劇場の暗がりの中で町を破壊するゴジラやガメラに、確実に異世界を感じていたのです。

地元密着型の劇場がみんなそうだったかは分かりませんが、その劇場はもう、作品の選定がメチャクチャでした。
封切館ではない、いわゆる「二番館」だったからでしょう。あきらかに子供をターゲットにした番組編成で、入場料も子供が払えるほど安かった事を憶えています。「ガメラ対深海怪獣ジグラ」の同時上映が「呪いの館 血を吸う眼」って!
たしか「怪獣大戦争(キングギドラ対ゴジラ名義の、チャンピオンまつり版)と、「大魔神逆襲」という夢の2本立てもあったような記憶があります。

昭和40年代(西暦で書くよりこう書いたほうがしっくりきますね)、全国的に起こった怪獣ブームのメインターゲットだった私たちには、怪獣などもう「空気のような存在」。毎日学校で怪獣ゴッコを楽しみ、3日に一度は怪獣のプラモデルを作り、月に何度かはその小さな劇場で怪獣映画を観るという、怪獣まみれの生活を送っていたのです(まあ、影響されやすい子供たちならではの、「一点集中趣味」でしたが(笑)。
「明日の土曜日から、あの映画館でゴジラの映画が始まるぞ!」なんて噂が流れると、教室の怪獣好き達はもうそわそわ。勉強も手に付かず、ノートの端には怪獣の絵ばっかり。ベタベタな子供でした。

「Xデー」となると、授業が終わった途端、頭に流れるのは「宇宙大戦争」の「突撃のマーチ」。(あの曲大好きで。)先を争うように家へ帰り、愛車「スーパーサイクロン」を飛ばして劇場の前で友人と待ち合わせ。同じ団地に住んでいるのに、なぜか友人の方がいつも早く着いていたのですが(笑)。

その劇場、おそらくご家族で経営されていたのでしょう。モギリに座っているのはいつも優しそうなお姉さんで、子供には実に優しく接してくれたのです。
で、これが嬉しかったのですが、そのお姉さん、子供が怪獣目当てに来ているのを知っていますから、上映作品とは関係ない怪獣映画の販促グッズをくれたりしたんですよ。ぬりえとか、チラシとか。
そのかわり封切館ではない悲しさ、「パンフレット」は売っていませんでしたが(笑)。

お姉さんとの「怪獣好き?」「うん、好き!」こんな他愛ない会話が、どれほど楽しかったことか。作品を観終わって、帰りに「行きつけの」おもちゃ屋でブラモデルを買う、なんていうのが、当時の私たちに許された月に数度の「豪遊」だった訳です。

まあ二番館ゆえのいい加減な上映もありまして。
「三大怪獣地球最大の決戦」を観にいった時の事でした。「キングギドラが出る!」という情報に、胸も張り裂けんばかりの期待を抱えて朝一番に向かった私達。場内が暗くなって、いよいよ上映、という時に画面に映し出されたのは、いきなり引力光線で大都市を襲うギドラの勇姿!「おー!今回のゴジラはスゴイ!いきなり怪獣が出るんだ!」と思ったら、その後のストーリーがあまりにチンプンカンプンで。
どうも、映写技師さんがかけるリールの順番を間違えたらしく、クライマックスから上映してしまったようなのです(笑)。私が「見ろ!何か形になっていくぞ」を観たのは、このずーっと後、リバイバル上映の時でした(爆笑)。

でも、おおらかな時代でしたね。そんな事があっても、当時からおバカだった私たち(あえて友人もおバカ仲間に加えますが)は、「すごいなー」と画面に釘づけになっていましたから。今だに「ギドラ事件」として友人との話題に上ります。いいネタを提供してくれたもので(笑)。

怒られた事もありましたね。
上映作品は忘れましたが、当時集めていた日東科学のプラモデル、一個50円のガメラシリーズをたくさん持って、その劇場へ行ったことがありました。その劇場、おそらく演劇も上演履歴があったのでしょう。スクリーンの前に「舞台」がありました。私たちはおバカにも、その舞台によじ登って「怪獣ゴッコ」を始めてしまったのでした。
怪獣映画の前で怪獣ゴッコ!究極の遊びですね!私はオタクになるべくして生まれてきたのです(笑)。案の定思いっきり怒られましたが(爆笑)。

でも、生活の中のほとんどを怪獣が占めていたあの時代。劇場で怪獣を観るという事が、どれほど楽しかった事か。今でもあの、劇場入り口のガラス戸や、場内への入り口、赤い扉の色目までがはっきりと思い出されます。やっぱり映画って、それを観た年や当時の環境、劇場の記憶と切り離せないものなんですよ。

ですから私は、期待する映画はなるべく好きな映画館で観る事を心がけています。そんなにうまく行かない事も多いんですが。ただ、私の好きな映画館の基準は「豪華さ」や「最新設備」ではありません。大スクリーン主義はありますが、他にも大きな基準が。

カッコつけているわけではないんですが、人の温かみがある映画館が好きなんですよね。

おバカな私ですから、芸術作品のようなむずかしい映画を見に行くことなんかあまりありませんし、エンターテイメント性が強い、見終わった後主人公のセリフを真似たくなるような往年の娯楽作品が好みなもので。
そういう作品が似合う映画館って、最近減ってきていると思います。支配人やスタッフと、映画の話で盛り上がれるような映画館がいいんですよ。

街角の掲示板に残っていた、はがし忘れの盆踊り大会のチラシを見ました。
夏の残り火のような。
こんなのを見ると、もう秋だなーなんて、ガラにもなく思います。
昔の映画館を思い出すのは、そんな季節のせいもあるんでしょうね(笑)。

2006年9月 2日 (土)

仕置人からの手紙

私の「必殺」好きをご存知の方は、かなり昔から「ネヴュラ」をご覧の方でしょう。
以前、その思いを書いた記事に久しぶりにコメントを頂き、「必殺」オタクの血がまた騒ぎ出しました。(カテゴリー「必殺シリーズ」から入っていただければ、記事をご覧頂けます)

必殺シリーズに関しては、どれくらい語っても語りつくせない思いがあります。「特撮好きは必殺好き」なんてよく言われますが、どうもあの作品には、オタクの血を騒がせる何かがあるようです。なにしろ私が今の仕事を決めた動機の一つはこの作品にあるのですから。Photo_148
特に最高傑作の呼び声も高いシリーズ第10弾「新・必殺仕置人」(1977年)についての思い入れは尋常ではなく、昔の記事にもある通り「念仏の鉄」を演じた名優、山崎努氏に手紙を送った程。

シリーズ一作ずつを語っていてはハードディスクもオーバーフローするくらいなので(笑)今回は山崎氏から送られたご返事の手紙を元にしながら、「新・必殺仕置人」のみについて私見をお話しましょう。

1980年代に吹き荒れた「仕事人ブーム」のおかげで一気に上がった「必殺シリーズ」の知名度。実際、その時期までは、この異色時代劇の評判は一部のマニアを除いてさほど高いものではなく、私などはそのマイナー加減に喜びを感じていたのです(笑)。

その番組内容もとても一般受けするものではなく、いろんな意味でハードそのもの。深いテーマ、斬新な演出などに魅了された私は、他の番組に無い「鋭さ」を見ていました。
そんな私も、シリーズ第17弾「新・必殺仕事人」(1981年)あたりから加熱するアイドル的人気に応じ、徐々にソフト化する内容、殺しの「ショー化」に、古くからのファンの方々同様、幻滅を禁じえなかったのは事実です。

Photo_149 そんな私の唯一の心のよりどころは、前述の「新・必殺仕置人」最終回で、壮絶な最期を遂げた「仕置人・念仏の鉄」の存在でした。
旧作「必殺仕置人」(1973年)での初登場以来、その強烈な存在感で、必殺シリーズ出演の全キャラクター中かなり人気の高いこの男に、私は理想の「仕事師の姿」を見たのです。

「鉄」を演じた山崎氏に私が書いた手紙には、ある大きな質問が書かれていました。
「鉄」の役づくりについてでした。「鉄」をどんなキャラクターとして受け取ったのか。演じるに当たってどんな演技プランで臨んだのか。

まだ今の仕事に就く前でしたから、思えばぶしつけに失礼な質問をしたと反省しています。いわゆる普通のファンレターではなく、質問状のような内容だったんですね。
しかしながら山崎氏は、そんな素人の失礼な質問にも、実に丁寧に答えて下さいました。

私のお話より、本当は文面をそっくり見たいでしょ?でもそれを勝手にやっちゃうとご本人には失礼ですし、何より私宛の「ラブレター」ですから、ちょっとご勘弁下さい。差し支えない部分の内容をかいつまんでお話しましょう。
必殺ファンには当時の山崎氏の役作りの考え方が分かる、貴重な資料だと思います。
もし、(あり得ないお話ですが)山崎努さんご本人がこれをご覧になっていたら、なにとぞお許しいただきたいと思います。

意外にも山崎氏は、「鉄」の役を「力を抜いて楽しく演りました」と語っています。なるほど。鉄の「殺し屋にあるまじき余裕」は、そういう山崎氏の姿勢の表れだったんですね。
水戸黄門ほどではないにしても、最後は悪玉が退治される時代劇の通俗的パターンの中で、どれだけ遊べるか、というのが、山崎氏の願目だったそうです。

Photo_152 「仕置人」を憶えていらっしゃる方、ちょっと思い出してみて下さい。それまでの時代劇、とりわけ「殺し屋」と呼ばれたキャラクターの中で、「鉄」のようなキャラって居たでしょうか?
当時の「必殺シリーズ」プロデューサー、朝日放送の山内久司さんは語っています。「それまでテレビ時代劇に登場した多くの主役キャラは、剣一筋、女も要らぬ、信じるのは正義のみと言うものが多かった。それを全部ひっくり返したのが「必殺」のキャラ。」

プロデュースサイドの制作方針に乗ったとはいえ、前作「必殺仕掛人」の藤枝梅安(緒方拳)の影響も残しつつも、また違った役へのアプローチを、山崎氏は行った訳です。
そのアプローチが成功したのは、その後のシリーズに「仕留人」の大吉(近藤洋介)や、「仕置屋稼業」の印玄(新克利)など、鉄のイメージを踏襲したキャラクターが登場した事でも明らかです。

キャラクターとして、正義の味方ぶりにどこか照れているところ、が出来てきた、と山崎氏。水戸黄門や大岡越前に笑ってしまうお客さんと同じレベルで役を作ったとの事です。
なるほど。そういうことだったんですね!当時、私のようなおバカなマニアは、前述の二作品の良さに気がつかず、「これのどこが面白いの?」なんて笑っていましたから、ここは山崎氏の策略に見事にハマった訳です。
そしてこの後の一文が、私の思いと見事にシンクロした、素晴らしい名文。

「日常原則で生きている人間への毒矢のようなものを鉄に持たせました。」

そうですよね!鉄が魅力的なのはまさにこの部分。「あんたそんな人生で楽しいの?」と、常にアイデンティティーに揺さぶりをかける存在感が、まさに鉄の真骨頂。私が鉄に憧れるのはここなのです。「楽しい」と胸を張って言い切れない後ろめたさが、皆さんにもありませんか?
必殺シリーズの看板キャラクターとしてご存知の「中村主水」(藤田まこと)。その対極に立つキャラクター、「念仏の鉄」。当時、「昼と夜の顔を使い分ける、<羊の皮を被った狼>。サラリーマンの憧れ」として人気を博した主水の、さらに上を行くイメージが、私の中にはありました。

「鉄は世の中のシクミ(原文ママ)など、はじめからどうでもいいと思っているのです。だから世の中に対するありきたりな怒りなどありません」

そうです。鉄には世の中のルールとは別の、自分だけのルールがあり、それに触れた物だけに激しい怒りを表しました。最終回、筋に合わない殺しを行う組織への所属を示唆された時に、彼がつぶやく「外道にだけはなりたくねえよ」というセリフが、彼の心情をはっきりと物語っています。

人間、社会通念に沿って生きなければ社会というものが成立しません。しかし心のどこかに、「法では認められているけど倫理上自分は許せない!」というルールがある筈。そんな、誰にでもある自分だけのルールに忠実に生きられる鉄の姿が、人々の共感を得ない訳が無いのです。
これは近年、大人気を博したドラマ「踊る大捜査線」の主人公、青島刑事のキャラクターに酷似していますね。(そりゃ私には、鉄の方が魅力的ですが)

実はこのキャラクターは、往年のアメリカのハードボイルド作品、とりわけレイモンド・チャンドラーあたりの世界に近いのです。必殺シリーズが時代劇のハードボイルドと言われるのは、作品に流れるそんな香りのせいかもしれませんね。(後期の作品にはちょっと?も付きますが(笑)。

「必殺仕置人」オープニングの口上(新・旧共通でしたね)にある、「この世の正義も当てにはならぬ」という一文は、自分のルールを貫き通す鉄の、心の怒りをも表しているのです。

Photo_151 さて、実は山崎氏からの手紙には、まだお話していない部分があります。実は一番キモかもしれません。

「念仏の鉄」の役づくりには、元ネタがあったんです。

ただ、これは彼と私だけの秘密。ここではお話しません。
一つくらい、二人だけの秘密があってもいいでしょ(笑)。

2006年9月 1日 (金)

女性という技術

思えば「ネヴュラ」は、毎日覗いて下さったり、コメントを下さる方々に支えられているなーなんて、改めて感じます。

毎日感想を頂いている「hiyoko」さんなんて、私がどんなおバカな事を書いてもしっかり受け止めて下さる。感謝しています。他の方のブログにこちらからお邪魔して教わる事も多いのですが。
いつも拝見させていただいている「邦画ブラボー」さんのブログで、名匠溝口健二の諸作に興味を持った私。今NHK-BS2で放送されている溝口作品を、毎日楽しみに見ています。
オタクと言いながら溝口作品に縁のなかった私は、その精緻を極めた作品世界に初めて触れ、人生まだまだ勉強だなー、なんて改めて感じています。

昨夜放送された「赤線地帯」(1956年大映)は、溝口の晩年を飾った最終作として有名な作品。
溝口監督はこの年の8月24日、骨髄性白血病の為他界しました。初見の私は、そんな背景も知らずに「溝口現代劇のお手並みは?」なんて感じで見たのですが・・・

1956年。この年、売春禁止法の交付に揺れる日本を背景に、吉原の売春業者「夢の里」に働く女性達を描いたこの作品。京マチ子、若尾文子、木暮実千代、三益愛子など、個性豊かな女優が繰り広げる悲喜劇でした。本篇中、一部原作があるそうですが(芝木好子「洲崎の女」)勉強不足でどの部分か分からなかったりして(笑)。

この手の群像劇は何作か見ているので、無知な私などはそれらの記憶を比較の題材にするしかないのですが、正直言ってちょっと「肩すかし」を食った感じでした。(無知故の乱暴な感想です。お許し下さい)。
溝口監督の最終作でもあり、さすがに名匠老いたか、なんて思っちゃったりして。初見の感想なのできっと再見する毎に変わっていくのでしょうが、とりあえず最初の印象を書き残すのも意味ある事ではないかと。

溝口芸術の頂点の一つと言われた「近松物語」(1954年大映)を見た後だからかもしれませんが、「赤線地帯」で描かれる女性達の生き様は、私の目にはちょっと「控えめ」に見えました。心に訴えかけてきたのは三益愛子が演じた「ゆめ子」ぐらいで。
これはきっと、この作品後に創られたあまたある群像劇が、この作品を教科書としたために、キャラクターが類型化してしまい、オリジナルであるこの作品の輝きがやや色あせて見えるのでは、なんて偉そうな事を考えてしまうのでした。
そういう意味では、この種の描き分けの先陣を切った溝口監督はすばらしいのですが。


印象としては
「巧いと思うが凄くはない。魅力はあるが魔力はない」
といった所でしょうか。


ケースはやや違うかもしれませんが、私はこの種の作品では「肉体の門」(1964年日活 鈴木清順監督)が好きで、あのエネルギッシュな女性達の描き方を期待していたのです。
まあ、溝口健二と鈴木清順を比べるのがおかしいんですよね。資質もまるで違うし。
よく調べもせず、感想を書いてしまう私もダメなんですよねー。
どうも溝口作品については無知な分、歯切れが悪くて。また勉強して出直します。後日この日の記事を見て、あまりに浅い見方に顔を赤らめたいと思います(笑)。
記事でいろいろ教えて下さった邦画ブラボーさんに感謝致します。

ここからは、かなり読者層を限定する内容です。不快感をお持ちになったらごめんなさいね。
「赤線地帯」を見ていて思い出した、昔のお話です。もう時効でしょうからお話してもいいでしょう。

いわゆる「プロの女性」の世界を、ほんのちょっとだけ垣間見た事があるのです。

「女性として生きる」事を決めた私のような存在が、仕事を選ぶ時にまず考えるのが、手っ取り早い所で「水商売」。
ご他聞にもれず、駆け出しの頃の私も同じ事を考えました。まだ「性同一性障害」なんて言葉が世間に認知されていなかった頃のお話です。その頃私はディレクターという職業を持ってはいましたが、ディレクターって男女の区別はないし、フリーの身では収入も安定しない事から、副業を探していたのです。(なんか物凄く暗いお話ですね。本人は意外とケロリとしてましたが)

そこで考えたのは「収入」という点と、「自分が女性としてどこまで通用するか」という点。正直言って新しい可能性に、希望に燃えていたりして(笑)。
まあ、前述の通り、当時の私達が考える事と言えば、テレビなどで採り上げられる「ニューハーフ」の世界でしたから、そちらに傾倒するのも無理はありません。
求人情報をいろいろ当たり、面接にも通いました。でもやっぱり「ニューハーフ」というのは一種の特殊な方々で、普通の女性には無い魅力を持った人ができる事なんですよね。何のとりえも無い私は現実の厳しさにすっかり打ちのめされ、やや自暴自棄になっていました。

そんなある日、例によってあるお店の面接を受けようとしていた私は、ちょっとした作戦を思いつきました。
「女性として面接してみたらどうなるだろう?」
以前にもお話した通り、私の女性としての唯一の武器は「声」。ルックスは多少男っぽくても、声でなんとか急場を凌いだ事が数しれずありました。この武器がどこまで通用するのか試してみたくなったのです。
男性である事を隠し、女性として面接に臨んだ私。

この作戦は見事に成功しました。なんと「女性」として採用され、お店に出る事ができたのです。
ブログゆえの悲しさから、「嘘でしょ?」なんて思われても仕方がありませんね。後はもう、普段の記事から私を信用して頂くしか手がありません。余計信用できないって?(笑)。

売春業を舞台とした「赤線地帯」と違い、小さな飲み屋さんでしたから、そんなに大事が起る訳ではありませんでしたが、私がここで学んだのは、「プロの女性」の気配りの凄さでした。
男性の皆さんはきっとお分かりにならないと思います。「女性修行中」の私のような立場の者にしか経験できなかった、あの凄さ。

ホステス同士の「目くばせ」で、お客さんとの話題を見事に膨らます、卓越した会話術。
お客さんの目に触れない角度で、常にグラスの露をふき取る、手際の良さ。
お客さんの気持ちを半歩(一歩だと頭が切れすぎちゃって、女性としては可愛くないんですよ)先取りしながら、あくまで自然に動く的確な洞察力。
そして何よりも、「癒し」を求めてお店に来てくれる、お客さんの気持ちを和ませる「個性」。
実はこの個性は、必ずしも「可愛い」「優しい」だけではないんですよね。「声が大きい」「カラオケが下手」みたいなマイナスに見られる個性でも、それを求めて来てくれるお客さんは居るんですよ。

ちょっと挙げただけでもこんな感じ。お客さんと乾杯する時、ホステスはお客さんよりグラスを上げちゃいけない、なんて常識なのです。
そして何と言っても、男性をうまく乗せる、手練手管の数々。
こればかりは、駆け出しの私には到底学ぶ事などできませんでした。

道を究めた「プロの女性」なら、もっといろいろな奥義があるんでしょうね。おバカな私が知った事など、たかが知れています。
ただ、もうここまで行くと、「技術」ではないのかもしれませんね。

「ネヴュラ」をご覧の方で、そういったお仕事に従事されている方々を、私は尊敬します。
私はそのお店でしばらく働いたものの、そのあまりの技術レベルの高さにビックリし、また女性として働く事でお店に迷惑をかけては、という思いから、お暇を頂く事にしました。
なぜか?今だから話しますが、お店のママも、私の正体を知らなかったのです。
これは人の道に反しますからね。

「赤線地帯」が、私にとってちょっと物足りなかったのは、ジャンルは違えどそういった「プロ」の世界を垣間見た経験があるからかもしれません。
フィクションとして見られない、というか。この作品が、働く女性達を「職業婦人」として描けば描くほど、私には昔の経験が頭をもたげて来るのです。

その後、ディレクターとしての仕事が忙しくなった私は、夜の仕事から離れました。でもあの経験は、私の中で大きな財産となっています。
なにしろ、男性では絶対できない経験でしたから。
(ここには書けない事も含めて)

ちなみに当時、お店での私の得意ジャンルは「映画」でした。(ごもっともって?)
昔の日本映画のお話が出たとき、お店は私の独壇場と化したのでした。
(「ネヴュラ」と一緒だって?今気づきました。ここは私の「お店」なのかも(爆笑)。

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